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琵琶橋びわばし

2017-11-18 08:41:02 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 琵琶橋はどこにあるのだろう。若宮大通りへ出て左へ行くと間もなく下馬四つ角です。ガソリンスタンドがあり、その手前に板金屋がありますが(ぶつけて凹ました車が浜の真砂と尽きないのでいつも繁昌しているようですが)その手前、ハリス幼稚園・大町教会の筋向いのところが、琵琶橋の石標が立っている地点です。滑川に注ぐ佐介川の最下流がこの道路の下を流れていることは、今まではここに来てみないと判りません。
 昭和31年末からこの辺一帯が掘り返されて浜鳥の鳥居の先まで道路拡張工事が行われましたが、その時に琵琶橋は姿を消してしまったのです。社寺に縁のある格式の高い橋にふさわしい擬宝珠(ぎぼし)のついた橋でした。海岸から坦々とした広いメインストリートを駅前から段葛の脇を通って八幡宮のところまでハンドルを握って行くと、不安な箇所といったら例の摩のガードが斜めに立ちはだかっている位なもので、あとは横断歩道さえ気を付ければよいのですが、このように便利になった反面鎌倉十橋の一つが事実上なくなってしまったことは残念至極です。小さくても名物は名物ですから何とか形を残す手段はなかったものでしょうか。そして有害無益な”迷物”の横須賀線の摩のガードの方こそ早く何とかしてもらいたいものです。
 新編鎌倉誌、鎌倉攬勝考の記するところによって昔の姿を再現してみます。今から八百年前の事です。
 その頃は、八幡宮から二ノ鳥居(今の段葛の出発点、鎌倉警察本署のところ)までは真っすぐでしたが、それから浜の大鳥居までは外の方へ曲がっていたのです。浜の大鳥居とは教育委員会と若宮ハイツの間にある一ノ鳥居のことで、当時の由比ガ浜はその近くまで波が来ていたらしいのです。
 何故道が曲がっていたのか。途中に弁天様の小祠があったからてらす。もちろん琵琶橋の付近に違いありません。弁天は河川の守り神でもありますから佐介川と滑川の合流点近くに祀られていたのでしょう。それを迂回してというと浜の方に向かって右カーブして、今の江ノ電の線路寄りに道が通っていたのでしょう。佐介川は上流に裁許橋が架かっていますが、それと琵琶橋との間に下馬橋というのがあったという記録もあります。
 今から801年前の寿永元年に段葛の工事が頼朝の陣頭指揮で着手されました。夫人政子の安産を祈るためでした。鶴岡若宮は前年に完成し、遷宮式も済んでいます。八幡宮境内には東池・西池(今の源平池)も掘られ、弁天社が東池の中嶼(なかしま)に木の香も新しく造立されました。
 命令一下、置石(今の段葛)が浜の鳥居まで一直線につけられました。両側は松林で、浜まで一本に貫かれた若宮大路がきれいに出来て、下馬から先は今まで曲っていたのを直し、何もなかったところへ(弁天様の小詞だけはありましたが、それは八幡宮の東池へ移した)つけた道だったので頼朝公もさぞ満足感にひたったことでしょう。源氏の守り神・弓矢八幡は頼朝はじめ源氏一族が厚く信仰していましたから、今より長大な参道をこしらえたのも当然のことです。
 琵琶橋はそのとき架けられたものと考えられます。琵琶小路という名称はずっと後になって付けられたものでしょう。源氏の勢力がおとろえたると、若宮大路の名はいつしか小路と縮小されスルガ銀行のあたりまでを言いそれから浜の大鳥居までは誰言うとなく琵琶橋小路と云うになったのです。
 今に残る重文の弁才天は八幡宮へ弁天社が移ってからの制作になるもので運慶作と伝えられ、文永三年(1206年)の銘があるそうです。小松大臣のものだったと言われる琵琶を手に持つ等身大の像で当時の美女がモデルとなっていたようです。弁才天はインド教の河の神であり美音天・妙音天といって音楽の神でもありましたがこの弁天様は純日本的です。
 琵琶は奈良時代に中国から入ったもので雅楽の合奏に使われていましたが、平安朝になると中国から独奏曲を学んで帰る人もいて、それからは素晴らしい名曲であったようです。大臣貴族愛好する高尚な楽器だったようです。などというような記述ありました。

(琵琶橋の案内)

(琵琶橋)

(琵琶橋の碑)

(若宮大路)

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