gooブログはじめました!よろしく

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

全国吟詠大会発祥の地の記念碑について

2015-04-04 10:21:15 | 日記
 西区にある八聖殿の入口に、全国吟詠大会発祥の地と云う記念碑がありましたので、今回は、これについて投稿いたします。
 八聖殿は、現在横浜市の資料館として使用されていますが、この建物について、若干述べさせていただきます。安達謙蔵自叙傳によれば、次のように記述されていました。
 この建物を建立したのは、わが国政党史上に大きな足跡を残された熊本県選出の安達謙蔵{ (安達家は、もと足立と呼び、寛永9年(1633年)細川家が豊前小倉の旧領地より肥後に入国のとき、随従してきた。享保年間(1716から1735)に如何なる都合か改めた。) }先生は、終始国家の経論にあって、大隈首相内閣時代に活躍された議員でありました。
 少年の頃は、友枝塾に漢学を学び、儒教精神よって陶冶され、後済々学に学び佐々克堂先生の訓陶を受けて、筋金入りの道徳観、世界観が確立されていた。
 八聖殿は、釈迦、孔子、ソクラテス、キリスト、聖徳太子、空海、親鸞、日蓮の仏教でもなく、基督教でもなく、只人心の本然に根ざす宗教心とでもいうべきものを想像し、修養道徳に関する講演は勿論、学者宗教家を始め、天下各方面の諸名士を招待し、宗教道徳に関する講演、或は、経済国家の道を説かしめ、活きる修養の道場として建立したのであります。
 さて、安達先生にとっては、詩歌吟詠の奨励は多年の宿望であり、情操教育上欠くべからざる事業と考えたので、昭和6年いよいよ実行に着手し、郷里の熊本は勿論のこと、全国に散在する吟詠諸大家に檄を飛ばしたところ、諸大家みな蹶起饗応して来たので、同年7月1日を以て、全国大会を八聖殿にて開催することとなった。
 その時の挨拶の要旨は、次のように述べられたとあります。
 そもそも詩歌吟詠が日本精神の鼓舞作興に至大の関係にあることは、今更、茲に、詳しく申し述べるまでもなく、凡そ吾々が共同生活をしている此の社会なるものは、単に理屈一天張りで無味乾燥で押し通して行かれるものではありません。人間が感情動物であるからには、その感情の動くところ、発作するところの、其の情緒を把握し、之を善導して正しきに就かせることが緊要である。世間のいわゆる情操教育というのがこれであります。
 我が国の国民性は、従来この情操教育の力、ある意味においては、我が国民性は詩的であるところがあります。此の詩的国民性は、古来より秀麗なる山川風物の自然界と、詩歌の吟詠とが、融和一致の間に養成せられたるもので、詩歌吟詠の極致は、吟詠者をして無心ならしむところにあります。
 無心なれば、全く邪心なく邪念なければ誠あるのみであります。誠あれば神明に通ずるものがあります。故に、詩歌を吟詠する其の時の邪念なき境遇、其の瞬間は、其の殺邦は、古の聖人君子英雄蒙傑の人々と接近し握手が出来る境遇にあるものであります。此の境遇、此の気持ちは其の人を剛直にし、この極意極致を体得することが、詩歌吟詠大会の目的であると確く信じております云々と挨拶があったとありました。
 全国大会が予想以上に盛況を極め、1年1回にては一般の出席希望者を満足せしむる能わざるに至ったので、昭和15年から更に、秋期に関東大会を開催することにした。
 しかし、大東亜戦争の開始となり、やがて次第に空襲も頻繁となって来たので、全国吟詠大会は、昭和18年6月開催の第10回を以て最後に、中止やむなくに至ったとなっていました。
 なお、吟詠の聞きなれた句は「少年老い易く学成り難し」とか「べんせい~~、しゅくしゅく~ ~」でありますが、ネットで調べたところ、「古事記」や「日本書紀」の時代にあったといわれます。
 平安時代には貴族の間で漢詩や和歌を詠む朗詠(ろうえい)が盛んに行われ、その後、武将や僧侶にも冠詞和歌を作る文化が広がりました。となっておりました。
 最近また若者たちの間に吟詠が盛んになりつつある。となっていました。ので、申し添えます。

(手前は八聖殿の門 背後右奥に八聖殿)

(八聖殿入口)

(八聖殿の碑)

(全国吟詠大会発祥の地の記念碑)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿