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100のエッセイ・第10期・90 何のための学校?

2016-06-26 10:14:26 | 100のエッセイ・第10期

90 何のための学校?


206.6.26


 

 それほどまでに大事な「集団」とは何か。その「集団」と「軍隊」にどれほどの違いがあるか。それを考えて慄然とするのだ。

 と、前回書いて、それでオシマイになってしまったが、「どれほどの違いがあるか」と問うて、「あんまり違わないじゃないか!」って思って「慄然とする」ということだが、これだけじゃ意味がわからない。そもそも「集団=学校」と「集団=軍隊」とを比べて、「あんまり違わない」か、「すごく違う」かは、その観点によるわけで、総体として「似てる」のか「違う」のかは、細かく検証する必要があるのは当然のことである。

 しかし、「細かく検証する」ことは、ぼくの任でもなければ、趣味でもないので、結論だけ先に言ってしまうと、「学校」と「軍隊」は、似ているところもあるけれど、違うところもある、というはなはだつまらないことになる。

 前回は「似ている」ことのみを、『神聖喜劇』を読み進めている影響もあって、ことさらあげつらったわけだが、本当は、「違う」ところが大事だとぼくは思っている。どこが違うのか(あるいは違うべきなのか)というと、軍隊というのは、ある「目的」があって形成された集団であり、その成員たる個人(兵士)は、その「目的」の「道具」として扱われる組織であるのに対して、「学校」は、断じてその成員たる個人(生徒)は、集団のための「道具」として扱われてはならない、というところにある。

 形式上、あるいは外面上、どんなに学校が軍隊に似ていようとも、本質においては、まったく正反対のものであるということだ。学校という集団あるいは組織のために、生徒が犠牲になってはならない。生徒は、生徒として、純粋に大事にされなければならない、ということだ。そうでなければ、何のために学校があるのかわからなくなってしまう。

 こんなことは当たり前のことのように思われるが、実際には、必ずしもこれが当たり前とは思われていないと思われるようなことが横行しているのが、学校というところである。

 昨日は、昔勤めていた都立青山高校の同窓会があった。全体の同窓会というのは、知っている生徒も少ないので、以前は出席したことがなかったのだが、去年出席したら、思いがけない教え子たちと会うことができ、昔の同僚の先生たちにも久しぶりに会えたので、やはりこういう会はいいなあと思って今年もでかけたのだった。

 今年もまた意外な再会もあり、とても楽しかったのだが、会の中で、現校長の挨拶があり、その中で、今年も「難関国公立大学」に○○名の合格者があって、「進学重点校」となっております、というような話があった。「難関国公立大学」に規定数以上の合格者がないと、「進学重点校」の指定を取り消され、予算も削られるのである。こういうことは、以前の都立高校では考えられなかったことだが、いまでは普通になり、校長も、こういう発言を、恥ずかしげもなく、むしろ嬉々として行うわけである。というか、こういうことに疑問を感じない人でないと都立高校の校長にはなれない(らしい)。

 余談だが、ぼくが青山高校をやめてからずいぶんたってから、いわゆる「民間校長」が青山高校に赴任したと新聞でも話題になったことがある。その校長は、職員会議で先生たちに、「入ってくる生徒にどれだけ付加価値をつけて送り出すかが大事だ。」と訓示して、おおくの心ある先生たちの失笑(あるはい大反発)をかったという話を人づてに聞いた。別に、その民間校長に悪気があったわけではないだろうが、生徒に「付加価値」をつけるのが「教育」だとする思考の浅薄さ(あるいは傲慢さ)には、目を覆いたくなるものがある。「教育」は英語では「education」だが、その「educate」の原義は「能力を導き出す」の意であるぐらい、いやしくも教育に携わるものの常識ではないか。

 それはさておき、「進学重点校」に指定されることが、きわめて重大な目標になった場合、そこで、個々の生徒はどう扱われることになるだろうか。「難関国公立大学」にたとえば10名入れるという目標を、本気で公然と掲げ、それを手っ取り早く実現しようとすれば、生徒の中で「見込みのある者」を選んで、彼らを徹底的に鍛えればよろしい。現にそういう方法をとっている私学はいくらでもあるだろう。私学はそうでもしなければ、つぶれてしまうという切実な事情もあるから、背に腹はかえられぬというわけだろうが、公立は、そこまでしなくてもいいはずだ。そこまでしなくていいから「公立」なのではないか。

 つまり、「難関国立大学」へ何名入れるという目標が学校の目標として明確に掲げられたとき、学校は、軍隊に近づいてゆくのである。

 学校は何のためにあるのか。それは、個々の生徒のシアワセのためにある。それ以外にはない。まかり間違っても、「人材育成」のために学校があるわけではない。生徒を「人材」としてとらえることほど「教育」から遠いことはないとぼくは堅く信じているのだが、今の世には「グローバル人材育成」こそが学校の目的だとして憚らない論調があふれかえっている。

 世も末だと、ぼくのような反時代的なジジイはうそぶいていればすむが、当の生徒にとってはそんな悠長なことは言ってられまい。まさに生徒受難の時代。大人の勝手な価値観に振り回されずに、何が自分にとってのシアワセなのかを、自分自身で考えていかなければならないだろう。

  

 


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100のエッセイ・第10期・89 集団の中の個人

2016-06-23 15:45:28 | 100のエッセイ・第10期

89 集団の中の個人

「国立赤城青年の家」  *あくまでイメージです。

2016.6.23


 

 前回のエッセイで、『神聖喜劇』を読んでいると、「軍隊」と「学校」があまりにも似ていることに愕然とする、というようなことを書いたのだが、別に似ていてもいいんじゃないかって思う人もいるかもしれない。同じ「集団」なのだから、むしろ似ていて当然じゃないかと思った人もいるだろう。その辺のことをちょっと書いてみたい。

 学校というのは、生徒が集団で生活をするのだから、その生活を円滑に進めるためには、適切な「集団行動」をとることが要求される。これは公立でも私立でも、程度の差こそあれ似たようなものだ。適切な集団行動がとれずに、個々の生徒が勝手な行動をとっていたら、まともな学校生活が送れないことは確かだ。しかし、そこになにか、ぼくはわだかまりを感じるのだ。

 ぼくが最初に勤務した都立忠夫高校では、「入校期訓練」と称する、新入生の合宿があった。最初に行ったのは、赤城山の麓にある「国立赤城青年の家」という施設で、ここは国立だけあって、施設そのものが要求する日課があり、毎朝その施設を使う者全員が広場に集合して、国旗掲揚、国歌斉唱をさせられた。施設内の規則も厳しくて、廊下を走ったりすると、たとえそれが教師であっても、施設の職員から厳しく叱責された。それがものすごく嫌な感じだった。その実態は知らないけれど、まるで少年院のようだと思った。

 「青年の家」とはいっても、学校関係だけではなくて、企業の新人研修にも使われていて、ぼくが行ったときには化粧品会社の研修が行われていて、彼らは、食堂に入る際にもいちいち立ち止まって礼をし、「失礼します!」とか言わされていた。さすがに生徒にはそんなことはぼくらは要求しなかったが、企業研修も大変だなあと思ったものだ。

 赤城は、あまりに厳しい規則尽くめで、校長以下、教師たちも、すっかり嫌気がさし、その翌年は大島にある都の施設に行った。こっちは、施設が決める規則もなくて、自由だったので、気が楽だったが、それでも何かと生徒に学校としての規則をたたき込む姿勢には変わりなく、あまり気持ちのいいものではなかった。生徒はそれでも入ったばかりではあり、新しい仲間と打ち解けるいい機会でもあったから結構楽しんでいたのかもしれない。

 しかし、この「入校期訓練」という、どこか軍隊めいた行事は、いったい何のために行われたのだろうか。学校生活のいろいろな規則や心構えを、ここで一括して教えようという目的だったことはその名称からして明らかだろう。生徒の親睦をはかる、ということは二次的な効果で、それが第一の目的ならそんな名称にするはずがない。

 「集団」と「個人」ということが、そこでは繰り返し説かれた。個人は勝手に行動してはいけない。個人といえども「集団の中の個人」であることを自覚せよ、それが「訓練」の一番の眼目たる教えだった。

 人は社会という集団の中に生きているのだから、その社会の秩序を乱すような勝手な行動を慎まなければならない。それができるのが「大人」というものだ、という教えは、きわめて妥当のように思われるだろう。そのことを新入生にたたき込んで何がわるいと言われそうだ。けれども、ぼくはいつも「集団の中の個人」という言い方に違和感を感じ続けてきたのである。

 学校というところはみんなが集団で生活しているんだ、それなのに、君たちが自分勝手に行動したらどうなると思うんだ、といった叱責は、ぼくがつとめたどの学校でもごくあたりまえに行われていた。そんなに勝手なことをしたいんだったら、もう学校になんか来なくていい、さっさとやめてしまえ、なんて怒鳴り散らす教師もたくさんいた。ぼくだって、頭にきたときは、そのぐらいなことは言ったかもしれない。なるべく言いたくなかったが、言わなかったと胸を張ることもできない。

 ぼくは、学校においても、生徒は自分勝手な行動が許されるべきだと言っているのではない。そうではなくて、なぜ「学校」なのか、なぜ「集団行動」が要求される「学校」というものが「必要」なのか、ということなのだ。

 何かを「学ぶ」ためには、師につかねばならない。独学は必ずしも常に最善とは限らない。だから、誰かに師事して学ぶ機会は是非必要だ。しかし、だからといって、「規則ずくめ」「命令だらけ」の「学校」が必要だということにはならないだろう。

 言うまでもなく、「学校」は、大昔からあったものではない。日本で言えば、それが一般的になったのは、明治以降、つまりは近代の所産だ。近代の所産だからといって価値がないわけではないが、「学校」イコール「教育」でないことだけは確かなことなのだ。

 話がとりとめもなくなってきた。「集団の中の個人」というテーマに絞れば、そのフレーズに対するぼくの違和感は、常にそこでは「集団」が「個人」より価値あるものとされてきたという一点につきる。個人は集団の中に生きているのだから、集団をこそ大事にして、個人のワガママは極力控えよ、という線で常に指導がなされてきたということなのだ。

 それほどまでに大事な「集団」とは何か。その「集団」と「軍隊」にどれほどの違いがあるか。それを考えて慄然とするのだ。





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100のエッセイ・第10期・88 学校と軍隊

2016-06-16 16:05:15 | 100のエッセイ・第10期

88 学校と軍隊

2016.6.16


 

 ここ1ヶ月ほど、大西巨人の『神聖喜劇』を読み続けている。毎日50ページ弱の読書だが、全5巻(光文社文庫版)の3巻まで読み進んできた。

 対馬要塞の銃砲兵聯隊に補充兵役として入隊した東堂太郎二等兵が主人公で、その目を通して軍隊の内部がこと細かに描かれる。

 この小説を読むきっかけとなったのは、最初の勤務校、都立忠生高校で同僚だった西尾文雄先生の「オレは、死ぬまでに読みたい本がいくつかあるんだ。」という言葉で、その中にこの『神聖喜劇』が入っていたのだ。その言葉を聞いたのはもう15年以上も前なのだが、ずっとそれが気になっていた。

 例の大きな手術の後、毎日少しずつ世界の長編小説を読む「プロジェクト」を始め、まずは西尾先生の「読みたいリスト」に入れていた『失われた時を求めて』からスタートして、その後さまざまな名作長編を読破したのだが、やはりどうしても翻訳の壁というものがあって、どこか「隔靴掻痒」の感を免れなかった。それで『カラマーゾフの兄弟』読了をもって海外ものはひとまず休憩として、この『神聖喜劇』にとりかかったのだ。

 読み始めて驚いたのは、主人公の東堂太郎の生まれたのが大正8年、そして作者大西巨人もまた大正8年生まれということだった。というのは、ぼくの父が他でもないその大正8年の生まれだったからだ。しかも父も二等兵として戦地へ赴き、大変な目にあったのだ。(満州で終戦を迎え、シベリア抑留となった。昭和23年夏に復員。)学歴においてはまったく違うけれど、軍隊で置かれた立場には共通する面も多々あっただろうと推測される。そのため読んでいていちいちああ父もこういう目にあったんだろうなあと思うわけだ。

 父は平成になる直前に69歳で亡くなったが、シベリア抑留体験や兵隊の体験を割合よく語ったほうだと思う。しかし肝心のところはたぶん語っていないのだろう。ぼくも根掘り葉掘り聞くこともなかった。その父の語られなかった体験を大西巨人が代わりに語ってくれているような錯覚にまで、ともすれば陥りそうになる。そういう点で、ある意味稀有な読書体験となっているのである。

 それはともかく、読んでいてギクッとするのは、この小説に出てくる言葉や事件とぼくが42年間の教師稼業における言葉や事件との驚くほどの類似性である。

 小説の初めの方に印象深い「事件」があった。上官に向かって「知りません」と言うことが許されず、「忘れました」と言えと強制されるという「事件」である。軍隊での規則をまだきちんと教わっていなかったので、「知りません」と新兵が答えると、上官が有無を言わせず「知りませんじゃないだろ! 忘れましただろ!」と怒鳴るのである。東堂はそこに執拗にこだわり、その言いぐさの法的根拠を求め、この問題は意外な広がりを見せることになる。

 けれどもそのこととは別に「知りませんじゃないだろ! 忘れましただろ!」というセリフは、「教師ぼく」(この言い方も、『神聖喜劇』独特の言い方だ)がずいぶんと多用してきたセリフなのだということが、ショックだった。もちろん「教師ぼく」は教えてもいないことに対して「知りません」と答えた生徒に「知りませんじゃないだろ! 忘れましただろ!」なんてことは言わなかった。ちゃんと教えたぞ、という確信があったからこそ、そう言った。しかしである。そのセリフ、つまりそういう言い方をぼくはいったいどこで覚えたのだろうかと、ふと思ったとき、暗然たる気持ちにとらわれたのである。

 ぼくがそんな言い方を考えついたわけではあるまい。きっと昔の先生が言った言葉を覚えていてそれをマネしたのだろう。じゃ、その先生はいったいどこから? と、考えていくと、つまる所は「軍隊」じゃないかと思ったのだ。

 ことはそれだけにとどまらなかった。集合している生徒に向かって「解散!」と言い、修学旅行に行けば、旅館で「貴重品袋」を使ったが、それもみなこの小説に出てくる「軍隊用語」なのだ。

 「校庭に集合!」「はやくしろ!」「なにグズグズしてるんだ! 走れ!」「解散!」「列を乱すな!」……数え上げたらキリがないほどの数々の「命令」。そして校則の数々。公立、私立を問わず、学校現場で日々行われている多くのことは、何と「軍隊」に似ていることだろう。

 「教師ぼく」は、そうした軍隊的な物言いや数々の規則に、42年間、いったいどう向かい合ってきたのだろう。そのことを十分に自覚し、それと懸命に闘ってきただろうか。今更そんなことを反省したところで遅きに失すること甚だしいのだが、やっぱり考えてしまう。
そして、そういう「退職教員ぼく」の耳に、20年ほど前に栄光学園のある先生の言った言葉が鮮明に蘇ってくるのを覚えるのだ。その先生はこう言ったのだった。

 「生徒に向かって大声を出すようになってしまったら、ぼくは教師を辞めるつもりだ。」

 それを聞いたとき、ぼくはたぶん軽い反発を感じただろう。そんなことで教師を辞めることができるなんていいご身分だ、ってきっと思ったろう。けれども、教師になったその年から、生徒指導部に「配属」され、生徒を怒鳴り散らし、命令することを叩き込まれたぼくには、ハッとさせられるインパクトがあったに違いない。しかし、それにもかかわらず、ぼくは相変わらず生徒に、大声で指示し、命令しつつ教師としての日々を過ごしたわけである。そのことが、ぼくが教職を嫌い、一日もはやく引退したいと切望した理由だったことも確かなのだが。

 何の指示も、命令をできないのでは、教師の仕事はつとまらない。生徒を「引率」すれば、旅先では必然的にヒステリックに威圧的な言葉となるのもやむを得ない。けれども、学校という組織、あるいは学校が催す行事、そのひとつひとつが、どういう「必然性」によって成り立っているのかを、ほんとうは問いなおさなければならないのだろう。そういう反省を『神聖喜劇』は促すのである。もっとはやく読むべきだったのだ。

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・87 写真の楽しみ(4) 記録

2016-06-09 19:52:37 | 100のエッセイ・第10期

87 写真の楽しみ(4)・記録

2016.6.9


 

 写真の楽しみとして、「現像」のこと、レンズのこと、そしてトリミングのことと書いてきたのだが、何だか、技術的なこと、美術的なことにばかり偏っているなあと改めて思った。

 それはそれで楽しみには違いないが、やはり写真のいちばんの楽しみは「記録」ということだろう。どんなにピンぼけだって、ブレブレだって、構図がなってなくたって、色褪せていたって、「失われたもの」がそこに記録として「定着」していることは、大きな感動や慰めをもたらすものだ。それが楽しみというより、写真のもっとも優れた特性だろう。そういう意味では、日常生活のスナップ写真こそ、今も昔も写真の王道だろう。技術的なこと美術的なことは、その後の話、あるいは別の話だ。

 今回の熊本地震でまた改めて実感させられたのは、「世の無常」だった。熊本城の無残な姿は、それが「城」という本来「滅ぼされるべく運命づけられた建物」であるにしても、やはり限りなく哀切で、痛ましい。再建に20年を要すると聞くと、つい先日までまるで永遠にそこにあるかのように思われていた建造物が、急に「失われたもの」としての相貌を帯びて胸に迫る。

 行定勲監督が、熊本県のPR用に製作した映画「うつくしいひと」は、熊本地震がおきる数ヶ月前に完成していた。熊本を舞台に、熊本県出身の監督や俳優によってつくられた短編のドラマだが、それが期せずして、(いや正確に言えば映画本来の機能が生かされて)、その「失われた風景」の「記録」となったのだ。

 行定監督は、鎌倉生涯学習センターで行われた上映の後の講演で、映画はどんなにフィクションでも、写っているモノは現実です、ということを語った。映画のクライマックスでは、行定監督が愛してやまない熊本城の石垣が背景に使われたという。あのアングルでの石垣と天守閣が子供の頃から好きだったのです、と監督は語った。彼は小学生の頃に、熊本城で黒沢明が『影武者』の撮影する現場を見て、映画への関心を高めたのだという。それだけの思い入れがあっての映画は、それこそ「期せずして」震災後の熊本の人々を慰め励ます作品となったのである。

 最初、熊本の人はこの映画を見たくないのではないかと思ったのです。けれども、今、熊本での上映会には人が並んでいます。この映画を見た方から、「ありがとう」と言われました。ぼくは、今まで映画をずいぶん作ってきましたけど、観客の方から「ありがとう」と言われたことは初めてです。監督はそうも語った。

 その映画「うつくしいひと」を見る前に、近ごろ大改修を終えた鶴岡八幡宮の段葛を歩いてみた。去年から行くたびに、パネルで覆われていてどう改修が進んでいるのか分からなかったのだが、今ではそのパネルもすっかり取り払われていた。新聞報道などを通じて、新しく植えられた桜が満開の中、「通り初め」が行われたことは知っていたのだが、実際に見たのはその時が初めてだった。

 期待していたわけではないけれど、正直のところ、呆気にとられた。

 昔は、舗装されていない「道」は、雨が降れば水たまりもできて歩きにくかったが、それがもののキレイに舗装されている。アスファルトではなく、ベージュの特殊な舗装材が使われているようだが。それがまっすぐにカーペットのように続いている。桜の若木も、10年は経っていると思われるものが、均等にずらりと整然と植えられている。その桜の間には、真新しい灯籠がこれもずらりと、まるで入学式の小学生のように並んでいる。その向こうに、はっきりと八幡宮の建物が見える。

 この感じは、どこかでかつて感じたことがある。そうだ、それは薬師寺の西塔再建の姿を初めてみた時だ。あの時も、呆然とした。なぜこんなことが必要だったのかといぶかしかった。確かに真新しい西塔はキレイだった。創建当時はそうだったのだろうということも納得がいった。けれども、そこで決定的に失われたものは、あの、東塔だけが寂然とたたずみ、西塔の基礎石のくぼみにたまった水に雲が映るという風景だった。あの、ちょっとさびれたような、けれども無限に郷愁を誘う風景を、真新しい西塔がぶちこわしてしまったのだ。

 薬師寺は、その後、金堂やら回廊やらを建て替えたり、再建したりして、さらに華麗な伽藍を再現したわけだが、ぼくはもう、そんな薬師寺に魅力を感じない。ただ、そこに安置されている諸仏だけを愛し続けている。

 それと同じ感慨を今回の段葛にもおぼえたのだ。桜が老いてしまってどうしようもない姿になっていたことは知っていたし、道もあのままではいけないだろうなあとは思っていた。けれども、どこかディズニーランド風にきれいになった、なってしまった段葛には、どうにも馴染めないものを感じたのである。

 家に帰って、昔の段葛ってこんなに灯籠が立っていたっけと確かめようとしたが、ネットを検索しても鮮明な写真はなかなか見つからなかった。「つい最近」のことなので、ちゃんと自分で写真を撮っているかと思ったが、これがまともに段葛を撮った写真が見あたらなかった。こんなに徹底的に「失われる」と知っていたら、もっと意識的に写真も撮ったのになあと、なんだか裏切られたような気分にもなった。

 しかし、ふと思った。そうだ、ここは日本なんだ。災害によらなくても、風景は、あっという間に破壊されてしまうんだ、それをぼくは痛いほど知っていたのではなかったか。つい「裏切られた」なんて口走ったが、そもそもいったい何をぼくは「信頼」していたというのだろうか。

 果てしない悔恨の情のようなものが、ぼくのこころの中を流れていく。自分自身の悔恨ではないけれど、ぼくは、ぼくらは、どれだけの「懐かしい風景」を失ってきただろうか。そのことを思うと、ほとんど自分の事のように後悔するのである。

 行定監督は、講演の最後に、ぼくらは熊本を「取り戻す」のではなくて、新しい熊本を作り出していこうと呼びかけているんです、と力強く語っていた。「失われたもの」をセンチメンタルに慕うのではなく、どうやって新たな感動を呼び起こすものを作り、それを新たな「記憶」として人々の中に織り込んでいくのか、それが問題だと言うのだ。そういう監督の熱意を思い起こして、ぼくも少し元気になった。


 




上映の後、講演する行定勲監督

2016.6.6

 


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100のエッセイ・第10期・86 「手応え」

2016-06-02 10:08:01 | 100のエッセイ・第10期

86 「手応え」

2016.6.2


 

 岩波書店の「図書」の最新号に、原田宗典の「手応え」というエッセイが載っていた。その中にこんな記述があった。


 私は女房に話しかけた。
「ある時ね、晩年の中川一政にある人が率直に尋ねたんだそうだ。先生の絵は三日で完成するものもあれば、十年かかっても完成しない絵もありますよね。一体、何で判断するんですか? 何がどうなったら、先生の絵は完成するのですか?」
「ふんふん……そしたら?」
「中川先生はね、ちょっと間を置いてから「手応えだよ」とだけ答えたのだそうだ。」
「手応え……?」
「そう、手応えだよ。君にはちょっと分からないかもしれないけど、ぼくには分かる。いいものが書けた時、確かにそういう手応えがあるんだ。それはもう手応えと呼ぶしかないような感覚なんだ。」
「ふうん……」
 女房は不思議そうな顔をしていたが、私はその「手応え」という言葉自体にちょっとした興奮を覚えた。インターネットやスマホの普及で、世の中は既に「手応えのない」時代に突入している──今、本当に必要とされているのは、中川一政の言う「手応え」なのではなかろうか。


 いいなと思ったことがひとつ、ダメじゃんと思ったことが二つある。

 いいなと思ったのは、この中川一政の言葉自体である。

 中川一政の絵にぼくはそれほど親しんでいるわけでもないが、それでも、その絵や書には割合おおく接してきたような気がする。どこか素朴な味わいのある絵、それにもまして、「稚拙」の感のある書。どこで「完成」を判断するのかと聞きたくなるのももっともなことだ。それに対して、「手応え」だと答えたというわけだが、何度も耳にしてきた当たり前の「手応え」という言葉に、原田氏と同様に「ちょっと興奮」したわけである。

 確かにそういう瞬間がある。写真を撮る時など、とにかく「数打ちゃ当たる」とばかりに闇雲に撮るから、同じような写真ばかりがゴマンとできる。その中から、どれを選ぶかが大問題。そこでも「手応え」のようなものが感じられる。「あ、これかな?」ぐらいだけど。そして、その写真をどう「現像」するかが更に大きな問題となる。コントラストをどうするか、色調をどこまでいじるか、トリミングはどうするか、数え切れない問題があって、追求していくとキリがない。けれども、どこかでふと手がとまることがある。「あ、これ、いいかも。」って思える瞬間でやめる。それが「手応え」なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、ふと、学校で古文を教えていた時に扱った「今昔物語」の文章が思い出された。これは栄光学園独自で作成している「中学生の古典」に収録されている話で、題は中学生向きに「馬盗人」としているが、本題は「源頼信朝臣男頼義射殺馬盗人語〈源頼信朝臣(あそむ)の男頼義、馬盗人を射殺す語(こと)〉」(巻第二十五・本朝世俗)である。

 ある夜、源頼信のところに東の国から馬が届いた。当時は馬は大変価値の高いものだから、馬泥棒が東の国から盗む機会をねらってついてきたのだが、とうとうその機会を逸して、頼信の家に来てしまった。馬が親のところに来たと聞いた息子の頼義が、その馬を欲しくてたまらずに、雨の降るのもいとわずに親の家を訪ねるが、朝になったら見せてやるから、気に入ったらお前にやると言われ、その夜は、親子で同じ部屋に寝る。泥棒は、雨の夜をもっけの幸いに、まんまと馬を盗み出して逃げて行く。それに気づいた親子だが、親は息子に「おいドロボウだ!」とか言わずに、弓矢を持って馬で追う。息子は息子で「おとうさん、ドロボウだよ!」とも言わずに、やっぱり父の後を追う。そのうちに、親子が思った通りに逃げ道を逃げた泥棒が、「ここまで来れば大丈夫」とばかり、馬の歩みを遅くしてのんびり川の浅瀬を歩ませていると、それに追いついた親が、その水音を聞いて、息子が付いてきていることも確かめてもいないのに「アレを射よ。」と言う。すべてが真っ暗闇の中である。要するに、武士の親子は、何にも言わなくても、気持ちが通じているということなのだ。

 さて、その真っ暗闇の中で、どのくらい先にいるのかも見えない泥棒にむかって、ただ水音だけをたよりに矢を射ったわけだが、その部分の記述がこうなっているのである。(長くてスミマセン)

暗ければ、頼義がありしも知らぬに、頼信、「射よ、かれや。」と言ひける言もいまだ果てぬに、弓の音すなり。尻答えぬと聞くに合はせて、馬の走りて行く鐙(あぶみ)の、人も乗らぬ音にてからからと聞こえければ、

 念のために口語訳しておくと、「あたりが真っ暗なので、頼信は息子の頼義がそこにいるということもわからないのに、頼信は「あれを射よ。」と言ったその言葉も終わらぬうちに(頼義のひく)弓の音がした。手応えがあったと聞くと同時に、馬が人の乗っていない鐙をからからと音を立てるのが聞こえたので、」ということになる。

 実に見事な描写でほれぼれするのだが、それはともかくここに出てくる「尻答えぬ」が、思い出されたというわけなのだ。

 「尻答えぬ」について、「中学生の古典」には、「手応えがあった。命中した音がした。「尻」は矢尻で、命中した時、矢尻が微妙な手応えのある響きを発するのである。」と脚注があるのだが、この脚注は「微妙な響き」としたほうがいいだろう。

 さて、その「微妙な響き」とは、どんな響きなのだろうか。盗人(註2)に命中して矢尻の羽(註1)が微妙に空気を震わせるのだろうか。それはまさに、「微妙」そのものであって、それが人の耳に聞こえるはずもない。聞こえるはずもないけれど、何か感ずる、その「微妙な」感じ、感覚。そして、その「響き」は、直前に弓をはなったこの手に、手の筋肉に、ひいてはその手を動かした神経に、脳に、ぴったりと「連動」している。それこそが「手応え」ではないのか。

 あるいは高浜虚子の「金亀虫(こがねむし) 擲つ(なげう)闇の深さかな」も思い出される。ここでは「手応えのなさ」がかえって深い闇の「手応え」を感じさせる不思議な世界がひろがる。

 いずれにしても、中川一政が感じた「手応え」、原田宗典が感じた「手応え」、それらもみなこうした「手応え」の世界に通じるだろう。

 国語辞典では「手応え」を「ものを打ったり突いたり切ったりした時などに、手にかえってくる感覚。」(「日本国語大辞典」)としているが、この、今昔物語の武士のように、矢を射ったときにも感じる「手応え」は、ぼくらの日常や芸術活動の中での「手応え」を、鮮明にイメージ化しているように思えるのだ。

 以上で、「いいなと思ったこと」については終わり。

 「ダメじゃん」と思ったことについては短く書いておく。そのひとつは、「君にはちょっと分からないかもしれないけど、ぼくには分かる。」というところ。作家ではない(たぶん)妻にむかって、「芸術家じゃない君には分からないかもしれない」というような言いぐさは、思い上がっている。何も作家だけが特別なわけじゃない。家事をしていても、育児をしていても、会社で仕事をしていても、「手応え」はある。「妻」が怒らなかったのが不思議である。

 もうひとつは、この引用部分の後半全部。「インターネット」や「スマホ」をやり玉にあげておけば、一般大衆の共感を得られるものと思い込んでいる人が多すぎる。特にオジサン世代から高齢者に多いが、せめて作家を名乗る人間は、こうした安易な「まとめ」に陥るのを警戒すべきだろう。


 


(註1)

 このエッセイを書いた直後、都内某所へ電車で向かう途中、古い友人から「今日のエッセイの中に「矢尻の羽が」っていう表現があったけど、どういうこと? 矢尻って、矢が物に突き刺さる先端のことだと思ってたけど、違う意味があるのかな。」というメール(厳密に言うと、フェイスブックのメッセージ)が来た。そういえば、「矢尻」というのは、彼の言うとおり、「先端」のことだった。「日本国語大辞典」によれば、「矢の先端についていて、対象物に突き刺さる部分。縄文時代以来用いられ、材質により石鏃、骨鏃、鉄鏃、銅鏃、竹鏃という。形態上からは、尖根(とがりね)、平根(ひらね)、三角鏃などがみられる。やさき。矢の根。矢の実。」となっている。

 「矢尻」を、ぼくは、「矢の先端」ではなく、「矢羽根の方」つまり「矢の後ろ」と勘違いしていたというわけだ。(まあ、どっちが「前」でどっちが「後」かってこともそれはそれで問題だけど。)それは確かに「勘違い」なのだが、なぜ「矢の先端」を「尻」というのだろうかという疑問がすぐに続いて出た。負け惜しみではないけれど、「尻」というのは、どう考えても「後ろ」を指すのではあるまいか。だから、「矢尻」を「矢羽根のついた後ろの方」だと勘違いしてしまったのではなかろうか、などとウジウジ考えていた。

 それはそれとして、「矢尻」が「先端」なら、「矢尻がたてる微妙な響き」というのは、厳密に言えば、「先端」が、盗人の体に突き刺さる「プスッ」だか「ブスッ」だかいう音ということになる。何だか味気ない話である。それより、ぼくの「勘違い」から生じた「盗人に命中して矢尻の羽が微妙に空気を震わせるのだろうか。」といった「響き」の方が味わい深いものがあるのではないか、などと考えたが、まあ、これはやっぱり負け惜しみには違いない。

 けれども、シツコイようだが、暗闇の中を飛んでいった矢が、盗人に命中してたった音があったとして、それは、厳密に「矢の先端」から発する音か、「矢羽根の方」から発する音かなど区別のつくものではなかろう。したがって、「矢尻の羽」という言い方は誤りだが、その音、「微妙な響き」は、「矢全体」から発せられたと考えることもできるというものだ。

 などと、電車の中でとつおいつ考えていたわけだが、ふと、この「尻」は「後」のことではないか、と思った。日本語の「しり」は、「尻」でもあり「後」でもある。語源は同じだ。「今昔物語」では「尻」の文字を使っているが、「尻答えぬ」というのは、「矢を放った後、なんか当たったという感じが確かにして」という意味だと解釈したらどうだろうか。その「当たった!」という「感じ」は、矢の方からかすかに伝わってきた「微妙な響き」であっても一向に差し支えないし、その「音」が「矢尻」がたてようが、「矢羽根」がたてようが、そんな厳密な区別はいらなくなる。

 そんなことを思いついて、件の友人に、「しり、は、尻ではなくて、後ととる方がいいかも。」とiPhoneでメールした。「なるほど、そういうことか。そういえば「後」は「しり」と読ませることもあるよね。了解。」と友人が返してきた。

 「手応えあり」である。


(註2)

最初に書いたとき、この「盗人」が「馬」としていた。その「勘違い」に気づかず、(註1)でも、「馬に当たった」を連呼してしまったわけだが、当たったのは「馬」じゃないでしょという指摘が別の知人からあったので訂正。まったく、馬に当たっちゃったら「手応えあり」どころの騒ぎではないわけである。


 



 


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