5月のストックホルム郊外での暴動について、ネット上での情報があまりに酷いと思うので、普段は特定のサイトに対して批判することはあまりしないが、敢えて書きたいと思う。みゆき ポアチャというライターによる次の記事である。
スウェーデン暴動の根底にあるもの(上)移民統合政策は失敗したのか?
スウェーデン暴動の根底にあるもの(下)「我々」と「彼ら」の間の深い溝
私がここで書こうとしているのは、ストックホルム郊外での暴動というより、スウェーデンにおける「移民」問題をめぐる、このライターの物の見方だ。ただし、前回2つの私のブログ記事からおそらく伝わっているように、私の問題の捉え方や考えの出発点はこのライターのそれと大きく異なっているため、私が問題と感じる箇所を一つ一つ指摘していけば揚げ足取りと感じる方もおられるかもしれない。よって、根本的な部分のみを取り上げることにする。(とはいえ、かなり長くなってしまったが)
何の前提知識を持たない人や、スウェーデン社会のイメージを持たない人がこのライターの記事を読めば、スウェーデンにおいて「スウェーデン人」対「移民」という構図で社会が二分化し、両者の溝が深まっており、あたかも一触即発、いや闘いが実際に始まっていると理解してしまうかもしれない。しかし、それはあまりに単純化したもの見方であるし、実態に即していない。
【「移民」と一口に言っても実に多様 】
私が前回のブログ記事で書いたように「移民」などと一口に言っても、その実態は多様だ。第二次世界大戦前後のフィンランド、バルト三国などを中心とする戦争難民や戦争孤児(ユダヤ人を含む)の受け入れ。戦後から1970年代までの高度経済成長における主にイタリア、ギリシャ、ユーゴスラヴィアなどの南欧およびフィンランドからの労働移民の受け入れ。1954年のハンガリー動乱や1968年のチェコスロヴァキアの動乱(プラハの春)で国を追われた亡命者・難民の受け入れ。1979年のイラン革命をはじめとする中東での動乱で発生した難民の受け入れ。1970・80年代の南米(チリなど)からの亡命者の受け入れ。1990年代前半のユーゴスラヴィア(ボスニア)内戦で発生した難民(特にムスリムの人々)の受け入れ。1990年代後半のコソボ動乱による難民の受け入れ。2000年代の英米によるイラク侵攻に伴って発生した難民や、内戦が続くソマリアからの難民の受け入れ。アフガニスタンからの難民の受け入れ。そしてちょうど現在は、シリアからの難民がスウェーデンに受け入れられる難民の大部分を占めている。このように、世界中で紛争が発生するたびに多数の難民がスウェーデンに受け入れられてきた。また、彼らの子供(いわゆる移民第二世代)や、すでにスウェーデンで暮らす親族を頼ってスウェーデンへの移り住む人々もいる。
だから「移民」と言っても、スウェーデン語の能力や、スウェーデンにおける(スウェーデンの労働市場に即した)教育の有無、本国における基礎教育の程度、本人のアイデンティティーにおける「スウェーデン」の位置づけなど、様々な側面で大きく異なっているため、スウェーデン社会への統合の程度にしても、抱える問題の程度や内容についても実に多様である。だから、実際は「スウェーデン人」と「移民」という二つに分かれたものというより、連続性のあるスペクトラムと考えるべきであろう。
また、そのような合法的な居住者とは別に、居住許可を持たない不法滞在の外国人もいるし、物乞い目的でスウェーデンに滞在している人もいる。ただ、文化省が2000年にまとめた報告書『移民という概念』によると、一般的に「移民」と言った場合、外国生まれの者のうちスウェーデンにおける居住許可を持ち、スウェーデンで住民登録をしている人のみを指すので、不法滞在者や住民登録をしていない人は含まれない。また、国籍の有無とは別の話であるため、「移民」の中にはスウェーデン国籍を持っている人もたくさんいる一方で、持っていない人もいる。だから、スウェーデンに住む日本人も「移民」である。
以下のグラフに示したスウェーデン中央統計庁の統計によると、2012年の時点において、スウェーデン居住者全体に占める外国生まれの者の割合は15.4%(人数は147万人)である。これが狭義の「移民」であるわけだが、この他に、スウェーデン生まれだが両親が外国生まれの人が4.7%(45万人)、さらにスウェーデン生まれだが親のうち一人が外国生まれの人が7.1%(68万人)おり、全部を合わせて「外国のバックグランドを持つ人」とまとめれば27.2%(260万人)にも達する。(グラフでは経年変化も示したが、データが入手できなかった部分は欠けている)
ちなみにこのライターは、
と書いているが二つ目の文は正しくない。「スウェーデンで生まれているが両親が外国生まれである人を合わせる」と2011年の時点で186万人である。
最初に示したように、「移民」と区分される人々は多様である。にもかかわらず、その多様性を全く無視して論じようとすれば、白黒をはっきりさせた分かりやすい論評はできても、意味のある分析はできない。(確かに、日本の読者には「我々」「彼ら」の両極性の議論がすんなりと受け入れがちかもしれない。しかし、それは国内では多様なバックグランドを持つ人々に接する機会が少ないからだろう)
このライターも、上に挙げた2つ目のリンク先の記事タイトルに「「我々」と「彼ら」の間の深い溝」という言葉を使っているし、「スウェーデン人と非スウェーデン人の間を隔てる見えないギャップ」とも1つ目のリンク先の記事の最後で書いている。「彼ら」とは「移民」を指しているのだろうが、ここには、上に挙げたすべての人たちが含まれるのだろうか?スウェーデンで生活しながら、様々な背景を持つ人たちと付き合いがある人からすれば、冗談もいい加減にしてほしいと感じられるだろう。また、「非スウェーデン人」とは誰を指しているのだろうか?(既に触れたように、移民の概念と国籍の有無は別個のものである)
面白いことに、そのような単純な論評を展開している人でも、頭のなかでは「移民」をヨーロッパ系と非ヨーロッパ系とに分けて、実際には後者のほうを指して「移民」という言葉を使っていることも多い。つまり、「移民」という一つの用語を用いつつ、実際にはその中での多様性を認めるという自己矛盾に陥っているのである。それならなぜ誤解ばかりを招きやすい用語を用いて、すべてを一纏めにしようとするのだろうか。
仮に何歩か譲って、この筆者は「一般的なスウェーデン人」が現状をどのように捉えているかを客観的に説明するために、「我々」と「彼ら」という両極論を敢えて提示していると理解してあげることも可能であろう。しかし、問題が一般にどのように認識されているのかということと、現実が実際はどうであるかということは必ずしも一致しない。そのことを無視し、同じ両極論に頼ったまま、現実を説明しようとしているために、自分の頭のなかに出来上がった両極論に当てはまる情報しか見えなくなり、ドツボに陥っているように感じる。
その結果として、次のような主張がある。
「「両者の溝」と言った場合・・・」の部分で明確に現れていることだが、筆者は二項対立を出発点として、それを前提として話を進めようとし、現実をその二項対立に無理に当てはめようとしている。しかし、実際は上にも示したように「移民」と一口に言っても実に多様である。スウェーデン生まれの移民第二世代の人であれば、スウェーデン語が全く問題ない人も多く、また、教育もスウェーデンで受けているため、彼らと同種の仕事にも就いている人も多くいる。つまり、そもそもの議論の前提が間違っているため、それを元にあれこれと議論しても、的外れな結論しか得られない。
また、このライターの主張は、外国のバックグランドを持つ者はたとえスウェーデン生まれ(移民第二世代)であっても就職が難しく、差別は「再生産」される、ということのようだ。また、Wikipedia日本語版には、彼女の記事を参照しながら「スウェーデンで生まれ育った2世であっても、ホワイトカラーの職に就くことは困難とされる。」などと書かれているわけだが、これはいくらでも反証が可能だ。スウェーデン系ではない名前を持った移民第二世代で、仕事に就いている人を挙げればキリがないし、ホワイトカラーの職種においても政治の世界においても簡単に見つけることができる。また、困難をバネにして成功する人も実際に多いように思う。このことは第二世代だけでなく、幼い時にスウェーデンへ移住し、スウェーデンで教育の大部分を受けてきた第一世代にも、ある程度あてはまる。
では、就業率や就く業種・職種において、両親が共にスウェーデン生まれの人と比べて、全く差がないかというと、やはり違いが残る。就業率は若干低いようだし、所得水準も平均的には低いようだ。この違いは、特に非ヨーロッパ系の親を持つ人に大きい。一つの理由としては家庭環境・親の教育水準が平均的に低いことが挙げられるだろうが、やはり、それ以上に労働市場における雇用差別が問題ではないかと私は思っている。名前や外見を理由にした採用時の差別は、一つの社会問題としてニュースに取り上げられることもある。
ただし、この筆者が「永遠に繰り返され、終わりはなく、出口もなく、解決策もない」などという言葉で表現しているような、全くの暗闇ではない。私は「スウェーデン人」と「非スウェーデン人」などという両極論はスウェーデン社会の現実をうまく表していないと思っている。実際はスウェーデン社会への統合の度合いも全く異なるから、むしろ連続したスペクトラムと捉えるべきであろることは既に述べた。仮に筆者がここで指しているのが、そのスペクトラムの一番端っこの部分だとしても、それなら概念や言葉をきちんと定義した上で用いるべきだ。白か黒かの両極論ですべての物事を評価できると思い込んでいる人は少なからずいる。それはそのように考えたほうが物事を綺麗に言い切った気分になれ、心地が良いからだろう。しかし、実際には白に近いグレーもあるわけだし、黒に近いグレーもあるわけだ。そもそも彼女の用いる「非スウェーデン人」とは何を指しているのだろうか? 文脈からは、スウェーデン国籍を取得した人や移民第二世代を含めた、今はスウェーデン居住者全体の3割近くを占める人々を指しているように理解できるが、もしそうならば私は彼女の差別意識をこの表現に感じてしまう。
さらに、この部分の問題点をもう一つ指摘するならば、教育者としての物の見方だろう。この筆者は高校で教員をしているようだが、彼女のこの文章から読み取れるのは、移民にはそれが二世であろうと全てに希望がないという主張である。これは既に私が述べたように現実のごく極端な部分を切り取っただけの表現であり事実に即していないだけでなく、私が思うに、そのような認識しか持てないのであれば、若者それぞれの持つ潜在的な能力を引き伸ばしてやることを職務とする教育者としては失格であろう。
【 中期的な変化 】
私は移民第一世代、つまり、外国生まれで大人になってからスウェーデンに受け入れられる難民やその家族は、今後も苦労はするだろうと思っている。これは仕方がない。労働市場における差別以前の問題として、スウェーデン語の能力の欠如や、スウェーデンの労働市場に即した技能や教育がなく、仕事に就くのが難しいからである。また、戦争・紛争によって心に傷を負った人々もいる。だから、課題が山積みなのはむしろ当然であり、それが移民・難民を引き受ける国にとってのスタートポイントと考えるべきであろう。
もちろん、スウェーデン政府は外国生まれの住民に対して無償でスウェーデン語教育を提供するし、それを乗り越えれば、高校レベルの職業教育や大学教育にも門戸が開けるため、努力する人は自分で道を切り開いていくだろうが、やはり、中年以上でスウェーデンにやってくればそれも難しくなる。だから、低技能でも就ける仕事の確保が重要になってくる。スウェーデンでは、バスやタクシーのドライバーや、オフィスやホテルの掃除係として移民第一世代の人が働いているケースが多い。これを何かネガティブのこととして捉える外国からの旅行客もおられるが、私は非常に良いことだと思っている。仕事に就いて稼ぎを得ることは自活の基本だからだ。ちなみに、スウェーデンでは日本における外国人研修生のように、外国人・外国生まれだからということで他の人より賃金が低く抑えられるような制度はない。同じ職であれば、だれが働こうが原則として労使間の団体協約で定められた賃金が支払われる(建設業や林業など、それが必ずしも適用されない業種はあるが、難民として受け入れられた人が建設業・林業で働くケースは稀であるためここでは無視する)。
私の関心事は、移民第二世代のスウェーデン社会への統合である。私は今後20~30年くらいを視野に入れた中期的には楽観視している。先ほど書いたように、現時点では就業率、所得水準ともにスウェーデン生まれの親を持つ人と比べると少し低い。しかし、一番最初の統計で示したように、外国生まれの移民第一世代が15.4%、そして少なくとも片方の親が外国生まれである移民第二世代も加えれば、外国のバックグランドを持つ人の割合は居住者全体の3割近くに達する。そして、この割合は今後も上昇していくであろう。すでに書いたように、移民第二世代の中には、スウェーデン人を親に持つ若者と同じように就業している人もたくさんおり、その数も増えていく。そうすれば、企業の管理職や人事担当にもそういう人が就いていくため、他の能力が同じという条件のもとでは、外国人だからという理由で差別するケースも少なくなっていくであろう。もちろん、何も対策が必要ない、と考えているわけではないが。
【アイデンティティーについて】
上記の引用箇所におけるこのライターのもう一つの主張は、外国のバックグランドを持つ者は「スウェーデン人」か「非スウェーデン人」かのどちらかにも属せないので、アイデンティティーの面で大きな問題を抱え、抑圧や疎外感を日常的に感じることになり、社会的な軋轢、そして暴動へとつながっていくという主張だ。しかも、移民は決して「スウェーデン人」にはなれないということが引用部分の最後のパラグラフから理解できるが、果たしてそうだろうか?
民族・国籍に基づくアイデンティティーは確かに、個人のアイデンティティーを形成する要素の一つであり、人によってはそれが大きな割合を占めることもあるだろう。そして、その欠如が大きな影を落とすこともある。例えば、外国生まれの両親を持ちながらヨーロッパの国で生まれ育った若者が、成長の段階でアイデンティティー形成に失敗し、自らのアイデンティティーの拠り所をイスラム過激主義に求め、生まれ育った国でテロを起こすという事件がスウェーデンをはじめ西ヨーロッパでは起きている。しかし、稀なケースである。
重要なのは、個人のアイデンティティーは民族・国籍だけでなく、家族や学歴、言語、仕事、友人など非常に多様な要素からなっている、ということだ。しかも、多重でもあり、「スウェーデン」というアイデンティティーと、例えば「エジプト」というアイデンティティーを共に持つこともありうる。人によっては、自分の持つ幸せな家族というアイデンティティーや、難しい教育の末に就いたやりがいのある仕事というアイデンティティーが日々の生活の中でより重要な意味を持つ人もいる。そうなると、民族・国籍アイデンティティーはそれほど大きな意味を持たなくなる。私自身の生活を振り返ってみてもそう感じるのだが、実際、多くの人はそのような多重で多様なアイデンティティーの中でやりくりしながら生活しているのではないだろうか?
だから、このライターが考えているように、民族・国籍アイデンティティーが個人にとって絶対的な意味を持ち、その欠如が日常的な抑圧や疎外感をもたらし、社会不安へと繋がっていく、という決定論的な考え方には同意しかねる。おそらく、彼女にとっては「日本人」というアイデンティティーが日常生活の中でとても重要な意味を持っているのだと文章から感じられるが、それは誰にでも当てはまる普遍的なものではないだろう。
また、このライターによると、外国のバックグランドを持つ者は「スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ」ということだが、果たしてそうか? ライター自身も記事で触れているように、そういう人でも「スウェーデン人」だと自ら主張するケースもある。私自身も、スウェーデンで十数年生活し、スウェーデン人と同じように仕事をし、スウェーデンのニュースに日々触れ、時事問題をスウェーデン語で議論するという生活を送っているうちに、「スウェーデン」という要素も私にとっては自らのアイデンティティーの重要な位置を占めるようになってきた。アイデンティティーは多層的だ。
もちろん、自らが「思い込んでいる」アイデンティティーがその人の中で強固なものとなるためには、それが他者から認識されなければならない。自分がそう思っていても、周りからそう見てもらえない、というギャップがある場合、問題が生ずる。しかし、既に書いたように今ではスウェーデン人の実に3割近くが外国のバックグラウンドを持つようになるに至り、外見だけで他人から「非スウェーデン人」と認識されるケースはますます減っていくであろう。そもそも、外見から「あの人はどこの人だろう?」といちいち考えるスウェーデン人は、日本人が考えているほど多くはないと私は感じている。そんなことを気にすら留めない人も多いと思う。
余談だが、スウェーデンには70年代以降、外国で生まれた子がスウェーデン人の里親に引き取られる国際養子が一般的に行われてきた。多くの場合、生後数週間で里親へ引き取られ、その後、スウェーデン人として育てられるため、文化的には全くスウェーデン人である。名前もスウェーデン系のものだ。ただし、出生国は韓国、ベトナム、インド、中国などのアジアや、アフリカ、南米などであるため、外見はスウェーデンの大多数とは異なる。
彼らの成長については様々な記録や分析があり、自分の「スウェーデン人」というアイデンティティーと外見とのギャップに悩まされた人も多いようだ。実際、思春期の自殺率はそれ以外のスウェーデン人よりも少し高いことが明らかになっている。それは想像に難くないことであり、だからこそ、国際養子を仲介するNPOは里親になるスウェーデン人夫婦には十分な情報提供や指導を行うほか、悩み相談に乗ったりするようだし、里親同士のネットワークもある。また、養子となった若者自身のネットワークもあるようだ。そのように当事者同士の助け合いもあることは当然ながら、スウェーデン社会そのものも国際養子の数が増えるにつれて、自然に変わってきたことは明白である。つまり、一般の人が外見の異なる子供を町で見かけても、変わった目で見なくなるようになっていく、ということだ。もちろん、最初の頃は一般の人々もどう対応すればよいのか戸惑っただろうし、自分の意識を口にする人もいただろうが、外見がたとえアジア系であれインド系であれアフリカ系であれ、そういうスウェーデン人がいる、という事実が一般的に広まってくるにつれ、状況は当初とは変わってきたであろう。もちろん、今でも心のなかでは外見の違う子供を気にする人はいるかもしれないが、それを差別的な言葉や態度として表さないことは、差別をなくしていくことの第一歩としてとても重要なことである。そういう状況が1970年代以降、ずっと続いてきたわけであり、そもそも外見の違いすら、ほとんど気にしない、気にならないというスウェーデン人はたくさんいる。
私も日々の生活で、国際養子の若者とは頻繁に出会う。寮生活をしていた時も同じ寮に中国から引き取られた男の子が住んでいた(名前は当然ながらスウェーデン系)し、一緒に勉強したクラスメイトにも何人かいた。私は今は大学で教えているが50人に1人か2人という割合で国際養子の学生がいる。実は私と一番付き合いの長いスウェーデン人の友人は、京都大学に交換留学に来ていた男の子で、韓国からの養子だ。彼はスウェーデン人の両親(里親)の愛情にしっかり育てられたおかげか、スポーツと勉学で良い成績を収め、今では特定分野におけるスウェーデン有数の法律専門家だ。子供もおり、幸せな家庭を築いている。ただ、彼も成長の段階では苦労したようだ。また、別の養子の若者で、スウェーデン人としてのアイデンティティーを持ちながらも、自分のルーツに興味を持ち、その国の言葉(たとえば韓国語)を学んだり、その国に留学に行ったりしている人もいる。
このような国際養子の子供たちは、このライターの目には「スウェーデン人」と「非スウェーデン人」のどちらに映るのだろうか? こういう例を考えるにつけ、私は「スウェーデン人」と「移民」などという区別がいかに馬鹿げたものかと改めて感じる。彼らを指して果たして「彼らはしかし、スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ」などと言えるのだろうか。言い切ることが出来る自信があるのだろうか。彼らはアイデンティティーに伴う苦難を、様々な形で乗り越えようとしているし、実際に乗り越えてきている。もちろん、その苦難は私などの非当事者の想像を超えるかもしれないし、乗り越えられなかった人もいることは事実だが、このライターが描いているような、全てが真っ暗で将来も希望もないというものでも「終わりはなく、出口もなく、解決策もない」などと決めつけられるものでもない。このことは、移民第二世代の若者にも当てはまるものだと私は考えている。「終わりはなく、出口もなく、解決策もない」など簡単に結論づけることは、言われなき差別と戦ってきた人たちや、差別をなくす努力をしてきた人たちに対する冒涜そのものではないだろうか。
【 警察について 】
このように外見は他の多数のスウェーデン人とは異なるが、それでもスウェーデン人という人は、人口のより大きな部分を占めるようになっているし、今後も増え続けていくだろう。少なくとも減ることはない。だから、外見だけでスウェーデン人かそうでないかを見分けるのは今や困難だ。
だからこそ、不法滞在者(正当なビザを持たない外国人や、難民申請をしが却下された人など)の摘発のために、路上通行人を外見で判断したうえで不法滞在者でないかを調べるという取り締りを警察が一時期、採用したことは時代錯誤も甚だしい(批判が容易に想定されるこのような手を使うことをなぜ敢えて決定したのか。何かもっともな理由があるのか。これは詳しく調べてみる必要がある)。また、警察がたとえば教習や訓練で、外国のバックグランドを持つスウェーデン人に対して差別的な表現を使ったことは、私も大きな怒りを感じるし、理解できない。Jonas Hassen Khemiriという作家が法務大臣に抗議の手紙をメディアを通じて送ったことはこのライターも書いているように、国中を巻き込む大きな反響を呼んだ。つまり、スウェーデン人の多くもそれがいかに不当なものか、憤りを感じたわけであり、警察の態度が多くの国民に支持されているわけではないことは強調しておきたい。
(ただし、同じライターによる「移民大国スウェーデンの「移民狩り」」と題した記事には問題点も多い。いきなり冒頭において「マルメ・コミューンはスウェーデン国内でも一番外国人が多い地域で、住民の3分の1は外国で生まれており、10%は両親の少なくとも一方が外国出自だ」とあるが、外国人であることと外国生まれであることを区別していない。これは同義ではない。また「ローゼンゴード」という地名も読み方がおかしい。正しくは「ローセンゴード」だ。しかし、一番致命的な点は、不法滞在者の取り締まりを安易に「移民排斥」と結びつけている点である。不法滞在者はあくまで正当なビザを持たない外国人や、難民申請をしたものの却下された人などを指しており、彼らに対する取り締まりを移民排斥とは通常は呼ばない。また、正当なビザや居住許可を持っている限り、国から追い出されることはない。この取り締まりでの問題点はそうではなく、外見によってチェックしようとしたことである。)
また、警察による69歳男性の射殺事件であるが、この事件をもって、警察がこの地区の住民に対して差別意識を持っていたと結論づけるのは時期尚早であろう。なぜ至近距離で発砲したのかについては、警察内の独立した組織による調査が行われているため、それを待ちたい。
さらに、2つ前のブログ記事で既に私が書いたように、警察とフースビーなどの地域住民との対立を必要以上に煽っているのは地元の一つの団体「メガフォーネン」である。この団体は極左的な政治的立場を明確にした団体であり、その地域の若者の声を代表しているわけではない。彼らによる、対立を煽るような問題の捉え方や主張に対しては、地域住民を含め様々な批判が挙げられている。このライターはこの団体の声明をそのまま自らの主張の根拠に用いているが、彼らの主張を文字通りに受け取るべきではない。
【 その他の問題点 】
以下、あの記事の問題点の中でも、とりわけ私が疑問に感じる点をいくつか挙げる。
これは、事実の明らかな誤認である。スウェーデン語以外の言語を家庭で用いている生徒に対して、学校教育で母国語教育を行うのは一義的には母国語の能力を高めることであるが、それを公教育の中で行う目的は、母国語の能力向上がスウェーデン語の習得のほか学校教育の他の科目の学習に有益であるとともに、子供に安定した民族的アイデンティティーを培ってほしいからである(母国語教育の現行制度を決定したスウェーデン議会・文部委員会答申より)。「いずれ自国に戻った時に困ることがないように」とは一言も書かれていない。
大失敗に終わったというこのプロジェクトの詳細を見ようと脚注*4のリンクを見てみたが、そこにあるはストックホルム市によるプロジェクトの紹介ページであり、地価が上昇したのだの、学校の状況が悪化したのだの、住民が追い出されたのだのという記述はない。その根拠があたかも脚注*4にあり、正当な情報に基づいているかのように印象づけようとする、このような引用の仕方は間違っている。このようなことは、大学の学部課程やそれ以前で教わることである。さらに言えば、失業率の比較にしても、リーマンショック以前の好景気の真っ只中であった2007年と、リーマンショックの起きた2008年以降ではスウェーデンも失業率の水準が全国的に異なる。だから、そのプロジェクトに効果があったのか無かったのかは、プロジェクト開始前と開始後の失業率の単純比較だけでは評価できない。私は何も、統計的処理をきちんと行えなどとこの記事のライターに対して言うつもりはないが、少なくとも単純比較が難しく誤解を与える余地があることを頭の片隅にでも置いて、短絡的な結論の導出を避けるという気配りはすべきだということは要求したいと思う。この筆者がジャーナリストを名乗り、学歴にジャーナリズムを挙げているのであれば、なおさらである。
このプロジェクトは、このライターが述べているように、もしかしたら失敗に終わったのかもしれない。私は詳しい情報を目にしていないので、いかんとも評価できない。しかし、このライターの記事のこの箇所の根本的な問題点はそんなことではない。私が一つ前のブログ記事で書いたように、失業率が高かったり、基礎教育・高校教育で問題を抱える若者が多かったりする地区では、問題改善のために様々な取り組みが行われている。地域のユースセンターを中心とした取り組みも活発に行われている。そのような数あるプロジェクトを、たった一つのプロジェクトによって総括できるわけではないだろう。
このような比較も留保が必要だ。高等教育を受けたとはいえ、それが比較対象となっているスウェーデン人のものと同等であるかどうかが明らかでないし、それ以外の点、たとえば、就業のために必要なスウェーデン語の能力が同等かも分からない。(それに、既に指摘したように、この筆者はここでも外国人と外国生まれを混同しているようである。移民に区分される人には、スウェーデン国籍を取得した人もたくさん含まれているため「外国人」という表現は正しくない。)
このライターは「数年おきに発生する移民がらみの大事件」の一つの例として、この事件を挙げている。たしかに、この事件は私の住んでいるヨーテボリで起きた悲惨な事件で、多くの人々の記憶にいつまでも残る出来事ではあったが、パーティーにおいて入場を断られた若者と開催者側の若者との喧嘩から発展した放火事件であり、彼らが移民であったこととは直接関係ない。一緒に並べられている、都市郊外で発生した暴動とも性質が異なる。しかも、加害者・被害者ともに多くは外国バックグランドを持つ若者であるため、ライターがここで展開しようとしている「「我々」と「彼ら」の間の深い溝」という論旨にもそぐわないものである。むしろ、移民は問題ばかり引き起こす、という印象づけがライターの意図であるように感じる。(どうでも良いことかもしれないが「障害」ではなく「傷害」であろう)
では、どうすべきだとこのライターは言いたいのだろうか? 福祉依存を取り除こうと思えば一つの方法は福祉(社会的給付)の削減や条件の厳格化であろう。実際、2006年の政権交代後の中道保守政権によって社会的給付は厳格化されてきた。そして、それが格差の拡大につながってきたとも指摘されている。社会的給付などの「至れり尽くせり」の支援を減らすことが、果たして受け入れた難民の自立を促進するとでも考えているのであろうか?
また、このライターが「スウェーデンのシステム」と呼んでいるものが不明である。であるから、多くの日本の読者は一般的なスウェーデンに対するイメージである「高福祉・福祉国家」の帰結として、「福祉依存の罠」や「自立を阻害」という状況になっていると短絡的にイメージしかねないだろう。良心的に理解しようとすれば、ここで彼女が言おうとしている「スウェーデンのシステム」とは、就業経験のない、もしくは浅い若者や低技能の労働力の賃金が比較的高いということであり、結果としてそのような労働力に対する労働需要が抑制されがちで、彼らの就業機会を奪っている、ということかもしれない。たしかにそうだが、状況は数年前とは随分変わってきた。いくつかの雇用支援金や社会保険料の軽減措置により若者を雇った際の企業にとっての実質的な労働コストは以前よりもかなり低くなっている。スウェーデンの労働市場のもう一つの問題点は、教育と労働市場のミスマッチであり、高校の職業教育の強化など、その改善策はいろいろと議論されている。いずれにしろ、解決のためには様々な支援が必要ではあっても、それが必要ないということはないだろう。
個人的な関心としては、このライターが指摘している「スウェーデンのシステム」というものに対し、他のヨーロッパの国々ではどのようにして、受け入れた難民の自立支援、就業支援をしているのかということである。忘れてはならないのは、受け入れられた直後の難民の状況というのは、その国の言葉ができない、その国で働くのに必要な能力を持たない、また、人によっては初等教育すら母国で受けていない、という状態であり、彼らを経済的に自立させるのは容易なことではない。どの国も頭を悩ませていることだろうし、政策的なアプローチにも違いがあるだろう。どういった政策がより効果的なのか、などの比較研究を見てみたい。
【 最大の疑問点 】
私がこのライターの記事に対して、最も大きな憤りを感じたのがこの箇所である。まず、なぜ「カネ」だとか、「貧しく汚く」、「かわいそうな移民・難民」などとというネガティブな評価を含んだ表現を敢えて使う必要があるのか私には理解できない。ライター自身の偏見の露出なのか、それともセンセーショナルな言葉を使って、読者の感情を煽り立て、特定の方向に誘導したいからなのか。
(同様の煽りは、「2012年初めにニュースビーゴードスクールは、280台の「iPad(アイパッド)」を生徒に配っている。もちろんスウェーデン内の大多数の生徒たちはこんな贅沢なものは持っていない」という記述部分に見られる妬みの感情や、「来月はどうやって行政からカネを取るか・・・ ということしか考えていないように見える人たちにイライラしている」という記述にも伺える。この筆者は一般的なスウェーデン人の考えを客観的に書いているつもりだろうが、私はむしろ筆者自身の偏見意識・差別感情が露呈しているように思われてならない。)
しかし、それよりもより大きな怒りを感じたのは上記の引用部分にある「移民・難民をますます彼岸の彼方に追いやり、惨めな存在に仕立て上げていく」という箇所である。ライター自身も書いているように、スウェーデンで難民認定を受けた人はこの国に達するまでに動乱・戦乱など命の危険に晒されていた。私はボスニア難民の方とは縁があり、たくさんの知り合いがいるが、ボスニア内戦時の彼らの体験はそれぞれに凄まじいものだ。「命からがら」という言葉以外に表現のしようがない人もいる。では、今の状況がたとえ失業中であったり、生活保護の給付を受けているという状況であったとしても、それ以前の状況と比べた場合に「ますます彼岸の彼方に追いやり、惨めな存在に仕立て上げていく」などと果たして断定できるものなのだろうか。このライターにはそこまで想像力が働くのだろうか。では、戦乱から逃れてきた彼らにとって、どういう選択をすべきだったのだろうか? 彼らを受け入れたスウェーデンは、代わりにどうすれば良かったと言うのだろうか?
【 お客様の視点 】
では、彼らはどうすべきだったのだろうか? では、私たちはどうすべきだったのだろうか? いま、何をすべきなのだろか?という疑問を、このライターの記事を読みながら何度も感じた。このライターにとって、スウェーデンの社会で起きている様々な出来事や、メディアを中心に常に沸き起こっている様々な議論は、結局は人ごとでしか無いのだろう。
敢えて引用する必要もないかもしれないが、それがはっきりと分かる箇所を抜粋しておく。
それぞれの社会現象や社会問題には、それぞれの文脈がある。ある状況に至るまでにはそれ以前の経過があり、人々の行動や選択がある。そして、その行動や選択は、それぞれの個人が置かれたそれぞれの状況の結果でもある。つまり、どうして今の状況があるかをきちんと理解して意味のあることを言うためには、そもそもの出発点がどうであったかをまず理解して、その後の過程でどのような選択肢を取り得たのか、取り得なかったのか、を考えていく必要があると思う。私は何も研究者になれ、などと言っているのではない。当事者の立場にたって問題を共有しようと努めなければ、責任のあることは何一つ言えない、と言いたいのである。
私が日々の生活の中で感じるのは、私自身もこの社会の立派な一員だと思っている。生活の中で気に入っていることもあれば、気に入らないことももちろんたくさんある。そのようなことを、日々、友人や同僚たちと議論しているし、どうすればこの社会や世の中をより良く変えていけるのか、そして、どうやったらこの社会の良いところを日本の社会を良くしていくために活かせるのか、ということを意識的に考えている。偉そうな書き方かもしれないが、この点が、自らを自発的に「他人」と位置づけているこのライターとの根本的な違いなのだと思う。
このライターのような「お客様」の視点から一つの社会を論じることに意味がないとは思わないが、それではスタジアムの観客席からはるか下方のグランドでプレーしている選手を観戦し、批評しているのと変わらず、責任のあることは何も言えない。別にそれはそれで良いとは思うし、人の自由だが、そういう視点で論じられるスウェーデン像ばかりが、本当のスウェーデン像だと勘違いされてほしくないと私は思う。そのために、この長い文章を書いてきた。
スウェーデン国内において時事問題として騒がれている事柄について、その内容をその社会を知らない人に誤解のないように伝えることは非常に苦労することである。よく分かっていない人は、受け取った情報を自分の持つステレオタイプに当てはめて解釈しようとするだろう。何と比較して物を言うかによっても、全く異なる印象を与えることになる。情報というものはすべてオープンであれば良い、というのは正論だが、実際には伝え手のものの見方や偏見、情報の取捨選択が、伝えられる情報そのものに色をつけている。だから、ジャーナリズムを仕事とする人は、バランス感覚を身につけていなければならないわけだが、そのような覚悟や責任感が、ジャーナリズムを学んだというこのライターにあるとは私は残念ながら思えない。
最後に、この文章を書くにあたって、スウェーデンに住む日本人の友人数人と意見交換をさせて頂きました。中には、様々なバックグランドを持つ若者に活動を提供しているユースセンターに詳しい方もおられました。改めて名前は挙げませんが、お礼を申し上げます。
(了)
P.S. 本文中で触れたように、Wikipedia日本語版の「スウェーデン」の項目には、彼女の記事を参考にした記述があるが、感情的でセンセーショナルな記事であるばかりか、間違った記述も見られるので、削除すべきではないかと思う。同じように感じた方がおられたら、そのように提案してください。
スウェーデン暴動の根底にあるもの(上)移民統合政策は失敗したのか?
スウェーデン暴動の根底にあるもの(下)「我々」と「彼ら」の間の深い溝
私がここで書こうとしているのは、ストックホルム郊外での暴動というより、スウェーデンにおける「移民」問題をめぐる、このライターの物の見方だ。ただし、前回2つの私のブログ記事からおそらく伝わっているように、私の問題の捉え方や考えの出発点はこのライターのそれと大きく異なっているため、私が問題と感じる箇所を一つ一つ指摘していけば揚げ足取りと感じる方もおられるかもしれない。よって、根本的な部分のみを取り上げることにする。(とはいえ、かなり長くなってしまったが)
何の前提知識を持たない人や、スウェーデン社会のイメージを持たない人がこのライターの記事を読めば、スウェーデンにおいて「スウェーデン人」対「移民」という構図で社会が二分化し、両者の溝が深まっており、あたかも一触即発、いや闘いが実際に始まっていると理解してしまうかもしれない。しかし、それはあまりに単純化したもの見方であるし、実態に即していない。
【「移民」と一口に言っても実に多様 】
私が前回のブログ記事で書いたように「移民」などと一口に言っても、その実態は多様だ。第二次世界大戦前後のフィンランド、バルト三国などを中心とする戦争難民や戦争孤児(ユダヤ人を含む)の受け入れ。戦後から1970年代までの高度経済成長における主にイタリア、ギリシャ、ユーゴスラヴィアなどの南欧およびフィンランドからの労働移民の受け入れ。1954年のハンガリー動乱や1968年のチェコスロヴァキアの動乱(プラハの春)で国を追われた亡命者・難民の受け入れ。1979年のイラン革命をはじめとする中東での動乱で発生した難民の受け入れ。1970・80年代の南米(チリなど)からの亡命者の受け入れ。1990年代前半のユーゴスラヴィア(ボスニア)内戦で発生した難民(特にムスリムの人々)の受け入れ。1990年代後半のコソボ動乱による難民の受け入れ。2000年代の英米によるイラク侵攻に伴って発生した難民や、内戦が続くソマリアからの難民の受け入れ。アフガニスタンからの難民の受け入れ。そしてちょうど現在は、シリアからの難民がスウェーデンに受け入れられる難民の大部分を占めている。このように、世界中で紛争が発生するたびに多数の難民がスウェーデンに受け入れられてきた。また、彼らの子供(いわゆる移民第二世代)や、すでにスウェーデンで暮らす親族を頼ってスウェーデンへの移り住む人々もいる。
だから「移民」と言っても、スウェーデン語の能力や、スウェーデンにおける(スウェーデンの労働市場に即した)教育の有無、本国における基礎教育の程度、本人のアイデンティティーにおける「スウェーデン」の位置づけなど、様々な側面で大きく異なっているため、スウェーデン社会への統合の程度にしても、抱える問題の程度や内容についても実に多様である。だから、実際は「スウェーデン人」と「移民」という二つに分かれたものというより、連続性のあるスペクトラムと考えるべきであろう。
また、そのような合法的な居住者とは別に、居住許可を持たない不法滞在の外国人もいるし、物乞い目的でスウェーデンに滞在している人もいる。ただ、文化省が2000年にまとめた報告書『移民という概念』によると、一般的に「移民」と言った場合、外国生まれの者のうちスウェーデンにおける居住許可を持ち、スウェーデンで住民登録をしている人のみを指すので、不法滞在者や住民登録をしていない人は含まれない。また、国籍の有無とは別の話であるため、「移民」の中にはスウェーデン国籍を持っている人もたくさんいる一方で、持っていない人もいる。だから、スウェーデンに住む日本人も「移民」である。
以下のグラフに示したスウェーデン中央統計庁の統計によると、2012年の時点において、スウェーデン居住者全体に占める外国生まれの者の割合は15.4%(人数は147万人)である。これが狭義の「移民」であるわけだが、この他に、スウェーデン生まれだが両親が外国生まれの人が4.7%(45万人)、さらにスウェーデン生まれだが親のうち一人が外国生まれの人が7.1%(68万人)おり、全部を合わせて「外国のバックグランドを持つ人」とまとめれば27.2%(260万人)にも達する。(グラフでは経年変化も示したが、データが入手できなかった部分は欠けている)
ちなみにこのライターは、
2011年には、スウェーデン内にいる外国生まれはほぼ140万人、人口の15%を超えている。外国生まれの人と、スウェーデンで生まれているが両親が外国生まれである人を合わせると160万人だ。
と書いているが二つ目の文は正しくない。「スウェーデンで生まれているが両親が外国生まれである人を合わせる」と2011年の時点で186万人である。
最初に示したように、「移民」と区分される人々は多様である。にもかかわらず、その多様性を全く無視して論じようとすれば、白黒をはっきりさせた分かりやすい論評はできても、意味のある分析はできない。(確かに、日本の読者には「我々」「彼ら」の両極性の議論がすんなりと受け入れがちかもしれない。しかし、それは国内では多様なバックグランドを持つ人々に接する機会が少ないからだろう)
このライターも、上に挙げた2つ目のリンク先の記事タイトルに「「我々」と「彼ら」の間の深い溝」という言葉を使っているし、「スウェーデン人と非スウェーデン人の間を隔てる見えないギャップ」とも1つ目のリンク先の記事の最後で書いている。「彼ら」とは「移民」を指しているのだろうが、ここには、上に挙げたすべての人たちが含まれるのだろうか?スウェーデンで生活しながら、様々な背景を持つ人たちと付き合いがある人からすれば、冗談もいい加減にしてほしいと感じられるだろう。また、「非スウェーデン人」とは誰を指しているのだろうか?(既に触れたように、移民の概念と国籍の有無は別個のものである)
面白いことに、そのような単純な論評を展開している人でも、頭のなかでは「移民」をヨーロッパ系と非ヨーロッパ系とに分けて、実際には後者のほうを指して「移民」という言葉を使っていることも多い。つまり、「移民」という一つの用語を用いつつ、実際にはその中での多様性を認めるという自己矛盾に陥っているのである。それならなぜ誤解ばかりを招きやすい用語を用いて、すべてを一纏めにしようとするのだろうか。
仮に何歩か譲って、この筆者は「一般的なスウェーデン人」が現状をどのように捉えているかを客観的に説明するために、「我々」と「彼ら」という両極論を敢えて提示していると理解してあげることも可能であろう。しかし、問題が一般にどのように認識されているのかということと、現実が実際はどうであるかということは必ずしも一致しない。そのことを無視し、同じ両極論に頼ったまま、現実を説明しようとしているために、自分の頭のなかに出来上がった両極論に当てはまる情報しか見えなくなり、ドツボに陥っているように感じる。
その結果として、次のような主張がある。
こうして、移民を際限なく受け入れ続ける社会は分断と疎外を強めていき、両者の溝はますます深まっていく一方だ。
それでは、スウェーデンで生まれ育ち、完璧なスウェーデン語を話す移民2世、3世たちは差別を受けていないと言えるのか。「両者の溝」と言った場合、彼らは、「スウェーデン人側」なのか、「非スウェーデン人側」なのか。
(中略)
口に出さないだけで、皆が分かっている。そしてこれは永遠に繰り返され、終わりはなく、出口もなく、解決策もない。差別の再生産の構造は消えず、すべてはただ繰り返されるだけだ。スウェーデンのシステムは、固定化された国民の自己イメージを再定式化する、低強度の抑圧の絶え間ない論理的な拡張なのだ。
(中略)
スウェーデンで生まれスウェーデンで教育を受け、ほぼ完全なスウェーデン語を話し、ここで結婚し子供を儲け、故国に一歩も足を踏み入れることもないままこの地で死んでいったとしても、彼らはしかし、スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ。
それでは、スウェーデンで生まれ育ち、完璧なスウェーデン語を話す移民2世、3世たちは差別を受けていないと言えるのか。「両者の溝」と言った場合、彼らは、「スウェーデン人側」なのか、「非スウェーデン人側」なのか。
(中略)
口に出さないだけで、皆が分かっている。そしてこれは永遠に繰り返され、終わりはなく、出口もなく、解決策もない。差別の再生産の構造は消えず、すべてはただ繰り返されるだけだ。スウェーデンのシステムは、固定化された国民の自己イメージを再定式化する、低強度の抑圧の絶え間ない論理的な拡張なのだ。
(中略)
スウェーデンで生まれスウェーデンで教育を受け、ほぼ完全なスウェーデン語を話し、ここで結婚し子供を儲け、故国に一歩も足を踏み入れることもないままこの地で死んでいったとしても、彼らはしかし、スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ。
「「両者の溝」と言った場合・・・」の部分で明確に現れていることだが、筆者は二項対立を出発点として、それを前提として話を進めようとし、現実をその二項対立に無理に当てはめようとしている。しかし、実際は上にも示したように「移民」と一口に言っても実に多様である。スウェーデン生まれの移民第二世代の人であれば、スウェーデン語が全く問題ない人も多く、また、教育もスウェーデンで受けているため、彼らと同種の仕事にも就いている人も多くいる。つまり、そもそもの議論の前提が間違っているため、それを元にあれこれと議論しても、的外れな結論しか得られない。
また、このライターの主張は、外国のバックグランドを持つ者はたとえスウェーデン生まれ(移民第二世代)であっても就職が難しく、差別は「再生産」される、ということのようだ。また、Wikipedia日本語版には、彼女の記事を参照しながら「スウェーデンで生まれ育った2世であっても、ホワイトカラーの職に就くことは困難とされる。」などと書かれているわけだが、これはいくらでも反証が可能だ。スウェーデン系ではない名前を持った移民第二世代で、仕事に就いている人を挙げればキリがないし、ホワイトカラーの職種においても政治の世界においても簡単に見つけることができる。また、困難をバネにして成功する人も実際に多いように思う。このことは第二世代だけでなく、幼い時にスウェーデンへ移住し、スウェーデンで教育の大部分を受けてきた第一世代にも、ある程度あてはまる。
では、就業率や就く業種・職種において、両親が共にスウェーデン生まれの人と比べて、全く差がないかというと、やはり違いが残る。就業率は若干低いようだし、所得水準も平均的には低いようだ。この違いは、特に非ヨーロッパ系の親を持つ人に大きい。一つの理由としては家庭環境・親の教育水準が平均的に低いことが挙げられるだろうが、やはり、それ以上に労働市場における雇用差別が問題ではないかと私は思っている。名前や外見を理由にした採用時の差別は、一つの社会問題としてニュースに取り上げられることもある。
ただし、この筆者が「永遠に繰り返され、終わりはなく、出口もなく、解決策もない」などという言葉で表現しているような、全くの暗闇ではない。私は「スウェーデン人」と「非スウェーデン人」などという両極論はスウェーデン社会の現実をうまく表していないと思っている。実際はスウェーデン社会への統合の度合いも全く異なるから、むしろ連続したスペクトラムと捉えるべきであろることは既に述べた。仮に筆者がここで指しているのが、そのスペクトラムの一番端っこの部分だとしても、それなら概念や言葉をきちんと定義した上で用いるべきだ。白か黒かの両極論ですべての物事を評価できると思い込んでいる人は少なからずいる。それはそのように考えたほうが物事を綺麗に言い切った気分になれ、心地が良いからだろう。しかし、実際には白に近いグレーもあるわけだし、黒に近いグレーもあるわけだ。そもそも彼女の用いる「非スウェーデン人」とは何を指しているのだろうか? 文脈からは、スウェーデン国籍を取得した人や移民第二世代を含めた、今はスウェーデン居住者全体の3割近くを占める人々を指しているように理解できるが、もしそうならば私は彼女の差別意識をこの表現に感じてしまう。
さらに、この部分の問題点をもう一つ指摘するならば、教育者としての物の見方だろう。この筆者は高校で教員をしているようだが、彼女のこの文章から読み取れるのは、移民にはそれが二世であろうと全てに希望がないという主張である。これは既に私が述べたように現実のごく極端な部分を切り取っただけの表現であり事実に即していないだけでなく、私が思うに、そのような認識しか持てないのであれば、若者それぞれの持つ潜在的な能力を引き伸ばしてやることを職務とする教育者としては失格であろう。
【 中期的な変化 】
私は移民第一世代、つまり、外国生まれで大人になってからスウェーデンに受け入れられる難民やその家族は、今後も苦労はするだろうと思っている。これは仕方がない。労働市場における差別以前の問題として、スウェーデン語の能力の欠如や、スウェーデンの労働市場に即した技能や教育がなく、仕事に就くのが難しいからである。また、戦争・紛争によって心に傷を負った人々もいる。だから、課題が山積みなのはむしろ当然であり、それが移民・難民を引き受ける国にとってのスタートポイントと考えるべきであろう。
もちろん、スウェーデン政府は外国生まれの住民に対して無償でスウェーデン語教育を提供するし、それを乗り越えれば、高校レベルの職業教育や大学教育にも門戸が開けるため、努力する人は自分で道を切り開いていくだろうが、やはり、中年以上でスウェーデンにやってくればそれも難しくなる。だから、低技能でも就ける仕事の確保が重要になってくる。スウェーデンでは、バスやタクシーのドライバーや、オフィスやホテルの掃除係として移民第一世代の人が働いているケースが多い。これを何かネガティブのこととして捉える外国からの旅行客もおられるが、私は非常に良いことだと思っている。仕事に就いて稼ぎを得ることは自活の基本だからだ。ちなみに、スウェーデンでは日本における外国人研修生のように、外国人・外国生まれだからということで他の人より賃金が低く抑えられるような制度はない。同じ職であれば、だれが働こうが原則として労使間の団体協約で定められた賃金が支払われる(建設業や林業など、それが必ずしも適用されない業種はあるが、難民として受け入れられた人が建設業・林業で働くケースは稀であるためここでは無視する)。
私の関心事は、移民第二世代のスウェーデン社会への統合である。私は今後20~30年くらいを視野に入れた中期的には楽観視している。先ほど書いたように、現時点では就業率、所得水準ともにスウェーデン生まれの親を持つ人と比べると少し低い。しかし、一番最初の統計で示したように、外国生まれの移民第一世代が15.4%、そして少なくとも片方の親が外国生まれである移民第二世代も加えれば、外国のバックグランドを持つ人の割合は居住者全体の3割近くに達する。そして、この割合は今後も上昇していくであろう。すでに書いたように、移民第二世代の中には、スウェーデン人を親に持つ若者と同じように就業している人もたくさんおり、その数も増えていく。そうすれば、企業の管理職や人事担当にもそういう人が就いていくため、他の能力が同じという条件のもとでは、外国人だからという理由で差別するケースも少なくなっていくであろう。もちろん、何も対策が必要ない、と考えているわけではないが。
【アイデンティティーについて】
上記の引用箇所におけるこのライターのもう一つの主張は、外国のバックグランドを持つ者は「スウェーデン人」か「非スウェーデン人」かのどちらかにも属せないので、アイデンティティーの面で大きな問題を抱え、抑圧や疎外感を日常的に感じることになり、社会的な軋轢、そして暴動へとつながっていくという主張だ。しかも、移民は決して「スウェーデン人」にはなれないということが引用部分の最後のパラグラフから理解できるが、果たしてそうだろうか?
民族・国籍に基づくアイデンティティーは確かに、個人のアイデンティティーを形成する要素の一つであり、人によってはそれが大きな割合を占めることもあるだろう。そして、その欠如が大きな影を落とすこともある。例えば、外国生まれの両親を持ちながらヨーロッパの国で生まれ育った若者が、成長の段階でアイデンティティー形成に失敗し、自らのアイデンティティーの拠り所をイスラム過激主義に求め、生まれ育った国でテロを起こすという事件がスウェーデンをはじめ西ヨーロッパでは起きている。しかし、稀なケースである。
重要なのは、個人のアイデンティティーは民族・国籍だけでなく、家族や学歴、言語、仕事、友人など非常に多様な要素からなっている、ということだ。しかも、多重でもあり、「スウェーデン」というアイデンティティーと、例えば「エジプト」というアイデンティティーを共に持つこともありうる。人によっては、自分の持つ幸せな家族というアイデンティティーや、難しい教育の末に就いたやりがいのある仕事というアイデンティティーが日々の生活の中でより重要な意味を持つ人もいる。そうなると、民族・国籍アイデンティティーはそれほど大きな意味を持たなくなる。私自身の生活を振り返ってみてもそう感じるのだが、実際、多くの人はそのような多重で多様なアイデンティティーの中でやりくりしながら生活しているのではないだろうか?
だから、このライターが考えているように、民族・国籍アイデンティティーが個人にとって絶対的な意味を持ち、その欠如が日常的な抑圧や疎外感をもたらし、社会不安へと繋がっていく、という決定論的な考え方には同意しかねる。おそらく、彼女にとっては「日本人」というアイデンティティーが日常生活の中でとても重要な意味を持っているのだと文章から感じられるが、それは誰にでも当てはまる普遍的なものではないだろう。
また、このライターによると、外国のバックグランドを持つ者は「スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ」ということだが、果たしてそうか? ライター自身も記事で触れているように、そういう人でも「スウェーデン人」だと自ら主張するケースもある。私自身も、スウェーデンで十数年生活し、スウェーデン人と同じように仕事をし、スウェーデンのニュースに日々触れ、時事問題をスウェーデン語で議論するという生活を送っているうちに、「スウェーデン」という要素も私にとっては自らのアイデンティティーの重要な位置を占めるようになってきた。アイデンティティーは多層的だ。
もちろん、自らが「思い込んでいる」アイデンティティーがその人の中で強固なものとなるためには、それが他者から認識されなければならない。自分がそう思っていても、周りからそう見てもらえない、というギャップがある場合、問題が生ずる。しかし、既に書いたように今ではスウェーデン人の実に3割近くが外国のバックグラウンドを持つようになるに至り、外見だけで他人から「非スウェーデン人」と認識されるケースはますます減っていくであろう。そもそも、外見から「あの人はどこの人だろう?」といちいち考えるスウェーデン人は、日本人が考えているほど多くはないと私は感じている。そんなことを気にすら留めない人も多いと思う。
余談だが、スウェーデンには70年代以降、外国で生まれた子がスウェーデン人の里親に引き取られる国際養子が一般的に行われてきた。多くの場合、生後数週間で里親へ引き取られ、その後、スウェーデン人として育てられるため、文化的には全くスウェーデン人である。名前もスウェーデン系のものだ。ただし、出生国は韓国、ベトナム、インド、中国などのアジアや、アフリカ、南米などであるため、外見はスウェーデンの大多数とは異なる。
彼らの成長については様々な記録や分析があり、自分の「スウェーデン人」というアイデンティティーと外見とのギャップに悩まされた人も多いようだ。実際、思春期の自殺率はそれ以外のスウェーデン人よりも少し高いことが明らかになっている。それは想像に難くないことであり、だからこそ、国際養子を仲介するNPOは里親になるスウェーデン人夫婦には十分な情報提供や指導を行うほか、悩み相談に乗ったりするようだし、里親同士のネットワークもある。また、養子となった若者自身のネットワークもあるようだ。そのように当事者同士の助け合いもあることは当然ながら、スウェーデン社会そのものも国際養子の数が増えるにつれて、自然に変わってきたことは明白である。つまり、一般の人が外見の異なる子供を町で見かけても、変わった目で見なくなるようになっていく、ということだ。もちろん、最初の頃は一般の人々もどう対応すればよいのか戸惑っただろうし、自分の意識を口にする人もいただろうが、外見がたとえアジア系であれインド系であれアフリカ系であれ、そういうスウェーデン人がいる、という事実が一般的に広まってくるにつれ、状況は当初とは変わってきたであろう。もちろん、今でも心のなかでは外見の違う子供を気にする人はいるかもしれないが、それを差別的な言葉や態度として表さないことは、差別をなくしていくことの第一歩としてとても重要なことである。そういう状況が1970年代以降、ずっと続いてきたわけであり、そもそも外見の違いすら、ほとんど気にしない、気にならないというスウェーデン人はたくさんいる。
私も日々の生活で、国際養子の若者とは頻繁に出会う。寮生活をしていた時も同じ寮に中国から引き取られた男の子が住んでいた(名前は当然ながらスウェーデン系)し、一緒に勉強したクラスメイトにも何人かいた。私は今は大学で教えているが50人に1人か2人という割合で国際養子の学生がいる。実は私と一番付き合いの長いスウェーデン人の友人は、京都大学に交換留学に来ていた男の子で、韓国からの養子だ。彼はスウェーデン人の両親(里親)の愛情にしっかり育てられたおかげか、スポーツと勉学で良い成績を収め、今では特定分野におけるスウェーデン有数の法律専門家だ。子供もおり、幸せな家庭を築いている。ただ、彼も成長の段階では苦労したようだ。また、別の養子の若者で、スウェーデン人としてのアイデンティティーを持ちながらも、自分のルーツに興味を持ち、その国の言葉(たとえば韓国語)を学んだり、その国に留学に行ったりしている人もいる。
このような国際養子の子供たちは、このライターの目には「スウェーデン人」と「非スウェーデン人」のどちらに映るのだろうか? こういう例を考えるにつけ、私は「スウェーデン人」と「移民」などという区別がいかに馬鹿げたものかと改めて感じる。彼らを指して果たして「彼らはしかし、スウェーデン人にとっては永遠に「外国人」であり「他者」なのだ」などと言えるのだろうか。言い切ることが出来る自信があるのだろうか。彼らはアイデンティティーに伴う苦難を、様々な形で乗り越えようとしているし、実際に乗り越えてきている。もちろん、その苦難は私などの非当事者の想像を超えるかもしれないし、乗り越えられなかった人もいることは事実だが、このライターが描いているような、全てが真っ暗で将来も希望もないというものでも「終わりはなく、出口もなく、解決策もない」などと決めつけられるものでもない。このことは、移民第二世代の若者にも当てはまるものだと私は考えている。「終わりはなく、出口もなく、解決策もない」など簡単に結論づけることは、言われなき差別と戦ってきた人たちや、差別をなくす努力をしてきた人たちに対する冒涜そのものではないだろうか。
【 警察について 】
このように外見は他の多数のスウェーデン人とは異なるが、それでもスウェーデン人という人は、人口のより大きな部分を占めるようになっているし、今後も増え続けていくだろう。少なくとも減ることはない。だから、外見だけでスウェーデン人かそうでないかを見分けるのは今や困難だ。
だからこそ、不法滞在者(正当なビザを持たない外国人や、難民申請をしが却下された人など)の摘発のために、路上通行人を外見で判断したうえで不法滞在者でないかを調べるという取り締りを警察が一時期、採用したことは時代錯誤も甚だしい(批判が容易に想定されるこのような手を使うことをなぜ敢えて決定したのか。何かもっともな理由があるのか。これは詳しく調べてみる必要がある)。また、警察がたとえば教習や訓練で、外国のバックグランドを持つスウェーデン人に対して差別的な表現を使ったことは、私も大きな怒りを感じるし、理解できない。Jonas Hassen Khemiriという作家が法務大臣に抗議の手紙をメディアを通じて送ったことはこのライターも書いているように、国中を巻き込む大きな反響を呼んだ。つまり、スウェーデン人の多くもそれがいかに不当なものか、憤りを感じたわけであり、警察の態度が多くの国民に支持されているわけではないことは強調しておきたい。
(ただし、同じライターによる「移民大国スウェーデンの「移民狩り」」と題した記事には問題点も多い。いきなり冒頭において「マルメ・コミューンはスウェーデン国内でも一番外国人が多い地域で、住民の3分の1は外国で生まれており、10%は両親の少なくとも一方が外国出自だ」とあるが、外国人であることと外国生まれであることを区別していない。これは同義ではない。また「ローゼンゴード」という地名も読み方がおかしい。正しくは「ローセンゴード」だ。しかし、一番致命的な点は、不法滞在者の取り締まりを安易に「移民排斥」と結びつけている点である。不法滞在者はあくまで正当なビザを持たない外国人や、難民申請をしたものの却下された人などを指しており、彼らに対する取り締まりを移民排斥とは通常は呼ばない。また、正当なビザや居住許可を持っている限り、国から追い出されることはない。この取り締まりでの問題点はそうではなく、外見によってチェックしようとしたことである。)
また、警察による69歳男性の射殺事件であるが、この事件をもって、警察がこの地区の住民に対して差別意識を持っていたと結論づけるのは時期尚早であろう。なぜ至近距離で発砲したのかについては、警察内の独立した組織による調査が行われているため、それを待ちたい。
さらに、2つ前のブログ記事で既に私が書いたように、警察とフースビーなどの地域住民との対立を必要以上に煽っているのは地元の一つの団体「メガフォーネン」である。この団体は極左的な政治的立場を明確にした団体であり、その地域の若者の声を代表しているわけではない。彼らによる、対立を煽るような問題の捉え方や主張に対しては、地域住民を含め様々な批判が挙げられている。このライターはこの団体の声明をそのまま自らの主張の根拠に用いているが、彼らの主張を文字通りに受け取るべきではない。
【 その他の問題点 】
以下、あの記事の問題点の中でも、とりわけ私が疑問に感じる点をいくつか挙げる。
いずれ自国に戻った時に困ることがないようにと、母国語教育も行っている。
これは、事実の明らかな誤認である。スウェーデン語以外の言語を家庭で用いている生徒に対して、学校教育で母国語教育を行うのは一義的には母国語の能力を高めることであるが、それを公教育の中で行う目的は、母国語の能力向上がスウェーデン語の習得のほか学校教育の他の科目の学習に有益であるとともに、子供に安定した民族的アイデンティティーを培ってほしいからである(母国語教育の現行制度を決定したスウェーデン議会・文部委員会答申より)。「いずれ自国に戻った時に困ることがないように」とは一言も書かれていない。
そのうちの1つ、「JÄRVALYFTET(ヤルバリフト)」と呼ばれるプロジェクトは、ストックホルム北西部のヒュースビーとその近隣地区に数十億の予算を投資し、雇用を創出して移民を引きつけ、地域を成長のエンジンにするという壮大なプロジェクトだ。
が、同地区の失業率は依然として他の地域の2倍になっており、プロジェクトが開始した2007年時より上昇している。学校の状況も悪化した。地価は最大で65%上昇している。
移民を引きつけるどころか、高所得の住民に対して魅力的に地区が改善されただけで、結局元からの住民を追い出す結果を招いている。このプロジェクトは住民の期待に沿うどころか、その反対の効果をもたらし、さらに都市の分断化を進めたのだ*4。
が、同地区の失業率は依然として他の地域の2倍になっており、プロジェクトが開始した2007年時より上昇している。学校の状況も悪化した。地価は最大で65%上昇している。
移民を引きつけるどころか、高所得の住民に対して魅力的に地区が改善されただけで、結局元からの住民を追い出す結果を招いている。このプロジェクトは住民の期待に沿うどころか、その反対の効果をもたらし、さらに都市の分断化を進めたのだ*4。
大失敗に終わったというこのプロジェクトの詳細を見ようと脚注*4のリンクを見てみたが、そこにあるはストックホルム市によるプロジェクトの紹介ページであり、地価が上昇したのだの、学校の状況が悪化したのだの、住民が追い出されたのだのという記述はない。その根拠があたかも脚注*4にあり、正当な情報に基づいているかのように印象づけようとする、このような引用の仕方は間違っている。このようなことは、大学の学部課程やそれ以前で教わることである。さらに言えば、失業率の比較にしても、リーマンショック以前の好景気の真っ只中であった2007年と、リーマンショックの起きた2008年以降ではスウェーデンも失業率の水準が全国的に異なる。だから、そのプロジェクトに効果があったのか無かったのかは、プロジェクト開始前と開始後の失業率の単純比較だけでは評価できない。私は何も、統計的処理をきちんと行えなどとこの記事のライターに対して言うつもりはないが、少なくとも単純比較が難しく誤解を与える余地があることを頭の片隅にでも置いて、短絡的な結論の導出を避けるという気配りはすべきだということは要求したいと思う。この筆者がジャーナリストを名乗り、学歴にジャーナリズムを挙げているのであれば、なおさらである。
このプロジェクトは、このライターが述べているように、もしかしたら失敗に終わったのかもしれない。私は詳しい情報を目にしていないので、いかんとも評価できない。しかし、このライターの記事のこの箇所の根本的な問題点はそんなことではない。私が一つ前のブログ記事で書いたように、失業率が高かったり、基礎教育・高校教育で問題を抱える若者が多かったりする地区では、問題改善のために様々な取り組みが行われている。地域のユースセンターを中心とした取り組みも活発に行われている。そのような数あるプロジェクトを、たった一つのプロジェクトによって総括できるわけではないだろう。
2012年の高等教育を受けた外国人の失業率は12%、スウェーデン人の失業率は3.5%である。
このような比較も留保が必要だ。高等教育を受けたとはいえ、それが比較対象となっているスウェーデン人のものと同等であるかどうかが明らかでないし、それ以外の点、たとえば、就業のために必要なスウェーデン語の能力が同等かも分からない。(それに、既に指摘したように、この筆者はここでも外国人と外国生まれを混同しているようである。移民に区分される人には、スウェーデン国籍を取得した人もたくさん含まれているため「外国人」という表現は正しくない。)
1998年10月、第2都市ヨテボリで、移民の少年らが満員のディスコの出口で火の付いた新聞紙を放置したことにより大火災を招いた。この時、逃げ場を失った63人の若者が焼死し、数百人が障害を負っている
このライターは「数年おきに発生する移民がらみの大事件」の一つの例として、この事件を挙げている。たしかに、この事件は私の住んでいるヨーテボリで起きた悲惨な事件で、多くの人々の記憶にいつまでも残る出来事ではあったが、パーティーにおいて入場を断られた若者と開催者側の若者との喧嘩から発展した放火事件であり、彼らが移民であったこととは直接関係ない。一緒に並べられている、都市郊外で発生した暴動とも性質が異なる。しかも、加害者・被害者ともに多くは外国バックグランドを持つ若者であるため、ライターがここで展開しようとしている「「我々」と「彼ら」の間の深い溝」という論旨にもそぐわないものである。むしろ、移民は問題ばかり引き起こす、という印象づけがライターの意図であるように感じる。(どうでも良いことかもしれないが「障害」ではなく「傷害」であろう)
スウェーデンのシステムは、よく言われることだが、福祉依存の罠にはまり、労働市場に参入するのが困難で、社会への統合を妨げる要因になっている。
(中略)
若い移民がなかなか仕事に就けず、これが反社会的な行為を促すきっかけになる。
(中略)
至れり尽くせりの移民保護政策が、自立を阻害し
(中略)
若い移民がなかなか仕事に就けず、これが反社会的な行為を促すきっかけになる。
(中略)
至れり尽くせりの移民保護政策が、自立を阻害し
では、どうすべきだとこのライターは言いたいのだろうか? 福祉依存を取り除こうと思えば一つの方法は福祉(社会的給付)の削減や条件の厳格化であろう。実際、2006年の政権交代後の中道保守政権によって社会的給付は厳格化されてきた。そして、それが格差の拡大につながってきたとも指摘されている。社会的給付などの「至れり尽くせり」の支援を減らすことが、果たして受け入れた難民の自立を促進するとでも考えているのであろうか?
また、このライターが「スウェーデンのシステム」と呼んでいるものが不明である。であるから、多くの日本の読者は一般的なスウェーデンに対するイメージである「高福祉・福祉国家」の帰結として、「福祉依存の罠」や「自立を阻害」という状況になっていると短絡的にイメージしかねないだろう。良心的に理解しようとすれば、ここで彼女が言おうとしている「スウェーデンのシステム」とは、就業経験のない、もしくは浅い若者や低技能の労働力の賃金が比較的高いということであり、結果としてそのような労働力に対する労働需要が抑制されがちで、彼らの就業機会を奪っている、ということかもしれない。たしかにそうだが、状況は数年前とは随分変わってきた。いくつかの雇用支援金や社会保険料の軽減措置により若者を雇った際の企業にとっての実質的な労働コストは以前よりもかなり低くなっている。スウェーデンの労働市場のもう一つの問題点は、教育と労働市場のミスマッチであり、高校の職業教育の強化など、その改善策はいろいろと議論されている。いずれにしろ、解決のためには様々な支援が必要ではあっても、それが必要ないということはないだろう。
個人的な関心としては、このライターが指摘している「スウェーデンのシステム」というものに対し、他のヨーロッパの国々ではどのようにして、受け入れた難民の自立支援、就業支援をしているのかということである。忘れてはならないのは、受け入れられた直後の難民の状況というのは、その国の言葉ができない、その国で働くのに必要な能力を持たない、また、人によっては初等教育すら母国で受けていない、という状態であり、彼らを経済的に自立させるのは容易なことではない。どの国も頭を悩ませていることだろうし、政策的なアプローチにも違いがあるだろう。どういった政策がより効果的なのか、などの比較研究を見てみたい。
【 最大の疑問点 】
こうして、カネを出して移民を庇護するスウェーデン人は、貧しく汚く、命からがら逃げてきたかわいそうな移民・難民をますます彼岸の彼方に追いやり、惨めな存在に仕立て上げていく。こうして、移民を際限なく受け入れ続ける社会は分断と疎外を強めていき、両者の溝はますます深まっていく一方だ。
私がこのライターの記事に対して、最も大きな憤りを感じたのがこの箇所である。まず、なぜ「カネ」だとか、「貧しく汚く」、「かわいそうな移民・難民」などとというネガティブな評価を含んだ表現を敢えて使う必要があるのか私には理解できない。ライター自身の偏見の露出なのか、それともセンセーショナルな言葉を使って、読者の感情を煽り立て、特定の方向に誘導したいからなのか。
(同様の煽りは、「2012年初めにニュースビーゴードスクールは、280台の「iPad(アイパッド)」を生徒に配っている。もちろんスウェーデン内の大多数の生徒たちはこんな贅沢なものは持っていない」という記述部分に見られる妬みの感情や、「来月はどうやって行政からカネを取るか・・・ ということしか考えていないように見える人たちにイライラしている」という記述にも伺える。この筆者は一般的なスウェーデン人の考えを客観的に書いているつもりだろうが、私はむしろ筆者自身の偏見意識・差別感情が露呈しているように思われてならない。)
しかし、それよりもより大きな怒りを感じたのは上記の引用部分にある「移民・難民をますます彼岸の彼方に追いやり、惨めな存在に仕立て上げていく」という箇所である。ライター自身も書いているように、スウェーデンで難民認定を受けた人はこの国に達するまでに動乱・戦乱など命の危険に晒されていた。私はボスニア難民の方とは縁があり、たくさんの知り合いがいるが、ボスニア内戦時の彼らの体験はそれぞれに凄まじいものだ。「命からがら」という言葉以外に表現のしようがない人もいる。では、今の状況がたとえ失業中であったり、生活保護の給付を受けているという状況であったとしても、それ以前の状況と比べた場合に「ますます彼岸の彼方に追いやり、惨めな存在に仕立て上げていく」などと果たして断定できるものなのだろうか。このライターにはそこまで想像力が働くのだろうか。では、戦乱から逃れてきた彼らにとって、どういう選択をすべきだったのだろうか? 彼らを受け入れたスウェーデンは、代わりにどうすれば良かったと言うのだろうか?
【 お客様の視点 】
では、彼らはどうすべきだったのだろうか? では、私たちはどうすべきだったのだろうか? いま、何をすべきなのだろか?という疑問を、このライターの記事を読みながら何度も感じた。このライターにとって、スウェーデンの社会で起きている様々な出来事や、メディアを中心に常に沸き起こっている様々な議論は、結局は人ごとでしか無いのだろう。
敢えて引用する必要もないかもしれないが、それがはっきりと分かる箇所を抜粋しておく。
おそらく私自身がスウェーデン人がウザく感じるほどの近距離に近づかないからだ。彼らは私を、無害な外国人として放置している。
(中略)
私自身もスウェーデン・コミュニティの中に、排除されて傷つくほどの内部まで割り込もうとはしない。私は『彼ら』の一員ではなく、彼らにとって私は『他者』だ。万が一排除されて傷つくようなことがあったとしても、全然平気だ。スウェーデン語がいつまでたっても上達しなくても、どうということはない。「だって私、日本人だもーん」
(中略)
私自身もスウェーデン・コミュニティの中に、排除されて傷つくほどの内部まで割り込もうとはしない。私は『彼ら』の一員ではなく、彼らにとって私は『他者』だ。万が一排除されて傷つくようなことがあったとしても、全然平気だ。スウェーデン語がいつまでたっても上達しなくても、どうということはない。「だって私、日本人だもーん」
それぞれの社会現象や社会問題には、それぞれの文脈がある。ある状況に至るまでにはそれ以前の経過があり、人々の行動や選択がある。そして、その行動や選択は、それぞれの個人が置かれたそれぞれの状況の結果でもある。つまり、どうして今の状況があるかをきちんと理解して意味のあることを言うためには、そもそもの出発点がどうであったかをまず理解して、その後の過程でどのような選択肢を取り得たのか、取り得なかったのか、を考えていく必要があると思う。私は何も研究者になれ、などと言っているのではない。当事者の立場にたって問題を共有しようと努めなければ、責任のあることは何一つ言えない、と言いたいのである。
私が日々の生活の中で感じるのは、私自身もこの社会の立派な一員だと思っている。生活の中で気に入っていることもあれば、気に入らないことももちろんたくさんある。そのようなことを、日々、友人や同僚たちと議論しているし、どうすればこの社会や世の中をより良く変えていけるのか、そして、どうやったらこの社会の良いところを日本の社会を良くしていくために活かせるのか、ということを意識的に考えている。偉そうな書き方かもしれないが、この点が、自らを自発的に「他人」と位置づけているこのライターとの根本的な違いなのだと思う。
このライターのような「お客様」の視点から一つの社会を論じることに意味がないとは思わないが、それではスタジアムの観客席からはるか下方のグランドでプレーしている選手を観戦し、批評しているのと変わらず、責任のあることは何も言えない。別にそれはそれで良いとは思うし、人の自由だが、そういう視点で論じられるスウェーデン像ばかりが、本当のスウェーデン像だと勘違いされてほしくないと私は思う。そのために、この長い文章を書いてきた。
スウェーデン国内において時事問題として騒がれている事柄について、その内容をその社会を知らない人に誤解のないように伝えることは非常に苦労することである。よく分かっていない人は、受け取った情報を自分の持つステレオタイプに当てはめて解釈しようとするだろう。何と比較して物を言うかによっても、全く異なる印象を与えることになる。情報というものはすべてオープンであれば良い、というのは正論だが、実際には伝え手のものの見方や偏見、情報の取捨選択が、伝えられる情報そのものに色をつけている。だから、ジャーナリズムを仕事とする人は、バランス感覚を身につけていなければならないわけだが、そのような覚悟や責任感が、ジャーナリズムを学んだというこのライターにあるとは私は残念ながら思えない。
最後に、この文章を書くにあたって、スウェーデンに住む日本人の友人数人と意見交換をさせて頂きました。中には、様々なバックグランドを持つ若者に活動を提供しているユースセンターに詳しい方もおられました。改めて名前は挙げませんが、お礼を申し上げます。
(了)
P.S. 本文中で触れたように、Wikipedia日本語版の「スウェーデン」の項目には、彼女の記事を参考にした記述があるが、感情的でセンセーショナルな記事であるばかりか、間違った記述も見られるので、削除すべきではないかと思う。同じように感じた方がおられたら、そのように提案してください。
Wikipedia日本語版の「スウェーデン」の項目には、彼女の記事を参考にした記述を削除すべき、と言う意見に同意します。
JBPressのジャーナリストの記事は、スウェーデン移民と言う部分に余りにも無知で感情的であると思われる。
「ジャーナリズムを仕事とする人は、バランス感覚を身につけていなければならないわけだが、そのような覚悟や責任感が、ジャーナリズムを学んだというこのライターにあるとは私は残念ながら思えない。」同感です。