後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「旅立ってしまった親友、近藤君の思い出」

2024年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
3年前に亡くなった近藤達男君は仙台の大学時代の同級生でした。何事にも情熱的で夢多いロマンチストでした。大学の赤レンガの建物の屋上で私が撮った近藤君の学生服の姿の写真を思い出します。
やがて卒業し就職しました。東海村の日本原子力研究所で金属の腐食の研究を始めました。私は何度か東海村の近藤君の所に遊びに行きました。新婚だった彼の家に泊ったこともありました。 
1番目の写真は東海村の原子力研究所の現在の風景です。原子力研究所は昭和31年6月に発足しました。発足当時は小さな研究所が茨城県の農村にポツンとありました。
私は昭和34年に2週間の原子力研究所の研修に参加しいました。原子力発電機の運転を体験したのです。近藤君の実家は千葉県の飯岡にありました。私はそこへも遊びに行きました。
2番目の写真は千葉県の飯岡の現在の風景です。
日本原子力研究所で働いている時、オハイオ州立大学へ近藤君も留学するように誘ったのです。彼は素直に奥さんと共にオハイオに来ました。3年後に夫婦そろってて博士号を取りました。その後は東海村の研究所で生涯を過ごしたのです。
我が家にも泊まりに来てくれました。旧友と学生時代の話をしながら酌み交わした酒はしみじみ美味しかったのを思い出しています。
定年後、近藤君は霞ヶ浦の私のヨットに何度か遊びに来ました。水戸から特急に乗ってやって来たのです。
3番目の写真は近藤君と霞ヶ浦でセイリングした時の写真です。今から20年ほど前でした。
夜は近藤君とヨットの中でビールを飲みました。その時彼が、「こんな面白いものに仙台時代の同級生も誘ったら良い」と言うのです。私は昔の同級生をよびました。近藤君を含めて同級生が6人来ました。霞ヶ浦でセイリングを楽しみました。その後、ヨットの中で飲みました。夜は皆は土浦駅前のホテルに泊まりました。
この時参加した星野君も大友君もその後旅立ってしまいました。
近藤君は研究所を止めてからも元気でした。畑でいろいろな野菜を作り宅急便で送って来ました。新鮮な野菜は美味しいと分ったのは近藤君のお陰です。
彼は原子力発電は重要な技術だから止めるべきではないという講演をあちこちでしていました。
彼の意見を掲載した新聞をご紹介します。銚子市文化講演会の様子を報じた新聞記事です。

4番目の写真は近藤君の主張を掲載した新聞の誌面の写真です。新聞は銚子市に古くからある新聞、「大衆日報」です。その2011年8月3日の紙面の写真です。
新聞の見出しを見ただけで彼の気持ちが痛いほど分かります。非常に数多くの研究者が一生を捧げて築いてきた日本の原子力利用の技術をムザムザ捨てても良いのですか?それは技術立国しようと、えいえいとして努力して来た日本にとっては取り返しのつかない禍根になりませんか?原発からの撤退でなく、より安全な原発を開発すべきではないでしょうか?というような主張です。銚子市の新聞、「大衆日報」がそのように報じてくれたのです。
近藤君は最後まで情熱家でした。ロマンチストでした。私の人生を豊かにしてくれた親友でした。

仙台の大学の同級生は30人でした。近藤君も含めて10人以上が旅立ってしまいました。大学時代の彼等の若い元気な顔を思い出します。楽しかった場面をいろいろ思い出します。老境の悲しみでもあり楽しみでもあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 

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