後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

東京の秘境、檜原村を訪れる

2015年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
小笠原諸島や伊豆諸島は東京都に所属していて幾つかの村に別れています。
しかし本州側の東京都にはたった一つの村しかありません。その村は檜原村でよく東京の秘境と言われています。多摩川の支流の秋川の上流にある村です。
そこには険しい山々に囲まれて、幾つかの集落があります。数馬、人里、本宿、神戸、藤倉、柏木野などの集落です。すべて谷間の僅かの平地に散在しています。
その集落まで行く自動車道路は深い緑に覆われた坂道です。兎に角、車で上げれるので根気よくドライブすれば行き着けます。
その谷間の集落から、さらに尾根に登った山の斜面に家が一軒、二軒と散らばってあるのです。その尾根上の家々へは車道がついていないので徒歩で登るか、よくミカン畑で使っている小さなモノレールに乗って行きます。健脚でなければ行き着けない天空の秘境です。
昨日は村役場のある本宿から北秋川に入り12Kmほど車で登って藤倉という集落まで行きました。そこで車を停めて周辺を歩き、どうにかして尾根の上の家まで車で上げれないかと調べてみました。そうしたら山の上に「小林家住宅」という重要文化財があり、その下の駐車場まで車で行けることが判りました。
行き着くと小さなモノレールがついています。急斜面を登っている玩具のようなモノレールは危なげに見えます。怖いので乗らずにさらに上の方に続いている林道を車で登りました。
そうしたらかなり大きな家が斜面にしがみ付くように建っています。ガレージには車が見えます。そこで写真を撮って、昨日の冒険の旅の終わりとしました。
秘境、檜原村で昨日撮った写真を示します。

上は藤倉集落から林道を登り尾根筋に出たところから見た山々です。

上は藤倉に行く途中にある神戸岩です。観光地になっています。

上は林道の上にある山の上の住宅です。

上も下も山の斜面にある住宅です。

そして下は檜原村で使われているモノレールの写真です。出典は、http://www.kitamura.jp/photo/repairer/2010/re510.html です。

この檜原村も過疎化が進んでいます。
1970年に5000人以上いた村民が現在は2300人以下になっています。
車で走っていると多くの家々が廃屋になっています。勝手な感傷ですが悲しい光景です。
しかし江戸時代の檜原村は幕府の天領として江戸へ貴重な材木を送り出していたのです。木炭も多量に産出していました。
それが1970年代になると経済の高度成長が始まり、外国から木材が安く輸入さ檜原村の林業は消えてしまいました。その上、石油や天然ガスが大量に輸入され木炭は誰も使わなくなったのです。炭焼き釜も無くなりました。
こうして昔の檜原村の繁栄ぶりが消えてしまったのです。
仕方が無い運命とは知りながら、やはり悲しいものです。そんなことを感じさせる小さな旅でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=========
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E5%8E%9F%E6%9D%91
檜原村(ひのはらむら)は、東京都の多摩地域西部にある村である。島嶼(とうしょ)部を除いた東京都の本州における唯一の村。あきる野市への通勤率は15.5%(平成22年国勢調査)。
村域のほとんどが関東山地の中にあり、多摩川の支流である秋川上流の周辺に集落がある。標高が最も低い地点は、あきる野市との境界線になっている下元郷(しももとごう)の中山沢が秋川へ流入する地点で海抜224.5m、標高が最も高い地点は、三頭山頂の1531mで、村域の9割以上が森林である。中央高地式気候に属し、冬の寒さは都心と比べて厳しく、払沢(ほっさわ)の滝が凍結するほどである。雪の量も都心と比べて多くなるため、路面凍結や集落の孤立などの雪害が発生しやすい。
北秋川と南秋川が合流して秋川となる付近を本宿(もとしゅく)と言い、ここが村役場がある中心部である。ここから下流に向けて上元郷、下元郷の地域がある。都道33号檜原街道がこれに沿う。
北秋川に沿って都道205号が通っており、少し遡った所で払沢(ほっさわ)の滝への歩道が分かれる。以後、千足、三都郷(みつご)、神戸(かのと)、小沢、樋里(ひざと)、笹久保、藤原、中俎、倉掛(くらかけ)の地域がある。
北秋川に沿って都道205号が通っており、少し遡った所で払沢(ほっさわ)の滝への歩道が分かれる。以後、千足、三都郷(みつご)、神戸(かのと)、小沢、樋里(ひざと)、笹久保、藤原、中俎、倉掛(くらかけ)の地域がある。
南秋川に沿っては都道33号が沿う。笹平、南郷と遡り、上川乗で都道33号が南秋川から離れて甲武トンネルを経て上野原市(旧上野原町)に向かう。以後川に沿う道は都道206号となり(通称は依然檜原街道)、和田、人里(へんぼり)、笛吹(うずしき)、数馬(かずま)の地域がある。数馬から奥の道路は奥多摩周遊道路となり、奥多摩町の奥多摩湖へ通ずる。
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戦後の日本人に自虐史観を生んだ複雑な原因

2015年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来一度も挫折したことの無かった大日本帝国が1945年8月15日に瓦解しました。日本人は茫然とし、自信を失い、やがて何故そうなったのかを考え出しました。それは人間の自然な心情です。朝鮮を合併し、中国を侵略し、南洋にあった欧米の植民地を占領したことを後悔するのも自然な心情です。
この自然な考え方が最近急に、「自虐史観」であり間違った考え方だと言う人々が増えてきたのです。
さてそれでは武力行使の純粋な反省がどのような経緯でなされて来たのでしょうか?
そして最近何故、その反省が自虐的だと批判されるようになって来た原因は何でしょうか?
日本人の突き詰めた反省は以下のような2つの大きな原因があるのではないかと想像出来ます。
一つはアメリカ占領軍が軍国主義を抹殺するような学校教育を指導したことです。私は墨を塗った教科書を忘れません。
その意図は、日本人がアジア諸国を侵略したのは絶対的な悪として教育しようとしたのです。
二つ目は共産主義の影響を受けた日教組が学校教育の現場を支配し、戦前の日本の武力侵略を非難する教育を行ったことでしょう。
いわゆる自虐的な考え方が社会に定着するには以上の2つ以外にも種々の原因や背景があるのが自然です。そしていつの世にも違った考えを持つ人々も必ずいます。その存在は貴重なものですが今日の考察では割愛させて頂きます。
それはさておき、考察をさらに一歩進めます。
二つ目の共産主義の影響は学校の現場だけでなかったのです。マスコミも影響を受けていたのです。
例えばある大新聞の記者達は日本軍の残虐行為を誇大に新聞記事として書きたてました。そして多くの本を出版しました。社会はそのような本を受け入れ、良く売れたのです。それは1960年代や1970年代のことでした。
その出版物の文章には日本人をおとしめるような自虐的な表現があったのです。最近、再び軍備強化と海外派兵の準備をしはじめるとこの自虐的な考え方を攻撃したい人が増えて来たのです。
さてそれでは何故、日本では「自虐的なまでの深い反省」が蔓延したのでしょうか?
その原因は以下のように幾つもあると考えられます。そしてその原因同士が複雑に作用し合って起きた日本固有の社会現象だったと私は理解しています。
(1)中国共産党が強大な日本軍を打ち破って「中華人民共和国」を作り上げたという政治的な表現が中国で使われています。
従って日本軍の残虐行為の宣伝は共産党独裁の維持のため続行しなければならない政治宣伝なのです。宣伝効果を上げるために残虐行為は次第に大げさになって行きます。残念ながら、これも人間の自然な感情です。
(2)日本を占領したアメリカが日本の真珠湾攻撃を卑怯だと何度も日本人を攻撃しました。そしてフィリッピンのバターン死の行軍を残虐行為と非難します。その上、九州大学で行ったB29搭乗員の生体解剖の事実を残虐だと非難しました。
(3)イギリスも泰緬鉄道の建設の際、日本軍がイギリス兵を酷使したと非難し、映画まで出来ました。
(4)戦後、日本に残留した韓国人や北朝鮮系の人々が戦争中に日本人から受けた非道な取扱いの意趣返しに、強制連行や強制労働をさせられたと誇大に書きたてたのです。それも人間の心情として自然なものでしょう。
(5)そしてこれが日本固有の現象ですが、日本のインテリや評論家や作家が戦争を賛美した自責の念のあまり、戦前の日本軍の残虐行為を書きたて、自分だけが罪を逃れようとしたのです。
戦争中は彼等も日本軍の連戦連勝を喜んでいたのです。真珠湾攻撃に喝采していたのです。少なくとも少年だった私は日本軍の連勝を嬉しく思っていました。
このように戦前、戦後の日本には本当にいろいろなことがあったのです。
戦後70年のある時代に「自虐的に見える歴史観」が日本の社会に定着していた原因は単純なものではなかったのです。
日本は現在、再び軍備を強化し、海外派兵を行う準備をしています。それも時代の風潮なのでしょう。
しかし何故、戦争への深い反省が、最近になって自虐的であると非難されるようになったのかを丁寧に考えることが日本の将来の平和のために非常に重要なことではないでしょうか。
挿絵の写真は、東京都薬用植物園で5月27日 に撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






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日本一美しい白樺林を八千穂高原に訪ねて想う

2015年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
軽井沢から小諸の懐古園を訪れて、八ヶ岳の清春へ向かってドライブしたのは5月8日のことでした。雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。「白樺の群落」ならもう一度出直してその八千穂高原へ行きたいと思いました。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。
そこで昨日片道200Kmのドライブですが家内とともに行ってきました。
その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。実はその北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
昨日、八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっていたのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。
何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出しました。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩の「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。しかしその先を忘れてしまいました。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
八千穂高原では高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想いました。
帰宅後、二つの詩の全文を調べました。以下にお送りいたします。
智恵子抄:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
「あどけない話」
智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。
「樹下(じゅか)の二人」
あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)
こうやって言葉すくなに坐っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬の始めの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。
・・・・以下省略
高村光太郎の彫刻の十和田湖畔の「乙女の像」も思いいしました。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
そんなことを想う小さな旅でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地
:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。

清春白樺美術館
:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。

高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。







上が八千穂レイクで下が駒出池です。

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夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空、、、

2015年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
「夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空」の歌い出しで親しまれる『夏の思い出』は、1949年発表の日本の歌曲です。
NHKにて放送されるや否や、瞬く間に多くの日本人の心をとらえたました。この歌のおかげで尾瀬(おぜ)の人気が高まり訪れる人が非常に多くなったのです。
私は1951年に高校に入学し、1954年に大学に入学したのでこの曲をNHKのラジオで何度も聞き、自分でもよく歌ったものです。当時は仙台に住んでいて、復興もまだまだで苦しい生活でした。はるかかなたの尾瀬などへ行くことは出来ません。
ですから尾瀬とか水芭蕉とい言葉は憧れの夢だったのです。
写真雑誌で尾瀬の風景や水芭蕉の群落の光景を見てますます憧れが強くなったものでした。
下にその尾瀬の写真を示します。

この写真は尾瀬ヶ原の湿原と至仏山で、出典は、http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/natsuno.htm です。
この歌の作曲は、『ちいさい秋みつけた』、『めだかの学校』などを手掛けた中田 喜直(なかだ よしなお/1923-2000)で、父は『早春賦』を作曲した中田章です。
作詞は、新潟県上越市生まれの詩人・江間 章子(えま しょうこ/1913-2005)です。それでは歌詞を読んでみましょう。
「夏の思い出」
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

大学時代には当時流行った「歌声喫茶店」などで、友人と一緒に何度も唄ったものです。
しかし尾瀬も水芭蕉も憧れのまま月日は流れ、あっという間に60歳を過ぎてしまいました。
その頃、少し人生に暇が出来たので国内の彼方此方を訪ねる旅に出るようになりました。
そうしたら12年前の5月に北海道に行ったとき、はからずも水芭蕉の群落を見つけたのです。約50年近く強く憧れ続けていた水芭蕉の大群が眼前に忽然と現れたのです。
それは網走湖の出島という場所でした。レンタカーで網走湖の東岸を南下しながら、何の気もなく出島で右に折れ田舎道に入りました。そしたら網走湖に続く湿地帯に水芭蕉の一群が咲いていたのです。何十年と憧れていた水芭蕉に偶然会えたのですから感動しました。その風景を心に焼きつけました。
その12年前に撮った写真を下に示します。
水芭蕉の花の奥に家内が立っています。

下の写真は網走湖の水芭蕉を検索して、お借りものです。鮮明に写っています。

何年か後にこの場所を車で通りかかったのでまた田舎道に入って、車を停め、湿地帯に入って行きました。しかし季節が早すぎたので何もありません。雑木林の下に湿地が広がっているだけだったのです。しかし心に焼き付いていた風景を思い出しながらしばし散歩しました。
12年前に北海道の網走湖で偶然、水芭蕉の群落を見つけて以来、本州にもある筈となんとなく探していました。
そうしたら箱根の仙石原の湿性植物園にもあったのです。毎年、4月から5月にかけてかなりの数の水芭蕉が小川にそって咲いているのです。
しかし初めて偶然見つけた網走湖の水芭蕉の群落以上の見事な光景はまだ見ておりません。それは終生の心の財産になっています。
12年前に水芭蕉の群落を見つけ感動したので、尾瀬にも行くことにしました。
鳩待峠までバスで登り、登山道を下りて行くと尾瀬に1時間くらいで着きます。そこから木道を歩いていきました。確かに尾瀬は別天地でした。
これで「夏の思い出」という歌の流行以来、50年以上も憧れていた尾瀬も水芭蕉も見てしまったのです。何故か人生も完成に近づいたような気分がしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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さきほど東京都薬用植物園へ花の写真を撮りに行きました

2015年05月27日 | 写真

上の一番目の写真はイブキジャコウソウです。入浴剤に使われます。

上の二番目の写真はキショウブです。根茎は染料に使われます。

上の三番目の写真はウスベニアオイです。アントシアン色素になります。

上の四番目の写真はジギタリスです。ジギトキシンという強心利尿薬の原料として使われます。

上の五番目の写真はレースラベンダーです。

上の六番目の写真はマリゴールドです。
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世代が変われば考え方が大きく変わる

2015年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ネットの上に国内政治や国際関係に関する記事を書くと、時々若い年代の方から、あなたの意見は古臭いというコメントを頂きます。
それを実証するような場面を昨日見ました。
それは毎週一回通っいるリハビリ施設でのことでした。6人位がグループになって、4種類の筋力トレーニングを3時間行うのです。その合い間に10分ずつの休みがあります。すると若い男女の指導者がいろいろと話しかけてきます。これは脳のトレーニングなのです。高齢者に昔の思い出を話させていろいろ質問をします。
この様子を客観的に横から観察していたら、あることに気がつきました。
この施設に来る人は70歳から90歳の人です。戦後70年と言いますから、皆が少年少女のころ戦災や食糧難の経験をした者です。
ですから若いスタッフに思い出を話して下さいと云われれば、戦災や食糧難の体験を話します。
昨日は、昭和19年、20年に横須賀の海軍病院で看護婦をしていた90歳の方が話していました。
毎日、前線から送られて来た兵隊さんたちは本当にひどい状態でした。当直の時は夜通し看病します。朝まで命がもつように注射を打つのですが、その時は神様に祈っていました。この兵隊さんが朝まで命がありますようにと。兵隊さんはみな二十歳前後の若者でした。
この海軍病院まで帰ってきても故郷を見る前に死んで行くのです。可哀そうで、可哀そうで涙が止まりません。
8月15日の終戦の日は本当にホットしました。もう悲しい涙を流すこともないのです。
兵隊さんたちは本当に悪い時代に生まれたのです。その上、御国のためにと志願して若いうち出征した人も多かったのです。
昔、海軍病院で看護婦をしていた人の話に、他の高齢者がみんな熱心に聞いていました。中には感動して顔をあかくしている人もいます。
その一方、3人ほどの若い女性のスタッフはあまり関心が無いような様子です。しかし礼儀正しく少し質問をしてくれました。
この様子を横から見ていた私は、世代によって関心のある事が歴然と違うのだとということを悟りました。
第二次大戦のことは70歳以上の年代では一大経験で、国内政治や国際関係を考えるときその経験を土台にして考えます。当然、国家の重用性や軍部の暴走を意識しながら考えをまとめて行きます。
しかし30代、40代の世代は戦争の体験は皆無です。従って国家とか天皇制をあまり重要視しません。軍部の暴走などは遠い、遠い昔の話で実感がありません。
豊かで幸福な時代に育っているので一般的に人間性が良いのです。ようするに育ちが良いのです。
一方、70歳以上の年代は戦後の教育を受けました。日本が朝鮮を合併して、中国を侵略し、満州国を作ったことは非常に悪い事だったと徹底的に教わりました。アメリカの占領軍の民生局がそのように指導したのです。その結果、いわゆる自虐史観が定着したのです。
しかし若い年代ではそのような教育を受けませんでした。日本が独立し、占領軍の民生局の指導が無くなったのです。したがって次第次第に自虐史観が薄れて行ったのです。
世代によって考え方が変わるのは当然です。
世代が変われば話が通じなくなります。
世代を越えて話し合えるようにするには相手の世代の受けた経験や教育を想像して理解しあうことが重要になってきます。
そんなことを考えさせるリハビリ施設での、昨日のちょっとした観察結果を書いてみました。
今日の挿絵がわりの写真は5月21日に撮った甲斐駒岳山麓の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





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夏の思い出・・・月見草の咲く風景

2015年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝、「潮来のあやめ・・・心に残る6月の花の風景」という記事を掲載いたしました。
それで思い出したのですが、幼い頃に自宅の周りの草原に咲いていた月見草の風景が甦って来ました。それは戦前の昭和15年の頃だったのでしょうか。
蚊帳を吊って寝る準備をしている縁側から下の草原が見え月見草が一面に咲いている風景です。はっきり見えたのですから月夜だったのでしょう。夏の虫のハンミョウが飛んできて蚊帳にとまったのです。それを捕まえて蚊帳の中に飛ばせて遊んだものです。
月見草といえば子供の頃の夏を思い出します。
同じ様な思い出を持っている方も多いと存じます。
その一例として細川呉港さんの作品の抜粋を以下にお送り致します。
===細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋========
何度も言うようだが、長い人生において、誰しも、驚くほど素敵な花の風景に出くわしたことがあるはずである。特に野草の好きな私は、山歩きや、野山のハイキングの最中に、思いがけず、思いがけない野草の群落を発見し、思わず立ち尽くしてしまうことがあった。その光景は、長い間脳裏に強く刻み込まれていて、時折、頭をもたげては、私を幸せにしてくれる。ちょっとオーバーにいえば、その思い出は人生の宝でもある。その花の群落の美しかったことだけを強烈に覚えているから、はたしてその花の群落がどこであったか、ということも分からなくなっていることもある。いくつかの思い出は、まるで走馬灯のように何度も浮かんでくる。
まだ子どもだったころ、小学校の中ぐらいの学年のころだったかも知れない。私はよく一人で、自宅から山に登った。私の町の背後に、700メートルと少しの起立した山があり、そのすそ野に住んでいた私は、峠に向かう未舗装のバス道路に沿って、しばらく登り、そこからよく山に入った。少し登ったところに、地元の人たちが小松原と呼んでいる松林があって、よくそこで松葉かきをした。持って帰って、焚きつけにするのだ。空いた炭俵にギュウギュウに松葉を押し込んで、ふた俵、追い子に背負って、さらにその上に、松の枯れ枝を束にして積んだ。子どものすることながら、しっかりと家の役に立っていたと思う。
峠に続くバス道は、グルグルと山の斜面を縫うように登っていき、その両側は段々畑だった。このあたりの段々畑は、水の確保が難しく、湧き水のある広い谷のようになったところだけ、田圃があった。春には少ない田圃にレンゲの花が一面、きれいだった。そのころは緑肥としてレンゲを植えていたのである。
山の谷が、狭く、傾斜が急なところは、段々畑も作れないので、そんなところは、昔から墓にしたらしい。段々墓である。縦縞のように襞のたくさんある山の斜面に、尾根の部分や、広い谷の部分は、段々畑や田圃として利用し、狭い谷や、日当たりの悪い谷は、段々墓というわけである。段々墓はあちこちにあった。・・・・・
小学校四年生か、あるいは五年生だったかもしれない。もう夏が終わろうとしていたころ。私は一人で、山に入った。ちょっと長めの散歩である。あちこち歩いては草や花、ヤマガラやジョウビタキを捜し、あるいは谷に降りて清水の流れるのを見たりした後で、山を降りてきた。小松原を通り、いつもと違う道を下ってくると、ちょうどある段々墓の上に出た。段々墓の一番上の方は、少しばかりの尾根になっていて、平らな広場に墓がたくさん立っている。左右はやはり段々墓になっていて谷のそこまで続いていた。夕暮れが迫っていた。まだ少しばかり夕焼け空が残っていて、あたりはほんのりと明るかった。早く降りなければ、暗くなってしまう。
ところが、次の瞬間、私は異様な光景に気がついた。辺り一面、墓という墓の周りに一杯に月見草が咲いていたのだ。黄色い小さな花が、夕暮れのほんのりとしたあかるさの中で、まるで蛍光色のように光って咲いていた。そしてその黄色の群落をさらに盛り上げるように、昨日咲いたであろう濃い橙色のすぼんだ花も無数についている。二種類の色の違う花の混ざり具合が、華やかでそれでいて可憐である。それは谷の下の方まで続いていた。誰もいない、無音の、淡い夕焼けの山――。
すばらしい山の夕暮れであった。この時の月見草の群落を、六十年近くたった今でも私は覚えている。その後、一度もそういった月見草の風景と、時を、体験したことはなかったから、少年時代の貴重な一瞬だったといえよう。人生、たった一度の巡り合わせだった。以下省略・・・・
挿絵代わりに月見草の花の写真をお送り致します。
この月見草の写真は長野県の伊那地方にお住いの方のブログ:http://tsutomu3.blog43.fc2.com/blog-entry-12.html からお借りした写真です。
なお細川呉港さんは、「草原のラーゲリ」、「紫の花伝書」、「ノモンハンの地平」、「満ちてくる湖」、「日本人は鰯の群れ」などの美しい作品を出版している堅実な作家です。詳しくは、http://www.junkudo.co.jp/mj/products/list.php?zssearch_author=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%20%E5%91%89%E6%B8%AF をご覧下さい。そして東文会(東洋文化研究会)を長年、主宰しています。私はこの東文会のメーリングリストに入れて頂いていますので時折、作品を送って頂いています。




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潮来のあやめ・・・心に残る6月の花の風景

2015年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
来週はもう6月になります。毎年、今頃になると潮来のあやめの光景を思い出して楽しんでいます。それは7年前の6月に見た光景でした。心に焼き付いて、毎年、甦ってくる6月の花の風景です。
常磐線の土浦駅で降りてすぐそばの霞ヶ浦の船着き場に歩いて行きます。潮来にあやめが咲くと、その季節だけ、はるか霞ヶ浦を渡る船が出るのです。心地良い風に吹かれて湖水を滑るように疾駆する高速船です。それでも潮来までは1時間くらいかかります。
湖には帆引き網漁をする和船の白帆が見えます。筑波山も碧く光っています。
潮来に着くとそこは一面のあやめです。色とりどりの大きな花々が風に揺れています。
潮来のあやめは長い間の憧れの花でした。それだけに一層心に強く焼き付いてしまったのです。
あやめが一面に咲いている花園の中を何度も行ったり来たりしました。そして帰りがけに花株を数本買いました。その数株は庭の水盤で毎年華やかに咲き誇ります。今年はまだつぼみも出ていないので少し心配しています。
潮来のあやめの咲く頃には、それ以来3回ほど行きました。車で霞が浦の岸辺を根気よく走って行くのです。兎に角、潮来は遠いのです。
あまりにも遠いので、ここ数年は行っていません。年老いてもう行けなくなりました。
しかし最近は東村山市のあやめの園に毎年行くようにしています。潮来ほどではありませんがかなり広大なあやめの園なのです。そして東村山からはるかに潮来のあやめを偲んでいます。
このように季節ごとにいろいろな花の風景が心に焼き付いています。季節が巡ると一幅の絵画のようによみがえって来るのです。不思議です。
7年前の6月に初めて潮来のあやめを見た時の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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照ノ富士初優勝と日本が好きなモンゴル民族

2015年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、照ノ富士が初優勝し大関昇進を確実にしました。関脇・照ノ富士にとっては初めての優勝でした。日本相撲協会は場所後に大関昇進を決める臨時理事会を開催することになり、照ノ富士の大関昇進が確実です。
夏場所の優勝争いは14日目までを終えて、3敗で照ノ富士と横綱・白鵬が並ぶ展開でした。
千秋楽の24日、先に取組のあった照ノ富士は平幕の碧山に寄り切りで勝って12勝3敗とします。そして白鵬が横綱・日馬富士との結びの一番に敗れて4敗となったため、照ノ富士が12勝3敗で初めての優勝を果たしたのです。
それにしても白鵬を日馬富士が土俵際で素早く寄り倒した勝負には吃驚しました。軽い日馬富士が大きな白鵬に勝ったのですから昨日の日馬富士は強かったのです。日馬富士を応援している私にとっても嬉しい勝負でした。
それはさておき、照ノ富士はモンゴル民族で本名はガントルガ・ガンエルデネといいます。
兎に角、いろいろな歴史的背景があってモンゴル民族は非常に親日的です。日本が好きなのです。そんな事情があるのでモンゴル国には日本へ力士をどんどん送り込む体制ができているのです。これから長期間にわたってモンゴル出身の横綱が続く趨勢にあります。
そして日本とモンゴルの友好関係は相撲の分野だけではありません。
よく知られているようにソ連はシベリア抑留で55万人の日本人を強制労働に従事させたのです。その時、モンゴル人民共和国の首都、ウランバートルには2万人の抑留者が送られ土木建設作業を強制されました。その日本人が隊列を組んで町を歩いているとモンゴル人が食べ物をくれて暖かく励ましたそうです。その現場を何度も目撃したソヨルジャブシがその光景を書いているのです。
その事実は、一昨日の記事の「人間の絆の美しさを教えてくれたモンゴル人、ソヨルジャブさん」のソヨルジャブさんの追悼文集に書いてあります。
それだけではありません。
満州で捕まった夫を独りだけシベリヤに送るのは絶対に出来ないと考えた妻たちが男装して一緒に抑留されたそうです。断髪し、日本の軍服を着て、夫とともに同じ貨車に乗ってウランバートルまで行ったそうです。
ウランバートルで女性と見破られた数人は釈放されましたが、その生活の面倒を見たのがモンゴ人達でした。モンゴルの女は夫のためにそこまで危険なことをしないと称賛されたのです。その場面に遭遇したソヨルジャブさんが書いているから本当の話なのでしょう。
モンゴル民族は統一と独立を熱望しています。
明治維新以後の日本の富国強兵は手本でした。日露戦争で日本が勝利したことに励まされました。
なにせモンゴル民族はソ連の衛星国の共産党独裁のモンゴル人民共和国と、同じく共産国、中国の領土の「内蒙古自治区」の二つに分断されていたのです。
日本がソ連と中国と対抗して争ったのですから、日本はモンゴルの統一の光のように見えたに違いありません。日本はモンゴル民族にとって輝く星でした。
ですからこそソ連から独立した民主国家のモンゴル国には相撲の力士を日本へ送る体制が根付いていのではないでしょうか。
それにしてもソ連崩壊により民主国家になったモンゴル国の人々は幸せした。
悲惨なのは共産国、中国の領土の「内蒙古自治区」に住んでいる400万人のモンゴル人です。日中関係の悪化で日本との交流が出来ないのです。力士を送り出すことなどとんでもないのです。
そのモンゴル人達は日中関係が良かった小平の時代には盛んに日本とも交流し、研修生も数多く日本へ送ったのです。そしてその友情に答えて日本人も内蒙古に植林事業を展開したのです。その全ては現在、断絶したままです。その事情は今年に2月と3月の数編の記事で書いているので省略します。
今日は照ノ富士の初優勝を心から祝し、彼の写真とともにモンゴル草原に咲く花々の写真を掲載したいと思います。ガントルガ・ガンエルデネさんおめでとうございます!
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








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川原に自生しているアカシアの写真をお楽しみ下さい

2015年05月24日 | 写真
一昨日、山梨県の甲斐駒岳の麓で花々の写真を撮っていたら、石空川(いしうとろ川)の川原にアカシアの大木が沢山白い花を咲かせていました。

写真を撮っていたら、あたり一面にとても良い香りが漂っていて夢見る心地でした。
このアカシアは正しくはニセアカシア (Robinia pseudoacacia) です。北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で、和名はハリエンジュ(針槐)というそうです。
日本には1873年に渡来したそうです。

本当のアカシアは、オーストラリア大陸に多く分布している黄色い花です。
日本では関東以北では育たないそうです。
明治時代に輸入されたニセアカシアを当時アカシアと称していたことから、現在でも単にアカシアと言うことが多いようです。

写真の白い花のニセアカシア(ハリエンジュ)からは香りのよい蜂蜜がとれ、アカシアの蜜として販売されているそうです。紛らわしいですね。
始めの4枚の写真がニセアカシアの花で最後の黄色の花がアカシアの花です。








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体験してわかった西洋文化のいろいろ(4)キリスト教の輝きと闇

2015年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の教会で洗礼を受け、日本の教会だけに行っていると欧米諸国でのキリスト教の実態がなかなか分からないのが自然です。
ところがドイツに住んで、その地の教会のミサに何度も出るという体験をしてみるといろいろな事が分かります。
多くのドイツ人は口角泡を飛ばしながら大声で議論するのが好きです。そんな印象を持っていた私が一番驚いたことは彼らが教会に来ると「青菜に塩」という様子で静かに頭を下げ、いろいろと反省している様子なのです。
この光景を見て私はドイツ人に人間としての親近感を感じたのです。
それで気がついたのですがキリスト教国にも信心の篤い人もいるし、全然信仰心の無い人もいることです。戦争になると彼等は平気で教会を破壊します。教会には銃撃戦の弾の跡が残っているのです。
そして習慣としてクリスマスや復活祭だけに教会に行く人もいます。
その一方で実に立派な神父様いるようです。その上、西洋の文化の基底をなすのがキリスト教なのだ感じることも多いのです。
私は欧米人は日本人とは全く違う人種で、その心を理解するのは容易でないと思っていました。
しかしドイツで教会に行き、彼等の態度や様子を見ていると、ああ、彼等も同じ人間だなとしみじみ思えるのです。
彼らも日本人と同じように良いこともしますが悪いこともします。
仏教に輝きがあるようにキリスト教も輝いています。しかし政治権力と結びつくと闇の世界になりがちなのです。免罪符を売ったり、ローマ法王の座をお金で買ったりする時代もあったのです。
もう一つ、日本人が感じることは欧米の教会が立派なことです。立派過ぎて圧倒され、威圧感を感じるこごともあります。
下にケルンの大聖堂の写真を示します。私はこの様に巨大な教会には威圧感を感じ、好きになれません。
しかし中で祈っている人々の様子を見ると親近感を感じるのです。
その上このケルンの大司教区の人々は戦後すぐに疲弊した日本のカトリックの東京大司教区を経済的に援助してくれたのです。敗戦で自分たちが苦しいのに東京大司教区を助けてくらたのです。ですから私共の教会には「ケルン・ディー」といものがあり、毎年感謝の祈りを捧げます。こんな事情で現在、私はケルンの教会を感謝の気持ちで見守っています。
そんなドイツでのささやかな体験を書いてみました。
写真にケルン大聖堂の風景をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










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湘南の海が恋しくて三浦半島にドライブに行きました

2015年05月23日 | 写真
小生の住んでいる所は海からかなり内陸に入った場所にあります。
50歳くらいから25年間、趣味にしていたヨットを4年前に止めましたが、時々、湘南の海やヨットの姿が懐かしく思い出します。
そこで2、3日前から考えていた三浦半島への小さな旅を独りで楽しんで来ました。
東名を横浜で出て、16号線を南下し、横横道路で三浦半島に入ります。
今日は佐島の手前で三崎のマグロを売っていたので、三崎港まで行かないで佐島湾に入りました。地魚料理の店で昼食を食べ、佐島マリーナに寄ってヨットの美しい姿の写真を撮りました。
マリーナの中に整然と舫っている光景も良いものです。しかし漁港の沖に係留している姿も、何とも言えない風情があり美しいものです。
そんな写真をお送りたします。
なお佐島には地魚料理の専門店が3軒あり、その他に朝取れた地魚を売っている店が3軒あります。車載冷蔵庫を積んで行くと珍しい地魚が買えます。








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人間の絆の美しさを教えてくれたモンゴル人、ソヨルジャブさん

2015年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
数日前に旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は3年前に亡くなったソヨルジャブさんに関する中国領、内蒙古フフホト、モンゴル国、そして日本人関係者によって書かれた追悼文をまとめて本にしたものです。編者は細川呉港氏と内田 孝氏です。
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。中国領、内蒙古とモンゴル国の両方で、日本語を教え、モンゴル人を日本の研修生として送り出した一日本語教師へ何故こんなに多くの人々が追悼文を書いたのでしょうか。
私はこの本を手にして数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。その絆には国境も思想も宗教も一切介在しない純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然、日本人も彼を慕い、愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
ソヨルジャブさんは満州国の国立ハルピン学院を卒業し、満州国のモンゴル地区の官吏になりました。敗戦後は日本へ協力したとして収容所に入れられ34年間も過酷な運命にあまんじたのです。日本人と付き合ったために悲惨な収容所生活を送ったのです。
しかし彼の日本人へ対する信頼と尊敬は微動だにしなかったのです。
1979年に政治犯としての罪状が一切許され名誉回復したのです。
その後、約30年間は中国領、内蒙古で日本語学校を開きモンゴル人と日本人の絆を強めるために生涯を捧げたのです。
多くの日本人は感動しました。作家の細川呉港氏はソヨルジャブさんの波乱万丈の一生を題材にして『草原のラーゲリ』という本を出版しています。
ソヨルジャブさんの一生は阿部重夫さんによると、以下のようなものだったのです。(http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html)
ソヨルジャブさんは1925年に満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。亡くなったのは2012年でした。
昭和20年(1945年)8月9日未明、ハイラル県公署(県庁)の優秀な青年職員だった彼は、突如飛来したソ連軍機の空襲に遭います。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかったのです。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、満州国の興安四省のモンゴル人は右往左往したのです。
結局、ヤルタ会談の密約があって、内モンゴルは独立できず、外モンゴルとの統合もかなわず分断されたままになったのです。内モンゴルは中国領になり、外モンゴルはソ連圏の共産国家、モンゴル共和国になったのです。
そこでソヨルジャブさんは社会主義を学ぼうとソ連圏のモンゴル共和国のウランバートルに留学します。
しかしそこから運命は暗転します。留学を終えた1947年、ソ連の手先だったモンゴル共和国の公安に逮捕されます。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのです。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれるます。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡されたのです。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられたのです。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しです。
ソヨルジャブさんは1956年、青海省の西寧労働改造所へ移送されます。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロのチベットの高原地帯に送られたのです。そこに9年半です。1965年にやっと仮釈放が実現します。ラーゲリ暮らしは合わせて17年でした。
しかしその時、文化大革命が始まってしまったのです。
日本人に協力した人はみな逮捕され拷問にあい、下放されたのです。
日本の傀儡国家、満州に協力したというのが罪状でした。
そして1976年に四人組が逮捕され文革が終わります。その結果、ソヨルジャブさんも名誉回復され、自由の身になったのです。
日本人とも自由に交流してよいことになったのです。
名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のちソ連圏から独立し民主化されたモンゴル国でも日本語学校(展望大学)を開校します。その後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その考察は続編でしたいと思います。
今日の挿絵の写真は日本の空とモンゴルの空の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










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山里で花々を育てる人々の心の豊かさ

2015年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、山梨県の北杜市の武川町という山里を車で散策しながら花の写真を撮ってきました。
武川町は武川米を作っていますが、水田の作れない寒冷な高台は畑作農家が散在しています。
その奥の雑木林の中に小屋を持っているので40年間も通っています。
春から夏、秋にかけては、昔から花々の多い地域なので、その花々を見て回るのも小屋に通う楽しみの一つです。
毎年、行くので何処の家の庭先や畑にどんな花が何時咲いているか知っています。
山里なのでいつも人がいなく、静かに写真を撮っては、時々蒼く輝く甲斐駒岳を見上げて深呼吸をします。高原の新鮮な空気が肺の奥まで沁みとうるようです。
昨日はハルセミがしきりに鳴いていました。ウグイスも啼いています。
一番目の写真は小屋のそばの林の中に停めた私の車です。ここから植林地を歩いて行くと草花をいろいろ植え育てている木内さんの山荘に行けます。

毎回、寄って草花の苗をほんの少しだけ届けるようにしています。すると木内さんは花が鹿や猿に食べられないように屋上の栽培場所で育てます。以前にクリンソウやカタクリの花を貰ったことを思い出します。久しぶりに会った木内さんは元気に独り暮らしを楽しんでいる様子です。人に頼らず山林の中に暮らしていることに何故か敬意を感じます。
そこから山林の中を下り、何時ものように横手の集落にあるKさんの別荘に行きます。兎に角花の育成が大好きな奥さんが毎年少しずつ違う花々を広い庭と隣の農地に一面に育てているのです。何時でも自由に写真を撮っても良いですよという言葉に甘えて心置きなく写真を撮ります。下に今年の新しくデビューした、可憐なアイリスとギガンジュームの花の写真をお送りします。



この横手の別荘の花の写真を撮ってからは東に向かい真原の高台に行きます。花の栽培が盛んな地域です。出荷して売るための栽培ではなく、まったく自分たちが楽しむための栽培です。蕾から咲くまで、そして萎れて散るまでそのままです。
下の花は大輪のケシの花です。

この地区には有名な真原の桜並木があり、花の栽培の大好きな民宿、星山荘がありました。昨日行ったら廃業していて、花々が消えていました。しかし隣の農家でこの大輪のケシが咲いていたのです。
写真を撮って「陽だまり工房」といガーデンに寄ったら久しぶりに原田さん一家に会えました。
すこしお邪魔してから神代櫻で有名な山高の集落に行きます。毎年、見事なアイリスを植えている畑の写真を撮るためです。下が今年のアイリスです。

ここも花を売る為でなく栽培しています。花が散るまで見て楽しめる畑です。
そして山高を下りて牧原地区の農産物売り場でジャムにするルバーブを沢山買って帰って来ました。
考えてみると旧武川村は昔から花々が沢山咲いていました。四季折々何時行っても花々が沢山さいている農村なのです。
住んでいる人々の心が豊かなのでしょう。地方は不便と言いますが、このような山の里を時々見ると悠々とした気分になるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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「人生いたるところに青山あり」の青山の写真を撮りに行きました

2015年05月21日 | 写真
今朝の記事の挿絵の写真は借り物でしたので、自分で青山の写真を撮りに山梨県の北杜市の山林の中の小屋まで行き、山々の写真を撮って来ました。
今日の、1初狩から見た富士山、2南アルプス主峰、3八ヶ岳、4甲斐駒岳、そして5鳳凰三山の地蔵岳の5枚の写真を順々にお送り致します。
なお、人生は人間(じんかん)が正しく、青山は墳墓のことです。
以下の幕末の長州の月性という僧侶の漢詩をご参照下さい:

『將東遊題壁』

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有山。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

(「人間(じんかん)」は世の中を指し、「青山」は墳墓を表しています。)
その大意は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきであるとの意です。








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