後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は長崎の大浦天主堂のミサにインターネットであずかりました」

2023年04月30日 | 写真
何時もは東京の関口教会やイグナチオ教会のミサにインターネットであずかっています。今日は大浦天主堂のミサにインターネットであずかりました。そのミサの写真をお送り致します。

尚あずかったミサは日本の信徒発見の聖母記念ミサ(2021年3月17日)でした。https://www.youtube.com/watch?v=3nU85XD

そして東京の関口教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=VMvy7YRUy9c です。

4月30日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭)
入祭の歌  典47 神の注がれる目は
いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲605・607
答唱詩編  典123①②③④ 主はわれらの牧者
アレルヤ唱 典264 復活節第4主日
信仰宣言 使徒信条(2)
奉納  典4 あたらしいこひつじ 
感謝・平和の賛歌 ミサ曲608・609   
拝領  典388 ガリラヤの風かおる丘で
閉祭  典396 救いの道を

「これからの季節、山に咲く珍しい朴ノ木の花の写真」

2023年04月29日 | 写真
これからの季節、山に咲く珍しい朴ノ木の花の写真をお送り致します。珍しい大きな花です。朴ノ木は深い山奥に生えている大木です。大きな純白の花が高い梢に咲きます。高い梢に咲くので写真を撮るのが難しいのです。
今日は山梨県の上野原市の山奥で私が撮っ朴ノ木の花の写真をお楽しみ下さい。傾斜地だったので大木の梢が私の胸の高さにあったのです。
1番目の写真は6年前の5月に山梨県の上野原市の山奥で私が撮った朴ノ木の花です。
2番目の写真の出典は、https://minhana.net/wiki/ホオノキ です。
3番目の写真の出典は、
https://blogs.yahoo.co.jp/san_tarimo/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-53-c2%2Fsan_tarimo%2Ffolder%2F989081%2F27%2F33421227%2Fimg_0%3F1400056940&i=1
です。
4番目の写真の出典は、
http://parfum-satori.com/blog/2016/05/magnolia-obovatathunb-1.html です。

山梨県の山奥にある私の小屋の周囲の森にも朴ノ木の大木が一本あります。その高い梢に花が咲きます。白い花びらがチラチラ見えるだけです。朴の木の葉は大くて美しいので拾ってきて朴葉味噌につかったり食物を包んだりしました。朴ノ木を見るとそんなことを思い出して楽しい気分になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉の春の海の風景写真」

2023年04月29日 | 写真
人はいろいろな土地に住んでます。山里や海辺だったり都会だったりいろいろです。私は東京の小金井市に60年ほど住んでいます。海から離れた内陸です。そんな訳で時々海が無性に恋しくなります。のたりのたりと波が打ち寄せる春の海です。とくに鎌倉の海は遠浅でのどかに波が打ち寄せます。今朝はそんな風景を思い出しています。
1番目の写真はのどかな鎌倉の春の由比ヶ浜です。波穏やかな遠浅の海です。
波のきらめきが美しく見えます。 写真の出典は、https://tanosii-kamakura.jp/?tdate=2016-4-22-225 です。
2番目の写真も鎌倉の海の由比ヶ浜です。由比ヶ浜は、鎌倉駅から歩いても15分ぐらいです。江ノ電に乗って由比ヶ浜駅で降りれば5分ぐらいで行けます。 
3番目の写真は由比ヶ浜で遊んでいる鳩たちです。ちょっと印象深い写真です。海岸を歩いて坂ノ下から長谷に向かって行くと鎌倉の大仏があります。
4番目の写真は長谷にある鎌倉の大仏です。大仏の写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/photo/9059/2/ です。
私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。
家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。
結婚以来、私共の生活は経済的に苦しい時もありました。しかし妻は何時も天真爛漫として明るく暮らしています。
家内が生まれて小学校の頃まで住んでいた場所は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を現在、名前は変わっていましたがあります。
小学校は御成小学校で現在も当時のままの門があります。昔家内の家のあった場所には1975年頃迄は当時のままの2階建ての家が残っていました。
そしてそこから路地を抜けて、江の電の線路を渡ると由比ヶ浜です。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て何日も泊ったそうです。
 鎌倉に行く度に家内が元気になるので何度も行くことになりました。そのうち私自身も第二の故郷のように思うようになったのです。 
ついでに言えば家内は4月4日に生まれました。春の海が美しく輝いていた日だったそうです。それで名前は春海と言います。

今日はのたりのたりと波が打ち寄せる鎌倉の春の海の写真をご紹介致しました。そして鎌倉で生まれ育った家内の幼少の頃のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

 

「中世の暗黒を完全に打ち破ったアメリカの独立宣言」

2023年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの独立宣言は1776年7月4日に発せられました。アメリカ独立戦争の二年目にあたる1776年7月の第2回大陸会議総会でアメリカの13の植民地の全会一致で決議されたのです。
 アメリカ独立宣言はそれまでのイギリスの圧政、悪政を告発し、平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を認めました。アメリカ独立宣言に盛り込まれた人民主権の理念は、独立後に制定されたアメリカ合衆国憲法に継承されました。
1789年のフランス革命の直前です。 アメリカ独立宣言はフランス革命を誘発したのです。
 アメリカ合衆国は世界で初めて最初から国王や貴族のいない連邦国家として成立したのです。市民=ブルジョワジーが権力を掌握した国家として誕生したのです。
それはフランス革命に続くラテンアメリカ諸国の独立にも大きな影響を与えたのです。
しかし平等、自由、幸福の追求などの基本的人権は白人だけに認められ黒人や先住民は無視されたのです。黒人や先住民は人間扱いをされなかったのです。
それは20世紀になってキング牧師の公民権運動でやっと認められたのです。インディアンから土地を取り上げ、南部における黒人奴隷を労働力としたタバコ、綿花などが大きな富を生み出しアメリカは豊な国家になったのです。
 アメリカ合衆国憲法は1787年に制定され1788年6月21日に正式に発効します。アメリカ合衆国は立憲主義と民主主義を原理とし三権分立の国家として確立したのです。
三権分立の民主主義は日本へは1945年の敗戦後に導入されたのです。
政教分離、信教・言論・結社の自由などが日本でも認められたのです。
アメリカの初代大統領はワシントンが1789年に就任しました。その年はヨーロッパにおいてフランス革命が勃発した年でした。
こうしてヨーロッパの中世の暗黒はアメリカの独立と続くフランス革命で完全に打ち破られたのです。
しかし日本は明治維新になっても江戸時代の封建制が根強く社会に残ったのです。それが完全に払拭されたのは1945年の日米戦争の日本の敗戦以後のことになるのです。
一方現在の世界を見ると数多くの民主主義と共産党などの独裁国家に分かれています。ウクライナの悲劇はこの民主主義陣営と共産党の独裁国家の戦争なのです。人間は戦争が好きなのでしょうか。真の平和は実現しないようです。困ったものです。

添付の写真は昔私が留学したオハイオ州の風景や大学の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「中世の暗黒を打ち破ったフランス革命」

2023年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパの中世は暗黒でした。魔女狩りと魔女裁判や30年戦争やハプスブルグ家の横暴や騎士道の暴力の横行がありました。権力者が一般庶民を厳しく支配していました。個人の人権なぞ全く無かったのです。
そんな中世の暗黒社会を打ち破ったがフランス革命でした。
今日は人類の歴史を大きく変えたフランス革命について書いてみたいと思います。
(1)フランス革命は何時起きたか?
フランス革命は1789年から1799年の10年間に起きました。ナポレオンがフランスを統治する直前に起きました。フランス革命で市民がバスチーユ牢獄を襲撃した 7月14日は現在、「革命記念日」としてフランスの祝日です。封建制度の廃止や人権宣言がなされ人類の歴史に大きな影響を及ぼした世界の大事件でした。
(2)「自由、平等、博愛」のスローガン
中世の ヨーロッパは国王が統治する絶対王政が敷かれていました。王族や聖職者、貴族と、市民階級という身分差の厳しい社会でした。この不公平さに怒れる市民が起こしたのがフランス革命です。
 この革命によって、フランスは近代民主主義国家になりました。スローガンの「自由、平等、博愛」は有名です。
(3)バスチーユ牢獄の襲撃の目的
 事の起こりは1789年5月、パリの郊外のベルサイユで第一身分である聖職者、第二身分である貴族と、第三身分である市民が一堂に会する「三部会」が召集されたことです。そして政治犯の釈放のためにバスチーユ牢獄を襲撃し政治犯を解放したのです。
(4)ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑
1792年、国王ルイ16世は外国と手を結んで革命側に圧力をかけようと試みます。しかし国王一家は市民に捕まりタンプル塔へ幽閉されます。そして「祖国と革命に対する裏切り」という理由で、1793年1月21日にルイ16世はギロチンで処刑されます。そして1793年10月には、王妃マリー・アントワネットの処刑が執行されギロチンの露となったのです。
(5)その後の紆余曲折
その中、1794年にテルミドールのクーデターが起きます。テルミドール派が政権を握り、1795年10月27日に総裁政府が設立します。しかし不安定な情勢が続きました。そこで市民は、軍隊とその指導者であるナポレオンに信頼を寄せるようになったのです。この信頼がフランス革命の直後にナポレオンをフランスの皇帝にしたのです。ナポレオンは1804年に皇帝に即位し、フランス最初の帝政である第一帝政を行います。 
10年もかけて終結したフランス革命では何人もの権力者が争い、命を落としました。 
当時、モンテスキューやルソーの啓蒙思想が広まり、この啓蒙思想が革命を支えました。伝統的な偏見を打ち破り、人間の可能性を合理主義によって切り開こうとする考え方です。
(6)人権宣言は現在も輝いている
1789年に採択された人権宣言は、正式には「人間および市民の権利宣言」と呼ばれます。その内容は啓蒙思想の影響を色濃く受けていて、権力の分立、租税の平等やその権利と義務、自由、所有権などについてが宣言されました。それは現代の日本社会の基礎となる考え方です。
(7) フランス革命後のフランスの政治
 フランス革命が終息した後のフランスの政治は、実はそのまま近代の体制へ移行したわけではありません。ナポレオンの即位によって始まる第一帝政から、再びブルボン家による王政復古が起きるまで紆余曲折があったのです。
しかし20世紀の現在は フランスは1世界の模範となる自由な民主国家になっています。

今日は人類の歴史を大きく変えたフランス革命について書きました。その人権宣言は現在も輝いているのです。

添付した油彩画はフランス革命の騒然とした様子を描いた絵画です。絵画は「フランス革命の写真」を検索してインターネットにある絵画をお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ジャンヌダルクは魔女ではなくイギリス側の異端裁判で処刑された」

2023年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
1337~1453年の、フランスが戦場になったイギリスとフランスの百年戦争の末期,フランスの危機を救った少女がジャンヌダルクでした。 この少女は 生来敬虔な性格でした。1412年い生まれ、 1431年に処刑されます。享年19歳でした。 フランス人の彼女は直接に神の命を受けたと確信し,フランスのシャルル7世の軍に参加しました。1429年にフランス軍を鼓舞してイギリス軍包囲下のオルレアンの解放に成功しました 。
この事件は百年戦争で劣勢に立っていたフランス側の態勢立直しの転機となったのです,このためジャンヌの名はフランスの歴史に長く国民的英雄として伝えられることになりました。しかしジャンヌダルクはイギリス側に捕えられ1431年の教会法廷で異端と宣告され,ルーアン市の広場で火刑に処せられた のです。享年19歳でした。
その後、再審が行われ,1431年の有罪判決は破棄 され,名誉が回復されましたた。さら時代は下り、 1920年ローマ法王によって列聖され,5月 30日がその祝日と定められます。
ジャンヌダルクはフランスでは救国の英雄ですがイギリスでは悪人です。イギリス軍の手に落ちて異端の魔力という宗教的な罪によって裁かれたのです。 
これもヨーロッパの中世の暗黒の事件でした。ジャンヌダルクの写真を2枚と枢機卿の尋問を受けるジャンヌ・ダルク の写真を示します。

1番目の写真はジャンヌダルクの写真です。

2番目の写真も少し印象が違うジャンヌダルクの写真です。

3番目の写真はポール・ドラローシュが1824年に描いた『ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク』です。(ルーアン美術館、ルーアン)

「庭の卯の花の咲く季節になりました」

2023年04月26日 | インポート
今年も庭の卯の花の咲く季節になりました。
この花を見ると、卯の花の咲き匂う垣根に…という歌を小声で唄いままず。良い季節です。
『夏は来ぬ』
卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

『夏は来ぬ』は、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表されました。


「ヨーロッパの中世の暗黒、魔女狩りと魔女裁判」

2023年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は、 「ヨーロッパ中世の暗黒、30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲」という記事を掲載しました。日本の歴史になぞらえれば「30年戦争」は応仁の乱のようなものです。「ハプスブルグ家の異常な領土欲」は平安時代の藤原氏の専横に似ています。どちらもある程度理解できます。
しかし「ヨーロッパの中世の暗黒」のもう一つの「魔女狩り」と「魔女裁判」は日本の歴史には似たものが無い不思議な悲劇でした。ヨーロッパ中世の暗黒をさらに陰惨で残酷なものにしたのです。
今日はこの「魔女狩り」と「魔女裁判」のついて書きたいと思います。
魔女裁判の画像を検索すると、目を覆いたくなるような酷い拷問の絵が沢山出てきます。その一例の絵画の写真を示します。

1番目の写真は「魔女裁判」のために捕らえられた普通の女性です。何の関係もない普通の女性が処刑されたのです。この絵の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joan_of_arc_burning_at_stake.jpgです。

2番目の写真も「魔女裁判」で処刑される普通の女性です。

3番目の写真はアメリカのマサチューセッツ州のセイラムで処刑された女性たちです。「魔女狩り」はアメリカでもあったのです。
写真の出典は、https://gigazine.net/news/20200523-salem-witch-trials/ です。

魔女狩りは近年の厳密な研究によると、15世紀から18世紀まで行われ、その1428年から1782年までの処刑者総数は40000人と言われています。
 しかし昔から一般的にはキリスト教会が主導して数百万人が処刑されたという噂が世界中に広がり、その噂を信じている人々が多いのも事実です。
 魔女裁判を非常に簡略化して書けば、農民や町の大衆が独り暮らしの怪しげな女を魔女として捕まえ、拷問にかけ、その後、当時の権威者であった教会へ連れて行って、聖職者による魔女裁判にかけ処刑したケースが多かったようです。 
全てではないにしてもかなりの割合で聖書者が断罪したことは間違いないようです。
 それを真摯に認め、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は魔女裁判も含めて過去の過ちを神へ謝罪し、そのことを公表したのです。
もう少し詳しく書くと、2000年三月に法王は、キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義、先住民族への侮辱などに関する教会や信者の責任を認め、神に対し赦しを請うたのです。
 これは権威主義者的なヨーロッパ人にとっては驚天動地のことでした。
 それにしても魔女裁判ほど大きなヨーロッパ文化の闇はありません。ヨーロッパの魔女裁判では40000人も300年にわたって殺された空前絶後の悲劇でした。
 さてアメリカのマサチューセッツ州のセイラム村での「魔女狩り」はあまり知られていないので少し詳しく書いておきます。
「セイラムの魔女裁判」はマサチューセッツ州にあるセイラムの村で、1692年~1693年に起きた事件でした。セイラムはイギリスでの弾圧から逃げ延びた清教徒(ピューリタン)が1626年に興した村です。 記録では、「病にかかった」とされた12人の少女が体の異常なねじれや発作などの症状を呈し、肌のチクチクした痛みを訴えたと報告されています。
少女12人が村人たちを苦しめていると訴えられました。一方貧しい妊婦サラ・グッドは、魔女のまじないを行ったとして1692年逮捕されました。
裁判官は告発の内容を調査せずに被告人が罪を認めて許しを請い、2度と魔術に手を出さないと約束することだけを求めました。翌1693年の春ごろまでに100人以上が投獄され、14人の女性と6人の男性が処刑されました。
 現代でも、セイラムの魔女裁判は集団心理や誰かをスケープゴートする心理の危険性と人間の認識をゆがめてしまう恐怖心の力についての教訓となっています。

以上のように 今日は「ヨーロッパの中世の暗黒」のもう一つの「魔女狩り」と「魔女裁判」を書きました。そしてアメリカのマサチューセッツ州のセイラム村での「魔女狩り」について少し詳しく書きました。
それにしても30年戦争とハプスブルグ家の専制や魔女狩りのような残忍な歴史が欧米文化にあったのです。その反作用として近代の個人の尊厳や民主主義が発展したのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料=======================
(1)魔女裁判へ対するヨハネ・パウロ2世の謝罪:http://blog.goo.ne.jp/heywa/e/bdc7c6da1dda74488e24e6cba8fc77b8

(2)魔女狩りと魔女裁判:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

「今日は桐の花の写真をお楽しみ下さい」

2023年04月25日 | 写真
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
花言葉は「高尚」です。

花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。





「ヨーロッパ中世の暗黒、30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲」

2023年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、日本人はヨーロッパ文化に憧れ導入して来ました。確かにフランス革命とイギリスの産業革命以後のヨーロッパは手本にすべきことが多いのです。しかし中世のヨーロッパは暗黒でした。暗黒の原因の一つは30年戦争でした。そしてもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲 でした。
今日は中世の30年戦争とハプスブルグ家の領土欲について書いてみようと思います。日本ではあまり関心の無いヨーロッパの暗い歴史です。
さて30年戦争です。「30年戦争」はドイツから始まり、宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。
簡略化して書けば、ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。
しかしこの戦争はヨーロッパの全域を巻き込んで全ヨーロッパを徹底的に荒廃させてしまったのです。
この戦争の実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。道義もルールも皆無な戦争でした。兵士たちがヨーロッパ中の農民を殺し略奪をしつくしたのです。
この「30年戦争」の爪痕は現在でも残っています。下にその実例を示します。

1番目の写真はドイツの古都ローテンブルグの風景です。以前私が住んでいた懐かしい町です。
この美しい中世の町が、「三十年戦争」(1618~48)の時、攻め込んで占領した敵に破壊されそうになりました。敵将が市長へ大ジョッキでワインを一気飲みをしたら町の破壊をしないと言います。市長は見事、一気に飲み干してこの美しい町を救ったのです。
それを記念して市庁舎の大きな仕掛け時計には大ジョッキを飲み干す市長の人形が出てきます。
そして毎年キリスト教の聖霊降臨祭の祝日(5月下旬から6月上旬頃)に町を救った市長を称えて祭りが開催されます。

2番目の写真はに町を救った市長を称えて祭りの様子です。民族衣装をまとった市民がダンス をして町の開放を祝っています。写真の出典は、http://allabout.co.jp/gm/gc/45500/ です。
「30年戦争」の爪痕は「アルト・ハイデルベルグ」という恋物語で有名なハイデルベルグ城にもあります。訪れるとガイドがこの城は「30年戦争」であちこちが破壊されました。その傷跡はこれですと城壁の壊れた部分を指さすのです。

3番目の写真は「30年戦争」の爪痕が残っているハイデルベルグ城です。写真の出典は、http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。
ドイツに居た頃、働いていた研究所のドイツ人達と一緒にビールを飲みます。酔ってくると彼らは、決まって何かを大声で議論を始めるのです。何を議論しているか聞いてみると、「30年戦争」のことだと言います。「30年戦争」の何を議論しているのかと聞くと、「敵味方が複雑に入り組んでいてドイツ人にしか分からない問題を議論している」と答えます。そして、「実はドイツ人にもよく分からないのです」と自笑しています。
戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。

4番目の写真は30年戦争で木の枝に吊るした死体の絵です。
この戦争の死者は800万人。ドイツ(神聖ローマ帝国)の人口が1800万人から700万人に減少したのです。
三十年戦争の第2段階から徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになりスウェーデンからイタリーまで全ヨーロッパを荒廃させてのです。 

さて暗黒の原因のもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲です。
ハプスブルグ家結婚と策略を利用して領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めていたのです。本来なら純粋であるべき男女の愛を領土拡大や権力取得に何百年間も利用したのです。有名なマリア・テレジアの結婚もそうでした。それをはヨーロッパ文化の闇です。陰惨な雰囲気がまとわりついています。
まず始めの頃、ハプスブルグ家が作ったハプスブルグ城の写真を示します。

5番目の写真は現在のスイス北部に残っているハプスブルク城(ハビヒツブルク城)です。
史料的に遡れる最古のハプスブルク家の祖先が1020年から1030年頃に作ったことが解明されています。 

6番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土です。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6 です。
この頃、ハプスブルグ家の領土はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。 
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。 
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。下にその写真を示します。 

7番目の写真は現在のウイーンにあるシェーンブルン宮殿です。
写真の出典は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%AE%AE%E6%AE%BF です。
このハプスブルグ家は多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」を構成していたのです。
その歴史は複雑怪奇で、私には理解出来ません。

今日は中世のヨーロッパは暗黒として30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「春の絶景、潮来の藤の花まつり」

2023年04月24日 | 写真
和の風情を感じさせてくれる藤の花が水郷潮来あやめ園の約250mの藤棚に咲き誇ります。

令和5年4月22日~令和5年5月7日 
★イベント日5/3・5/4

駐車場は、市営駐車場(潮来市あやめ2-15-4)をご利用ください。


「キリスト教を冒涜したヨーロッパ人、騎士修道会とプロイセンの建国」

2023年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教はヨーロッパ文化の根底にあって輝かしい文化をつくりました。キリストの教えは人類の貴重な遺産です。多くの日本人も理解し影響を受けています。しかし宗教は誤解され易い要素を持っています。誤解するととんでもないことになります。例えばキリスト教に心酔すると他の民族へも強要します。武力を使ってキリスト教信者になことを強要します。
しかし武力を使うことがキリスト教を冒涜しているのです。その一つの例は中世に活躍した「騎士修道会」です。
今日はこの騎士修道会とプロイセンの建国について書いてみたいと思います。それは日本の歴史では考えられない不思議なヨーロッパの歴史です。
「騎士修道会」とは十二世紀末に創設されたドイツ騎士修道会、テンプル騎士修道会、聖ヨハネ騎士修道会などです。これらを三大騎士修道会と言います。そして1143年にローマ法王ケレスティヌス二世はこれらの騎士修道会を賞賛し重用したのです。騎士修道会の武力を使ってキリスト教の布教をしたのです。しかし武力を使うことはイエスの教えを冒涜するものでした。
騎士修道会では修道僧が騎士を兼ねているのです。そして領主や王様に雇われ、騎馬軍団として彼等の権益を守ったのです。
この事実を当時のローマ法王は承認しドイツ騎士修道会を重用したのです。
これらのことを私は「ヨーロッパ文化の闇」と思います。

1番目の写真はドイツ騎士です。
写真の出典は、http://www.hobbyshop-sunny.co.jp/www/scale/view.php?id=13190 です。

2番目の写真は1143年、ローマ法王ケレスティヌス二世が騎士修道会のメンバーと会っている場面です。
写真の出典は、http://www.gregorius.jp/presentation/page_80.html です。

3番目の写真は「マルボルクのドイツ騎士団の城」です。現在のポーランド北部の都市マルボルクにあります。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルボルク城です。
中世の騎士修道会を私が何故、「ヨーロッパ文化の闇」と書くのでしょうか。
それはイエス様が武力を使うことを禁じたからです。「私はローマ人をエルサレムから追い出すために、武力を使わない」と言って、武力蜂起を期待していた人々へ宣言したのです。
イエス様の役目は全ての人々の罪の償いのために十字架につくことだったのです。
イエス様は、「騎士の武力で異教徒をキリスト教に改宗させなさい」とは絶対に言わないのです。武力行使はこの世の欲望に弱い人間が勝手にすることなのです。

さてドイツ騎士修道会はどこからその潤沢な活動資金を得たのでしょうか?
その資金は中世のヨーロッパの数多くの領主や王族の寄付です。
この世の権力者達はイエス様の教えの、「肉欲を捨て、隣人を助け、神に祈れ」という言葉を守れないのです。
しかし騎士修道会は自分の領土を守ってくれるのです。ですから騎士修道会に資金が集まりました。
ドイツ騎士修道会は現在のリトアニア、ポーランド西北部、ロシアのカリーニングラードに跨るバルト海東南沿岸を占領し、「プロイセン」という国家を作ってしまったのです。
その大義名分はバルト海沿岸に住む異教徒を征服し、カトリックに改宗させることにありました。当然、ローマ法王も大きな支援をします。

1309年、ドイツ騎士団は本部をヴェネツィアからマリーエンブルク(現マルボルク)に移します。これによってプロイセンが名実ともに騎士団の本拠地となります。これがプロイセンの建国です。
ドイツ騎士団は、選挙で選ばれる総長を統領として、選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制の「ドイツ騎士団国」を築きました。
騎士団国家は十四世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西欧に穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていました。
ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)やエルビンク(現エルブロンク)は、ドイツ騎士団の下で貿易都市として発展を遂げました。これらの都市は、大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えました。
3番目の写真は最盛期の「ドイツ騎士団の城」です。
さて現在でもドイツ騎士団は活躍している国があります。
ハンガリーで救急車を呼ぶとよくドイツ騎士団の救急車が来るそうです。他の組織の救急車は来るのが遅くてあてにならないそうです。
驚きは、とっくに消滅したと思われているドイツ騎士団が現在でも存在していることです。ドイツ語のホームページを公表しています。(http://www.deutscher-orden.at/content/site/home/index.html)
騎士が馬のかわりに救急車に乗って急病人を助けに来るのです。

日本では中世のヨーロッパで騎士修道会が重要な役割をしていたか詳しく知られていません。学校の歴史教育でも教えません。歴史上で重要な存在でしたが日本ではあまり知られていません。ヨーロッパ文化の闇の一つです。
ヨーロッパ文化は明治維新以来盛んに導入されてきましたが騎士道修道会も忘れるべきではありません。

今日はキリスト教を冒涜した騎士修道会の活躍とプロイセンの建国の歴史をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======参考資料============
(1)ドイツ騎士修道会:増永純也の研究資料:http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama99/99msng.htm#hajimeni
十二世紀末に創設されたドイツ騎士修道会(ドイツ修道騎士団、ドイツ騎士団とも通称される)は、十字軍運動のただなかにあったこの時代に成立した特殊な宗教的・軍事的組織です。

(2)ドイツ騎士団 http://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
中世の三大宗教騎士団は十字軍時代に、騎士道精神と修道院精神との結合を目ざし、聖地巡礼の守護を主任務として結成された修道会です。
テンプル騎士団、ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団などがあり、対異教徒戦や辺地の開拓に活躍しました。

(3)北方十字軍(ほっぽうじゅうじぐん)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
あるいはバルト十字軍は、カトリックのデンマーク、スウェーデン、リヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のことです。北ヨーロッパおよびバルト海沿岸の異教徒に対して行われたカトリック教諸国の同盟による遠征でした。
http://drupal.cre.jp/node/1719 とhttp://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/00f8149ad182dce6515fa7b249b697dd もあります。

(4)ドイツ騎士団の活躍
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D_%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
1226年、異教のプロイセン人の度重なる侵入に悩んでいたポーランドのマゾフシェ公コンラート1世は、騎士たちに東部国境守護とプロイセン平定を依頼した。ドイツ騎士団はマゾフシェ公国の傭兵としてプロイセンを征服すると、リトアニア大公国と戦った。