後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「暮らしの歳時記、節分の豆まきの仕方」

2022年01月31日 | 日記
窓をあけて元気に豆をまき、邪を払い福と春を呼び込む「豆まき」は、子どもたちも楽しみにしている節分の行事です。

近年は恵方巻も節分の食べ物としてすっかり定着しました。

日本の伝統行事として大切にされている「節分」の「豆まき」を家庭で楽しんで季節感を味わいましょう。
(https://www.dcm-hc.co.jp/kur.../c_useful/20190216191638.html )

節分の豆撒きは宮中で節分に行われていた「追儺(ついな)」という鬼払いの儀式が広まったものです。昔から節分には厄を払い新年の幸せを願う行事が日本各地で行われ、現在も大切にされています。

福豆とは
炒った大豆を桝に入れ、神棚にお供えしたものが福豆です。
昔から穀物には霊力が宿ると考えられ、福豆は邪気を払うと考えられてきました。豆まきでは、正式にはこの福豆をまきます。

豆をまくのは誰?
豆まきを行うのは「年男」です。本来年男とは一家の主人をさしましたが、現在ではその年の干支に生まれた男性を年男といいます。現在では年男、年女、あるいは家族がまきますが、地方によっては厄年の人がまく風習もあります。

正式な豆まきとは?

①日暮れまでに福豆を準備をします。

②鬼が戸口から入るのを防ぐため「ヒイラギの小枝にイワシの頭をさしたもの」を門や玄関に飾ります。
鬼はイワシとヒイラギが大の苦手とされているからです。これは「鰯柊(いわしひいらぎ)」として店頭でも販売されていますが手作りも簡単です。

③午後8時~10時頃開始します。玄関、ベランダ、窓などすべての戸を開け放します。

④年男は桝に入れた福豆を手にして、玄関から各部屋を回ります。
出入口のとことで「鬼は外、福は内」と2回ずつ繰り返し声をかけながら豆をまきます。桝を左手に、胸の高さに持ち、右手で下手投げでまくのが正しいまき方です。

⑤豆をまき終わったらすぐに戸締りをします。鬼を締め出し、福を逃さないためです。

⑥豆まきが終わったら家族全員で豆を食べますが、この豆は「年取り豆」と呼ばれます。
自分の年齢だけ、もしくは年齢の数+1個だけ食べるのがならわしです。そんなに食べられないという場合は代わりに「福茶」を飲む習慣もあります。ちなみに、豆まきの豆を炒るのは、「拾い忘れた豆から芽が出るとよくない」といういわれがあるからです。

福茶とは
福豆をいれた縁起の良いお茶です。作り方は、昆布の佃煮か塩昆布、梅干し1個、豆まきに使った豆を吉数の3粒入れます。梅の花はおめでたい花、昆布は「よろこぶ」にかけています。豆がお湯でやわらかくなり、香ばしくやさしくなった福豆を湯のみに入れて熱湯を注ぐだけのお茶です。

節分の「鬼」
鬼は架空の生き物ですが、さまざまな説や言い伝えがあります。昔から目に見えない恐ろしいこと、病気や飢餓、災害などは鬼の仕業とされ、日本の昔話にもたくさん登場しました。角(つの)と牙(きば)を持ちますが、これは牛(丑)の角と、とら(寅)の牙とされています。鬼が出る方角は北東とされ、これは十二支に当てはめると丑寅の方角。丑寅は時刻に当てはめると夜中にあたることから、豆まきは夜に行うのがよいとされています。

恵方巻とは
江戸時代末期頃、関西を中心に流行っていたといわれています。節分の夜にその年の恵方を向いて食べると、商売繁盛や無病息災で過ごせるなどのいわれがあります。包丁では切らず、頭から無言でまるかじりするのがよい、とされています。

以上が暮らしの歳時記、節分の豆まきの仕方です。
写真の出典は、https://www.inacity.jp/.../photonews/photolibrary030202.html です。


「帆船日本丸II世の写真」

2022年01月30日 | 写真
初代日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航した。日本丸II世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。住友重機械工業浦賀工場で建造された。

先代の日本丸に比べて帆走性能が大幅に向上しており、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。

その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1986年(昭和61年)、1989年(平成元年)、1993年(平成5年)と三回受賞している。


「中国の桜の名所、大連の龍王塘桜花園の花々」

2022年01月30日 | 写真
龍王塘桜花園は中国の大連市にある観光地です。日本時代に作られたダム、龍王塘水庫の堤に植えられた桜が四月末に満開となり、「旅順の桜」として地元の人たちに親しまれています。

公園入り口で配られるパンフレットには「中国第一桜花園」と書かれており中国の桜の名所です。
写真の出典は、https://jp.trip.com/.../longwangtang-cherry-blossom-park.../ です。






「カトリック教会、2022年4月30日の年間第4主日のミサ動画配信」

2022年01月30日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  4月30日(日) 10時

カトリック関口教会、年間第4主日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=vePOGJClMaI
4月30日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭)
入祭の歌 典171 わたしたちは神の民
あわれみ・栄光の賛歌 カ典405・406
答唱詩編 典146①②③ 父よあなたこそわたしの神
アレルヤ唱 271 年間第4主日
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納  典398 その人は幸い
感謝・平和の賛歌 カ典 407・408番   
拝領  典381 愛の賛歌
閉祭  カ典320 ひかりをあびて


聖イグナチオ教会、年間第4日のミサ動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=uU6fjGTDpps

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
エレミヤの預言(エレミヤ 1:4-5, 17-19)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 12:31-13:13, または13:4-13)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 4:21-30)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵はユトリロの風景画です。
ユトリロが描く『白の時代』の「ノルヴァン通り」、リトグラフ


「冬の水鳥の写真を撮りに行く」

2022年01月29日 | 写真
寒いからと言って家に蟄居していると気持ちが暗くなります。そこで車を馳せて清瀬市の金山緑地まで行って冬の水鳥の写真を撮って来ました。
寒いのに緑地には散歩している人がたくさんいました。世の中の人は皆元気なのです。見習います。
写真は家内が撮りました。






「厳寒の北海道の風景写真」

2022年01月29日 | 写真
冬は寒いものです。厳寒の北海道に比べたら東京は暖かい感じがします。感じだけでも暖まりたいので冬の北海道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は美瑛町の「青い池」の夜景です。

2番目の写真は摩周湖です。展望台に立つと吸い込まれそうなほどの深い青色の湖水が広がっています。

3番目の写真はオホーツク海の流氷です。極寒の地だからこそ見えるオホーツク海の流氷です。

4番目の写真は北海道・網走郡にある「メルヘンの丘」です。夕焼けバックに沈みゆく太陽です。

4枚の写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/18940/ です。

「昔の日本の冬は貧しくて寒かった」

2022年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、東京も寒さが一段と厳しくなって来ました。
しかし昔の日本の冬はもっと寒かったような気がします。特に経済成長する前には暖房器具も貧弱で冬は一層寒かったのです。私の子供の頃はコタツと火鉢しか無かったのです。寝ていると隙間風に乗って粉雪らしいものが舞い込んで来ます。戦前、戦後のころに過ごした仙台の冬の日々を思い出します。
当時は日本中が貧しくて、ひもじくて冬の寒さが一層厳しく感じられたのものです。

そこで今日はラフカディオ・ハーン 作、「鳥取の布団」という寒くて悲しいお話をお送りいたします。
以下は小林幸治さんの翻訳です。出典は、
http://bbs.yakumotatu.com/test/read.cgi/epublish/1407132963/n90-96 です。
全文は長すぎるので部分的に省略しました。

・・・ かなり昔、鳥取の町のとても小さな宿屋に、最初の客として行商人が泊りました。良い評判を立てようと宿の主はそのお客を大変親切に迎えたのです。
新しい宿ではありましたが、主人が貧乏なため大部分の道具、箪笥と調度品は古物屋から購入したのです。しかし、なにもかもが清潔で快適できれいでした。お客は思う存分食べ、ほど良く暖められた酒を存分に飲んだ後で、柔らかい床に用意された寝床に倒れこみ眠るために体を横たえました。

 さて、寝床がとても心地良ければ、暖かい酒をたらふく飲んだ後は、たいてい人はぐっすり眠るものです。
しかしその客は、部屋の中から声がしたので、ほんの少しの間眠っただけで目を覚ましたのです。
いつまでも同じ問い掛けでお互い訊ね合う子供の声でした。
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
寝ていた客は子供が何人か座敷へ迷い込んだに違いないと思ったのです。
しばらく沈黙があって、それから優しく、か細い、哀れな声が耳元でまた聞こえたのです。
「あにさん、寒かろう」
別の優しい声がなだめるように答えを返す「おまえ、寒かろう」

客は立ち上がり、行灯の中の蝋燭に再び火を灯し、部屋を見回した。誰も居ない。障子は全て閉まっている。
いぶかりながらも、灯りを燃えるまま残し再び横になると、すぐに枕元から再びぶつぶつと話す声がした。
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
 その時初めて、夜の冷え込みではない、忍び寄る寒気を全身で感じた。声は繰り返し聞こえ、その都度怖れは深まった。
声は布団の中からだと分かったのです。それは寝床の掛け布団が、このような呼び声を出していたのです。
 彼は慌ただしく少ない所持品をかき集めて階段を降り、宿を飛び出します。

・・・宿の主はその布団をある貧しい家族の物で、その家族の小さな家の大家から買ったことを思い出します。
 その小さな家の家賃は、月にたったの六十銭でしたが、これでも貧しい人が払うには大きな負担です。父親が稼げるのは月に二三円だけ、母親は病気で働けず、二人の子供がいた。六歳と八歳の少年です。
ある冬の日、父親が病気になり7日の間苦しんだ後に死んで埋葬されました。
それから長く病んだ母親も後を追い、子供達は身寄りも無く残されました。
彼らは助けを求める者を誰も知らず、家の中に売れる物が有れば生きるために売り始めたのです。
 死んだ父母の着物、それと自分達の物のほとんどと、何枚かの木綿の布団、僅かな貧しい家庭の調度品・火鉢、皿やお椀に茶碗、他の些細な物などです。
そうして毎日何かを売って終いには1枚の布団の他は何も残らないまでになりました。
そして食べる物が何も無く、家賃も払っていない日が来ます。
 恐ろしい大寒、最も寒さの厳しい季節の到来、吹き寄せる雪が、小さな家を埋めます。そのため、1枚の布団の下で横になるしかできず、寒さに震え、子供らしいやり方でお互いにいたわり合ったのです──
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
 火は無く、火を焚ける何物も無いまま闇がやって来て、凍える風がヒューヒューと小さな家の中まで吹き抜けます。
 彼らは寒さを怖れたが、家賃の取り立て、乱暴に追い立てる家主がもっと恐ろしかったのです。
何も払えないと分かると、子供達を雪の中へ追い出し、1枚の布団を取り上げ、家に鍵をかけたのです。
 それぞれ薄い着物しか持たず、他の全ての衣類は食べ物を買うため売ってしまったのです。
遠くない所に観音の寺は在るが、たどり着くには雪が激し過ぎます。仕方なく、大家が去ると 彼らはこっそり家の裏へ戻り、そこで寒さによる眠気を感じ、お互いに温まるよう抱き合って眠ったのです。
眠っている間に、神様が彼らへ新しい布団を掛けたのです。霊的な、白くてたいそう美しい物です。
彼らはもはや寒さを感じません。何日もそこで眠り、それから誰かが彼らを見付けたのです。
そして永遠の暖かい寝床が用意されたのです。それは千手観音の寺の墓場の中でした。
 この事を聞いた宿屋の主人は、小さな魂のために経を読み供養して貰うため、その布団を寺の坊さんに渡しました。それから後、その布団は話しをやめたそうです。(終り)

現在の日本は豊になりました。上記のような悲しいことは殆ど起きなくなりました。衣食足りて他人を優しく助けるようになりました。愛が街角に流れ、正義が守られ、飢える人のほとんどいない世界になったのです。しかしまだ困窮する人はいます。貧しくで衣食住に困っている人もいす。

広く世界中を見回せば飢餓で苦しんでいる国々が沢山あるのです。貧困の中にこそ愛が必要なのです。全ての人類が飢餓から解放される日は来るのでしょぅか? 嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は真冬から咲いている淡路島の灘黒岩水仙郷の写真です。

1番目の写真の出典は、 https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.php?bid=190 です。

2番目の写真の出典は、 https://plaza.rakuten.co.jp/yumesenkei/diary/201301250000/ です。

3番目の写真の出典は、http://www.geocities.jp/hanatuduri/kabegami.html です。

4番目の写真の出典は、http://keinoumi.jp/staff/854.html です。

5番目の写真の出典は、http://jp.zekkeijapan.com/spot/index/256/?language=ja です。



「南米移民にまつわる悲しい思い出と氷川丸物語」

2022年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下のお霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。
色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君の傍に居ると平和な気分になるのです。
中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。
優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。
ある時何時ものように店に遊びに行った私に、水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが判りました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。
翌月、相沢眼鏡店に行ったら水元君の姿はありませんでした。他の店員が南米へ行ってしまったと言います。私の少年の頃の悲しい思い出です。
あれから70年近くたちましたが私は水元君と相沢眼鏡店を忘れません。

そんな思い出があったので私は折に触れて南米移民のことや水元君が乗って行った船のことを調べてきました。
そこで移民船として使われたアルゼンチナ丸と氷川丸をご紹介したいと思います。

1番目の写真はアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。水元君の乗って行った船の名前は知りませんが、この船だったかもしれません。

アメリカ留学の時お世話になった黒田さんはアルゼンチナ丸に乗ってアメリカに来たそうです。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったそうです。
写真の出典は、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571  です。

2番目の写真は南米への移民を乗せて横浜港を出航する氷川丸です。沢山の見送り人が移民する人に今生の別れをしている光景です。水元君もこうして横浜港を出たのでしょうか。

3番目の写真は現在横浜港に係留し公開されている氷川丸です。
この船も戦後、南米への移民船として使用されました。そして移民と一緒にアメリカへの留学生も運んだのです。この写真は私が撮りました。

今朝は「太平洋航路の花形、氷川丸の輝きと残照」という記事を掲載したので水元君のことを思い出したのです。



「太平洋航路の花形、氷川丸の輝きと残照」

2022年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

戦前の日本では洋行が憧れでした。南米や北米に渡り成功して故郷に錦を飾る人もいました。飛行機が普及していなかったので船で海を渡って行来したのです。そんな時代に氷川丸は太平洋航路の花形として輝いていました。洋行しない人でも氷川丸に憧れていました。

氷川丸は日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12,000t級の貨客船です。 1961年から横浜の山下公園に係留され一般公開されています。

私は2013年のある日、横浜に行って、氷川丸の船内を見て回りました。
今日はまずその時私が撮った写真を示します。
1番目の写真は横浜に係留されている氷川丸を船尾から撮った写真です。2013年に撮りました。
2番目の写真は氷川丸の舷側です。舷側から船に登り船内を見学しました。
3番目の写真は操舵室から見下ろした船首部分です。
4番目の写真は一等客の食堂です。
5番目の写真はアールヌーボーの雰囲気の1等客室です。客室が好評で戦前にチャップリンはじめ有名人が数多くこの船を利用したそうです

6番目の写真は一等客の個室です。2等は6人部屋、3等は大部屋です。


7番目の写真は船内の見学が終わって甲板から見上げた救命ボートです。


さて写真で示した氷川丸は1930年に横浜ドックで建造され、それ以来19

61年まで31年間、シアトル、サンフランシスコ、ハワイなどと横浜の間を

往復する豪華客船として華やかな航海を続けたのです。当時の日本の花形客船

だったのです。

しかし1961年からは山下公園に係留されたままで、再び太平洋へ乗り出す

ことはありませんでした。

私は全長163メートル、11622トンの大きな客船の中をくまなく歩き

昭和という時代のあれこれを懐かしく思い出しました。

日本が貧しかったころに精一杯頑張って作り上げた客船という感慨に打たれ

ます。


余談ながら私が留学したオハイオで親しくなった小林 實さんはこの氷川丸に乗って渡米しました。そこで小林さんに頼んでその時の思い出の記を寄稿して頂きました。茫々60年前のことです。

====1959年、氷川丸に乗ってアメリカへ留学した小林 實さんの乗船記===

私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。 ・・・以下省略します。

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上記のように氷川丸は日本郵船のフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の客船として活躍しました。横浜シアトル間は13日かかります。
氷川丸は戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船です。

当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。


氷川丸は戦前より唯一現存する日本の貨客船であり船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産です。2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定。2007年(平成19年)に経済産業省の近代化産業遺産として認定。さらに2016年(平成28年)8月には国の重要文化財(歴史資料)に指定されました。 

今日は昭和時代に太平洋航路の花形だった氷川丸をご紹介いたしました。
この国の重要文化財は横浜の山下公園に係留され一般公開されています。是非一度ご覧下さい。
     
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「待ち遠しい梅の花、東京の梅の花の名所」

2022年01月26日 | 写真
2月になると梅の花が咲きます。待ち遠しいので去年撮った小金井公園の梅林の写真を4枚お送り致します。自分で撮ったのであまり上手な写真ではありませんが梅林にただよっていた香りを思い出します。





東京では湯島天神をはじめとする多くの場所で、梅の美しい景色を楽しむことができます。そんな東京の梅の花の名所の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=23839 です。

5番目の写真は文京区にある都立庭園の小石川後楽園 の梅です。
   
6番目の写真は小石川植物園の梅です。

7番目の写真は池上梅園です。

8番目の写真は哲学堂公園の梅です。

9番目の写真は立川市にある国営昭和記念公園の梅です。
写真では示しませんでしたが東京には他に湯島天神の梅や町田市の薬師池公園の梅や亀戸天神社の梅が見事です。
そして東京には数多くの梅の名所があります。「東京の梅 2022年の名所、45ケ所」、 https://iwalkedblog.com/?p=23839 をご覧下さい。日本人は本当に梅の花が好きなのです。

今日は2月に咲き出す梅の花が待ち遠しいので去年撮った小金井公園の梅の花の写真4枚と東京の梅の花の名所の5ケ所の写真をお送りいたしました。
南の九州では梅が咲いているでしょう。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ロシアの軍事行動で緊迫するウクライナ情勢」

2022年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシアはウクライナの国境付近に大軍を集めて軍事演習を行っています。まだ国境を越えてウクライナへ進軍していません。しかしウクライナ東部の2州は親ロシアの反政府軍によって占領されています。
アメリカとイギリスはウクライナ政府へ多量の武器を送り軍事支援をしています。1991年のソ連崩壊後、最大の戦争が起きそうです。
今日は緊迫するウクライナ情勢を考えてみましょう。
日本の新聞は遠方のウクライナ情勢を対岸の火事として詳しい報道はしていません。しかしインターネット報道では下記のように情勢が緊迫しているのです。まさに大規模な戦争が起きようとしているのです。

「ウクライナ情勢:時事ドットコム」、https://www.jiji.com/jc/v7?id=202112ukraine
(1)米、大使館員家族に退避命令 ウクライナ侵攻懸念、2022年01月24日
 【ワシントン時事】米国務省は23日、ロシア軍によるウクライナ侵攻の脅威が続いているとして、ウクライナの首都キエフにある米大使館の職員家族に退避命令を出したと発表した。一部職員の「自主的退避」も承認し、現地に滞在する米国市民には民間機などを利用し、直ちに国外退避するよう改めて促した。また、ロシアへの「渡航中止」も勧告した。

(2)ロシア軍侵攻のタイミングは北京五輪と「無関係」、―米長官発表
 ウクライナ情勢をめぐっては、ロシア軍が国境付近に10万人規模の部隊展開を続けており、侵攻が現実味を帯びつつある
そして、ロシア軍侵攻のタイミングは北京五輪と「無関係」と発表した。
米ロ外相は21日、ジュネーブで会談し、事態打開に向けた協議を継続することで一致していた。

(3)英外相、ロシアをけん制しウクライナ侵略は「泥沼招く」と警告、      
    2022年01月22日
 【ロンドン時事】トラス英外相は21日、緊張が続くウクライナ情勢をめぐり、「ひどい戦略的ミスを犯す前にウクライナから手を引くよう強く要求する」と述べ、ロシアを強くけん制した。「ソ連のアフガン侵攻やチェチェン紛争を見れば分かるように、侵略は泥沼化を招くだけだ」とも語った。訪問先のオーストラリアで講演した。
トラス氏は「クレムリン(ロシア大統領府)は歴史の教訓を学んでいない。ソ連の再現、あるいは民族や言語で領土を切り分ける『大ロシア』のようなものを夢想している」と批判。北大西洋条約機構(NATO)の同盟国や友好国が連携して大規模な制裁を準備していると強調した。

(4)アメリカはバルト3国を経由してウクライナへの武器供給、2022年01月21日、
【ベルリン時事】AFP通信は20日、米国がバルト3国に対し、米国製の武器をウクライナに供給することを承認したと報じた。対戦車ミサイル「ジャベリン」などが対象とみられる。バルト3国はロシアとの間で緊張が高まっているウクライナ支援に向け、米国に武器供給を認めるよう要請したという。

(5)NATO各国は戦闘機や軍艦派遣、2022年01月24日
北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長がドイツ・ベルリンで発表(EPA時事)
 【ブリュッセル時事】北大西洋条約機構(NATO)は24日、ロシア軍による侵攻への警戒が高まるウクライナ情勢をめぐって声明を出し、東欧の防衛力増強のために加盟各国が戦闘機や軍艦、部隊の派遣を進めていると表明した。
 ストルテンベルグ事務総長は、加盟各国の動きを歓迎し「NATOは東方の強化を含め、加盟国を防衛するために必要なあらゆる措置を講じ続ける」と強調した。

この戦争が起きる可能性の歴史的な背景をまとめておきます。
(1)ソ連時代、ウクライナとペラルーシュとともにロシアと一体化していた。ソ連の穀倉地であり、また軍事産業も盛んで、ソ連の重要な一部分であった。
(2)ウクライナの東部2州には昔からロシア語を話すロシア人が多く住んでいた。親ロシアの反政府軍が占領しているのもこの歴史的背景画あるからである。
(3)アメリカやNATO加盟国はウクライナをNATOに入れロシアを圧迫したい。ロシアはそれを阻止しようと軍事的脅迫をしているのです。ウクライナはNATOに加盟したいが慎重にならざるを得ない。
(4)アメリカやNATO加盟国は直接ウクライナへ軍隊を派遣すればロシアは即刻、開戦に踏み込む。現状ではロシア軍が圧倒的に有利なのです。

以上の状態で危機的なにらみ合いが続いているのです。一方中国はアメリカと対抗しているので緊迫するウクライナ情勢を内心歓迎しています。
さて日本の外交はどのような影響を受けるのでしょうか?

今日はロシアの軍事行動で緊迫するウクライナ情勢を分かり易く書いてみました。挿絵代わりの写真はウクライナ国境近くで演習しているロシア軍の写真です。写真はいろいろな報道記事からお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「仙台市の野草園の春の花の写真」

2022年01月24日 | 写真
仙台市の野草園の春の花の写真です。
写真の出典は、https://ciao66.exblog.jp/21915428/ です。

この野草園には東北地方に生える野草を中心に、高山から水辺まで、さまざまな環境に生える野草を植えています。
大年寺山の北西側斜面、標高64.0mから117.1mに広がっています。
園内の北東に針葉樹、南東に高山植物、中央西側に芝生広場、その南側に屋内展示を行う野草館を置き、低い谷間に池を造って水辺の植物があります。
中央付近にはツバキやナラ類など広葉樹を植えてあります。
面積は9.5ha。草本500種・木本370種あります。





「写真で見る我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景」、続編

2022年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「写真で見る我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景」という記事を掲載しました。仙台の戦前、戦後の風景なので貧しげで侘しい町の風景写真でした。しかし当時でも美しい風景があったのです。それは仙台市を流れる広瀬川の清流です。そこで昨日の記事の続編として美しい広瀬川の風景をご紹介したいと思います。
早速ですが広瀬川の風景写真をご覧下さい。
広瀬川の写真の出典は、「技師の黙想」;http://www.alexforencich.com/blog/ja/2010/11/17/hirose-river/ です。





美しい瀬音をたてて流れる広瀬川は仙台の人々の誇りです。人々の心を豊かにしてくれます。私は昭和11年に仙台に生まれました。広瀬川は故郷の懐かしい川です。川の南側には、お霊屋下や向山と呼ばれる住宅地になっていました。

以下は広瀬川にまつわる思い出の記です。
私の家は向山にありましたので市街地に行くには鹿落坂(ししおちざか)を下ってお霊屋橋か評定河原橋を渡ります。
お霊屋とは伊達政宗の霊廟のことで、その霊廟は経ヶ峰という小高い山の上にありました。その霊廟のある山の麓一帯をお霊屋下と呼んでいたのです。
評定河原とは伊達藩政の頃、藩の評定所があった河原の呼び名です。お霊屋橋の少し上流にありました。
このような場所で育ったので、思い出としては お霊屋橋と評定河原橋から見下ろした広瀬川の風景が心に焼き付いています。

(1)動物園と川遊びの思い出
幼児の頃、お霊屋下の住宅街を通リ抜けて評定河原橋を渡って左に行くと、動物園があったのです。戦前は象もキリンもライオンもいました。幼稚園に入る前に何度か胸を躍らせて見にいったものでした。
その行き帰りに必ず評定河原橋を渡り、川の流れの風景を随分と長い間眺めていました。川波が岸辺に寄せて、やがて下流に流れて行く様子が子供心に面白かったのです。
小学校に上がると同級生がお霊屋下に住んでいたので広瀬川の岸辺に降りて水遊びをしました。そして川石をソオッーとのけると小魚のカジカがいます。それを取るのに夢中になりました。

(2)旧軍の上陸用舟艇での川下りの思い出
中学校に上がると親友が評定河原橋の近くに住んでいました。何度も遊びに行くうちに評定河原橋の下で悪い遊びもしました。
ずっと上流の青葉城の城門の近くまで行くと軍隊が捨ててしまった折り畳み式の上陸用の小舟が何隻も並んでいるのです。その一隻に悪童連とともに勝手に乗って、川を流れ下るのです。始めは川がゆったり蛇行して、動物園のあった琵琶首丁の周りを丸く流れています。そして、やがて馴染みの評定河原橋の付近の瀬にさしかかります。
すると上陸用舟艇は瀬の岩に乗り上げて止まってしまいます。
悪童連の舟遊びはそこで終わりです。土手を這いあがって評定河原橋の上から上陸用舟艇へ別れを告げます。
その後、あの船はどうなったでしょうか?何度も勝手に上陸用舟艇に乗りに行く度に消えて無くなっています。そして終いには軍隊が捨ててしまった上陸用舟艇が全て無くなってしまいました。多分、太平洋に流れ出て、海の底に行ったのでしょう。戦後の大人たちは忙しく、誰も子供の遊びに干渉する暇が無かったのです。

(3)広瀬川を泳いで渡ったことやボート遊びの思い出
やがて高校生になると泳ぎも上手になったので鹿落坂の下の広瀬川を泳ぎ渡りました。川を泳ぎ渡ることが自慢でした。
泳ぎ渡るのにはコツがあるのです。斜めに泳ぎ、川の流れに身を任せるのです。
高校になると通っていた仙台一高が東の市街地にありましたので、今度は下流の愛宕橋を毎日のように渡りました。
すると橋下に堰があり、川幅が広くなっています。そこに貸ボートが並んでいます。随分と何度もこのボートに乗ったものです。
ボートを漕ぐ面白さに目覚めたのは広瀬川でした。それで塩釜から松島までカッターを漕いだり、レース用のエイトを漕ぐことになったのです。
そんな遊びの相手をしてくれたのが広瀬川です。

遊び相手だけでなく夏の夜に岸辺を歩くとカジカ蛙がコロコロと実に心地良い声で鳴いているのです。今は亡き叔父の肩車に乗って、夜の鹿落坂をカジカ蛙の声を聞きながら何度も行き来した情景を思い出します。

広瀬川。嗚呼、それは懐かしいいとおしい思い出の川でした。
皆様も川にまつわる思い出を沢山お持ちのことと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
青葉城恋歌の動画;https://www.youtube.com/watch?v=u-GYBCktieU&feature=youtu.be

「青葉城恋唄」
星間船一作詞・さとう宗幸作曲

広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬(はやせ)躍(おど)る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁(ささや)き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけき 杜の都
あの人は もういない

青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず
樹(こ)かげこぼれる灯(ともしび)に ぬれていた君の頬
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 通りの角(かど)
吹く風やさしき 杜の都
あの人は もういない

時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない