後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

「桃太郎さんという住職さんの日記をご紹介いたします。」

2016年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
唐突ですが、私は桃太郎 さんという曹洞宗のあるお寺の住職さんを尊敬しています。趣味人倶楽部の会員です。

素晴らしい住職さんです。日本中の住職さんが桃太郎さんのような方だったら寺院仏教は衰退しません。
そこで今日の彼の日記の一部をご紹介いたします。

挿し絵代わりの写真は今日の午後、八王子市の郊外で通りがかった姿の良いお寺の写真です。桃太郎さんのお寺ではありません。臨済宗の常龍山斟珠寺(シンシュウジ)です。
===================
『破戒坊主』(400)
https://smcb.jp/users/463063

・・・およそ信仰の対象(神や仏など)は カネを欲しがらない。
どこの世界の どんな神様が 指を舐めて カネを数えるか?
カネを欲しがるのは 自らを教祖と 或いは教祖の教えを説明する伝道師と自認する 人間なのだ。

信仰には カネは掛からない。
一銭のカネでも求める宗教があれば 偽教と思って 間違いない。

『布施』だ『喜捨』だ『浄財』だと その辺り 巷の宗教者は奥歯に物の挟まった言い方をするが 信仰には 普通の生活以上のカネは 掛からないのだ。

だが 葬式にはカネが掛かる。
当たり前だ。
(坊さんの)職業だもの。
経済活動だもの。
だから葬式は 宗教ではない。

俺は 生活の多くの時間を 葬式業に使っている。
だからその時の俺は 宗教者ではない。
考えても見よ。
死んだ者に向かって 仏教の教義なる お経を唱えて 何の為になる。
精々
『葬式は死人の為ではない 生き残った者の道を示す為の宗教儀式だ』
などと ねじ曲げて 必死に言い訳をする。

そんな持って回った言い方をするヒマが有るのなら 何故 道を説かぬか。
気が触れた と 阿呆 と言われようが 何故巷に分け入って 読経し続けないのか。

俺とは 一体 何なのか。
何の為にこの世に生まれ 何の為に坊主に成ったのか。
何百何千何万回 自問してきた此の問いを 馬鹿のようにまた 問い直している。

自己矛盾の落としどころが見付からない。
そういう『葬式坊主』が 此処に居る。
何の役にも 立たない。・・・つづく




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人間の絆のいろいろ(3)夫婦ほど不思議な絆は無い

2016年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の絆で夫婦の絆ほど不思議なものはありません。多くの場合、まったくの赤の他人同士だった2人が一緒になって何十年死ぬまで暮らして行くのですから、これほど不思議な絆はありません。
一緒になる2人が外国人同士だろうが親子ほど年が離れていても一向に関係なく添い遂げるのですから不思議です。
血を分けた母子の絆や父と子供の絆の強さは容易に理解出来ますが、夫婦の場合は全く他人同士なのです。
自分のことを例に上げて恐縮ですが、たった一回の見合いで、何も恐れないで、すぐにいきなり結婚してしまったのです。
そして子供も生まれ、孫も生まれました。子供や孫は夫婦の絆を一層強くします。無意識のうちに強くしてくれているのです。
昨日は妻の祖父母や両親の正月前の墓参りをして来ました。

1番目の写真は東京の日野市にあるお墓のあるお寺の写真です。

2番目の写真はお寺の鐘楼です。今夜、除夜の鐘を突く鐘です。

3番目の写真は妻の実家の先祖代々の墓です。
宗派が浄土宗なので合掌して「南無阿弥陀佛」と十回唱えます。線香の香りが流れ、晴れ上がった虚空にケヤキの梢が広がっていました。
妻の祖父母も両親も私を大切にしてくれました。墓参りをするとその生前の優しい笑顔が眼前に現れてくるのです。これも不思議な人間の絆です。
自分自身の祖父母や両親の墓は遠方にあります。めったに墓参りは出来ませんが、それぞれの生前の姿が昨日も現れていました。
こうして私にとって妻の実家の墓参りをするたびに人間の絆を強く感じ、とても不思議な思いをいたします。
このようにもともと赤の他人だった妻と一生一緒に仲良く住む絆を持てたことは幸運なことです。
偶然このような運命に会えたのです。
しかし人それぞれと言うように結婚という絆にもいろいろな形があるのです。全く結婚をしない人も多いのです。
私の友人にまったく結婚しなかった人がいます。親切で優しい人です。独り暮らしを悠々と楽しんでいます。よく結婚しないと幸せになれないと言う人がいます。しかしそれは間違っています。
それから最近増えてきたものに同性婚という形態があります。
残念ながら日本では差別する人が多いようですが、差別してはいけないと思います。
私の友人に同性婚をしている人がいます。人間性が良く、知的で、暖かい心を持った人です。
日本では同性婚に対して偏見が強く、差別されるので ある外国に移住してそこで幸せな同性婚をしています。
一般に欧米側国では同性婚は普通の結婚と同じく法律的に保護されているのです。
税金の配偶者控除も普通の夫婦とまったく同じです。一方が亡くなった場合には配偶者の受け取っていた年金も貰えます。遺産相続も同じです。
日本では一般に性的マイノリティーとはどういうものかがきちんと理解されていないのです。
この件は奥が深いので、今日はこの位で止めます。

しかし同性婚のことまで考えると結婚の絆の不可思議さが一層深く感じられます。
人間がいくら考えても結婚の絆は理解できません。
ですからそれは神の領域なのです。
したがってキリスト教の旧教であるカトリックの教義では、現在でも離婚を禁止しています。
しかし世の中には2人の相性が悪いこともあります。いくら双方が努力しても相性の悪いのはどうしようもありません。別れる他方法がありません。私はカトリックですが、そのように考えています。別れる他方法が無いという絆も不思議なことです。

昨日、お墓参りに行きながらこんなことを考えていました。そして帰りがけに本堂の前でお釈迦様にお祈りして来ました。妻も合掌していました。
空には冬の澄んだ空気がみなぎり、宇宙のかなたまで見えるような素晴らしい晴天でした。

皆様、良いお年をお迎えください。この一年お世話になりました。
皆様の幸多い新年が来ますようにお祈り申し上げます。  後藤和弘
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正月料理のために狂ったようにお金を使う日本人

2016年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
この表題は正確ではありません。狂ったようにお金を使う多くの日本人と訂正すべきです。しかし昨日、スーパーへお節料理の材料を買いに行って見た光景があまりにも驚愕的であったのです。
そのスーパーでは、日頃、控えめの値段で良質な食材を売っています。売り場が清潔で広い通路が気に入って毎日のように行っているYaokoというスーパーです。
それが昨日は様変わりしています。高級なお節料理の食材が溢れるように並んでいます。そして値段が驚く程高くなっているのです。
贅沢は敵だというスローガンを聞かされて育った私にとっては息を飲むような光景だったのです。
本当にこんなに高い、そして多量の商品が数日で売れるのでしょうか。とても心配になってきました。
お節料理に欠かせない蒲鉾や伊達巻を詳しく見ると篭清や鈴廣や紀文という有名店のものばかりです。黒豆は丹波産。太いタコの足は北海道産。マグロはインドマグロや近海の本鮪。
それに松葉蟹に太いタラバ蟹。当然、値段が違います。
これらの商品が数日で売れるのです。近所は普通の庶民が住んでいるごく平凡な住宅街です。
この光景を見て、私は確信しました。正月料理の為に狂ったようにお金を使う民族が日本民族の特徴だと。勿論、例外は多いと思いますが。
しかし驚いてばかりもいられません。家内と一緒に一応必要なものを買い揃えました。
そして下の写真のようなものを手本にして重箱に入れたお節料理を作るのです。

1番目の写真はデパートや有名な料理店で売り出しているお節料理の詰め合わせです。
我が家では写真に写っている食材の全てを揃えるのは無理ですが、こんなイメージの詰め合わせを毎年作ります。家内が作るのが楽しそうにしています。

2番目の写真は正月料理の材料を買う人で賑わっている東京のアメ横の風景です。

3番目の写真はそのアメ横の店先の光景です。

さてお節料理にはどのような歴史があるのでしょうか?
簡単に言えば奈良時代に中国から入って来た五節供の行事の為に作った料理が起源になっているそうです。始めは実に質素なものでしたが、江戸時代になって武士階級が正月料理を特に作るようになったそうです。庶民もその真似事をします。
ところが多くの人が重箱に詰めるようになったのは第二次大戦以後のことなのです。私は江戸時代から重箱に詰めていたと思っていました。それは間違いでした。
金持ちが重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降だったのです。
そして重箱に御節を詰める手法が完全に確立した時期は第二次世界大戦後だそうです。デパートなどが見栄えの良い重箱入りの御節料理を発売したことによると言われているのです。
そんな歴史があるので現在でもデパートや有名料亭の重箱入りの御節料理を買う人も多いようです。
しかしお節料理の楽しさは、一品一品手作りするのが楽しいのです。作っている間、家内が楽しそうにしているので家庭が明るくなるのです。お正月が来るとその重箱を開けるのが楽しいのです。
実は楽しみはそこまでです。一品一品食べてみると必ずしも感動的な味ではありません。すべて不味い言えば言い過ぎですが、まあ微妙な食品なのです。しかし美味しい!美味しい!と言わないとお正月の神様が来ません。美味しいと言うと美味しくなるのです。
そんなことをしているとお正月も過ぎていきます。

それにしても本年は皆様に多くの拙い記事をお読み頂き、本当に有難う御座いました。そして多くのコメントを頂いたことも深く感謝しています。コメントへ返事をあまり書かなかったことをお詫び申し上げます。

どうぞ楽しいお正月をお迎えください。そして来年も皆様にとって幸多い年になるようにお祈りいたします。
この一年間、有難う御座いました。 後藤和弘


===お節料理とは============
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%AF%80%E6%96%99%E7%90%86 より抜粋しました。

「おせち」は「御節供(おせちく、おせつく)」や「節会(せちえ)」の略であり、中国から伝わった五節供の行事に由来する。
奈良時代には朝廷内で節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであったとされる。
この五節会の儀を一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられている。
もともとは五節句の祝儀料理すべてをいったが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」と称し歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりした。

重詰めへの移行
傍廂(1853年)によれば天明の頃までは食べていたがそれ以降は飾るだけとなり、正月料理は重詰め等へと変化していく。膳に盛られた料理と重に詰められた料理が用意され、このうち膳に盛られた料理を「おせち」と呼んだ。のちの「東京風俗志」(明治34年)によるとお膳に供えた煮物を「御節」、重詰めしたものを「食積」と呼んでいる。
重箱に本膳料理であった煮染めを中心とした料理が詰められるようになり食積と御節の融合が進んだ。
現在では重箱に詰めた正月料理を御節と呼ぶようになっている。重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている。
重箱に御節を詰める手法が完全に確立した時期は第二次世界大戦後でデパートなどが見栄えの良い重箱入りの御節料理を発売したことによるとも言われている。正月料理の重詰めについては江戸時代の文化・文政年間の料理茶屋における料理の影響を受けているとみる説もある。

内容;
御節料理の基本は、祝い肴三種(三つ肴、口取り)、煮しめ 酢の物、焼き物である。地方により構成は異なる。三つ肴の内容は関東では黒豆、数の子、ごまめ(田作り)の3種。
関西では黒豆、数の子、たたきごぼうの3種である。
一つ一つの料理は、火を通したり干したり、あるいは酢に漬けたり味を濃くするなど、日持ちする物が多い。これは歳神を迎えて共に食事を行う正月の火を聖なるものとして捉え、神と共食する雑煮をつくるほかは火を使う煮炊きをできるだけ避けるべきという風習に基づく。家事から女性を解放するためという要素があるとみる説もある。
また、関西には「睨み鯛」といって三が日の間は箸をつけない尾頭つきの鯛を焼いたものを重詰めする風習がある。
現在では、食品の保存技術も進んだため、生ものや珍味のほか、中華料理、西洋料理など多種多様な料理を重箱に詰めて供することも多い。マリネなどのオードブル、ローストビーフや牛肉の八幡巻などの肉料理、寿司などが企業や生活情報サイトなどでレシピとして提案されている。
また、これらの御節料理を宅配サービスを前提とした食料品店、百貨店、料亭、インターネット上の店舗が販売し、買い求める人々も増えている。以下省略。
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嗚呼、これで太平洋戦争がやっと本当に終わった!

2016年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は8月に広島の原爆犠牲者の慰霊祭にオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げました。
そして昨日は安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊碑に花輪を捧げ祈りました。
このどちらの場合も安倍総理とオバマ大統領が一緒に祈ったのです。
日本人は残虐な原爆投下を絶対に許せないと思っています。心の中で戦後70年、怒っていました。そしてアメリカ人は宣戦布告無しの真珠湾攻撃の卑怯さを許せないと何時までも怒っていました。
私の心でも原爆投下は絶対に許せないと叫んでいました。私の心は宣戦布告無しの真珠湾攻撃の卑怯さに暗い気持ちになっていました。卑屈になっていました。日本人なら程度の差があっても同じ感情を持ち続けていた人も多かったと存じます。
しかし安倍総理とオバマ大統領が一緒に広島と真珠湾でそれぞれの犠牲者に慰霊の祈りを捧げたのです。
これで太平洋戦争の全ての悲劇が無になる訳ではありません。しかし少なくとも心の中の太平洋戦争が本当にやっと終わったという気持ちになれました。こんな気持ちになったのは私だけでしょうか?
今年は太平洋戦争が本当に終わった年として私は忘れません。
安倍総理とオバマ大統領に感謝します。尊敬します。
オバマ大統領は8年前の就任早々、ポーランドのワルシャワで核兵器廃絶の理想を強く訴える感動的な演説をしました。
ワルシャワは先の第二次大戦の時、ヒットラーが電撃作戦で占領しました、しかしその後ワルシャワの市民が蜂起しドイツ軍と戦ったのです。ヒットラーは精鋭部隊を送り蜂起した市民を虐殺します。ワルシャワは悲劇の都市として有名になったのです。その後、ソ連が占領すると、ソ連に協力すると志願したポーランド軍の元将校達を残酷にも処刑したのです。その処刑は「カチンの森の悲劇」として有名です。
そのように戦争の残酷さを身をもって体験したポーランド人の群衆を前にして、オバマさんは街頭演説をしました。
その演説の故に彼はノーベル平和賞を受賞したのです。
今年、オバマさんは原爆犠牲者の慰霊のため、現職大統領として初めて広島に来たのです。私はこの時、何故彼がノーベル平和賞を貰ったか理解しました。彼は人間の善意を信じ、この世界に必ず真の平和が来ることを信じているのです。その上、彼は8年間もアメリカ大統領の職務を果たし間も無く辞めるのです。
彼は黒人でした。大統領に当選し、8年の任期を務め、無事その任務を終了することを私は個人的に非常に嬉しく思っています。
この際、告白しますが、私の心の中に黒人差別の感情が無かったと言えば嘘になります。その罪悪感が消えて行く思いなのです。
若い頃、アメリカに留学しました。当時の黒人差別はすさまじいものでした。しかし私はそれを当然と思っていました。
その後、アメリカの大学に何度も行き、彼等と共同研究をしたりして親しく付き合いました。その親しいアメリカ人は全て白人でした。黒人の人々と付き合うチャンスが無かったのです。
そうこうしている間にキング牧師らによる黒人の平等を訴える公民権運動が始まったのです。
キング牧師はインドの独立運動を指導していたガンジーを尊敬し、その無抵抗主義を取り入れて公民権運動を継続したのです。この頃から私は黒人産別を当然と思っていた私の考えが間違っていると気がついたのです。
しかしキング牧師は差別主義者の白人に暗殺されてしまうのです。
オバマさんがアメリカ大統領になったとき、私はしみじみと思いました。「キング牧師の死は無駄ではなかった」と。
オバマ大統領の任期が無事終わって多くの人々が喜ぶと思います。そして一番喜んでいるのはキング牧師なのではないでしょうか?
そんなことを想わせる昨日の真珠湾の慰霊の祈りでした。

今日の挿し絵代わりの写真は私の心が晴れわたったような青空の写真です。先週、奥多摩で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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人間の絆のいろいろ(2)美しい絆と汚い絆

2016年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
東日本の大地震や大津波の被害者を助けに全国から馳せ参じたボンランティアの人々と現地の人々との絆は美しいものでした。
ボランティアは現地の人に迷惑をかけないように自分の寝具と食料を持って行きました。迎えた被災者は何も無いのに熱いお湯やお茶で接待しました。助ける人と助られる人の絆は美しいものです。東日本の被災者を助けに行けない人々もその光景をマスコミで見て感動しました。
これほど美しい人間同士の絆はありません。これを無償の人類愛と言うのでしょう。

日本には現在、世界中に展開して貧しい人や虐げられている人々を助けているボランティアの人が数多くいるのです。
私は海外に行ってボランティア活動をする勇気もありません。しかしそれを実行している日本人に感謝し、彼等を誇りに思っています。
テレビや新聞は芸能記事に溢れ、食べ物や料理に関する記事に埋めつくされています。それなのに日本人の海外ボランティア活動に関する報道が皆無なのです。

それにもかかわらず現在の若者達は日本での美食を捨て、贅沢を止め、世界の貧困地に飛び込んで行っているのです。困っている人々を助けているのです。
そんな日本人と現地の人々との絆を考えると自然に頭が下がります。それ以上美しい絆はないのではないでしょうか。
世界の貧困地はアフリカ、中東、インド、パキスタン、バングラデシュ、カンボジア、ラオス、フィリピン、そして南米の奥地と実に広大です。その全ての地域に日本から若者のボランティアが行って、住み込んで、支援活動をしているのです。
その詳細は、「海外ボランティア活動一覧」とか「国際ボランティア」という言葉で検索すると非常に多くの団体の活動が出ています。
そしてボランティア活動をしているNGO組織を調べると全国に数多くあることも分ります。
海外支援の一例は中東の難民へ対する支援もあります。
以下にヨルダンにあるシリア難民キャンプの様子を撮った写真を示します。

1番目の写真はヨルダンにあるシリアからの難民キャンプの風景です。出典は、http://www.co-media.jp/article/14875 です。

2番目の写真は仮設テントの並んだシリアからの難民のキャンプの光景です。

3番目の写真は貧しい生活にも負けない明るい子供達の写真です。

さて1番目の写真を撮った板倉美聡さんは以下のような報告をしています。
・・・「2年ぶりの夏休みは中東ヨルダンにて過ごしてきました、板倉美聡です。
“難民”と聞いてみなさんが思いつくのは難民キャンプかもしれません。 しかし、ヨルダンにいるシリア難民63万人中、実際キャンプに住んでいるのは8万人ほどにすぎません。
シリアから逃れて周辺国に流れ込み、難民キャンプに辿り着いたものの、難民キャンプの過酷な生活に耐え切れず、キャンプを出る人が後を絶たないためです。・・・以下省略。
このように難民問題は底が深いのです。その実態をきめ細かく調べ、実情に合わせた支援活動をしているのです。

さて皆様は海外ボランティアに関心が無いかも知れません。しかし皆様からの税金の一部がその活動に使われているのです。
海外ボランティア団体の多くは活動資金を外務省の予算から貰っているのです。資金の半分以上は個人や企業からの寄付金ですが、大体40%前後は外務省からの補助金なのです。
補助金を貰っている海外ボランティア団体は毎年会計報告をネット上に公開しています。一度ご覧下さい。
このボランティア活動を毎年安定して継続するためには専属の職員に給料を支払っています。自分の生活が出来なければ連続的な支援が不可能になります。そんなことも考える必要があるのではないでしょうか。

それにしても日本人ボランティアと現地の人々との人間的な絆ほど美しいものは無いと私は思っています。そこには宗教さえ介在しない純粋な人類愛だけがあるのです。

さて表題にある「汚い絆」とは何でしょう?
それは自分の権力欲や金銭欲を満たすために権力者との間に意図的に作る絆のことです。一例が政治家の派閥の中の人間の絆です。
あるいは大会社の中の人脈のことです。自分が偉くなろうとして有力な上司との間に作る絆です。汚い絆を隠すために綺麗な理屈でごまかすのです。自分の理想的な政策を実現するために派閥が必要なのです。あるいは会社を発展させるためには優秀な上司を盛り立てなければなりません。ごもっともです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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人間の絆のいろいろ(1)日本と欧米の違い

2016年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
あなたは周りの家族と温かい絆を持っていますか?友人たちと楽しい関係を持っていますか?職場の上司や同僚たちに可愛いがらていますか?退職後も心温まる交流が続いていますか?住んでいる所の地域社会の中で豊かな人間関係を持っていますか?
これら皆を纏めれば「人間の絆」という言葉になります。
私は生まれつき人見知りをする性格です。知らない人へ気軽に声をかけられません。社交的でないのです。ですから他人との絆が上手く作れません。80歳と老成した現在も困っています。
そこで人間の絆のいろいろな問題を考えています。その考えたことを、今日から「人間の絆のいろいろ」と題する連載にして書いて行きたいと思います。その考えたことは体系的に整理しにくいことです。従って連載と言っても脈絡も無い断片的な内容の羅列になっています。
第一回目のものは「人間の絆のいろいろ(1)日本と欧米の違い」です。
日本と欧米の一番大きな絆の違いの例を一つだけ示したいとおもいます。
それは学校の同窓会や同級会に見られる人間の絆です。
分かり易く結論を先に書けば、欧米では同窓会や同級会による人間の絆は存在しません。日本のように強い人間の絆が無いのです。
一方、日本ではある学校を卒業すると全員が自動的にその学校の同窓会に入ります。そしてその後の社会生活でも「同窓生のよしみで」いろいろなことが期待されます。同窓生は学校の部活への寄付を一生期待されます。同窓生同士も同じ学校を出たという絆を尊重します。
勿論このような絆に反発する人も少なくありません。
しかし何故、同窓会のことを書くかというと、欧米では日本ほど強固な同窓会の組織も無く、確かに寄付の案内も来ますが無視しても良いような文面なのです。
同窓会に関連して同級会もあります。これは同じクラスとして何年間か同じ勉強をした仲間なので絆が強いものです。
同級会には小学校、新制中学校、高校、大学とあります。私はそれぞれの同級会を大切にしています。
同級会は出席すると楽しいのです。
生まれつき社交的でない性格の私にとっては同級会の仲間だけは気軽に楽しく話しあえるのです。現在でも大学の同級会には毎回出席しています。
このような学校という組織で出来た人間の絆が強いのは日本や韓国や中国などの社会特有の文化のようです。
例えば新聞やマスコミで有名人を紹介するとき必ず大学の名を書く習慣です。東大教授、早稲田大教授とか表記するのです。そしてその専門分野を書かないのです。
また出身大学を書く場合も多いのです。これでは高校や中学までしか行っていない人はどうするのでしょうか?私は いきどうりを感じていす。
欧米では人間の絆は組織を離れ、個人個人が作るもののようです。当然、日本のような同級会はありません。
しかし若い頃通っていた学校を懐かしいと思う卒業生もいます。そこでアメリカでは毎年、ホーム・カムイング・ディーと称する日に希望する同窓生が学校に帰って来て、いろいろなイベントに参加します。しかし日本のような半分、強制的な雰囲気ではありません。
日本文化で無意識ながら重要な概念は「運命共同体」というものです。同じ学校を卒業したのも前世からの縁です。運命です。
ですからそこには強い人間の絆がある筈です。雑に言えばこのようないきさつで同窓会や同級会は日本や韓国や中国では重要な意味を持っているのではないでしょうか?そこで出来た人間の絆は強いのではないでしょうか?

こういうことを書くとまた叱られますが、戦死した人は皆靖国神社に祀られるのは日本人として生まれた運命共同体だからなのでしょう。

この連載では都会における人間の絆や農村の絆やインターネットで出来た人間の絆などと多方面の問題を取り上げて行きたいと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は花屋さんで撮った冬の花の写真です。東久留米市の石塚園芸店で撮らせて貰いました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





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外国での子供の脳膜炎の疑いに対する母親の心痛と活躍

2016年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
フランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。1974年から1984年の間フランスとドイツに主婦として滞在していました。
ご寄稿頂いたものを「パリの寸描、その哀歓」という連載にして9回掲載いたしました。
今日の記事はこの連載に無理に入れないで独立した記事にいたしました。
外国でこ息子が重病になった時の母親の心痛ぶりとお医者さんとの交渉が書いてあります。
嗚呼、母親は偉い!男には絶対真似が出来ない!やっぱり女は立派だ!脱帽だ!と男性の私が思いました。そん内容の記事です。

====「6歳の息子が脳膜炎?!」Esu Kei著========
6月のある暑い日の晩、長男(6歳)が、頭痛と発熱でえらくぐずっていた。
その日は6月には珍しいくらいの猛暑で、昼間は子ども達を連れてプールに行った。プールは芋の子を洗うような混雑だったが、子ども達はそんなことは物ともせずよく遊んだ。ちょっと遊びすぎて疲れたのかも知れないと思った。長男はもともと元気のいい子で、病気になるときは高熱があって、ぐんにゃりしていても、少し熱が下がればあっという間に元気になってしまうので、はじめはそれほど心配もせず、翌朝を待ってかかりつけの医師の診察を受けるようになるだろうと予想していた。
ところが、夜が更けるにつれて、騒ぎは大きくなり、抱いてもなお騒ぐという有様に、やはりSOSドクターを呼ぼうということになって、電話をすると、若い男性の小児科医が駆けつけてきてくれた。診断はおたふくかぜの可能性があるとのことだった。SOSドクターは薬も持って来てくれるので、抗生物質と、ほかにも薬をくれて、かかりつけの医師あてに、丁寧なコメントを書いてくれた。(ヨーロッパでは、緊急医でなければ、医師は薬を処方し、患者が薬局で買うようになっている。)
翌朝、かかりつけのファンケル医師に電話をするとすぐ来るようにと言ってくれた。私の感覚では、少なくとも深夜を過ぎてからは眠っていたし、熱も38度台にとどまっているし、抱き起こそうとすると首筋が痛いらしく喚くものの、洋服も着替えていける程度だったので、やや回復して来ているように見えていた。夫に会社に出るのを待ってもらって次男を預け、ベビーバギーに長男を乗せたが、6歳の子にはバギーは小さくて、首の重さを自分で支えられず、首が後ろに倒れてそれが痛いらしい。ベッドの大きい枕を当てて何とか首をまっすぐに支えると静かになる。幸い医院はごく近くである。
ファンケル医師は、枕で頭を支えてバギーに乗せられ、私が診察台にのせるために抱き上げたときに息子が声をあげたのを観察していたに違いない。SOSドクターのコメントを読んでいたが、顔が曇る。私に前日からの状況を尋ね、難しい顔をして首の後ろの痛みに注目していたが、やがて顔をあげて、「抗生剤を飲ませましたか?」と聞いた。私が「はい、指示された通りに2回飲ませました。」と言うと、ドクターの顔はますます険しくなる。何か間違ったことをしたのだろうか?「何か問題でも?」「ちょっと心配すべき状況です。うなじの痛みとこわばりは、メナンジットの可能性を示唆しているように思います。脳に関することですから心配です。」「...(初めて聞く病名である。まさか脳膜炎では???)」「いずれにしても、すぐ病院で検査をして診断をつけなければいけません。抗生物質を飲ませてしまうと、細菌の特定が難しくなることもあるので、さっきそれを確かめたのです。飲んでしまったものは仕方ありません。かりに私の診断が外れれば喜ぶべきことですが、少なくとも、こんなに苦しんでいる子どもを、家で看病することは無理ですから、今は入院させるしかありません。市民病院に行ってください。救急車を呼びますか?それとも自分の車で?」救急車を呼ぶより、自宅にいる夫のほうが早そうだった。「私は運転ができないので、夫を呼びます。」電話を借りて夫に連絡している間に、ドクターは病院充てにコメントをまとめてくれた。
すぐに夫が来てくれて、市民病院までは車で5分ほどである。ファンケル医師が連絡しておいてくれたので、受付でその旨言うと、すぐに救急診療室に通してくれた。
結局、脊髄液の検査、頭蓋のエックス線の検査ばかりでなく、耳や鼻、目などいろいろな緊急検査が行われ、診断はウイルス性のメナンジットであろうというところに落ち着いた。おそらくプールで鼻から水が入るなどして感染したのだろうということだった。細菌性のものであれば、菌を特定し、その菌に効力のある抗生物質で叩くことができるが、ウィルス性の場合はそれができない。ただウィルス性のほうが軽く推移することが多く、対症的な手当をしているうちに治まることが多いし、命にかかわる確率は低く、脳への影響は症状の重さと時間の関係が大きいとのこと。長い一日が過ぎて、家に帰ってから辞書を引くとmeningiteは脳膜炎とある。息子はずっと意識を失うことはなかったし、熱も39度を越さない程度なので、私は息子の強運を信じることができた。

2日ほどで熱も下がり、その後順調に回復したが、首のガングリオンの観察のために留め置かれ、2週間ほどで退院した。
                            
 退院手続きするときに驚いたのは、「払いますか?」と聞かれたことだ。「払いません」と答えてもいいのだろうか?夫に聞くと「うちの場合だと、社会保険に入っていないから、私的にかけている傷病保険が降りるまで待ってもらうとか相談ができるようになっているんだろう」とのことだった。夫は小切手帳を持ってきてくれていたから、「払います」の返事ができた。子ども用の4人部屋であったが、日本円で20万円近い金額だった。

しばらくは投薬を受けていたが、いつもの生活に戻った。脳への影響はないだろうとのことだった。ところが冬になって、また似たような症状が出て慌てた。この時は夫が出張中のことで、ファンケル医師に相談すると往診に来てくれた。同じ子どもが短期間に2度というのは考えにくいけれど、脳に関することだからやはり病院に行くべきでしょうと、往診に来た車でそのまま市民病院まで送ってくださった。私は運転しないし、小さい次男もいることを考えての厚意に甘えさせていただいた。市民病院には小児科に空きがなく、診察後救急車を呼んでくれてとなりのコロンブの病院に送られた。病状は重くないので、子どものショックを考えるとタクシーでも良かったのだが、ちょうど夕方のラッシュの時間なので、サイレン付きの緊急車の方がよかろうということになって救急車になった。一緒にいた次男の方がショックを受けてじっと押し黙っていた。
コロンブの病院はヌイイの病院より新しく広かった。すぐに小児科医が来てくれて検査をしたが、前の罹患のリアクションであろうとのことで、観察のための入院と言うことにはなったものの、深刻なことはなさそうだった。ほっと胸をなでおろした途端に、病棟は感染の恐れがあるからと、入れてもらえなかった次男をロビーに一人でおいてきたことが私を責めた。ゆっくりと言い聞かせたり宥めたりする時間もなく、ここで待っててとぞんざいに置いてきたのだ。
2時間以上は立っていただろう。走るように戻ってみると、すっかり暗くなった(驚いたことに電灯は消されていた )ロビーの椅子に倒れるようにもたれて眠っている。抱き上げると涙の痕が胸を突いた。初めて来た病院で、診療時間外のことで誰もいない、どんどん暗くなっていく広い閑散とした場所に、訳もわからずに置いてきぼりにされた3歳にもならない子の絶望を思うと涙が出てきた。「ミー坊、お利口にしていたね。」抱きしめて背中を撫でると、目を開けて、「ママどこにいたの?」「にいたんは?」と聞く声がヒックヒックと震えている。「大丈夫。にいたんは病院にお泊りするけど、大丈夫よ」帰りのタクシーの中で気付くと私はずっと次男を抱きしめていた。

長男は2日ですっかり元気になって退院できた。その後、後遺症のようなものは見られず、エネルギッシュな駄々っ子であるという以外に難題が起きなかったことは喜ぶべきことだった。(終り)

今日の挿し絵代わりの写真はドイツ系の名前のファンケル医師へ敬意をこめてドイツの古都、バンベルグの市庁舎と大学の建物の写真を掲載しました。私が昔よく行った思い出の町です。今日の記事の内容とは全く関係がありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真はバンべルグの旧市庁舎です。

2番目の写真はバンべルグの大学の建物の一部です。現在はオットー=フリードリヒ大学の一部となっている旧屠畜場です。

古都、バンベルグとは;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
この神さびたフランケンの皇帝都市、司教都市は、二股に分流したレグニッツ川の肥沃な谷間の草地に広がっています。レグニッツ川は市街中心部の北7kmでマイン川に合流しています。
ここは大学町としての歴史があります。
1647年に創立した大学(Universität)は、1803年に廃止されましたが、「哲学・神学単科大学(Hochschule)」として新たに生まれ変わります。現在はオットー=フリードリヒ大学としてバイエルン州立の総合大学になっています。
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クリスマスやお正月を独りで過ごす人と、不思議な体験

2016年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨夜はクリスマス・イブのミサに行きました。この寒いのに何故わざわざ教会へ行くのでしょうか?
人間の苦しみを救ってくれるイエス・キリストの誕生日を祝うためです。そのイエスを地上に送ってくれた神に感謝の祈りを捧げるためです。世界に真の平和が来るように祈るためです。そして個人、個人が自由に自分の祈りを捧げます。
私はクリスマスやお正月を独りで過ごす人の心の平安を祈りました。独り暮らしを淋しいと感じる人の心が少しでも楽しくなるようにと祈りました。
今年の1月に満80歳になった私の知り合いには伴侶に死なれ独りで暮らすようになった人が多いのです。そして結婚もしないで独り年老いていく友人もいます。淋しい思いをしていませんか。その淋しさが少しでもやわらぐようにと祈ってきました。
昨夜撮って来た写真を示します。

1番目の写真は教会の入り口の質素な電飾です。この教会には1600人もの信者がいてクリスマスと復活瑳のミサは立錐の余地もなくなります。私どもはミサの始まる40分前に着きましたが、やっと後ろの席に座れました。その後に来た人々は立っています。

2番目の写真は全員がローソクに火を灯し電灯を消して「静けき、真夜中、星はひかり、、、」と聖歌を歌いながらミサを始める場面です。

3番目の写真は神父さん達と侍者達が祭壇に並んでミサの始めの祈りを始めた場面です。

4番目の写真はイエス誕生の祝いの後で、イエスの体と言ってパン片をサレジオ会の吉田利満神父さまが信者、一人一人に配っている様子です。

5番目の写真は主任司祭のディン神父さまが信者、一人一人にパン片を配っている様子です。

昨夜、神父さまが読んだ福音書はルカの福音書の一部分です。その中に現在戦乱が絶えないシリアの名前が出て来るので以下に示します。
=============================
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
==============================
こうしてイエスが生まれたのです。宿屋が満員で泊まれなかったマリアは馬小屋で出産し、赤子を飼い葉桶に寝かせたのです。
イエスの誕生の祝福を祈り、そして続いて私は現在のシリアの戦乱で孤児になった子供達のことを想っていました。

ミサ後、自宅に帰った私はローストチキンを前にして夕食を始めようとしていました。
その時、外国に住んでいて先月伴侶に死なれ孤独になった友人から電話がありました。葬式の前は電話で淋しい、淋しい、足が地についていないと言っていました。それが葬式が終わり日が経つに従って声が少しずつ明るくなってきたのです。昨日の電話では伴侶の貰っていた年金がそのままの金額で自分が死ぬまで支払うと役所から通知があったという報告でした。その国の法律がそのようになっているそうです。声が一段と明るくなっていました。

クリスマス・イブのミサの間に私はクリスマスやお正月を独りで過ごす人々の心の平安を祈りました。独り暮らしを淋しいと感じる人の心が少しでも楽しくなるようにと祈りました。
そして自宅に帰ったら、そのような友人から明るい声の電話があったのです。不思議な気分になりました。
自分の祈りを神様がすぐに聞いて下さったと思うほど私は短絡的ではないつもりです。偶然の一致なのですが、不思議なこともあるものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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日本が精神的に独立国家になるための戦後70年

2016年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は快晴でした。東京の秘境、桧原村の冬の風景写真を撮りに行きました。

1番目の写真は桧原村の山並みの上に広がる冬空の写真です。
山里の細い道を辿って行ったら白壁の倉のある家を見つけました。

2番目の写真は戦前の農家を連想させる白壁の倉の写真です。そしてその家の下の谷川を見下ろすと養沢の流れが見えます。

3番目の写真は冬の川霧に陽が斜めに射ししている風景です。
こんな風景を見ていると戦前の日本のことをあれこれと思い出したのです。
一昨日、「トランプ大統領の出現で急激に変わる日本人の戦争観」という記事を書きました。
この記事の中で、私はトランプ氏の発言の影響で日本の安全は自衛隊だけで守るべきと考える人が急に増えたと書きました。
しかし自衛隊だけで守るという考えは非常に非現実的です。やはり日米安保を一層強化して、駐留米軍の力を借りなければいけないことは良識のある人々の認めていることです。
しかし精神の上だけでは、日本は真の独立国家として自主防衛をすべしという思想を夢見る人が急に増加したようです。

このような日本人の考え方の変化を私は日本が精神的には独立国家になった証拠だと主張したいのです。
ある冬の日に一介の老人が桧原村をさまよいながら空想した主張ですからあまり本気に考えないで下さい。
太平洋戦争であまりにも酷い敗け方をした日本民族は茫然として、その悲劇の大きさから立ち直るのに70年を必要としたのです。
真珠湾攻撃は1941年でした。明治維新を1867年とすると維新後74年目でした。そして日本の全ての町々が焼け野原になってアメリカに敗けたのです。そして71年目の今年になって日本は敗戦の悲劇から立ち直って独立国家になろうとしているのです。
考えても見て下さい。日本民族の歴史の中で外国に完全に占領され、その総司令官が6年間も統治したことは前代未聞のことだったのです。

日本人はこの大きな悲劇に打ちのめされ、また独立国家を作ろうという思いが無くなるのは自然なことではないでしょうか。
現在の71歳以下の日本人は戦後生まれなのでこの悲劇を具体的に知らない傾向にあります。
そこで少しこの悲劇の内容を具体的に書いてみようと思います。
(1)約300万人の日本人が戦争が原因で死んだのです。
戦死者はアメリカ軍の犠牲になった上に戦地での飢餓で死んだのです。そして空襲で焼け死んだ人、満州からの引揚で死んだ人、シベリア抑留中に死んだ人、特攻隊で死んだ人。その悲劇の内容は実に様々だったのです。
(2)日本軍の武力占領で中国やフィリピン、インドシナ、なのなどで数百万人の人が死んだのです。中国政府の主張によると中国だけで1000万人から3000万人の人が日本軍に殺されてということになっています。
勿論、中国政府の主張は荒唐無稽ですが、問題は現在の中国人が3000万説を信じているのです。これは日本にとっても大きな悲劇です。その他、朝鮮併合や満州の建国も日本が戦争で敗けたので日本の国家的罪悪として非難されているのです。
(3)戦争の悲劇は膨大な数の人間の犠牲だけではありませんでした。日本人の心の荒廃も大きな悲劇をもたらしました。
戦後の日本には凶悪な犯罪が蔓延していたのです。強盗事件は日常的で、もっと凶悪な帝銀事件も起きました。犯人が青酸カリで多数の銀行員を殺してから悠々と大金を持ち去ったのです。陰謀がからんだような大規模な列車転覆事件も続発していました。松川事件、三鷹事件、下川国鉄総裁の列車事故などです。
食糧難が戦後10年間以上に渡って続き、それは暗い世相でした。

こんな様々の悲劇にもかかわらず日本は経済成長を遂げたのです。
豊かになって礼節を知り、住み良い日本になったのは何時頃だったでしょうか?1990年の頃だったでしょうか?
しかし日本人は自国の安全と防衛を自衛隊だけで守ろうとする気概には欠けていたと思います。
それが安倍総理が「日本を取り戻す!」といスローガンを かがげて戦後レジームからの脱却を促す政策を進めて来たのです。そしてトランプ次期大統領が「日本がアメリカ軍に守って貰いたいなら もっと金を出せ」と公言したのです。
その結果、日本の安全は自衛隊だけで守るべきと考える人が急に増えたと私は考えています。
このような日本人の考え方の変化を 私は日本が精神的には独立国家になった証拠だと主張したいのです。
ある冬の日に一介の老人が桧原村をさまよいながら空想した主張ですからあまり本気に考えで下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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「パリの寸描、その哀歓(9)優しくて怖い送り狼に遭遇」

2016年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第9回目は、「お誕生会の後の送り狼(?)」です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(9)お誕生会の後の送り狼(?)」Esu Kei著======
 ある時長男の幼稚園の友だちのロラン君のお誕生会にお呼ばれをした。幼稚園の年だから、親もご招待。夕方からではあったが、我が家ではお父さんは会社からの帰りが遅く、次男も連れて3人で行くことになった。行ってみると、子どもはお誕生日を迎えた主役の子の兄弟も含めて総勢9人、大人は11人。大変な人数だ。プレゼントを開けて何回も歓声を上げて、拍手が起こって...それからは食べる、そしてだべる。家が狭いなんてことは言わない。テーブルや椅子をありったけ工夫して、テーブルクロスは白いシーツをかぶせる。とにかく皆の席が用意されている。早めのディナーに、もちろんバースデーケーキをメインに盛大なデザート。大人には当然お酒も出る。もちろん大抵の人は車で来ているから節度は守る。4時間余りのパーティーで、初めにまずシャンパン、お料理には赤ワインをグラスに一、二杯くらい。お料理を味わうのに水を飲むのは、全く飲めない私くらいなもので、大人なら少量のワインは水扱いだ。子どもたちは食べるだけ食べると、子ども部屋で遊んでいて、大人たちはお喋り。子どもたちが多少夜更かしをしても次の日に差し支えないように、こういうパーティーは土曜日にする。9時頃になると、子ども達は眠そうになってくる。ボチボチお開きの時間だ。車の割り振りを決める。車がないのは私達ともう一組。うちは三人なので、人数の都合上、女の子と二人で来ていた、やもめらしいお父さんが送ってくれることになった。初めて会った顔だ。席も離れていたので、この日も挨拶以外言葉を交わすこともなく、車中で初めておしゃべりをする。「今日はあなたの隣に座れなくて残念だったな」と早速...私は道順の説明をしているのに。家に着くまでほんの10分くらいの間に、私を笑わせようと冗談ばかり言っている。「ご主人は土曜日もお仕事?」「こんな奥さんをほったらかして心配じゃないのかな?」…「お酒のみすぎませんでした?」と聞くと「そんなことありませんよ。大事な奥様送るんですから。」そうこうするうちに、アパルトマンの前に。「さあ、もう着きましたよ。鍵開けてあげましょうか?」「大丈夫、自分で開けられます。」「明かりつけないと暗いでしょ、手伝いましょうか?」「ボタンは分かっているわ。」「寒いんじゃない?暖房いれて、あったかいコーヒーを入れてあげましょうか?」「「ありがとう(Merci non)、でも夫がもう帰ってきているはずだから、夫に頼めるわ。」夫を持ち出すとようやくおやすみなさいを言って帰って行った。もちろんお互い子ども連れで、すべて冗談なのだが、スマートな不良的話術に感心する。どうしても送り狼を演じて、人を笑わせたくてたまらないらしい愉快なやもめさんでした。
フランスでも勿論硬派の人と、軟派の人がいる。彼のようなタイプの人は、女の人には関心があるように振る舞わないと失礼だと思っているに違いない。それとも私の返事によっては、イタリア映画のような展開をしたのかなぁ...とソフィア・ローレンなんぞを思い出す。まさか...(続く)

今日の挿し絵はセザンヌの「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」などの油彩画の写真です。リンゴの絵が良いですね。
記事の内容とはまったく関係がありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年 - 1906年)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C
南フランスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた。
ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった。
1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。
友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。
1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった。
晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。
1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した。
セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられる。
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トランプ大統領の出現で急激に変わる日本人の戦争観

2016年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
民主党のオバマ大統領は8年間の大統領としての任期の間に数々の業績を残しました。しかし、来年1月には共和党のトランプ氏がアメリカの大統領に就任します。
オバマ大統領は就任早々、ポーランドで「核兵器の無い世界」を目指すという演説を行い、ノーベル平和賞を受賞しました。そして今年は広島の原爆犠牲者の慰霊式に出席したのです。2011年にはイラク戦争終結宣言をし、昨年はキューバとの国交回復をしました。国内では経済的に恵まれていない弱者に対して健康保険を与える、所謂、オバマケアを実施しました。
オバマさんは平和主義的で弱者にやさしいリベラルな大統領でした。

ところがそれとは対照的に、何事においても強腰なトランプ氏が大統領になるのです。国際協調を捨て、アメリカ一国だけの利益を優先すると言明しています。オバマさんが進めてきたTPPからも、すかさず脱退すると宣言しています。不法移民の強制送還も公言し、メキシコ人を貶める発言をしています。そしてオバマケアは改訂して縮小するとも言っています。
日米安保に関しても日本を突き離すような発言をしています。日本が今迄通りアメリカ軍によって守って貰いたいならもっとお金を出せと言うのです。
その上、アメリカはロシアとの関係を改善するという方針です。これでは日本はロシアと独自に対峙しろと言わんばかりです。強気になったロシアは北方四島に関する交渉に歯牙もかけなくなりました。
このようなトランプ氏の発言の影響は甚大です。多くの日本人が日本の防衛は自分で行うべきだと考えるようになったのです。
日本の安全は自衛隊だけで守るべきと考える人が急に増えたようです。
しかし自衛隊だけで守るという考えは非常に非現実的です。やはり日米安保を一層強化して、駐留米軍の力を借りなければいけないことは良識のある人々の認めていることです。

このように現実は厳しいものですが、精神の上だけでは、日本は真の独立国家として自主防衛をすべしという思想を夢見る人が急に増加したようです。
このような日本人の考え方の変化は、日本人の戦争観も大きく変えつつあると考えられます。
安倍政権が安保法案を改正して海外派兵が出来るようにしました。そして米軍との共同作戦の緊密化も進めました。
これとトランプ氏の出現を受けて多くの日本人の戦争観が変わったのです。
勿論、日本人の戦争観は敗戦後から次第、次第に少しずつ変わってきたというのが正しい言い方です。
しかしその変化がマスコミやインターネットの上で顕在化したのは安保法案の改正とトランプ氏の出現がキッカケになったことは否めません。
安保法の改正案の審議中の国会議事堂を15万人もの反対デモが取り囲んだ事実は外国のマスコミでは報道されたそうです。その写真をインターネットで私も見ましたが、15万人とは分かりませんが兎に角すごい人数のデモが国会を取り囲んでいました。この大規規模なデモの写真を日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。
これらのことから私は日本の新聞やテレビが安倍政権を支援することに潮流を変えたと理解しました。

日本は敗戦後、軍備を放棄し、全ての戦争をしない国家として再出発したのです。
その戦争放棄は国民に熱狂的に歓迎されたのです。決してアメリカ占領軍の押し付けではなかったのです。戦争放棄は全国民の希望でした。
しかしその後70年経過して日本人の戦争観は他の国々の国民と同じように戦争は必要だという考え方に変わったのです。自衛のための戦争は必要だと変わったのです。他国に侵略されないためには軍備を強化すべしと変わったのです。
そして日本が朝鮮を併合し、中国を侵略し、満州国を作ったのも自衛のための正しいことだったと主張する人が増えたのです。
日清戦争も日露戦争も満州事変も日中戦争も太平洋戦争もすべて正しい戦争だったと考えるようになって来たのです。

この戦争観の変化は日本の運命にどのような結果をもたらすでしょうか?勿論、私にも分かりません。
ただ敗戦直後の日本の社会の風潮は戦争放棄に熱く染まっていたのです。
そして国が敗れても下の漢詩の「国破れて山河在り」を合言葉のようにして復興と工業技術の向上に邁進したのです。
戦争で散った300万人もの犠牲を無駄にしないためにも絶対に日本を一流国家にしようと努力したのです。
今年も暮れにあたり、敗戦直後の日本の社会の雰囲気をあれこれ想い、トランプ大統領のアメリカの将来を考えています。

下に杜甫(712-770年)の漢詩を示します。
「春 望」  
 (五言律詩。長安の賊中にあって、春の眺めを述べる。)
 
国破山河在   国破れて山河在り
城春草木深   城春にして草木深し
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月   烽火 三月に連なり
家書抵万金   家書 万金に抵る
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す
(上の意訳の出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B09_1.html です。)

間も無くお正月も来ます。楽しい休日が続く季節です。今日の挿絵の写真は花屋さんの店先で撮った季節の花の写真です。

今日は皆様が楽しい気分でクリスマスやお正月をお過ごしなさるようにとお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)








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「パリの寸描、その哀歓(8)みんな、財布を確かめろ!」

2016年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第8回目は、「みんな、財布を確かめろ!」です。パリの地下鉄の中での一場面です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(8)みんな、財布を確かめろ!」、Esu Kei著==========

 ラッシュアワーの地下鉄でのことである。シャトレで乗り換えて1号線に乗ろうとした時、後から私を押すようにして、5,6人の若い娘たちがどやどやと声高に何か言いながら乗ってきた。ラフな格好の何と言うか社会に反発するちょっと乱暴な雰囲気を漂わせている、そんな二十歳前後の年恰好の人達。
プォーと音がして、ドアが閉まりかけたその時、中の一人がパッと足をあげて、ドアを抑えた。電車は発車できない。何人かが大声で何か怒鳴るように声を掛け合ってやがてさっと降りて行った。この間30秒とは経っていなかったと思う。器用に素早く、だれも電車に取り残されたりもせず、逃げるように降りて行った。電車のドアは閉まった。あまりのことに皆声も出ない。その時、一人の中年の男性が叫んだ。「みんな、財布を確かめろ!」
乗客は弾かれたように胸のポケットやら、バッグに手を当てる。大丈夫、と安心した顔、顔、顔。そうか、彼女たちはスリ集団だったのかもしれない。乱暴な挙動で嫌がられながらも乗客の注意を引き付けておいて、あっけにとられているうちに財布を掏る。そんな集団だったのかなと私も思った。パリでは観光地の広場などで、移民の貧しい子等が集団でスリをするということはよくある。この日の集団はもう年齢も大人だし、白人が多かったように見えた。アウトローの若者集団であろう。何事もなくてよかった。
家に帰って夜、私の胸に妙な想像と言うか、疑いが浮かんだ。もし「財布を確かめろ!」と叫んだ中年の男性と、あの娘達がぐるだったらどうだろう。財布を確かめた人の中から目ぼしいカモを選んで今度こそ本当にスリを働くことができるではないか。でも、娘達の分け前の配分の問題が起きそうだから、その可能性は低いだろう。
もうひとつ、もっと現実的な想像が…警告した中年の男性は善意で皆に注意喚起をしただけだとする。しかし、あの車内にスリを働こうとする悪い奴が居合わせたとしたら、皆が財布のありかに手をやって確かめたことで絶好の機会を得たのではないか。何しろラッシュアワーである。あの時胸をなでおろした人の中に、帰宅した後で財布がないことに気付いて愕然とした人もいたかもしれない。誰が見ても貧乏人の部類に入る私はちょっとだけ安心し、「私は推理小説が書けるぞ」と思った。(続く)

今日の挿し絵代わりの絵画は私の心を揺さぶるゴッホの絵3点です。記事の内容とは全く関係がありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





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京都、高台寺、そして日本人の仏教離れ

2016年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
京都は794年に都になって以来、日本の仏教の中心地でした。鎌倉時代に新しい仏教が幾つも出来、鎌倉も仏教の栄えたところですが、鎌倉のお寺は質素で比較的小規模です。
私はお寺を見に行くのが好きで随分と多くのお寺に行きました。
その多くのお寺の中で清冽な思い出になっている美しいお寺があります。京都の禅宗の高台寺です。
今日はまず写真家の水野克比古さんの「高台寺の四季と禅」というHPから3枚の高台寺の写真をご紹介いたします。
HPのURLは、http://www.kodaiji.com/season/#spring です。

1番目の写真は「虚心」と題する作品です。
水野克比古さんは1941年、京都市上京区に生まれました。同志社大学文学部卒業後、京都の風景に取り組み、撮影を続けているプロの写真家です。

2番目の写真は「直心是道場」と題した作品です。
2002 年にBook of the Year Award で、Landscapes for Small Spaces(『坪庭』)がアメリカで金賞を受賞しました。

3番目の写真は「心自閉」と題した作品です。水野さんは130冊の写真集を出版していますが、その中に『高台寺 水野克比古写真集』(東方出版)があります。
京都生まれの水野さんも高台寺が好きなようです。嗚呼、私と同じ趣向のプロの写真家がいるのだと嬉しくなったので3枚の写真をご紹介致しました。
このような美しいお寺が日本の文化遺産として永久に残って貰いたいと祈っています。
しかし最近の日本人の仏教離れの様子を見るとこの美しい高台寺の将来も少し心配になってきます。
そこで以下において日本人の最近の仏教離れの様子を客観的に描いてみたいと思います。

最近の日本人の仏教離れにはいろいろな原因がありますが、一つには寺院仏教から離れる現象が顕著です。
日本の経済の高度成長にしたがってお寺の裏にある墓地から、お墓を自宅のそばの共同墓地へ移す人が増えて来ました。民間会社が開発した無宗教の大型共同墓地が全国的に流行し、そこに自分のお墓や先祖代々のお墓を作る人が急に増加したのです。
江戸幕府のキリシタン禁教政策の一つとして全ての家はお寺の檀家になっていたのです。その風習は明治、大正、昭和になっても連綿と続いていた日本の仏教的風習でした。
その仏教的風習が1960年代あるいは1970年代そして1980年代と次第に大きく崩れ出したのです。
この社会的風潮に従って日本人はお寺との関係が疎遠になって来たのです。この檀家制の崩壊が日本人の仏教離れや宗教離れの原因の一つになっていることは間違いありません。

その結果、多くの人は宗教抜きの葬儀を行うようになりました。
その中に遺骨の葬送方法を樹林葬や海への散骨葬など自然葬にすることもあります。
これは1990年頃から生まれた日本の新しい社会現象でした。
1990年以前は、遺骨を決められた墓地以外に埋めると、刑法190条により「遺骨遺棄罪」になったのです。この刑法を支えているのが戦後の昭和23年に出来た「墓地、埋葬等に関する法律」の規定です。しかし1991年に法務省と厚生省がこの法律をゆるめたのです。
1991年に「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県の相模湾で海への散骨をしたのです。
1991年に、法務省と厚生省は刑法190条と墓地、埋葬等に関する法律に関して新しい解釈を発表し、「葬送の自由をすすめる会」の葬送は違法ではないという趣旨を公にしたのです。
適切な方法なら海への散骨だけでなく樹林葬や桜葬や山岳などなどへの散骨葬は違法でないという解釈です。
私の家の近所の東京都立小平霊園でも大規模な樹木葬を行っています。

この自然葬の流行を見て私は深い感慨にとらわれています。お釈迦さまはご自分が死ぬ時、「私の遺骨は野に捨てよ」と言って涅槃に入られたのです。ですから自然葬こそお釈迦さまの教え通りなのです。
さて高台寺の将来ですが、幸いにもこのお寺は檀家からの収入には依存していないようです。財政的に裕福な臨済宗に属しています。
日本中の寺院が次第に檀家制度から離れ、純粋に仏教の修行の道場として、そしてお釈迦さまの教えを人々へ伝える場として再生するように努力するのも良いと思う今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料======================
(1)自然葬を行っている団体の数例:
風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html
NPO葬送の自由を進める会:http://www.shizensou.net/
家族葬の会:自然葬(海洋葬・里山葬):http://www.npo-kazokusou.net/support/nature.html
7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/
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(2)自然葬に要求される必要な条件:
1、火葬にした遺骨は必ず米粒以下の粒子か粉にすること。一見して遺骨と判らないようにし、海水中や土中へ溶けやすい状態にすること。(遺骨はリン酸カルシュウムが主成分で水には難溶性です)
2、海への散骨は海水浴場や湾内の養殖筏の近辺はいけない。沖でも漁場に使われる海域はいけない。風評で魚が売れなくなることへ充分配慮する。
3、陸上での散骨は土地の所有者の承諾を得ること。自分の所有する山でもキノコや山菜取りの入会権へ充分配慮する。自分の別荘の庭に散骨するのは別荘が他人の手に渡った場合についても充分な配慮をする。(アメリカでその為に不動産価格が下がって裁判になった例があるそうです。)
4、国有林は広大で散骨に適しているが、管理している農水省や国土交通省の明確な見解が発表されていない。NPO葬送の自由を進める会が現在、国有林の散骨葬への解放運動をしている。
僻地の町や村の所有する山林はその役場に願い出ると許可される場合もあるそうです。
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(3)都立小平霊園の樹林葬式の詳細:
都立小平霊園の場合;費用は粉状の遺骨で持ち込めば44000円です。纏めて44000円支払えば、以後一切の費用は不要です。粉状でない普通の遺骨の状態で持ちこめば134000円です。
遺骨を粉状にするには火葬場に頼むとしてくれるそうです。設備が無くて粉状に出来ない火葬場もあるので、あらかじめ相談の上火葬を頼むことが肝要だそうです。
遺灰は水に溶ける紙製の容器に入れ、何個か纏めて樹林に囲まれた芝生の中に埋めるそうです。30年間そのままにして土中へ自然に混合するのを待ちます。30年後に残った遺灰はまとめて共同埋蔵します。
埋葬後、故人へ花や線香を供えるための献花台は用意するそうです。詳しくは管理お事務所、電話:042-341-0050へお聞き下さい。
以上は東京都の場合ですが、全国の市町村役場で管理している墓地や、お寺が管理している墓地でも急速に樹林葬墓地が普及していると想像できます。
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「今日の日記、運転免許の更新に行きました」

2016年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム
3年に一度の運転免許の更新に府中の警視庁運転免許試験場に行きました。無事、更新手続きが済んで、平成32年2月28日まで運転出来ることになりました。

平成32年は2020年で東京オリンピックのある年です。安全運転で2020年まで無事、時が過ぎるのを祈っています。
思い返すと1960年にアメリカで運転免許を取って以来56年間、安全に運転を続けて来られた幸運に感謝せざるを得ません。

1番目の写真は府中の警視庁運転免許試験場の写真です。
2番目と3番目の写真は運転試験場の風景です。この試験場の北側に隣接して都立武蔵野公園が広がっています。この武蔵野公園から北側が小金井市です。私の家は北側の小金井市にあります。

試験場の職員は高齢者の私にみんな優しくて気分が良かったです。更新に要した時間は1時間20分でした。更新のシステムが3年ごとに行く度に改善されているのです。警視庁も努力してます。職員に有難う御座いますと感謝して帰って来ました。駐車場も空いていました。気分の良い一日でした。




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種類が非常に多いランの花、その原産地やそれぞれの特徴

2016年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは30年以上、前のことです。シンガポールに行った折に植物園を訪ねました。それは植民地時代にイギリス人が作った広大な熱帯植物園です。喬木の茂ったほの暗い密林の中を歩いていると所々にランの花が咲いていたのです。それは闇夜の灯のように美しく輝いています。そして青白い火が風に揺れるようにランの花が揺れ動いていたのです。揺れていたのではなくあまりにも神秘的な美しさだったので自分の目が惑わされていただけです。
それ以来、私はランの花に魅了されています。
東京の新宿御苑の大温室には多種多様のランの花が咲いています。嗚呼、こんな花もランの一種なのですかと驚きの連続です。
都立神代植物公園の温室にも数多くのランの花が咲いています。
それもその筈で、ランは野生種だけで1万種から3万種もあると言われているのです。
園芸種も数多く、その数も含めると地球上で確認された植物の1割近くがランと言います。

そこで少し調べました。以下は、https://horti.jp/2575 からの抜粋です。
ランは、中国、日本やアメリカ、オーストラリア、アフリカ地域など世界各国に自生しています。
種類の数が多過ぎることや、種類間での違いが少ないことから、「東洋ラン(東洋蘭)」と「洋ラン(洋蘭)」という生息地によって分けられることがよくあります。東洋ランは、日本や中国を原産地としているランのことで、それ以外の地域のランを日本では洋ランと呼びます。

そして、ランには、土の中奥深くまで根を下ろす「地生ラン」と、木の幹や岩肌に張り付いて育つ「着生ラン」の2つの生育パターンがあります。
地生ランは、「バルブ(偽鱗茎、偽球茎)」と呼ばれる根っこや茎に水分を貯めこむタンクを作ります。着生ランは、昼に気孔を閉じて水分の蒸発を防ぎ、夜に光合成を行うという特殊な性質を持っています。

ランにはこのように非常に種類の多い植物ですが、花屋さんで一般的に売っているのは数種類だけに限られています。
日本で、良く売れて流通しているものは「カトレア」「デンドロビウム・ファレノプシス」「オンシジウム」「ファレノプシス(胡蝶蘭)」「バンダ」「デンドロビウム」「シンビジウム」「パフィオペディラム」の8つだけと言います。
それでは早速その写真を示します。

1番目と2番目と3番目の写真は私が花屋さんで撮った胡蝶蘭の写真です。

胡蝶蘭(コチョウラン)は日本でよく親しまれている種類のランです。台湾、中国、オーストラリアに生息し、一番ポピュラーな品種として贈り物としても人気があります。

胡蝶ランは肉厚の葉っぱが左右に生え、茎は短くて見えない特徴があります。一般に出回っているものはほとんどが交配種で、花色や大きさによってさらに6つのグループに分けられるそうです。

4番目の写真はカトレアです。ラン全体の中で一番メジャーな種類の着生ランです。「洋ランの女王」とも呼ばれ、中央・南アメリカに約30種が自生しています。なお4番目から10番目までの写真は、https://horti.jp/2575 から感謝しつつお借りしました。
 
5番目の写真は正式名称をデンドロビウム・ファレノプシスというランです。デンファレの略称で親しまれている洋ランです。オーストラリアからニューギニアにかけて原種が自生し、ハワイ、タイ、マレーシアなどで盛んに栽培されています。

6番目の写真はデンドロビウムです。熱帯アジアを中心にスリランカやネパール、サモアや日本、ニュージーランドなど幅広い範囲に自生している着生ランです。高い木の枝の上に根を広げて着生するのが特長で、ランの中では、比較的育てやすい種類です。

7番目の写真はシンビジウムです。主に東南アジアなどの熱帯から温帯に自生する地生ランです。寒さにも比較的強いので、冬の贈答用鉢花として人気があります。

8番目の写真はオンシジウムです。中南米の熱帯・亜熱帯地域に約400種分布している着生ランです。枝分かれをした茎の先に、1~2cmほどの大きさの斑点が入った黄色い花を、垂れ下がるほどたくさん付けるという特徴があります。花束やアレンジメントによく用いられる、一般的になじみのあるランの種類です。
 
9番目の写真はバンダです、東南アジア原産の洋ランです。バンダは園芸箱に根をむき出しにして栽培します。このため育てるには非常に難しい洋ランで一般的ではありません。樹木の上に太い根を張る着生ランで、紫、赤、黄、白など花色のバリエーションが豊富で、他のランにはあまり見られない青色があることが特徴です。その大きく生長する姿から、サンスクリット語でまとわりつくを意味する「バンダカ」が名称の語源といわれています。

10番目の写真はパフィオペディラムです。東南アジアや熱帯、亜熱帯アジアに約70種が自生する洋ランです。基本的には薄暗い樹林の地面に根を張って育つ地生ランですが、着生ランの品種もあります。花の一部が袋のようになる変わった姿をしており、ユニークな形や大きな花が好きな方に人気があります。短い茎に咲く花は、1ヶ月ほど楽しむことができます。

以上が市場でよく流通している8種類のランの花のご紹介です。
そして新宿御苑の大温室は明治期から日本のラン栽培で有名で数々の新品種を開発しています。
考えてみると明治維新以後、日本へ温室で熱帯植物を育成する技術が導入されたのがランの花の隆盛に繋がったのではないでしょうか。
私は緑あざやかな熱帯植物の葉を見るのも好きでよく温室に行きます。緑の熱帯植物の間に色鮮やかなランの花やブーゲンビリアの花を見るのが好きなのです。心が豊かになるのです。平和な気持ちになるのです。このようなランの記事を書いていると本当にしみじみと幸福を感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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