後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「荻須高徳の油彩画」

2024年04月05日 | ブログ
荻須高徳(1901-1986)は、東京美術学校で学んだ後、1927年に渡仏。
ルーヴル美術館の絵画群や、画廊でルオーやヴラマンク、ユトリロなど同時代の画家の作品から刺激を受け、本場の油絵を貪欲に吸収した。
荻須は1940年に、前年に勃発した第二次世界大戦のためやむ無く帰国したが、敗戦後、日本人が海外へ渡航することが未だ困難な1948年に、日本人画家としてはじめて再渡仏し、1986年に亡くなるまで、通算して半世紀以上、パリで画家として生きた。


「印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界」

2024年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
思い出すのはルノアールの絵画世界です。
ルノワールの油彩画はフランスやアメリカで何度も見ました。そして2016年06月の東京の新国立美術館での「ルノアール展」は感動的でした。ルノワールの103点の油彩画が一堂に展示してあったのです。この「ルノアール展」は圧巻でした。
ここにお送りする絵は私が好きなものです。特に「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」が大好きです。屋外で語り合う家族やダンスを楽しむ人々の明かるい表情と空気感に魅せられます。暗くて長いヨーロッパの冬を想うとこの夏の夜の楽しさがしみじみ分かります。
1番目の写真は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。1876年作くでオルセー美術館蔵です。第3回印象派展出品の作品でした。
2番目の写真は『ピアノに寄る少女たち』です。(1892年。油彩、オルセー美術館蔵)
3番目の写真は「2人の姉妹」です。この美しい色彩の絵はシカゴで見ました。(1881年。油彩、キャンバス、100.4 × 80.9 cm。シカゴ美術館蔵。)
4番目の写真は「ポンヌフ」です。(1872年。油彩、キャンバス、75.3 × 93.7 cm。ナショナル・ギャラリー蔵、ワシントンD.C.)

ここでノワールの略歴をご紹介しておきます。
ルノワール(Pierre-Auguste Renoir )は1841年に生まれ、-1919年に亡くなりました。フランスの印象派を代表する画家でした。

彼はフランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれます。1854年(13歳)の時、磁器の絵付職人の見習いとなり、その後は扇子の装飾画の職人としての仕事をしています。しかし1861年(20歳)の時、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合ったのです。彼等とはフォンテーヌブローの森で一緒に写生もしていたのです。

1864年(23歳)にサロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選していました。これでノワールは印象派画家として有名になります。
しかし始めは経済的に苦しく、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあったのです。

いろいろな事がありましたが、ルノアールは常に絵筆を握り感動的な絵画を
78歳で死ぬまで描き続けたのです。晩年にリウマチのため絵筆が握れなくなっても、絵筆を腕に括り付けて絵を描き続けたのです。 

このルノアールに師事して印象派の絵画を学んだ日本人がいました。梅原龍三郎です。
1908年(明治41年)にフランスに留学し、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在しました。そして尊敬していたルノワールから印象派の油彩画の指導を受けたのです。

梅原龍三郎の代表作は、「紫禁城」「薔薇」などです。(1942年、東京国立近代美術館蔵)
梅原龍三郎は日本では有名ですが海外での評価はどうなのでしょう?

今日は印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2024年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。
1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。
2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。
3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。
4番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。.

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルにして80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。

さて佐伯祐三の略歴を記します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯祐三 からの抜粋です。
1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在でした。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。

現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カイユボットの『鉋をかける人々』」

2024年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは随分以前に見たカイユボットの油彩画、「鉋(カンナ)をかける人々」を忘れられません。時々思い出します。
2014年8月13日に国立新美術館でオルセー美術館展で見た絵です。その写真をお送り致します。

1番目の写真はカイユボットの油彩画、「鉋をかける人々」です。
この絵画は強い印象を与えます。描いている画家の筆使いの勢いを感じます。
一気に描き上げたように見えますが、細部まで丁寧に仕上げてあります。
すっかり魅了されましたが、私はカイユボットなどいう名前は知りません。帰宅後いろいろ調べてみました。
そうしたら彼は富裕なので、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買い、彼等を経済的に支援したのです。そしてその作品群をフランス政府へ寄贈したのです。
ギュスターヴ・カイユボットは(Gustave Caillebotte)は1848年にパリで生まれ、 1894年に46歳で病没しました、
彼は数多くの印象派の絵画を買い上げながら自分でも油絵を描き、パリ郊外で菜園を作ったりボート遊びをしていました。ヨットの製作も趣味でした。
一生独身で静かな短い生涯でした。
死んでから50年以上も経ってから遺族が彼の作品を市場に出し始め世に知られるようになったのです。
そして1960年代から1970年代に彼の作品が高く評価されるようになったのです。
日本で彼の初めての絵画展が開かれたのは実に2013年になってからです。それ以前は彼は日本では全く知られていなかったのです。
彼はそんなに有名ではありませんが、私は彼の「鉋をかける人々」に感動しました。
3人の男が床を削る動作が躍動しています。鉋の削る音が聞こえるようです。木の香り、男たちの荒い息遣い、汗の匂いまで伝わってきます。
これ一枚で充分ですが念のためカイユボットの他の作品もご紹介いたします。
なお彼の作品はパリにもありますが、多くはアメリカの各地の美術館が展示しています。

2番目の写真は「屋根の上の雪」(1878)です。

3番目の写真は「ヨーロッパ橋」(1876)です。

4番目の写真は「パリの通り、雨」です。(1877)

今日は日本で2013年に初めての絵画展が開かれる迄全く知られていなかったカイユボットの絵をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「冷たい雨の今日、印象派の絵画を見ながら時を過ごす」

2024年04月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から冷たい雨が降っています。こういう日は印象派の画家たちの絵を見ながら時を過ごすことにしました。

印象派と言えばやはりエドゥアール・マネの油彩画には心が打たれます。
エドゥアール・マネ(1832年1月23日- 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家です。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となったそうです。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられてい画家です。このマネーの絵から始めて12枚の印象派の油彩画の写真をお送り致します。

1番目の写真はマネーの「笛を吹く少年」です。
2番目の写真はエドゥアール・マネ の「草上の昼食」です。裸の女性は違和感を与えますがマネは裸体の美を描きたかったのでしょぅ。

3番目の写真はクロード・ モネの睡蓮の絵です。睡蓮の絵は数多くあるので選ぶのに迷います。今日は水草の繁茂した絵を選びました。

4番目の写真はパリの北にあるアルジャントゥイユの春の野のクロード・モネの風景画です。「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。
5番目の写真もクロード・モネの「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。この様な風景画は何枚も描かれています。

6番目の写真はクロード・モネの『散歩、日傘をさす女性』(1875年)です。三枚描かれた日傘をさす女性をモデルにした作品の最初のものです。妻カミーユと息子ジャンをモデルに描かれました。カミーユはこの4年後、結核で32歳の若さで亡くなるのです。

クロード・モネは1840年にパリで生まれました。5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。少年の頃から絵がうまく、人物の肖像画を売るほどであったそうです。
18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。
1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合ったのです。その後の活躍はご存知の通りです。

ついでに私が好きな木造のヨットのクロード・モネの絵とサン=ラザール駅の絵をお送りします。

7番目の写真はクロード・モネの『アルジャントゥイユの橋』(1874年)です。

8番目の写真はクロード・モネの『サン=ラザール駅:列車の到着』(1877年)です。
9番目の写真はオーギュスト・ルノワール の「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。 1876年作、オルセー美術館 蔵です。

10番目の写真はオーギュスト・ルノワール の「舟遊びをする人々の昼食」です。1876年作。 
11番目の写真はエドガー・ドガの「舞台のバレエ稽古」です。1874 作。
ドガはバレエを主題とした作品でよく知られており、作品の半分以上はバレエの絵だったと言われています。裕福な家庭の出身であったドガは、バレエを好み、オペラ座の楽屋や練習風景や舞台袖といった一般人では出入りできない場所を描いた絵画を多く製作しました。 

12番目の写真はエドガー・ドガの「舞台の踊り子」です。制作年は1876年ごろで所蔵はオルセー美術館 です。バレーが大好きだドガの入魂の作です。

日本人は印象派の油彩画が好きです。ここでご紹介したマネやモネやルノワール やドガの他、ピサロやシスレーやセザンヌの絵画は日本人が好きなのです。

今日はマネの絵から始めて12枚の印象派の油彩画の写真をお送り致しました。印象派のほんの一部だけです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)