後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新緑の桂の林の風景をお楽しみ下さい

2019年04月30日 | 写真
裏高尾には約1400本のカツラの木を昭和3年に林野庁が植えた見事な桂林があります。現在でも林野庁が木道を整備し、一般へ公開している場所です。
今年も写真を撮りに行きたいのですが連日雨や曇りで行けません。
そこで昨年の4月22日に撮った写真をお送り致します。

桂は私の大好きな木です。1980年に自宅の庭に植えたら成長が早くすぐに大木になってしまい困ったことになりました。折角、成長しましたが、泣く泣く切ってしまった苦い経験があります。
それ以来、山の桂を見つけて鑑賞することにしました。桂は秋になると美しく黄葉して甘い独特の芳香を放ちます。神代植物公園にも桂の林があります。
そんなことを考えながら今年も明るい緑の桂の林の光景を想像して楽しんでいます。
新緑の桂の林の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









郷愁をかきたてる雪の古民家の水彩画

2019年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
古民家を見ると郷愁を感じます。幼かった頃の楽しかったことや悲しみを思い出します。
べつに古民家に住んでいたわけではありません。しかし古民家は私を感傷的にさせます。私は失意の折々に古民家を見に行きます。
古民家はあちこちに復元、展示されています。
川崎市の日本古民家園、小金井公園内の江戸東京建物園、小平市の小平ふるさと村などに展示されているのです。
しかしこれらの古民家には人間が住んでいません。ガランとした空き家です。何故か空しい感じがします。
しかし現在も人の住んでいる東北地方の古民家をはるばる訪れて、雪の古民家の水彩画を描いている人がいます。
趣味人倶楽部のmmszkminさんという方です。
今日はこのmmszkminさんの描いた雪の古民家の水彩画を5枚ご紹介いたします。









水彩画は山形や秋田の冬の寒さを描き出しています。雪が家の中に入らないように家の外側を丁寧に密閉しています。人は描かれていませんが生活感のある古民家です。
mmszkminさんの絵には住んでいる人々の悲しみや喜びが描かれているのです。
住んでいる人はきっと老夫婦に違いありません。都会に出て行った子供たちや孫が夏に帰って来るのを楽しみにして寒い冬の日々を耐え忍んでいるのです。
そんな勝手な私の想像を書くのを止めてmmszkminさんの説明文を趣味人倶楽部のページから転載いたします。

・・・ 久しぶりに 雪見温泉旅行に行って来ました。訪れたのは秋田県南部と山形県のいずれも奥羽本線沿いです。 旅行のもう一つの目的は、雪の中の農村、茅葺き民家を見て回る事でした。
 訪れたのは、秋田県の羽後町、山形県の大蔵村、白鷹町、飯豊町、川西町などでした。羽後町は初夏に、川西町は秋と冬に訪れたことがありましたが他は初めてでした。
地元の知人の方や町の観光協会に訊ねたり、あるいはネットで検索してからの訪問でしたが、それでも茅葺き民家は急速に減少していて見る事の出来ないところもたくさん・・
 でも、多くのすばらしい風景を見つけることが出来、たいへん満足な旅を経験する事が出来ました。知人の方には たいへんお世話になりました。そのほかの地元の方々、タクシー運転手のかたがたにも たいへん親切にしていただいたおかげと感謝しています。・・・

その他、数枚の水彩画は、https://smcb.jp/albums/3819520 に掲載してあります。
mmszkminさんは大阪に住んでいらっしゃいます。はるばる冬の秋田県や山形県まで人の住んでいる古民家を訪ねて行ったのです。そのお気持ちに感動します。
インターネットの素晴らしさはこういう感動的な人に会えることです。
mmszkminさんはメールで水彩画をお送りくださりこの欄に転載することを許可して頂きました。感謝の意を表します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

水辺の新緑の風景写真をお楽しみ下さい

2019年04月29日 | 写真
今日は日野市の黒川清流公園に行きました。曇り日で鮮明な写真は撮れませんでしたが、奥行のある深い緑の風景も良いと思いました。公園の近くのカフェでコーヒーを飲んで来ました。
水辺の新緑の風景写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









令和の日中関係と習近平の世界戦略

2019年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
明後日からいよいよ令和の時代が始まろうとしています。
この令和の時代の日本を取り巻く国際情勢はどのようなものでしょうか?
今日は今後の日中関係と習近平の世界戦略について簡略に書いてみたいと思います。
その前に令和の原典が中国の530年頃に出来た「文選」の中にある張衡の『歸田賦』ということを明記します。
『歸田賦』は張衡によって後漢の順帝永和三年(紀元138年)に作られ漢詩です。
その冒頭を示します。
仲春令月,時和氣清・・・以下略

日中関係は遣隋使の古い時代から親密だったのです。
その中国の戦後74年の歴史を振り返ってみましょう。
1945年から1990年頃までの冷戦時代はアメリカとソ連が世界の秩序の規範を決めていました。そしてソ連崩壊後は経済的に急成長した中国が世界の覇権を握る勢いです。特に世界の経済に分野では、中国はアメリカ、ロシア、そしてEUと競い、世界の経済的主導権を握ろうとしています。今後、中国はアメリカと並んで世界の秩序の規範を決めるようになるのです。
清朝末期からアジアは欧米の植民地として搾取されて来ましたが、この長期間続いた欧米主導の世界秩序が終焉を迎えたのです。
従って日本はこの中国とどのような関係を構築するかが非常に重要になってくるのです。
そこで現在の中国の工業を正しく理解するために5枚の写真を見てみましょう。

1番目の写真は北京の長安街に溢れる乗用車の写真です。日本では見られない乗用車の密集です。巨大な自動車市場が伺えます。

2番目の写真は中国独自の自動車の生産工場の光景です。この他に外資系の自動車の生産工場が沢山あるのです。

3番目の写真は電子産業の工場の光景です。今や中国の電子産業は世界のトップレベルなのです。

4番目の写真はアメリカのボーイング社の工場です。ボーイング社がこのような工場を中国に作ろうとしています。

5番目の写真は世界の主要国のGDPの1980年から2021年の推移を示す図面です。この図を見ると中国のGDPの増加は驚異的で、2025年には間違いなくアメリカを抜いて世界一になる勢いです。従来、アメリカのGDPを抜いた国は皆無だったのです。これは破天荒なことです。この図の出典は,各国のGDP、
http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。今後、中国はアメリカと並んで世界経済の秩序の規範を決めるようになると考えられています。

以上が現在の中国の実力なのです。
日本はアメリカと安保同盟を結び、軍事的にはアメリカの支援があれば日本の安全を守れます。中国なんか怖くありません。ですから日本人は中国の経済力を過小評価する傾向があります。
しかし経済力は軍事力の支えなのです。その意味でも中国の経済力とその中国が作ろうとしている巨大経済圏のことを客観的に理解すべきと考えています。
 中国政府は中国から西方のアジア諸国、ロシア、中東諸国、ヨーロッパ諸国にまたがる広大な地域を一帯一路でつなぎ巨大な経済圏を作ろうとしています。
一帯とは陸路でつなぐ経済圏で一路とは海路でつなぐ経済圏です。
この一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想に従って中国政府は外交活動を展開しています。
すでに100を超える国と地域から支持あるいは協力協定を得ており、さらに国際連合安全保障理事会、国際連合総会、ASEAN、EU、アラブ連盟、アフリカ連合、アジア協力対話などの場で盛んに宣伝、勧誘を展開しているのです。

令和の時代の日本は否応なしにこの中国の世界戦略に取り組まれる運命にあるのです。
習近平主席は日本を彼の世界戦略に取り組むため日本と友好関係を構築しようとしています。
習近平主席の就任早々に繰り返した尖閣諸島での厳しい対日批判をしなくなりました。南京虐殺の対日批判もしなくなりました。習近平主席は対日政策を180度転還して敵対から戦略的日中友好へと舵を切ったのです。
しかし日本には日米関係もあり日ロ関係も難しいのです。中国の希望を斟酌しながら日米安保体制を堅持しなければなりません。
それに北朝鮮の拉致問題もあります。日韓関係もギクシャクしています。
令和の時代の日本を取り巻く国際情勢は厳しいのです。
国内が平穏だからと言って平和ボケにならないことが重要と思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

みずみずしいみ新緑の風景をお楽しみ下さい

2019年04月28日 | 写真
天気も良いし、香しい皐月の風が吹いています。爽やかな風に誘われて三鷹市の花々の写真を撮ろうと家を出ました。
三鷹市への途中、都立武蔵野公園を通ります。そうしたら新緑があまりにもすがすがしかったのです。三鷹市迄行くのは断念し新緑の樹々の写真を撮って来ました。
写真をお送りいたします。みずみずしい新緑の風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









私どもは東京の西の郊外にある小金井市に住んでいます。北に広大な都立小金井公園があり、南に都立武蔵野公園があります。2つの大きな公園にはさまれています。
武蔵野公園は野川に沿って残る草原や雑木林を配した自然の富んだ公園です。
東京都の各公園や街路に植える苗木を育てる畑があるのが特徴です。
また武蔵野公園は近所の浅間山公園、多磨霊園、野川公園、神代植物公園、深大寺、国立天文台などの樹林と一体になって昔の武蔵野の森を彷彿とさせています。
武蔵野公園までの交通や駐車場などの詳しい案内は、https://musashinoparks.com/kouen/musasino/ に御座います。
是非一度お出掛け下さい。

今日のミサはイエスの傷跡に手を入れたトマスの話です

2019年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

写真の出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/blog-post_29.html  です。

この絵画の描かれた経緯はヨハネによる福音書の20・19~31に書いてあります。
この福音書は世界中のカトリック教会で今日のミサで朗読されるのです。カトリックのミサは国が違っても世界中、みんな同じなのです。

まず最初に2つの部分に分けて説明します。
(1)イエスが生き返って弟子達の前に現れた時、トマスは居なかったのです。その話を聞いたトマスはイエスが生き返ったことを信じなかったのです。
十字架上でローマの兵士に突かれた槍先の傷跡に自分の手をいれてみなければトマスは絶対に信じないと言い放つのです。
(2)8日後にイエスがトマスも含めた弟子達の前に再び現れて、トマスに語りかけるのです。槍先の傷跡に手を入れたトマスはやっとイエスの復活を信じたのです。

この話は有名なので皆様ご存知と思います。
そこで新約聖書の原文を読んでみましょう。

ヨハネによる福音書の20・19~31は以下のように書いています。
・・・その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

以上の部分で一番重要なところは、イエスがトマスに言われた言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

現代の世界中のカトリック信者達は生きているイエスには会えません。それでも信じています。見ないで信じているのです。
疑いながらも信じているのです。イエスは「私に会えなくても信じよ」と言っているのです。
これこそが今日のミサの趣旨なのです。

西洋の活け花の写真をお送りします

2019年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
西洋の活け花を日本では「フラワーアレンジメント」と言います。それを教えているスク-ルは日本全国にあります。昨日は「茶室の花と草月流の假屋崎省吾の活け花」という記事で日本の活け花をご紹介しました。
そこで今日はフランス流のフラワーアレンジメントの作品の写真をお送りします。

日本からパリに行ってフラワーアレンジメントを勉強し帰国後その教室を開いている人は沢山います。
その一つに東京の自由が丘のフラワーアレンジメントスクール、http://fl-paris.com/ecole/ があります。
フランススタイルのフラワーアレンジメントは、フレンチスタイルやパリスタイルなどとも呼ばれ、西洋風の花のアレンジメントとして盛んな一派になっています。
この自由が丘のフラワーアレンジメントスクールは、フランススタイルにこだわったフラワー教室で、技術だけでなく、デザインや色遣いなども一つずつ指導しているそうです。
そしてパリで活躍中のフローリストたちとも連携してパリ研修旅行や現地でのレッスンを行っています。
特にパリのMOFジャック カスタニエ氏やマリーフランソワズ デプレ先生やマリーリュース パリス先生の3人の協力を得ています。
この自由が丘のフラワーアレンジメントスクールの作品の写真をお送りします。









これらの写真を見ると花の活け方、飾り方にいかにもフランス文化が凝縮しているように感じられます。
活け花はそれぞれの民族の文化を背負っているのです。それが活け花の面白味の一つなのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

茶室の花と草月流の假屋崎省吾の活け花

2019年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2019年04月11日に掲載した記事に活け花のことを書きました。今日はその続編です。
活け花、華道の成立は茶道と同じ室町時代中期と言われています。この華道を楽しんだのが池のほとりに住んでいた僧侶たちだったので「池坊」と呼ばれるようになったのです。
池坊の生け花は僧侶の侘び寂びの美意識が反映されているのが特徴です。
一方草月流は1927年に出来た新しいい流派です。初代家元は勅使河原蒼風でした。草月流の活け花は自由で前衛的な作風を特徴としています。
日本の華道には池坊や草月流の他に数十の流派があって日本の文化を豊かにしています。
それでは池坊風の茶室の花の写真2枚と池坊の活け花の写真1枚と草月流の假屋崎 省吾さんの作品の写真2枚を順々に示します。

1番目の写真は夏の茶室に飾った活け花です。

2番目の写真は秋の茶室に飾った活け花です。

3番目の写真は古流の池坊の立花です。

4番目の写真は草月流の假屋崎省吾さんの活け花です。

5番目の写真も假屋崎省吾さんの活け花です。
さて皆様はどの写真の活け花がお好きでしょうか?
大変大雑把に言えば東洋人なら1,2,3番目の写真の花が好きで西洋人なら4,5番目の活け花が好きと思います。しかし美意識の違いは民族によって違うでしょうし個人によっても大きく違いますから一概に議論すべきではありません。
假屋崎省吾さんの活け花は邪道だと言う人もいます。
しかし活け花は飾る場所によります。
假屋崎省吾さんの作品は大きいものが多いので豪華なホテルのロビーに飾ると素晴らしく見えます。あるいは国賓の歓迎晩餐会に飾ると会場を華やかな雰囲気にして大変良いと思います。
これは大型の彫刻や造形先品と同じで飾る場所との調和が重要になっているのです。
假屋崎省吾さんの作品は芸術作品なのでを普通の活け花のように自宅には飾れません。
だからといって邪道だと言うのは間違いです。

それにしても茶室の花は楚々として良いものです。
季節の花を庭からとってきて小さめの花瓶に挿すのです。
日本の家庭ではよく見かける活け花は茶室の花のようです。そして花屋さんから買ってきた何本もの花を盛花風にいけた花々も良いものです。
男が結婚したい女性の活け花の心得を重視した時代もありました。
しかし現在は男も活け花をする時代です。
そして庭に植える花木と草花と室内の活け花をつなげて楽しむのも良いものです。
家内は表千家の茶花を習い草月流もきわめたので今日はえこひいきをして茶花と草月流をご紹介しました。
そして假屋崎省吾さんのことを下に詳しく紹介しました。勘弁してください。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=====================
假屋崎 省吾(かりやざき しょうご、1958年12月17日 - )は、日本のフラワーアーティスト。東京都練馬区出身。假屋崎という苗字は鹿児島県にあり、鹿児島県日置市が父親の出身地である。

園芸好きの両親のもとに生まれ、自称「園芸少年」であった小学生の頃から、NHK『趣味の園芸』『きょうの料理』『婦人百科』を定期購読していた。明治大学夜間学部を経て、早稲田大学文学部に入学。在学中の1983年、「自分を表現するための職業を考えたとき、好きな花で自己表現できるのではないか」と考え、いけばな「草月流」本部教室に入門。家元の勅使河原宏に師事する。映画監督でもあった宏が「いけばなで、それを仕事として独立する気概を持った人」を育てるべく設けた「男子専科」の初期メンバーであった。
早稲田大学卒業間近の1985年末に父親が急逝し、一旦は就職するが3か月で退職し、アルバイトをしながらいけばなに専念。その後、草月工房に入社。草月出版新人賞、ディスプレイデザイン賞など数々の賞を受賞し、財団法人草月会評議員、草月流師範会理事、草月流本部講師を歴任。1992年に現在の事務所を設立する。草月流の基本に留まらず、「假屋崎省吾 花・ブーケ教室[1]」を主宰するなど、ブーケなどの指導もしている。
1996年アメリカ合衆国大統領クリントン来日時、1997年チリ大統領来日時、1998年イタリア大統領来日時や、1999年今上天皇の在位10周年記念式典に於いて、花の総合プロデュースを務める。単に花を生けるということだけでなく、空間芸術家としての視点を持った作品を手がけている。
日本各地で個展を開催しているが、毎年秋の目黒雅叙園での個展は本人の企画で、教室展も催される。目黒雅叙園の保存建築「百段階段」は、国の登録有形文化財に登録されており、普段は公開されていない。その華美な装飾で埋め尽くされた空間に大がかりな作品も生ける。近年は地方の歴史的建築物にも意欲的に挑んでおり、まちおこしにも貢献している。

大学卒業後61年目の最後の昼食会に行きました

2019年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
嗚呼、茫々61年前の1958年に我々30名は東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。
みんなは八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管などや日本製鋼所や銅精錬の日本鉱業や三菱重工や石川重工などに就職して日本の工業技術の発展に一生を捧げたのです。変わった職種のセイルス・エンジニアとして伊藤忠で活躍した人もいます。そして先祖代々の鋳鉄会社や精密金属加工会社の跡取りとして家業を盛んにした人もいました。
定年後の60歳頃からは毎年クラス会を泊りがけで開催しました。その続きで平成17年からは年間3、4回のペースで昼食会を合計31回も開催しました。幹事として毎回会場の設定や連絡などの世話をしてくれたのが郷農雅之君でした。
今日は最後の昼食会が東京駅地下の黒塀横丁のあるレストランでありました。
30名だった同級生も11人が故人になり首都圏には10名ほどが住んでいます。
今日はその中から8名の出席がありました。
お互い此の世で会うのが今日で最後になるので感慨深い会合になりました。
お互いの健康を祈って散会しました。写真は今日の参加者です。

趣味は人間の視野を広げ幸せにする

2019年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の4月16日に「大型ヨットは贅沢な趣味だ。しかし・・・・」という記事を書きました。しかしこの趣味を25年間続けたおかげで私のものの見方が変わったのです。
それまでは金持ちそうに見える人を差別し付き合わないことにしていました。
ところがこれが大変な間違いでした。ヨットの趣味のお陰で人を見かけで差別するという私の悪い癖が完全に消えてしまったのです。
今日は趣味は人間の視野を広げ幸せにするという話を書きたいと思います。
まずヨットの趣味とはどのようなものか6枚の写真で示します。

1番目の写真は千葉県の保田魚港に係留してあったハンスクリスチャン41型のヨットです。2009年4月に初めて艇長のHootaさんとを一緒にビールを飲んだ時の写真です。Hootaさんは「Hoota's Yacht Life」、https://hoota.blog.so-net.ne.jp/ というHPを書いていました。

2番目の写真は駿河湾の沼津に近い漁港に舫っているHootaさんが艇長をつとめるハンスクリスチャン41です。この日私も駿河湾のセイリングを楽しむことが出来ました。

3番目の写真は駿河湾の風を受けて疾走するハンスクリスチャン41です。

4番目の写真は東京湾上のババリア39型のヨットから見た東京の風景です。この船のオーナーのOkumaさんに乗せて貰ったのです。2009年の5月のことでした。

5番目の写真は同じOkumaさんのヨットで三浦半島の突端の三崎港から東京の浜離宮わきの係留地までセイリングした時の写真です。背景は房総半島です。

6番目の写真は霞が浦を帆走している自分のヨットです。家内が2009年に撮りました。私のヨットの趣味は葉山や江の島で小型ヨットのディンギイで2年、霞が浦でYAMAHA-19での10年、Joyluck-26での13年間、合計25年間の趣味でした。

さてそれでは何故、ヨットの趣味で私の視野が広がったか理由を書きます。
それまでは金持ちの人を差別し、彼等の「金持ち趣味」を軽蔑していたのです。自分の金持ちへの嫉妬心です。世の中には金持ちと貧乏人しかいない。私は誇り高い貧乏人だと威張っていました。
しかし金持ちだけがしていると思っていたヨットの趣味には質素な暮らしをしながらお金を工面してヨットに乗っている人が大部分なのです。
この続編でも書きますが趣味の世界には金持もそうでない人も完全に平等な世界なのです。
その上、海で豪華なヨットに乗っている人は小さなヨットに乗っている人をほとんど無償で豪華なヨットに招待してくれるのです。
海で豪華なヨットに乗っている人々は別世界の人だと思い込んでいた私の間違いを思い知ったのです。
Hootaさんが言ってました。「皆さん、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」
Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。安定した職業をサラリと止めて、ニコルさんのレンジャー養成学校の先生になりました。ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。
そうして全ての人との出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだと感じました。
それからヨットを止めて淋しい思いをしていた私をご自分のヨットにご招待して下さった方々もいました。
現在も「Face Book」に記事を書いている繁田 慎吾さんと 中村 文政さんです。もう5年も前のことです。
このようにヨットの趣味を続けながら親切な人に沢山出会いました。
そのお陰で私の視野がすっかり広がり人間を見かけによって差別しないようになったのです。
他人を差別しなければ皆と仲良くなれます。それが幸せと感じるようになりました。趣味のお陰です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

はるかに思う甲州の桃の花、梅岩寺の枝垂れ桜

2019年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は歳老いて次第に体が動きにくくなります。気楽に車で遠出して春の花々を撮って来ましたが、それもおっくうになって来ました。
花の命短しと言います。先週の20日、土曜日に遠出して青梅市の梅岩寺まで行きましたが枝垂れ桜は散ってしまっていました。
帰路、車を走らせながら遥か甲州の桃の花を毎年写しに行っていたことを思い出しました。嗚呼、今年はあの桃の花も梅岩寺の枝垂れ桜も見ないで春が過ぎたのです。

そこで今日は今年見ることが出来なかった甲州の桃の花と梅岩寺の枝垂れ桜の写真をお送りします。桃の花は2016年の4月12日に枝垂れ桜は4月9日に撮りました。
桃のほうは甲州の韮崎市の長府の桃の花です。毎年、同じ場所に行って残雪の鳳凰三山の山稜を背景にした桃の花の写真を撮ったのです。
桃畑の農家の人が寛大で花に触らない限り自由に写真を撮らせてくれます。
2016年には桃畑の手入れをしていたおじさんが切った桃の花枝を沢山新聞紙に包んで家内に持たせてくれました。家内の嬉しそうな笑顔が輝いていました。

1番目の写真の背景は鳳凰三山の地蔵岳です。桃の花の梢と共に撮った風景です。

2番目の写真は桃の花の写真です。

3番目の写真は青空に高く伸びた梢の桃の花です。
美しい桃の花と鳳凰三山の風景は甲州を代表する美しい風景と思います。
遠方すぎて簡単には行けませんが、よくこの風景を思い出しています。

さて次は青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜の写真です。今年も行きましたが全て散ってしまっていました。そこで2016年の4月9日に撮った写真を送ります。

4番目の写真は梅岩寺に2本ある巨木の枝垂れ桜の左の木の上の方の枝の写真です。

5番目の写真は2本ある巨木の枝垂れ桜の右の木の上の方の枝の写真です。
この場所の左の方には鬱金桜(ウコンザクラ)が咲きます。しかし今年行った時にはそれも散っていました。

さて桃の花の写真を一層深く楽しむように桃の花に関する漢詩をお送りいたします。
桃の花は隣の中国では紀元前のはるか以前から愛されていました。
詩経の中にある「桃夭」という詩を、http://manapedia.jp/text/3801 からご紹介いたします。
この漢詩では、嫁ぐ若い女性の美しさを桃の花のみずみずしい美しさに例えています。このことから桃夭とは「女性の嫁入り時、婚期」を意味するようにもなりました。
日本では結婚の披露宴でこの漢詩を詠う人もいます。漢学者だった叔父も「書き下し文」で私にこの漢詩を教えてくれました。遠い昔の日の叔父を思い出します。

「桃夭」   (原文)

桃之夭夭
灼灼其華
之子于帰
宜其室家

桃之夭夭
有蕡其実
之子于帰
宜其家室

桃之夭夭
其葉蓁蓁
之子于帰
宜其家人

「書き下し文」

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼たる其の華
之の子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室家に宜しからん

桃の夭夭たる
蕡たる有り其の実
之の子于き帰ぐ
其の家室に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于き帰ぐ
其の家人に宜しからん

現代語訳(口語訳)

桃の木々の若々しさよ。
燃えるように盛んに咲く花よ。
(その花のように若く美しい)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

桃の木々の若々しさよ。
たわわに実る桃の実よ。
(その実のように子宝に恵まれるであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

桃の木々の若々しさよ。
盛んに茂る桃の木の葉よ。
(その葉のように栄える家庭をもつであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

ここにご紹介した桃の花の風景写真を昔の中国の詩とつなげて見るとまた一段と味わいが深くなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考===========
詩経とは:
『詩経』は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。

夢幻的な藤の花の咲く季節になりました

2019年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
季節のうつろいは早いものです。ロウバイと梅が咲き、コブシ、白モクレンが咲き、桃、桜が満開になり春が過ぎ行きました。最近は藤の花が咲き出して初夏のような日々がやってきました。
藤の花は実に夢幻的な淡い紫色で、眺めていると優しい気持ちになります。
嗚呼、いかにも日本的な色彩だとしみじみ思います。桐の花の色とも通います。
藤は日本固有種です。縄文、弥生の古くから人々に愛されてきた花です。
万葉集では藤の花を藤波と言って数十の歌が詠われています。
私も藤の花が好きで栽培種と野生の藤の花の写真を沢山撮りました。
野生の藤は他の木に巻きついて大きく成長し山の新緑を一層美しく飾ります。山藤の蔓は上から見ると左回りで栽培種とは逆です。

今日はまず以前に撮った栽培種の藤の花の写真を4枚と山梨県の甲斐駒岳の麓で撮った山藤の写真を3枚送りします。













さて万葉集の藤の花を詠った和歌を少しだけご紹介いたします。
万葉集では藤は、藤波と表現されています。一方、海女(あま)の藤衣(ふじころも)と表現されているものは、つるの繊維で織った粗末な衣のことです。
藤波とは藤の花が波のように重なって咲いている光景を詩的に表現した美しい言葉ですね。。

0330: 藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
0413: 須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず
1471: 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり
1627: 我が宿の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを
1901: 藤波の咲く春の野に延ふ葛の下よし恋ひば久しくもあらむ
1944: 藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城の岡を鳴きて越ゆなり
1974: 春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ
1991: 霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや
2971: 大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも
3075: かくしてぞ人は死ぬといふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに
以下省略します。

以上の和歌は「たのしい万葉集: 藤(ふじ)を詠んだ歌」、https://art-tags.net/manyo/flower/fuji.html
から転載しました。原典には数十の藤の花を詠った和歌があります。
この「たのしい万葉集: 藤を詠んだ歌」の優れているところはそれぞれの和歌をクリックすると次のように万葉仮名で書いた原文、作者、よみ、意味が明快に書いてあることです。

第三巻 : 藤波の花は盛りになりにけり
原文: 藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君
作者: 大伴四綱(おほとものよつな)
よみ: 藤波の花は、盛りになりにけり、平城(なら)の京(みやこ)を、思ほすや君
意味: 藤の花がいっぱい咲きましたね。これを見ていると奈良の都のことを思ってしまいますでしょ。
太宰府で、大伴旅人(おおとものたびと)に贈った歌です。

第三巻 : 須磨の海女の塩焼き衣の
原文: 須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢
作者: 大網公人(おほあみのきみひと)
よみ: 須磨(すま)の海女(あま)の、塩(しほ)焼き衣(きぬ)の、藤衣(ふじころも)、間(ま)遠(とほ)にしあれば、いまだ着なれず
意味: 須磨(すま)の海女(あま)の塩(しほ)焼き作業に着る藤衣(ふじころも)は織目が粗いので、まだ着慣れないです。
宴会の時に詠んだ歌です。「塩(しほ)焼き衣(きぬ)の藤衣(ふじころも)」は、塩焼き作業の時に着た藤(ふじ)のつるで作った粗末な衣のことです。「間(ま)遠(とほ)にし」は、その衣の織目が荒いことを言ったのです。

第八巻: 恋しけば形見にせむと我がやどに
原文: 戀之家婆 形見尓将為跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里
作者:山部赤人(やまべのあかひと)
よみ: 恋しけば、形見にせむと、我がやどに、植ゑし藤波、今咲きにけり
意味: 恋しいので形見にしようと庭先に植えた藤が、今、咲いています。

これを読むと万葉集が完成した奈良時代末期の780年の頃の人々が藤の花を愛でた様子が鮮明に分かります。
そしてその藤の花は野山に自然に咲いている山藤だったのです。
藤を庭に植え藤棚を作り花枝が滝のように垂れさがるようにしたのは江戸時代だったと私は勝手に想像しています。

このように美しい花をヨーロッパ人も見逃しません。
http://mini-post-uk.blogspot.com/2016/05/blog-post_20.htmlからの抜粋文えです。
・・・藤は、日本、中国などの東洋と、一部北米が原産ですので、イギリス(とヨーロッパ)には、18世紀になってから導入された植物です。それでも、レンガや石造りの屋敷や塀を覆って咲いている様子は、かなりさまになっており、はるか昔から、イギリスにいるような、貫禄の面持をしているものもあります。 藤(ウィステリア、wisteria)と言うと・・・
是非、藤の花がレンガや石造りの屋敷や塀を覆って咲いている感動的な風景をこのHPを開いてご覧になって下さい。シャーロック・ホームズに「ウイステリア荘」という話がありました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

韓国人と宗教、한국인과 종교

2019年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日韓友好は日本にとって重要な問題です。そのためには日本人は韓国の人々の生活や考え方や宗教をよく知ることが大切です。
今日は韓国人の宗教に関して簡単にご紹介したいと思います。

한일 우호는 일본에서는 중요한 문제입니다. 그래서 일본인은 한국 사람들의 생활과 사고 방식이나 종교를 잘 아는 것이 중요합니다.
오늘은 한국인의 종교에 대해 간단히 소개하고 싶습니다.

韓国は日本に比べると仏教やキリスト教への信仰が非常に篤い民族なのです。
韓国の四大宗教は仏教、プロテスタント、カトリック、儒教です。
2005年の総人口4700万人のうち宗教を信じている人は53%です。このうち仏教徒は23%、プロテスタントが18%、カトリックが11%です。
この数値は日本に比べると非常に大きな信者数になります。韓国社会は実に仏教とキリスト教の優勢な社会なのです。
佛教は日本の曹洞宗に似た禅宗の曹渓宗が一番盛んで2000万人の信者がいるそうです。
曹渓宗のお寺は2444寺あります。日本と非常に違うのは韓国では僧侶は絶対に妻帯しないで一生独身を通すことです。カトリックの神父と同じなのです。
それではこの韓国の宗教についてもう少し詳しく説明します。

2005 년 총 인구 4700 만명 중 종교를 믿는 사람은 53 %입니다. 이 중 불교
는 23 %, 개신교 18 %, 천주교가 11 %입니다.
이 수치는 일본에 비하면 매우 큰 신자 수 있습니다. 한국 사회는 실로 불교와 기독교의 지배적 인 사회입니다.
불교는 일본 조동종과 비슷한 선종의 조계종이 가장 번성하고 2000 만명의 신자가 있다고합니다.
조계종 사찰은 2444 사원 있습니다. 일본과 매우 다른 것은 한국에서는 스님은 절대로 유부남하지 한편 독신을 통과하는 것입니다. 가톨릭 신부와 같은 것입니다.
그러면이 한국의 종교에 대해 좀 더 자세히 설명합니다.

韓国と日本の大きな違いは宗教に対する考え方の違いと言えます。
日本では無宗教の人が多く、仏教離れが進行している一方、キリスト教の信者は常に3%以下を推移しています。しかし驚くことに韓国人の約30%はキリスト教を信じているのです。
さて韓国の宗教混淆も調べてみましょう。
韓国の仏教は中国の道教の北斗七星に対する妙見信仰や風水と習合しています。日本の神仏混淆と同じようです。
韓国の宗教は調べれば、調べるほど複雑な宗教が入り組んでいてその全貌を掴むのは至難の業です。
例えば日本の青森の恐山には多くの巫女がいて、死者を呼び戻して家族に会わせてくれるという信仰があります。
この恐山の信仰は、シベリア大陸の原住民のシャーマニズムが現在でも残ったものと考えられます。韓国にも巫俗という原始宗教があり、このような精霊が住む世界の信仰は、先史時代にまで遡る韓国人の宗教生活の最古の形と言われています。
韓国にはいまだに欧米に知られていない原始的な宗教が存在しているとも言われています。
それはさておき幾つかの韓国の宗教風景の写真をしめします。

1番目の写真は2014年8月14日からローマ法王のフランシスコ教皇が韓国を訪問した時の韓国人の歓迎ぶりを示す写真です。写真の白い車にローマ法王が乗っています。
ローマ法王は韓国のあちこちで大規模な野外ミサが行いました。毎回、数十万人規模の信者が集まったと言われています。フランシスコ教皇は今年11月ころ日本に来るというニュースがありますが、日本ではこんなに多くの人が集まらないと思います。

2番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの曹渓宗の海印寺の山門の写真です。
写真の出典は、http://www.seoulnavi.com/special/5003998 です。

3番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺の本堂の内部の写真です。
写真の出典は、 http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145 です。

4番目の写真は韓国の墓地の写真です。写真の出典は、http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html です。
韓国ではお墓には生花ではなく造花を捧げるのでいつまでも鮮やかなのです。お墓には漢字を彫りこみます。

5番目の写真は韓国の土葬の写真です。穴を掘って遺体を埋め、その跡に土を盛り上げ、誰の墓であるかが分かるように墓標を建てます。日本でも以前はこのような土葬が地方ではよく有ったのです。
写真の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Bochi.htm です。
韓国では経済的に豊かな人は、墓地となる山を入手して、この山を一族又は家の共有の墓地とするのが昔の風習でした。しかし最近では個人での墓地のための山の入手が次第に困難になってきたため、企業が共同墓地を開発して分譲しています。4番目の写真は共同墓地です。

さて仏教と儒教は韓国の伝統文化なので以下に仏教について簡単に説明します。
仏教は三国時代(4世紀から7世紀)に中国から朝鮮に入ってきました。仏教は新羅(668年-935年)や高麗(918年-1392年)の時代に於いて最も優勢で文化的影響力を持っていたのです。儒教も同様に中国から初期に伝わりましたが儒教は朝鮮李朝樹立までは仏教の下の立場に置かれていたのです。
仏教は韓国の東部、つまり嶺南地方や江原道では、伝統的に強力であり、そこでは現在でも人口の半数以上が仏教徒となっているそうです。
韓国の仏教には禅宗が主ですがその他、様々な「宗派」が存在します。しかし、圧倒的大多数(90%程)の寺は曹渓宗に所属しています。
韓国で最も古く有名な寺、例えば仏国寺や梵魚寺は曹渓宗です。
ソウル中心部の曹渓寺がその総本山です。その他、韓国の仏教に関しては末尾の参考資料に説明があります。

仏教信者は仏教とシャーマニズムの一種の「三聖閣」とを結び付けて信仰しています。この「三聖閣」は仏教の寺院の奥に存在しています。「三聖閣」には「山神」や「七星神」や「独聖」が祀ってあります。
まあ簡単に言えば韓国の山岳信仰ですね。日本の神社とお寺の混淆と同じようなものです。

結論を簡単に書きます。
韓国には驚く程多数のキリスト教信者がいます。その一方、韓国人は仏教や儒教やいろいろな原始宗教を混淆して信じています。
一番分かり難い原始宗教は「三聖閣」という殿閣です。

韓国人は日本人よりも宗教を信じている人々が非常に多いのです。
誤解を避ける為に書きますが、宗教を信じている人は善良とは限らないのです。私は無宗教でも立派な人格を持っている方を沢山知っています。今日は韓国の宗教風景をスケッチ風に描いてみました。間違いも多いと存じます。韓国人からコメントをお送り頂き、間違いをご指摘頂けたら嬉しく思います。

결론을 쉽게 씁니다.
한국은 놀랄만큼 많은 기독교 신자들이 있습니다. 한편, 한국인은 불교 나 유교와 다양한 원시 종교를 혼효하고 생각합니다.
가장 알기 어려운 원시 종교는 "三聖閣 '이라는 전각입니다.

한국인은 일본인보다 종교를 믿는 사람들이 매우 많습니다.
오해를 피하기 위해 쓰고 있지만 종교를 믿는 사람은 선한 것은 아니다입니다. 나는 종교에서도 훌륭한 인격을 가지고있는 분들을 많이 알고 있습니다. 오늘은 한국의 종교 풍경을 스케치 풍으로 그려 보았습니다. 실수도 많다고 생각합니다. 한국인으로부터 의견을 보내 주시고, 실수를 지적 주시면 기쁘게 생각합니다.

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料====================
(1)朝鮮の仏教:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 なお、韓国には円仏教などの仏教系新宗教が存在し、立正佼成会、真如苑、創価学会、霊友会の日本の宗教法人の拠点が存在します。

(2)韓国の仏教:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo.htm
韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のとこ ろから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。
山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。
七星は北斗七星のことで、人間の幸福と寿命を象徴する。北斗七星に対する民間信仰が融合したもの。元々は国の兵乱、天災地変が起きたときや、それを予防す るために祭祀をしていたことに始まる。七星図の本尊は熾盛光如来で、北極星を意味する。手に金輪を持つことが多い。脇侍菩薩は日光菩薩と月光菩薩である。このような七星図は16世紀 末にすでに現れている。
独聖は那般尊者ともいわれ、釈迦が出征する前に天泰山で一人12縁起の真理を悟り、聖人の地位に上ったとされる。または16羅漢の一人、賓頭路頗羅堕を指すともされる。因縁の理致を悟った衆生に福を与えるということで信仰される。 絵は天泰山の中に座り、白く長いまつげで、錫杖、念仏を持っている姿で描かれることが多い。(韓国仏教文化事典、仏教文化研究院編より)

今日のカトリック小金井教会の復活祭のミサの風景

2019年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は復活祭のミサでした。聖堂に溢れる信者の熱気に圧倒されました。
よく新聞には宗教が衰退しているという記事が出ますが、教会に日曜日ごとに集う人々の様子を見ると宗教は人間のいるかぎり衰退しなと感じています。
今日のカトリック小金井教会の復活祭のミサの風景写真をお送りします。









水芭蕉曼荼羅を描き続けた佐藤多持画伯の世界

2019年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
絵画の美を楽しむためには説明など不要です。何も考えずに絵画の美しさに没頭し、その芸術を楽しめば良いのです。
水芭蕉曼荼羅を描き続けた佐藤多持画伯も例外ではありません。
水芭蕉曼荼羅の写真を5枚お送りしますのでお楽しみ下さい。









私はこれらの絵画は好きです。見ていると私の心が俗世間から離れある高い所に飛んでいきます。伸び伸びとした自由な明るい気分になるのです。その上色彩が美しいのです。
何故、日本画の佐藤多持が生涯をかけてこのような抽象画を描き続けたのでしょうか?
その答えは彼が真言宗の観音寺に生まれ育った経歴にあるのです。
水芭蕉曼荼羅の水芭蕉は彼が若い頃に感動した尾瀬の水芭蕉の花のことです。
そして曼荼羅とは主尊を中心に描き、諸仏諸尊が取り囲んだ構図の円形の宗教画のことです。
古代インドから伝承した密教の宗教画なので曼荼羅はサンスクリット語を音訳したもので漢字には意味がありません。
ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表しています。その種類は数百にのぼると言われています。
そして曼荼羅はこの宇宙を抽象的に描いたものなのです。理想的な宇宙のあり方を抽象的に描いた宗教画なのです。
以上を要約すると曼荼羅の特徴は、
(1)円形であること。
(2)抽象的に理想的な宇宙を描いたもの。

6番目の写真は曼荼羅の一例です。中心に坐っているのが大日如来などです。それを囲んでいろいろな如来や菩薩が描かれ、絵の一番下に一般衆住が描かれています。
佐藤多持画伯はこの密教の曼荼羅を水芭蕉に託して芸術的な抽象画として描き続けたのです。
なお密教とは教団の中で秘密の教義と儀礼を伝承のみによって伝えていく仏教のことをいいます。
密教と逆の立場にあるのが顕教です。顕教は広く大衆に向かって世界観を語り、明瞭な言葉で仏教の教えを説く仏教の宗派です。

7番目の写真は昨日、観音寺の入り口で撮った観音菩薩の写真です。観音寺では今日と明日、佐藤多持画伯の描いた襖絵38枚を無料公開しています。
なお『生誕 100年 佐 藤 多 持 展 ~ 水 芭 蕉 曼 陀 羅 』がたましん歴史・美術館で下記のように開催されています。
前 期 展 : 2019年 4月 2日(火)~5月 12日(日)
後 期 展 : 2019年 5月 18日(土)~6月 30日(日)
詳しくは、https://www.tamashin.or.jp/pdf/top_info_10.pdf をご覧下さい。
この他にも下記の場所でも佐 藤 多 持展が開催されています。
青梅市立美術館、4月6日ー5月26日
たましんギャラリー、4月4日ー6月4日
画廊「岳」、4月9日ー18日
ギャラリー国立、6月20日ー25日

今日は隣町の国分寺市の観音寺に生まれ、水芭蕉曼荼羅を描き続けた佐藤多持画伯の世界をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
佐藤多持
没年月日:2004/10/21 享年85。 
 日本画家の佐藤多持は1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。
戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。
ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。
戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。
80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。
85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。