後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「クロード・モネの油彩画」

2023年07月31日 | 写真
クロード・モネの油彩画をお送り致します。

1番目の写真は『サン・ラザール駅』 1877年作、です。

2番目の写真は『冬ごもりのボート:エトルタ』 1885年作、です。

3番目の写真は『国会議事堂』 1903年作、です。

4番目の写真は『パラッツォ・ダ・ムーラ』 1908年作、です。
写真の出典は以下です。http://artmatome.com/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83.../

クロード・モネ
(Claude Monet, 1840年11月14日 -1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
フルネームは当初オスカル・クロード・モネ(Oscar Claude Monet)であったが、本人がオスカルの名を好まなかったため、通常は「クロード・モネ」と名乗っていた(改名したのかどうかは不詳)。

「中国文化(5)阿倍仲麻呂の中国での活躍と玄宗皇帝」

2023年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム


阿倍仲麻呂は中国へ渡り多くの中国人に尊敬され、玄宗皇帝に重用され政治家として活躍しました。唐で国家試験に合格し登用され諸官を歴任して高官に登ったのです。しかし望郷の念にかられながらも帰国出来ずに中国の土になりました。
今日はこの傑出した日本人、阿倍仲麻呂について書いてみたいと思います。
(1)出生から唐へ渡った後の活躍
阿倍 仲麻呂は文武天皇2年〈698年〉に生まれ 宝亀元年〈770年〉に没しました。
筑紫大宰帥の阿倍比羅夫の孫で中務大輔の阿倍船守の長男でした。若くして学才に恵まれていました。
霊亀3年・養老元年(717年)に多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学したのです。
唐の太学で学び科挙に合格し唐の玄宗皇帝に仕えます。
725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年に左補闕と官職を重ねていきます。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していました。『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存しています。その後も唐での官途を追求するため帰国しなかったのです。
752年衛尉少卿に昇進しました。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐し、唐の皇帝玄宗から遣唐使の応対を命じられます。
そして望郷の念を抱いて帰国許可を玄宗に申し出るが、容易には許可されなかったのです。
結局、日本への帰国は叶えられることなく、唐の玄宗・粛宗 ・代宗に仕えて、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じました。
中国での妻子は伝えられていないが、配偶者は当時ならいて当然とされ、詩などから太学在学中に初婚、その後出世して高位家の娘と2回目の結婚をしていました。
(2)歌人としての阿倍仲麻呂の大きな影響
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』は百人一首で有名な阿倍仲麻呂の和歌です。
歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ掲載されています。
『古今和歌集』の「後序」によれば、『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌は天平勝宝5年(753年)帰国のために明州までやってきた仲麻呂が送別の宴で日本語で詠った歌とされている。
また、陝西省西安市にある興慶宮公園(5番目の写真)には日本人の手に依るその歌の記念碑があります。記念碑の裏にこの歌が刻まれています。
さて『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌は和歌の世界で大きな影響を残しました。その後の歌人たちがこの歌の派生歌を作ったのです。その代表的なものを以下に示します。

ふりさけし人の心ぞ知られぬる今宵みかさの月をながめて(西行)
さしのぼる三笠の山の峰からに又たぐひなくさやかなる月(藤原定家)
何処にもふりさけ今や三笠山もろこしかけていづる月影(*源家長[新勅撰])
初時雨ふりさけ見ればあかねさす三笠の山は紅葉しにけり(〃[続後撰])
天の原ふりさけみれば月清み秋の夜いたく深けにけるかな(*源実朝[新拾遺])
年を経て光さしそへ春日なる山はみかさの秋の夜の月(西園寺公相[続拾遺])
春日なる三笠の山の秋の月あふげばたかき影ぞ見えける(二条良基)
影たかみ今もふりさけみかさ山遠き神代に出でし月かも(堯孝)
今宵月みかさの山の草枕夢かうつつかもろこしの空(藤原惺窩)

以上のように阿倍仲麻呂は中国の玄宗皇帝のもとで政治家として大活躍しただけでなく歌人として日本の和歌の世界に大きな影響を与えたのです。歴史の残る天才でした。こんな傑出した日本人が8世紀にいたのです。

ここに添付した5枚の写真は阿倍仲麻呂を描いた3枚の絵と、続けて阿倍仲麻呂の記念碑とそれがある興慶宮公園(5番目の写真)の写真です。阿倍仲麻呂の記念碑の裏に『天の原 ふりさけみれば 、、』という歌が刻んであります。
写真は「阿倍仲麻呂 関連の絵の写真」を検索してインターネットにある絵から選びました。

今日は中国の玄宗皇帝のもとで政治家として大活躍した阿倍仲麻呂について書きました。そして歌人としての阿倍仲麻呂の大きな影響をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「中国文化(4)遣隋使、遣唐使と唐の官僚体制」

2023年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の縄文時代に中国では始皇帝が全中国を統一し、官僚制で統治していたのです。日本と中国の文化の差は大きかったのです。
始皇帝は紀元前259年に生まれ 紀元前210年に没しました。秦の王に即位した後、勢力を拡大し紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たしたのです。
始皇帝は支配地全土に郡県制を施行したほか、文字・貨幣・度量衡などの統一を行い、後の中国の皇帝政治の基礎を築いたのです。
一方、日本は遅れること約800年後の6世紀に大和朝廷が全国を統一したのです。当然、大和朝廷は中国の隋や唐の制度や文化を導入しようと努力します。それが遣隋使と遣唐使でした。
遣隋使とは推古朝の時代に技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことです。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されています。
そして遣唐使は遣隋使の後に朝廷が唐に派遣した使節です。 目的は国際情勢を知り大陸文化を輸入することでした。 使節団の構成は大使,留学生,船員の3者からなっています。 一行は240〜250人から500人以上に及び,ふつう4隻の船に乗って行ったのです。 
630〜894年の間に18回の遣唐使任命があり,そのうち実際に渡海したのは15回でした。4隻の航路は初め北路,中期に南島路,末期には南路をとったのです。
留学生・学問僧として有名なのは、吉備真備 (きびのまきび) ・玄昉 (げんぼう) ・最澄・空海らがいます。阿倍仲麻呂は日本に帰らず異国の土となり「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌が伝わりました。

894年の菅原道真の建議により遣唐使は中止になりました。唐が内乱で混乱したからです。以後,中国との正式国交は室町時代の勘合貿易まで中絶されたのです。
遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易でした。
それらの物品は正倉院に残っています。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されています。ここで当時の唐の服装と遣唐使に使った船の写真を示します。
1番目の写真は唐の子供の衣装です。唐時代の子供の絵から日本で再現した衣装です。
2番目の写真は唐時代の男の衣装です。唐時代の絵から日本で再現したものです。
3番目の写真は唐時代の女の衣装です。
4番目の写真は遣唐使が乗って行った船を日本で復元した船です。帆が竹を編んだ固いものなので風上に登る性能はありありません。操船性の悪い帆船でした。

5番目の写真は少し豪華な船です。しかし2本マストで操船性の悪い帆船です。

唐(618年 - 907年)は7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に、政制・文化などの面で多大な影響を与えた先進国でした。首都は長安でした。
唐は進んだ中央官制の国でした。
律令制下の官制は三省を頂点とします。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行したのです。
門下省の長官、中書省の長官、尚書省の長官などが宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定されました。
税制は「均田制」および「租庸調」でした。
均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)一人につき、水田が支給されたのです。
また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められていました。
農民は租庸調と呼ばれる税を納める義務がありました。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収めるのです。年間20日の労役の義務があり、これを免除して貰うために納める税を庸と呼び、労役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。府兵制は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す。
以上のように唐の支配体制は厳密、詳細に決めてあり大和朝廷の手本になったのです。当時の中国は先進国であったのです。

今日は遣隋使、遣唐使について説明し、唐の官僚体制の先進性を説明致しました。日本の律令制は中国の制度を参考にして7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の年間第17主日のミサの動画配信」

2023年07月30日 | 日記
今日の年間第17主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、
https://www.youtube.com/watch?v=GpZwkSIUFCc

イグナチオ教会のミサ動画配信、
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

写真のカトリック教会は五島列島の教会の写真です。


「夏が来ると思い出す特攻隊と米軍の損害、そして焼け野原の風景」

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、夏が来ると思い出すことは特攻隊のことと米軍の大きな損害です。そして焼け野原の風景です。戦前生まれの私の夏の思い出です。
米軍のアーネスト・キング海軍元帥は次のように語っています。
「1945年4月6日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。・・・海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」
特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。

1番目の写真は1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊の零戦の特攻で搭載燃料と弾薬が誘爆して爆沈した護衛空母セント・ローです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ です。

2番目の写真は1945年1月1日、リンガエン湾に向けて航行中にスールー海で神風特攻隊旭日隊の特攻を受け炎上する護衛空母オマニー・ベイです。この後に沈没しました。

3番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USS William D. Porter (DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。
4番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。
さて沖縄戦だけで艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えたのが特攻隊だったのです。そして特攻関連の戦死者は14009名だったのです。
終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。 

5番目の写真はすっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真です。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。
毎年、毎年、夏になると思い出すことを書きました。

犠牲になった日本の特攻隊関連の全ての死者のご冥福をお祈りします。
同時に戦死した連合国軍の死者のご冥福をお祈りします。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没した全てのアジア人のご冥福を心からお祈りいたします。後藤和弘

「夏のローテンブルグの風景」

2023年07月29日 | 写真
夏から秋にかけローテンブルグに住んだことがりました。ほんの数回だけ晴天の日がありました。
そんな日はローテンブルグは美しく耀きます。
そんな風景写真です。
写真は「夏のローテンブルグの風景」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。

「お盆にはお寺に行って施餓鬼供養に参加しよう!」

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
お寺でする儀式のなかでお盆の時期に行われる施餓鬼供養は見ると面白いと思います。本堂の両脇にある客間には檀家の人が座って見ます。住職さんに頼んでその席に入れて貰えば良いのです。見物料のかわりに少しお布施を出します。お寺に行って施餓鬼供養に参加し、一緒に祈るとご先祖様の供養になるのです。
この施餓鬼供養は日本のほとんどの宗派の寺で行われています。
お寺によって開催日時が違います。
さてその一例として愛知県の臨済宗妙心寺派の寺院の高屋山 永正寺の施餓鬼供養の様子を、このHPから以下にご紹介いたします。
HPは、http://eishojikengaku.blog33.fc2.com/blog-entry-171.html です。
永正寺では、お施餓鬼を毎年8月17日と9月23日の2日におつとめします。お施餓鬼とは「餓鬼道にいるものに施しをすると、ご先祖さまが救われる」という、日蓮尊者の伝説を基にした法要で、全国の寺院で行われています。ご先祖様の供養のためにするのです。
餓鬼道とは「六道十界」のひとつの道です。
餓鬼道は、飢えと渇きに苦しむ世界です。ようやく手に入れた食べ物や水が口に入ろうとする瞬間に燃えてなくなってしまうと言われています。
その様子はよくお腹が膨れた餓鬼の絵として描かれています。一度見たら忘れられない衝撃的な絵です。
その「常に飢えて渇いている餓鬼道にいるものに施しをすることで、先祖供養をする行事」がお施餓鬼なのです。
その法会の様子を写真に従ってご説明いたします。
まず本堂の一番外側に作った施餓鬼棚へにお経を詠みながらお参りして、お米を施し、水をかけて渇きを癒すのです。

次に総勢14名のお坊さんが読経をしながら本堂のなかをぐるぐる回ります。

時々、下の写真のように座ってお経を唱えます。お経の合間に銅鑼や鐘や太鼓の鳴りものを大きく響かせ、法会を盛り上げます。

檀家の人々は下の写真のように本堂の両脇の客間に座って見ています。合掌して祈る人もいます。

法会は8月17日は朝5時から夕方5時まで断続的に続きます。毎年の参加者は入れ替わりで、延べ約1,000人ほどだそうです。
9月23日は昼の2時から4時まです。参加者は延べ、300人ほどだそうです。
この施餓鬼供養は日本の多くのお寺で一番大きな法会になっています。
日本のお寺は開放的なので、どなたでも気楽に参加することが出来ると思います。
施餓鬼供養は日本の仏教の一つの風習です。大切にしましょう!

「中国文化(3)日本を仏教国にした玄奘三蔵法師」

2023年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は日本へ最も深い影響を与えた国です。そんな中国でも玄奘三蔵法師ほど日本へ大きな影響を与えた人はいません。インドに16年間も滞在して仏教を持って来たのです。それを日本人の空海が日本へ持ってきたのです。玄奘三蔵法師と空海が日本を仏教国にしたのです。仏教は現在も日本文化の基礎になっています。

そこで今日は玄奘三蔵法師のことを書きたいと思います。

唐の時代の話です。玄奘三蔵法師は629年にシルクロードを通ってインドに行き仏教の経典657部を背負って645年に帰ってきました。現在日本で読まれている経典は全て玄奘が背負って来た大乗仏教の経典です。

長安を出発した玄奘は高昌国やヤブグカガン王国で歓迎され旅の支援を受けます。往路はシルクロードの天山北路を通り、帰りは西域南道を通りました。

その道筋の詳細は、天竺への道、第二十三回コラム「玄奘三蔵インドへの旅について」 | お寺の窓口 (oteranavi.com) という資料にあります。

玄奘の往路のルートの概略は、出発(629年)は長安で、そこからシルクロードを西に向かい、天山山脈を越えて現在のキルギス、ウズベキスタンという中央アジアに進んでいきました。そしてアフガニスタンを経て、インドの仏教の中心地だったブッダガヤ近郊のナーランダーに到着したのです。

1番目の写真は玄奘三蔵法師の旅の道程を示した図面です。
この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
玄奘三蔵法師の持って来た経典657部は現在、中國、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全てなのです。漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
玄奘は西暦602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来伝承された仏教の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は中国の長安の大慈恩寺の境内にある大雁塔です。ここに玄奘三蔵法師の持ち帰った経典が保管されていました。
私は1981年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雁塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

3番目の写真は大慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。

4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から玄奘が持って来た経典と密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。

5番目の写真は埼玉県の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の像と玄奘塔です。この塔の下に玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨が祀ってあります。この写真は埼玉県の慈恩寺で私が撮りました。
この訪問記は、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp  の2009年9月14日の掲載記事、「日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました」に書いてあります。
慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しています。

私は玄奘三蔵法師を尊敬しています。唐の長安を旅立ち、はるかインドまで行き、16年もインドで仏教を極め、数多くの経典を背負って長安に帰りついたのです。そしてインドの言葉で書かれた経典を漢文へと翻訳したのです。
玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に捨てられました。釈迦の教えどうり捨てたのです。しかし後に弟子たちが遺骨を拾い集めます。その遺骨の一部が埼玉県にあるのです。不思議です。
インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
{参考資料}
「ミャンマー、タイ、ベトナムの仏教と日本の仏教の違い」、2020年05月31日 掲載記事、
日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。
大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになります。

(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。

(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。

以下省略。 
詳しくは、2020年05月31日 の掲載記事をご覧ください。
添付の写真は上座部仏教の托鉢の風景です。


「中国文化(2)始皇帝陵墓と兵馬俑を見た時の驚きと感動」

2023年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
1980年代初頭に初めて中国に行った私は始皇帝陵墓と兵馬俑を見たのです。約2200年前に秦の始皇帝の頃のものです。
陵墓は大きさは日本の古墳と同じようです。頂上にお墓がありました。その規模の大きさに驚きました。
しかしもっと感動したのは兵馬俑を見た時です。東京ドームくらいの大きさの屋根の下に数千人の兵士と馬が隊列を組んでいるのです。
よく見ると兵士一人一人の表情や甲冑と衣装がみな違うのです。兵士は生きているように精巧に出来ています。馬車もリアルに出来ています。馬車も兵士の隊列も今まさに動いているように見えるのです。
そのリアルさに息を呑み感動しました。2200年前にこんなものを創ったのです。私は心底から感動しました。
3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあると言います。実に驚きです。
勿論、世界遺産 として認定されています。始皇帝陵墓と兵馬俑の写真を示します。
1番目の写真は始皇帝陵の小山です。規模雄大なので私は驚きました。
2番目の写真は始皇帝陵の小山の上です。ごく平凡な眺めでした。
3番目の写真は兵馬俑の隊列です。東京ドームくらいの大きな屋根の下に等身大の兵馬俑が2000体隊列を組んでいるのです。私は圧倒されました。感動しました。

4番目の写真は兵馬俑の拡大写真です。それぞれの顔の表情が違うのです。甲冑を着て出陣する様子です。
5番目の写真は陶製の馬車です。馬のいななきが聞こえるようです。彫刻のように精巧に出来ています。驚異です。
さて始皇帝についてもう少し詳しく書いておきます。
始皇帝は紀元前259年に生まれ 紀元前210年に没しました。中国の初代皇帝で在位:は紀元前221年から 紀元前210年まででした。
 秦の王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たしたのです。
しかし始皇帝は始皇37年(紀元前210年)沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県[)にて崩御します。 
始皇帝は支配地全土に郡県制を施行したほか、文字・貨幣・度量衡などの統一を行い、後の中国の皇帝政治の基礎を築いたのです。詳しくは末尾の始皇帝の業績 をご覧下さい。

またその一方、始皇帝は、その強大な力を背景に大規模な陵墓を建設します。これが秦始皇帝陵で、紀元前246年から紀元前208年にかけて造られたと推定されています。
1974年、地元の住民により兵馬俑が発見され1975年の新華社の報道で世界的な大ニュースとなります。 
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑は、中国陝西省西安北東30kmの驪山北側にあります。
秦始皇帝の陵墓とその周辺にある兵馬俑は2007年にユネスコの世界文化遺産として認定されています。

今日は「中国文化」という連載記事の2番目として、始皇帝陵墓と兵馬俑をご紹介致しました。私も見て驚き、感動しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===始皇帝の業績===============
(1)郡県制の採用 
まず周以来の封建制を廃止し、郡県制を採用し、中央集権体制の確立を図った。全国を36の郡にわけ、その中をそれぞれ県を置いた。現在の日本は県の中に郡が含まれるが、郡県制では郡が上位の単位であった。また、封建制では地方の国に王が置かれたが、秦では国号と王号は廃止された。
(2)貨幣・度量衡・文字の統一
さまざまな統一事業 全土を統一的に支配するのに必要であったのが、貨幣・度量衡・文字の統一であった。貨幣は、戦国の各国が発行した青銅貨幣は布貨、刀貨、円貨など流通するものが違っていたので半両銭という統一通貨を発行した。また度量衡ではまず長さ(度)の単位の一歩を6尺と定め、量をはかる「ます」(秦量)と重さ(衡)をはかる「はかり」(秦権)の標準器を製造して全国に分配した。文字では秦で使われていた大篆をもとに簡略体を作り、それを小篆として、全国共通の統一字体と定めた。また、「車軌」を統一して、馬車が同じ轍で走れるようにした(具体的な車幅などは判っていないが、現代でいえば鉄道車両のゲージを統一してJRも私鉄も同じ電車が走れるようにすること)。
(3)対外戦争と土木事業
 中華帝国を統一支配する国家としての、引き締め策として、新たな外敵が想定された。それは北方の匈奴と南方の南越だった。前215年には動きが活発になった匈奴を討つために、将軍蒙恬に50万の軍を指揮させて派遣した。匈奴を後退させた蒙恬は、その南下に備えて万里の長城を建設した(戦国時代の各国が築いたのをつなげるとともに、新たな長城も建設した)。また翌前214年には軍隊30万を南越に派遣して、中国南部に南海郡(現在の広東)、桂林郡(広西地方)と象郡(ベトナム北部)の3郡を置き、領土を拡大した 
(4)焚書・坑儒 
前213年、法家思想を標榜する李斯の建言により、実用書を除く儒家などの書物を禁書として廃棄する焚書を行い、さらに翌年は始皇帝の政治に批判的な学者を生き埋めにするという焚書・坑儒を行った。これは匈奴・南越との戦争を遂行する上での戦時思想統制という意味合いが強かった。 

以上は、https://www.y-history.net/appendix/wh0203-073_1.html からの抜粋です。



「中国文化(1)ドイツ人の忠告と周栄章教授によって私の中国観が変わった」

2023年07月27日 | インポート

の中国観の形成過程で一番重要だったのは、1969年と70年、ドイツのストッツガルト市にあるマックスプランク研究所で、フンボルト奨学金を受けて研究をしていた時に得た体験でした。研究所で「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆した研究者プルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えました。

(1)プルシュケル氏の忠告

「日本人は中国人を軽蔑しているが、欧州人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」

プルシュケル氏は東ドイツにある村に同姓の村人数百人と一緒に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に同族は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員(後に大学教授)になった人です。

(2)周栄章教授のこと
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。この周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。

中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1980年に北京に行った私に、周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。

(3)地下室で見た中国人の本音
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。

外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。

(4)旅順工大卒業の陸学長のこと

中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人、少なくともインテリの方は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。


以上の体験によって私の中国観が変わったのです。根底から変わったのです。それからは中国人を深く理解し、その文化に強い興味を持つようになったのです。そして私の中国訪問が始まったのです。
そこで私の中国への旅で見聞きしたことを連載記事として明日からお送りしたいと思います。

添付の写真は北京にある故宮です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「真冬の風景写真を眺めていると本当に涼しい気分になった」

2023年07月27日 | 写真
こんな真冬の風景写真を眺めていると本当に涼しい気分になりました。
その写真をお送りいたしますので皆さまも涼しい気分になって下さい。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/photos/gallery/2/winter です。