後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「大晦日の小金井公園の風景」

2022年12月31日 | 写真
静かな年の暮れです。のどかな小金井公園でした。
何となく散歩しながら今年の出来事をいろいろ思い出しました。

大晦日の小金井公園の風景を写真でお送り致します。

皆様にとって来年も良い年になるようにお祈り致します。

「冬の花の写真」

2022年12月31日 | 写真
冬の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://shikinobi.com/shikinohana_huyu です。

1番目の写真は八重咲きのクリスマスローズです。

2番目の写真はメキシコが原産のポインセチアです。和名はショウジョウボク(猩々木)です。

3番目の写真はヨーロッパが原産の葉牡丹(はぼたん)です。日本には江戸時代に食用としてやってきたのが最初です。

4番目の写真はアフリカ・ヨーロッパが原産のエリカです。エリカ属には740種があるといわれています。

「日本の歴史(4)武田信玄の隆盛と武田家の滅亡」

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県に私は小さな山小屋を持っています。50年以上通いました。山梨県に行ってみると人々は武田信玄を自慢します。武田信玄こそ甲州の英雄なのです。合戦で徳川家康を恐怖の境地に追いやりました。上杉謙信と川中島で激しい合戦を数回しました。領土を広げ、治山治水に務めました。

今日は日本の歴史(4)として武田信玄の隆盛と武田家の滅亡について書きたいと思います。
信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。
晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。
武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。
信玄は1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。
徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。
天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。これが武田家の滅亡になりました。
武田家450年の歴史の終焉でした。勝頼は享年37歳でした。そのお墓を訪ねると天目山の麓の景徳院という山寺にありました。侘びしい粗末な墓石です。悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。
景徳院は後に徳川家康により菩提寺として建てられたお寺です。

以下では武田信玄の館のあった 場所に建てられた武田神社の紅葉の写真をお送り致します。甲府市の中央にある武田神社の紅葉です。武田信玄の館はお堀で囲まれていたので武田神社も当時のお堀で囲まれています。

1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。写真は全て家内が撮りました。

2番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。

3番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。

4番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。

5番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。

さて信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったエピソードを書いておきます。いかにも信玄らしい無法ぶりです。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を信玄は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を信州から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
以上は戦国武将の宗教心の一端を示しています。お釈迦様よりも一光三尊(善光寺如来)を大切にします。仏像信心なのです。私も薬師如来や月光菩薩などなどしい仏像が好きです。

話がそれました。武田信玄の隆盛と武田家の滅亡の話からそれました。お許しください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「世界で最も美しいと言われる花々」

2022年12月30日 | 写真
マレーシアのクアラルンプール在住のAhmad Fuad Ahmadさんのブログからお借りした写真です。

ブログは「世界で最も美しい10の花」、http://afkra.blogspot.com/2013/05/the-10-most-beautiful-flowers-in-world.html です。
美しい花の写真をお楽しみ下さい。

「日本の歴史(3)魏志倭人伝と邪馬台国の女王、卑弥呼」

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の3世紀は「古墳時代」の始めの頃です。その頃日本には邪馬台国があり女王の卑弥呼が治めていました。中国の3世紀の「魏志倭人伝」にこの邪馬台国と卑弥呼のことが具体的に書かれています。当時の日本には文字が存在していないので「魏志倭人伝」は實に貴重な記録です。
今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介したいと思います。読み易く箇条書きにしました。

(1)魏志倭人伝とは?

魏志倭人伝は中国の歴史書『三国志』中の第30巻です。第30巻の倭人条の略称です。当時、日本列島にいた民族の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている中国の歴史書です。その歴史書は『三国志』と呼ばれています。西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれました。陳寿の死後、中国では正史として重んじられた歴史書です。
詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D#:~:text=%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%EF%BC%88%E3%81%8E,%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 をご覧下さい。

(2)卑弥呼はどんな女王だったか?

魏志倭人伝には日本と卑弥呼について以下のように書いてあります。
邪馬台国では元々は男子を王として70 - 80年を経たのです。たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が続いたのです。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王にすることによってようやく混乱が鎮まったのです。この女王はが卑弥呼です。
卑弥呼は鬼道に仕え衆を指導します。占いと政治が一体だったのです。卑弥呼は年をとっていて独身でした。そして弟が国政を補佐していました。女王となってからは人と会うことは少なくなります。1000人の従者が仕えていましたが、居所である宮室にはただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをしました。館には城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していました。

1番目の写真は卑弥呼の再現像(大阪府立弥生文化博物館)です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A です。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられます。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、中国から張政が派遣されて紛争が止まります。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していたと書かれています。
卑弥呼の生年は不明ですが正始8年(247年)頃に亡くなりました。卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬されました。その後再び卑弥呼の一族の女性である13歳の壹與が女王になったのです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A をご覧下さい。

(3)邪馬台国の場所


邪馬台国は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。邪馬台国は倭の女王の卑弥呼の女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされています。
邪馬台国の場所は大和説や九州説などがあり明確になっていません。しかし私は九州にあったと思います。大和説は現在の日本の天皇制につながるので天皇を重視する人々が支持します。しかし当時は天皇制が無かったのですから大和説は疑問です。

4)邪馬台国の風俗

邪馬台国の風俗は以下のように書かれています。
1、男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
2,その風俗は淫らではない。
3,男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
4,着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
5,稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
6,牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
7,兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
8,土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
9,家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
10,人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
11,倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
12,真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
13,特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
14,集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
15,敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
16,長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
17,身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
18,女は慎み深く嫉妬しない。
19,盗みは無く、訴訟も少ない。
20,法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
21,宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

なお邪馬台国の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD をご覧下さい。

今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「隠岐の島に咲く花々」

2022年12月29日 | 写真
隠岐の島に咲く花々の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.e-oki.net/feature/detail.php?spid=168 です。

1番目の写真はオオイワカガミです。
隠岐の島町の久見川沿いに生息しています。隠岐では海抜0mの海岸周辺の岩場でも生息しています。
淡紅色~紅紫色の花が6~15個つき、花びらの先端は細かくわかれています。

2番目の写真はオキシャクナゲです。
隠岐の島町で見られる隠岐の固有種です。
本土のシャクナゲは深山の尾根や岩場で見られますが、隠岐では平地にも生育しています。
毎年ゴールデンウィークには、村上家隠岐しゃくなげ園で「しゃくなげ祭」が開催されます。

3番目の写真はオキタンポポです。
隠岐の固有種です。和タンポポの一種で、隠岐全域で見られます。
セイヨウタンポポの侵入により、オキタンポポの生息が脅かされており、隠岐全域でオキタンポポの分布調査と、セイヨウタンポポの駆除活動が行われています。

4番目の写真はヤブツバキです。
日本の固有種で、隠岐全域で見られる照葉樹の代表木です。
枝先に直径5~7cm程の赤色(まれに淡紅色や白色)の花をつけ、隠岐では花と葉の形が地域によって微妙に異なります。

「美しい雪景色の写真」

2022年12月29日 | 写真
美しい雪景色の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://karapaia.com/archives/52183333.html です。

1番目の写真はドイツ、バイエルンです。

2番目の写真はフィンランド、Kuusaankoski, Laukaa です。

3番目の写真はアメリカ、ニューヨーク州、スカネアトレスです。

4番目の写真はイギリス、ロンドン近郊のリッチモンドパークです。

「日本の歴史(2)美しい隠岐と島流しになった天皇」

2022年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
1221年の承久の乱は日本が天皇支配から武家政権支配へと変わった日本歴史の大事件でした。
その結果、当時の天皇が隠岐の島へ流されました。天皇が島流しになるのは日本の歴史では空前絶後です。
今日は美しい隠岐の島の風景写真を示します。その後で何故、後鳥羽上皇が島流しになったのか簡単に説明したいと思います。
それではまず風景写真を示します。
写真の出典は、https://www.pref.shimane.lg.jp/tourism/tourist/kankou/oki_shoukai/oki-geopark/ です。

1番目の写真は日本一の海蝕崖である高さ257mの摩天崖から見た国賀海岸の風景です。放牧されている牛や馬はかつての牧畑の名残りです。

2番目の写真は海岸浸食と地すべりによってできた天然の橋です。奇岩風景だけでなく、幾度となく繰り返された噴火の跡が地層の模様で楽しめます。

3番目の写真は海上に伸びた高さ約20mの島。波の浸食によって作り出されたローソク型の島の上に夕日が重なる瞬間です。

4番目の写真は西ノ島に伝わる田楽です。離島だからこそ残された文化の一つです。中国地方では唯一の田楽として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
写真が示すように隠岐の島は美しいところです。有名な観光地です。この島に後鳥羽上皇が流されたのです。承久の乱の結果でした。そして後鳥羽上皇は1239年(延応元年)に隠岐の島で没したのです。
その承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱でした。日本初の武家政権の鎌倉幕府を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いでした。
資料の、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
から敗れた天皇側の運命を記します。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流される。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流されたのです。
仲恭天皇は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子が後堀河天皇として即位します。
そして親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、鎌倉幕府の意向を受けて朝廷を主導することになったのです。
後鳥羽上皇の下にあった膨大な荘園群は没収され、新たに後堀河天皇の院政を執ることになった行助入道親王(後高倉院)に与えられます。ただしその支配権は幕府が握っていたのです。

討幕計画に参加した上皇方の一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となります。
また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、加藤光員ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放されます。
乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行います。朝廷は新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化されたのです。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられたのです。

このように承久の乱は日本の歴史上の大事件でした。大改革でした。その割にはあまり注目されないのは何故でしょう。承久の乱は武家が天皇側を倒したのです。天皇側にとって不名誉な事件でした。忘れたい悲劇でした。明治維新で天皇の権力が大きくなると日本史の学校教育では承久の乱はなるべく教えないようになったのです。多くの日本人は承久の乱を無視し忘れています。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「日本の歴史(1)明治維新で世界の一等国になる」

2022年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新とは江戸時代末期から明治時代初期の日本において行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革のことです。その範囲はあらゆる分野に及んでいました。政治や中央官制は勿論のこと身分制、地方行政、金融、産業、教育、外交、そして宗教などなど多くの分野の改革と近代化を推進したのです。
それは日本民族の歴史で空前の革命でした。
一般には当時、御一新と呼ばれましたが学者は維新革命や明治革命と書いていました。
この膨大な改革をここで説明することは不可能なので明治維新にまつわる写真を幾つか示すことにしました。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0#%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A です。

1番目の写真は戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)です。

2番目の写真は四国連合艦隊による下関砲撃(馬関戦争)です。

3番目の写真は左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通です。

4番目の写真は浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船です。

5番目の写真は廃仏毀釈により破壊された石仏です。川崎市麻生区黒川。

6番目の写真は岩倉使節団の米国留学女学生です。左から、永井しげ 、上田てい 、吉益りょう 、津田梅子 、山川捨松 。明治4年。

7番目の写真は日朝修好条規締結の情景写真です。

明治維新ではいろいろ広範囲の分野で革命的な変化が起きましたが、ここでは宗教の分野だけの変革をご紹介いたします。

(1)廃仏毀釈運動
5番目の写真は廃仏毀釈により破壊された石仏です。首からもぎ取られた石仏です。
宗教的には祭政一致の古代に復す改革でしたが、宗教界の思惑や民衆の反発、キリスト教圏の欧米からの外圧、新政府内部での保守派と改革派の対立により、紆余曲折がありました。
慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月(旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれます。
そして当時の特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと発展して行ったのです。
数百年間続いていた永平寺と總持寺の曹洞宗の内紛に関しては明治元年(1868年)6月に新政府が沙汰書を発給して調停を成立させるなどして仏教界の問題についても明治政府は干渉したのです。

(2)楠木正成などの称揚
慶応4年4月21日、勅命により湊川神社に楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とし顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていったのです。
また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豊國神社」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた豊臣家の再評価もなされるようになります。

(3)陰陽道の禁止
陰陽道は迷信とみなされ、天社禁止令により陰陽師の免許が禁止されました。
また陰陽師を統制するために存在した陰陽寮も廃止され、天体観測や暦の編纂など一部の業務は新設された省庁に移管されました。

(4)キリスト教の禁教と自由化
キリスト教は、新政府によって引き続き厳禁されました。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させられます。明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させたが、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、欧米から非難されます。耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れをはじめとする弾圧が、当時のアメリカ大統領グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴びたのです。報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は明治5年正月に教徒赦免の建議をします。
明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告します。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、禁教はようやく終結しました。キリスト教は完全に自由化したのです。

今日は明治維新にまつわる写真を幾つか示し、あわせて宗教の分野だけの変革をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「美しい冬の風景をお送り致します」

2022年12月27日 | 写真
美しい冬の風景をお送り致します。
写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/1448/ です。

1番目の写真は蔵王山の樹氷です。

2番目の写真は阿寒湖のフロストフラワーです。

3番目の写真は埼玉県の三十槌の氷瀑です。

4番目の写真は袋田の滝です。

「ドラマチックな花の写真をお送り致します」

2022年12月26日 | 写真
毎日、平凡な花の写真で申し訳ないと思いいろいろ検索してドラマチックな花の写真をお送り致します。

写真の出典は、「花の写真」などいろいろ検索してドラマチックな花の写真を選びました。

「細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の紹介」の続き

2022年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
『柔術の遺恨』(敬文舎)は細川呉港氏の力作です。記録文学の傑作です。90年の時を経て今、明らかになる柔道創成期の隠された葛藤を詳しく分かり易く書いた記録です。
12月22日に「細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の紹介」という記事を掲載しました。そしてこの本で感動したことを少し書きましたが、書き足りなかったので今日は続編をお送りいたします。
今日はこの「柔術の遺恨」の内容をご紹介したいと思います。あわせて私の感想も書こうと思います。
まず『柔術の遺恨」の概要を示します。
講道館の高段者をすべて破るも、嘉納治五郎に技を禁止され、不遇をかこった「柔術家田辺又右衛門」の一代記です。又右衛門の口述筆記4冊が、明治~昭和の武道界の様子や、又右衛門と嘉納治五郎とのやり取り、講道館の高段者との試合の詳細を具体的に伝えているのです。おそらくこうした記録作品は今までにも例がないと思います。

1番目の写真は細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の表紙です。
この本の目次です。
目次
第1章 講道館との激突
第2章 大日本武徳会の設立
第3章 不遷流の流れ
第4章 田辺又右衛門苦難の時代
第5章 柔術の卓越性
第6章 柔道の限界
第7章 姿三四郎の実像
第8章 消される又右衛門の存在

この目次の第4章「田辺又右衛門苦難の時代」が示すように田辺又右衛門は苦難の時代を克服して一世を風靡しました。講道館の柔道を倒し有名になりました。しかし講道館一派に消されてしまうのです。その経緯は第8章の「消される又右衛門の存在」で詳しく書いてあります。
現在の日本人は田辺又右衛門の名前すら知りません。
それなのに細川呉港氏は田辺又右衛門を掘りだして改めて世に紹介したのです。脚光を浴びせたのです。
社会には勝者と敗者がいます。世の常です。細川呉港氏は敗者に心を寄せます。敗者にも素晴しい人間がいるのです。細川呉港氏はそんな人間を主人公にした作品を幾つか書いています。
話は飛びますがフランス在住のもと子さんから次のようなコメントを頂きました。
・・・Motoko Boutdumonde、
そういうことなのですね…次男は柔術をやっています。子供の頃は合気道でしたが。ボルドーには良い柔術クラブがあるそうです。・・・
そして趣味人俱楽部のヤックンさんから細川呉港氏について下記のようなメールえを頂きました。
・・・細川呉港氏を紹介してくれて感謝。
藤山さんが日記で紹介してくれた細川呉港の本(鰯の群れ)を読み終わりました。私には(菊と刀)以来の衝撃でした。細川呉港の本、図書館から4冊今日届きます。まだ2冊しか読んだことないです。内容が濃いので読むのに時間かかります。ありがとうございました。・・・

私もそう思います。細川呉港氏は有名な作家になろうと思っていないのです。世の中の弱者の心を寄せます。人間性の豊かなお人なのです。
細川呉港氏本の一覧を示します。

「柔術の遺恨 : 講道館に消された男田辺又右衛門口述筆記」 細川呉港著 敬文舎
「舞鶴に散る桜 : 進駐軍と日系アメリカ情報兵の秘密」 細川呉港著 飛鳥新社
「桜旅」 細川呉港 著 愛育社
「紫の花伝書 : 花だいこんを伝えた人々」 細川呉港 著 中国書店
「草原のラーゲリ」 細川呉港 著 文芸春秋
「ノモンハンの地平 : 草原紀行ホロンバイルの過去と現在」 細川呉港 著 光人社
「日本人は鰯の群れ : 戦後民主主義は間違っていた!」
「ノモンハンの地平 : ホロンバイル草原の真実」 細川呉港 著 光人社
「満ちてくる湖」 細川呉港 著 平河出版社

私はほとんど全部読みました。どれも感動的な作品でした。

今日は「細川呉港著、『柔術の遺恨』(敬文舎)の紹介」の続き、を書きました。あわせて細川呉港著の作品を全ての題目もご紹介いたしました。

2から4番目の写真は柔道の立ち技2種と寝技1種です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「赤道直下の最後の秘境、パプアニューギニアに咲く花」

2022年12月25日 | インポート
まずニューギニア島の東半分が最後の秘境といわれるパプアニューギニアであり、西半分はインドネシアに属するイリアンジャヤということを記憶しておきましょう。

大小600もの島からなるパプアニューギニアは、総面積約46万㎢で日本の約1.25倍、人口は約860万人でパプア人やニューギニア人、高地族を中心に多くの部族で構成されている。

パプアニューギニアは、南太平洋にあるニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる立憲君主制国家です。国家元首はイギリスの国王が兼任するパプアニューギニア国王です。

パプアニューギニアは起伏に富んだ地形であることと熱帯という気候条件にあるため畑作には向かない。しかしながら、ヤシの栽培には適しており、工業もヤシを中心に形成されている。

パプアニューギニアには1000を超える文化的集団が存在すると推計されている。この多様性のため、多くの文化的表現様式が生まれている。

個々の集団は絵画、ダンス、武器、装束、歌、音楽、建築などにおいて独自の表現形式を作り出している。これらの文化的集団のほとんどは独自の言語を有する。

兎に角、興味深い国cです。詳細は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%91%E3%83%97%E3%82%A2... にあります。