後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

日曜小話・・・辛坊さんを救助した飛行艇の旧型機による2度目の真珠湾攻撃

2013年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

日本から1200kmも離れた海でヨッへ浸水した辛坊さんら2人を救助した自衛隊の飛行艇の性能には多くの人が吃驚しました。

航続距離の長いと言われているオスプレイ機でもたかだか800kmくらいです。その上、オスプレイ機は海上に着水出来ませんから今回のような海難事故は救助出来ません。アメリカ軍には航続距離の長い飛行艇はありません。

そこで今回活躍した飛行艇の技術の歴史を調べてみました。

そうしたら、この飛行艇を作った新明和工業(株)の前身の川西航空(株)が、先の大戦中に航続距離が9000kmもある二式大艇という大型軍用飛行艇を167機も製作していたのです。下にその写真を示します。

Kawanishi_h8k_emily_take_off1
・勿論、水陸両用で、下のように陸上にも離着陸できます。

Kawanishi_h8k_flying_boat_emily_h8k

この二式大艇は昭和17年3月4日に第二回の真珠湾攻撃を行ったのです。航続距離が長いので可能な攻撃でした。しかし戦果はあまり無かったので、この第二回目の真珠湾攻撃は知る人も少なく終わったのです。
この作戦をK作戦と言います。

この他に航続距離が長いのでオーストラリア大陸の北端にあるダーウイン軍港の爆撃を何度も行っています。

日曜日で、お暇の方は、「二式大艇」、「K作戦」、それに「オスプレイ」という3つの言葉を検索すると、いろいろな面白い話を読むことが出来ます。

それぞれのURLは以下の通りです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BC%8F%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%89%87

http://ja.wikipedia.org/wiki/K%E4%BD%9C%E6%88%A6

http://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

この時、特に注目して頂きたいのは、航続距離と着水能力の2つです。今回、活躍した自衛隊の飛行艇は波高3mでも着水出来、救助後も離水可能だったのです。

技術は歴史的に積み重なっているという一つの実例です。ちょっとした日曜小話としてお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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爽快なヨットと海の写真をお送りいたします

2013年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ梅雨空が続き気分が暗くなりがちです。

そこで気分が少しでも晴れるように爽快なヨットと海の写真をお送りします。

最初の2枚の写真は、長さ43フィートのハンスクリスチャン43という北欧の大型ヨットです。駿河湾を帆走している時の写真です。写真に写っているHootaさんが船長で、合計6名のクルーでした。

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・下の3番目の写真は自分のヨットです。長さ26フィートのアメリカ設計のジョイラック26というヨットでした。場所は霞ヶ浦です。

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下の写真のは東京ベイヨットクラブのドイツ製の39フィートの大型艇Bambino号です。2009年6月20日夕暮れの風景です。レインボーブリッジ下からの撮影です。

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・夕方から夜に変わる東京港の風景を楽しむ帆走会でした。

浜離宮の隣の築地運河から出港しました。新橋駅から歩いて行ける都心のヨットハーバーです。

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すっかり暗くなってからはお台場の高層ビルの夜景が印象的でした。今から4年前の梅雨の晴れ間のセイリングでした。

インターネットのお蔭でいろいろな友人が出来ました。そのお蔭で東京湾や相模湾や駿河湾などでセイリングを楽しむことが出来ました。

このヨットの趣味も25年続けて、2011年の秋に思いっきり良く止めました。

こんな写真を見てあの頃の元気さを思い出しています。気分も晴れ晴れしました。(終わり)

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西洋の文学によく出て来る神学校とはどういうところなのでしょうか

2013年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

西洋の文学を読んでいるとしばしば神学校というところが出て来ます。

例えばヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説では、神学校に入学するがそこが嫌になってしまう少年が主人公です。その小説を深く理解するためには神学校という学校をよく知っておかねがなりません。

また、20世紀の独裁者(1)キリスト教聖職者の道を捨てたヨシフ・スターリン という記事ではスターリンが神学校に入学し、司祭叙階の直前に逃げて共産主義者になったことを書きました。何故、キリスト教を捨て共産主義者になったかを深く理解するには神学校のことを知らねばなりません。

今日は日曜日なのでカトリックの東京神学校について簡略に書いてみたいと思います。そこは2010年6月に訪問しました。

訪問したときに撮影した写真を掲載し、個人的な感想だけを記述したいと思います。

尚、歴史や運営方法、そして神学生の募集の方法などについては末尾にあるHPのURLをご覧ください。

さて、ひどく感心したことに、この学校は非常に開放的なのです。

構内のあちこちを隈なく案内してくれて、写真撮影をさせてくれました。

お世話になった方は事務室の山下充志郎さんでした。

訪問する直前に神学校へ電話をしましたところ、山下さんが歓迎の様子で、お時間のある神父様にもお会い出来るようにして置きますと言ってくれました。

応接間へ案内してくれ、間もなく副院長の松浦信行神父様が現れ、いろいろなお話をして下さいました。神学生は高校卒業以上でカトリックの洗礼を受けた未婚の男性で一生を神へ捧げる決心をしている人という事でした。哲学を2年間学び、その後の3、4年間は神学を学ぶそうです。学院の目的は全国各地のカトリック教会で主任司祭になる神父さんを育てることです。高学年になると実際の訓練をする為に各地のカトリック教会へ派遣され日曜日のミサの助祭を務めたり日曜学校の運営にあたります。

一生独身を通し、主任司祭として教会の信仰を指導し、面倒な管理運営も担当しなければなりません。信仰と指導と、教会の管理を行うプロフェッショナルなのです。西洋文化圏における「プロ教育」のエッセンスを集めたような素晴らしい学校のように感じました。

実は、2010年4月から小金井教会に最近、この神学校からTさんという神学生がミサの助祭として毎週来てくれています。ミサの間、祭壇の上でいろいろな仕事をしているTさんの挙動に過不足がないのです。説教も時々しますが、若者らしいすがすがしい内容で感銘深いのです。若いのによくぞ司祭になる決心をしたと感心しています。そこで彼の勉強している神学校を訪問しようと思ったのです。このTさんは後に司祭に叙階され、現在は九州のカトリック教会で司祭として働いています。

最後に訪問でお世話になった副院長の松浦信行神父様と山下充志郎さんへ感謝の意を表します。

掲載した写真は神学校の御御堂、中庭、教室、廊下、図書室などの様子です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)

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尚、この神学校の詳細は、http://www.tokyo.catholic.jp/text/welcome/shingakuin.htm に御座います。

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富士山を写している2種類のライブ・カメラ映像のご紹介

2013年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

富士山の現在の姿を写しているライブ・カメラを2種類ご紹介いたします。

一つは静岡県の6ケ所から見た富士山の映像です。

そのURLは、http://www.pref.shizuoka.jp/~live/です。

もう一つは山梨県の富士五湖と富士山の映像のライブ・カメラです。

そのURLは、http://www.fujigoko.tv/live/ です。

現在は富士周辺は厚い雲がかかっていて良く見えません。そんな写真の数例を下にしめします。

はじめは清水港からの現在の映像です。

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何も見えません。しかし午前5時の映像には下のように富士山が見えていました。L1
次の写真は河口湖から富士山を見た現在の映像です。

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雲の中に富士山が隠れています。そして下は山口湖から見た風景です。Cam3

上は雲に覆われていますが、天気が良ければ下のように見えるそうです。

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今日は天気が悪いですが、晴天の日には富士山の美しい姿がいろいろな場所から楽しめる便利なライブ・カメラなのでご紹介いたしました。(終わり)

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梅雨の晴れ間の散歩には善福寺池へどうぞ!

2013年06月29日 | 写真

今朝は梅雨が晴れていました。車で40分の善福寺池へ行ってきました。

池の周囲は樹木が生い茂り、池には白い睡蓮の花が一面に咲いています。川鵜の夫婦がのんびりと羽づくろいをしています。

密集した住宅街の真ん中にこんなにも自然が残っているのが不思議です。

今日の写真を下に示します。お散歩なさっているご気分でお楽しみ下さい。

=====善福寺池までのアクセス===================

JR中央線・東京地下鉄丸ノ内線荻窪駅より関東バス「南善福寺」行き「善福寺公園前」下車徒歩0分、JR中央線西荻窪駅より関東バス「上石神井駅」行きor「大泉学園駅」行き「善福寺」下車徒歩5分、JR中央線・京王井の頭線吉祥寺駅より関東バス「上石神井駅」行き「善福寺」下車徒歩5分(土休日のみ運行)、西武新宿線上石神井駅・西武池袋線大泉学園駅より関東バス「西荻窪駅」行き「善福寺」下車徒歩5分

  • 近接して東京女子大学がある。
  • 入園は無料。常時開園している。貸し出しボートはしばらく運営を中止していたが、2006年3月25日から再開することになった。遊覧可能だか、ボートの貸し出し時間は日中のみ。土日祝日営業(有料) ※12月~3月までは休業(ただし桜開花時期に応じて変更の場合がある)
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    夏だ、北海道へ行こう!・・・広い牧場への旅の思い出

    2013年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

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    夏になると北海道への旅に出たくなります。しかし長旅はしだいに億劫になりました。そこで去年の旅を思い出して、行った気分になっています。

    北海道旅行がお好きな方々へお送りする写真集です。

    昨年の夏は、女満別空港を利用した北海道の東部を巡る旅でした。

    川湯に3泊し、野付湾、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖、などを見て来ました。それらの湖の間には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いているのです。その牧場の風景が魅力的でした。

    北海道の牧場は、ヨーロッパの田舎の風景によく似ています。遥かに見える牧舎や家々も何故か本州と違い欧州風です。明治時代以後、欧米から洋風の牧畜業を導入して来たためでしょう。

    ここには奈良時代の律令国家も平安、鎌倉、室町時代もありませんでした。

    道南の松前藩以外は江戸文化も存在していませんでした。

    はるか石器時代からアイヌ民族の部落が散在していただけでした。

    そこへ欧米風の牧畜業が広がったのです。

    本州からの観光客は、屈斜路湖や阿寒湖の美しさや、大雪山の雄大さにとともに広大な牧場に見とれ、ロマンチックな気分になって帰って行きます。

    それこそが北海道の魅力なのです。

    今回は以下に大地に広がる牧場の写真をお送り致します。141

    国道に沿って上のような看板が出て来ます。しかし牧舎や家は遥か奥の方にあって、小さく見えるだけです。

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    晴天の夏に観光に来た人々はこの大地に生きる人々の厳しい冬を知らないで帰ります。昨年の旅では、その厳しい生活を暗示させるような雲が一瞬にして広がりました。下の写真です。

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    天気が悪かった故に、この大地に生きることの苦しみと喜びを深く考えることになりました。

    大地をよく観察すると北海道の東部の中標津、別海、虹別、標津、釧路、根室、女満別などの地方の大地は牧畜業以外は出来ないような土地です。

    水はけが良すぎて、寒冷な土地なので牧草以外が育たないようです。

    そしてその牧畜業も本州では想像もつかないくらい広大な土地で大規模に牛や馬を飼わないと一家の生計を支えられないのです。下にその牛や馬の写真を示します。

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    東北海道では、サラブレットでなく気性の優しい道産子です。

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    稲作は北海道の南部の一部を除いては困難なのです。ですから本州に根付いている稲作文化は歴史的にも存在していなかったのです。

    牧場以外、何も無い大地を4日間走り回っていると別の魅力を発見します。何故か本州が遠い、遠い国のように思われます。

    牧草地に立ってボンヤリして来ました。ああ北海道は良いなあとしみじみ思います。そんな写真をもう少し下に示します。

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    牧草地には人影も牛馬の影もありません。静かに風が吹いているだけです。

    そこでもっと詳しく観察するために上の写真のように牧草地を歩きまわりました。

    春に耕した耕運機のわだちの跡がかすかに残っているだけで牛馬の糞が落ちていません。放牧した形跡が無いのです。

    それでも根気よく探しましたらやっと乳牛が霧の中で草を食べているのを見つけました。

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    乳牛はいつもは放し飼いにしないで牧舎の中で飼うようです。牧草は刈り取って、冬の間に牧舎の中で乳牛に与えるのです。

    下の写真がその事を示しています。牧草地の中に見える黒い点々や白い点々が刈り取った牧草の塊なのです。写真では点々に見えますが、一個の点は直径1.5メートルくらいの巨大な牧草の巻き物なのです。長さも1.5m位あり一個の重さは400kgくらいありそうです。

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    白い塊や黒い塊は、牧草の巻物を白いビニールか黒いビニールで包んだためです。このようにビニール布で包んで密閉しておくと、中の牧草が発酵して牛の食欲増進に役立ち、消化も良くなるそうです。

    勿論、夏の間は牧草地の一部に放牧しますが、それは極く限られた面積しか使いません。

    沢山の濃厚な牛乳をつくるには牧草だけでなく栄養価の高い穀類飼料を与えることが重要なのです。それで牛へ与えるトウモロコシの畑も広がっています。

    それを考えながら、山梨県にある自分の山林の中の小屋の隣にあった乳牛農家の牧草地を思い出しました。夫婦で28頭の乳牛を飼っていました。200mX200m位の牧草地を持っていましたが、そこへ乳牛は放牧しないのです。

    牧草を鎌で丁寧に刈り取って、束ねて、発酵させてから、冬の間に牛へ食べさせるのです。牛は春夏秋冬、いつでも牧舎の中で飼っていました。

    そんな山梨県の山郷での乳牛飼育の様子を思い出しながら、北海道の広い牧草地を散歩してきました。それも北海道への旅の魅力の一つです。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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    江戸時代の信仰を示す神社の風景、その一「小さな神社と信仰」

    2013年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

    日本人の宗教とはどんなものだったのでしょうか?

    江戸時代までは仏教のお寺と神社が同じ境内に建っている神仏混淆が普通でした。

    しかしお寺が併存しない小さな神社だけも沢山あったのも事実です。

    私の住んでいる小金井市は、江戸時代は武蔵国の小金井村という農村でした。

    東西に延びる国分寺崖線の南側の下には野川が流れ水が豊かだったので水田も広がっていました。

    そして国分寺崖線の上の北側の台地は、江戸初期までは水利もなく田畑もあまり出来ませんでした。江戸初期に玉川上水が出来て分水を貰えるようになってから多くの人々が住み着きました。

    したがって小金井村の野川の周囲の神社は、鎌倉時代や、それ以前から存在していましたが、それに対して、北の台地の上にある神社は江戸時代から出来たものが多いのです。

    ところで江戸時代の人々はどのような思いをもって神社に参拝していたのでしょうか?

    それを示す手がかりを探して、近所の小さな神社を丁寧に見ながら写真を撮って来ました。

    まず一番最初に小さなお稲荷さんの説明板を示します。大きな松の木の下にありました。

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    上の説明を読むとこんな小さな神社でも信仰する人々は数多くの村に住んでいたことが分かります。近年歩道の拡張や隣に大きいマンションが出来、どうなるのかと心配しておりました。けれどご覧のように新しい玉垣が作られ、健在だったので安心しました。

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    ・そして下には三つの小さな神社の写真を示します。

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    ・上と下の写真は五日市街道に面した秋葉社という小さな神社です。隣に海岸寺というお寺がありますので江戸時代は同じ境内にあったのかも知れません。

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    ・下の小さな稲荷神社は五日市街道に向って、背後は小金井公園の林になっています。ささやかな神社ですがよく掃除がしてありました。

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    ・下の稲荷神社は小金井駅から東京農工大学へ行く「農工大通り」に面しています。神事をきちんとしている様子が伺えました。

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    さて今日このようにささやかな神社を巡って感心したことは、神社がどこも清潔に掃除してあることです。そして江戸時代から寸分変わらず静かな雰囲気が囲んでいるようです。
    神社へ参拝して、家族の健康と家内安全をお稲荷様へ祈るのです。それは素朴な信仰心です。
    しかしこの素朴な信仰心を大切にすることが全ての宗教にとって重要なことと私は信じています。

    少し汗ばむような暑い午後でしたが静かな、そして小さな神社をめぐり歩きながら私の気持ちは幸せでした。そして江戸時代にここに住んでいた人々のことをあれこれ想像していました。

    続編では小金井にある大きな神社についてご報告いたします。(続く)

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    アサンジ事件とスノーデン事件ほど憂鬱な事件は無い!

    2013年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

    アサンジ氏はオーストラリア人ですが、アメリカをはじめ各国の外交機密情報をネットで全世界に流しました。ウィキリークスというウェッブサイトを組織、運営しています。

    彼は現在、ロンドンにあるエクアドル大使館に亡命し、長い間かくまわれています。

    一方スノーデン氏はれっきとしたアメリカ人です。もとCIAやNSAで働いていて、その機密情報を持ち出し、公表しました。

    彼は香港からモスクワへ逃げて、ロシアのどこかで匿われていて、亡命先を探しているようです。

    以下に2人の顔写真を示します。左がアサンジ氏で右がスノーデン氏です。

    Julian_assange_full1 Nsaleakeroutshimself11

    アサンジ氏の起こした事件とは主にアメリカ、英国、フランス、ドイツなどNATO軍事同盟国にかんする国家機密情報の漏洩事件です。

    そしてスノーデン氏はアメリカのCIAやNSAの秘密情報を公表した事件です。

    2つの事件の詳細はそれぞれ、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3 をご覧ください。

    この2つの機密情報漏洩事件で喜ぶのはロシア、中国、そして北朝鮮です。

    苦り切っているのはアメリカ、英国、フランス、ドイツなのです。

    日本はアメリカ陣営ですからもっと大騒ぎをして、彼等2人を非難すべきです。しかし多くの日本人は無関心で、マスコミもあまり取り上げません。

    それはさておき、私が何故憂鬱きわまりない事件と感じているのでしょうか?その理由を書くのが今回の記事の目的です。

    2人はアメリカへ対して反逆的な行為をしたのですから逮捕して処刑すればよいのです。それで日本の安全保障もより確実に守れます。

    しかし、このように割り切って良いものでしょうか?

    国家同士が国民をだますような外交秘密協定をつくることが良いことでしょうか?それを不正な行為だとして、外交機密情報を暴露したのがアサンジ氏です。

    一方、CIAやNSAが各国の疑わしい人物の個人情報を盗聴したり、ネットでハッキングして違法に収集していたのです。それははたして良いことなのでしょうか?

    この2つの事件は国家の悪行に対決して、個人が正義と信じることを実行した事件なのです。

    上の一行の文章に深い意味や背景があるので憂鬱になるのです。

    そもそも、安定した国家の維持と、国家間の国際競争の為には機密情報が絶対に必要だと広く考えられています。

    そして一般的に言えば、強い国家の国民は幸せです。

    その恩恵をこうむっていたアサンジ氏もスノーデン氏もその恩恵を享受しながら、国家へ反逆したのです。ですからアメリカ政府に追われる身になってしまったのです。こういうのを当然の結果と言います。

    しかし二人の個人的な立場にたってみれば、正義は彼らサイドにあることは明確です。国家の方が悪いことをしているのです。

    日本には戦前、「治安維持法」という悪法がありました。どんな人間でも当時の政府や軍部に反対するようなことを少しでも言えば即刻逮捕です。

    逮捕された人々にも本物の愛国者もいた筈です。日本を愛するあまり軍部へ反対した人もいた筈です。

    現在でも同じことです。日本を愛するあまり尖閣諸島問題や竹島問題に関して一見、中国や韓国を利するような発言を書く人もいます。そうすると彼らを非国民のように非難する人が多いのです。

    日本では警察が逮捕しませんから良いのですが、共産党独裁の中国や北朝鮮では日本の肩を持つような意見を言えば官憲の取り調べがあり、収容所送りです。

    国家の悪行と個人の正義感の対立はいつまでも解決のつかない問題なのです。それが私を憂鬱にするのです。

    しかしこの私の憂鬱が突然、消えるlことになったのです。

    今回の2つの事件をイエス様へ聞いてみました。そうするとイエス様はこうおっしゃるのです。「あなたたちはこの世のことだけでなく、あの世のことも考えなさい。私があなたを大切に思うように、あなたも私を愛しなさい」と。

    ようするに今回の2つの事件はこの世のことだから現在のこの世の人間同士が賢く解決しないさいという意味です。

    賢い解決のためには感情的になってはいけません。憂鬱になるのも感情的になっている証拠です。そこで私は感情的反応を止めました。

    これで私の憂鬱は雲散霧散しました。

    しかしこの2つの事件のことは忘れないようにします。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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    関東ローム層の巨大な崖の上の雑木林の写真

    2013年06月27日 | 写真

    東京都の神奈川県に近い南端を多摩川が流れています。源流は山梨県の丹波村の山地と奥多摩の山々です。奥多摩湖より上は丹波川(たばがわ)と呼び、奥多摩湖から下は多摩川といいます。河口は羽田空港のすぐ南側で、そこから東京湾に注いでいます。

    多摩川の両側は河岸段丘になっていて旧石器時代から人間が住んでいました。約2万年前の旧石器時代の石器は小平市でも沢山出土しています。

    河岸段丘は浸食によって小高い岡になっていて、寒冷期の旧石器時代は針葉樹が茂っていたようですが、温暖期の縄文時代から広葉の雑木林が繁るようになりました。

    雑木林の大部分は、人々が切り開いて田畑にしましたが、高い岡の上は水利が無く田畑にはなりません。ですから切り立った高い岡の上は手つかずのままの混生の雑木林が、ところどころに残っています。

    今日はそのよう巨大な崖の上の大昔の雑木林の写真を撮って来ました。

    写真をご覧になって悠久の時の流れを感じて頂ければ嬉しく思います。

    場所は府中から是政橋を渡って稲城駅のすぐ右に聳えている崖です。

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    ・上の崖の右側の下方が多摩川です。写真の奥の方が上流です。

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    ・崖の上の雑木林は人がきちんと植えたものでない混生林になっています。

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    崖の白い壁には蔦草が茂っていますが、冬になると白い崖になります。

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    20世紀の独裁者(8)何故、日本には独裁者が出なかったか?

    2013年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

    この6月の始めから「20世紀の独裁者」という連載記事を以下のように7回にわたって掲載してきました。

    20世紀の独裁者(1)キリスト教聖職者の道を捨てたヨシフ・スターリン

    20世紀の独裁者(2)親日家フィデル・カストロとヨハネ・パウロII世

    20世紀の独裁者(3)ヨーロッパ文化の闇が生んだ独裁者ヒットラー

    20世紀の独裁者(4)東洋の共産主義皇帝、毛沢東

    20世紀の独裁者(5)ヴァチカンを独立国家にさせた独裁者ムッソリーニ

    20世紀の独裁者(6)カトリックを徹底的に保護した独裁者フランコ

    20世紀の独裁者(7)蒋介石とその反逆者、張学良の運命

    上に取り上げた独裁者は30年、40年と長い間独裁の地位にありそれぞれの国を統治してきたのです。

    これらの独裁者は下のように3つに分類されます。

    (1)共産主義革命によって独裁者になった人(スターリン、カストロ、毛沢東)。

    (2)共産主義をつぶすため軍事力で独裁者になった人(フランコ、蒋介石)。

    (3)議会制の多数派工作で独裁者になった人(ヒットラー、ムッソリーニ)。

    このように比較分類してみると何故、日本には独裁者が現れなかったかが明快に分かるのです。

    結論を先に書いてしまいます。

    明治維新は薩長土肥の藩が協力して達成した近代化革命でしたが、そのために4つの藩の合議制をせざるを得なかったからです。

    そして日本ではその社会体制を覆す共産主義革命が出来なかったからです。

    日露戦争に勝って、第一次世界大戦で戦勝側にあった日本は、昭和時代に入って軍部独裁になりますた。しかし陸軍と海軍が並列する組織の故に、個人の軍人が独裁権を確立できませんでした。

    独裁者が居なかったので日本の政治は民主的な議会制政治が行われていたと考えるのも大間違いです。

    明治18年に伊藤博文はそれまでの太政官制度を廃止して欧米流の内閣制を導入しました。そして伊藤博文は初代の内閣総理大臣になります。

    しかし歴代の総理大臣や内閣構成員は薩摩藩と長州藩の出身者によって占められていたのです。これを薩長土肥の藩閥政治と言いますが、その実態は薩摩藩と長州藩の出身者による独占的な政治体制だったのです。

    明治21年には帝国議会も開かれましたが、選挙権は金持ちに限定され、選挙では政府が民衆を代表する自由党を激しく攻撃し、ひどい選挙干渉を行ったのです。

    明治時代の日本の議会制度は民主主義とはほど遠く、薩長出身の政治家と官僚が権力を握り、農民や労働者の意見は無視されていたのです。

    確かに板垣退助らの自由民権運動は有名ですが、それをもって明治時代に民主主義が浸透していたと考えたら、それは大変な誤解なのです。

    戦前の戸籍簿には士族出身か平民出身かを明記されていたのも一例ですが、日本の社会には古い身分制度と因習が生きていたのです。戦後の学校教育では板垣退助らの自由民権運動を過大に評価して教えていましたが、それは戦後の日本人の希望ではありましたが、実態ではなかったのです。

    明治時代の政府には確かに個人の独裁者が現れませんでした。

    しかしそれは露骨なまでの薩摩藩と長州藩の独占的藩閥政治だったのです。このような政治体制では個人的な独裁者が出来るのは不可能だったのです。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

    下にその実態を示す資料と関連の写真を示します。

    ======内閣総理大臣の藩閥==============

  • 伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
  • 黒田清隆(薩摩藩)2代目
  • 山縣有朋(長州藩)3・9代目
  • 松方正義(薩摩藩)4・6代目
  • 大隈重信(佐賀藩)8・17代目
  • 桂太郎(長州藩)11・13・15代目
  • 山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
  • 寺内正毅(長州藩)17代目
  • 田中義一(長州藩)26代目
  • 各大臣における藩閥:

  • 明治期の内閣(第1次伊藤内閣から第2次西園寺内閣まで)の閣僚経験者は延べ79名であるが、内、出身藩別に見ると、薩摩藩(14名)、長州藩(14名)、土佐藩(9名)、佐賀藩(5名)となっている。その他の出身で同一藩の出身者は、2名までは尾張藩、豊岡藩等数例あるが、3名となると徳島藩が蜂須賀茂韶を含めて漸く到達する程度となっている。また、その他の出身者であっても伊東巳代治、金子堅太郎など、明らかに藩閥政治家の側近である者も多い。
  • 陸海軍における藩閥:

    一般に「薩の海軍、長の陸軍」というように海軍では山本権兵衛や東郷平八郎、西郷従道に代表される薩摩閥が、陸軍では乃木希典や児玉源太郎、山縣有朋、桂太郎に代表される長州閥が勢力を握っていたとされる。しかし、決して単純に分類できるわけではない。これらの軍隊内の藩閥勢力は、要職者に陸軍大学校や海軍兵学校卒業者が就任するようになると学校時代の成績が重要視されるようになったため、徐々に減少していった。

  • 明治期の歴代警視総監:
    1. 川路利良(薩摩藩)、
    2. 大山巌(薩摩藩)
    3. 樺山資紀(薩摩藩)
    4. 大迫貞清(薩摩藩)
    5. 三島通庸(薩摩藩)
    6. 折田平内(薩摩藩)
    7. 田中光顕(土佐藩)
    8. 園田安賢(薩摩藩)
    9. 山田為暄(薩摩藩)
    10. 園田安賢(薩摩藩)
    11. 西山志澄(土佐藩)
    12. 大浦兼武(薩摩藩)
    13. 安楽兼道(薩摩藩)
    14. 大浦兼武(薩摩藩)
    15. 安立綱之(薩摩藩)
    16. 関清英(佐賀藩)
    17. 安楽兼道(薩摩藩)
    18. 亀井英三郎(熊本藩)
    19. 安楽兼道(薩摩藩)

    =========================

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    ・上は岩倉具視視察団の写真です。右から大久保利光、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允です。

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    ・上は鹿鳴館の錦絵です。

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    ・上は日露戦争でバルチック艦隊を壊滅した日本艦隊の旗艦の三笠の艦上に立つ東郷元帥(中央)の写真です。この大勝利が日本の軍部独裁になるキッカケになったのです。幸運が不幸を招く一例です。

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    今日も雨、雨・・・気持ちが晴れ晴れする雑木林の写真をお送りいたします

    2013年06月26日 | 写真

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    ・同じ雑木林の上から順々に冬、春、夏の写真です。場所は山梨県北杜市武川町柳沢地区です。小生の山林の中の小屋に上がって行く入り口の最後の水田です。

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    木下恵介監督、「二十四の瞳」・・・女先生の無限の優しさ、深い悲しみ

    2013年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

    木下恵介監督、「二十四の瞳」は時々、テレビで放映されます。その度に見ては、戦後の映画館で見たこと、そしてその頃のことを想っています。先日もテレビで見ました。

    この映画は日本人の琴線にふれる内容です。いえ、琴線をかきむしります。

    昭和3年の瀬戸内海のある寒村の分教場へ、高嶺秀子が演ずる女先生が赴任して来ます。女7人、男5人の12人の一年生を受け持つのです。

    この女先生は女性としての無限の優しさで子供達へ接します。一人一人の個性を見極めて慈しみます。愛します。その優しさは圧倒的です。男性である私は女の崇高さ、優しさに驚くのです。やっぱり男は女にかなわないと思うのです。

    そしてやがて満州事変がおき、日中戦争がおき、太平洋戦争になります。

    教え子たちが戦争へ往きます。帰って来ない旅と思うと女先生は深い、深い悲しみに襲われるのです。彼女の無限の優しさが底知れない悲しみの原因なのです。

    戦争へ往った男の子の3人が戦死し、一人が戦傷で盲目になります。

    不況で身売りした女の子もいました。貧困の中で病気になり死んでいった女の子もいます。

    戦後、彼等はクラス会を開きます。女先生を囲んで、生き残った男の子2人と5人の女の子が集まります。

    戦傷で盲目になったソンキ(磯吉)が下の集合写真を手にとって、「この写真は見える」と言います。そして女先生と12人の一人一人の所に人差し指をあてて名前を言うのです。その指先がすこしだけずれていたと原作者の壺井栄が書いているのです。

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    この映画では、「戦争反対!」とか、「平和を守れ!」という言葉は一切出て来ません。

    それ故に戦争の不条理さをより一層鮮明に訴えてくるのです。それは左翼の人々の反戦運動のような無責任さはありません。もっと根源からの女の声なのです。

    これを「反戦映画」と言う人がいますが、私は違いますと言います。そんな軽い内容ではありません。

    しかし懐かしい小学校唱歌をあまりにも使いすぎた点はいささかお涙頂だい的で困ったものです。(涙が流れ過ぎて困ったものです)

    この映画のいろいろな場面は、ぶらり道草 幻映画館:http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51717860.html に御座います。下にその中から何枚かを転載いたします。

    また動画は下のURLにあります。

    二十四の瞳の動画:

    http://www.youtube.com/watch?v=pWMgur5te8M と http://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8

    それはそれとして、

     

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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    ===あらすじ==============================

    1928年(昭和3年)、大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任する。一年生12人の子供たちの受け持ちとなり、田舎の古い慣習に苦労しながらも、良い先生になろうとする大石先生。

    ある日、大石先生は子供のいたずらによる落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂、長期間学校を休んでしまうが、先生に会いたい一心の子供たちは遠い道のりを泣きながら見舞いに来てくれる。

    しばらくして、大石先生は本校に転勤する。その頃から、軍国主義の色濃くなり、不況も厳しくなって、登校を続けられない子供も出てくる。やがて、結婚した先生は軍国教育はいやだと退職してしまう。

    戦争が始まり、男の子の半数は戦死し、大石先生の夫も戦死してしまう。また、母親と末娘も相次いで世を去る。

    長かった苦しい戦争も終わり、大石先生はまた分教場に戻り教鞭を取ることになる。教え子の中にはかつての教え子の子供もいた。その名前を読み上げるだけで泣いてしまう先生に、子供たちは「泣きミソ先生」とあだ名をつけた。

    そんな時、かつての教え子たちの同窓会が開かれる。その席で、戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示す。真新しい自転車を贈られ、大石先生は胸が一杯になり、涙が溢れてきた。その自転車に乗って大石先生は分教場に向かう。

    ====キャスト==============================

  • 大石先生…高峰秀子
  • マスノ…月丘夢路
  • 松江…井川邦子
  • 早苗…小林トシ子
  • 磯吉…田村高広
  • 男先生…笠智衆
  • 大石先生の母…夏川静江
  • 男先生の妻…浦辺粂子
  • よろずや…清川虹子
  • 飯屋のかみさん…浪花千栄子
  • 校長先生…明石潮
  • 大石先生の夫…天本英世
  • ちりりんや…高原駿雄
  • 松江の父…小林十九二
  • 小林先生…高橋とよ
  • 子役には、1年生役と、その後の成長した6年生役を選ぶにあたり、全国からよく似た兄弟、姉妹を募集。3600組7200人の子どもたちの中から、12組24人が選ばれた。そして、大人になってからの役者も、その子どもたちとよく似た役者を選んだ。

    これにより、1年生から6年生へ、そして大人へと、子役たちの自然な成長ぶりを演出している。撮影は、学校休暇を中心に、1953年春から1954年春に及ぶ。24人は撮影終了後も「瞳の会」と称して時おり同窓会を行い、木下監督の葬儀にも多くが参列した。

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    明治神宮外苑の絵画館のご案内

    2013年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

    今日は神宮外苑に用があったので絵画館の駐車場に車を停めました。

    いろいろな競技場があり広大な外苑ですが駐車場は絵画館にしかありません。

    ついでに絵画館に入場し、展示してある日本画と洋画の総計80点の大作を丁寧に見ました。どの絵も明治天皇のご活躍ぶりを記録画として描いたものです。

    芸術的な感動はあまりありませんでした。しかし明治天皇を尊敬している方々にとっては必見の価値があると思います。是非、一度お出掛け下さい。

    そして大正15年に完成した絵画館の建物も印象深いものです。

    絵画館の建物が周りの樹木の景観とよくマッチしていて、明治天皇の崩御を悼むお墓のような雰囲気でした。

    こ私はこの建物を何十年と見て、その前を車で通りすぎてきました。

    しかし入場するのは今日が初めてでした。一度はゆっくり入ってみたいと思っていましたので今日は満足し、楽しかったです。  下に撮って来た写真を示します。

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    毎日雨で鬱陶しいので、梅雨の無い北海道の写真をお送りします

    2013年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

    毎日、雨です。梅雨が始まって3週間以上になります。今年は梅雨の間の晴れ間が少なくて大変鬱陶しい思いをしています。

    昨日は蒋介石と張学良の間の複雑な記事を書いたので疲れてしまいました。

    中国共産党と国民党の協力関係を張学良が蒋介石を拘束して作ったのです。

    対日戦争に勝って中国全土を手に入れた中国共産党にとっては張学良こそ恩人です。愛国者です。現在でも中国本土では張学良は民族の英雄と尊敬されているそうです。

    しかし蒋介石の部下だった張学良が武力クーデターで上司を拘束したのですから張学良は犯罪人です。

    共産党に合意して釈放された蒋介石はすかさず張学良を逮捕し、禁固10年の刑に処します。そして台湾まで連行し、1936年から1975年までの39年間も幽閉したのです。その間、張学良の生死の情報は封印されていました。誰もが張学良は密かに処刑されて死んだものと思っていました。

    それが1990年に突如、張学良の誕生日にマスコミの前に現れたのです。

    日本にとって張学良は敵でした。

    随分と込み入った話を自分なりに整理をして書いたので大変疲れてしまったのです。老人には少し重過ぎる話題でした。

    そこで今朝は梅雨の無い北海道の写真をお送りします。これで自分の気持ちも晴れ晴れしました。

    (撮影日時は家内と北海道旅行に行った2010年6月18日でした。3年前になります。雲の多い日で写真が暗くなってしまってごめんなさい。写真の中の野生のアカシアの花だけを富良野で撮りました。あとは全て美瑛の丘です。)

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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    ヨット遭難者を救助した海上自衛隊の飛行艇を絶賛する!

    2013年06月24日 | インポート

    太平洋横断中の辛坊治郎さんと岩本光弘さんを、荒れる海上に着水して救助した海上自衛隊、第31航空群第71航空隊の飛行艇の性能と隊員の勇気と熟練度にはすっかり感動してしまいました。

    今回の事故は洋上を漂流していた大きな物体がヨット船底に3度ぶつかり、船体に亀裂を生じ、浸水して、20分以内に沈没するという大変珍しい事故でした。

    ヨット歴40年の辛坊さんが早めに船体放棄を決断し、甲板上の救命筏を展開し、荒れる海上で全盲の岩本さんを助けながら救命筏へ乗り移ったのです。この早業が2人の命を救ったのです。

    しかしそれよりも海上自衛隊の飛行艇US-2が危険をおかして荒れる海上に着水したことが一番感動的でした。

    救命ボートを飛行艇からおろして救命筏の中から2人を救い出したのです。これには吃驚してしまいました。

    小生も長年ヨットをしていたので、波高3m以上の荒れた海上でこんなに順調に救助出来たことには本当に感動しました。

    11人の乗り組員の勇気と訓練のおかげです。

    そこでこの海上自衛隊の救助用の飛行艇を調べました。

    米軍の潜水艦哨戒機を参考にして、日本の新明和工業株式会社や三菱重工などが救難用飛行艇を開発して、2008年から海上自衛隊、第31航空群第71航空隊(厚木と岩国)へ配備しました。この海上自衛隊の飛行艇US-2のエンジンはロールス・ロイス社製です。

    今回の救助活動はあまりにも鮮やかだったので、その海上自衛隊の飛行艇US-2

    の写真を下に掲載いたします。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/US-2_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) です。

    そして以下は事件のあらましです。

    読売新聞2013年6月22日(土)01:41

    辛坊さんら海自飛行艇が救助、健康状態良好
    (読売新聞)

     小型ヨットで太平洋を横断中に遭難し、第2管区海上保安本部(宮城県塩釜市)に救助を要請していた全盲の

    鍼灸師

    (

    しんきゅうし

    )

    ・岩本光弘さん(46)と、読売テレビ(大阪市)でキャスターを務める辛坊治郎さん(57)は、21日午後5時53分に現場海域に着水した海上自衛隊の救難飛行艇に救助された。

     2人の体調は良好という。

     2人を乗せた飛行艇は同日午後10時30分頃、海自厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)に到着。岩本さんは「ヨットの底を突き上げるようなゴンという音が3回ほど聞こえ、水が流れ込んできた。なすすべがなかった」と遭難時の状況を語った。当時、船内で寝ていたという辛坊さんは「あっという間にひざ下まで浸水した」と振り返り、「海上自衛隊の方が命をかけて救出してくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。

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