後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

陽賜里工房の春のオープンガーデンが例年通り開催されます

2013年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの春の公開が例年通り開催されます。桜が満開になる頃です。庭でコーヒーをゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその御母上です。

日時:4月9日(火)、10日(水)、そして12日(金)、13日(土)、14日(日)の、朝10:00~午後4:00ころまで、ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには家内と一緒に数回参加しています。一昨年の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。

======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===

戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。

それから幾星霜、不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。

春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。

この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。

花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。

コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれずれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。

下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。

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魚の食文化の時代による大きな変遷

2013年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

戦中生まれ、戦後育ちの私は魚をよく食べました。もっと正確に言うと魚しか食べられませんでした。漁港の塩釜から少し内陸に入った仙台市に24歳まで住んでいました。

どういう魚をどのように料理して食べるかはその地方の食文化です。その食文化を広く考えてみると同じ日本でも地方、地方によって大きく異なることに気がつきます。

その地方でよく獲れる魚は何か?獲れる魚は季節によってどのように変わるか?漁港からどのくらい離れた場所か?輸送方法はどうするか?魚の販売店はあるのか?このようないろいろな事情によってその地方の魚の食文化が自然に決まって行きます。

私が戦前に食べた魚は塩イワシ、塩タラ、イカ、塩ニシン、塩鮭、それに多量のクジラ肉でした。どれも塩釜の北にある三陸海岸の近海で多量に獲れる魚ばかりです。イカ以外はものすごく塩が強いものばかりでした。

戦前、戦後は氷が無いし、ましてや冷凍技術などほとんど無かったのです。腐らないように塩漬けにして塩釜から仙台へ鉄道輸送しなければならなかったのです。

料理方法はといえば、塩漬けのイワシ、タラ、ニシンを焼いて食べたのです。イカは煮つけにします。イカの塩辛もよく食べました。クジラ肉は味噌をつけて焼きました。

当時は三陸海岸近海に多数のクジラが回遊して来ました。小さな捕鯨船で獲って、女川漁港で解体して仙台へ送るのです。それが戦後、南氷洋の捕鯨が始まると多量の冷凍クジラ肉が仙台の魚店で売られるようになりました。今でも覚えていますが高校時代の弁当のおかずは味噌漬けのクジラ肉でした。

生の魚は塩釜の近海で獲れたボラ、カレイ、スズキ、などでした。煮つけで食べました。

家畜の肉は全然食べられませんでした。それに外食は出来ませんでしたから江戸前の握り寿司は見たことがありませんでした。外食には外食券が必要だったのです。

お寿司と言えば海苔巻寿司と稲荷寿司だけでした。

戦前、戦後の仙台の庶民は塩釜が遠方なので生の刺身は食べられません。それからどういう訳かアジやサバは無かったのです。食べた記憶がありません。

その上、ウナギの蒲焼は見たこともありませんでした。

北海道のタラバガニや毛ガニは遠方過ぎてだめです。ですから蟹と言えばワタリガニだけでした。しかし三陸沖で毛ガニが獲れる季節があったらしく塩釜で大釜で茹でたものを食べた記憶があります。

下の写真は近くの角上魚類という大型の魚屋で撮った写真です。

輸送中も冷凍装置を動かし、魚類を完全に冷凍状態で南米沖やアフリカ沖や北大西洋から日本各地のスーパーへ直接送る流通システムが完備してあるのです。

冷凍も極低温にし、解凍技術も進歩したので地球の向う側の魚や貝でも刺身で食べられます。

こういう時代になると魚の食文化は日本全国が皆同じになってしまいます。

私がよく行く山梨県の山の中のスーパーの魚の売り場は東京と寸分変わらない刺身が並んでいるのです。その光景は昔の仙台の魚を思い出すと感慨無量です。

しかし全国がみな同じになっても地方色豊かな魚の食文化がまだ少し残っています。次回はその特徴ある食文化について書いて見たいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下の活きの良い魚の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。角上魚類、東久留米店で撮った写真です。

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・上はメバルです。

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・上はブリです。

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・上はシマアジ(左側)とキンメダイです。

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・上はタイです。

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・上はキンメダイです。

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渡来植物と渡り鳥のロマン

2013年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、日本固有の花や日本原産の花に興味を持ち、いろいろと調べました。その結果、次の2つの記事を書きました:日本の渡来植物一覧表 と、日本原産の花の写真

大変吃驚したことは実に数多くの花々は渡来植物だったのです。日本固有の花々はほんの数種類だけでした。

それでは外来植物は誰が持ち込んだのでしょうか?

人間と渡り鳥ではないかと思いました。そこで渡り鳥について環境省の調査結果を下にご報告致します。

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渡り鳥の飛来状況:http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/ap_wr_transit12/index.html

環境省では、全国39カ所の地点で渡り鳥の飛来状況の調査を行っています。
 この調査は、渡りのシーズン中、各月の上旬、中旬、下旬に、国指定鳥獣保護区等にどんな種類の渡り鳥がどのくらい飛来しているかという傾向を把握することが目的であり、各調査地で記録されている渡り鳥等の種類及び個体数は、調査地全体または一定のサンプル区間において調査されたものです。

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渡り鳥の飛来経路:http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.html

環境省の調査結果の一例:宮城県伊豆沼のオオハクチョウの場合:

 宮城県で送信機を装着したオオハクチョウ1羽の移動状況を図示しています。
 本個体は3月上旬に越冬地を出発して北海道へ渡りました。道東で1ヶ月ほど過ごした後、サハリンを経由して、アムール川下流域まで北上しました。この地域に短期間滞在したのちオホーツク海を越え、ロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して5月中旬にインディギルカ川流域の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。9月下旬から10月上旬の間に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後、10月9日にアムール川河口付近に達しました。10月31日の時点で同地に滞在しています。

下の図:宮城県で送信機を装着したオオハクチョウの移動状況(平成23年10月31日現在)

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さて渡り鳥に興味が湧いて来ましたのでこれからいろいろ考えて見たいと思います。

下に渡り鳥の写真をお送りします。

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上と下は2010年の冬に霞ヶ浦湖で撮った写真です。アムール河を越えてシベリアまで往復していると想像しながら写真を撮りました。

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下の2枚は「渡り鳥写真集」からお借りしました。

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渡り鳥の活き活きした姿を見ていると自分も元気になります。

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これから何回か渡り鳥に関する記事を書いて行きたいと存じます。ご意見やご指導を頂ければ感謝いたします。(続く)

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対中国戦略はアーミテージさんに聞け・・・その理路整然たる外交姿勢

2013年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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まずこの顔写真をご覧ください。アメリカのリチャード・アーミテージさんです。重量挙げの選手のような感じですが、彼は日米安保体制の実際的問題に一番精通したアメリカの政治家です。非常に知的で、いつも日本の進むべき道を理路整然と教えてくれます。

いやしくも日本の安全保障に関心の強い日本人なら皆が今までの彼の意見に感動しているはずです。

昨日(2月26日 朝刊)の読売新聞の4面に彼の談話が掲載されていました。

去年の秋に、クリントン国務長官の特使のような立場で、北京を訪問し、中国の筆頭副首相の李克強氏と会談し、次のことを言明して来ました。

そして東京では当時の野田首相に会って対中戦略を話し合って帰国しました。

(1)中国側が、「尖閣諸島の領有権に関してアメリカが中立的態度を示していることに感謝する」と言うと、間髪を入れず日米安保がある以上、アメリカは中立ではありえないと言い返したのです。

同盟国の日本が尖閣諸島近辺で攻撃されたら中立的な態度はとれないことを中国側へ伝えたのです。

(2)日本人が学ぶべきもう一つのことを彼が言っています。それは中国人がいろいろな事を言っても否定すべきことは明確に、すぐに否定しないと同意したと思い、後で大きな問題になるという事実です。以心伝心とか腹芸は中国人と交渉するときは絶対に禁じ手なのです。

(3)もう一つ重要なことを日中双方に忠告して帰国したのです。それは実戦配備にある軍隊はとかく中央政府を忘れて偶発的な武力衝突を起こすので、日中の軍隊が直接話の出来るホットラインを構築すべきと忠告したのです。

帰国後、当時のクリントン国務長官へ報告し、その後クリントン長官が尖閣諸島は日本の施政権のもとにあると言明したのです。

アーミテージさんはベトナム戦争に参戦し、ベトナム語の話せる人です。日本人は彼のことを知日派として大切に思っています。しかし彼はベトナム共産党や中国共産党の建前と本音を深く理解しているのです。ですからこそ中国共産党と対峙する日本がどうするべきかが明快に言えるのです。

靖国神社の参拝についても彼は明確に日本の内政問題だから中国の意見は無視すべきと主意して来ました。

末尾に彼の経歴を紹介したWikipedeaの参考情報をつけました。彼がベトナム戦争で何をしたかご注意ください。その延長上に日米安保の運用にあける彼独特の明快な論理が出来上がっていると思います。このように重要な人との面会を当時の外務大臣の田中真紀子さんがキャンセルしたのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====リチャード・アーミテージさんの人物像============

出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8

アジア通・知日派

ベトナム戦争に従軍し、ベトナム語が堪能。また、レーガン政権の国防次官補代理職にあった時に、東アジアおよび太平洋地域を担当していたこともあり、知日派として知られ、現在は米国内の知日派政策エリートの保護者的立場にある。1980年代の東芝機械ココム違反事件の際には、対日経済制裁に反対した。

日米間の安定的な安全保障システムの確立に貢献してきたほか、椎名素夫・佐々淳行など日本の政治家や官僚らとの繋がりも強い。一方で、日本の核武装には否定的とされる。FSX開発問題では日本側との調整を担当している。

日本や東アジア全般の安全保障に関する発言が常に注目を集める。アーミテージの名が一般に広く知られるようになったきっかけとして、2000年に対日外交の指針としてジョセフ・ナらと超党派で作成した政策提言報告「アーミテージ・レポート」の存在が挙げられる。この報告書では、日本に対して有事法制の整備を期待する内容が盛り込まれた。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、日本側に共闘を求めた。この時にいわゆる「旗幟を明らかにしろ」の発言があったとされる。

イラク戦争開戦時には日本の役割を野球にたとえて「Boots on the ground」と発言したことでも有名になった。また、2004年7月には日本国憲法第9条を日米同盟の障害とする主旨の発言をして物議をかもした。また、北朝鮮による日本人拉致問題においては、北朝鮮に対する圧力路線を主導。2004年4月には北のテロ支援国家指定の根拠に拉致問題を明記させた。

2005年6月6日、『筑紫哲也 NEWS23』に出演した際に、靖国神社参拝について質問され「主権国家である日本の総理大臣が、中国に限らず他の国から靖国神社に参拝してはいけないと指図されるようなことがあれば、逆に参拝すべきだと思います。なぜなら内政干渉を許してはいけないからです。もう一つは、全ての国が戦死者をまつりますが、それぞれのやり方で良いのだと思います」と主張した。2006年7月20日の「産経新聞」(東京版)の取材に対しても同様の認識を示している。

2007年2月には、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)において再度超党派による政策提言報告「第二次アーミテージ・レポート」を作成・発表、日米同盟を英米のような緊密な同盟関係へと変化させ、東アジアの地域秩序の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることなどを提言している。

2012年8月には「第三次アーミテージ・レポート」を作成・発表。日本が一流国家であり続けるか、二流国家に甘んじるかの重大な局面を迎えていると指摘し、また日米同盟関係における日本の役割拡大を求めた。

2012年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党候補者であるミット・ロムニーが同年8月28日に行った演説において日本に言及する箇所が1箇所しかなかったことは、アーミテージら知日派の影響力の低下の表れと分析する向きもあった。

ベトナム戦争での彼の行動

海軍兵学校卒業後は、ベトナム戦争に志願した。1973年1月にパリ和平協定が成立すると、戦いを途中でやめるのは嫌だと海軍をやめてしまう。但しサイゴンにある米軍駐在武官本部の民間人顧問としてベトナムに留まり、特殊任務についた。海軍特殊部隊(SEALS)の隊員だったという噂も流れたが米国国務省のウェブサイトで否定している。

いったんワシントンに戻ったが、1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンに迫ると、国防省から特定南ベトナム人の救出作戦の実行を頼まれる。ビエンホア空軍基地にヘリコプターで乗り込み、機密保持のため基地内の機器を破壊。そして取り残された南ベトナム空軍の将兵30名とともに砲火の中から脱出。その後南ベトナム海軍艦艇と将兵及びその家族を率いて、8日かけてフィリピンまで脱出した。(本人談)

====以上は抜粋文です。================

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日本原産の花の写真

2013年02月26日 | 写真

昨日、日本の渡来植物一覧表 という記事を掲載しました。そして驚いたことに花屋さんで売っている花々の大部分が外国からやって来た花なのです。

それではと「日本原産 花」を検索しましたところ「お花の写真集」というホームページがありました。日本原産の花々の写真が沢山掲載されています。もっとも日本原産といっても東南アジアや中国、シベリアにもある花々です。日本だけの固有種ではありません。

その中から幾つかの写真をお送り致します。

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上は左がマンサクで右はテッポウユリです。

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上はハナショウブです。

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上はフヨウです。

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上はナデシコです。

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上の左はアジサイで右はカラスウリです。

さてそれでは日本にだけ生育している固有植物の花は何でしょうか?

日本の固有植物(http://d.hatena.ne.jp/naturalist2008/20110520/1305903018)というホームページには日本の固有な花の写真が掲載されて」います。

それを見ると、キンラン、エビネ、クマガイソウ、ウラシマソウなどとあまり数多くないことが分かります。是非、このホームページをご覧ください。花々の詳しい説明があります。

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中国が日本を憎む3つの理由(3)対華21ケ条要求と五四運動

2013年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

1981年に私を中国での集中講義に招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授は共産党員でした。国民党と戦って天津市を開放し、その行政に参加した経験を持っていました。

大変親しくなり彼が数年前に亡くなるまで家族同士の付き合いをした友人でした。北京鴨の店で五星ビールを飲みながら共産主義の得失を何度も議論したものです。彼は共産主義の欠点も理解しているようですが決して中国共産党を非難しませんでした。共産党へ忠誠を尽くしていたのです。

その彼がよく五四運動のことを話題にしていました。

日本が1915年に中国に突きつけた「対華21ケ条要求」に反対する学生が1919年の5月4日に起こした反日デモを記念して「五四運動」と呼ぶそうです。

そしてこの「五四運動」のおかげで1921年に中国共産党が成立するのです。

従って中国共産党はその歴史的出発点は抗日運動の「五四運動」であると宣伝しているのです。

周栄章教授は私を非難しません。親しげに笑いながら静かに語るだけです。

「対華21ケ条要求で「五四運動」が全国的に広がり、やがて、中国共産党が成立したのです」と、静かに語るだけです。

そして、「対華21ケ条要求も満州事変も日中戦争もすべて日本の軍閥が行ったことです。現在の日本人とは全く違う人々が行ったことです。これからは日中友好の時代です」と微笑みながら言うのでした。

しかし鄧小平の時代が終わると日中間の友好関係は暗転するのです。

それは当然な現象なのです。以下の対華21ケ条要求の内容と五四運動の説明文をお読みになればご理解頂けます。

中国に共産党独裁が続くかぎり日中友好は決して容易ではないのです。

下に五四運動関連の写真を掲載します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

========対華21ケ条要求の内容=======

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82

日本政府は袁世凱大統領と直接交渉することで事態の打開に動いた。1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。

第1号 山東省について

1、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること

2、山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと

3、芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと

4、山東省の主要都市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること

第2号 南満州及び東部内蒙古について

5、旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)

6、日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること

7、日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと

8、日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること

9、他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること

10、政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること

11、吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること

第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について

12、漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。

13、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること

第4号 中国の領土保全について

14、沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと

第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

15、中国政府に政治経済軍事顧問として有力な日本人を雇用すること

16、中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること

17、これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること

18、一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと

19、武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること

20、福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること

21、中国において日本人の布教権を認めること

====21ケ条要求が五四運動を引き起こした===============

(1)何故、五四運動と呼ぶか?

大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。

(2)五四運動の政治的背景

政治的背景は2つある。まず対華21ヶ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21ヶ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求が突きつけられた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。一説には袁世凱が後に中国皇帝となるのを日本が黙認することが取引条件とされたという。

次の政治的背景には中国軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは中国における様々な利権であった。1918年5月には「日華軍事防敵協定」が結ばれ、日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、中国民衆の激しい反発を呼び起こし、反日感情を非常に高める結果となった。

(3)中国共産党の歴史は五四運動から始まってと主張している

五四運動は、中国(正確には中国共産党)に高く評価されてきた。その研究の蓄積は他国の追随を許さない。しかし、政治イデオロギーに縛られ硬直した部分があるのも事実である。大陸では、五四運動をナショナリズムが真に大衆化した転機として捉え、中国現代史の起点をここに置いている。すなわちストライキやボイコットといった運動手法を積極的に利用した五四運動に高い評価を与えているのである。これは、1921年、中国共産党が五四運動の影響から誕生したことも大きく関係している。こうした中国共産党的歴史観を革命史観ともいうが、この史観は、一時期の日本にも多大な影響を与えた。

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上は1919年5月4日の天安門広場でのデモの写真です。下は宣伝用の絵画です。

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五四運動のデモは中国共産党の恒例行事です。下の写真はカナダのバンクーバーでの最近の五四運動のデモの様子です。

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日本の渡来植物一覧表

2013年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、わたしたちが食べているいろいろな野菜はいつごろ日本へ渡来して来たのでしょうか?そんな事に興味があり調べて書いた記事が、野菜を食べ健康になろう!美人になろう!・・・西洋野菜と日本の野菜です。

それを見ると実に多くの野菜が海外から日本へやってきた渡来野菜なのです。大変吃驚しました。

それでは現在日本で咲いている花々が何処から来たのでしょう?

きっと日本原種のものは大変少ないと思いつつ調べてみました。

そうしたら本格的な文献を発見しました。

慶応大学、磯野直秀名誉教授の発表している「明治前園芸植物渡来年表」です。http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=13125

これは完璧な研究論文です。信用出来る内容です。

下のにその一部をご紹介いたしますが、是非原文をご覧下さい。植物学の素人にも簡単に理解出来る素晴らしい文章で書いてあります。

(1)奈良、平安期

梅、菊、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマだどなど。

(2)鎌倉期

ナンテン、フヨウ、ムクゲなど。

(3)室町期から安土桃山期

スイセン、ホーセンカ、ジンチョウゲ、ヒガンバナ、ローバイ、ソテツなどなど。

(4)江戸時代(17世紀)

シュウカイドウ、サルスベリ、レンギョウ、ハクモクレン、オシロイバナ、エニシダ、ヒマワリ、などなそ。

(5)江戸時代(18世紀)

キョーチクトウ、ハボタン、ニチニチソウ、など。

(6)江戸時代(19世紀)

ノボタン、ダリア、オジギソウ、コスモス、カンナ、キンギョソウ、スイートピー、パンジー、ラベンダーチューリップ、ゼラニュームなどなど。

この研究論文の圧巻は30ページから39ページにわたる数百種の渡来園芸植物の年号別の一覧表にあります。

慶雲2年(705年)から始まって、明治1年(1968年)のそれぞれの年号に渡来した園芸植物の名前が明記してあるのです。それはこの研究者のライフワークと言っても過言ではありません。

驚くことにわれわれが普通日本古来の植物と思っていた梅も柿もナスもキューリも皆渡来植物なのです。

是非ご覧下さい。そして植物がこの地球上を移動して繁茂する不思議をお考え下さい。

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中国が日本を憎む3つの理由(2)満州占領と清朝の復活

2013年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で起きた鉄道爆破事件すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。しかし一般には1933年の停戦条約までを満州事変としています。

この柳条湖事件を中国人は九一八事変と呼んで学校の教科書で現在でも教えています。

この柳条湖事件の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご参照下さい。そして満州事変については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 をご覧ください。

何故、中国人が日本人を憎んでいるのでしょうか?

中国の明白な領土を武力占領したから怒っています。

しかしそれだけではありません。日本軍が自分の手で鉄道を爆破しておきながら中国軍が爆破したと主張して戦争開始の口実にしたのです。その汚いやり方を憎んでいるのです。日本の軍隊は中国人を蔑視し、つねに騙し、謀略によって武力占領を続けていたのです。

そして日本の意のままになる傀儡国家の満州帝国を作ってしまったのです。

その満州国の皇帝に清朝の最後の皇帝だった溥儀を利用したのです。

この行為は辛亥革命でやっと清朝を倒した中国人の感情を逆なでするものでした。

これほど中国人を愚弄するものはありません。日本人に対する憎しみは骨の髄まで沁み込んでしまったのです。

日本人が中国を蔑視し、謀略で満州を、上海を、南京を、そして桂林まで武力占領をしたのです。

戦前生まれの私は現在は絶対に書けない酷い蔑称で中国人を呼んでいました。昔の日本人は皆そうでした。本当に中国人を軽蔑していたのです。

中国人がそのことを恨みに思い、教科書で子子孫孫へ伝えているのは当然でないでしょうか?

その結果、中国共産党は日本の悪辣さを教科書で教え、記念日には反日デモなどのイベントを律義に行っています。

これでは日中関係は永久に良くなる筈はありません。

日本人はこの実態を常に忘れないで中国と交渉しないと損害を受けます実態は実態として受け入れる覚悟が必要だと思います。

毎年9月18日になると満州事変の発端になった柳条湖事件を九一八事変記念日として瀋陽市では反日デモが行われます。

北京でも政府統制の反日デモが行われます。インターネットを使用した反日運動が続いているようです。

日本の人々は戦後68年、平和な生活に慣れ親しんできました。

しかし中国では戦後は共産党と国民党の凄惨な内戦があり、1966年から1976年まで文化大革命という国内戦争が続いたのです。1981年に北京に行った時、その街々の荒廃と、すさんだ人心に暗澹たる思いをしました。犯罪が横行し、家々の全ての窓には強盗よけの鉄格子が厳重に取り付けてあります。大学構内のトイレは糞尿の山でした。

丁度、1945年の敗戦後の日本の雰囲気でした。文化大革命の悲劇を日本人は忘れがちです。中国人は心の中で絶対に内戦は防ごうと堅く決心しています。その内戦を防止するためにも日本への憎しみを掻きたてるのが有効なのです。

悲しいかなこれが中国の実態です。実態を無視して理想論で中国と外交交渉をしては日本が大損をします。

中国人へ日本人を憎むなと説教しても無駄です。

憎んでも良いが、こういう協定を作ると中国側がこれだけ得をするという具合に外交交渉を進めるべきなのです。それは決して容易なことではありません。そかしそれ以外に中国との戦争を避ける方法はありません。下に関連の写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

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上は柳条湖事件で爆破された鉄道現場の直後の写真です。

1_2

上は爆破は中国兵によると証明するために意図的に並べられた中国兵の軍帽や小銃です。

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上は瀋陽市を武力占領する日本軍の様子です。

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美しい花々を追い求めて(9)北海道、網走湖畔の水芭蕉の群生地

2013年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

水芭蕉の花は一枚の白い大きな花弁のような仏炎苞(ぶつえんほう)がお釈迦様を包んでいるように見える神秘的な花です。

原産地が樺太、千島、シベリア、と言われています。北海道や北日本の寒冷湿地にも咲いています。

尾瀬沼の「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)という歌が一世を風靡したので多くの人々は尾瀬沼にしか咲いていないと思っているようです。

しかし水芭蕉は寒冷な湿地ならあちこちに咲いています。

例えば、山梨県の北杜市の山荘に住んでる木内正夫さんは沢の水を引いて数株の水芭蕉を毎年咲かせています。私の山の小屋の近所なので毎年5月になると、水芭蕉の花を見るために木内さんの山荘を訪れています。

その花を見ているうちに一面の群生地をいつかは見てみたいとかねがね考えていました。

そうしたら、2003年に北海道旅行をした時に一面に白い水芭蕉が咲いていつ場所を偶然発見したのです。

下の写真は2003年5月2日に網走湖の湿地帯で偶然見つけた水芭蕉の花です。国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯です。観光地でないので案内の看板も無く、近所の人だけが散歩する細い悪路が林に中に続いていました。

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この2003年の幻想的な水芭蕉の群生地の風景をいつまでも忘れることが出来ません。

その後何度も北海道へ行きましたが再びその夢のような光景を見ることが出来ません。

ところが2012年の9月に網走湖のそばを通るチャンスが巡って来ました。

2003年に辿った道を思い出しながら探して行きました。そして9月20日にこの曾遊の地を再び訪れました。

水芭蕉の季節ではないので雑木林の中は暗く、道も無く、荒れ果てた感じです。

かつての細い道の入り口には立ち入り禁止の綱が張ってあります。

帰宅後、ネットで調べると毎年5月初旬には相変わらず下の写真のように咲いているそうです。(写真の出典:http://abashiri.jp/tabinavi/02spot/images/2011-0415-1944_0.JPG )

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1

季節外れで水芭蕉はありませんでした。

そこで、丘の上の「網走湖観光ホテル」 悠遊亭に行ってみました。2002年と2003年に2回泊った大きなホテルです。

ホテルは倒産したようで、閉鎖されていました。玄関先には雑草が茂っています。

車を停めた広い駐車場にも雑草が生えています。「栄枯盛衰、世のならい」といいますので仕方が無いのですが残念です。

下を見降ろすと、当時と同じように広大な網走湖が広がっています。岸辺に降りて行って撮った写真を下に示します。

296

網走湖は観光客が行かない湖です。大きなシジミだけが名物の地味な湖です。

網走湖からかなり離れていますが、2002年と2003年に泊った阿寒湖温泉のホテルも寂れていました。

北海道の自然は変わりません。その大自然が美しいだけに何か淋しい思いをしながら女満別飛行場から飛行機に乗りました。

水芭蕉の群生地の思い出と少しの旅愁を感じながら羽田空港へ帰って来ました。(続く) 

====水芭蕉に関する参考資料================

特徴

湿地に自生し発芽直後の葉間中央から純白の仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる苞を開く。これが花に見えるが仏炎苞は葉の変形したものである。仏炎苞の中央にある円柱状の部分が小さな花が多数集まった花序(かじょ)である。開花時期は低地では4月から5月、高地では融雪後の5月から7月にかけて。葉は花の後に出る。根出状に出て立ち上がり、長さ80 cm、幅30 cmに達する。

和名の「バショウ」は、芭蕉布の材料に利用されているイトバショウ(Musa liukiuensis (Matsumura) Makino)の葉に似ていることに由来する。

分布

シベリア東部、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島と日本の北海道と中部地方以北の本州の日本海側に分布する。南限の兵庫県養父市の加保坂峠にも隔離分布している。山地帯から亜高山帯の湿原や林下の湿地に分布する。学名の種小名は「カムチャツカ半島」に由来する。基準標本は、カムチャッカ半島のもの。

日本の主な群生地

日本の各地に多数の群落がある。「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)で歌われているが、実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろ、これは尾瀬の季節でいうと春先にあたる。北海道南部の大沼国定公園においても群落が多数あり場所により開花の時期が違う、駒ヶ岳の噴火によってできた湿地であったり水の溜まる地形が多い為にミズバショウには適した地といえる。田中澄江が『新・花の百名山』で、薬師岳と北ノ俣岳の間にある「太郎兵衛平」を代表する花の一つとして紹介した。

Mizubasho0031 北海道網走湖畔(大空町・網走市)

雨竜沼湿原(雨竜町)

仁田沼 - 福島県福島市の吾妻連峰

尾瀬沼

奥裾花(長野市)

大嵐山 - 両白山地

取立平 - 両白山地

籾糠山- 天生湿原

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25年間のヨットの趣味を振り返って(3)ヤマハ19とリュンドメ550の思い出

2013年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5.70mと、とても小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。

そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。

ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、一昨年秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。

優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。

昨年の晩秋の霞ヶ浦への小さな旅で、久しぶりに佐藤さんに会ってきました。

霞ヶ浦マリーナはその後、経営者が変わり、京成マリーナになり現在はラクス・マリーナと言います。経営者が変わっても佐藤さんはマリーナにとって絶対に必要な人なので変わらず働いていて、数年前からはハーバーマスターです。

彼に会い、昔話を少し楽しんできました。

Photo_31 佐藤さんがクレーンで湖へおろしてくれたヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。左の写真がその時の様子です。

この24年前に私が購入し、山荘の名を取って付けた「あけび号」とは10年使ってから、より大きな艇を買う時に手放しました。

しかしその同じヨットが、現在も霞ヶ浦で元気に活躍しています。

群馬県に在住しているカヤシマさんという方が相変わらず乗っています。

その方とは10年ほど前に沖でセイリング中にお会いし、後でマリーナでお話をしたことがありました。

現在は「あけび号」の名前も変わり、使っていない時は陸上に保管してあります。昨年、その旧あけび号の写真を撮って来ました。下の写真です。

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043

24年前に、初めて、上の小さなクルーザーを霞ヶ浦マリーナに係留した隣に、下の写真のような2本マストの大きな木造艇が係留してありました。

佐藤さんが持ち主の越後さんを紹介してくれます。

越後さんは歓迎のつもりかその夜のビールパーティに招待してくれました。

010

越後さんの船は本当に大きくて前部に寝室とトイレ、後ろの部屋はパーティ用のテーブルがあり、隅に流し、料理台、食器棚、冷蔵庫がついています。デッキが木造なのでとても柔らかな感じがします。

桟橋から100ボルトの電源と水道を船の中に取り込んでありました。

マホガニーで内装した室内で明るい電灯の下、数人が冷蔵庫で冷えたビールを飲みながら、談笑を楽しむことが出来ます。隅の料理台の上では越後さんが簡単な料理を作ってくれます。パーティが終われば隣の自分のヨットに帰り、寝てしまえば良いのです。

越後さんは佐藤さんを尊敬し、その後もパーティの時は必ず佐藤さんと一緒に招待してくれました。

それだけでなく、越後さんは私の艇へ乗ってくれて、丁寧にセイリング技術も教えてくれたのです。

そんなお付き合いが2年ほど続きましたが、ある時、その越後さんと、その大きな木造艇が忽然と消えてしまったのです。

佐藤さんに聞くと、返事に困ったような顔をします。何か深い訳がありそうです。

それ以来、私は佐藤さんと越後さんの話は一切しません。人生にはそんな事もあると思い、楽しかった光景だけを胸にしまいこんでいます。

時々霞ヶ浦へ行くと越後さんのことを懐かしく思い、彼の大きな木造艇の係留してあった場所へ行ってみます。下の写真の所に係留してあったのです。

052

昔は世の中の景気が良くてこの係留場所には立派なクルーザーがびっしりと並んでいたのです。昨年はご覧のようにがら空の状態です。向こう側にポツンと一艘のヨットが淋しく係留されているだけです。

懐かしい越後さんも消えてしまいました。あれから茫々20年余になります。陽はあくまでも明るく射していますが私の心は紫色です。

これが昨年の霞ヶ浦への小さな旅の一こまでした。

そんな事を回想していましたら、ヤマハ19を買う前に手に入れようと夢見ていたクルーザーのことを思い出しました。長さが5.40mしかない日本最少のクルーザーのリュンドメ550という美しいヨットです。ニュージャパンヨットという静岡県の会社が1980年に発売したヨットです。

昨日、久しぶりにリュンドメ550の姿を見てみようと検索しました。ところが2、3年前に製造が中止になっていました。長年の顧客へ対する製造会社からの感謝の挨拶文がありました。

そこで記録の為に下にその写真を2枚掲載しておきます。(続く)

==========================

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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東郷寺の満開の梅の写真

2013年02月23日 | 写真

日露戦争の時にロシアのバルチック艦隊を全滅させた東郷平八郎元帥は東京都下の府中に別荘を持っていました。

元帥の死後にその別荘の跡地に日蓮宗が東郷寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%AF%BAを建立し、東郷元帥の冥福を祈り、供養をしています。

広々としたお寺なので時々参拝に行き、散歩してきます。今日は久しぶりに行ったら丁度梅が枝いっぱいに真っ白な花を咲かせていました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。新宿から出ている京王線の多磨霊園駅から徒歩10分位の所です。

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この東郷寺は枝垂れ桜で有名です。そこでWikipedeaの「東郷寺」から枝垂れ桜の写真を借りて下に示します。

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我が家の草食人間と肉食人間との50余年の相克

2013年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

我が家には1人の肉食人間と1人の草食人間が一緒に棲んでいます。私と妻のことですが、その相克の原因を少しだけ書いて見たいと思います。

さて、その前に野菜と肉の写真を示します。「野菜の画像集」と「ビーフの画像集」、そして「鹿肉の画像集」を検索してお借りした写真です。

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上は西洋野菜も日本野菜も一緒に盛ったものです。草食人間は種類を問わず食べつくします。

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草食人間は果物も大好きで、皮を剥くのも面倒がりません。

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肉食人間は生の牛肉を見ただけでヨダレが出ます。でも生では食べません。焼いた方が美味しいのです。

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上はエゾ鹿肉のステーキです。少し野生の味がするので食べると元気になります。鹿肉は山地の肉屋で売っています。ネットでも販売しています。

さて家内と結婚して以来50年以上になりますが、食べ物の好みが違います。何年たっても同じになりません。大げさに言えば相克の歴史がえんえんと続いています。

育った家庭が違うから好みの食べ物が違うのかと理解していましたが、それは単なる原因の一つでした。

もっと本質的な相違があったのです。妻は野菜や果物が大好きです。私は食べなさいと言われれば仕方なく食べます。

私は野菜や果物は必要ありません。肉と魚だけあれば満足なのです。人間に必要なビタミンやミネラルは家畜や魚の肝臓に充分入っているのです。時々ミカンだけは食べて壊血病にならないようにしています。家内は肉も魚も食べますが、私ほど情熱を持っていません。栄養のバランスを取るために食べるのではないかと思っています。

何故、家内は野菜と果物が大好きなのでしょうか?

野菜を食べると健康になり、さらに美人になるという迷信を信じて食べ続けているのでしょうか?今朝のオムレツにも茹でた菜の花を刻んだものが入っていました。黄色に緑色が点々と見えます。私には邪魔!としか思えないのですが、家内は「春が来た~」と嬉しそうに食べています。

野菜を食べなさいと言われれば社交上食べます。そして時々は「野菜は美味しいものだね」などと言えば家庭の平和は保たれます。

しかし何故、草食人間は野菜を無理に食べるのでしょうか?

今朝、いささか議論して判明したことですが、草食人間は野菜が真に何よりも美味しいと感じる味覚器官を持っているのです。そして肉類はあまり美味しくない。魚は生臭いと感じる味覚器官を持っているのです。

一方、肉食人間は肉や魚が至福の味だと感じる味覚器官を持っているのです。野菜や果物の美味しさをあまり感じない味覚器官を持っているのです。

この差異は生物学的な本質的な違いなのです。

例えば牛や馬に肉を与えても食べません。ライオンやオオカミへ麦わらや干し草を与えても食べません。前者の遺伝子をより強く持っているのが家内なのです。後者は私自身です。

それでも家庭の平和が保たれているのが不思議です。お互いに努力しているのです。つまらない話になってしまったので止めにします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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野菜を食べ健康になろう!美人になろう!・・・西洋野菜と日本の野菜

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

この前の記事、里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」 を書いていたら猛然と野菜に関する興味が湧きあがってきました。野菜は健康のもとと言います。生野菜を毎日食べると美人になるとも言います。前者は本当ですが、後者は気休めです。

野菜についていろいろ検索していたら美しい野菜の画像集がありました。その中から西洋の野菜の写真と日本の野菜の写真をお借りして下に示します。1cyoh1351

上が西洋の野菜で、下が日本の野菜です。

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さてここで大きな疑問が出て来ました。西洋の野菜と日本の野菜はどのように分類するのでしょうか?

西洋の野菜の中にはアジアや中国から移植、栽培されているのも多いのです。

いろいろな議論がありました。しかし私は以下の簡単明瞭に分類することにしました。

(1)明治以降に日本へ移植され栽培されている野菜は全て西洋野菜。

例はタマネギ、結球ハクサイ、キャベツ、トマト、ブロッコリ、カリフラワー、レタス、セロリなどなど。

(2)日本原種の野菜と江戸時代以前に渡来した野菜は日本の野菜。

例はネギ、大根、人参、ゴボウ、カブ、胡瓜、水菜などの菜類、大豆、小豆、などなど。

しかし日本原種の野菜は何でしょう?いろいろ検索して調べていたら野菜に関する疑問が氷解するブログを発見しました。掲載されている写真や絵も美しいのです。それは「野菜の来歴」という名前で、URLは、http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/shurui/1raireki.htm です。このブログには下のようにいろいろな野菜の原産地が描かれています。

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さて次に日本原産の野菜を示します。

フキ、ウド、セリ、ジュンサイ、ラッキョウ、クワイ、アシタバ、ニラ、ヒシ、ジネンジョ、ワサビ、などなど。

そしてそれぞれの野菜が日本へ渡来した時代が以下のように示してあります。

<colgroup><col width="100" /></colgroup>
野菜の日本への渡来時期 (推定を含む)
時 代 野 菜 名
太 古 カブ・ハタケナ・オカノリ・シソ・シロウリ・マクワウリ・ユウガオ・ゴボウ・クワイ・ハチク・マダケ・サトイモ・ネギ・ワケギ・ニンニク・ショウガ
奈良時代
前後
カラシナ・ナス・トウガン・キュウリ・食用ギク・カキチシャ
平安時代 フジマメ・ササゲ・ウイキョウ
室町時代

江戸初期
ホウレンソウ・日本カボチャ・ツルムラサキ・ミブナ・キョウナ・フダンソウ・カエンサイ・ナタマメ・リョクトウ・インゲンマメ・エンドウ・ハチショウマメ・ソラマメ・ニンジン・パセリー・サツマイモ・トウガラシ・ジャガイモ・スイカ・ニガウリ・トウモロコシ
江戸中後期 イチゴ・ベニバナインゲン・ライマビーン・セルリー・ヨウサイ・チョロギ・トマト・ヘチマ・クリカボチャ・シュンギク・キクジシャ・チコリー・スイゼンジナ・キクイモ・モウソウチク・アスパラガス・ナガイモ
明治時代 結球ハクサイ・タイサイ・ルバーブ・オクラ・セルリアク・パースニップ・セージ・タイム・食用ホウズキ・ピーマン・アーチチョーク・食用タンポポ・レタス・サルシフィー・タマネギ・リーキ
大正時代 トカドヘチマ・ハヤトウリ

上の表の右欄の野菜の名の所の右端が切れてしまいましたが、是非、http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/shurui/1raireki.htm をクリックしてご覧下さい。

さて今日これでは止めますがこれから野菜についていろいろ面白い事を記事として掲載して行きたいと思います。どうぞご意見をお聞かせ下さい。(続く)

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里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

     群馬県の山の中に下仁田という所があります。水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない山郷です。しかし、養蚕業や織物産業もありかなり裕福です。

名産品の下仁田ネギと下仁田コンニャクは全国的に有名です。

この山の里で少年期を過ごした横山美知彦さんの思い出の記をこのブログで何回か掲載いたしました。(末尾参考資料に一覧表があります)。その横山さんから、「名産 下仁田コンニャク」と題する本が先日送られて来ました。里見哲夫氏が書いた本です。そこでこの本を以下の記事でご紹介しました里見哲夫著、「名産 下仁田コンニャク」、そして下仁田ジオパーク

そうしたら今度は横山さんが、同じ著者の「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」という本を送って下さいました。

一読したら大変興味深い本でした。内容の概略をご紹介すると以下のようになります。

ネギは渡来植物として非常に古くから日本人が栽培し、食べてきた野菜です。

ネギの古い名前は葱と書いて「キ」と読んでいました。キの一字なので「ひともじ」という名前も使われてきました。

原産地は中央アジアや中国西部と言われています。日本には縄文時代晩期の焼き畑農業の始まる頃に渡来したと想像されます。

の後ネギは日本各地で栽培されるようになり地方、地方の風土に適した品種が出来たそうです。

西日本ではネギの葉を柔らかく大きく育てた「葉ネギ」が主流で、東日本では白い根を長く育てた根深ネギが主流です。

日本のネギの品種群は加賀、千住、九条の3群に分類されます。加賀群には下仁田ネギ、松本一本ネギ、秋田太ネギ、青森地ネギ、などなどがあります。

この「里見哲夫著、「下仁田ネギーネギの来歴を追ってー」の29ページには実に30種ものネギの一覧表があります。

東京で有名な深谷ネギは千住ネギの一種で、下仁田ネギとは素性が違います。

関東地方では九条ネギ群はあまり流通していないようで主に西日本で栽培されています。

この様にネギは各地で昔から改良が進んだ伝統野菜の一種なのです。

それはそれとして、この本の特徴はネギが何時の時代から文献に出て来るかを探求しています。一番古い記録は「日本書紀」の493年の記述にネギが秋葱(あきぎ)と記されています。その後、他の文献にも葱(き)の名前がいろいろ出ています。

それでは下仁田ネギはいつ時代から有名になったのでしょうか?

作者は地元の高崎藩の文献を探し、丁寧に調べ上げました。また下仁田の古い家々の倉に埋もれている昔の手紙や注文書などの古文書を根気よく探しています。

そして下仁田ネギの名前が書いてある幾つかの文書を発見したのです。

それらを総合して里見哲夫氏は「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったことを証明しました。大変美味しいネギなので大名や武士の間のお歳暮などの贈答品として珍重されたのです。

明治になって鉄道貨物輸送が始まると下仁田ネギの出荷が急に増加し、多くの人々によって美味しさが認められ有名な特産品になったのです。

この本の感動的な部分はこのような歴史的経過を根気よく調べ上げたことにあります。

この本を読んで私は知的な刺激を受けました。いろいろな野菜の渡来の歴史を調べたくなりました。西洋野菜と日本の伝統野菜の違いを調べたくなりました。

野菜の面白い話を書いて見たくなりました。

それらについてはいずれ別の記事として掲載したいと考えています。

下に下仁田ネギに関する写真をお送りします。出典はWikipedeaの「下仁田ネギ」です。

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下仁田ネギは冬に種を蒔きます。上は2月ごろの生育状況です。

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上は晩秋の収穫時期の様子です。201112131

上のように畝を高く盛り上げて根の部分を白く柔らかにしあげます。

=====参考資料======================

横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(2)落し物

横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(1)夜網(よあみ)

山里のコンニャクつくりの様子・・・失われた日本の原風景

横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景

横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出」と

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)

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中国が日本を憎む3つの理由(1)日中戦争の間の汪兆銘南京政府への支援と1000万人の戦没者数

2013年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新から日中間の関係は悲劇的な戦争と抗争の連続でした。日本は中国を蔑視し侵略し、中国を分断し、支配しようとしました。

客観的に観察すると中国は日本を深く憎む理由があるのです。大変大雑把に言っても以下の3つ程の理由があると思います。

(1)第一次大戦中の1915年1月に大隈重信内閣が袁世凱政権につきつけた「対華21ケ條要求」と五四運動の永続性。

(2)辛亥革命でやっと清朝を倒した中国人の感情に反して、清朝の旧皇帝の溥儀を満州帝国の皇帝として清朝を事実上復活させた。

(3)日中戦争中に日本は汪兆銘南京政府を支援し、蒋介石の中国を分断した。日本の侵略によって戦死、戦病死、餓死した「戦没中国人」が2000万人出た。

(2000万人は大げさ過ぎ1000万以下、400万人など諸説があるが、中国人はよく2000万人という表現を使っています。)

今回の「中国が日本を憎む3つの理由」という連載では以上3つの理由について私自身の個人的な感想を述べて見たいと思います。

現在、中国は何故、共産党独裁国家になったのでしょうか?

その経過をを以下の3つに整理してみました。正しくはないかも知れません。皆様への問題提起です。ご意見を頂ければ嬉しく思います。

(1)1912年に辛亥革命が成功し中華民国が南京を首都として発足し、孫文が初代臨時総統になりました。しかし北京を統一するために北京の大軍閥の袁世凱へ総統の席を渡してしまいます。袁世凱は古い軍閥で、その後、国内混乱が続きます。その混乱は蒋介石が政権を取る1928年まで続きます。

袁世凱へ総統の席を渡したのは失敗でした。孫文がそれに気付き、国民党がもう一度政権を取るためにソ連の共産党の強力な支援を受けたのです。そして国民党と中国共産党の協力関係を作ったのです。

1917年に、レーニンは共産革命を起こし、ロマノフ王朝のニコライ皇帝を追放し、全国を統一したのです。孫文がそれを手本にして共産革命へ心が傾いていったのも自然なことです。

分かり易く言えば孫文は国民党の生みの親ですが、同時に中国共産党の創立の貢献者でもあったのです。ですから孫文は台湾の国民党からも北京の共産党からも最大の英雄として現在も崇められているのです。

(2)第二次大戦末期と戦後の1949年までは中国国民党共産党は国内で戦争を繰り広げ、政権を武力で奪取しようとします。

その間、ソ連は中国の共産党側へ膨大な武器援助をしました。一方のアメリカは日本占領ととヨーロッパの経済復興に全力をあげていて、中国の国民党を見殺しにしてしまったのです。アメリカの中国大陸政策の失敗が、その後の沖縄基地の強化へと連続するのです。

(3)1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が共産党独裁から議会制民主主義の導入をしました。

しかし中国では1989年に北京で起きた天安門事件のとき鄧小平は戦車を繰りだして弾圧し、共産党独裁を確立します。鄧小平がソ連の崩壊でポーランドやバルチック3国が独立したのを知って、チベットやウイグル族や内モンゴルが独立するのを恐れたのです。経済活動だけは資本主義に変え、政治はあくまでも共産党独裁の国作りを完成したのが鄧小平です。

上の記述を正しいと主張するつもりは毛頭ありません。問題提起としてご紹介して見ました。

さて上に書いたような中国国内の内部抗争の混乱に乗じて日本は山東出兵や第一次上海事変、満州事変などの戦争を繰り返し、ついに1937年(昭和12年)に北支での盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入したのです。

この戦争は1945年まで続き、日本兵の戦死者は47万人ほどでした。(他に満州で25万人が死にました)。

戦争が原因で死んだ中国側の戦没者が国際的に約1000万人と言われています。この数の根拠は薄弱ですがロシア人が2000万人死んだことと比較して不可能な数字でないという人もいます。(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

日本人はこの数字だけにこだわって、中国人が日本を憎む原因はこの膨大な戦没者数だと理解しています。

しかし私は日本が汪兆銘南京政府を支援して混乱の続く中国を分断したことも大きな憎しみの原因になっていると信じています。この日本の策略は中国の弱みに付け込んだ卑怯なやりかたです。心ある中国人を深く傷つけてに違いありません。

その上、日中戦争拡大の発端の一つになった1932年の第一次上海事件は日本軍が金で雇った中国人に日本人僧侶を襲わせたことが原因になって起きたのです。こういうやり方は謀略と言います。

日本軍は中国でいろいろな謀略を用いたのです。その事が中国人の日本へ対する憎しみを一層深くしてきたと思います。

中国が日本を憎むには深い、深い原因があると理解すると、対中外交戦略を間違わないと信じています。それが日本の国益を守るのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

下に孫文と蒋介石の写真をWikipedeaからお借りして掲載します。

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