後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「インドネシアの歴史と文化(2)電気・ガス・水道がなくても幸せに暮す少数民族」

2021年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
インドネシアの民族の構成は、ジャワ人45パーセント、スンダ人14パーセントなどが中心ですが、350あまりもの民族で構成されています。日本と非常に違うことは国民を文化的に統一しようとしないことです。ですから350あまりの民族がそれぞれの伝統的文化を保持しています。インドネシアの特徴は多くの島や農村地帯に多様な文化が並列しています。この状態は日本と非常に違います。
例えば都会には高層ビルが並んで車が溢れていますが、ちょっと地方に行くとそこには原始的な生活をしている民族が活き活きと暮しています。電気・ガス・水道がなくても幸せに暮しているのです。

1番目の写真はジャワ島にある首都のジャカルタの風景です。インドネシアの都会は高層ビルや車が多いのです。中国の北京や上海の高層ビルの並んだ風景に似ています。
このジャカルタから4時間で行ける山村にバドゥイ族という少数民族が幸せそうに暮らしているのです。
今日はバドゥイ族の村に泊ったlifenesia.さんの体験記をお送りしたいと思います。
以下の文章と写真の出典は、『少数民族の生活に1日密着!』、https://lifenesia.com/?p=2430 です。

ジャカルタから約120キロ、ジャワ島の西端バンテン州『Kenekes村』の山中にバドゥイ族は住んでいる。ジャカルタから列車で2時間のランカスビトゥン駅に行き、さらに車で2時間の場所に彼らが住む村がある。片道約4時間だが、ジャカルタからわずか4時間の距離にそんな秘境があることにも驚かされる。
車が到着したところがバドゥイ族が暮らす村への入口。車で行けるのはここまで。
ロータリーの真ん中にバドゥイ族の銅像が立ち、まわりには食堂や名産の蜂蜜などを売る土産屋があり、いかにも観光地的な雰囲気。周辺には多くのインドネシア人観光客に混じって、バドゥイ族の姿も見かける。見分け方は簡単、頭にバティック布を巻き、腰巻き姿、そして裸足でいるのがバドゥイ族だ。
村まではアップダウンの道が続く。獣道ではなく、一部を除き、ちゃんと石が敷かれている。コンクリートが禁止ですべて人力によって作られたもの。

2番目の写真は村までのアップダウンの道の様子です。獣道ではなく、一部を除き、ちゃんと石が敷かれている。コンクリートが禁止ですべて人力によって石で作られたもの。

3番目の写真はバドゥイの典型的な家です。家の壁は竹で編まれている。地面(土)は神聖なものゆえ、杭を打ち込むことはない。それゆえに置石が家の土台となる。

4番目の写真は靴を一生履かないバドゥイ族の父と息子です。グローバル化が加速する現代に、ITはおろか文明すらも拒み続けるのが、今回の取材先のバドゥイ族だ。彼らの村には電気も水道もない。極め付けは靴を履くことも禁じられた裸足での生活。

5番目の写真は少しばかりの商品を並べた村の店です。

6番目の写真は自然素材のみで作った竹橋です。ワイヤーロープ他、すべて金属類の使用禁止。

7番目の写真は村の入口付近で野菜のかき揚げを作っていた『外バドゥイ』の女性たち。村の入り口脇にいた外バドゥイ族は戒律がゆるいせいか、一般的なインドネシア人と同様に揚げ物も作る。鶏の姿焼きを焼いていて、『意外と豪華な食事!』と思ったら、これははハレの日の特別メニューとのこと。『外バドゥイ』とは外国人が入っていける村に住んでいるバドゥイ族です。これに対して『内バドゥイ』は立入厳禁の奥地の村に住んでいるバドゥイ族です。

8番目の写真は集落から少し外れた竹林に建つコメの保存用の小屋です。住居から離れたところに複数箇所に小屋がある。理由は、住居で火災が起きても主食のコメは死守するという、古くからのバドゥイ族の教えらしい。名産のハチミツやバティック布と違い、コメは外部への販売を禁止するオキテもある。

以上の写真で示したようにバドゥイ族は文明の力を拒み、シンプルな生活を営む少数民族なのです。
村に観光客用の宿泊施設はない。必然的にバドゥイ族の家にホームステイすることになる。頼めば食事も提供してくれ、簡素な板の間で寝ることになる。深夜、早朝は冷え込むので寝袋など持ち込むといいだろう。宿泊料など決められているわけではないので交渉することになるが、数万ルピアほどで問題ないだろう。

村の宿泊で思ったことは、現在、世の中の大半のモノが無くても人は生きていける。早寝早起きが生む健康、家族と過ごす貴重な時間の尊さ。退屈と心の豊かさは紙一重だ。きっと人生や幸せの本質を考える貴重な体験となる。是非一度訪れて欲しい。
男は農作業、女はハタ織り、子どもはお手伝い。傍目には退屈な生活に思われるが、そこにはお金では決して買うことのできない、幸せの本質と豊かな時間があるかも知れない…

このように電気・ガス・水道がなくても幸せに暮す少数民族は日本には居ないのです。インドネシアのように多様な地方文化が存続している国の方が羨ましいと思う私の考えは間違ってきるのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「インドネシアの歴史と文化(1)ジャワ島の世界遺産 ボロブドゥール寺院とプランバナン寺院」

2021年04月29日 | 写真
インドネシアは5,110kmと東西に非常に長く連なる、世界最多の島嶼を抱える島国です。赤道にまたがる1万3,466もの大小の島が散らばっています。公用語はインドネシア語で、人口は2億6,400万人を超え世界第4位です。また世界最大のムスリム人口を有する国家でもあります。
2021年04月28日の、大月 雄喜章著、「ヘリコプタ―のエンジン爆発と不時着の体験記」という記事の原稿を頂いたのは10日ほど前でした。それ以来、私はインドネシアに興味を持つようになりました。この記事はインドネシアが舞台だったのです。最近はインドネシアの歴史と文化を調べています。調べたことを「インドネシアの歴史と文化」という連載にしてご紹介したいと思います。
今日はジャワ島の世界遺産 ボロブドゥール寺院とプランバナン寺院の写真をお送りいたします。

1番目の写真はボロブドゥール遺跡です。ジョグジャカルタ空港から車で約1時間30分で行けます。8世紀に栄えたシャイレンドラ王朝によって建てられたとされています。しかし、誰が何の目的で作ったのか詳しいことは未だに謎に包まれています。19世紀の初め、イギリスのラッフルズ提督(植民地シンガポールを開発した人物)が発見するまで、1000年以上ひっそりとジャワのジャングルの中で埋もれていたのです。
建物は石造りで、約200万個もの安山岩のブロックの上に建てられており、高さは約36mあります。下の6階層は正四方形で、上の3階層は円形の9層からなる階段状。これは「過不足なく満たされた地」を意味する「曼荼羅」を立体的に表現したとされています。

2番目の写真はボロブドゥール遺跡の精緻なレリーフです。お釈迦様の生涯を描いたレリーフです。
1番目と2番目の写真の出典は、https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/report/ID/2014/06/temple.html です。

3番目の写真はプランバナン寺院です。東南アジア最大級のヒンドゥー遺跡で9世紀頃に建てられました。天に向かって鋭く切り立った山のような寺院がいくつも集まっています。その中央に建つのが、最も大きな高さ47mのシヴァ堂です。シヴァはヒンドゥー教の神様の一人で、破壊と創造を担う人々にもっとも愛されている神です。外壁には古代インドの叙事詩として有名なラーマーヤナのレリーフが彫られています。どの寺院にも精緻な彫刻が施されていて、見ていて圧倒されます。

4番目の写真はプランバナン寺院の一つの塔です。16世紀の大地震で多くが崩壊し、その存在はほとんど忘れ去られていました。再発見の後、19世紀には発掘が始まり20世紀になると遺跡の修復作業が開始されました。このプランバナン寺院はインドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドゥール寺院とともにジャワ建築の最高作の1つとされるています。

5番目の写真はプランバナン寺院を背景とした野外劇場のラーマヤナ舞踏の公演です。3番目と4番目と5番目の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%B3%E5%AF%BA%E9%99%A2%E7%BE%A4 です。

今日はインドネシアの代表的な建造物で世界遺産のボロブドゥール寺院とプランバナン寺院を写真でご紹介致しました。

「写真で見る日光の魅力、中禅寺湖、龍頭の滝、戦場ヶ原、丸沼」

2021年04月29日 | 写真
日光と言えば、東照宮、華厳の滝、中禅寺湖、龍頭の滝、奥日光の湯の湖、戦場ヶ原、金精峠、日光白根山、そして幻想的な丸沼などと色々なところを思い出します。一言でいえばスケールの大きい景観の中に滝や湖が散在し神社仏閣もあり独特な魅力を持った地方です。
若い頃からドライブが好きで、群馬県の沼田から丸沼、金精峠を超えて日光へ裏から入るドライブコースが気に入り、何度も遊びに行きました。しかし普通の観光コースは逆に宇都宮から日光駅へ入り、輪王寺や東照宮を訪れ、それから「いろは坂」をバスで登り、華厳の滝や中禅寺湖を訪れます。
今日は華厳の滝、龍頭の滝、戦場ヶ原、丸沼などの日光の魅力を写真でご紹介したいと思います。総合的な観光案内書にはなりませんが多少なりともご参考になれば幸いです。
日光と言えば紅葉の頃が一番美しい景観になります。そこで紅葉の季節の日光の魅力を写真で順々にご紹介いたします。
1番目の写真から5番目の写真までの出典は、写真の出典は、https://aumo.jp/articles/25374 です。金精峠と丸沼の写真の出典は、https://tripnote.jp/gunma/osusume-koyo-places です。

1番目の写真は中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝です。展望台から見える滝は迫力があり日光で一番観光客が眺めに行くところです。

2番目の写真は中禅寺湖と男体山です。この湖の岸に中禅寺があり、ご本尊は有名な立木観音なのです。よく泊ったレイクサイドホテルはこの写真の手前の中禅寺の近くにあったので何度も中禅寺に遊びに行きました。

3番目の写真は中禅寺の北のにあるイタリア大使館の別荘です。中を開放していますので昔の内装や家具調度を見ることが出来ます。イタリアの貴族が駐日大使でであった頃の華麗な内装が印象的でした。

4番目の写真は中禅寺湖の西北にある私が一番好きな竜頭の滝です。竜頭の滝は20度くらいに傾斜した岩石の間を200m以上も激流が流れ下っているのです。激流が岩を噛み、飛沫を上げているのです。日光の奥深い魅力は竜頭の滝を登り、戦場が原を横切って湯元温泉に到る地域にあります。

5番目の写真は戦場が原です。竜頭の滝を登りきるといきなり広大な戦場が原に出ます。車を駐車場に入れ、しばし散策すると気分爽快になります。

6番目の写真は戦場が原の奥にある金精峠の風景です。この峠越えの自動車道を金精道路と言い、関越高速道路の沼田インターに繋がっています。景色の良い山岳地帯のドライブが楽しめます。

7番目の写真は金精道路の片品村にある「丸沼」です。丸沼は四季折々いつでも神秘的な雰囲気がある美しい沼です。

8番目の写真は東照宮です。3代目の将軍になった家光公が作った東照宮です。東照宮は東照大権現たる徳川家康を祀る神社なのです。
明治初年の神仏分離令以後、東照宮という神社と二荒山神社に別れました。 輪王寺と東照宮と二荒山神社は「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。東照宮の隣には家光公廟の輪王寺大猷院もあります。
日光東照宮は流石に豪華絢爛で境内のなかに居ると異国の宮殿のなかへ迷い込んだような錯覚にとらわれます。
この日光東照宮は静岡県の久能山の東照宮がもとになっています。久能山のものはこじんまりした東照宮です。訪れてみると、海を見下ろす小山の上にあります。急な石の階段がはるか下へ伸び海岸通りへ続いています。久能山の東照宮の建築様式に従って、規模を各段に大きくしたのが日光の東照宮です。

さて日光の東照宮や輪王寺は中禅寺湖の遥か下の方にあります。鉄道の日光駅の近くにあります。そこから「いろは坂」を延々と登った 所に中禅寺湖が広がっています。戦場が原は更に上の高原にあるのです。
日光の紅葉の美しさは「いろは坂」を登った 中禅寺湖とさらに高い戦場が原付近にあります。
ところで人のあまり行かない中禅寺湖の千手ガ浜にはクリンソウの群生があり、それは見事な花畑になります。控え目の静かに咲いている様子が日本サクラソウに似ていて可憐です。

9番目の写真は千手ガ浜のクリンソウの群生です。3度ほど訪れましたが、遠方でもう行けません。かつて勝道上人が建てたという千手観音堂がありました。樹齢200年以上のミズナラやハルニレなどが林をつくる自然豊かな環境です。写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/26490/ です。

JR日光駅や東武鉄道の日光駅の近くには老舗の「金谷ホテル」があり、その下の川には重要文化財の神橋がかかっていて、川を渡ると輪王寺の寺領が広がっています。

10番目の写真は「金谷ホテル」です。日光は何度も訪れました。よく泊まったところは中禅寺湖の岸にあるレイクサイドホテルでした。クラシックホテルの金谷ホテルにも泊まりました。
金谷ホテルにはチャップリンやヘレンケラ-など有名な人が泊りました。日本では一番古く明治5年に創業しました。部屋は古いのですが、ダイニングなどでのサービスが洗練されていてしかも寛げるのです。クラシックホテルの良さです。

今日は中禅寺湖、龍頭の滝、戦場ヶ原、丸沼などの日光の魅力を写真でご紹介いたしました。
日光はスケールの大きい景観の中に滝や湖が散在し神社仏閣もあり独特な魅力を持った地方なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

大月 雄喜章著、「ヘリコプタ―のエンジン爆発と不時着の体験記」

2021年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
洋上飛行中の小型単発ヘリでエンジンがバースト(破裂)して、人員も機体も故障箇所以外は全く損傷が無かったのは、ひとえに幸運だったとしかいい様がない。
 しかしその幸運を支えたのは、関係者の普段の努力と技量と適確な判断であった。重なり合った幸運の一つでも欠けていたら、私は今この世にはいなかったであろう。
      鳥の衝突か!エンジンの爆発か!
 “それ”は全く突然に起きた。晴天微風の日中で緩やかに上昇中のベル206Bの機内で突然“ドーン”という激しい音と衝撃に襲われた。一瞬なにが起きたのかわからなかった。
とっさに目を走らせた機外も機内も大きな変化はなく、計器盤上には注意灯も警報灯も点灯していなかった。真っ先に思い浮かんだのはバードストライク(鳥の衝突)である。 眼下にはコバルト・ブルーの美しい南国の海が広がっていた・・・。
 乾期も終りに近い9月の半ば、インドネシア中部の気象状態は大変安定している。午後によくスコールはあるものの、積乱雲は局地的で大きく発達することはあまり無い。
 インドネシア大手木材会社Mの長期契約で、ABC-AIRはスラウエシ島北部のポパヤト・キャンプにB-206B1機を常駐させていた。
 仕事は広大な伐採権保有区域の、調査と連絡飛行である。ヘリコプター会社の幹部とはいえ、私もクルーとして出張に出かける。この日PK-EBDが、メナド国際空港事務所に提出した飛行計画は次のようなものであった。
 出発地はポパヤト場外ヘリポート、ETD(出発時間)13:20ローカルタイム、目的地はメナド国際空港、ETA(到着予定時刻)15:50、途中ローカル空港のあるゴロンタロ市を通過、高度3500ft(1000m)、巡航速度100kt(185km/h)、予定所要時間2.6時間、搭載燃料3,5時間,搭乗人員3名、メナドまではおよそ500kmの距離である。この距離は、メインベースのあるバリックパパンにほぼ等しい。
 メナドはスラウエシ島北端にある美しい都市で、インドネシアで一番の美人の産地?でもある。一説によるとメナドは日本語の港、ゴロンタロは五郎と太郎が訛ったものというのだが・・・。
 M社は中北部スラウエシに広大な縄張り?を有し、ポパヤトは主力のキャンプであった。長距離HFや近距離VHF無線等の通信施設は充実して、奥地で広大な南洋ヒノキの、ほとんど無尽蔵ともいえる森林資源を発見して活気づいていた。

 B206 1977年9月某日、13:20ポパヤトを離陸したPK-EBDは、メナド国際空港に向かって順調に上昇を続けていた。機長は日本人のT、整備士は私、乗客はインドネシア人のキャンプ・マネージャーYさん、それに高価な荷物と重要な書類などなど。今夜はメナド泊りの予定なので久方ぶりに都会に泊まれる・・・。
 離陸後9分、VHFでポパヤト・キャンプに、HFでメナド空港に通信設定が出来た。天候は上々で穏やか、小さな岬の、絵のように美しい海岸線を斜めにクロスして洋上に出た。高度は2800ftを越えたあたりで、エマージェンシー・フロート(非常用浮袋)を付けたスキッド(着陸用そり)の先端がわずかに揺れている・・・。
 エンジン・バーストはこの時に突発したのである!!

不時着!! 降りてみたら畑だった!

 「ピッチが効かない!」「TOT!!」
機長の鋭い声に計器板に素早く目を走らせる!TOT(エンジン排気温度計)の指示がレッドマーク(超過禁止の赤線)に近い。NR(メインローター回転計)は低下してイエローゾーン(警戒区域)に入ろうとしている。
 ヘリコプターは頭上のメインローターを回転させて飛行している。この回転数が低下すれば、飛行そのものが維持できなくなり、墜落する。ピッチが効かない、というのはエンジン出力が失われて、高度が維持できないことを意味する。

 機長がピッチ(上下方向の操縦をする装置)を下げてローター回転を維持し、大きく左旋回に入れた。急激な旋回は急速に高度を失う恐れがあるし、右旋回すると陸地への到達が遅くなる・・・、後からクールに考えての事で、その時は“とっさ”だった。
 つい先ほど通過した海岸線が目に入り、私は平地を目でさがすのと、エンジン油圧計に目をやるのと、VHF無線機で「エンジン故障で不時着する!」をポパヤトにインドネシア語で怒鳴るのを一緒にやった。
 こう記すと極めて沈着に、リズミカルに流れているようだが実際は無我夢中だった。

 「ステイック(操縦桿)は?ラダー(方向舵ペダル)は?」と私。「異常なさそうだ」と機長。
 操縦系統に異常を来たしたら普通の着陸はおぼつかない。高いTOTのままで油圧が失われたら火災になる!エンジンもミッション(減速装置)も油圧は正常だった。
 エンジンはまだ回っている!!その他のエンジン出力を示す計器は、自立運転ができる程度の状態で、ほとんどパワーを発生していない。
 先程通過した、小さな岬のなだらかな丘の上に、かなり大きな草地があるのが目に入った。高度はすでに1000ft位だったろうか。乗客に説明しているヒマはない。
 「あそこに降りる! シートベルト!」を手振りで伝え、Yさんのうなずくのを認めた。ポパヤトから無線でワンワン言ってくるが、それどころじゃない。

 ゆるやかな旋回から小さめに機首を上げて減速し、草地の中央に滑り込んだ。わずかに速度を残しての見事な着陸だった。“ドン”と来てからおそらく1、2分だったろう。
 エマージェンシー・フロート付きも幸いした。フロートはスキッドよりも接地面積が大きい。地表は凹凸があったが、機体はきれいに水平に接地していて、エンジンはまだ回っている。始めて気がついたが何と落花生の畑だった。
“畑があるなら人がいる!!”

 機体が転覆や火災の恐れのないことを確かめて、機長にエンジンの運転を続けるように合図を送った。エンジンを止めたら発電機も止まる。そうなると通信手段の電源は機上のバッテリーしかなくなる。
近くに“公衆電話”は無い。しかもHF無線機は電力消費が大きい。幸いポパヤトには、地上でVHF無線が通じた。これは心強い。

 気がついたら、いつの間にか回りは大勢の人だかり。人家らしきものは見当たらなかったが、ヒトがわいてきた感じだ。
 乗客のYさんに、群衆のテールローター(後部の小さなプロペラ)への接近の防止と周囲の警戒をお願いして、私はエンジン・カバーを開けてみた。一見とくに変化はない。
 しかしエンジン・ルームには金属片が散乱し、エンジン補機の金属配管は高周波振動でピリピリ震えている。タービン(扇車)ではなくコンプレッサー(圧縮機)のバーストだった!!
 機上で交信していた機長が「TOTが限界を越えた、これ以上は危険だ!」と知らせてきた。飛散した金属片が燃料配管を破断したら爆発しかねない。
 私は片手で自分の首を切る真似をして、エンジンを停止するように伝えた・・・。
                                 
        そして帰還
 エンジン停止後私は入念に機体を調べて、エンジン以外には差し当たり損傷のない事を確認した。そして会社と交信中の機長にこう伝えた。「エンジンを持ってきてくれ!」
 沢山の人だかりの中から制服の警察菅らしい人と、畑の持ち主らしい人がやってきた。私の標準的?なインドネシア語は彼等に通じているらしいが、彼等の訛の強い方言はこちらにはサッパリ分からない。 乗客のYさんに“インドネシア語からインドネシア語に通訳してもらう羽目になった。英語はほとんど通じない。

 私はまず畑を台無しにしてしまったことを丁重に詫びて、ポパヤト・キャンプへの輸送手段を依頼した。までは徒歩20分、そこにはエンジン付きのスピードボートがあって、1時間半の距離だそうである。陸路は無い。
 不自由な会話ながら、土地の人達が非常に純朴で好意的なのがよく分かった。またポパヤト・キャンプは、地元で唯一の大規模事業所である。このからも、働きに行っている人がいるという。
気持ちの上では“謝礼などいくら出しても良い”と思った。

 それにしても良くもまあ、こんなに条件の良い所に不時着できたものである。我々には冗談を言うような余裕が出てきた。ポパヤトからも救援のボートを出すそうだ。Yさんと機長に、先にポパヤトに戻ってもらうことにした。
 私は会社の責任者として、残って機体をさらに詳しく調べて今後の処置を決めなければならない。季節が乾期であったことと、非常用食料・飲料が十分搭載してあったことを感謝した。一人で残る心細さなど、かまっていられない。

 客先への迷惑を最小限にするために、明日主基地から代替機を出すことにした。詳細は機長に先にポパヤトに戻ってもらい、航空局への報告も含めて段取りを付けることとした。現場は206Bならあと5、6機は降りられそうだ。
 すべてを終り、ポパヤトからよこしてくれた警備員に後を頼んで、現場を離れたのはもう夕暮れだった。南国の夕暮れはいきなり暗くなる。の桟橋からボートで送ってもらう頃には、トップリと日が暮れていた。さすがに疲れたが、それより今頃になってモーレツに怖くなった。後で話したら機長も同じ思いだったそうだ。

 翌日の昼前に別の206Bが、予備エンジンや必要な器材と腕のいい整備士を乗せて飛んできた。アメリカ人整備士のRは普段はビールばかり飲んでるが、こういう時はモーレツに働く。相手がだれであろうと自国語である早口の英語でまくしたてる。
 流石に私に対しては多少ていねいな“物言い”はするのだが・・・

 エンジンはコンテナーのままでは乗らないので、裸にして機内に上手に仮止めしてあった。救援機は別のクルーでM社の仕事に復帰し、我々は現場に丸太でヤグラを組んで、エンジンの交換作業に取り組んだ。 インドネシア人整備助手のUは、整備士免状こそ持っていないが英語は達者で、実に良く働く。いい選手たちが来てくれた。
 そして同日の夕方に、試験飛行を完了しはて復旧してしまった。

 後日バリックパパンに戻ってから、このエンジンを社内調査して驚いた。軸流コンプレッサーの、ステーターベーンの第2段以降がキレイに吹き飛んでいる。第6段まで1枚も残っていない。コンプレッサーローターブレードは捩じくれて曲がっていたが欠け落ちてはいなかった。インレットガイドベーンにはFODの形跡はない。
 さらにこのエンジンをシンガポールの修理工場に送って調査した。ステーターベーンは腐食で第2段の内の1枚が折れ飛び、これが内部FODとなって以降のベーンを丸坊主にしたのであろう。タービンモジュールもFODで損傷を受けていた。
 コンプレッサーの定期的な内部点検がメインテナンス・マニュアルで義務付けられたのは、このインシデントよりもだいぶ後のことである。

 蛇足であるが、後日ジャカルタ本社で保険会社とさんざんやり合ったが、保険金は降りなかった。相手はインドネシア人であったが交渉は英語でやった。何故ならお互いに外国語だから…。万国共通であるが、エンジン故障に起因する損害は保険では補償されない。(当時…現在は不明)

 この事故の後、私は社内で“事故追放”“安全運航”を徹底的に教育した。面白いことにベトナム帰りのアメリカ人パイロットなどは素直に賛同してくれるが、なまじ日本語の出来る韓国人クルーの方がかえって言うことを聞かない。
今回のインシデントはまさしく幸運の積み重ねであったが、それがベストの形で収束できたのは、単なる偶然ではあるまい。(了)
-注-
FOD…Foreign Object Damage の頭文字で、異物吸入による損傷のこと。
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この記事は、社団法人「日本航空機操縦士協会」季刊誌「ヘリコプター・セーフティ」No-11(1996)と、月刊誌「ヘリコプター・ジャパン」No-21(1997)に掲載された「ある不時着」を、一般向けにわかり易く書き改めたものです。
「赤道直下の真珠のネックレス」と呼ばれるインドネシアは、赤道を挟んで16000もの島々からなる群島国家で、観光客に人気のバリ島は、ほぼその中央にあります。その東西は5000kmにも及び、仮にヨーロッパに重ねると、東の端はトルコまで至ります。
そのバリ島の北約1000kmにある、赤道をまたいだ風景の非常に美しい島が本件の舞台のスラウエシ島です。世界の秘境タナトラジャは、この島にあります。

写真はインドネシアでのベル20とインドネシアの地図とエンジン交換中とスラウエシ島の写真です。













「大相撲の好きな方へ、大鵬と千代の山・千代の富士の記念館のこと」

2021年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
2012年9月の北海道旅行で3泊した弟子屈町の川湯は、かの大横綱・大鵬の出身地です。ホテルのフロントに記念館の場所を聞くと、道路の向こう側の公園にあると教えてくれます。まさに「巨人 大鵬 卵焼き」の家内は跳び上がって喜んでいました。
早速、翌朝一番に訪れました。大鵬は32回の優勝記録を打ち立て、あの柏鵬時代を築いたのです。その柔軟で敏捷、粘り強い天才的な取り組みの光景は現在でも脳裏に刻んでいる人々も多いと思います。
撮って来た写真をお送りいたします。

1番目の写真は「川湯相撲記念館」です。中の展示物はすべて大鵬に関連したものです。
特に映像室では、当時の数々の名勝負の映画の上映があり、大鵬の天才的な相撲を直接見ることが出来ます。

2番目の写真は大鵬の修行時代の写真の展示です。

3番目の写真はは子供や孫に囲まれ幸せそうな大鵬一家の写真です。「現在お孫さん達がお相撲さんになっている」と家内は喜んでいます。

4番目の写真は函館の西にある「横綱千代の山・千代の富士記念館」です。木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところの福島町にあります。こんな小さな町から二人も横綱がでたのです。相撲の好きな家内が感激して両手を上げています。

5番目の写真は「横綱千代の山・千代の富士記念館」の中の展示です。
第41代横綱・千代の山と第58代横綱・千代の富士の生誕の地が同じで、函館の西にある福島町なのです。
師弟関係にもあった二大横綱の歩みと大相撲の文化を知ることができます。館内の展示物には横綱の綱や優勝トロフィー、千代の富士が断髪した際の大銀杏、国民栄誉賞状など、たくさんの記念品があります。その他にも九重部屋の稽古場と土俵が再現されてあります。
大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出は下に簡略にまとめました。
=====大鵬、千代の山、千代の富士 の活躍と思い出=========
(1)第48代横綱 大鵬 
1940年(昭和15年)5月29日生 身長187cm。
樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨで
ハーフである。納谷は母の姓である
1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに 「柏鵬 (はくほう) 時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある。幕内最高優勝32回は2009年(平成21年) 現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退 (1971年) までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は 「一番破られにくい記録」 と言われる。
当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。また、 酒豪としても有名でかつての酒量は4時間程で5升を空け、 翌日の朝稽古に出たというエピソードもあるほど。
第48代横綱になる。(入幕から1年10ヶ月)この間、三賞:敢闘賞2回、技能賞1回、金星1個
1971年  現役引退

(2) 第41代横綱 千代の山
千代の山 雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は、北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第41代横綱。本名は杉村 昌治(すぎむら まさはる)。
1949年10月場所に大関へ昇進し[3]、その場所は13勝2敗で北海道出身力士としての初優勝を挙げた。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが、前田山英五郎のシールズ事件を始めとする当時の横綱陣への批判が渦巻いていた煽りを受け、不運にも横綱昇進は見送られた。これは玉錦三右エ門が、大関で3連覇しながら横綱昇進を果たせなかったこと以来であった。
横綱昇進〜引退へ
1951年5月場所を14勝1敗で3度目の優勝を挙げ、ようやく横綱へ昇進した。時を同じくして、横綱免許の権限を持っていた吉田司家の24世吉田長善による不祥事のため、免許権限が相撲協会に移行しており、千代の山は協会が独自に推挙した最初の横綱となった。

(3)第58代横綱 千代の富士
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - 2016年7月31日)は1980年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士。北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の優勝力士。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。
1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。
1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。

「北海道への旅(3)夢幻の美しさをたたえる阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖」

2021年04月25日 | 写真
2012年9月に北海道の東部の湖を巡る旅をして来ました。川湯に3泊し阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、網走湖、能取湖、そしてオンネトーの湖などの幻想的な美しさに魅了されました。今日はこれらの湖の写真をお送りします。家内が撮ったものです。

1番目の写真は阿寒湖です。阿寒湖は国の特別天然記念物の球状のマリモが生きている唯一の湖として有名です。
阿寒湖は摩周湖や屈斜路湖とともに美しい湖です。湖岸に大きな阿寒湖温泉街があり、春夏秋冬、一年を通じて多くの観光客を集めています。阿寒湖に行ったら、是非、観光船に乗り、沖にある チュウルイ島マリモ展示観察センターを訪問して下さい。

2番目の写真は屈斜路湖です。湖水の周りは原生林が取り囲んでいるので、観光客の入れる場所は和琴半島と、コタンアイヌ民俗資料館のある場所と、砂湯という場所しかありません。その湖岸に出るのに根気よく原生林の中の道を行かねねばなりません。湖岸に出ると屈斜路湖が静かに青い水を湛え、はるか沖に中島が横たわっています。
そして網走方面へ抜ける道の美幌峠に上ると頂上に「パノラマ展望台」があり、眼下に写真のように碧く輝く屈斜路湖の全景を楽しむことが出来ます。

3番目の写真は摩周湖です。カルデラの崖の上にある第三展望台から撮った写真です。摩周湖は、北海道弟子屈町にある湖。日本で最も透明度の高い湖です。急激に深くなっていることとその透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。
約7000年前の巨大噴火によって生成された窪地に水がたまったカルデラ湖です。流入・流出河川がない閉鎖湖であり、周辺の降雨が土壌に浸透した後十分にろ過されて流入するため透明なのです。

4番目の写真は風蓮湖です。風蓮湖は白鳥の飛来地として有名です。そのせいで何故か素晴らしい湖という印象が心に焼き付いていました。しかし何も無い寂寥とした風景が広がっているだけです。東からの海風が強く湖面を波立せているだけです。白鳥の写真から勝手にロマンチックで華やかな風景を想像していた私の愚かさを独りで笑いながら印象深い写真を撮ろうと努力しました。

5番目の写真は能取湖(ノトロ湖)です。網走湖の北隣にあってオホーツク海へつながっている能取湖(ノトロ湖)は観光地ではありません。岸辺に立って沖を見やればただ広い海の水が静かな風波をたたえているだけです。
兎に角、うるさい観光地から逃れて、独り大自然の中に身を置くには丁度良い場所です。そして、しばし考え込ませる場所です。人間の小ささや、人生の一瞬の輝きがあまりにも儚いという実感に身が震えます。そして浩然たる気分になるのです。

6番目の写真はシラルトロ湖です。川湯から弟子屈町、標茶町と国道を南下すると広大なシラルトロ湖が右側に見えて来ます。シラルトロ湖を過ぎて、しばらく走ると今度は左側に「塘路湖入口」という看板があります。見落とさないで車を入れます。すると塘路湖があります。塘路湖から再び国道に上がり、さらに南下すると「達古武湖キャンプ場入口」という看板が右手に見えます。そこを入り、2km位行くと達古武湖が広がっています。

7番目の写真は網走湖です。網走湖は観光客が行かない湖です。大きなシジミだけが名物の地味な湖です。網走湖の湿地帯では水芭蕉の花が咲きます。国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯に一面に咲いています。観光地でないので案内の看板も無く、近所の人だけが散歩する細い悪路が林に中に続いていました。

8番目の写真はオンネトーの紅葉です。
写真の出典は、https://photoin.exblog.jp/19121491/ です。北海道東部の阿寒摩周国立公園内にある周囲2.5kmの湖です。大自然に囲まれ、変化する湖面の色と共に神秘的な景色を見せてくれます。特に神秘的なのは波がないときに周りの景色が湖面に映りこむさまです。雌阿寒岳の噴火により螺湾川の流れが止められてできた湖です。十勝地区足寄町の東部にあり、阿寒湖からも車で約30分で訪れることができます。

今日は阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、風蓮湖、シラルトロ湖、網走湖、能取湖、そしてオンネトーの湖の美しさを写真でご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「写真で見る少数民族(2)漢族だが宗教だけが違う回族」

2021年04月25日 | 写真
回族は漢族ですがイスラム教を信仰している人です。服装はイスラム教の伝統的なものを祭日に着ています。ですから中近東風の格好をした漢民族なのです。宗教だけが違うので回族と呼んでいます。北京に行くと街で白い帽子を被った男が多数歩いています。日本では考えられない異様な風景です。
人口は約900万人で、主に寧夏回族自治区に集中的に居住し、甘粛省、青海省、河南省、河北省、山東省、雲南省などの地域に規模は異なるが集中的に居住している区域があるそうです。
回族は広く分布し国各地に散在し、中国で分布地域の最も広い少数民族である。
回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムが持って来たと言われている。
回族のコミュニティには普通、モスクがあり、聖者廟を有する場合もある。
言語は当然漢語を用いていますが、イスラムに関わる用語が混じっています。
姓名は漢族と同じですが、預言者ムハンマドの名から取った 「馬」 の姓が多く見られます。
回族は漢族などと雑居しながらもイスラムにのっとった生活を行い、漢族とは食習慣や冠婚葬祭などの習俗を大きく異にしています。この違いが回族の民族としてのアイデンティティの拠り所となっているのです。
彼等の写真を示します。









「写真で見る少数民族(1)中国、ベトナム、ラオスのミャオ族」

2021年04月25日 | 写真
ミャオ族の総人口は1100万人位です。居住地域は以下の通りです。
中国 900万人(2000年)
ベトナム 79万人(1999年)
ラオス 45万人(2005年)
アメリカ 17万人(2000年)
タイ王国の旗 タイ 15万人(2002年)
フランス 1.5万人
フランス領ギアナ 1500人
言語はミャオ諸語で宗教はシャーマニズム、仏教、キリスト教他です。
ミャオ族(中国語: 苗族) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいます。自称はモン族と言います。中国に住む55の少数民族の一つです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F をご覧下さい。
以下の通りの目次に従って説明されています。
目次
1 名称
2 歴史
2.1 明代から清代へ
2.2 中国国内のミャオ族
3 インドシナ半島におけるミャオ族の分布
3.1 ラオス
3.2 タイ
4 海外への移住
5 言語
6 民族分派
7 宗教と民俗
7.1 タイのミャオ族の精霊信仰
7.2 神話
8 食文化
9 人口
10 中国における自治地域
この資料にあるミャオ族の写真を示します。









「今日のカトリックの復活節第4主日ミサの動画配信と愛の宗教の意味」

2021年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は復活節第4主日です。2021年4月25日の10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は以下の通りです。
カトリック関口教会、2021年4月25日
復活節第4主日のミサの動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=xJ14HWFurrY

聖イグナチオ教会 の復活節第4主日のミサの動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=OlTEmLlUf58

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日は以下に「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」という話をお送り致します。

日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真は藤の花の写真です。







「共産主義が日本へ与えた深い影響」

2021年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、西洋の思想や主義が怒涛のように日本へ流れ込んで来ました。資本主義や民主主義や共産主義、そしてキリスト教などが何の脈絡もなく日本へ流れ込んだのです。それらは日本人とその社会へ深い影響を与えたのは当然です。士農工商の封建社会しか知らなかった日本人にとってはさぞ驚きの連続だったに違いありません。

今日は共産主義が日本へ与えた深い影響について簡単に書いてみようと思います。
例えば朝日新聞は戦後に共産主義の影響を受け、中国やソ連のような共産国家へ同情した体質を持つようになったのです。この朝日新聞の体質は戦後の日本へ深い影響を与えました。戦後の朝日新聞は日本のオピニオンリーダーとして君臨していたのです。現在の日本は成熟した民主国家ですから一新聞社が日本全体へ影響を及ぼすことはありません。
朝日新聞は中国の文化大革命を高く評価した報道をしていました。毛沢東の民衆を犠牲にした権力闘争で数百万人の死者を出した文化大革命を高く評価していたのです。そして本多勝一記者などによる日本軍の中国における残虐行為の記事や本が日本社会へ与えた影響は決して小さなものではありませんでした。
皆様のご記憶にもある慰安婦問題ももともとは朝日新聞の誤報記事から始まったのです。現在考えると朝日新聞が間違っていたことは明々白々です。
朝日新聞は、いわゆる「自虐史観」を日本社会へ提供したのです。当時の日本の若者や進歩的文化人が中国の文化大革命に影響を受け、それを称賛していたのです。このように日本の社会は「毛沢東の共産主義」の大きな影響を受けていたのです。

その上、アメリカの占領軍総司令部GHQの中にも共産主義的な考えを持った高官がかなりいたのです。 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されたのです。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。
このような社会風潮へ対して、後の時代になって異議を唱える人もいました。
その一人が曽根綾子でした。曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイの「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」で明快な反論を書いたのです。尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています。その2010年10月29日付の記事の一部抜粋を示します。
「今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず中国から脅しを受けながら、特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けたのです」と書いたのです。
曽野綾子は「私にいわせればマスコミは正気で『発 狂』していた」と表現し、当時の報道の責任を厳しく問い糺したのです。
皆様はこんな時代があったことをお忘れでしょうか。

日本へカール・マルクスの共産主義が入って来たのは1917年以後のことです。1917年のロシア革命前後から日本でも共産主義者が活発に活動を始めました。そして日本共産党が出来たのです。しかし戦前は治安維持法の弾圧を受け、日本共産党は気息奄々の状態でした。しかし現在でも日本共産党は健在です。衆議院選挙でも何時も20名前後が当選します。参議院と合計すると35名前後の国会議員を保持しています。
数の上では少数ですが共産主義は日本人の考え方へ大きな影響を与えて来たと考えられます。
個人的なことで恐縮ですが私には親しい共産党員の友人がいました。代々木の党本部で働いていて徳田球一や野坂参三の仕事を手伝って来たのです。
その方から共産党の話を何度も聞きました。もう老境で達観の境地のような静かな話ぶりでした。
日本では共産党を忌み嫌う人が多いようですが、私はそれ以来、日本共産党の社会に与えた影響を客観的に考えるようになりました。影響の良し悪しを客観的に考えたのです。
日本共産党は2017年1月現在、約30万人の党員を抱え西側諸国で最大規模の共産党です。日本共産党が与党の自治体は2016年12月現在53あったそうです。何故日本共産党はこんな勢いなのでしょうか?
共産党は日本の貧しい農民や貧者の立場に立って政治活動して来たのです。その考え方は日本の他の政党にも、そして日本人の考え方にも大きな影響を与えて来たと考えられます。これが共産党の良い影響の一つです。
しかしその一方で、自衛隊を否定したり、天皇制に反対していていることは大きな間違いです。日本の伝統文化を全く無視する考え方が間違えのもとです。

さて話は変わります。戦前の日本は軍国主義のせいで自由がありませんでした。戦後は日米安保の枠組みでアメリカの政策へ反対する自由がありませんでした。特に日本が経済成長を達成するまでは経済的にもアメリカに隷属していたのです。1980年頃、鄧小平が実権を握るまでの中国は貧しい国だったのです。
このような日本の社会の状況では共産主義は若者の憧れでした。共産主義国家の実態を知らない日本の若者にとって、共産主義は自由を与えるものと見えたのです。たとえそれが幻想だったとしても共産主義は若者の自由の砦のように誤解されていたのです。
国家や社会による束縛を嫌う若者たちにとって、共産主義は若者たちを自由へ解放するイデオロギーだったのです。このような書き方は戦前、戦後の日本の社会の閉塞感を知らない人々にとっては理解しがたいものです。
一例をあげます。北海道帝国大学のある学生の独白です。彼は軍人の指導に反発して共産党に入党したのです。
その共産主義者は私の山小屋のそばの別荘に住んでいました。
彼は大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある北海道帝国大学へ進みます。その大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。丁度、第二次世界大戦の始まった頃でしたので軍部は北大の学生に飛行場建設の作業を命じたのです。
彼はこの命令に反発を感じました。軍部独裁の風潮へ反発したのです。当時の若い彼にとっては共産党に入って軍国主義に反対する決心をしたそうです。
卒業は終戦直後でしたが、すぐに東京の代々木の共産党本部へ行って入党してしまったのです。そして代々木の本部で生涯働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀義雄さんなどの部下として働いたのです。
戦後は軍部に代わってマッカーサーが共産党を弾圧しました。当然、彼は日本の官憲に追われ、おちこちへ逃走する生活だったそうです。しかし彼は一度も捕まらずに逃げおおせたと言っていました。
2012年の7月に山小屋へ行った時、彼の意識が混濁してしまったので救急車で病院に入ってしまったと近所の人から聞きました。その後、遠くの病院に行ってしまったのです。もう二度と会えません。

ここにご紹介したある共産党員の話は一例に過ぎません。日本の戦前、戦後の若者たちが共産主義に魅力を感じたのは当時の社会の閉塞感が原因だったのです。それに比べ現在の日本の社会の自由さは素晴らしいと思います。現在の日本の若者は自由でのびのびとしています。戦前、戦後のように共産主義に憧れる若者は非常に少なくなりました。
今日は共産主義が日本へ与えた深い影響の様子を簡単に書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿絵はモンドリアンとカンディンスキーの作品です。Piet Mondrian (Netherland,1872-1944)の抽象画を3枚とWassily Kandinsky (1866-1944)の絵画です。これらの絵画の出典は、http://fennser.pixnet.net/blog/post/9866898-flash-art---mondrian-部落格藝術時鐘%28向抽象藝術 です。










「今日の花の風景」

2021年04月23日 | 写真
また小金井公園へ散歩に行きました。毎度、同じような花の写真で恐縮です。最後の写真は自宅の庭に咲いているウノハナです。何とも言えない美しい可憐な花です。「卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて、、、」という歌を思い出します。今日の花の写真をお送り致します。










『夏は来ぬ』
卯の花の 匂う垣根に
ホトトギス 早も来鳴きて
しのびね もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の 薫る軒端の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝ちる 川べの宿の
門遠く クイナ 声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月やみ 蛍飛びかい
クイナ鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により明治29年、1896年に発表された日本の歌曲です。

「北海道への旅(2)荒涼とした最果てのトドワラの不気味さ」

2021年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。

今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の写真をご紹介したいと思います。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。
まず下にの野付湾の全体の風景写真を示します。

1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。

2番目の写真はナラワラの光景です。よく見ると写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。

3番目の写真はトドワラです。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。

4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側は野付湾と言います。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の猟期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。

5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。

6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟のの風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名なのです。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。

この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。

7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から撮った国後島です。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。

今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

====樺太、千島のロシアによる占領=======================
(出典は、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html です。)

1945年8月24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。これにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるはずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しなかった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと 解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月28日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列 島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島にも、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。

「帆船日本丸II世の写真」

2021年04月22日 | 写真
初代日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航した。日本丸II世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。住友重機械工業浦賀工場で建造された。
先代の日本丸に比べて帆走性能が大幅に向上しており、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1986年(昭和61年)、1989年(平成元年)、1993年(平成5年)と三回受賞している。

総トン数 2570 トン、全長 110.09 m、主機関 ダイハツディーゼル 6DSMB-28NS 2基、搭載人員 190名