後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

先進国の核実験と北朝鮮の核兵器、ミサイルの問題

2017年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 今日の主張は欧米先進国が過去にさんざん核実験をしてきたので、後発国の北朝鮮の核実験やミサイルの発射を非難出来ないという主張です。それは公平というものではなく、先進国の傲慢だという主張です。
しかし私は北朝鮮は日本にとっても仮想敵国であり、その核保有には、先進国の核保有とともに強く反対します。
先進国のわがままは、これまで多量の炭酸ガスを放出してきた欧米諸国の地球温暖化防止交渉にも見られます。
今日はまず過去の先進国の数多くの核実験の歴史をもう一度見てみます。
さて2015年時点で、世界には約16000発の核兵器が保管されています。そしてその90%以上はアメリカとロシアが持っているのです。北朝鮮は、8発を保有しているに過ぎません。わずか0.05%です。この情報の出典は、http://useful-info.com/dprk-nuclear-test-footage です。
国連安全保障理事会は2016年2月2日、核実験と事実上の長距離弾道ミサイル発射を強行した北朝鮮に対する制裁決議を全会一致で採択しました。
しかし私はアメリカも含めた強大な核兵器保有連合が北朝鮮を非難するという構図だと感じました。巨悪が小悪を責め立てる風景に違和感を感じるのは私だけでしょうか?だからといって私が北を弁護するのではありません。国際間の歴史的公平さを夢想しているのです。
そして世界にある16000発の核兵器がこの我々が住んでいる美しい青い地球を死の荒野にしないようにと強く祈っているのです。
まず宇宙船から見た美しい地球の写真をご覧下さい。

1番目の写真は宇宙船から見た地球の写真です。出典は、http://ryoko-tatsujin.net/trend/8921/ です。
この美しい地球の上で初めての原爆実験は先の世界大戦中に行なわれました。

2番目の写真は1945年7月16日にアメリカ ネバダ州で行われた人類初の核実験の様子です
詳細はトリニティ実験を検索するとあります。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

3番目の写真は1953年に行われた原爆の大砲による発射実験の様子です。大砲は 280mmカノン砲を使用しました。核出力は広島に投下されたのと同じ15ktですが、原爆を大砲で撃つという実戦的な核実験でした。
写真の出典はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

4番目の写真は北朝鮮水爆核実験の行われた豊渓里の場所を示す地図です。出典は、http://useful-info.com/dprk-nuclear-test-footage です。

このような写真で示した核実験は過去に非常に数多くなされて来ました。
核実験を行ってきた国々はアメリカ合衆国、ソ連、イギリス、フランス、中華人民共和国、インド、パキスタン、朝鮮民主主義人民共和国などです。
核実験は1945年から約半世紀の間に2379回も各国で行われたのです。そのエネルギーはTNT換算で530メガトンで、これは広島へ投下されたリトルボーイの3万5千発以上に相当するそうです。恐ろしいことではありませんか?

5番目の写真は各国の核実験の回数を縦軸に、1945年から2014年までの年号を横軸に示した図面です。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

このような多数の核実験が大部分終わってしまってから北朝鮮が核実験に以下のように乗り出したのです。
2006年10月9日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で初の核実験。
2009年5月25日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で2回目の核実験。
2013年2月12日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で3回目の核実験[8]。
2016年1月6日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で初の水爆実験。しかしこの実験の水素爆弾というのは疑わしい見方も多い。
2016年9月9日 5回目の核実験。

私は何度も書くように北朝鮮も含めた全ての国の原爆保有に強く反対する立場です。しかし北朝鮮だけ非難する最近のマスコミの風潮には疑問を感じているのです。
例えば長距離ミサイルの発射で、北朝鮮だけを非難する報道がなされていますが、以下のネット報道のようにアメリカも同様の実験をしているのです。
『米国空軍がICBM発射実験 北朝鮮をけん制か』 (2017年8月3日)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000106843.html
北朝鮮情勢が緊迫するなか、アメリカ空軍が今年4回目となるICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験をしました。
 8月2日午前2時すぎ、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から大陸間弾道ミサイル「ミニットマン3」が発射されました。ミニットマン3は核弾頭の搭載が可能ですが、今回は搭載していません。アメリカ空軍はミサイルが7000キロ近く離れたマーシャル諸島に落下し、実験は成功したと発表しました。アメリカ空軍は「性能を確かめるための予定通りのテストだ」としていますが、北朝鮮に対する警告や牽制の狙いもあるとみられています。

このようにアメリカは自由に太平洋に大陸間弾道ミサイルを撃ち込んでいますが、日本のマスコミは大きく報道しません。
北朝鮮がミサイルの実験をするたびに小学校などの防空演習をし、マスコミは大騒ぎをします。
防空演習で再軍備の強化を促進しやすい社会の雰囲気になることは仕方のないことです。
それにしても北朝鮮がミサイル実験のたびに大騒ぎをする日本の様子を韓国のマスコミが冷笑しているという記事を見ました。
もう少し大局的に冷静に対応できないものでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================================
アメリカの太平洋のマーシャル諸島での核実験;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93
1946年7月1日からアメリカ軍占領下にある日本の委任統治領であるマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験を行い、1947年にアメリカ領となった後も核実験を継続し、エニウェトク環礁と合わせて67回の核実験を行った[2][3]。
1946年7月、原爆実験クロスロード作戦では、日本の戦艦長門など約70隻の艦艇が標的として集められ、そこを原爆で攻撃して効果を測定した。1回目は7月1日に実験(エイブル)し、2回目(ベイカー)は7月25日に行なわれた。
その後、太平洋核実験場として指定され、1954年3月1日ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦)では、実験計画では数Mtクラスの爆発力と見積もっていたものが、実際には15Mtの爆発力があったため予想よりも広範囲に死の灰が拡散して、多数の被曝者を出した。
ビキニ環礁の島民は、強制的にロンゲリック環礁へ移住させられ、現在に至るまで帰島できない。
日本のマグロ漁船第五福竜丸など数百〜千隻の漁船が死の灰で被曝した。
240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、実験の3日後に住民全員が強制避難させられた。
ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。
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私は気持ちが落ち込んだ時ゴッホの絵を見ます

2017年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
以前から私は気持ちが落ち込んだ時ゴッホの絵を見ることにしていました。
あれはオハイオ州で仕事をしていた頃のことです。仕事にいきづまり、心がしばしば落ち込むことがありました。そんな折には車を駆って隣りの州のピッツバーグの美術館に行きます。あまり有名なものではありませんが、ゴッホの絵が5枚ほどあるのです。ゴッホ独特のタッチと色彩を見ていると心の底から元気が湧いてくるのです。それ以来、気持ちが落ち込むとゴッホの画集を開いて見るようになりました。
そして老境に至り、仕事から解放されると不思議に落ち込むことも無くなりました。老境とは良いものだと独り微笑んでいます。
しかし先週、猪苗代湖へ旅をして少し落ち込んでしまいました。あまりにも激しい雨で心に描いていた夢が無残にも破れてしまったのです。
落ち込むほど大げさではありませんが深く落胆をしたのです。
そこでゴッホの絵画をいろいろ検索して鑑賞しました。元気が湧いて来ました。絵画から感じることは人さまざまです。元気の湧いてくる方はいらっしゃいますでしょうか?
今日はゴッホの絵画を7点お送りいたします。
検索していろいろなHPを見較べていますが、「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm は色彩が一番鮮明で、多くの絵画を網羅しています。このHPからゴッホの絵を7枚を選んでお送りします。
ゴッホの絵がお好きな方々は喜んで下さると信じています。

1番目の写真は、ゴッホ「モンマルトルの家庭菜園」1887年です。 ゴッホ美術館 アムステルダム収蔵です。

2番目の写真は、ゴッホ「アルルのはね橋」1888年、54x65cmです。  クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ収蔵です。

3番目の写真は、ゴッホ「スヘフェーニンゲンの浜辺」1882年です。 アムステルダム市立美術館収蔵です。

4番目の写真は、ゴッホ「アルルのゴッホの部屋」1888 年 72 X 90 cmです。 アムステルダム、ファン・ゴッホ国立美術館収蔵です。 

5番目の写真は、ゴッホ「夕方のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」1888年9月、81 x 65.5 cmです。 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ収蔵です。

6番目の写真は、ゴッホ 「収穫」 1888年6月 73 x 92 cm、です。ファン・ゴッホ国立美術館、アムステルダム収蔵です。

7番目の写真は、ゴッホ 「糸杉のある麦畑」1889年51.5 x 65 cmです。 個人蔵です。

さて何故、私が今回の猪苗代湖への旅で深く落胆をしたのでしょうか?
昨日、大学時代の今は亡き友人の星野君が猪苗代湖のヨットに3回ほど招待してくれたことを書きました。
彼のヨットは楽しい構造のクルーザーです。後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋がありました。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められたのです。
彼と猪苗代湖へ行くには、まず私が新幹線で福島の彼の家に行きます。するとその後は彼の車で磐梯ー吾妻スカイラインに上がり、檜原湖の脇を通って磐梯ゴールドラインを下って猪苗代湖に行きました。往復、檜原湖を何度も見て通ったのです。
その檜原湖の絵画を私は毎日、自宅で眺めているのです。
檜原湖の絵はやはり大学時代の友人の立石君が描いたもので、その展覧会にも星野君と一緒に行きました。そしてその後、星野君は6年前に亡くなりました。
ですから今回の旅では磐梯ゴールドラインを登って何十年ぶりかに美しい桧原湖を眺め、星野君を追悼したいと思っていたのです。
しかしあまりにも激しい雨で何時交通止めになるか分かりません。行けませんでした。東京に帰ってみると、一層残念に思います。
それで先週から少し落ち込んでいたのです。しかしこうして7枚のゴッホの絵を眺めていると元気な気分になります。
個人的なことを書いて失礼しました。
皆様はゴッホの絵を見るとどのような感想をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====Vincent van Gogh(1853-90年)=============
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htmより。
オランダのプロテスタントの牧師の息子であった。ゴッホ自身も信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことアカデミックなことを勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの副音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする、あまりにも行き過ぎた熱意のため解任。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい、というゴッホは、幹部と決裂し、ハーグ出て画家を目指すことになる。
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であった。
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猪苗代湖の美しさを見た石器時代、縄文時代、古墳時代の人々

2017年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
先週に会津の猪苗代湖を訪れました。
会津といえば多くの人は維新戦争の時の会津の鶴ケ城の落城と少年の白虎隊の自刃の悲劇を思い出します。兵士のほか多くの女性、子供の命も失われました。観光客は再建された美しい会津城と白虎隊のお墓に行きます。
しかし今日は猪苗代湖や会津地方のもう一つの姿をご紹介したいと思います。

1番目の写真は冬の猪苗代湖に群がる白鳥の姿です。後ろの山は火山の磐梯山です。
(写真の出典は、http://rabbit191.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26です。)

2番目の写真は夏の猪苗代湖です。ヨットの写真です。出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。

3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.htmlです。
個人的な思い出の深いヨットの係留風景です。今は亡き星野君もここにヨットを係留していました。
星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。
それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。
そして「花春カップ」というクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていて、今回の旅の宿で、花春の「庄助の酒」をゆっくり飲みました。
彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具もついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。
レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。
遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。
残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。
花春カップの後は福島の彼の家に寄り、奥様や息子さん達と一緒に夕食をご馳走になったこともあります。
それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。
彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。
かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱バッグの中から出てきたのはよく冷えたシャンパン3本でした。その上冷えたシャンパングラスも、人数分の7個も出て来たのです。高級なシャンパンです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。
こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンパンを担いでやって来るのです。その星野君は2011年の9月に病で亡くなりました。私のヨットには彼が預けていた白いデッキシューズだけが残りました。
それはそれとして、この美しい猪苗代湖を石器時代、縄文時代、古墳時代の人々も見て感動していたに違いありません。

4番目の写真は西会津から出土した縄文土器の写真です。出典は、http://inaka-pipe.net/20160706/ です。

5番目の写真は杵ガ森前方後円墳です。左側に前方部があったのですが、削られて消滅しているののが残念です。
会津盆地には 4世紀後半に作られた古墳が多数あります。その最大のものは全長114mの前方後円墳です。 JR会津若松駅から東へ約1キロメートルのところにあります。 その上、大変珍しい三角縁神獣鏡も古墳から出て来ました。このことから、当時の大和朝廷の勢力を後ろだてとした豪族が会津にも存在し、死後に巨大な墓が作られたものと考えられます。
古墳の写真と文章は「越後と会津の古墳群」http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/minamitouhoku-1b.html からの引用です。
さて会津地方の古代の歴史を簡単に紹介しておきます。
出典は、https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/rekishi/rekishi_01.htm です。
1万年以上前に打製の石器を用いる人々が住んでいました。(大沼郡会津高田町・耶麻郡高郷村 塩坪遺跡)
塩坪遺跡から出土した石器は福島県でも代表的な旧石器時代 の遺跡で、今から15,000~14,000年前のものと考えられています。この遺跡は、見晴らしがよく水の便も 良い阿賀川の河岸段丘の上にあり、直径10mほどの範囲から約2,000点の資料が発見されています。
当時の人々は、土器を作ることを知らず、打ち欠いただけの石器を用いて狩りや動物の解体を行っていたと考えられています。
そして縄文時代(7,000年前ごろから2,500年前頃)になると磨製石器や縄文式土器が使用され始めます。
はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れます。人々はたて穴住居に住み、狩りや漁などをして暮していたのです。(耶麻郡塩川町常世・耶麻郡  高郷村夏井など)
時代が下り弥生時代の2,000年ぐらい前になると弥生式土器が使われ、稲作が行われるようになりました。
やがて鉄器も使い、湖周辺の低地にも住むようになります。貧富の差や階級が出始めた様子です。
それが大和(古墳)時代になると4世紀末頃から会津にも大和朝廷の支配をうけた豪族が現れ、大塚山古墳(会津若松市)や亀ヶ森古墳(会津坂下町)が築かれたのです。
「古事記」に記された四道将軍の記事に「相津(アイヅ)」の伝説があり、後に「会津」の地名になります。
その後の5世紀から6世紀には会津各地に古墳が作られます。
特に大塚山古墳 は最大で全長114mの前方後円墳です。
以上のように会津盆地は旧石器時代から人が住み着き、とくに猪苗代湖周辺は稲作が盛んだったようです。
そのお陰で平安時代から豪族の館があり、それが戦国時代の城になり、やがて秀吉の家臣の蒲生氏郷が城主になり現在見られるような大きな規模の会津城を作ったのです。
今回の会津への旅でいろいろ考えたことを書いてみました。長くなってしまってご免なさい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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平和の祈りと全世界に展開する多数の米軍基地の現実

2017年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
多くの日本人は戦争の悲惨さを知っています。そして毎年、8月になると広島や長崎の原爆の犠牲者の慰霊祭が行われます。
そして8月15日には東京の武道館で天皇陛下、皇后陛下もご出席し、300万余の犠牲者の慰霊祭を行います。
このように全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく終わろうとしています。
そこで今日はある方から私のブログの記事へ対して頂いた平和への想いをご紹介し、続いて世界にある米軍基地の現実を考えて見たいと思います。
次のコメントは8月20日掲載の「沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価」という記事に対して恵須さん から頂いた「8月、平和への想い」と題した一文です。
 ===「8月、平和への想い」========================
いつも日記読ませていただいております。浅学な私には分からないことも時々ありますが。すぐに反応ができないこと、毎度のことながらお許しください。今回は特攻隊のこと、そして皆さんのコメントを読んで、私の平和への思いをちょっとは書きたくなりました。
軍部の過ちだったとしか思えない戦争の中で失われた、特攻隊の若い命、信じられないような悪条件の中での絶望的な戦いの果てに消えていった兵士達の命、そして空襲や原爆で失われた無抵抗の国民の命。ともすれば戦績、勇気を讃えることから、過去の戦争を讃えるような風潮がありますが(後藤さんもそこを懸念されておられると思いますが)、失われた幾多の命をもっと悲しみ、そこから学ぶことが私達に課されたことだと思います。人間は戦争の歴史から何を学んだのでしょう。戦争には双方の主張があるのだから善し悪しを簡単にいうべきではないという意見は分かるのですが、国際問題の解決に戦争という手段を使わないということを、世界中が、誓って決めるほかはないと私は思います。
どんどん新兵器を開発してそれが戦争の抑止力になるなどとんでもないことです。大国は、自分のところだけ脅すための(抑止力という言葉で飾って)武器を持って、他の国(自分のところと同盟関係にない国)にはそれを保有することを許さないということを誰もおかしいと思わないのでしょうか?そんな非現実的不戦を唱えて攻めてくる国があったらどうするのだという声がすぐに聞こえてくるようです。
確かに、それがあるから各国の軍備の拡大が止まらない訳ですから。でも、そんなことを繰り返していたら、将来どの国も国家予算の大部分が軍備費用になってしまうのではないのでしょうか?その挙句に国を失い、地球を壊してしまうでしょう。そしていつの世も犠牲になるのは国民です。国民全員が戦争に反対しても国は戦争をするでしょうか?私達は家族や自分を守るために不戦の意思を勇気をもって叫び、祈り続けなければならないと思います。
==================================
この上のような想いは多くの人々が共通して持っていると思います。
8月には日本各地で世界に平和が来ますようにと祈りました。
しかし何故この青く美しい地球に真の平和が来ないのでしょうか?
その原因はいろいろでしょうが、今日は全世界に展開している米軍基地の現実を考えてみます。

1番目の写真は全世界に展開している多数の米軍基地の分布図です。出典は、http://manaoki.seesaa.net/article/388804731.html です。
地図の赤いバルーンは米国領内で、赤いピンは100以上の基地(施設)がある国、黄色のピンは10-99の国で日本も該当しています。そして緑は1-9の基地(施設)がある国々を表しています。基地の定義と数え方が曖昧なので数字は大体の数とご理解下さい。
これを見ると米軍があたかも全世界を占領しているように見えます。1990年頃のソ連の崩壊で米軍基地が昔の共産圏まで広がっているようです。
その米軍の規模は144万人で先端技術に支えられた最新鋭の装備を誇っているのです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D をご覧下さい。
概略を抜粋すると以下のようにまります。

2008年の統計です。現役軍人数:144万人、予備役 149万人で順位は世界第一位だそうです。
そしてアメリカ軍の管轄地域は次のように全世界を覆っているのです。
管轄地域別の一覧;
アメリカ北方軍(USNORTHCOM)- 北米担当
アメリカ中央軍(USCENTCOM)- 中東担当
アメリカアフリカ軍(USAFRICOM)- アフリカ担当
アメリカ欧州軍(USEUCOM)- 欧州担当
アメリカ太平洋軍(USPACOM)- アジア・太平洋地域担当
アメリカ南方軍(USSOUTHCOM)- 中南米担当

その上、機能別でも組織化されています。
アメリカ特殊作戦軍(USSOCOM)- 特殊作戦担当
アメリカ戦略軍(USSTRATCOM)- 核兵器と宇宙軍とサイバー軍を統括
アメリカ輸送軍(USTRANSCOM)- 戦略輸送を担当

以上のようにアメリカ軍の規模は非常に大きく、そして全世界を管轄しているのです。
その上、最新鋭の装備も持っているのです。写真にその一部を示します。







これらの写真のような先端的な装備を持っているアメリカ軍が世界に展開して駐留しているのです。
以下に一例として中東地域での駐留国の様子を示します。数字は2007年の統計です。

アメリカ中央軍(USCENTCOM)
アフガニスタン〔10,107人〕
(アフガン攻撃から継続。最盛期は約2万人。2006年にNATOに指揮権が移譲
クウェート〔7,097人〕イスタンブール協力イニシアティブ
 イラク〔6,137人〕:パートナーシップ協定
イラク戦争により駐留。最盛期には15万人以上が配置されたが、終戦により大半が撤収した。
バーレーン〔5,894人〕

海軍の第5艦隊が駐留。
カタール〔1,064人〕
中央軍の現地司令部が置かれている。
ヨルダン〔1,834人〕
アラブ首長国連邦〔888人〕
 エジプト〔308人〕
サウジアラビア〔438人〕 、湾岸戦争前後は数十万まで増加したが、現在、主要部隊は周辺湾岸国へ移転。
シリア〔1,103人〕
 パキスタン〔103人〕
レバノン〔96人〕
キルギス〔64人〕:海兵隊
 オマーン〔25人〕:マシーラ空軍基地、スムライト空軍基地に駐留、海兵隊
イスラエル〔28人〕:相互防衛援助協定、主要戦略的パートナー

全世界の人々が真に平和を祈っても地球上を覆う米軍基地があるというのが現実です。
この悲しい現実がある限り戦争が起きる可能性が常にあると考えざるを得ません。
このような現実の中で平和を保つためにはアメリカに根気よく外交的な働きかけを続け可能な限り戦争の実行を避けるようにしなければなりません。それは困難な道です。中国の政策も研究して、中国の動きも考慮に入れるべきです。
日本の平和、そして世界の平和を少しでも実現するためには強く、強く平和の祈りをすることが非常に大事です。
それと同時に国際友好を築くためのあらゆる努力をすることも重要です。そして世界平和を実現するための賢い外交努力も必要です。

もう間もなく平和を祈る8月も終わろうとしています。

今日は皆様とご一緒に、「世界に真の平和が来ますように!」とお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)
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「教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良い」

2017年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。少しだけ宗教に関することを書きます。
日本人の多くはキリスト教のことを知っています。そしてその考え方に何となく影響を受けています。例えば、「人はパンのみで生きてはいけない」という言葉を知っています。
美味しいものを食べることばかり考えないで、もっと精神的なものを求めなさいという意味に解釈しているようです。解釈は自由で良いのです。
しかし教会でこの言葉の説明を聞くと、「人はパンのみで生きてはいけない。神の言葉で生きよ」という教えだと言います。
このように教会に行くといろいろと面白いことが聞けるのです。
そして私は次のような理由で教会に行きます。
(1)教会に行かないと本当のイエスの教えが理解できない。
(2)教会に行くと神やイエスさまが私を愛して下さっていることが確信出来る。
(3)神の存在を信じたり、信じなかったりする私の心が少しだけ「信じる」方向に傾く。
(4)いろいろな結果として教会に行くことが楽しくなる。日曜日はドライブして遊ぶより楽しくなるのです。
さて宗教は、どんな宗教でも本で読んだだけで理解は深まりません。本で勉強したのものは「教養としてのキリスト教」というもので、かなり皮相的な理解なのです。
どんな宗教でも宗教的訓練(Religious Training)や修行が絶対に必要だと、私個人は考えています。
佛教には不立文字という言葉があります。お釈迦様の悟りの境地は文字では説明出来ないという意味です。
修行や座禅をして始めてその境地が理解できるのです。私はこのことを信じています。
キリスト教での修行は毎週ミサに出ることです。ミサの中で座禅のように静かに祈ることです。
これを毎週実行するとイエスの教えが体験的に理解できるのです。
私は1969年にドイツのローテンブルグに3ケ月滞在している間に、若いインド人のフェルナンデス君と毎週カトリックの教会に行きました。まだ洗礼前でも、知らずに、イエスの体のパンを神父さんから貰って食べていました。その時、私の「教養としてのキリスト教」はいかに皮相的な理解だったかを思い知ったのです。そこでいずれ帰国したらカトリックの洗礼を受ける決心をしたのです。
ですから現在でも教会に行くことは宗教的訓練だと思っています。それは楽しい訓練なのです。
楽しい修行なのです。何故楽しいのでしょうか?その訓練をしているとイエスさまを身近に感じます。
神が愛していてくれると感じるのです。
教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良いのです。それはまったく個人の自由です。
しかし教会に行くと、何故か修道院の存在理由が分かるような気がするのです。仏教の修行の重要性が分かるような気がします。
それだけの話です。

今日の挿し絵代わりの写真は天草の崎津集落の風景写真です。出典は、https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/sakitsu/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





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鶴ケ城落城、白虎隊の悲劇の会津若松を旅して

2017年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
8月24日と25日に猪苗代湖と会津城へ旅をしました。
猪苗代湖は35年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレース3回参加した思い出があります。
そして会津城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。
戦国時代に会津城主になったのは秀吉の家臣の蒲生氏郷でした。氏郷は茶人でした。
それで会津城の天守閣の下に千利休の子、少庵が建てたと言われる茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。
そこで家内と抹茶を楽しみました。
そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。そこでも優雅な年配のご婦人の点前で抹茶を楽しみました。
会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。
大政奉還が行われた際、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。
今回の旅の目的は3つありました。
猪苗代湖で一緒にヨットを楽しんだ、今は亡き友人を偲ぶ旅です。冥福を祈る旅です。
家内とともに会津城の天守閣の下にある茶室、 麟閣と御薬園の中の茶室で抹茶を楽しむ旅です。
白虎隊の少年17人の冥福を祈る旅です。
このようにはっきりした目的で遠路はるばる車で行きました。
しかし天気が悪過ぎました。最初の日はかろうじて湖岸を丁寧にめぐりながら、今は亡き友人を偲び、冥福を祈ることが出来ました。
しかし2日目の朝からドシャ降りの雨です。城の周りを5回もまわりましたが雨が激し過ぎて車を降りられません。
御薬園も入り口の門の写真を撮っただけです。
白虎隊の墓の下に行きましたが豪雨のために墓のある」場所まで登れませんでした。
そこで帰宅してからいろいろ検索して美しい写真を探しました。その写真を示しますのでお楽しみ下さい。

1番目の写真は猪苗代湖の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

2番目の写真は会津城の天守閣の写真です。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。

3番目の写真は茶室、麟閣の写真です。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。

4番目の写真は御薬園の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
5番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。

それにしても会津若松市の傍には磐梯山もありますし、美しい保原湖もあります。
もう一度、秋晴れになったら行ってみたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E

中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
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「曇り日の猪苗代湖へ旅して来ました」

2017年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
天気が悪いのも風情があるかと思い猪苗代湖と会津若松に旅して来ました。でも2日目は雨がひどく降り、風情どころではありませんでした。
昨夜は会津若松市の東山温泉に泊まりました。
走行距離は往復で680Kmでした。
猪苗代湖の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。








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「郷土史趣味の面白さと、朝鮮からの王族の移住地の発見」

2017年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
若い人でも歴史が好きで趣味にしている人も多いようです。
そして老境にいたると自分の住んでいる町や村の歴史に強い興味を持つ人が増えて来ます。
いわゆる郷土史をあれやこれやと調べて自分の解釈も加えて一つの郷土史を作り上げます。
その過程が大変面白いのです。ですから一つの趣味となって何年も続きます。
私が郷土史を趣味にしてからもう20年以上になっています。
そこで今日は郷土史を趣味にするための注意点や幾つかのルールを書いてみたいと思います。
皆様ご存知のようにスポーツには毎日の訓練が重要です。
まず郷土史を趣味にするためには「歴史的思考訓練」が一番重要になります。
そうすれば郷土史趣味の世界が急に広がり老境の生活が一段と楽しくなるのです。
それでは歴史的訓練法とはどういうものでしょうか?
訓練方法の第一歩は歴史的なことが書いてある本を多数読むことから始めます。
そのとき重要な事が一つあります。
ただ漫然と興味本位に読み飛ばすのではなく、自分自身で問題や疑問を持って読むのです。
ここに書いてある歴史は真実か?何故こんな事が起きたのか?歴史は書く人の立場によって逆の書き方がなるのではないか?事実を美化しすぎていないか?他の文書にも同じことが書いてあるか?
こんな問題意識を持って本を読むことが歴史的思考訓練なのです。
問題意識を持って読めば、自然に自分の歴史解釈が生まれて来ます。
そうすればそれが正しいか否かを調べはじめます。そこまで進めばそれは立派な、そして愉快な趣味へとなります。暇な老境が急に楽しくなるのです。
実例として、ささやかな私の歴史趣味をご紹介します。
何年も前に埼玉県の秩父へドライブへ行ったことがあります。道に迷って日高市の郊外をウロウロしていたら一番目の写真のような異国的な魔除けの2本の門柱を偶然見つけました。

1番目の写真が異国的な魔除けの2本の門柱の写真です。
歴史的思考訓練のお陰で、ピンと来ました。ウン、これは昔、この地方が朝鮮と交流があった証拠と感じたのです。
日をあらためて再度、調査の為に訪問しました。
そうしたら朝鮮半島の高句麗が新羅と唐によって滅ぼされたとき日本へ亡命してきた王族と家来たちが埼玉県西部に住みついた事が分かったのです。
勝手に住みつく訳には行きませんから当時の天皇から「高麗王」という称号を貰って武蔵国の領地を分譲してもらい移住したのです。
再度、現地調査に行ったら2番目の写真のように、その「高麗王」の廟所が現在でも存在していたのです。これには吃驚してしまいました。

2番目の写真はこの「高麗王」の廟所の写真です。
この「高麗王」の廟所の歴史的いきさつは3番目の写真にある看板に書いてあります。

3番目の写真は「高麗王」の廟所が出来たいきさつを書いた説明板です。
実は郷土史で重要なことは現地の看板や説明板を丁寧に探し歩くことです。それらには本には書いていない驚くべき歴史が書いてあるのです。
そして現地の人に聞くことも重要です。この看板の上には聖天院という仏教のお寺がありました。丁度草取りをしていた住職と奥さんから少しだけ話を聞き古い朝鮮人の子孫が神主をしている神社も訪ねなさいと教わりました。
行ってみるとその神社の神主は代々、現在に至るまで朝鮮から移住してきた高麗王の子孫だったのです。
これが歴史趣味の実例です。しかし、この趣味の面白さはその先にあります。自分で見つけた看板の説明は本当に正しいのでしょうか?
そして自分でいろいろな仮説を立てて楽しむ事にあります。
当時の天皇から立派な称号や領地を貰うために何をしたのでしょうか?持参した金銀や宝石を出したのでしょうか?
それだけでは充分ではない筈です。もっと重要なおみやげは「先進的な農業技術」や「金属の精錬技術」の提供だったと想像しています。
高麗王の家来の中に優れた農業や工業の技術者が居たと推定することは無理の無い合理的なことです。
この仮説を調べて行くと大和朝廷が朝鮮からいろいろな先進技術を学んだ様子が分かってくるのです。
上に書いたことは少し精密さに欠けますが、歴史的ものの見方の一つの例です。素人の郷土史なのでお許し下さい。
ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」とヨット係留に反対の漁村文化

2017年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
白崎謙太郎著の「小網代ヨット史」には戦後の日本の外洋ヨットの歴史が克明に書いてあります。この本を要約すると次のような項目になります。
(1)イギリス海軍退役中佐のA.A.マッケンジーが外洋ヨットの取り扱い方や外洋ヨットレースのルールなどを教えてくれた戦後黎明期の歴史が精確に書いてある。
(2)渡辺修治、福永昭などが小網代湾でヨットクラブ、「小網代フリート」を結成し、それが現在の「小網代ヨットクラブ」に発展した歴史が客観的に描いてある。
(3)日本の伝統的漁村文化を背負った漁師たちと根気よく話し合い、円満にヨット用係留地と倶楽部ハウスを作った経緯が詳しく書いてある。
(4)外洋ヨットの係留方法や外洋でのレースの爽快さが余すところ活き活きと書いてある。

私はこの本を手に取っていろいろな感想が熱く胸に湧き上がってきました。
嗚呼、自分の25年間のヨットの趣味は何と軟弱な趣味だったのだろうか!休日の朝、岸壁に係留してあるヨットに家内と乗り、沖を帆走して風が強くなった来たら港に逃げ帰るという軟弱な趣味だったのです。
そして日本の伝統的な漁村の頑なな排他性に心が暗くなったのです。
その他、いろいろな感慨が去就しました。

今日は(3)の日本の伝統的漁村文化について少し書いてみようと思います。
三浦半島の先端の小網代湾に1952年に初めて外洋ヨットを係留したのはイギリス海軍退役中佐のA.A.マッケンジー氏でした。
この本の著者はこの小網代湾に50年も外洋ヨットを係留し、小網代ヨットクラブの主要なメンバーとして外洋ヨットのレースで活躍してきたのです。
戦後のヨットを設計した一人は旧海軍の潜水艦士官だった渡辺修治さんでした。この渡辺修治さんのことは以前この欄でご紹介しましたのご記憶の方もいらっしゃると存じます。
さて、日本の伝統的漁村文化ですが、それは漁村はその沿岸の海を所有していて、他人は絶対に入れないという排他的性質を持っているのです。それは日本の縄文時代から続く生存のための知恵なのです。海の貝や海藻や魚は地元の漁師の所有物だという伝統的な考え方です。
その漁村の鼻の先にヨットを係留すれば漁師は怒ります。ヨット乗りの人々は決して魚貝を取らないのですが、漁業の邪魔になると言って高額なお金を要求します。その上、ヨットは漁船と見かけがあまりにも違います。その姿は目障りです。
そこで小網代湾のヨットを係留しはじめた第一世代のヨットから「漁業協力金」と称して場所代を小網代漁業組合に支払ってきたのです。
その金額は経済の高度成長に従って次第に非常に増額されてきたのです。
元来、漁港の管理は農水省の依頼で県庁の港湾局の漁港管理の部門が担当します。
この農水省も県庁も漁民の伝統文化を保護しようとします。末尾の参考資料をご覧下さい。

小網代湾に多数の外洋ヨットを整然と係留するためには1955年以来、漁協との話し合いがなされて来たのです。
そして円満に話し合いがつき、最終的に2006年6月に小網代湾の漁協敷地に「小網代ヨットクラブ」のクラブハウスが完成したのです。

1番目の写真はその漁協の事務所の後にクラブが建てたクラブハウスを海側から撮った写真です。この写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/breeze_of_miyagawa_cove/56097464.html です。

2番目の写真は倶楽部ハウスの入り口に「みうら漁業組合小網代支所」も兼ねているとい看板の写真です。この写真と3番目の写真の出典は、http://tmkzogw.moe-nifty.com/walking/2013/01/post-0b23.htmlです。

3番目の写真は現在の小網代ヨットクラブの係留風景の写真です。

4番目と5番目の写真は
帆走するヨットの写真です。出典は、http://www.geocities.jp/sagamiwan_yacht/111016syc/newpage2.html です。

さて小網代湾では外洋ヨットの停泊に成功しましたが、この成功の原因で重要なことは「小網代ヨットクラブ」の会員が一致団結して歴代の会長が地元の漁協と実に根気よく丁寧な交渉を続けた来たことです。

それでは日本全国の漁港にヨットを係留出来るのでしょうか?その答えはそれぞれの地元の漁協の幹部と親しい絆があれば可能なのです。
詳しくは、末尾の参考資料の(3)現在の漁港の係留の実情、をご覧下さい。長くなったので今日はこれで止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料==============================

(1)『日本の漁業権制度-共同漁業権の入会権的性質』(法律文化社、2014年)
http://minka-japan.sakura.ne.jp/main/booktalk/tabira
沿岸地先水面の小規模漁業における漁業権を、伝統的漁業集落を基礎にする漁民集団が有するとき、その漁民集団は資源の保存と管理に積極的となり、漁民の漁業所得確保につながるので、有効な漁業管理がなされることになる。この漁業権は、わが国の漁業法における漁業協同組合等の、いわゆる組合管理漁業権(共同漁業権、特定区画漁業権および入漁権)として見事に具体化されている。わが国におけるこの漁民集団は、組合管理漁業権による漁業の漁業管理においてのみでなく、経営者免許(自営)漁業権(定置漁業権、一般の区画漁業権)による漁業や沖合の許可漁業の漁業管理においても、重要な役割を果たしている。これらのことが、共同漁業権を中心とする日本の漁業権制度の特徴であり、特長でもある。
 本書では、上述の漁民集団を漁業入会団体と呼んでいる。立法により漁業入会は共同漁業権等として構成され、共同漁業権等の権利主体は漁業協同組合等とされた。そのため、共同漁業権は入会権的性質をそなえている。
 漁民の人権としての財産権は、いわば生存権的財産権であり、その保障は、組合管理漁業権などの漁業権によって具体化されている。しかも、まさにこのような漁業権によって、沿岸漁場の総合的な利用を図れるのである。漁業権制度は合理的な規制であり、緩和されるべきではない。(N.T.)
田平紀男『日本の漁業権制度-共同漁業権の入会権的性質』(法律文化社、2014年)

(2)農林水産省から各県知事あての通達、
漁港における漁船以外の船舶の利用について;水産庁長官、http://www.maff.go.jp/j/kokuji_tuti/tuti/t0000514.html
最終改正:平成9年10月3日 9水港第3836号

都道府県知事あて

漁港は、漁業根拠地となる水域及び陸域並びに施設の総合体であり、通常は漁船の利用が一般船舶の利用を上回るものであるが、制度上は漁港本来の機能のほか、漁港の利用上又は漁港の保全上の規制等、多目的の利用も想定されていることからみても漁業根拠地以外の利用を全面的に排除しているものではない。
しかしながら、従来は、漁船の数に対して漁港の収容能力が不十分であり、漁船以外の船舶を受入れることが事実上困難な状況であったが、近年では数次にわたる漁港整備計画の実施により、漁港の収容能力が向上する一方、水産業をめぐる諸情勢の変化から地域によっては、漁業活動に支障のない範囲内で漁船以外の船舶を収容可能な漁港も見受けられるところである。
一方、近年都市近郊を中心にプレジャーボート等による漁港利用のニーズが増大しており、漁港本来の目的を阻害しないと判断される漁港においては、公共施設としてこれらのニーズに応えていく必要がある。
従って、漁港管理者は、これら漁船以外の船舶の漁港利用のニーズと漁港本来の目的に鑑み、プレジャーボート等による漁港利用を受入れていくに当たっては、これを漁業と海洋性レクリエーションとの調和ある発展及び活力ある漁村社会の創造に資するよう運用していくことが必要である。
これらを踏まえ、今後、プレジャーボート等の無秩序な放置・係留等を解消し、漁業との共存等を推進するため、以下の具体的な方策を確立し、漁業と海洋性レクリエーションとの漁港利用調整に積極的に対応することとする。

(3)現在の漁港の係留の実情、
現在漁港係留をしている者ですが、漁港次第では係留できるかもしれないとしか言えません。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2963513.html
係留する方法は各漁港それぞれに異なりますので管理自治体や漁協に確認しないと判りません。
気楽に確認しやすいのは、漁港に係留されているプレジャーボートの所有者に聞いてみることです。
(漁師さんはプレジャーボートを嫌ってる方が多いのでなかなか教えてもらえないと思います)
若しくは、漁協(ちょっと敷居が高いかな?)や市区町村役場で尋ねてみてください。
認識しておくべきことは、
 ・条件の良い漁港は係留可能であっても空きが無い。
 ・市区町村の広報で募集を行うときもあるが、応募者が非常に多い。
  (公開抽選でなければ当選は不可能・・・意味はわかりますよね?)
 ・市区町村が直接関与しない場合は、漁協の組合員の保証人が必要な場合が多い。
正直に言って、係留したい漁港の管理者・漁協・漁協の組合員等に知り合いがいるとかでなければ、なかなか難しいです。
しかし、小さい寂れた漁港であれば漁師さんの高齢化で船が減っているため係留スペースは有ると思います。
大きな漁港と比較しても人情味があるので受け入れてくれる可能性は高いです。
【重要なこと】
仮に係留できたとしても、漁港では台風等の対策は全て自己責任です。
マリーナのような対応をしてくれる人はいません。
漁港の設備は組合員以外は通常使えません。
上架用の施設や給油も利用できないことが多いです。
船底塗装はビーチングで、給油はポリタンクを運んでということになります(船外機は金属製タンクですかね)。
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トランプ大統領はやはり白人主義者!しかし閣僚が支えている

2017年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領が最近、白人主義のKKK結社を擁護するような発言をして、アメリカ各界の激しい非難を浴びました。経済界の代表で構成した経済政策諮問会が解散したのです。今後、経済界の支援が受けにくくなったのです。
この動きはアメリカの社会を大統領みずからが分断することになり、アメリカ社会の混迷は深まるばかりです。
アメリカは1960年代にキング牧師の公民権運動で黒人差別を撤廃し、社会の正義を貫きました。その後も学校や会社での黒人差別の撤廃に血の滲むような努力をして来たのです。アメリカはあらゆる実生活の場面でやっと黒人差別を無くすことに成功したのです。そしてその集大成が黒人のオバマ大統領の誕生だったのです。
これでアメリカ人は世界中に対して自国の社会の理想と正義を誇れるようになったのです。
しかしトランプ大統領は、この理想的なアメリカ社会を分断し、理想を捨て去るような行為をしたのです。
マスコミ界はますます大統領非難を強めています。
この各界の非難をかわすために大統領は8月18日に、スティーブン・バノン首席戦略官兼上級顧問を辞めさせました。バノン氏は「反移民」「保護貿易」「米国優先」等の主唱者だったのです。これでケリー大統領首席補佐官を軸に路線転換が進むと予想されています。
このようにアメリカの中枢部は安定していませんが、アメリカの外交攻勢と世界への軍事力の展開は、オバマ政権の時代より強化されています。
オバマ政権時代の弱腰外交と消極的な軍事展開のおかげで中国が南シナ海に軍事基地を作ったり、北朝鮮が核弾頭長距離ミサイルを開発出来たという主張が度々なされています。
本来、アメリカ大統領は外交と軍事力展開には権力があります。しかし予算の編成権は議会にあります。
ですから予算の伴うメキシコ国境での壁の建設は一向に進みません。予算を必要とする公約は実行出来ないのです。
以上のような大統領の差別主義とマスコミ界との対立からトランプ大統領は辞任するのではないかという噂も新聞に出ています。
しかし私はトランプ大統領政権は非常に優秀な人材を集めているので、簡単には崩壊しないと考えています。
マスコミは大統領の極端なネットへの書き込みや人種差別的な発言を大げさに騒ぎ立てますが、閣僚はそれぞれの分担の仕事を静かに推進しているに違いありまん。
それではトランプ政権の閣僚の顔触れはどのようになっているでしょう?
http://www.johoseiri.net/entry/2016/12/13/070000 の情報を抜粋して下に示します。
1)インナーサークル(トランプ側近と身内):ペンス副大統領やクシュナー上級顧問等
2)軍人・強硬派:マクマスター補佐官、マティス国防長官、ケリー国土安全保障長官、セッションズ司法長官等
3)実業家:ムニューチン財務長官、ロス商務長官、コーン国家経済会議委員長等
4)論功行賞と女性:カーソン住宅都市開発長官、ヘイリー国連大使、デボス教育長官等
5) トランプ氏の意図が見える人事としては、通商強硬路線を取るライトハイザーUSTR長官やCO2規制の反対論者(プルイット環境保護局長官)、オバマケア反対論者(プライス厚生長官)等の閣僚入りが挙げられます。

6)大使人事では、親イスラエル派のフリードマン氏(弁護士)やウィリアム・ハガティ氏(民間コンサル会社在籍時に3年間東京に在住の知日派)、テリー・ブランスタッド氏(元アイオワ州知事/習主席の「長年の友人」)等、駐在国寄りのスタンスをもった人材が指名されました(テリー氏は緩衝役とみられる)。

以上を見やすく一覧表にしますと次のようになります。
副大統領:マイク・ペンス氏:(元インディアナ州知事)
大統領首席補佐官:ジョン・ケリー氏(元米南方軍前司令官・元海兵隊大将)
大統領上級顧問:ジャレッド・クシュナー(実業家、トランプ氏娘婿)
国家安全保障担当大統領補佐官:ハーバード・マクマスター氏(元陸軍中将)
大統領補佐官兼国家経済会議議長:ゲーリー・コーン氏(元ゴールドマンサックス社長兼COO)
米通商代表部(USTR)代表:ロバート・ライトハイザー氏(元USTR次席代表)
通商製造政策局長:ピーター・ナバロ氏(元カリフォルニア大教授)
国務長官:レックス・ティラーソン氏(元エクソン・モービル会長兼CEO)
国防長官:ジェームズ・マティス氏(元中央軍司令官)
中央情報局(CIA)長官:マイク・ポンペオ氏(元共和党下院議員)
国家情報長官:ダン・コーツ氏(前上院議員)
司法長官:ジェフ・セッションズ氏(元共和党上院議員)
財務長官:スティーブン・ムニューチン氏(元ゴールドマンサックス幹部)
商務長官:ウィルバー・ロス氏(元「WLロス&カンパニー」会長)
国連大使ニッキー・ヘイリー氏(元サウスカロライナ州知事)
運輸長官:イレイン・チャオ氏(元労働長官)
内務長官:ライアン・ジンキ(元共和党下院議員)
環境保護局長官:スコット・プルイット氏(元オクラホマ州司法長官)
エネルギー長官:リック・ペリー氏(元テキサス州知事)
保健福祉長官:トム・プライス氏(元共和党下院議員)
住宅都市開発長官:ベン・カーソン氏(元神経外科医)
中小企業庁長官:リンダ・マクマホン氏(プロレス団体WWE創設者)
労働長官:アレクサンダー・アコスタ氏(元フロリダ国際大学法科大学院長)
教育長官:ベッツィ・デボス氏(慈善活動家)
農務長官:ソニー・パーデュー氏(前ジョージア州知事)

上の一覧表を見ると優秀な軍人の将官や州知事経験者、実業家の成功者たちが目立ちます。
確かに従来の政界での大物政治家はいません。
しかしアメリカの各界の成功者の特徴は、柔軟な思考力と独創性を持っていることです。
従って私はトランプ大統領の政権は安定して大国アメリカを管理、運営して行くと考えています。
今後もトランプ大統領は数々の物議をかもすような書き込みをネット上にするでしょうが、日本のマスコミはもっともっと閣僚たちの活動に関する報道をしてもらいたいと願っています。

今日の挿し絵代わりの写真は「KITAHOのデジカメ散歩」、http://kitaho321.blog25.fc2.com/page-1.html からお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は、ホトトギスの一種です。

2番目の写真は、ヤブランです。

3番目の写真は、ナツズイセンです。

4番目の写真は、ツリガネニンkジンです。

5番目の写真は、レンゲショウマです。
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701年以来の律令国家の地図を楽しむ、あなたの住んでいる国は?

2017年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
律令国家を学校で習ったことを憶えていらっしゃいますか?
律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したと考えられています。
この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通です。
この令制国のそれぞれの地方の名前は明治維新までの1166年間(1867年から701年を引いた年数)日本人が使って来た名前なのです。
今日はこの長い間、日本人が馴れ親しんで来た律令国家、すなはち「令制国」の全国地図を見て楽しみたいと思います。

1番目の写真は全国の律令国家の地図です。出典は、https://www.sekainorekisi.com/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA です。
この地図こそ奈良時代から明治初期まで、1166年間も日本の地理的区分の基本的な地図だったのです。
現在の日本地図は明治維新の廃藩置県のよる新しい1都1道、2府、43県に分かれた地図になっています。
しかし江戸時代以前の歴史を少しでも考える場合には律令国の名前と場所を考える必要があるのです。それだけではありません。現在の日本の地方文化の中にも生きた言葉としてよく使われているのです。
皆様は阿波踊りや讃岐ウドンという言葉をご存知でしょう。美濃紙や越後米、丹波栗なども。出羽三山という山々や飛騨山脈もあります。伊予ミカンや伊賀忍者という名前もあります。武蔵野や相模原などの地名もあります。古来の江戸掘り方法に上総(かずさ)掘りというものもあります。
このように1100年以上も続いた律令国家の名前とそれぞれの地方の特徴は現在の日本でも大変重要なのです。
皆様が現在住んでいらっしゃる場所は律令国家の名前で言うと何という所なのでしょう?
その首都の国府や役所(国衙)は何処にあるのでしょうか? その国府や国衙(こくが)跡をご覧になったことがありますでしょうか?
そんなことを考えていると、自分が「いにしえの世界」に帰って遊んでいるような気分になります。
そこで私の住んでいる場所をご紹介したいと思います。
ここは武蔵国です。奈良や京都から東山道(中山道)を東に歩き、現在の埼玉県で脇道の武蔵路に曲がり、南下した所に現在の東京都府中市に武蔵国の国府と国衙があったのです。
一昨日、この府中市の国衙跡の再現展示物の写真を撮ってきたので、その写真でご説明いたします。

2番目の写真は府中市の国衙の再現展示物の説明板の写真です。広さ、200mX300mの広場に太い柱を持った立派な役所の建物(国衙)があったと説明してあります。場所は現在の大國魂神社の境内に隣接した東側です。

3番目の写真は発掘された多数の柱と基礎工事跡を復元し展示したもの写真です。

4番目の写真は発見された柱を立てた展示物です。後ろの林は現在の大國魂神社の境内になっています。

5番目の写真は立った柱とその後ろにある発掘品の展示館の写真です。柱は朽ちてしまっていたので高さが分かりません。しかしその太さと本数から相当大きな役所の建物があったことが推定されています。

6番目の写真は国衙に隣接した大國魂神社の中門と拝殿の屋根の写真です。

7番目の写真は拝殿の写真です。全く余談ながら、ここで孫の七五三のお祝いをしました。
なお国衙からの出土品は、大部分、府中郷土の森博物館に展示されちます。

大國魂神社の写真を示したのはこの神社が古墳時代から南関東地方の重要な神社だったからです。府中市には大熊神社古墳もあり古代から重要な集落だったのです。その理由で大和朝廷がここに国府を置き、国衙を建てたのです。そして国分寺や国分尼寺も作ったのです。
江戸時代も甲州街道の重要な宿場として繁栄していた所だったのです。
ところが明治時代に鉄道の中央線が府中を通らなかったので往時の隆盛ぶりが消えたのです。
少し長くなったので今日はここで止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=================================
令制国一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7


明治初期の令制国の配置
令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。

この一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。

五畿

畿内
1、山城国 やましろ(山州、城州、雍州)
2、大和国 やまと(和州)
3、河内国 かわち/かはち(河州)
4、和泉国 いずみ/いづみ(泉州)
5、摂津国 せっつ(摂州)

七道

1、東海道

伊賀国 いが(伊州)
伊勢国 いせ(勢州)
志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。
尾張国 おわり/をはり(尾州)
三河国 みかわ/みかは(三州、参州)
遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州)
駿河国 するが(駿州)
伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年に駿河国より分立。
甲斐国 かい/かひ(甲州)
相模国 さがみ(相州)
武蔵国 むさし(武州) - 771年、東山道から東海道に所属変更。
安房国 あわ/あは(房州、安州) - 718年に上総国より分立。741年に上総国に併合されるも757年再分立。
上総国 かずさ/かづさ(総州)
下総国 しもうさ/しもふさ(総州)
常陸国 ひたち(常州)

2、東山道

近江国 おうみ/あふみ(江州・近州)
美濃国 みの(濃州)
飛騨国 ひだ(飛州)
信濃国 しなの(信州)
諏方国 すわ/すは - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。
上野国 こうずけ/かうづけ(上州)
下野国 しもつけ(野州)
陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
石背国 いわせ/いはせ - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
石城国 いわき/いはき - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
出羽国 でわ/では(羽州;山形県、秋田県の一部) - 712年(和銅5年)に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。
陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前・陸中等を分割後の部分。
陸前国 りくぜん - 1869年に陸奥国より分立。
陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年に陸奥国より分立。
岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年に陸奥国より分立。
磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年に陸奥国より分立。
羽前国 うぜん - 1869年に出羽国より分立、現山形県に相当。
羽後国 うご - 1869年に出羽国より分立、現秋田県に相当。

3、北陸道

若狭国 わかさ(若州)
越前国 えちぜん/ゑちぜん(越州)
加賀国 かが(加州) - 823年に越前国より分立。
能登国 のと(能州) - 718年に越前国より分立。741年に越中国に併合されるも、757年に再分立。
越中国 えっちゅう/ゑつちゆう(越州)
越後国 えちご/ゑちご(越州)
佐渡国 さど(佐州、渡州) - 743年に越後国に併合されるも、752年に再分立。

4、山陰道

丹波国 たんば(丹州)
丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。
但馬国 たじま/たぢま(但州)
因幡国 いなば(因州)
伯耆国 ほうき/はうき(伯州)
出雲国 いずも/いづも(雲州)
石見国 いわみ/いはみ(石州)
隠岐国 おき(隠州)

5、山陽道

播磨国 はりま(播州)
美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。
備前国 びぜん(備州)
備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州)
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう/すはう(防州、周州)
長門国 ながと(長州)

6、南海道

紀伊国 きい(紀州)
淡路国 あわじ/あはぢ(淡州)
阿波国 あわ/あは(阿州)
讃岐国 さぬき(讃州)
伊予国 いよ(予州)
土佐国 とさ(土州)

7、西海道

筑前国 ちくぜん(筑州)
筑後国 ちくご(筑州)
豊前国 ぶぜん(豊州)
豊後国 ぶんご(豊州)
肥前国 ひぜん(肥州)
値嘉島 ちか - 876年に肥前国より分立。数年後に再編入。 現在の長崎県平戸島及び江島、平島を除く五島列島及び附属島嶼。
肥後国 ひご(肥州)
日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)
大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) - 713年に日向国より分立。
多禰国 たね - 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) - 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) - 古代は「壱岐嶋」[1][2]。
対馬国 つしま(対州) - 古代は「対馬嶋」または「対馬国」
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沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価

2017年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
『特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧』という記事を8月14日 に掲載しました。
その記事の中で、連合国側が受けた損害について、アーネスト・キング海軍元帥の次のような報告をご紹介しました。
「4月6日からはじまった沖縄沖での日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」
(出典は、 List of United States Navy losses in World War II、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_States_Navy_losses_in_World_War_II です。
日本語は、https://matome.naver.jp/odai/2144809749091311801 にあります。)
この沖縄戦での損害の数字は、マッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官と太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥の報告とほぼ同じなので正確な損害数と考えられます。
表題の大破した空母、駆逐艦などの数を404艦艇としているのは、アーネスト・キング海軍元帥の報告の中の沈没36隻と損傷368隻の合計を示した数字です。航空機の763機はアーネスト・キング海軍元帥の報告の中の数字をそのまま示したのです。

その上、日本軍の特攻は1944年10月のフィリピン沖で始まっていますので連合国側の特攻から受けた損害は上の数字より大きなものにまります。
特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。その損害の内訳は次の通りです。
(1)特攻で撃沈された艦船と廃艦、
撃沈・廃艦の総合計 護衛空母4隻 駆逐艦38隻 他28隻 合計70隻
(2)特攻で撃破された艦船
正規(含軽空母)空母20隻 護衛空母13隻 戦艦11隻 巡洋艦12隻 駆逐艦150隻 その他100隻以上 合計300隻以上(撃破の内108隻は戦闘行動が不可能になる深刻な損害)

一方、太平洋戦争中日米水上艦船がいたるところで激しい海上戦を展開しましたが、それで失われた米駆逐艦は16隻、また日独潜水艦が沈めた米駆逐艦15隻で合計31隻にすぎないところを見れば、たった10か月の特攻攻撃期間で駆逐艦38隻を沈めたのは特攻攻撃によるものだったのです。
また特攻で損傷した艦、300隻以上は沈みはしませんでしたが戦闘能力は無くなったのです。
日本軍は大戦中50000機の航空機を損失しましたが、その内のわずか2550機の5%程度の特攻機がこれだけの戦果を挙げたのです。
============================================
以上のように特攻攻撃は大きな戦果を挙げたのですが、占領軍GHQはこの事実の日本における報道を規制したのです。日本の軍国主義が復活する原因になりそうな全ての種類の情報を秘密にしたのです。そして日本人の自信を失わせるために「自虐史観」を教育したのです。
以上の趣旨の記事でした。
それに対して趣味人倶楽部で頂いたコメントは以下のようなものでした。
===趣味人倶楽部で頂いたコメント===========================
つーさんさん 2017年08月15日 21:42
素晴らしい分析だと思います。わたしも特攻はほとんど意味のないものだと考えていました。ほめられた作戦ではないですが、特攻に参加した戦士としてはありがたい評価ではないでしょうか。もっと、おおやけにして欲しいと思います。ただし、「特攻のような作戦は取るべきではない」という文言のもとにです。

MMさん 2017年08月15日 22:26
うーん。興味ある資料です。私も特攻というのは殆ど実質的な意味がない作戦だとばかり思っていました。本日NHKでインパール作戦の番組をやっていたので見てましたが、戦争は極力避けるべき手段です。ただ、戦争経験の年配者がとにかく戦争は嫌だという意見を聞くと、時々疑問は感じます。平和は結局自分だけが戦争をしないというだけでは達成されないのも事実だと感じています。
戦没者のご冥福をお祈り申し上げます。

きんときさん 2017年08月15日 10:25
そうだったんですか、彼等が無駄死にをしていなかったことが分かりました。
同年代の私、生きて、昔を偲んで居ますが、段々分かってくるにつれ、若い遺影が安らかに眠ってくれ、と祈るばかり。

リタさん 2017年08月15日 10:50
特攻に参加させられた若者たちのことを思うと本当に哀しくなります。こんな作戦を考え出した当時の軍部の狂気を改めて認識させられます
今回は特攻の戦果について語られていますが、その戦果が日本人の怖さ、狂気を米軍に実感させて本土決戦の困難さを思い起こさせたのではないか。その恐怖心が皮肉にも米軍の損害を減少させるために原爆投下に結び付いた一因ではないかとも思っています。
特攻で亡くなった方々にはつらい言い方ではありますが戦争というものはそういう狂気が狂気の連鎖を起こす残酷なものだと思います。
だからこそ彼らの死を無駄にしないためにも
現代の我々日本人は不戦の誓いを持ち続けなければならないと思います。

でいしゅうさん 2017年08月15日 10:07
2005年8月31日に知覧へ行きました。壁の写真で探すと、地元出身の特攻隊員もいました。童顔の隊員がほとんどでした。
城山三郎著の指揮官たちの特攻には「花びらのような幸福は、花びらよりも早く散り、枯れ枝の悲しみだけが永く残る」とあります。  
     おどけ顔写して逝きし雲の峰    蛍となりて帰らむ母のもと

===FaceBookで頂いたコメント===============
Moritoshi Hiramine
ありがとうございます。今、好戦的過ぎる発言に 世界の注目が 極東と 二人の 指導者 に注がれています。 この戦争は始めては、いけません! 祈るのみ!
8月15日 9:03

Moritoshi Hiramine 理路 と言うものは、そのような発言に 在るのだと考えて共鳴します! その うえで、 愛国精神で 特攻した青年のみたまには、礼と感謝を 捧げる 人々に 共鳴し、私も 実践します。
8月16日 19:59

矢野 信保
戦争というものは、どちらかがよほど一方的に理不尽にしかけたのでなければ、どちらが悪いと一方的に決めつけることは出来ません。前の戦争についても、一方的に日本だけの責任にするのは間違っています。しかし、戦争は、どちらも人間を獣にしてしまい、多くの犠牲なしではすみません。戦争にならない様に政府は最大限の努力をしなければなりませんが、一方あらゆる事態に備えて国民を守る方策をとる責任があります。災害に対してあらゆる備えをせず、そういうことは起こらないだろうから、備えをしない、というのは怠慢です。戦争に対しても同じことがいえます。私達は、その上で戦争にならないよう祈りたいと思います。
8月15日 12:34

高間 一平
自殺を罪と取る西洋の宗教 英雄とみなす東洋の宗教 この差が 今のテロにつながってその現実に出ています、亡くなられた方には失礼ですが 特攻とは自殺をとか書き換えれば 例え家族のため でも 馬鹿げた行動なのですね 家族も生きていてくれた方が良かったに違いない。戦争を美化する事自体が特攻になっていく、今の北朝鮮については 戦争にはならないでしょう、彼が隠れ始めているのは 戦争より 暗殺が唯一の平和対策だから 世界はそこに行くのを彼も知っているからでしょう、しかし 洗脳されてしまった 軍部が 特攻精神で 馬鹿をする可能性は十分あり得ることです。
8月15日 14:01

矢野 信保
一旦戦争が起きたら、国民として自分の国の為に戦争に出向くか、反対して刑務所に行くか、選ばねばなりません。戦争美化とか言う前に、特攻で出撃した人たちがどの様な思いで出撃されたか、遺された遺書をじっくり読んで考える時をもちたいと思います。
8月15日 21:07

高間 一平
戦争時の行動を美しくいうことも犯罪に近いと思っています 事実を正確に伝えてこそ 平和に貢献します
8月16日 6:42

浦野 明人
特攻隊でこの様な卑怯な指揮官もいたのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/.../q12106139537...
もっと見る
特攻隊指示者で戦後逃げて生き延びたのは誰?
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
8月16日 9:53

中村 正彦
昨日のN H K スペシャル でもインパール作戦を報道していましたが、人命軽視の参謀による強行的な行軍と 死ぬ事を目的とするその思想が多くの犠牲者を出した原因である事は明白です。
8月16日 17:30

その他、多数。
=========================================
以上のように特攻隊が連合国側に大きな損害を与えた事実を知らなかった日本人が多かったのです。
このような事実は正しい歴史的実として再度、掲載すべきと思い、ここに掲載します。
誤解の無いように書き加えておきます。特攻隊の与えた損害がどんなに大きくても、このような非人間的な攻撃方法は未来永劫に厳禁すべきです。


コメント (1)
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排他的な感じを与えている東京の教会の建てもの

2017年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
教会に関心はあるけれど入りづらいという話をよく聞きます。そして試しに入ってみるとミサや礼拝から、何か異様な雰囲気が感じられて困ったという話も聞きます。
京都にある神社仏閣のように拝観料を払って気軽に観光気分で行ければ良いのですがという意見も聞きます。
そこで2、3日前から東京にある教会の写真をあれこれ見てみました。
適当に選んで、それらの教会の写真を示します。
私もしげしげ写真を見ました。そうしたら確かに教会の建物は異国的な上に、排他的な印象を与えていると私も感じました。
そうですね。日曜日の朝に、教会に入って見物するためには少し勇気が必要ですね。
しかし平日は誰もいなくて出入り自由です。自由に入ってステンドグラスの美しさや聖画などを楽しめます。全世界のカトリック教会の扉には24時間、鍵がかかっていません。まったく出入り自由なのです。ですから平日は平気に入れます。でも日曜日の朝は少し勇気がいります。
ある日曜日の朝、私はお茶の水のニコライ堂に勇気を持って入りました。確かに異様な雰囲気です。
しかし入り口の受付で少し太いローソクを300円くらいで買いましたらもう楽しくなりました。それを拝観料のようなものと思い、内部の壁にあるマリア様の聖画の前に立てました。すでに数本のローソクに炎が揺れていたので火を分けて貰いました。
礼拝は全てロシアの聖歌を和音美しく唄いながら進んでいきます。いわゆる歌ミサなのです。
その合唱が非常に芸術的で感動しました。少し不謹慎な書き方をすれば、それは質の高いミュージカルのように楽しいのです。
他の教会でも日曜日の午前中に入ると聖歌の合唱がありますので楽しいのです。聖歌はよく練習していますので聞いて楽しめるのです。
その音楽を一度聞いてしまうと教会の建物は排他的な印象を与えていると感じなくなります。自分の世界が少し広がるのです。
その上、何度か教会の礼拝を見物に行くと、キリスト教を理屈ではなく心で、魂で理解出来ることがあります。
聖書には分かり難い部分が沢山あります。私も理解できない個所が多くて困っています。しかし上に書いたように教会に日曜日の朝に行くとキリスト教を理屈ではなく心で、魂で理解出来るのです。私は間違っているでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

写真とその説明の出典は、https://matome.naver.jp/odai/2140126579258482201 です。

1番目の写真は1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂です。、様式はロシヤビザンチン風、構造は煉瓦造です。
http://www.orthodoxjapan.jp/
ニコライが文久元年(一八六一)、ロシヤより来日し建てた正教会の聖堂です。
正式には日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)と言います。
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台4丁目4−1−3 東京復活大聖堂

2番目の写真はカトリック神田教会です。
鉄骨・鉄筋コンクリート造、ルネッサンス・ロマネスク様式で1928年 (昭和3年)竣工 しました。
http://catholickandachurch.org/
カトリック神田教会は1874年(明治7年)1月に創建され東京の教会でも有数の歴史を持つ教会です。

3番目の写真はカトリック築地教会です。1927年 (昭和2年)竣工しました。
http://tsukijicatholic.jp/
もとは1874年 (明治7年)東京で最初に建てられた教会で、東京市から居留地の一部を借り入れパリ・ミッション会が仮聖堂を建てた。

4番目の写真はカトリック碑文谷教会(サレジオ教会)です。1954年(昭和29年)竣工です。鉄筋コンクリート造、ロマネスク様式 です。http://home.m06.itscom.net/salesio2/side_a/salesio.html
1948年にサレジオ修道会がこの地に宣教拠点を置き、翌年に幼稚園が併設され、1954年 現在の教会堂が建設されました。

5番目の写真はカトリック東京カテドラルです。
現代的な技術を用いた鉄筋コンクリート造で1964年(昭和39年)に竣工 しました。http://cathedral-sekiguchi.jp/
カトリック東京大司教区の本部のある教会です。文京区関町3丁目にあります。
===貴重なコメントをFace Bookで頂きましたので追加します========
本田 伸樹さんより、
日本の神社・仏閣は、参道から山門(鳥居)をくぐり、境内には日本人ならなんら心の抵抗なく入れます。けれどその建物・・・本堂やお宮の中にはそう簡単には入れません。またカトリックやオーソドックスのように聖画像を「ちょっと見」気分で拝観するような気安さはなく、ご本尊を拝むのは本堂の奥に鎮座しているそれを、覗き込むように見ることしかできないのです。またご本尊を秘仏として公開していない寺院もあります。一方で日本の寺社には庭園の美を楽しむことができます。私は常々思うのですが、建物のみならず日本の教会に寺社のような美しい庭園を備えている教会があればいいのになあ、と思います。日本の教会は歴史が新しく、そんなに広い敷地を入手することができないのは解っていますが、もし可能ならカトリックの御聖堂の荘厳さが与える印象と同様に、日本人の心性に訴えられるのでは、と考えることがあります。ところで、カトリックは聖堂自体が聖別されたものと考える一方で、プロテスタントは建物について、そういった考えはありません。あくまで「幕屋」の延長で、機能本位です。それはヨーロッパの荘厳なカトリックの聖堂を観た経験のある私としては、味気ない気もします。またヨーロッパのカトリック教会では、平日の昼間でも、副祭壇の聖画像に向かって祈りを捧げている信徒の姿を見受けます。こうした点はカトリックに一日の長があるようです。ともあれ、キリスト教信仰の本質は建物にあるのではなく、その中心となるのは神様を愛し、神様から愛され神様に従っていく信徒の信仰です。しかし、こうした「クリスチャン」の姿が一方では、一般の日本人の方には「特殊」なものと映り教会の敷居を高くしているのかもしれません。クリスチャンと言えどもそこら辺のオイチャン、オバチャンと同じだよ、と一般の方に理解してもらう必要があるのではないでしょうか?そういえば、「寅さん」は亡くなる前、病床洗礼をお受けになったそうです。誠に尊いことだと思います。

矢野 信保 さんより、
私が長崎にいました頃、文化財保護指導員として担当していました地域に大浦天主堂が在りました関係から、何度も大浦天主堂を訪れる機会がありました。教会は天主堂を一般に公開しておられましたが、信者の方々が静かにお祈りをしておられる所に、場所をわきまえない観光客が天主堂に入り、大声で話ながら中を行き来する姿を見て、信者の方をお気の毒に思いました。その様な光景を何度も見ました。その後、信者の為の天主堂が近くに建てられ、歴史的建造物である大浦天主堂は、今まで通り一般に公開されるようになり、ホッとしたのを覚えています。
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「東京から消えて行く稲田の写真を撮りに行く」

2017年08月19日 | 写真
東京都の昔の西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡には、1970年頃まで、あちこちに稲田が広がっていたものです。日野、八王子、青梅などには稲田が一面にあったのです。
しかし高度成長とともに次第に姿を消しました。田畑は宅地に変わってしまいます。現在は町田市の都立小山田緑地公園のそばの谷地に稲田が少しあるばかりです。
少し遠方ですが、多摩丘陵幹線道路を根気よく走り、稲田の写真を撮ってきました。
青田を見ると幸せな気持ちになります。昔、疎開した東北の農村の夏や、生まれ育った仙台市の郊外の稲の香りなどを思い出します。
緑の葉が繁っている田、白い花をつけた田、小さな稲穂を付けた田を探しました。

地方にお住まいの方にとっては珍しくないと存じますが今しがた撮って来た写真をお送りいたします。






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10年で消えてしまった儚いもの

2017年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
文明がどんどん発達すると便利なものが次々に現れて、それまで愛用していたものが消えて行きます。人々に忘れられ、それが存在していたことすら誰も知らなくなります。博物館や文献に残っているだけです。
その一つの例が「ガス燈」です。
明治30年代、1907年から1915年頃までのほぼ10年間くらいだけ存在していました。
それまではロウソクや菜種油の行灯や石油ランプでしたが、イギリスで発明されたガス燈が日本にも輸入され明治30年以降、日本の夜の照明として普及しました。街や建物にガス灯が灯った時、当時の人々はその明るさにどんなに驚き、喜んだことでしょう。
さて日本でロウソクが最初に登場したのは奈良時代だそうです。当時のロウソクは中国から輸入された蜜蝋蝋燭と考えられています。恐らく、仏教の伝来と共に伝わったのでしょう。
ロウソクは現在でも使われていますが、「ガス燈」は完全に忘れられてしまいました。
ガス燈が10年間しか命のなかったのは1913年にタングステン電球が量産されるようになったからです。そして電燈は電線さえ引けば何処でも灯るのです。
そのような「ガス燈」の展覧会が小平市の「ガス・ミュージアム」でありましたので先日行って来ました。「ガス・ミュージアム」とは東京ガスが運営しているガスに関連したものの展示館です。
ガス燈とは吊り下げたり、壁に固定したり床に立てたりした燈火で、ガス管で常に都市ガスを供給する照明器具です。
それでは撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は天上から吊り下げたり、卓上のに置いて用いるガス燈です。

2番目の写真は畳の上の置いて針仕事や読書をするためのガス燈です。

3番目の写真は玄関や廊下の壁に固定して用いるガス燈です。

4番目の写真は宴会場の壁際の机の上に置いて華やかな雰囲気を作っていたガス燈です。

5番目の写真は明治時代のガス会社の建物で、ガス・ミュージアムの主棟です。もう一つこのような建物が並んでいます。

6番目の写真は今回の企画展の趣意書です。
この展覧会はガス燈の装飾のためのガラスや支持金具の美しさを楽しんでもらうとするものです。しかし同時に、昔の燈火の発展に歴史を考えさせ、そして昔の夜の暗さを想像させるのです。昔は現在より月の光が大切でした。星空が輝いていました。
そんなことを想像させる楽しい展示会でした。10月9日まで展示しています。
それにしてもたった10年の命とは儚いものですね。ガス燈とは。
このよう生活用具は他にもたくさんあります。皆様はどのような例をご存知でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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