後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「オリンピックの日本の昨日までの成果と写真」

2021年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
オリンピックを毎日テレビで見ていらっしゃる方も多いと思います。もう日本が17の金メダルを取り1964年の東京オリンピックの16個よりも多くなりました。まだまだ競技が続きますので25個くらい以上になると思います。
詳しく言えば、第18回、1964年の東京オリンピックでは日本のメダルは、金16 銀5 銅8でした。
今回の第32回オリンピックでは既に、金17、銀4、銅7で合計で28になっています。金メダルの数だけでは1位中国、2位日本、3位アメリカ、4位ロシア、5位オーストラリアになっています。日本の選手達がよく善戦しています。
振り返って考えてみると1964年の東京オリンピックでは日本の敗戦後の復興ぶりを世界に示すこともありました。世界一の高速の新幹線も開通し日本全体に高揚感がみなぎっていました。今回は日本経済の高度成長も経て日本人の心にゆとりがあります。選手達も必要以上に緊張しないで伸び伸びとそれぞれの競技のプレイをしています。
今日は今回のオリンピックの昨日の写真を見てみたいと思います。テレビ報道では日本が金メダルを取った種目だけが何度も報道されています。しかしオリンピックは参加することにも意義があるのです。以下の写真はそういう考えで選びました。
写真の出典は、https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210730/k10013169271000.html です。

1番目の写真はセーリングです。
セーリングはレーザーラジアル級の土居愛実選手は予選15位で、レーザー級の南里研二選手は予選30位で終え、上位10人で争うメダルレースに進めませんでした。レーザーとは一人乗りの一番小さいヨットです。
49er級は、高橋稜選手と小泉維吹選手のペアが第9レースまで終えて13位と順位を上げました。
470級は、岡田奎樹選手と外薗潤平選手のペアは第6レースまで終えて7位と順位を下げました。吉田愛選手と吉岡美帆選手のペアは第6レースまで終えて4位と順位を上げました。470級は長さが4m70cmの2人乗りの普通のデンギイです。
49erFX級は、第9レースまで終えて山崎アンナ選手と高野芹奈選手のペアが18位となっています。

2番目の写真はカヌースラロームです。
カヌースラローム男子カヤックシングルの準決勝で足立和也選手は16位となり、上位10人で争う決勝には進めませんでした。

3番目の写真はフェンシングです。
フェンシングの男子エペ団体の準決勝が行われ、日本が韓国に45対38で勝ち、決勝に進出しました。決勝戦でROCを破り金メダルに輝きました。この種目で日本がメダルを獲得するのは初めてです。

4番目の写真は陸上の男子400メートルハードルです。
予選には山内大夢選手、黒川和樹選手、安部孝駿選手の3人が出場し、山内選手が予選2組で49秒21をマークして3位に入り準決勝進出を決めました。黒川選手と安部選手はともに予選敗退となりました。

5番目の写真は30日から始まった陸上です。
男子走り高跳び予選で戸邉直人選手と衛藤昂選手が出場し、戸邉選手が決勝に進出しました。一方、衛藤選手は2メートル28センチを3回跳んでいずれも失敗し、決勝進出とはなりませんでした。

6番目の写真はゴルフ男子です。第2ラウンドで2アンダーから巻き返しをねらう松山英樹選手は、午前10時半すぎに第17組でスタートしました。雷雲のため中断しましたが暫定3位で今朝スタートしました。

7番目の写真は30日から始まった陸上競技です。午前9時からは最初の種目、女子100メートルの予備予選が行われました。日本の選手では最初に、午前9時15分からの男子走り高跳びの予選に戸邉直人選手と衛藤昂選手が出場しました。

これらの写真が示すように日本選手がよく善戦し昨日は金メダル2、銅メダル1を取りました。

7月30日(大会7日目)
金メダル、フェンシング団体
(見延和靖、 加納虹輝、山田優、宇山賢)         
金メダル、素根輝、柔道女子78キロ超級
銅メダル、東野有紗、渡辺勇太、バドミントン混合ダブルス

そして昨日までの合計が金17、銀4、銅7、合計28になったのです。
今回の東京オリンピック2020は7月23日から8月8日までで史上最多の33競技339種目が行われます。ですからまだ8日間もあるのです。もっと多くのメダルだ取れるのは確実です。オリンックの面白はメダルの数だけではありません。それぞれの競技で人間ワザとは思えない感動的な演技を見せてくれるのです。家で冷房をかけてテレビで見ていると暑さを忘れます。楽しい夏になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「夏の花々の写真をお送り致します」

2021年07月30日 | 写真
全ての写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番目の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

2番目の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

3番目の写真はアリウムギガンジュームです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番目の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

5番目の写真はオジギソウです。
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。

「オリンピックをTVで見ながらギリシャのことを想う」

2021年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日オリンピックをTVで見ながら、こんなに面白いオリンピックを始めたギリシャのことをいろいろ考えています。ギリシャは今は弱小国になっていますが古代ギリシャはヨーロッパの先進国といて輝かしい文化を花咲かせていたのです。
しかし紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配されます。そして392年、ローマがキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことでオリンピア信仰が否定されます。オリンピックは最後に393年の第293回オリンピック競技大祭で終焉したのです。

古代オリンピックは実に1169年間も続き第293回も開催されたのです。
古代オリンピックが途絶えて1500年後の1892年。フランスのクーベルタン男爵が近代オリンピックを再開しました。1896年、第1回大会がアテネで開催されます。 近代オリンピックはまだまだ歴史が浅いのです。

そこで今日は古代ギリシャのことを振り返って見ます。
まず古代ギリシャの遺跡の写真を示します。出典は、https://wondertrip.jp/79647/ です。

1番目の写真はオリンピアのアクロポリスです。紀元前8世紀ごろのギリシアには多くのポリスと呼ばれる都市国家が成立しました。アクロポリスとは、このポリスの中心部に作られた外敵を見張ることのできる丘のことです。アクロポリスは都市と民衆を守る拠点で同時に守護神を祀る神殿があり信仰の対象の役割も果たしていました。

2番目の写真はオリンピアのパルテノン神殿です。この神殿は合計46本の立派な円柱が支えており、その表面に施された装飾彫刻には完成までに15年もの歳月を要したと言われています。

3番目の写真はアテナにあるニケ神殿です。これは小さな神殿ですが真っ白な神殿は青空に浮かび上がり美しいのです。神殿には勝利の女神ニケが祀られており紀元前424年に建設されました。

4番目の写真はアクロポリスの麓にあるギリシア最古の大型野外劇場です。ディオニソス劇場と言います。この石造りの劇場は紀元前325年に建設され、14000人〜17000人もの観客を収容することが可能でした。

5番目の写真はディオニソス劇場の舞台から客席を写した写真です。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネスといったそうそうたる古代劇作家がここで催される祭りで作品をコンテスト形式で競い合いました。劇作家たちはそれぞれ3本の悲劇と1本の喜劇を出品し、3人以下の俳優によって上演されました。

以上の5枚の写真は古代ギリシャの華々しい文化を示しています。
しかし古代ギリシャの繁栄は長く続きませんでした。ギリシャはローマ帝国に占領されてしまったのです。前146年にローマがマケドニアを属州としたのを皮切りにギリシャはローマ帝国の一部と化してしまったのです。
そのローマ帝国は皇帝の所在地を首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移します。しかし西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなり476年ゲルマン人の傭兵隊によって廃位され西ローマ帝国も消滅したのです。

それから所謂、「暗黒時代」が始まったのです。この暗黒時代は宗教改革によって終わるまで続いたのです。ギリシャ文化の輝きが消えてしまった「暗黒時代」の期間や定義が人によって大きく異なります。その詳細は別稿で書く予定です。

ここでは仮に「暗黒時代」を西ローマ帝国が消滅した476年から1517年のルターの宗教改革までの約1000年としておきます。ルターはローマ教会にその腐敗を抗議しました。宗教改革の始まりです。
これによってヨーロッパの「暗黒時代」が終わり古代ギリシャの華やかな文化が復興されたのです。この古代ギリシャの文化への回帰運動を総称してルネサンス、文芸復興と言います。
古代オリンピックが途絶えて1500年後の1896年にクーベルタン男爵が近代オリンピックを再開したのもルネサンスの流れの一つでした。

ヨーロッパ文化を深く理解するためには、古代ギリシャの文化、ローマ帝国の滅亡と暗黒時代、そしてルネサンスのことを理解しなければなりません。

そんな事を考えながら毎日オリンピックをTVで見ています。各民族の選手達の安全と健闘を祈っています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



「東京オリンピックをロンドンから見ると、」

2021年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
友人の石山望さんはロンドンに住んいる日本人です。
石山望さんの日記には東京オリンピックをロンドンからら見るとどのように感じたか書いてありす。その上、日記の内容は以下のようないろいろな問題を明快に書いてあります。東京オリンピックの開会式の弱点は?、スポーツの本質は?、こんな種目がオリンピックにあるのはどうかと思う!などなどの問題を明快に書いてあるのです。皆様も共感を覚えることと存じます。私も感銘を受けたのでここに転載します。原文は、https://smcb.jp/diaries/8572648 にあります。
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石山望著、「東京オリンピック開催」

東京オリンピックゲームをTVで観ています。それも、興味を持って、。
最初に、。
この五輪大会は、開催が決まった8年ほど前から、問題が次から次に出た大会ですね。
まず新設する主要競技場のデザインのことで揉め、当初のは取り消して、結局日本人の建築デザイナーのに落ち着きました。次に、大会のシンボルマーク(ロゴ)。はじめ選ばれたのは、非常にすっきりしていてモダン。私、とてもいいと思いましたが、何か盗作の疑いがかかり、日本人の考案したのが最後に残りました。無難な選択です。
しかし、そういうこともなんとか治まり、やれやれと思っていた矢先、今度は、もっともっと厄介な問題が浮上してきました。

昨年当初中国で端を発したコロナ菌蔓延です。パンデミック。
始めは、半年もあれば、それも静まるだろうと多寡をくくっていた我々を嘲笑うかのように、この蔓延は勢いを増すばかり。結局、五輪開催一年延期に追い込まれてしまいました。
あの時は、日本が、なぜこんなに苛められなければならないのかと、可哀想になりました。だって、そんなのは、誰にも予測のつかなかったことですもの。

その後、人事の面で、色々ゴタゴタがあり、この五輪に携わっておられる数人の主要人物、解任または更迭という運びになりました。
そんなイザコザが、実に、この因縁付き五輪の開始直前まで続いたのですよ。
そんなこんなで、日本国民の多くが、この東京五輪に興味を示さなくなりました。嫌気がさしたのですね。その理由の最大のものは、やはり、コロナ菌蔓延の事実でしょう。「こんな状態で、オリンピックなんてできるの??」
また、今度のことで、最近のオリンピックゲーム開催にちなむ、好ましからぬ様々な事実も、人々の耳に入るようになりました。
でも、五輪に限らず、この頃の世界的なスポーツの大会って、そんなものですよ。フットボールの世界統率団体(FIFA)なんて酷いです。
というわけで、この東京五輪、様々な「反対運動」が最後の最後まで、東京近辺で見られました。オリンピックなんて要らない!!

でも、私は、この五輪を取りやめるわけにはいかないと、予々思っていましたから、とにかく、なんとか無事に、終って欲しい。願っていたのは、それだけでした。
そんな、紆余曲折を経て、やっと、東京五輪の開会式が、この7月23日(金)夜、新築された国立競技場で開催されました。
ここで特筆すべきは、この五輪、すべてのことが、無観客で行われるということです。それには、勿論、開会式閉会式も含まれます。これが、日本政府の取った妥協策でした。
もちろん、私達は残念に思いますが、仕方ありません。でも、選手自身は、こういうこと、あまり気にしていないものなんですよ。

私、開会式を観ました。始めの部分は観られなかったのですが、全体的にがっかり。
これを企画した人が確たる信念を持って、作り出したものとは思えなかったのです。
「とりあえず、こんなのはどう?」と言って、いろんなことをやっていましたが、それらに脈絡がなく、説得力がありませんでしたね。
パンチに欠ける。何も大して覚えていない(一つだけ、多くのドローンで作った、空に浮かぶ地球儀は、今でも覚えています)。他の人にご意見を伺いましたが、似たり寄ったりでした。
最近のオリンピック大会開会式、2012年のロンドン大会は、非常に手間とお金をかけたものでしたが、ちょっと猥雑。そこへ行くと、私が本当に好きだったのは、2016年リオデジャネイロ大会の開会式です。これはいいと思いました。モダンで、企画がしっかりしていて、今でも覚えています。

東京五輪開会式から4日が経ちました。日本が、メダルの数では1位。英国は5位です。まずまず、幸先の良いスタートを切ったと言えるのではありませんか。
私、スポーツは、どんなものでも好きです。それで、毎日、TVで、東京オリンピックでの数々の種目を観ています。でも、中には、なぜ、こんなのがオリンピック種目に入っているの?と首をかしげる様なものもありますよ。例えば、3人制バスケットボール。どなたかお教えください。
今回の五輪開催前に喧しかった「オリンピックなんて興味ない」という声も、開会式が始まる頃から影を潜めてしまいました。皆さん、結構観ておられるのではありませんか。スポーツってそういう力を持っているのかも知れませんね。
ただ、スポーツを観るというのは、完全に受動的行為。熱狂したり、ハラハラしたり、落胆したりはしますが、何も考えなくていいため、ただでさえ空っぽな頭が、さらに空になります。
ですから、たまには、頭を使ってみようと思い、こうして、この駄文でも、と思い立った次第です。

もうすぐ、お目当の陸上競技が始まります。楽しみ。
何はともあれ、「東京五輪にはいろいろなことがあったけれど、いい大会だったな」と後世の人に言ってもらえるということが、 私の切実な願いです。(終わり)
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今日は石山望さんの東京オリンピックに関する日記をご紹介いたしました。東京オリンピックの開会式の弱点は?、スポーツの本質は?、こんな種目がオリンピアにあるのはどうかと思う!などなどの問題を明快に書いてある日記です。原文は、https://smcb.jp/diaries/8572648 にあります。
今日の挿絵代わりの写真は現在、自宅の庭に咲ているムクゲの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「クーベルタン男爵の功績とオリンピックの歴史」

2021年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
現在日本で開催されているオリンピックの発祥の地は古代ギリシャのオリンピアという都市国家でした。その古代オリンピックが途絶えて1500年後の1892年。フランスのクーベルタン男爵が近代オリンピックを再開しました。そして1896年、第1回大会がギリシアのアテネで開催されたのです。 現在の日本でのオリンピックは実にクーベルタン男爵のおかげで開催されているのです。

1番目の写真はフランスのクーベルタン男爵です。
クーベルタン男爵は 1863年生まれ 1937年に没しました。彼はフランスの教育者で近代オリンピックの創立者です。
2番目の写真は今回の東京オリンピック開会式です。

3番目の写真は競泳女子400メートル個人メドレーで金メダルを獲得した大橋悠依さんです。日本勢がこの種目で優勝するのは初めてです。
現在のオリンピックでは大橋悠依さん以外も、日本選手が多くの金、銀,銅メダルを取って活躍しています。その事は皆様ご承知のことと思い割愛します。
さてオリンピックの歴史について以下に簡略に整理しました。
古代オリンピックが始まったのは考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろと言われています。古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事でした。(https://www.joc.or.jp/sp/column/olympic/history/001.html )
 全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための神域における体育や芸術の競技祭だったのです。考古学的な研究によって当時のオリンピア地方で行われていた「オリンピア祭典競技」のほかに、コリント地方の「イストミアン・ゲームズ」、ネメア地方の「ネメアン・ゲームズ」、デルフォイ地方の「ピシアン・ゲ ームズ」などが4大祭典競技として知られています。

最初のオリンピック種目と言えば1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」でした。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」が築かれていました。スタディオンは長さ約215m、幅約30mの広場でした。
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックは競走1種目だけでした。
その後、古代オリンピックは種目の数を増やしより大きな祭典へと発展していきます。
その後加わった種目です。
紀元前724年の第14回大会から、ちょうど現在の400mに相当する中距離競走が種目に加わり、長距離競走も加わるました。そして幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリングなども加わったのです。
その上、ボクシングも始まったのです。現在は行われていない戦車競走もありました。そして第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われたようです。第33回大会からは格闘技もオリンピック競技に加わりました。
現在のオリンピックでは多種の競技種目画ありますがその大部分の起源はギリシャの古代オリンピックで既に生まれていたのです。

4番目の写真は全知全能の神・ゼウスの神域オリンピアです。写真の出典は、https://wondertrip.jp/91247/ です。
オリンピアという町はギリシャの西側に大きく突き出たペロポネソス半島のこれまた西側にある山間にある、現在は1000人くらいの人口の静かな町です。ギリシャの首都アテネからはバスで約5時間かかるほどの距離です。この地域はエリスという都市国家が治めており、古来よりゼウスの神域としてあまり人が住んでいない場所でした。

5番目の写真はオリンピアにおける聖火の採火式です。この聖火を点灯するセレモニーは古代オリンピックでは行われておらず、近代オリンピックでナチス時代のベルリンオリンピックの際にナチスの宣伝の一環として始まったのが今に残っているのです。

6番目の写真はオリンピアの神域の真ん中にあるゼウス神殿です。写真の出典は、https://wondertrip.jp/91247/ です。近代オリンピックの聖火はこの神殿で凹面鏡を使って灯され、世界の開催地へ運ばれます。

7番目の写真は風光明媚な白い神殿と深い紺碧色のエーゲ海です。写真の出典は、https://wondertrip.jp/91247/ です。
紀元前には現在のギリシャにはアテネやスパルタに代表されるような1500もの都市国家が発展しており、統一されたギリシャという国はありませんでした。ギリシャの地形は山が多く互いの地域の行き来が難しいためそれぞれが独立して都市を作り互いにけん制し合っていました。
それでも彼らは自らのことを「ギリシャ人(ヘレネス)」だと名乗り同じ言葉を話し、同じ神々を信じ、同じ風習をもつ人たちでした。

紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配されます。古代オリンピックはギリシア人だけでした。しかしローマが支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり次第に国際化して行ったにです。
しかし392年、ローマがキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことでオリンピア信仰が否定されます。こうした事情で最後の393年の第293回オリンピック競技大祭で終焉したのです。古代オリンピックは数々の戦乱を乗り越え実に1169年間も続いたのです。
近代オリンピックはこの古代ギリシャのオリンピックの延長なのです。

クーベルタン男爵の偉大な功績を近代オリンピックの父として改めて賞賛すべきではないでしょうか。「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」を嚙みしめたいと思いいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料===================================
今回の東京オリンピックの競技種目、https://2020.yahoo.co.jp/event/olympic

水泳
アーチェリー
陸上
バドミントン
野球・ソフトボール
バスケットボール
ボクシング
カヌー
自転車
馬術
フェンシング
サッカー
ゴルフ
体操
ハンドボール
ホッケー
柔道
空手
近代五種
ボート
ラグビー
セーリング
射撃
スケートボード
スポーツクライミング
サーフィン
卓球
テコンドー
テニス
トライアスロン
バレーボール
ウエイトリフティング
レスリング

「オリンピック選手の態度に時代の流れや変化を感じる」

2021年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
7月24日に「世界中の民族の祭典、オリンピックの開会式の感動」という記事を掲載しました。その冒頭部分です。
・・・昨日はテレビでオリンピックの開会式を見ました。前の1964年の東京オリンピックと比較していろいろな感慨が湧きました。何といっても64年のオリンピックは戦後復興した日本の国威発揚の雰囲気が強かったのです。それに対して今回は肩の力を抜いて選手個人を大切にする精神に溢れていました。国家よりも民族を大切にしているのです。
特にアフリカの殆どの民族国家や南太平洋の小さな島の民族やカリブ海の小さな島の民族の多数が参加したのです。経済大国や軍事大国だけを重視しないで小さな島々の民族も平等に大切にした開会式でした。・・・
それはそれとして毎日オリンピックのテレビを見ています。しかしテレビでは日本選手が活躍する様子だけを写し出しています。私はいろいろな競技での外国の選手の活躍も見たいのですが一切報道がありません。これは酷い差別です。そして趣味でヨットをしていたのでヨットレースのことが知りたいのです。しかしヨットレースのことは殆ど無視です。困ったものです。
しかし良いこともあります。良い事は日本選手がのびのびと楽しそうにプレイをしてることです。あくまでも個人としてそれぞれの競技を楽しんでいるのです。前回の1964年の東京オリンピックでは国家を背負ったような選手が多かったように感じました。日本選手の肩に力が入り緊張しているように感じました。
今回は違います。国家を背負ったような選手がいません。みんな個人、個人として競技を楽しんでいるのです。その最たるものはスケートボートの堀米雄斗さんです。絶対に力まないで易々と超困難なワザを楽しそうにこなして行くのです。空を気楽に舞うのです。激しい練習の努力を感じさせません。それで金メダルを取ったのですから嬉しくなります。堀米雄斗さんはアメリカで「努力しないプレイの美」が高く評価されて数多くの優勝をしているのです。
日本選手がのびのびと楽しそうにプレイをし、個人としてそれぞれの競技を楽しんでいるのは女子ソフトボールもそうでした。
卓球の混合ダブルもバトミントンも日本選手は例外なく楽しそうにしていました。しかしその陰にはどれほどの努力があったのでしょう。
水泳は自分が魚になったように自然な動きで美しく泳ぎます。400m女子メドレーで金を取った大橋悠依さんは後のインタビューで、「まったく金が取れるとは思っていなかった」と話していました。そして少し嬉しそうにしていました。こらえていた涙がこぼれました。体調不良で水泳を諦めかけた日々があった事を彼女も、観ている人も思い出します。
格闘技の柔道でも日本初の金を取った高藤直寿さんが決勝で台湾の楊勇緯さんに勝った後の態度が良かったのです。勝負後、高藤さんが楊さんに笑顔で駆け寄り抱き合います。頑張って良く戦ってくれて有難うという高藤の表情に楊も満足したのか急に笑顔になります。
このような態度が今回の日本選手全員に共通して見られます。
私はつくづく時代の流れと変化を感じます。思い返せば東京オリンピックは昭和16年に開催する筈でした。しかし戦争で日本が返上したのです。それが復活したのが前回の1964年の東京オリンピックでした。そしてそれに続いて今回の東京オリンピックです。
そこで以下では昭和16年に開催する予定だった東京オリンピックの前の日本の時代を暗示する写真をお送りいたします。
今日はこれらの写真の掲載をもって記事の終わりと致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













「気楽に日本の仏教のあれこれを書くと」

2021年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教というものは教祖様の教えと、後の世のいろいろな優れた人の教えから成り立っているのが普通です。
佛教も例外ではありません。特に日本の大乗仏教では、お釈迦様の教えと後の世のインドの人々の教えから成り立っています。まずこの2者を区別して、整理すると理解しやすいのです。
お釈迦様の教えは般若心経に過不足なく、そして明快に書いてあります。お釈迦様が弟子のシャーリプトラへ教えた内容が書いてあります。
この世にある全てのものは空(くう)なのですよ。空なるものが物質の本質なのですよと何度も教えています。それを信じるとこの世の苦しみや悲しみは消えて無くなりますよと教えています。人間が苦しみや悲しみから解放されて幸福に生きるための考え方を教えているのです。
この宇宙にある全てのものは空(くう)だという宇宙観は西洋には無い卓越した哲学です。
お釈迦様の教えはこれだけです。一切のものが空なのですからお釈迦さんは死んだら遺骨は野に捨てなさい、お墓も作ってはいけませんと遺言しました。仏像も作ってはいけませんと明言しました。
ですからお釈迦様の死後400年以上は仏像の一切無い宗教だったのです。
しかし大乗仏教では法華経のように後の考え方が沢山加わっているのです。現在、日本にある華麗なお寺も仏像もお釈迦様の言ったことに従わないで後の世の人々が作ったものなのです。
だからと言って、それらは悪いと言っているのではありません。宗教というものは永い間存続し継承されるためには、付随的なものや追加された教えも非常に重要なのです。誤解を避けるために始めに書きますが、日本の仏教は悪いと非難する意図は毛頭ありません。
ただ単に、こんな違いがあるのではないでしょうかと気楽に書いただけです。
さてお釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。
インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。
玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。
この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。従って現在の日本の仏教は大乗仏教に近いものなのです。

一方、上座部仏教の方はミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、そしてインドネシアのバリ島に伝承されました。
それでは上座部仏教と大乗仏教の違いは何処にあるのでしょうか?
上座部仏教では厳しい修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずです。そんな考えから生まれたのが大乗仏教です。
大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。上にも書きましたが、日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。

それでは釈迦の教えと日本の仏教の違いを幾つか示してみようと思います。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べませんでした。

(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。

以上のような違いのがあるのです。
一方、キリスト教ではイエスの教えを福音書として正確に伝承しています。そのイエス自身の教えを変えないで、そのまま信じるように努力しています。だから仏教は間違っているなどと皮相的な、そして浅薄な主張をいたしません。もしそう考えたとしたら宗教というものの奥深さを理解していない証拠です。

さて大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。その上、大乗仏教では観音菩薩や薬師如来や大日如来などの数多くの佛様がお寺の本尊として祀られているのです。
この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来なども居ます。
このように大乗仏教は多神教的であります。そして教義も時代と国々によって変化して来たのです。

法隆寺が創建されたのは1400年以上昔、西暦607年のことだったと言われています。推古天皇の時代で、日本は天皇を中心とした朝廷の支配体制がようやく確立し始めていた時代でした。当時仏教が中国から伝来し、その仏教を国の柱としてお寺を建てる動きが始まりました。
それ以来日本中に国分寺をはじめ数多くのお寺が建てられました。現在の日本全国には7万5000くらいのお寺があると言われています。
日本は大乗仏教の国なのです。
それにしても日本の仏教は融通無碍です。戒律が殆どありません。何ををしても許されるのです。自由で広々しています。私自身はカトリックの信者ですが日本の仏教が好きです。強いて言えばカトリックの信者であると同時に仏教の信者なのです。お寺が好きでよくお寺の散策に行きます。旅行に行けば旅先の教会も必ずのように訪問します。
宗教とは適当な距離をおいて狂信しない方が良いと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

挿絵代わりの写真は三十三間堂の千手観音です。

「今日の 年間第17主日のミサの動画の紹介」

2021年07月25日 | インポート
2021年7月25日の10時から始まる 年間第17主日のミサの、カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw
7月25日10:00 
司式 天本昭好神父(主任司祭)
入 祭  典63 神は恵みとあわれみに満ち
あわれみ・栄光 典211・212
答唱詩編 典18 いのちあるすべてのものに
アレルヤ唱 典269 (17B)
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(2)
奉納 典398 その人は幸い
感謝・平和の賛歌 典 213・214番   
拝領 カ典325 マラナタ
閉祭 典396 救いの道を

聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q
本日のミサの中で堅信式があります。また、古市匡史神父の初ミサです。
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
列王記 (列王記下 4:42-44)
第2朗読
使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ 4:1-6 )
福音朗読
ヨハネによる福音 (ヨハネ 6:1-15)

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵代わり写真は私も通った聖イグナチオ教会の旧聖堂(1949〜1998年)です。建て直し以前のイグナチオ教会は日本人の美意識にあい大きな木が何本もありました。また、四谷の土手に隣接し自然に溶け込んでいました。





「世界中の民族の祭典、オリンピックの開会式の感動」

2021年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日はテレビでオリンピックの開会式を見ました。前の1964年の東京オリンピックと比較していろいろな感慨が湧きました。何といっても64年のオリンピックは戦後復興した日本の国威発揚の雰囲気が強かったのです。それに対して今回は肩の力を抜いて選手個人を大切にする精神に溢れていました。国家よりも民族を大切にしているのです。
特にアフリカの殆どの民族国家や南太平洋の小さな島の民族やカリブ海の小さな島の民族の多数が参加したのです。
経済大国や軍事大国だけを重視しないで小さな島々の民族も平等に大切にした開会式でした。
そこでこの記事のタイトルに世界中の民族の祭典という表現を使ったのです。嗚呼、世界には様々な民族が平和に暮らしているのだ!という感動を覚えました。
民族と言えば近隣の台湾、韓国、北朝鮮はどうしたのでしょうか?そのことを報じるニュース記事を示します。
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『NHK和久田麻由子アナ「台湾です」と紹介』
日刊スポーツ、https://news.yahoo.co.jp/articles/f8511c3da9e2b1ade6155ea7637e88c5aa94711b

東京オリンピックの開会式が23日、東京・国立競技場で行われた。
台湾は場内アナウンス、プラカードの表記は英語、日本語とも「チャイニーズ・タイペイ」で、NHKも字幕は「CHINESE TAIPEI」だったが、和久田麻由子アナウンサー(32)は「台湾です」と紹介。バドミントンの有力選手について触れた。
大会公式サイトで事前に発表されていた「あいうえお」順の入場順では、台湾の入場はチェコ共和国の後となっていたが、実際は大韓民国の後に登場した。
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そして北朝鮮は今回は参加しませんでした。
ここで1964年の東京オリンピックの写真3枚と今回の開会式の写真2枚をお送り致します。

1番目の写真は1964年の東京オリンピックの開会式の日本選手団の入場行進です。一糸乱れない行進が国威発揚を連想させます。10月10日の日本晴れの日でした。自衛隊のジェット機が青空に五色のオリンピックマークを描きました。

2番目の写真は1964年の東京オリンピックで活躍した大松監督とに日紡貝塚の女子バレーボールチームです。
この東京オリンピックでは日本の体操チームが活躍し金メダルを含めて幾つもメダルを取りました。

3番目の写真は1964年東京オリンピックで活躍したチェコのチャスラフスカです。
彼女は平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを取ります。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」と言われました。
チャスラフスカは日本のファンが体操競技に詳しいことに驚き、また、滞在中に多くの日本人ファンから扇子、浴衣や日本刀などをプレゼントされたことに感激したことを語っていました。それらの贈り物は2013年の時点でも自宅に保管していましたが2016年に74歳で死去しました。2010年、日本国の秋の叙勲(外国人叙勲)にて旭日中綬章を受章していました。

4番目の写真は昨夜の開会式で入場する日本選手団です。本選手団は整列行進しないで個人、個人が嬉しそうに笑って歩いていました。選手の個性を大切にしている雰囲気でした。

5番目の写真は昨夜の開会式が開催された代々木の国立競技場です。打ち上げ花や照明の色彩がケバケバしくなく落ち着いた色調だったことが印象的でした。全体的にいろいろ工夫された感動的な開会式でした。

今日は1964年の東京オリンピックの思い出と昨夜の開会式を比較しながらその感動を書きました。
今度のオリンピックでは参加した世界中の民族の一人一人が個性を発揮して美しい演技を見せてくれるように期待します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「昨日は盆の入りの前日なので墓参りに行きました」

2021年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。墓参りをすると家内が亡くなった父母や祖父母を昔のまま思い出すので楽しそうにします。そんな家内の様子を見ると私まで楽しくなります。私自身の父母や祖父母も思い出します。そんな墓参りは我が家の楽しい年中行事です。年に4回行きます。春秋のお彼岸とお盆とお正月です。
昨日は日野市の盆の入り日の前日でした。午後に家内の実家の墓参りに行きました。家内だけが墓掃除をして花を供えて来ました。私は寺の前に停めた車の中で家内と私の先祖の冥福を祈っていました。

大昌寺は浄土宗知恩院の末寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したといわれています。江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました。
日野宿の名主を務め新選組の育ての親である佐藤俊正(彦五郎)の子孫の墓もあります。土方歳三の墓は近くのお寺にあります。

大昌寺の境内の写真と家内の実家の墓の写真を掲載いたします。
お盆と言えばその期間は地方によっていろいろです。皆様のお住まいの地方のお盆の期間は何時でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











「気楽なキリスト教のよもやま話」

2021年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は仏教とずいぶん違います。なんとなく仏教になじんでいる日本人には親しみを感じられません。
そこで今日は気楽にキリスト教のよもやま話をあれこれ書いてみたいと思います。読めば少し身近に感じられるかも分かりません。
さてキリスト教は中東のユダヤの町のナザレの大工、ヨゼフの倅のイエスが作った宗教です。当時はその地方では人の姓名は名前だけで呼んでました。日本の江戸時代と同じです。武士だけが苗字を持っていました。昔は外国もそんなものでした。
キリスト教には約2000年の歴史があります。大雑把に言えば古いキリスト教は旧教と言い、宗教改革以後のものを新教と言います。
宗教改革は16世紀に起きました。腐敗しきったキリスト教の革新運動でした。ルターの批判がきっかけとなったキリスト教の革新運動でした。そして新教の諸派が出来たのです。この革新運動で旧教の諸派も革新されたのです。
新教では、福音ルター派教会やカルヴァン派 やアーミッシュ教会などなど実に数多くの新しいキリスト教の宗派が生まれたのです。
一方旧教の諸派はカトリック教会やロシア正教などなどです。
現在の世界には新教の諸派と旧教の諸派の両方が並んで存在しています。日本にも全てあります。一方仏教でも天台宗や真言崇の古い仏教が鎌倉時代に革新され曹洞宗や法華教宗派や念仏宗などなどが生まれました。これ考えるとキリスト教の宗教改革にも親しみを感じます。

さてキリスト教と仏教を比較して一番違う点はキリスト教には毎週礼拝式があるが仏教には無いことです。礼拝式は旧教のカトリック教会ではミサと呼んでいます。そこで以下ではミサの内容を簡単に記します。

1番目の写真はミサの光景です。ミサでは聖歌を歌い、皆が一緒に祈ります。2000年前にイエスが教えた言葉どうりの祈りをします。そしてイエスの肉に見立てたパンを神父さんから貰って食べます。

2番目の写真は神父が信者の一人一人へ小さなパンを手渡している光景です。神父は「イエスの体」と小声で言ってパン片を信者へ渡します。信者は「アーメン」と言ってパンを受け取り、口に入れます。こうしてカトリックの信者はミサ毎にイエス様の肉を頂いて食べるのです。

カトリック教会では通常毎週のミサを特別な祭日のミサにすることがあります。クリスマスのミサ、復活祭のミサ、聖霊降臨のミサなどです。
間もなく8月15日の聖母被昇天の祝日がやって来ます。イエスを生んだ母はマリアです。彼女の死後神がマリアを天国に上げてくれたのです。その事を祝う祭日が聖母被昇天の祝日です。
8月15日に聖母マリアの昇天を祝う習慣は5,6世紀頃からあったのですが、それを教皇ピオ十二世が1950年11月1日に世界中のカトリック教会の正式な被昇天の祝日として公布したのです。キリスト教は一神教ですが、聖母マリアは人々に深く愛され信仰の対象だったのです。

3番目の写真はラファエロの傑作として有名な聖母子の絵です。漆黒の背景から浮かび上がる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いたものです。1505年頃の作です。

4番目の写真はGuillaume Courtois 作、17世紀です。天使たちに支えられて飛翔しているかのようなマリアを描いた絵です。

5番目の写真はグイド・レーニ作、1617年です。
レーニが後年に描いた聖母の被昇天は十二使徒とマリアの二段構造になっています。
マリア様被昇天の絵画の出典は、http://mementmori-art.com/archives/23171141.html です。

さて以上のことを仏教と比較してみます。仏教では釈迦の肉体と見立ててパン片など絶対に食べません。仏教では釈迦の母の摩耶夫人のことは信仰の対象ではありません。仏教とキリスト教はあまりにも違います。しかし両者の教えの目的は同じなのです。悩み多い人間を悩みや迷いから解放して幸せにするのが目的です。苦しむ人間の救済が目的なのです。キリスト教では神の愛が人間の救いです。仏教では解脱と悟りの境地が人間の救いなのです。

今日は気楽にキリスト教のよもやま話を気の向くまま書いてみました。皆様のご意見を頂けたら幸いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「涼しげな夏の大雪山の高山植物の花畑の写真」

2021年07月21日 | 写真
日本列島は真夏です。毎日暑い日が続きます。皆様もこの猛暑に参っていると存じます。そこで北海道の大雪山の高山植物の花畑の涼し気な風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://tabisuke.arukikata.co.jp/album/13771/ と、https://activityjapan.com/publish/plan/26853 などです。









「写真とともに案内する美しい猪苗代湖と鶴ケ城」

2021年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は写真をまじえて美しい猪苗代湖と鶴ケ城への旅をご案内したいと思います。豊かなローカル文化のある会津盆地への旅です。碧い猪苗代湖の向かうに磐梯山が聳えています。湖の西には白亜の鶴ヶ城が夏の陽に輝いています。
この美しい会津盆地に旅したのは2017年の8月のことでした。
猪苗代湖は40年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレースに3回参加した思い出があります。
そして会津城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。
会津城の天守閣の下に蒲生氏郷が建てた茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。そこで家内と抹茶を楽しみました。そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。
鶴ケ城と呼ばれている会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。
それでは写真を示しますのでお楽しみ下さい。

1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

2番目の写真は夏の猪苗代湖とヨットの写真です。大学時代の友人の星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆走しました。そして「花春カップ」というクルーザーレースへ3回ほどで出ました。星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。

3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。今は亡き星野君もここにヨットを係留していました。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具もついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.htmlです。

4番目の写真は会津城の天守閣の写真です。天守閣に上がると美しい会津盆地が一望できます。これを建てた蒲生氏郷は天正18年(1590年)に秀吉によって会津に移封され42万石の大名になったのです。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。

5番目の写真は天守閣の下にある蒲生氏郷が建てた茶室、麟閣の写真です。福島県指定重要文化財です。ここで家内と抹茶を頂きました。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。

6番目の写真は御薬園の写真です。ここにも風雅な茶室があり家内と抹茶を頂きました。
写真の出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。

7番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃したのです。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
さて会津盆地の旅で泊まるホテルや旅館は会津若松市の駅周辺が便利です。しかし少し足を伸ばして東山温泉に泊まるのをお薦めします。
東山温泉は鶴ヶ城から南東に約3km、湯川沿いに温泉宿・ホテル計20軒以上が営業しています。湯量は毎分1,500リットルです。現在でも芸妓が活躍しており「からり妓さん」として温泉街に花を添えているそうです。開湯は8世紀後半で行基によってなされたと伝えられています。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え会津若松の奥座敷として発展しました。私どもは庄助の宿 瀧の湯にも泊まりました。会津民謡に登場する小原庄助ゆかりの温泉と言われています。

今日は写真とともに美しい猪苗代湖と鶴ケ城をご案内致しました。また東山温泉に泊まるのことをお薦めしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
(1)会津盆地の古代史
会津盆地の古代史を書いておきます。出典は、https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/rekishi/rekishi_01.htm です。
1万年以上前に打製の石器を用いる人々が住んでいました。(大沼郡会津高田町・耶麻郡高郷村 塩坪遺跡)
塩坪遺跡から出土した石器は福島県でも代表的な旧石器時代 の遺跡で、今から15,000~14,000年前のものと考えられています。この遺跡は、見晴らしがよく水の便も 良い阿賀川の河岸段丘の上にあり、直径10mほどの範囲から約2,000点の資料が発見されています。
当時の人々は、土器を作ることを知らず、打ち欠いただけの石器を用いて狩りや動物の解体を行っていたと考えられています。
そして縄文時代(7,000年前ごろから2,500年前頃)になると磨製石器や縄文式土器が使用され始めます。
はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れます。人々はたて穴住居に住み、狩りや漁などをして暮していたのです。(耶麻郡塩川町常世・耶麻郡  高郷村夏井など)
時代が下り弥生時代の2,000年ぐらい前になると弥生式土器が使われ、稲作が行われるようになりました。
やがて鉄器も使い、湖周辺の低地にも住むようになります。貧富の差や階級が出始めた様子です。
それが大和(古墳)時代になると4世紀末頃から会津にも大和朝廷の支配をうけた豪族が現れ、大塚山古墳(会津若松市)や亀ヶ森古墳(会津坂下町)が築かれたのです。
「古事記」に記された四道将軍の記事に「相津(アイヅ)」の伝説があり、後に「会津」の地名になります。
その後の5世紀から6世紀には会津各地に古墳が作られます。
特に大塚山古墳 は最大で全長114mの前方後円墳です。
以上のように会津盆地は旧石器時代から人が住み着き、とくに猪苗代湖周辺は稲作が盛んだったようです。
そのお陰で平安時代から豪族の館があり、それが戦国時代の城になり、やがて秀吉の家臣の蒲生氏郷が城主になり現在見られるような大きな規模の会津城を作ったのです。

(2)中世と近世の会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E

中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。

「夏が来ると思い出す戦争、そして現在の世界の現実」

2021年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送は疎開先の田舎の小学校の校庭に整列して聞きました。夏の陽が照り付ける暑い日でした。
夏が来ると先の戦争のことを思い出します。そして特攻隊と米軍の大きな損害を思い出します。その思い出の一方、現在の世界中に軍事基地を展開しているアメリカのことを考えています。これが現在の世界の現実なのです。
世界には真の平和が無いのです。こんな現実だからこそ昔の戦争の悲惨さや残酷さを思い出すことが重要ではないでしょうか。
そんな想いで今日も昔の戦争の愚かさ残酷さをもう一度書いて書きたいと思います。平和を願う方々がご覧になるように祈ります。

まず特攻関連の戦死者から考えてみましょう。特攻隊関連の戦死者は14,009名だったのです。
2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数は次の通りです。
海軍合計、4,156名。陸軍合計、1,689名。
この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員などその他合計、8,164名。
以上を合計すると14,009名を数えるのです。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)

1番目の写真は1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊の零戦の特攻で搭載燃料と弾薬が誘爆して爆沈した護衛空母セント・ローです。以下の写真の出典は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/特攻で損害を受けた艦船の一覧」です。

2番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。
写真のように特攻隊は連合軍の艦艇を沈めたのです。沈めた連合国軍の艦船と損害の概略は以下の通りでした。(出典は、http://kokoteikoku.web.fc2.com/Zakki/Senka.html です。)
太平洋戦域で沈んだ連合国軍の艦船です。
戦艦4隻
空母4隻
軽空母2隻
護衛空母(軽装備の空母)5隻
重巡洋艦11隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦74隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦)4隻
潜水艦60隻
日本の潜水艦が撃沈した連合国商船184隻(907000総トン)
爆撃や砲撃などで沈めたものは不明
以上の表で注目すべきはイギリスの潜水艦4隻とオランダの潜水艦8隻が沈んでいることです。
多くの戦後教育を受けた日本人は太平洋地域で連合国側がイギリス、とオランダを含めて、これだけ数多くの悲劇が起きたことを知りません。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没したアジア人は少なくとも1000万人以上と想像されています。
この昔の戦争の残酷さをもう一度思い起して、世界に真の平和を作るように努力すべきです。

毎年、8月になると広島や長崎の原爆の犠牲者の慰霊祭が行われます。そして8月15日には東京の武道館で天皇陛下、皇后陛下もご出席し、300万余の犠牲者の慰霊祭を行います。このように全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく来ようとしています。
しかし現在の世界の現実を考えると暗澹たる気持ちになります。世界中に展開している米軍基地の現実を考えると暗い気持ちになるのです。

3番目の写真は全世界に展開している多数の米軍基地の分布図です。出典は、http://manaoki.seesaa.net/article/388804731.html です。
これを見ると米軍があたかも全世界を占領しているように見えます。1990年頃のソ連の崩壊で米軍基地が昔の共産圏まで広がっているのです。
その米軍関連の海外駐留者は144万人の多数です。それらの米軍基地は先端技術に支えられた最新鋭の装備を誇っているのです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D をご覧下さい。
2008年の統計です。現役軍人数:144万人、予備役 149万人で順位は世界第一位だそうです。
そしてアメリカ軍の管轄地域は次のように全世界を覆っているのです。
管轄地域別の一覧;
アメリカ北方軍(USNORTHCOM)- 北米担当
アメリカ中央軍(USCENTCOM)- 中東担当
アメリカアフリカ軍(USAFRICOM)- アフリカ担当
アメリカ欧州軍(USEUCOM)- 欧州担当
アメリカ太平洋軍(USPACOM)- アジア・太平洋地域担当
アメリカ南方軍(USSOUTHCOM)- 中南米担当
以上のようにアメリカ軍の規模は非常に大きく、そして全世界を管轄しているのです。
最新鋭の装備の様子を写真でその一部を示します。

4番目の写真はアメリカ海軍の核弾頭ミサイル発射が可能な駆逐艦群です。

5番目の写真はアメリカ海軍の12隻の航空母艦の一隻です。アメリカ海軍は航空母艦打撃群を12編成も保有しているのです。

6番目の写真はレーダーに捕捉されないステルス戦闘機です。

7番目の写真は多量の軍事物資を迅速に輸送し前線へ落下傘で投下している様子です。
これらの写真のような先端的な装備を持っているアメリカ軍が世界に展開して駐留しているのです。全世界の人々が真に平和を祈っても地球上を覆う米軍基地があるというのが現実です。その上、近年は中国が台頭しアメリカと軍拡競争をしているのです。
この悲しい現実がある限り戦争が起きる可能性が常にあると考えざるを得ません。
平和を保つためには中国の政策も研究して、中国の動きも考慮に入れアメリカに根気よく外交的な働きかけを続けなければなりません。それは困難な道です。
日本の平和、そして世界の平和を少しでも実現するためには同時に国際友好を築くためのあらゆる努力をすることも重要です。

全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく来ようとしています。

今日は皆様とご一緒に、「世界に真の平和が来ますように!」とお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)