後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

全国の古墳マップと埼玉県と山梨県にある巨大古墳群の紹介

2016年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の3世紀から6世紀までを古墳時代といいます。
古墳と言えば大和地方ということになっています。それは学校で習う古墳時代は大和地方を強調する習慣があったからと思います。
しかし古墳は北海道の江別古墳群から九州の鹿児島まで全国にあったのです。
その詳細な分布図とそれぞれの古墳の形状や大きさは「古墳マップ」(http://kofun.info/)に詳しく掲載されています。
この古墳マップには3853カ所の古墳の詳細な情報があります。
その上、最近更新された古墳として埼玉の 二子山古墳や香川の 富田茶臼山古墳などなど十数カ所の古墳も紹介されています。
私は古墳に何故かロマンを感じています。それで暇になるとこの古墳マップを開いて全国の古墳の写真を眺めています。
古墳の作られたころはまだ文字が無かったので誰の古墳なのか分からいのです。それ故、想像が自由です。
弥生時代から大和朝廷が全国を統一するまでの間には地方、地方に武力を持った豪族が割拠していて、数多くの独立領土を持っていた時代でした。
全国の古墳はこのような地方、地方の豪族の墓なのです。
今日はその実例として、自分が何度も訪問した埼玉県の古墳と山梨県の古墳をご紹介いたします。

1番目の写真は「さきたま古墳群」の航空写真です。出典は「さきたま古墳群」を検索すると出てきます。
『日本書紀』によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかと一躍有名になりました。

2番目の写真はこのさきたま古墳群の将軍塚前方後円墳です。2008年の6月に自分で撮った写真です。

3番目の写真はこの将軍塚前方後円墳を取り囲んでいる濠の写真です。

そして4番目の写真は山梨県の前方後円墳の甲斐銚子塚古墳です。

5番目の写真は甲斐銚子塚古墳の前方部から80メートルほど東側にある丸山塚古墳です。

それでは埼玉県の古墳群について簡単な説明をします。
この地に古墳のあることは、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『忍名所図会』に記されているそうです。
1893年(明治26年)には将軍山古墳が発掘されました。1935年(昭和10年)の埼玉村古墳群調査で、前方後円墳11基、円墳11基が確認されていいます。1938年(昭和13年)8月8日には、9基の大型古墳が国の史跡に指定さます。
戦後の1966年(昭和41年)以降、整備がはじめられ、1968年(昭和43年)に「風土記の丘」整備に先立つ航空写真測量で墳丘・濠の影が認められます。
同年8月に稲荷山古墳もその事業の一環として発掘調査されました。
この時出土した鉄剣から、1978年(昭和53年)9月の保存処理中に金象嵌銘文が検出されたことで、この古墳群が日本国中に知れ渡ることとなったのです。
その後、さきたま風土記の丘という公園として整備され(現在のさきたま古墳公園)、古墳のほかに移築民家(旧遠藤家、旧山崎家)、さきたま史跡の博物館、はにわの館(実際に埴輪を作ることができる)などが展示してあります。

主な古墳には、二子山古墳(埼玉県では最大規模の古墳)など以下のものがあります。
稲荷山古墳
稲荷山古墳 - 金錯銘鉄剣が出土。推定全長120mの前方後円墳。後円部径62m。
丸墓山古墳 - 日本最大の円墳。直径約100m。
二子山古墳 - 武蔵国最大の前方後円墳。全長135mの前方後円墳。後円部径66m。
将軍山古墳 -全長101mの前方後円墳。後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
愛宕山古墳
瓦塚古墳 - 形象埴輪が多数出土。
奥の山古墳
鉄砲山古墳 - 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。全長112mの前方後円墳。
中の山古墳
もっと詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 をご覧下さい。
この記事の1番目の写真も上記のURLから転載させて頂きました。深く感謝の意を表します。

一方、山梨県の古墳群の説明をいたします。
甲斐銚子塚古墳は、山梨県甲府市下曽根町にある前方後円墳で国の史跡に指定されています。(指定名称は「銚子塚古墳 附 丸山塚古墳」)。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
山梨県内では最大規模の古墳で、4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になります。
「銚子塚」とは江戸時代の地誌類において前方後円墳に見られる通称で、側面が銚子(柄の長い酒器)に見えることからの名称と考えられているそうです。
所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置しています。
笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端にあります。
一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に広がっています。
甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近にあり、下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成しています。南西の米倉山にも古墳群がある。
詳しくは上のURLをご覧下さい。

このように3世紀から6世紀にかけた古墳時代に作られた古墳は全国の都道府県に散在しているのです。
是非、皆様のお住まいの地方の古墳を見に行くことをお薦め致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

欧米人の優れた合理性は帆船の構造を見れば一目瞭然

2016年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
明治の文明開化以来、欧米人を理解して、その文明文化を早急に輸入することが日本の国家目標であったのです。
近代科学、蒸気機関、ジーゼルエンジンなどの技術の導入は素早く出来ました。しかし欧米人の考え方を理解するということはいまだに難しいと言われています。。
東洋人や中東の国々の人と、欧米人との大きな違いの一つは、欧米人の強い合理主義にあるのではないでしょうか。
そこで今日は横浜に係留、展示してある帆船日本丸の構造を使って欧米人の合理主義の実際を説明したいと思います。何故なら日本丸には欧米の合理主義がぎっちり詰まって、一切の無駄なものが無いからです。

さて帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注されました。
ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の切り出しと部品の調達を行い、全て日本へ輸送し、組み立ては 神戸川崎造船所で行われました。昭和5年3月31日に竣工し日本側へ引渡されました。
すべての部品は鋼材に至るまで英国製であり、初めの帆走・操舵技術は英国人教官の直接指導によったのです。現在でも船内の鋼材には鋼材の切削・加工を行ったスキニンググローブ社(England)の名前が明記されています。

上の1番目の写真は横浜の桜木町に係留されている帆船日本丸です。写真は2008年4月に私が撮ったものです。
写真をみると4本のマストが立っていて、それぞれに水平の帆桁が5、6本ずつついています。
そしてマストや帆桁から何本ものロープが下の船体に張ってあります。このロープの総数は245本あります。
この245本のロープにはそれぞれ合理的な目的があり、別々の名前がついているのです。船上の水夫は皆この名前を知っていて、29枚の帆の上げ下ろしの時、自分が担当しているロープを引っ張ったり、ゆるめたりするのです。それを船長の号令に従って一糸乱れずに行うのです。

2番目の写真は29枚の帆を大西典一船長の号令に従って全て揚げた日本丸の写真です。
私は大西船長の号令の声を聞きながら、多数の水夫たちが一糸乱れずに全ての帆を順序良く揚げていく光景を見ていました。

帆船はどんなに大きくても人力でロープ操作をして走る船です。小さな人力のみで大きな帆を高く揚げるためにあちこちにウインチの原理を利用した滑車がついています。245本のロープが命なのです。そこでロープの写真を示します。

3番目の写真はマストを船体に固定するロープ類と帆桁の向きを変えるロープ類です。

4番目の写真は29枚の帆を上げ下ろしするためのロープ類です。

さて帆船ではロープという言葉は使いません。使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前がついているのです。しかし今回は簡単のため、すべてロープと呼ぶことにそいています。
ゴチャゴチャしたロープ類の写真を見ても大型帆船の構造は一瞬にして分かるというわけにはいきません。しかし数多くのロープ類には、たった2種類しかないのです。
1)マストをしっかり立てるため船体へ固定したロープ類(ステイとシュラウド)、
2)帆を上げたり、向きを変えるためのロープ類(ハリヤードやシート)。

この複雑な大型帆船の構造は一般に趣味として使われているクルーザー型のヨットを見ると簡単に理解出来ます。

5番目の写真はクルーザー型のヨットの構造を示しています。
この一本マストのヨットと4本マストの大型帆船の構造と帆走の原理はまったく同じなのです。
1)マストをしっかり立てるため船体へ固定したロープ類をクルーザーではステイとシュラウドと言います。
2)前後の2枚の帆を上げたり、向きを変えるためのロープ類をクルーザーでも同じくハリヤードやシートと呼びます。

私はこのようなクルーザーの帆走を25年間、趣味にしていました。
クルーザーヨットに乗っていると、その部品一つ一つの合目的な完璧性、船全体の構造の無駄の無さ、絶対に転覆しないキールの重さ、などなどを体感的に理解出来ます。全て合理的に出来ているのです。
ですから、帆船こそ欧米人の合理主義の極地の一つだと体験的に理解したのです。
これこそヨーロッパ文化の真髄と、クルーザーに乗る度に感動したものです。

日本丸は横浜市、JR桜木町駅前のみなとみらい日本丸係留岸壁に展示、公開されています。
国土交通省所管の大型帆船で、横浜の市民が、甲板ボランティアーになり、ロープ操作と修理や保守を担当しています。船倉にも自由に入り保管したり、屑ロープを編みなおしてもう一度使えるようにしています。帆船上ではロープ類は絶対に捨てないで、使えなくなるまで再利用するのです。
日本丸では帆の上げ方や種々の修理方法を、以前この船の船長や航海士をしていた人々が直接、根気良く教えています。
教わりながら帆船特有の文化を理解出来るのです。
一度、ご覧になっては如何でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本の世界遺産認定の疑問と批判・そんなものが何故、世界遺産なのか?

2016年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事で、世界文化遺産の一つの「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」をご紹介いたしました。
これは日本にある16の世界文化遺産の一つです。他に自然遺産が4つあります。
国連の世界遺産の認定には以前から興味があって、「負の遺産」も含めて、いろいろな角度から考えてきました。
昨日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」関連の25の構成資産の全てを見ていると非常に大きな疑問が湧き出てきました。
疑問とは「そんなものが何故、世界の文化遺産なのか?」という疑問です。
そこで日本にある16件の世界文化遺産と4件の世界自然遺産を改めて眺めてみました。
そうすると、「そんなものが何故、世界の文化遺産なのか?」という疑問が益々深まるばかりです。
今日は何故このような問題が起きているかという原因を考えました。

「そんなものが何故、世界の文化遺産なのか?」という問題が起きる大きな原因は下の二つあると思います。
(1)日本政府が国連へ候補の案件を提出する目的が、寂れた地方の観光地の再活性化にあるためです。
(2)候補の案件は政治家が決定します。従ってその案件が世界的に比較して本当に人類の遺産として残すべ貴重な文化財なのかという選別が行われていないのです。
芸術や宗教や哲学や比較文化人類学のような文化の各分野を専門にして、国際的に活躍した人々によって構成された選別委員会が決めるのではないのです。地元の教育委員会の意見は参考にしますが、教育委員は地元の狭い視野になりがちなのです。
したがって上の(1)の目的で実行されていますから、各地方の出身の政治家の力関係で推薦案件が決まってしまうのです。

それにしても、これではあまりに酷いので、知床や屋久島のような誰でも納得する案件も推薦して来たのです。

末尾の参考資料に日本の20の世界遺産の一覧表を示してあります。
世界的に見て価値の無い一例を示します。それは、18、明治日本の産業革命遺産です。
その構成資産の一つに旧八幡製鉄の古い溶鉱炉が含まれています。明治初期に作られて近代式に熱風を吹き込む溶鉱炉です。しかしそれはイギリスやドイツの近代式溶鉱炉を真似して作ったものです。イギリスにある最初の熱風式溶鉱炉なら間違いなく世界遺産にふさわしいでしょう。

ですからそれを世界遺産として推薦することが間違っていると思います。
世界遺産ではなく、それは日本の将来の為に残すべき「日本文化遺産」なのです。
こんな基準で見直せば以下は世界遺産にはふさわしいとは言えません。むしろ日本文化遺産と呼ぶのが適切ではないでしょうか?
    富岡製糸場と絹産業遺産群
    石見銀山遺跡とその文化的景観
    明治日本の産業革命遺産、など。
そして以下の自然遺産は確かに美しい風景ですが、世界的に考えればありふれた風景に違いありません。
    白神山地
    小笠原諸島

この他のもう一つの疑問点は、それぞれの案件に20、30と数多くの構成資産が含まれていることです。
これは地域の振興を目的にした政治家があれもこれもと追加して行った結果なのでしょう。
しかし今日はあまり長くなるのでこの辺で止めます。

今日の挿し絵代わりの写真は過ぎ行く夏を惜しみつつ湘南の海の風景の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
日本の世界遺産;http://nihon-sekaiisan.com/
世界文化遺産が16、そして世界自然遺産が4つです。
知床 – (北海道)
1、白神山地 – (青森、秋田)
2、平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 – (岩手)
3、日光の社寺 – (栃木)
4、富岡製糸場と絹産業遺産群 – (群馬)
4、国立西洋美術館本館 – (ル・コルビュジエの建築と都市計画の一部として) – (東京)
5、小笠原諸島 – (東京)
6、富士山-信仰の対象と芸術の源泉 – (静岡、山梨)
7、白川郷・五箇山の合掌造り集落 – (岐阜、富山)
8、古都京都の文化財 – (京都)
9、古都奈良の文化財 – (奈良)
10、法隆寺地域の仏教建造物 – (奈良)
11、紀伊山地の霊場と参詣道(通称:熊野古道) – (和歌山、奈良、三重)
12、姫路城 – (兵庫)
13、石見銀山遺跡とその文化的景観 – (島根)
14、原爆ドーム – (広島)
15、厳島神社(宮島) – (広島)
16、明治日本の産業革命遺産 – (山口、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、岩手、静岡)
17、厳島神社(宮島) – (広島)
18、明治日本の産業革命遺産 – (山口、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、岩手、静岡) 軍艦島ツアーレポート
19、屋久島 – (鹿児島)
20、琉球王国のグスク及び関連遺産群 – (沖縄)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「今日の日記です。日曜日なのでミサに行きました」

2016年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝に「何故、富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産か?」という記事を書いてからカトリック小金井教会のミサに行きました。
今日の司式はサレジオ会の吉田神父さまがなさって下さいました。
今日の聖書朗読はルカによる福音の「婚宴に招待されたら上席についてはいけない」という一節でした。
福音書にはこのような生活の知恵が具体的に書いてあるので親しみやすい読み物です。「福音書」とはなじみの無い日本語ですが、幸福になるための書物という意味です。
聖歌は幾つか歌いましたが、今日はお気に入りの「いつくしみ深く御父のように」も歌いました。
素朴で古風なラテン語まじりの聖歌です。古いイタリアやスペインの文化の香りがするメロディです。

午後は今夜の魚をスーパーに行き買って来ました。ついでに車のガソリンも満タンにしました。経済的な小型車なのでガソリン1リットルあたり13kmから14kmも走ります。
午後は一昨日に撮った山中湖のヨットの写真をしげしげと眺めて時の流れにまかせて過ごしました。
沖に係留されているヨットはもう数十年も同じ姿です。持ち主が丁寧に手入れをしています。
こんなヨットに泊まりながら星空の下でビールを飲んだら楽しいだろうと想像しながら何時までも写真を眺めました。

こうして静かな晩夏の涼しい日曜日が過ぎていきます。
時は足早に過ぎて行きます。来週の木曜日はもう9月です。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

何故、富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産か?

2016年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコの世界遺産には3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と、京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産、と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。
複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。

今日、ご紹介する「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」は文化遺産に分離されます。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と、芸術活動に対して認定されたものです。
従って富士山や富士五湖や幾つかの浅間神社がそれぞれ単独で認定された訳ではありません。
しかし観光客を集めるためもあって、「世界遺産の忍野八海」を見に行こうとか「世界遺産の北口富士浅間神社」をお参りに行こうという表現がよく使われています。
しかしこの表現は、文化という二文字が省略されているので、しばしば誤解を招くことになります。

さて、2013年に認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。この25の構成資産の全部を一まとめにして世界文化遺産に認定されたのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産に認定された理由はそれにまつわる文化が貴重だったからなのです。

一昨日、この25の構成資産の一つである北口富士浅間神社の写真をいろいろ撮って来ました。その写真の説明の前にまず全体的な説明をいたします。

静岡県と山梨県にまたがる富士山は古来より信仰の対象とされ、その上、芸術上の主要な題材としてされてきました。
その日本人の富士山にまつわる宗教活動と芸術活動が国際的に非常に貴重だと認められたのです。

それでは芸術活動とは具体的に何を意味するのでしょうか?
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が、日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、秦致貞の『聖徳太子絵伝』です。
そして江戸時代になると、富士登山が「富士講」等を通じて庶民に爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになると、ゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

それでは一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。

それでは構成資産の一つである北口富士浅間神社を一昨日撮って来た写真に従ってご紹介いたします。

1番目の写真は本殿です。元和元年(1615)鳥居土佐守創建です。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。

2番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。この写真こそ富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。
「六根清浄、・・・」と唱和すれ声が杉並木に神秘的にこだましていました。

3番目の写真も2番目と同じ僧侶に導かれた富士講の行列です。富士信仰は修験道で神仏混交の信仰です。

4番目の写真は本殿前から見た杉の巨木の並んだ参道の写真です。

5番目の写真は本殿とその右下に和服の女性と黒人が写っている写真です。和服の女性が本殿の横での無料の抹茶の席へ誘っています。

6番目の写真は本殿横の野点の様子です。和菓子も上等で茶のたて方もなかなかなものでした。実に優雅な野点でした。

7番目の写真は家内とそこで仲良くなったジャマイカ人の男性の写真です。リオ五輪で金メダルを三個とったウサイン・ボルトの従兄弟だという人と家内がボルトのポーズをとってふざけています。

以上の写真はあくまでも25構成資産のたった一つのご紹介です。
北口富士浅間神社は山中湖に行く道の途中にあるので、昔から何度も寄りました。
いつも人影の少ない静かな神社でしたが、一昨日は参拝客が多くて、野点の抹茶のサービスまでありました。これも世界文化遺産に認定されたお陰でしょうか。
今度は寄なかった忍野八海にはいつも中国人の観光客が溢れ、中国語が飛び交っています。

世界自然遺産は美しい自然の保護に役にたちます。世界文化遺産は各地の貴重な文化の保存に役にたちます。しかしあまりにも観光客が増大すると逆効果になる恐れが感じられます。何故か考えさせる問題です。そんなことを考えながら写真を撮ってきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===============
構成資産とは、富士山が「信仰の対象」「芸術の源泉」となった価値を具体的に証明できる文化資産のこと。山体だけでなく、古より富士山と関わりを持つ周囲の神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼などがあります。世界文化遺産としてふさわしい価値を有している、富士山の構成資産のすべてをご覧ください。

構成資産は全部で25箇所! これぜーんぶで「世界遺産」なんです!
http://www.fujisan223.com/reason/kouseishisan/
1. 静岡県・山梨県
富士山(富士山域)
「信仰の対象」と「芸術の源泉」の価値を持つ、標高約1,500m以上の重要な地域に9件の構成要素が存在。

1-1. 静岡県・山梨県
山頂の信仰遺跡群
火口壁に沿って神社等の宗教関連施設が分布し、山頂部で宗教行為が体系化されたことを示しています。
1-2. 富士宮市
大宮・村山口登山道(現 富士宮口登山道)
富士山本宮浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道。資産範囲は六合目以上です。

・・・中略・・・
1-5. 富士吉田市/冨士河口湖町
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社を起点とし、山頂を目指す登山道。18世紀後半以降、最も多く利用されています。
1-6. 富士吉田市
北口本宮冨士浅間神社
浅間大神が祀られていた遙拝所を起源とし、1480年には鳥居を建立。富士講とのつながりが強いとされる。
・・・以下省略・・・・
そして静岡県の三保の松原が25番目の構成資産になっています。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本の原子力発電が再稼働、その危険性を忘れないようにしよう!

2016年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年3月の東日本大震災の前までは54基の原子力発電装置が正常に運転されていました。
一基あたり大体100万キロワットの発電をしていましたので、合計約5000万キロワットの電力が原子力発電によってまかなわれていたのです。それは日本の総需要の30%弱でした。
その54基のうち福島にあった4基の原発が大津波に襲われ水素爆発をしたのです。放射性物質が吹きあがりました。
爆発した原発の近隣の市町村からは人々が避難し、長期間、無人となり荒れ放題になりました。
その後、定期点検などで運転を長期間停止する原発が続きました。その結果、1年間ほど日本では原発がまったく発電していなかった期間がありました。
その後、厳しい安全性の検査が合格して、今年から数基の原発がまた発電を始めたのです。
しかし運転再開後の原発の安全性を徹底的に維持しなけらばなりません。
それには原発の危険性を再確認し、それを忘れないようにすることが非常に重要であると信じます。
日本には「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言い方があるように、最近、あの原発の爆発のことを忘れてしまうような雰囲気があります。
そこで今日は福島の4つの原子力発電装置が何故爆発し、どのような被害を受けたか振り返ってみましょう。
それではまず爆発後の原発発電装置の写真をご覧ください。





写真の出典は、http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/430.html です。
この航空写真は Air Photo Service Co. Ltd によると発表されていました。非常に精密な写真で、現場の様子が手に取るように良く分かります。この写真は始め国内では報道されず外国で公開されていました。

1号炉から3号炉が水素爆発したのです。燃料棒がメルトダウンして多量の水素を発生したのです。炉心圧力容器の底が損傷して核燃料の一部が格納容器へ漏れ出したのです。4号炉は燃料棒の貯蔵水槽が吹き上がりました。その上、強力な水素爆発も起きたようです。
これらの爆発によって冷却水を送る脆弱な配管類も壊れたのです。その結果、冷却水がメルトダウンした炉心に送りにくい状況が現在でも続いています。結果として、汚染水を入れる強大な多数のタンクが福島第一原発の広大な敷地内に林立しています。

それでは住民が避難して無人となった市町村はどうなったのでしょうか?
人々がいなくなったので田畑が荒れ果てました。餌をやる人がいなくなったので多数の家畜が死に絶えました。田畑にはイノシシが跳梁している地域もあります。
原発の爆発から3年後の2014年1月に住民が避難した福島県の浪江町に入った人がいます。
その方の「福島第一原発20Km圏内の現状を見る」という報告記事をご紹介いたします。
尚、その詳細は、http://blog.goo.ne.jp/s-sakai3104/e/2ec597de565066f68beeee5b2fa29e57 に御座います。

・・・ 宮城県方面からから国道6号を南下し、南相馬市小高地区から浪江町に進入します。
原発事故に伴い設定されていた警戒区域が、昨年5月28日午前0時に解除されてから 早8ヶ月が経ち、現在の現状がどうなっているのか気になるところです。道路わきの風景写真を示します。

警戒区域が解除され、新たに年間放射線量に応じて「帰還困難区域(50ミリシーベルト以上)」「住居制限区域(20~50ミリシーベルト以下)」「避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト以下)」 の3つの区域に再編されています。

警戒区域の全解除=立ち入りが可能になるというわけではありません。警戒区域は全てなくなりましたが、放射線量が高い地域は原則立ち入り禁止が続きます。それが散在しているのです。
「帰還困難区域」については、今後5年を経過しても生活が可能とされる年間放射線量20ミリ・シーベルトを下回らない地域とされてますから、警戒区域指定の時期と変わらないのです。
むしろ今後4年間は立入が制限され住民の帰還をさせないと宣告した状態です。もう一枚、風景写真を示します。

警戒区域では検問所があって警察官が1人ひとり立入許可証の確認をしています。いったん中に入ると浪江町内は自由に走行できたけど、現在は6号から町内への交差点は、すべてバリケードで閉鎖しており、決まった数箇所の出入り口からしか入れなくなってました。
住居制限地域も同様のようで、そこにはガードマンが立っていて、やっぱり立入許可証の提示を求められます。

ちなみに「住居制限区域」」は年間放射線量が20ミリシーベルトを下回るのに数年掛かると思われる地域で、一時帰宅は可能であり除染で線量が下がれば帰還可能な区域です。

海岸線を見たことろ、 周辺では道路の復旧工事や圃場に散乱した瓦礫撤去を細々とやっていた印象です。
振り返って国道6号側を見たところ、瓦礫は全然片付いていません。やっと散乱していた瓦礫を集積して所々に山にしているだけでした。
宮城、岩手の津波被災地は復旧が進まない進まないと言われながらも、瓦礫の片付けと撤去はほとんど終わってきています。
それに対して原発事故の影響地域は、進まないどころか間もなく3年になろうとしてるのにほとんど震災津波被害の状態のままといった印象でした。 道路わきには当時走行していたであろう車が、衝撃の激しさを物語るようにグシャグシャになってひっくり返ったままの状態です。 元は田んぼと思われる場所にも車が点在したままです。 放置された車の向こうに、津波で破壊された住宅が見えます。
一階は流されて吹き抜け状態の住宅ですが、けっこう立派な家が多いのです。・・・・

以上にご紹介した状況は2年前のものであります。現在はもう少し復興はしたと存じます。
しかし2014年から5年を経過しても生活が可能でない「帰還困難区域」があちこちに散在して残っているのです。住民にとって普通の生活が出来にくいのです。従って避難指示解除準備区域でも帰る人が少ないといいます。

このように原子力発電装置には大きな危険が伴っているのです。
停電の場合の自家発電装置の設置や水素爆発を防ぐ放出弁の設置など数々の改良はなされましたが、原発の危険性を忘れずに慎重に運転することが非常に重要なのです。
現在、数基の原発が再び運転され始めました。
私個人は再び運転を始める原発の数を可能なかぎり少なくし、太陽光発電や水力発電や火力発電で不足分をまかなってほしいと願っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

「今日は晴天に誘われて富士山の写真を撮りに行きました」

2016年08月26日 | 写真
朝に「ガンの治療を断り美しく旅立って行った人の思い出」という記事を書いてから、あまりにも見事な晴天なので富士山の写真を撮ろうと山中湖まで行きました。富士山が好きな家内も同乗しました。

しかし残念ながら富士山の五合目から上は厚い雲に覆われていて姿が一日中見えませんでした。
流石に気温は低くて爽快な風が湖面から吹き付けていました。
帰りに富士北麓の森林地帯をドライブして、富士自動車博物館まで行きました。

富士山の上の方は曇っていましたが、抜けるような青空に秋の雲が流ていました。高原は24度くらいで涼しい風が吹いていました。

1番目の写真は高尾の山並みと白い雲です。
2番目の写真は山中湖と富士山の裾野の写真です。
3番目の写真は山中湖の東方向の風景です。

写真をお楽しみいただけたら嬉しく思います。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ガンの治療を断り美しく旅立って行った人の思い出

2016年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いろいろなことがあるのが人生ですね。私は6年前にZonサノバビッチさんという方と知り合いました。当時、彼は英国に住んでいた男性です。Zonサノバビッチさんという名前で文章を趣味人倶楽部で発表していました。彼とは現在も文通しています。

その彼が12年前に亡くなった英国人の友人を思い返して、趣味人倶楽部で書いた文章を見つけました。メールのやり取りをして、その文章を転載する許可を頂きました。しみじみとした文章です。そして美しく旅立った人のためにお墓を作るのです。私はZonサノバビッチさんと知り合ったことを誇りに思っています。

ガンの治療を断って静かに人生を終えた人はJackさんと言い、無宗教でした。私はいい加減なカトリック信者で、キリスト教に関する記事を沢山書いています。しかし何時も無宗教の人々へ対する敬意を滲ませた文章を書いてきました。それが本当に良かったとも感じました。以下をご一読下さい。
=====Zon・サノバビッチさん著、「バイバイ」==========
私は、自分の人生において、あれほど感動した経験を持たない。
深い深い寝息を立てられること数時間。それがあるとき止ったと思うと、何か「上品な退席」をされるかのごとく、すっと逝かれた。
ホスピスでのことであったが、前日「気分が悪い」と言われたとき、その翌朝に亡くなるということが、私には分った。 時間まで、、。朝4時。
ジャックさんは、その2週間ほど前、医者から直接自分が癌の末期症状にあることを宣告され、何ら取り乱すことなく、私にこう言われた。
「わしは、もう永く生きてはいない。今度はあの世で会おう。」
(因みに、そのほぼ2年前、膀胱に癌細胞が発見されたとき、「もう年寄りだから」という理由で、手術を受けることを拒否されている。)
このことを思い出すたび、私はいつも目頭が熱くなる。
ジャックさんは、宗教的な人ではさらさらなかったが、その逝き方は実に綺麗であった。事実あれほど美しい死を見たことがない。人間、あんなに綺麗に死ねるものであろうか。 自分の死に対して、何ら「見返り」を期待せず、潔く「バイバイ」と手を振って逝かれた。私はそこにいたく感動したのである。
身寄りと言って大しておられなかったジャックさんの没後の処理は、結局私がすることになったが、彼の遺灰は全身、私の今のグリニッヂの家の庭に埋めた。そして、その上に、灯篭を置いた。
ただ遺憾なことに、私、この極めて上質な人間でおられたジャックさんに必ずしもいつも親切であったとは言いがたい。
今にしてすまないことをしたと思っているが、そんなことを言っても始まらない。私に出来る最高の恩返しは、これからの人生、いかに全うに生きるかということだけであろう。
ジャックさんが逝かれたのは、12年前の5月1日、未明のことである。  享年88歳。
=========終り===================

上の文章の作者のことはGoogleで「Zonサノバビッチ」を検索すると出て来ます。またJackさんのことは私も以前ブログに書いた記事があります。その記事は「Jackさんのさわやかな生涯」をGoogleで検索すると出てきます。

今日の挿し絵代わりの写真は武蔵野の雑木林の風景です。昨日、都立薬植物園の裏の雑木林で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「残暑厳しい中、頑張って花々の写真を撮りに行きました」

2016年08月25日 | 写真
台風が過ぎたら、秋風が吹くのではないかと期待していましたがが見事裏切られ猛暑がまたやって来ました。
午後から都立薬草植物園へ行きました。
夏は花の種類が少ないのですが、それでもオミナエシなどが咲いていました。
裏の雑木林でミンミン蝉が耳を聾せんばかりに鳴いていました。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は、オミナエシです。

2番目の写真は、キキョウです。

3番目の写真は、コウホンです。

4番目の写真は、コガネバナです。

5番目の写真は、タバコの花です。

6番目の写真は、ニラの花です。

7番目の写真は、ニチニチソウです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

北方四島の歴史と元そこに住んでいた島民たちの考え方

2016年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦は人類の経験した一番大規模な戦争でした。数多くの悲劇がヨーロッパで、アジアで、中東で、アフリカで起きました。
何千万人もの人が犠牲になりました。各地で飢餓状態が生じました。そして戦勝国は領土を拡大して、現在にいたるまで領土をめぐる抗争をあちこちに残しました。
日本も例外ではありません。現在にいたるまで隣国との島の領土権を巡って抗争が続いています。尖閣諸島、竹島、北方四島、はそれぞれ中国、韓国、ロシアとの間で現在に至るまで抗争が続いています。戦争が遺した悲劇です。

今日は北方四島がロシアの実効支配下になった経緯と、その後の歴史を簡略に示し、北海道の東部の標津町に住んでいる元島民たちの考え方をご紹介したいと思います。

まず北方四島の場所を示します。

この1番目の写真は北方四島です。知床半島のすぐそばにあるのが国後島で、その右上が択捉島です。根室の東にある小さな島々が歯舞諸島で、その右上にある長方形の島が色丹島です。

2番目の写真は知床半島から見た国後島の遠景です。

さてこれらの北方四島の歴史はどのようなものでしょうか?
分かり易く箇条書きで下に示します。

(1)ヤルタ会談での密約でロシア領になることを決める。
第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった昭和20年(1945年)2月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。
ここでルーズベルトは、スターリンに、ドイツ降伏の3ヵ月後に日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう要請しました。ルーズベルトはその見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する全ての権益をソ連に与えるという密約を交わしたのです。
(2)ヤルタ会談に従って、日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し、千島列島に侵攻を開始。
  太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が北方四島に上陸、占領しました。
(3)
アメリカがソ連による占領を承認する。
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されましたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となったのです。
(4)北方四島をソ連の行政区に正式に編入。
1946年1月29日、アメリカ占領軍のGHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されました。すると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に行政編入をしたのです。そして3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更されました。
(5)アメリカとソ連と日本人の島民の引揚について合意成立。
1946年12月、日本占領軍のGHQとソ連との間で、日本人全員の引き上げが合意されました。そして引揚が1947年に始まり1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。
(6)戦後のソ連による国後島の開発。
戦後のソ連は、ユジノクリリスクという新たな町を、日本時代の古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設します。そして北方四島に軍事基地を作ります。
(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6 からの抜粋です。)

3番目の写真はユジノクリリスクの風景です。

4番目の写真は北方四島にあるロシアの小学校の写真です。
(7)ソ連崩壊後、2島返還論が小渕首相に進められた。
小渕政権時代に鈴木宗男大臣がエリツイン大統領と歯舞島と色丹島の2島返還交渉をしました。
しかしアメリカが日露間の親密化を嫌い、横やりが入ったらしく、挫折したと言われています。これで北方四島の返還にはアメリカの意見を斟酌する必要があることが明らかになったのです。日本がロシアと関係が悪くなるほど安保条約がより強化されるのです。
ですから北方四島が返還されない方がアメリカの利益になるのです。

以上を要約すると1946年にアメリカ占領軍とソ連側との交渉によって北方四島はソ連の領土に編入されたのです。
しかし以前の統治国のだった日本を完全に排除した上での決定は国際法的によると無効と理解出来ます。
そこで日本はサンフランシスコ平和条約の成立後、しばらくしてから4島の返還運動が始めたのです。平和条約成立以前は日本はアメリカの占領下であったので、占領軍が合意している以上、ソ連に対して返還運動が出来なかったのです。

このような歴史を持っている北方四島の元の島民はどのように考えているのでしょうか?
北方領土からの引揚者の多くは国後島の対岸にある標津町に住みました。
その標津町に数年住んでいたことのある友人が以下のような文章を送ってくれました。

・・・・以前、私は北海道の標津町に住んでいました。多くの友人もできました。
特に漁業関係者とも胸襟を開いて話しました。
敗戦後、国後島が占領され、島民は追われました。
それはそれとして、国後の原住民はアイヌでした。江戸時代から和人が滅ぼしたり、混血して、昭和時代になると純粋な原住民はいなかったそうです。
ソ連に追われて、彼らは標津町の漁民になりました。漁業に成功した人もあり、失敗して釧路や札幌へ流れた人もいたそうです。
月日が経てば、子供たちは進学し、内地へも行ってしまいます。残って父の漁業を継ぐ者もいます。
元々この地は内地からの入植者で開けた土地です。国後からの移住者が増えただけです。戦前から結婚などで標津町と国後は交流もありました。ですからスムーズに移住生活が出来ました。
しばらくすると内地から「北方領土返還」の声が聞こえてきました。
標津町にも同調する者はいます。しかし、元の国後島民の関心は「漁業権」だけなのです。あの海でもう一度漁がしたい!!。あの豊かな魚、昆布を獲りたい。浜に番屋ぐらいは建てたい。それが本音です。
彼らの歳はあと何年もありません。子供たちは日本の生活に慣れて、不便な島へ戻る(移住する)事は誰も望んでいません。勉強のできる子供を札幌の学校へやりたい、それなんです。
隣の別海町の人が墓参で島へ行きました。その人は島の様子を話します。別海町のほうが好い、これが結論です。
しかし、表立っては言いません。90歳の爺さんは夢のような海の幸を語りますが、設備の整った標津町の病院へ通っています。
まあ、北方領土返還運動も飯の種ですから、その筋の人にとっては命よりも大切でしょう。市町村も国から対策費が出ていますから、建物も立てられるし、いいんじゃない、と思っています。
こんな面白い噂話が有ります。噂話ですから真偽はわかりません。
日本から墓参団が船で国後へ行きました。船の先には行先の国の国旗を掲揚するそうです。当然日の丸をつけて入港しました。するとソ連の役人が日の丸を降ろせと指示したそうです。船長は降ろそうとすると、乗っていた厚生省の係官が、絶対ダメと言い張ったそうです。国後島は日本だからです。
入港し上陸しなければ墓参は出来ません。
すると復帰運動をしている活動家が日の丸を降ろし、赤い旗を掲揚したそうです。勝手にした事ですから日本の顔も立ち、ソ連も顔が立ち、皆ハッピーだったそうです。
噂話ですから笑い流して下さい。(終わり)・・・・・・

第二次世界大戦戦争の悲劇は何千万人という人間が死んだことです。そして実にいろいろな未解決の問題をこの地球上に残しました。

北方四島が一日も早く日本に返還されることを祈りながら終りと致します。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

5番目の写真は北方四島の風景写真です。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アメリカの自由と平等にはキリスト教が少し関係している

2016年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカには転職の自由、残業をしない自由、上役に意見を堂々と述べる自由、転勤を断る自由、結婚の相手を自分で選ぶ自由、離婚の自由、それに銃を持つ自由などなどがあります。
そして、黒人差別があるにも関わらず、彼等はよく「人間は皆平等だ」と言います。何故、このような文化を持っているのでしょうか?
今日はその理由の一つとしての、彼等とキリスト教の関係を見てみましょう。

アメリカで平等とか自由という言葉を使う時、多くの人々は神を連想しているようです。
そして平等とか自由は神から与えられた基本的な人権だと感じます。何せアメリカでは95%の人がキリスト教の言う神の存在を信じているのです。
このような文化がある一方で、 アメリカは戦争をよくします。貧富の差も大きい社会です。相変わらず黒人差別があります。
それはアメリカ文化の大きな欠陥に違いありません。

以下に示した1番目の写真は 「世界55ケ国の神を信じる人の数の2000年の統計調査結果」を図面で示したのもです。

この写真の出典は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html です。

この統計調査は、世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し実施した調査結果です。調査には、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較する「世界価値観調査」も含まれています。調査は1981年から始まり、1990年からは5年ごとに行われています。各国毎に全国の18歳以上の男女1,000サンプル程度の回収を基本とした個人単位の意識調査です。
その調査結果から、ここでは、神の存在、死後の世界に対する各国国民の見方を図に示してあります。
この図の詳しい説明は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html に御座います。

神の存在と死後の世界を比べると、神の存在の方が一般的に信じられていあす。
神の存在は24カ国で90%以上の人が信じており、50%未満の人しか信じていない国は5カ国に過ぎないのに対して、死後の世界は、90%以上の人が信じている国は4カ国しかなく、50%未満の人しか信じていない国は25カ国もある。
 エジプト人は、神の存在、死後の世界ともに、100%の人が信じている。ヨルダン、インドネシア、フィリピンといった諸国も、エジプトと同様の見方を示している。逆に、ベトナムは、神の存在も死後の世界も信じていない者が多い点で目立っている。これは上座仏教の影響なのかも知れないと思います。
日本は、ベトナム、チェコと並んで、神の存在を信じない人の多い国ですが、死後の世界については、信じない人が多いのです。その比率は、ドイツ、デンマークと同程度であり、それほど目立っているわけではないようです。

このような調査結果を見るとアメリカの自由や平等に対する考え方にキリスト教の教えが影響しているのではないかと考えられます。
キリスト教では神の前では人間は皆平等だと強く教えています。この世では不平等でも神は平等に愛してくれると言います。
同じ様に人間の自由は神が与えたという理解が根底にあってアメリカのいろいろな自由があるのかもしれません。
これは私が感じていることなので間違っているかも知れません。


今日の挿絵代わりの写真は6月に神代植物公園で撮ったダリアの花とベコニアの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

日本会議を支援している安倍政権の本質と今後の政策

2016年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
安倍総理と自民党の大部分の国会議員は日本会議国会議員懇談会に所属していて、日本の右派的団体の日本会議を支援しています。
ですから安倍政権の本質と、今後の政策は日本会議の活動方針を見れは明快に分かります。

しかし何故か日本のマスコミは「日本会議」について報道をほとんどしません。触らぬ神に、祟りなしと考えているのでしょうか。
そこで今日は、この日本会議の活動方針をご説明したいと思います。

その前に、まず日本会議国会議員懇談会を説明させて下さい。
この懇談会は日本会議の活動を支援する超党派の議員によって構成される議員連盟です。1997年に設立されました。
2014年の時点での参加国会議員数は289名でした。2015年9月時点では、281名の国会議員が参加しており、そのうち256人が自民党員なのです。自民党以外にも民進党の一部の右派系議員も加盟しています。

そして驚いたことに15人もの日本会議国会議員懇談会会員が第二次安倍内閣への入閣しているのです。
しかも、この懇談会の運営担当者は以下のように安倍政権と一体になっているのです。

特別顧問、安倍晋三、麻生太郎

会長、平沼赳夫、会長代行、 額賀福志郎

副会長、
石破茂
小池百合子
菅義偉
中谷元、など

以上のように安倍政権は右翼団体、日本会議の活動を支援するために政策を決めているのです。ですから日本会議の将来の活動方針を見れば安倍政権の本質と、今後の政策の内容が理解できる寸法になっているのです。

それでは右翼団体、日本会議とはどのような団体なのでしょうか?
日本会議は、1997年に設立された日本の民間団体です。2016年現在、会員は約38000名、全国都道府県に本部があり、その傘下には241の市町村支部があります。
そして上で説明した日本会議国会議員懇談会と、地方の日本会議地方議員連盟は、日本会議の中の関連団体なのです。

その詳細を、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0 に従って説明いたします。

この団体の活動目的は、"美しい日本の再建と誇りある国づくり"です。その実現のための政策提言と国民運動を行うのがこの団体の目的なのです。

主な活動には以下のものがあります。

1、男系による皇位の安定的継承を目的とした皇室典範改正
2、「押し付け憲法論」に立った憲法改正要綱の作成
3、学校教科書に於ける「自虐的」「反国家」とみなした記述の是正
4、自衛隊法の改正等による「有事法制」の整備
5、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
6、男女平等への反対運動
7、「人権機関設置法」反対

組織は都道府県を9区域にまとめ、県毎に県本部を置き、さらにその下に支部が置かれていまます。月刊機関誌「日本の息吹」を発行しています。
会員種類は、支援会員(月刊誌購読のみ)、正会員(年会費1万円)、維持会員(年会費3万円)、篤志会員(年会費10万円)、議員会員(年会費1万円)、女性会員(年会費5000円)などです。

主な役員は以下の通りです。
会長
塚本幸一(ワコール会長、初代 1997年 - 1998年)
稲葉興作(石川島播磨重工業会長、第2代 1998年 - 2001年)
三好達(元最高裁判所長官、第3代 2001年 - 2015年)
田久保忠衛(外交評論家、杏林大学名誉教授、第4代 2015年 - )

副会長
安西愛子(声楽家、元参議院議員、日本福祉党顧問)
小田村四郎(明成社社長、拓殖大学元総長)
小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
田中恆清(神社本庁総長、石清水八幡宮宮司、国民の会代表発起人)

顧問
石井公一郎(ブリヂストンサイクル元会長、明成社初代社長)
北白川道久(神社本庁統理)
鷹司尚武(伊勢神宮大宮司)
服部貞弘(岩津天満宮名誉宮司、神道政治連盟常任顧問)
渡邊惠進(第255世天台座主)

以上のようにこの団体の始めは神道関係者や天台宗などの仏教関係者や生長の家などの右派が作ったものです。
それに実業界の幹部の愛国者が加わり、安倍政権になってから安倍総理を始め閣僚や多数の自民党議員が支持することに決め、加盟したのです。
日本会議は安倍政権と直接組んだことで一躍、注目をあびるようになったと考えられます。

先の参議院選挙でも自民党が大勝したのです。このことは国民の大多数は日本会議の活動を支援することを意味します。

皆様は本当に以下の方針迄まで賛成なのでしょうか?
・・・
5、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
6、男女平等への反対運動
7、「人権機関設置法」反対

賛成なら、それはそれで多数決が重要な民主主義では、上の5、6、7は安倍政権によって法制化がなされるでしょう。
私は老人です。日本の将来は若者に任せるのが良いと思います。しかし、どのように考えても
5、6、7へ対しては深い危惧を感じています。
皆様のご意見をコメントとして頂けたら嬉しく思います。
今日の挿し絵代わりの写真は10日前に撮った甲斐駒岳の麓の小屋の付近で撮った何気ない風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

石原慎太郎氏の欧米人差別とトランプ氏の差別主義の共通性

2016年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の文芸春秋の9月特別号に石原慎太郎氏が、「日本は「白人の失敗」に学べ」という記事を書いています。

この記事の中で彼は白人の植民地収奪が現在のイスラム過激派のテロの原因になっていると書いています。
そして田中角栄氏の失脚は、田中氏がアメリカを怒せたので、アメリカがしたことだと書いています。
さらにアメリカでの人種間対立を悪化させたのはオバマ大統領だと言うのです。

そこで日本はこれらの白人の悪行や失敗から学ぶべきだと言います。
その結果、日本は移民を日本になじませて、入れろと主張しています。
最後の部分ではアメリカの先端的な戦闘機や武器は日本の先端技術が支えていると言うのです。

結論として、「ヨーロッパは衰退し、EU崩壊は目前のこととなりつつある。このままではヨーロッパはもたない。アメリカの人種的分裂もひどくなるばかりである。そんな時代だからこそ、白人でもなく、キリスト教徒でもなくイスラム教徒でもない日本人の役割は重要になっている。日本ほどアメリカが必要としている国は無いと言いたい、混迷を深める世界にあって、最も重要な役割を果たせるのはこの日本であることを、日本人は知っておかなければいけない。」と主張しているのです。
すなわち今後の世界では日本人が一番重要になると自画自賛しているのです。

この記事を読んで私は石原氏は差別主義者で、その上排他的考えの持ち主だと感じました。
そして、嗚呼、これはアメリカの大統領候補のトランプ氏の差別主義や排他主義と同じ性質だと感じたのです。

石原氏は白人を差別し、嫌います。彼等の悪行をあげつらい現在のテロ事件の原因になっているというのです。
アメリカ社会の白人と黒人など人種対立が将来ますます激しくなると言うのです。

一方のトランプ氏は人種にかかわりなくイスラム教徒は差別してアメリカへの入国を禁止すると言うのです。メキシコとの国境に壁を作り、メキシコ人の不法移民を禁止すると言うのです。

石原氏とトランプ氏の排他主義の違いは差別の基準だけです。
石原氏は日本人か白人か黒人かという基準を使います。同じアジア人へ対する考慮が見られません。
トランプ氏はイスラム教徒かキリスト教徒かという基準で差別します。そして不法移民でアメリカ人の職を奪うか否かという基準でメキシコ人を差別し排斥します。

誤解の無いように書きますが民族の違いはその文化の差別から自然発生的に生じます。ですから差別というものが全て悪いと私は考えていません。
問題は差別の基準の問題です。石原氏の基準に問題があるのです。同様にトランプ氏の基準が悪いのです。

ここでかねがね私が考えていた政治家としての石原氏の弱点を短く書いておきます。
彼は卓越した国内政治の指導者です。たった一つの弱点は彼には国際的視野が完全に欠落していることです。

今日取り上げた、「日本は「白人の失敗」に学べ」という記事をアメリカ人やヨーロッパ人が読んだらどのように考えるでしょうか?
白人を一方的に悪と断罪していることに怒りを感じるでしょう。
アジアのいろいるな国の人が読んだらどう思うでしょうか?アジア人を無視しているので悲しく思うでしょう。
石原慎太郎氏にはそのような発想が欠落しているのです。

何故、欠落しているか?その原因を考えると彼には欧米に住んだ経験がないのです。アジアのいろいろな国に住んだことがないのです。
若くして芥川賞を受賞して国内ではなばなしくもて囃されました。弟の裕次郎さんも一緒にもて囃されました。
その後、国内政治家として高く評価され忙しくなり、外国に長期間住むこと出来ませんでした。

外国に長期間住んでみると白人、黒人、日本人と差別することの愚かさがしみじみ理解出来るはずです。
人間は心の中での差別はさけられません。
しかし翻訳される可能性のある「文芸春秋」に、あのような記事を公表することは国益にかなうものでしょうか?
白人が読んだら嫌悪する筈です。同じことでも礼儀正しい言い回しを使えば良いのです。

もう一つの石原氏の白人嫌いは、彼がキリスト教をあまりにも知らな過ぎるからと思います。
キリスト教徒のスペイン人が南米を蹂躙し、残酷な所業をしたからキリスト教は悪であると単純に思っているのでしょうか?
どんな宗教でも悪い側面と良い側面があります。どちらの側面を大きくするかは人間が決めることなのです。
もし当時、日本人が大洋の航海術を知っていて、鉄砲を持っていたとしたら、日本人も南米で同じことをした可能性もある筈です。
そのことを考えない態度が偏狭過ぎるのです。

世界にはいろいろな人種が住んでいます。実に種々の宗教もあります。この状態は将来も変わらないでしょう。
ですからこそ、石原氏やトランプ氏のような差別主義は人類に幸をもたらさないと信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は、石原氏が軽く考えているキリスト教の風景です。
ユネスコの世界遺産へ申請中の長崎の教会群とキリスト教関連遺産の中の3つの天主堂の写真です。上から順に、大浦天主堂、野首集落跡と旧野首教会堂、そして江上天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

国指定特別天然記念物の阿寒湖のマリモの楽しいお話

2016年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者の方は憶えていらっしゃるでしょうが、阿寒湖にしか育たないマリモが急に騒がれ始め、とても持て囃された時代がありました。
なにせ球のような形に育つ、美しい緑の藻なのです。
今日は、あの頃を懐かしいと思う方々へ阿寒湖のマリモの楽しいお話をお送りします。

マリモは戦後の暗い世の中に明るい夢を与えたのです。新聞が大々的に書きたてたものです。
あれは1952年頃のことでした。その1952年に、この非常に珍しい阿寒湖のマリモを、国が特別天然記念物に指定したのです。
マリモが大きな球状の集合体を形成するのは日本では阿寒湖と青森県の小川原湖だけなのです。非常に珍しい藻の一種なのです。
そして、ヨーロッパ北部、ロシア、北アメリカ等にも分布しています。

特別天然記念物に指定された翌年の1953年には、「マリモの歌」も一世を風靡したのです。日本中のラジオから毎日のようにこの歌が流れていたのです。

1 水面(みずも)をわたる風さみし
  阿寒(あかん)の山の湖に
  浮かぶマリモよ なに思う
  マリモよマリモ 緑のマリモ

2 晴れれば浮かぶ水の上
  曇れば沈む水の底
  恋は悲しと嘆きあう
  マリモよマリモ 涙のマリモ

3 アイヌの村に今もなお
  悲しくのこるロマンスを
  歌うマリモの影さみし
  マリモよマリモ 緑のマリモ
(作詞:いわせひろし、作曲:八洲秀章、唄:安藤まり子)

流行歌とともに、次のようなアイヌの伝説もつたわって来ました。

その昔、阿寒湖畔の小さな村に美しい娘セトナがおりました。セトナはその村の酋長の娘で、酋長が定めた男と結婚する約束がありました。ところが、セトナはそのしもべ、マニベといつしか恋仲となってしまいました。マニベがしもべであるために、二人の恋はついにかなわず、やがてセトナは約束の男と結婚することになりました。
けれども婚礼の夜、セトナはマニベを忘れることはできず、遠くから聞こえるマニベのかなでる美しい草笛に誘われて湖畔にさまよいいで、月淡き湖に二人は丸木舟で沖に漕ぎ出しました。 この世に結ばれぬ運命を故郷の湖底に結ぼうと身を投げたのです。
酋長をはじめ村人も、二人の深く清い心をそのとき初めて知り、二人の永遠の幸せを祈りました。
セトナとマニベの激しい恋の魂は、まもなくマリモの姿と変え、湖の中で永遠に生きて行き続けていると伝えられています。
阿寒湖では、いまでも相愛の男女がマリモに祈りをささげると、いつまでも幸せになるといわれています。

あの頃、私は阿寒湖のマリモを一度は見てみたいと憧れていました。
ところが、それから何年もたってから瓶の水の中に入れたマリモが売り出されたのです。
日本では阿寒湖のマリモは特別天然記念物です。採集は厳禁です。
しかしマリモに憧れる人々が多かったのです。輸入業者が採集が禁止されていないロシアから天然マリモを輸入して、瓶の水に入れて売り出したのです。その上、釧路湿原のシラルトロ湖で採取したマリモ糸状体を人工的に丸め、育てた球状のマリモを「養殖マリモ」として売り出したのです。
養殖まりもは、1年間で約1ミリ~2ミリ大きくなると言われ、天然まりもは1年間で約4ミリ~7ミリ大きくなると言われております。最近はネットの通販に簡単に手が入るのです。
美しい緑の球体を見ていると、不思議にこの世の憂鬱を忘れ、癒されると言います。

私はマリモに憧れて阿寒湖まで何度か旅をしたことがあります。
なにせ阿寒湖の沖にある チュウルイ島にはマリモ展示センターがあり巨大なマリモが展示してあるのです、。
何回か訪問し、巨大な球体を作って何十年も生きているマリモに何故かひどく感動したものです。それは本当に不思議な植物です。

そんな旅をした、2012年の9月に撮った阿寒湖の風景写真を示します。








そしてチュウルイ島のマリモ展示センターにあるマリモの写真を示します。

このマリモの写真の出典:http://tomato-tabi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_224/tomato-tabi/E381BEE3828AE382822.JPG
さらに、最近、販売されているマリモの写真を示します。

販売されている養殖マリモの写真の出典は、http://shop-n.co.jp/SHOP/marimo_004.html です

この阿寒湖はベニザケの陸封型の湖沼残留型のヒメマスが生息し、2005年11月、ラムサール条約登録湿地となったそうです。

マリモが大きな球状の集合体を形成するのは日本では阿寒湖と青森県の小川原湖だけです。しかし、球状にならないマリモの生育が確認されている湖沼は以下のように報告されています。
•北海道:釧路湿原内の中小湖沼(シラルトロ湖・塘路湖・達古武沼)・チミケップ湖
•青森県:左京沼・田面木沼・市柳沼・姉沼・内沼
•山梨県:山中湖・河口湖・西湖
•滋賀県:琵琶湖
よく観察すれば糸状の毬藻になる藻を見つけることが出来るかも知れません。
今日は自然の不思議さの一つのマリモのお話をお送り致しまいた。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料=========================
マリモ発見の歴史;https://pucchi.net/hokkaido/marimo/marimohistory.php より抜粋しました。

国内で球状マリモが発見されたのは阿寒湖が最初でした。その美しさと希少さゆえに、天然記念物、そして特別天然記念物に指定されました。開発に伴いマリモの生息域が減少したため保護活動も進められてきました。

世界的には1753年にカール・フォン・リンネがスウェーデンでマリモを採取し学名を付けたのが記録に残る最初ですが、国内でマリモが最初に発見されたのは1897年のことでした。札幌農学校(当時)の川上瀧彌(かわかみたきや)氏が、阿寒湖西部の湾であるシュリコマベツ湾で発見したものでした。川上氏はこれに「毬藻(まりも)」と命名し、翌年に農学校学芸会雑誌などで湖底に大小の球状の藻が羅列していたことを報告しました。

1919年には植物学者・吉井義次氏が阿寒湖で本格的な研究を行い、マリモが世界的に見て貴重だと断定、2年後の1921年3月3日に国指定天然記念物になりました。しかしその後、マリモが国民の間に知られるようになるとマリモの違法採取が相次いだことから、1950年以降のマリモ調査に基づき1952年3月29日の国指定特別天然記念物へとつながりました。

1955年に全国各地からマリモが阿寒湖に戻されましたが、生息域は減少。最初に発見されたシュリコマベツ湾周辺では"絶滅"したとされています。現在は環境省レッドリストで最も絶滅が危惧される「絶滅危惧I類(CR+EN)」に分類され、マリモ保護の観点からマリモ生息域への立ち入りやマリモの移動・持ち帰りは禁止されています。

阿寒湖のマリモを巡る歴史 阿寒湖においては、シュリコマベツ湾上流の森林伐採と開発や、ウチダザリガニによる巣作り・食用の影響で減少傾向にあります。それは阿寒湖に限った話ではなく、例えば標茶町のシラルトロ湖は多数生息している地ですが、土産用マリモはここ出身であることから徐々に減少、釧路町の達古武沼に至ってはあまり確認されなくなったということです。

阿寒湖のマリモ関連年表(主なものだけ掲載)

1897年:川上瀧彌がシュリコマベツ湾で発見
1898年:川上瀧彌が植物学雑誌で発見記録を掲載し「毬藻」と命名
1919年:吉井義次が調査、飽別発電所供用開始、阿寒湖は湖面低下へ
1921年:天然記念物指定
1923年:保護のためマリモを他の湖沼に移植
1941年:シュリコマベツ湾のマリモ全滅
1950年:マリモ保護会発足、第1階マリモ祭り、電力利用による水位低下による被害を調査開始
1952年:特別天然記念物指定
1953年:然別第1発電所竣工、阿寒湖水位低下阻止へ
1957年:チュウルイ地区にマリモ保護監視人常駐
1961年:観光船のマリモ生息地航行自主規制
1978年:チュウルイ島マリモ展示観察センター竣工
1995年:チュウルイ島マリモ展示観察センター改修
2002年:阿寒湖畔エコミュージアムセンターにマリモ研究室設置
2005年:阿寒湖ラムサール条約登録
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

美しき会津、しかしその排他性と東京の自由

2016年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の記事には2つのことを書きます。
一つは日本の各地にある美しい風光の一例として会津地方の魅力をご紹介します。
そして二つ目は、その美しい地方には、しばしば排他的な風土があることです。それに対照的なのが東京の自由な社会です。
従来から、東京に人口が集中する理由として就職口があるからと言われていました。しかしそれも重要な理由に違いありませんが、東京の自由な雰囲気が若者を地方、地方から吸い寄せるからとも考えられます。
過疎化の原因を経済的な理由だけで理解するのは間違いではないでしょうか?こんな主張も織り込んでみたいと思います。

ぞれでは早速、会津の魅力を写真でご紹介いたします。

この1番目の写真は冬の猪苗代湖と磐梯山です。湖の手前に写っている一列の白い点はハクチョウのようです。冬になると白鳥が群れをなしてシベリアから渡って来るのです。写真の出典は、http://find-travel.jp/article/6221です。

2番目の写真は夏の猪苗代湖のヨットの写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
ヨットの上には遊覧船のように人が沢山乗って、夏の風を楽しんでいます。余談ながら自分も今は亡き友人のヨットに誘われて猪苗代湖の花春カップレースに数回出たことを思い出します。

3番目の写真は春の夜の鶴ヶ城の写真です。出典は、http://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=13337です。
戦国武将の蒲生氏郷が領主になって、城を拡張しました。その氏郷が茶道を持ち込み、城跡や御薬園には風雅な茶室があります。その茶室で抹茶を楽しむことも会津の魅力の一つになっています。

4番目の写真は白虎隊の墓の写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/chi_hiro_0926/53039601.htmlです。
白虎隊は会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊でした。戊辰戦争の時、江戸幕府軍として西軍と戦い、敗戦に追い込まれ19人が郊外の飯盛山で落城寸前の鶴ヶ城を見ながら自刃しました。
この事件は日本が明治維新によって近代国家に生まれ変わる過程で起きた数多くの悲劇の一つになりました。

5番目の写真は白虎隊の19人の墓の説明板の写真です。
出典は、http://www.360navi.com/photo/07fukusima/02aizu/03byakko/10page.htmです。
白虎隊の自刃は悲しいことです。彼等のお墓を見るとしみじみとした気分になります。その気分で猪苗代湖や磐梯山を眺めると一層美しく見えます。
会津の魅力は他にもいろいろありますが省略いたします。

さてこの会津の排他性に話を進めます。
近所に会津出身の紳士が夫婦で住んでいました。上の写真のような思い出がありましたので、ある時、その紳士へ会津は良い所ですねと言いました。そうしたら彼は途端に表情を変えて、会津の悪口を縷々と話し出したのです。何度も繰り返し言っていた言葉が「排他性」という言葉でした。彼は東京に出てからは二度と会津には帰ったことは無いと語気を強めるのです。そしてよそ者がいじめられて泣くこと、次第に仲良くなり別れる時に又泣くくことを「会津の二度泣き」という言葉になっていると言います。
何があったのかは知りませんがよっぽど嫌な思いをしたに違いありません。
地方によっては排他的な文化が強いところがあるのでしょう。しかしそれを意識する人は回りの人にいじめられたのかも知れません。
会津の排他性を非難している紳士は個性豊かなインテリです。とても地方の文化にはなじめそうではありません。

異なる考えを持った人をのけ者にし、排斥する文化は私の生まれ育った東北地方の各地にもあるようです。津軽藩、南部藩、鶴岡藩、伊達藩などのあった地方は城下町を誇りにし、一般的に排他的な雰囲気がおるのではないでしょうか。そういえば、京都や金沢にも排他的な文化があると聞いています。

若者にとってそのような地方の息苦しさに耐えかねて、自由な東京に出て来る人も多いと想像されます。
この感じは地方で生まれ育つたひとには理解出来ると思います。都会で生まれ育ちの人にはなかなか判らない地方の文化なのです。
ですから東京の自由な雰囲気が若者を地方、地方から吸い寄せると私は考えています。

21世紀にもなって、排他性など日本から消えてしまったと言う人もいるでしょう。しかし移民を絶体に入れようとしない日本に、本当に排他性は消滅したと言えるでしょうか?そんなことを考える今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
白虎隊(びゃっこたい)とは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A より抜粋。

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの)によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。

途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。

その後、飯沼は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に、日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。このほか「士中二番隊」の隊士であった酒井峰冶も生き残って精米屋を営み、没後の1993年に酒井家の仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』が発見され、戸ノ口原の戦闘の様子が後年に残されている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加