後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行った」

2024年04月15日 | 写真
名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行って来ました。
小金井カントリークラブは1937年 に高石真五郎氏が初代理事長に就任し開場しました。戦前から東京の上流階級の人がプレイした名門ゴルフ場です。
先程行って写真を撮って来ました。広々して気持ちの良い場所です。

ゴルフはアメリカでよくやりました。ゴルフコーズが格安なのです。日本ではゴルフは高嶺の花です。高すぎて行けません。困ったものです。

「大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山の写真」

2024年04月15日 | 写真
大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。
私は38年前の50歳の時、趣味としてヨットを始めました。始めは江の島のヨットスクールと葉山マリーナでデンギィの操船方法を1年間ほど習いました。
その後、故人になってしま大友君や星野君とよく葉山の海でヨットに乗ったものです。
懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。
 

「親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真」

2024年04月15日 | 写真
親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真です。

1番目の写真は大友君が作っていたジェットエンジンです。

2番目の写真は石川島播磨重工の呉造船所の写真です。

3番目の写真は石川島播磨重工の本社の写真です。

「富士山で遭難死した大友君の思い出」

2024年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
茫々66年前の1958年に、我々は東北大学工学部金属工学科を卒業しました。その同級生に大友暁君がいました。高校時代と大学時代の親友でした。
彼は数年前に富士山に登り下山途中に遭難してしまいました。
今日は親友だった大友君の思い出を書きたと思います。
まず大友君が写っている写真です。数年前に大学の同級生7名が出席した昼食会です。
大友君は左から2人目の眼鏡をかけた人です。
この元気な大友君は2018年の秋に富士山に登り帰路行方不明になりました。まだ遺体は見つかっていません。
大友君と最後に遊んだのは2010年の10月28日でした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットで一緒にセイリングをしました。その最後のセイリングの写真です。
2番目の写真は強風で船が走るヨットを操船している星野君と大友君の2人です。左が大友君で右が星野君です。
3番目の写真は帰港後のキャビンの中での食事の様子です。それが大友君に会った最後になりました。
大友君と私は大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。
仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。
その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってありました。
彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで私と一緒によくでヨットにも乗りました。
ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。
4番目の写真は熱海の沖にある初島です。初島の民宿に泊まり翌日三浦半島の突端の三崎港まで航海しました。
ところが三崎港の沖で突然、船のエンジン室が火災を起こしたのです。マリーナから操船のために乗っていた3人のスタッフが下のエンジン室の消火のためいなくなります。すると大友君は悠々と舵輪を握り、「後藤君、心配無いよ。火は3人で消せるから」と静かに言ったのです。
大友君はいつも冷静でした。高校時代と大学時代とよく一緒に遊びました。情熱家でしたが何時もは無口でした。
2018年に富士山で遭難したのが残念です。

今日は我が友人、大友君の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)