後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「陸軍士官学校59期生、立石 恒少尉候補生の追悼」

2023年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は昭和はどのような時代だったかを書いてみたいと思います。
私の母の弟は戦前に陸軍士官学校の教官をしていました。その陸軍士官学校の卒業生が2人近所にいて親しくしていました。第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんです。
ご両人ともこの夏に旅立ちました。田中和彦さんの追悼記は11月4日に次のように掲載致しました。「第二次大戦中に航空隊で活躍した田中和彦中尉の孤独な死」。
今日は立石 恒さんの追悼記を書きたいと思います。
立石 恒さんは温厚な紳士でした。よく珍しい外国のビールや珍味を頂きました。お互いの家で一緒にビールを飲んだものです。
立石さんは陸軍士官学校59期生でした。その立石 恒さんからお聞きした話を書きます。
18年4月に入学した予科は修了期間が非常に短縮されたとはいえ、旧制高等学校とほぼ同じような外国語も含めて一般教養科目の教育を受けました。
しかし昭和19年10月に兵長として入学した神奈川県、座間(相武台)にあった本科の教育は、急を告げる戦局を反映して全く変更していました。
その概略は次の通りです。
(1)大本営をはじめ、政府の組織と天皇陛下は長野県の松代の地下要塞に移転する。
この松代の地下壕の現在の写真を4枚末尾に示したのでご覧下さい。
(2)米軍の上陸地点は九州南部に昭和20年10月、そして関東の九十九里浜と相模湾海岸には昭和21年初頭と判断しました。
この陸軍本部の予想は米軍のサイパン、硫黄島や沖縄の上陸作戦を見て決めました。
米軍は常に広い砂浜に多数の上陸用舟艇で一挙に上陸して来るのです。地形を考えると九州南部の志布志湾と鹿児島県の大隈半島の砂浜がまず米軍が上陸する場所と推定したのです。
九州に前進基地が出来たら、次は首都圏を西と東から攻撃する計画です。
この陸軍参謀本部の推定は米軍の本土上陸計画と完全に一致していたことが終戦後に判明したのです。

それはさておき、立石 恒氏の陸士本科で受けた教育は「第59期第13中隊第一区隊記録」という手書きの資料にありました。
昭和19年に予科を終了した後、9月15日に予科生徒隊が編成されて立石氏は兵長として第13中隊に入れられたのです。
そして10月14日から1226名の本科の教育が始まったのです。
教育内容は、防空作業、射撃訓練、築城訓練、築城作業、銃剣術、地雷訓練、地雷処理訓練、馬術訓練、機関銃訓練、毒ガス訓練、毒ガス教育、速射砲訓練、通信訓練、擲弾筒などに関する教育と訓練などだったそうです。
これらの本科の教育と訓練の合間には神奈川県海岸と房総半島の地形の授業が行われたそうです。
そして陸軍士官学校の卒業生は米軍の上陸に対抗する役割の他に長野県松代の大本営の近衛部隊としてその防衛も任務と言われていました。
昭和19年から20年8月の終戦までの陸軍士官学校の本科の教育内容は本土決戦に参加する陸軍将校の実戦的促成教育だったのです。
私が考えていた下記の諸問題は全く完全に無視されたいたのです。
(1)アメリカの航空母艦や上陸用舟艇の性能
(2)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法について
(3)敵兵の捕虜の取り扱いに関すること

それにしても昭和20年8月にポツダム宣言を受諾して良かったかも知れません。
もしそれが遅れたら九州も本州でも沖縄戦のように膨大な人命が失われたのです。戦争は絶対に、何があっても始めるべきではありません。嗚呼!

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は見学者用に整備された松代の大本営の地下要塞の入り口です。
2番目の写真は大本営の地下要塞の坑道です。見学者用に整備された地下要塞はごく一部だけです。

3番目の写真は平和運動をしているアメリカの学生が坑道を見学している様子です。
4番目の写真は地下要塞の設計図です。陸海軍の本部だけでなく中央官庁や天皇陛下も入れるよな巨大な地下要塞です。
5番目の写真は現在の観光用の松代城の城門です。天守閣はありませんが観光客が沢山入っていきます。門の前は土産物屋が並んでいて美味しい栗菓子をいろいろ売っています。松代は現在、大本営跡の坑道と松代城が観光客を集めています。
===参考資料=========================
(1)立石 恒氏の略歴
1926年、大正15年2月7日、奈良県郡山市に生まれる。享年97歳。
昭和18年3月、兵庫県の旧制中学校卒業後直ちに競争率20倍の陸軍将校予科に合格。
昭和19年9月、予科終了。10月に士官候補として本科に入校。
昭和20年8月終戦にともない、同校中退。
戦後は京都大学に入り、昭和24年に東京銀行に入社。停年まで勤務し、最後は東京銀行大阪事務所の所長でした。
停年後に大手菓子製造会社の常務取締役などを務める。かたわら東京簡易裁判所の調停委員として社会奉仕をする。

(2)立石 恒氏からご提供頂いた文献
1、「第59期第13中隊第一区隊記録」という手書きの資料
2、土門周平ほか著、「本土決戦」、光人社、2001年発行
3、井上寿一著、「戦争調査会」、講談社、2017年発行
4、五九会発行、「望台」、陸軍士官学校第59期生史、、全303ページ
5、「陸軍士官学校第60期生史」、第60期生会発行、全502ページ

「蒸気機関車の展示を見て昔乗っていた汽車の姿を鮮明に思い出す」

2023年11月29日 | 写真
小金井公園に昔の蒸気機関車が展示してあります。その写真を撮っていたら昔乗っていた汽車の姿をアリアリと思い出しました。
昔よく乗った東北本線に汽車は蒸気機関車に牽引されていました。煤煙が見に入り目が痛い思いをしました。

始めの3枚の写真は小金井公園の蒸気機関車です。最後の写真は、https://ptl.imagegateway.net/contents/original/archive/railway/sl.html からお借り致しました。

 

「松居桃楼さんの写真と出版本の写真」

2023年11月29日 | 写真
松居 桃楼(まつい とうる、1910年3月30日 - 1994年9月25日)は、日本の随筆家。
東京に、松居松葉の三男として生まれる。本名・桃太楼。早稲田大学政経学部卒。松竹演芸演劇審議会委員を務め、のち1942年台湾演劇文芸部長。1946年帰国、丹沢開拓地共同組合長。1950年上京し台東区隅田公園バタヤ地区蟻の街結成に参加しその住人となり、北原怜子とともに蟻の街の中心となる。1958年「蟻の街のマリア」は五所平之助監督で映画化され知られた。墓所は寛永寺。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%85%E6%A1%83%E6%A5%BC#%E6%A6%82%E8%A6%81
 

「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その5「蟻の町のマリア(北原怜子)、松居桃楼、ゼノ神父」

2023年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「蟻の町のマリア」と呼ばれている北原玲子さん、松居桃楼さん、ゼノ神父のことをご紹介したいと思います。
戦後の1950年頃、東京の隅田川の言問橋のたもとに、貧しい日雇労働者の集団居住地がありました。まじめな労働者だけでなく犯罪者も多く住んでいたので警察も手が出ない恐ろしい町でした。
そこで「蟻の会」を組織し指導していたのが仏教信者の松居桃楼さんでした。法華経の観音菩薩様の助けで蟻の町の貧民を救いたいと思ったのです。そしてポーランド出身のゼノ神父様も松居さんへ協力していました。
ゼノ神父の勧めでカトリック信者であった北原玲子さんが蟻の町に住み着いて日雇い労働者や犯罪人を優しく世話したのです。彼女は蟻の町のマリアと皆に慕われていました。北原玲子さんの父は大学教授でした。彼女は蟻の町に住む人々全員の生年月日から本籍地の住所を全て暗記していたと言われています。
蟻の会を組織して、始めから世話をしていた佛教徒の松居桃楼さんも北原玲子さんを尊敬し、カトリックの洗礼を受けます。
ところが北原さんは1958年に結核で亡くなります。28歳の若さでした。
その後、松居さんは。「蟻の町のマリア」という本を書き、北原玲子さんの献身的な奉仕の記録を世に出しました。そして映画にもなりました。この松居桃楼さんの本が映画になり全国の津々浦々で上映されたのです。戦後の暗い日本へ明るい希望を与えたのです。「蟻の町のマリア」という本はベストセラーになり多くの人の胸を打ったのです。
蟻の町の近所にあるカトリック潮見教会は北原玲子さんを偲んで、「蟻の町潮見教会」という名称も使っています。蟻の町のあった場所は今の墨田公園の一角にあたります。 
松居さんは1910年生まれで1994年に84歳で亡くなっています。北原玲子さんは1929年生まれで1958年に亡くなっています。
そしてポーランドから1930年に来日したゼノ神父も重要な役割りをしたのです。神父は1982年90歳で亡くなり東京のカトリック府中墓地に眠っておられます。
この様な人々のことを時々思い出して、私はカトリックの信仰を新たにしています。
1番目の写真は「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原玲子さんです。インターネットからお借りした写真です。
2番目の写真はポーランド出身のゼノ神父様が蟻の町の子供達へお菓子を配っている光景です。インターネットからお借りした写真です。
3番目の写真は蟻の町で活動中の北原玲子さんとゼノ神父様です。インターネットからお借りした写真です。
4番目の写真は府中市のカトリック墓地にあるゼノ神父のお墓です。家内が撮った写真です。
5番目の写真は北原家の墓所です。正面に3基の墓石が並んでいますが右端が「エリザベス マリア 北原怜子之墓」です。真ん中が洋型の「北原家之墓」です。右手前に墓誌があります。インターネットからお借りした写真です。

それにしても私も体験した終戦直後の日本は本当に貧しかったのです。食糧難と燃料難が重なり生活はひどいものでした。そんな中での貧民の町、蟻の町は想像をこえた困窮だったのです。北原玲子さんはその中に飛び込んで人々を助けたのです。

今日は蟻の町のマリアと呼ばれた北原怜子さん、松居桃楼さん、ゼノ神父のことをご紹介いたしました。

それはそれとし今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   後藤和弘
===ゼノ神父の生涯=====================
ゼノ・ゼブロフスキー(1891年)はポーランド出身のカトリックの修道士です。「蟻の街の神父」として知られ戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力をました。「ゼノ神父」と呼ばれれていましたが神父ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士でした。以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC より抜粋しました。
1891年、ポーランドのスロバ村で生まれる。第一次世界大戦のおりに軍隊に志願する。除隊後、職を転々としていたが、 1924年11月13日、聖スタニスラス・コストカ の祝日のミサでの説教に影響を受け、1925年5月10日にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会する。その時34歳。
 1930年4月24日、マキシミリアノ・コルベ神父やヒラリウス修道士たちと共に来日。
来日後は長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れた。ゼノ修道士は全国各地に赴いた。1936年にポーランド管区本部の命令でコルベ神父が帰国した後も、日本で活動を続けていたが、1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下で被災する。
コルベ神父はアウシュービッツで友人の身代わりとして処刑された。
一方ゼノ修道士は戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京・浅草のバタヤ街(のちに「蟻の街」の名で有名になる)など全国各地で支援活動を行う。1950年1月10日の例では、払い下げを受けた鉄道員用上衣200着をもって上野駅を訪問、地下道に身を寄せる市民らに配布した。朝日新聞は、この支援活動の姿を「青い目の福の神」として報じている。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれた。
献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られた。またポーランドからは1976年にポーランド共和国功労勲章の第4等が授与された。1981年2月に来日した教皇ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問した。ポーランド出身の教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表した。1982年4月24日、東京で死去。お墓は府中市のカトリック墓地にある。享年91歳。

「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その4「進駐軍兵士との混血児を救った沢田美喜の美しい心」の続き、

2023年11月28日 | 写真
「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その4「進駐軍兵士との混血児を救った沢田美喜の美しい心」の続きです。
沢田美喜さんと孤児たちの写真です。

「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その4「進駐軍兵士との混血児を救った沢田美喜の美しい心」

2023年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
5年ほど前に大磯駅前にある沢田 美喜記念館を訪れました。記念館は樹木の生い茂る山の中にありました。同じ敷地に孤児院エリザベス・サンダース・ホームがありました。そして現在、聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。ステパノとは戦死した沢田美喜の三男の晃の洗礼名です。
沢田 美喜はこの大磯駅前にエリザベス・サンダースホームを創設しました。それは終戦直後の1948年のことでした。
そして進駐軍兵士との混血孤児を育て上げたのです。その数は2000人近くと言われています。
始めは進駐軍と日本政府の両方から迫害をうけ、経営は窮乏を極めたそうです。しかし次第に沢田 美喜の愛の力が実り、社会から賞賛されるようになります。
そして設立7年後の1955年に 昭和天皇陛下と皇后さまがエリザベス・サンダース・ホームを訪れたのです。
これがエリザベス・サンダース・ホームの社会的意義を決定づけたのです。
沢田 美喜の豊かな愛情は2009年のあるテレビ番組で元の孤児によって語られています。
・・・「60代の元・孤児たちが、『ママちゃま』と呼ぶ沢田 美喜、2009-03-28」
(https://blog.goo.ne.jp/amesyun-goo/e/5ff48f5b9c297d19c9aaab67f07a9e84 よりの抜粋)
親に捨てられた往年の孤児たちが、カメラの前で堂々と、「私たちの育った家庭は、サンダース・ホームであり、沢田 美喜さんが、ママちゃまです。ママちゃまは素晴しい人でした。いま、僕らがどれほど、感謝しているか言葉では表せません。・・・」と語ったのです。
人間が一人育つこと、育てることはとても大変なことです。それを、二千人も相手にやり遂げた沢田 美喜さんの愛の力は偉大でした。
家内が撮った写真をお送り致します。
1番目の写真は沢田 美喜記念館とエリザベス・サンダース・ホームの入り口です。この右の奥には聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。
2番目の写真は沢田 美喜の記念碑です。彼女は三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚しました。4人の子に恵まれるますが三男、ステパノ晃は南方で戦死しました。
沢田 美喜は敗戦後の1958年にエリザベス・サンダースホームを創設しました。エリザベス・サンダースは最初に寄付してくれたアメリカ人の名前です。
3番目の写真は沢田 美喜記念館のある山と駐車場の風景です。ここから80段の階段を登った山の中に記念館があります。家内が山を登り記念館の写真を撮って来ました。
4番目の写真は沢田美喜記念館です。一階が展示室になっていて、2階が礼拝堂になっています。
5番目の写真は沢田美喜が世界各国から集めたいろいろなデザインの十字架です。
6番目の写真は沢田美喜を紹介した新聞などの展示です。なお彼女は隠れキリシタンの遺物の収集家としても有名で展示には隠れキリシタンの遺物も沢山あります。
7番目の写真は2階にある礼拝室です。

それにしても沢田美喜の愛の力は偉大でした。
イエスさまの愛が彼女を動かしたのです。神は沢田美喜を愛していました。
沢田美喜もイエス様と神を愛していたのです。それ無くしては2000人近い孤児を育て上げられなかったでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=============
(1)エリザベス・サンダース・ホームと聖ステパノ学園小学校・中学校とは?
第二次世界大戦後に日本占領のためにやってきたアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に生まれたものの、両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、1948年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が、財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を募金を集めて400万円で買い戻して設立した。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 よりの抜粋)
施設の名前は、ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けた。

聖ステパノ学園小学校・中学校
孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の「混血児」への偏見迫害や、学校生活との折り合いの問題などへの対応から、ホームの中に小学校・中学校も設立した。小学校は、1953年に創立され、美喜の戦死した三男の晃の洗礼名から、聖ステパノ学園小学校と命名された。中学校は1959年に併設された。1993年よりは、外部の一般家庭の子弟も募集するようになった。小学校・中学校ともにキリスト教学校教育同盟に加盟している。

(2)沢田美喜記念館とは
沢田美喜は、隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。 日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが沢田美喜記念館に展示されている。沢田美喜記念館は1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

(3)沢田 美喜(1901年9月19日 - 1980年5月12日)は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%BE%8E%E5%96%9C より抜粋)
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
1901年9月19日:三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として現在の東京都文京区に生まれる。岩崎家の宗教は真言宗だった。母の寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。
1922年7月:クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗。
1923年:夫、廉三のアルゼンチン・ブエノスアイレスへの転任に伴い同行。長男・信一誕生。4月8日、祖母・喜勢死去。
1931年:夫、廉三の英国・ロンドンへの転任に伴い同行、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。
1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死。海軍志願兵だった。
1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。
1953年:学校法人聖ステパノ学園を創立。ホームの小学校と中学校である。
三男の晃の洗礼名ステパノのが聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名の由来になった。
1955年: 昭和天皇・皇后訪園。12月2日:父・久弥死去。
1962年:ブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。
1980年5月12日:スペインのマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

「急に寒くなった今年は紅葉と黄葉が特別美しい」

2023年11月27日 | 写真
毎年、紅葉の時期になるとあちこちへ行って写真を撮って遊んでいます。
11月も下旬になると近くの小金井公園のケヤキやユリノキやクヌギの大木が見事に黄葉します。
小金井公園の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その3「敗戦、灰塵の中から高度成長した日本」

2023年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代を考えると驚くべき出来事に気が付きます。昭和20年の敗戦の直前に全国200都市が大空襲と原爆投下で灰燼に帰していたのです。その何も無い焦土の中から日本民族は立ち上がりました、そして経済の高度成長成長を遂げたのです。
今日はアメリカ軍による全国200都市の大空襲の様子とその後の経済の高度成長について記述したいと思います。

第二次大戦の間のアメリカ空軍による日本本土の空襲による死者は、33万人で負傷者は43万人でした。アメリカ空軍のB29から投下した、束になった焼夷弾を空中で分散させて、日本の 200の都市を焼き尽くしたのです。沖縄へはアメリカ海兵隊が上陸し凄惨な地上戦後、厳しい占領をしたのです。
1番目の写真はB29が束になった焼夷弾を投下している様子です。
周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾で。さらにこの中に子焼夷弾が3~4ダースが入っていて、火を噴いて落下するという仕掛けでした。写真の出典は、http://touyoko-ensen.com/mini‐info/cook/ht-txt/724kuusyuu-4.html です
その後、広島と長崎に原子爆弾を落としてとどめを刺したのです。その結果1945年8月15日に敗戦になりアメリカ軍が日本全土を占領したのです。
2番目の写真は東京大空襲で焦土と化した東京です。 本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川です。(米軍撮影、出所:Wikipedia、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59594 )
日本本土空襲は1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。
攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。
また太平洋沿岸部の都市では、釜石や室蘭や日立市のように艦砲射撃によっても攻撃されたところもあります。
3番目の写真は広島への原爆投下後の写真です。出典は、https://www.pinterest.de/pin/830773462481342811/ です。
これらの写真が示すように全国200都市が焼け野原になってしまったのです。なお全国200都市のリストは末尾の参考資料にあります。
日本人は灰燼の中から立ち上がり20年以上努力しました。そして経済の高度成長を遂げたのです。
以下では日本のGDPと各国のGDPを比較してみましょう。図面は「主要国のGDPをグラフ化してみる(最新)」から転載いたしました。(http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html )
4番目の図面は2019年時点の上位10か国の名目GDPの推移です。(IMF予想含む、兆米ドル)
名目GDPの上での最大の国家はアメリカ合衆国、次いで中国が示しています。
この2国だけで世界全体のおおよそ4割。次いで本、ドイツ、インド、フランスが続きます。
これらの国のみで世界全体の約2/3のGDPを有していることになりります。

しかし国民一人あたり名目GDPを比べるとアメリカ、日本、ドイツのグループが非常に大きいのに比べて中国、インド、インドネシアのグループが小さいのが分かります。
中国は共産党独裁、インドは階級制度が強い社会でインドネシアはイスラム教の国です。
ここで明確なことは自由な民主主義の社会体制の国々の国民一人あたり名目GDPが非常に大きいことです。

5番目の写真は海から復興後の東京の高層ビルです。

6番目の写真も復興後の東京の中心街の風景です。

7番目の写真は復興後のの銀座の風景です。
今日はアメリカ軍による東京が灰燼に帰した風景を写真示し、その後経済の高度成長の図面を示しました。そして高度成長成長によって立派に復興した東京の写真を示しました。何か奇跡を見ているようで感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧:

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。
内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)

「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その(2)「激動の出来事一覧」

2023年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
以前に八王子の長いイチョウ並木の黄葉の写真を撮りにいきました。この見事なイチョウ並木は途中で北方向に曲がると昭和天皇陵の紅葉した参道になります。そして昭和天皇陵と大正天皇陵が並んであります。その写真を道順に従って示します。1番目の写真と3番目の写真はお借りした写真であとの写真は私が撮りました。




この昭和天皇陵と香淳皇后陵は武蔵野御陵と呼ばれ、大正天皇陵と貞明皇后陵は多摩御陵と呼ばれています。二つの御陵は深い森に囲まれ静かな長い参道が続いています。
境内は自然な昔の武蔵野の森のようなのです。広い駐車場も森の中です。私はよくここに行き深い森の道を歩きます。
昭和天皇と香淳皇后を偲びながら昭和という激動の時代を考えていました。私が通った小学校の教室には昭和天皇と香淳皇后のお写真が飾ってあったのです。
そこで「嗚呼、懐かしい昭和時代」という連載記事を書く決心をしました。
その1番目の記事は、「嗚呼、懐かしい昭和時代」、その(1)「消滅した満州の日本人学校」でした。
今日は激動の昭和時代に起きた主な出来事の一覧を示したいと思います。

(1)昭和の戦前期
1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件
1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件
1929年(昭和4年) 世界恐慌。
1930年(昭和5年) ロンドン海軍軍縮会議、濱口首相遭難事件。
1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変
1932年(昭和7年) 血盟団事件、五・一五事件、第一次上海事変、満州国建国。
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件。

1936年(昭和11年) 二・二六事件、西安事件、阿部定事件。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる)。
1938年(昭和13年) 張鼓峰事件。国家総動員法。
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦開戦、ノモンハン事件
1940年(昭和15年) 日独伊三国軍事同盟、日華基本条約締結。
1941年(昭和16年) ゾルゲ事件、大政翼賛会、日ソ中立条約締結、真珠湾攻撃

12月8日 南方作戦発動、太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い。
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、学徒出陣、同盟国イタリアが連合国に降伏。
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い沖縄戦、占守島の戦い、国際連合設置、九州大学生体解剖事件。
3月10日 東京大空襲。
3月26日 沖縄戦。
5月 同盟国ドイツが連合国に降伏

7月 ポツダム宣言。
8月6日 広島市への原子爆弾投下。
8月8日 ソ連対日参戦。
8月9日 長崎市への原子爆弾投下。

8月10日 ポツダム宣言受諾の決定。
8月15日 玉音放送。
9月2日 降伏文書調印。

(2)昭和の戦後期
戦後のアメリカなどによる占領期、1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年)
1946年(昭和21年) - 1950年(昭和25年) 農地改革
1946年(昭和21年) 伊豆諸島返還。日本国憲法公布(1947年(昭和22年)5月施行)、人間宣言、昭和南海地震。
1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約・(旧)日米安全保障条約締結。
1952年(昭和27年) 主権回復。トカラ列島返還。

1954年(昭和29年)自衛隊発足。第五福竜丸事件。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言発効、国際連合に加盟
1960年(昭和35年) (新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争、日米新安全保障条約、カラーテレビ放送開始。
1964年(昭和39年) 第二水俣病発生、東京オリンピック開催
1965年(昭和40年)日韓基本条約締結。

1968年(昭和43年)東名高速道路開業、小笠原諸島返還。
1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。よど号ハイジャック事件。
1972年(昭和47年) 札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄返還、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印。

1976年(昭和51年)ロッキード事件
1978年(昭和53年)成田空港開港、日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約締結。
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化によりJRグループが発足。
1988年(昭和63年)リクルート事件。
1989年(昭和64年)昭和天皇崩御、皇太子明仁親王が天皇に践祚。平成に改元。

以上は以下の資料をもとに抜粋し整理したものです。
「日本史の出来事」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B

戦前の昭和11年に生まれ昭和33年に大学を卒業した私にとっては上の出来事はよく新聞でも読み鮮明に覚えております。そして戦前、戦後の食糧難の苦しい経験と相まって昭和の出来事は忘れることが出来ません。
この連載で取り上げる事件の順序は年代順ではなく現在の日本に大きな影響を与えたものを順に取り上げます。
最後に表題に「激動」と表現した理由を書いておきます。
昭和20年に日本が外国に完全に占領されたのは日本の歴史において初めてのことです。開闢以来の大事件でした。
この米英などによる占領は日本の社会と文化を根底から変えたのです。それは正しく激動の出来事でした。
この連載では日本がどのように変わったかも書いて行く予定です。
皆様は昭和という時代をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「嗚呼!年老いて趣味が無くなり、一つだけ残った」

2023年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でもそうでしょうが老化すると体力が無くなります。すると体力が必要な趣味は続けられなくなります。
その上、知的な能力も次第に衰え、難しい本を読み続ける根気も無くなりがちです。
この状態を「あの人は枯れてきて立派だ」と褒める人もいます。
本人は達観の境地だ、いや諦観の境地だと言いながら、心静かに日々の流れに身を任せます。
しかし若い人から見れば趣味の数も減り、あまり読書もしない老境は悲しいものと映るようです。若い頃、私も老境は悲しい時期に違いないと考えていました。
体力が無くなったので25年続けて来たヨットの趣味を75歳ですっぱり止めました。
近くの高尾山や旧甲州街道の小仏峠に何度も登る趣味も80歳で止めました。
自転車で遠方に行く趣味も18年前に出来なくなりました。
難しい本を読み続ける趣味も消えて久しいものです。
趣味は幾つも止めてしまいましたが楽しい思い出が沢山残りました。
馬齢を重ね、87歳になって、私の趣味はたった一つだけになってしまったのです。
たった一つの趣味とは山林の中の小屋へ行って、ただ周囲の自然の風景を眺めることです。
四季折々、何時行ってもその風景を眺めて時を過ごします。気持ちが豊かになります。この世の憂いも忘れます。とても幸せな気分になります。
これを趣味と言えるか疑問ですが、私は残されたただ一つの趣味だと思っています。
晩秋にはその小屋の周囲の紅葉を眺めて時を過ごします。ある年の晩秋にった写真をお送りしましょう。
1番目の写真は小屋へ登る小道の紅葉です。雑木林の中の道を写した写真です。
四季折々、暗い雑木林の向こうに明るく陽の射した道が見えるのです。それを眺めながら車をゆっくり走らせます。至福の時間です。
2番目の写真は小屋の近くの雑木林です。冬に薪拾いをする雑木林です。真冬にはこの美しい紅葉もすっかり落葉します。すると林の中が明るくなります。枯れ枝が沢山落ちていて薪拾いが楽しく出来ます。
3番目の写真は小屋の窓からみた紅葉です。小川が流れています。その向こうは斜面になっていて岡の上に登る小道が作ってあります。昔、この急坂を子供や孫たちが登っていた姿を思い出して笑みが湧いてきます。急坂を「イノチガケ」と小学生の孫が名づけました。
4番目の写真は実にシンプルな薪ストーブです。非常に簡単な構造ですが薪がすぐに燃え上がり、室内が急速に温まるのです。薄い鉄板で出来ています。
初めのストーブは札幌から取り寄せましたが山梨県でも売っていました。
5番目の写真は粗末な小屋の写真です。質素な小屋だけに泊まると苦労が多いのです。
水道が無いので小川の水を使います。小川の有難味が身に沁みます。そんなことが楽しかったのです。この小屋の光景は1975年から変わっていません。すこしペンキが剥げかかっているだけです。

さて一般的に考えてみると趣味は人それぞれです。
若い時の趣味を高齢になっても相変わらず続けている人もいます。
身近にいる家人をつぶさに観察していると趣味は私と随分と違います。流石に茶道の趣味は止めましたが、花を世話をする趣味や読書の趣味は相変わらずです。特に源氏物語や現代文学の読書は熱心に続けています。これには感心しています。
妻のもう一つの趣味は広い公園を走る趣味です。今でも広い場所に行くと走り出します。しかし観察していると走る速度が遅くなっています。歩幅も狭くなっています。しかしフォームだけは昔のままです。

さて皆様は年齢とともにどのように趣味が変わっていったでしょうか? 趣味のお話をお聞かせ頂けたら嬉しく思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)