後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、墓参りに行きました」

2019年12月31日 | 日記
お墓に眠る故人が気持ちよくお正月を迎えるようにお墓の掃除をして線香を上げて来ました。
鐘楼では大晦日の除夜の鐘を突く準備をしていました。住職さまが落ち葉掃きをしています。
静かな午後のひとときでした。









「今年も大変お世話になり有難う御座いました」

2019年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今年もこの欄のつたない記事をお読み頂きまして誠に有難う御座いました。
その上数々のコメントをお送り頂いた方々へ深甚の感謝の意を表します。
   どうぞ来年もよろしくお願い申しあげます。

今年は除夜の鐘を止めるお寺さんもあるようですので除夜の鐘のyoutube のURLを以下にお送りいたします。
https://www.youtube.com/watch?v=EJank6jvaHI
これはゴーンという重々しい鐘の音です。
https://www.youtube.com/watch?v=MLXMXBZCH-g
これは少し軽い除夜の鐘の音です。

除夜の鐘を聞きながらいろいろなことがあった今年も暮れ行きます。

大晦日にあたり皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





「スイス、レマン湖の白鳥の写真をお楽しみ下さい」

2019年12月30日 | 写真
あれは遥か昔の1970年の冬でした。南ドイツのシュツットガルトに住んでいましたのでスイスには車でよく行きました。
レマン湖の美し白鳥の姿が忘れられません。
レマン湖の白鳥の写真をお楽しみ下さい。
写真の出典は、http://kayokosdiary.net/article/454427231.html です。



平和な世の中に感謝しつつ、亡くなった人を想う

2019年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
暮れで忙しいのに昨日は暇があったので都立武蔵野公園に行ってのんびりしました。
こういうのを「忙中閑あり」と言うのでしょうか。
そして風も無く静かな広場や小川の風景を見てこの平和な世の中に感謝しました。
感謝しながら今年亡くなった人のことを脈絡も無く想っていました。中村哲さん、緒方貞子さん、中曽根さん、堺屋太一さん、ドナルドキーンさん、そして国鉄スワローズの名投手の金田正一さんなどの元気だったころテレビで見た顔や姿を想いだしていました。
そして去年亡くなった3人の同級生のことを懐かしく思い出していました。
淋しげな暮れの武蔵野公園の風景写真をお送りします。









亡くなった3人の大学時代の同級生とは星野君、大友君、工藤君です。
星野君は猪苗代湖に大きなヨットを係留していて、何度も一緒にセイリングを楽しみました。猪苗代湖で霞ヶ浦でそして葉山の海で。
大友君は高校と大学の同級生でした。よく一緒に遊びましたが葉山から初島へクルージングして一泊した旅のことが忘れられません。その大友君は昨年富士山頂からの帰りに遭難してしまいました。遺体はいまだに見つかっていません。
工藤君ともよく互いの職場を訪ねましたが特に彼の優しさが忘れられません。金属を型にはめていろいろな製品作る会社を自分で作り一生静かに暮らしていました。

中村哲さん、緒方貞子さん、中曽根さん、堺屋太一さん、ドナルドキーンさん達のことも思い出しました。語った言葉送りします。

中村哲さん・・・「飢えと渇きは薬では直せない」

緒方貞子さん・・・「人道援助は政治的駆け引きに利用されてはならない」

中曽根さん・・・「政治家とは歴史という法廷で裁かれる被告である」

堺屋太一さん・・・「働く人間に必要なのは、この新しい時代に立ち向かう姿勢である」

ドナルドキーンさん・・・「私から日本をとったら何も残らない。日本人として残りの人生を生きたい」

国鉄スワローズの名投手の金田正一さん・・・「やったるでぇ」と言って通算400勝を上げました。この400回勝の勝利はいまだに破れない記録です。(奪三振4490、通算完投365など日本一の記録もあると野球好きの家内が言ってます)

以上それぞれの言葉は今朝の読売新聞から引用しました。
暮れの「忙中閑あり」で都立武蔵野公園に行ってのんびり想いだした事を書きました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

「冬の屈斜路湖の白鳥の写真をお送りします」

2019年12月29日 | 日記
屈斜路湖は晩秋にシベリアから白鳥が飛来する場所として有名です。湖畔では温泉が沸き砂湯、和琴温泉、池の湯、コタン温泉などの露天風呂が楽しめるのです。
冬の屈斜路湖の優美な白鳥の写真をお送りします。
写真の出典は、https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0001808.aspx です。

「近所の大国魂神社は2000年前の弥生時代に出来た」

2019年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味にはいろいろありますが地方史を調べてのも興味深いものです。
特に3万年以上前の旧石器時代と続く縄文時代の生活の様子を詳しく調べると面白いのです。
最近の井戸尻遺跡の研究によると畑作農耕に使われた石器の刃の鍬や鎌などが多数発見されています。縄文時代に畑作農耕が普及していたことを証明しているのです。
そして青森、三内丸山遺跡からは巨大な六本柱建物跡が発見されています。
この建造物は何に使われたか不明ですが、縄文人の宗教行事に使用されたとも考えられます。
大樹や大きな岩など自然のものに神が宿ると崇拝する神道の起源は縄文時代にあると言われています。
現在の神道の原型は弥生時代や古墳時代に出来たという説が広く認められています。
ですから日本には約2000年前の弥生時代に起源がある神社があります。

今日は弥生時代に出来たと言われている近所の大国魂神社をご紹介したいと思います。
東京都府中市にある大国魂神社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものであると言い伝えられています。
景行天皇は実在していませんから景行天皇41年は嘘です。しかし西暦111年頃には起源があったことは信用しても良いと私は思っています。
その理由は大国魂神社の2Kmくらい西に熊野神社古墳があるからです。
この府中市の近辺は弥生時代や古墳時代から武蔵野の中心として栄えた場所だったのは間違いの無い事です。
出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ大国魂神社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、律令国家の武蔵国の国府をこの処に置くようになり国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられたのです。
そして大国魂神社の東の隣に国衙が建設され武蔵国の首都になったのです。
そんな古い歴史のある神社なので地方史が趣味の私にとっては興味深い場所です。
一昨日も訪れて写真を撮って来ました。以前撮った写真もまじえて大国魂神社の写真をお送りします。









この神社は昔は六所宮とも呼ばれていました。
本殿の両側に国内の六所の神が祀られていたのです。六所とは小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈大神、杉山大神です。
寿永元年、1182に源頼朝が正室政子の安産の祈願をし1186年には新しい社殿を造営しました。
天正18年(1590)に徳川家康が江戸へ入城してからは武蔵国の総社として社領五百石を寄進し、社殿の造営を行っています。
正保3年(1646)の類焼により社殿は焼失しましたが、寛文7年(1667)に将軍家綱の命により新しい社殿を造営し現在に至っています。
この様に大国魂神社は大和朝廷や鎌倉幕府や江戸幕府の庇護を受けて来たのです。武蔵国の最も重要な神社だったのです。
ちなみにこの神社の有名な欅並木は1051年からの前9年の役で源氏の頭領、八幡太郎義家が蝦夷の安部一族を平定した戦勝祝いに欅1000本を寄進したのが始まりです。
現存する欅並木は老化し朽ちるので保存に苦労しています。

地方史が趣味の私にとっては大国魂神社の歴史は興味が尽きません。地方史のお好きな方は是非一度訪れてみて下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

「ラスベガスを日本各地に作るIR政策と汚職」

2019年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
地方の活性化の為にラスベガスのようなリゾートを作ろうという政策を自民党が推し進めています。
その政策の推進者の秋元衆院議員 が逮捕されました。日本の各地に作るリゾート事業に参入しようとしている中国の企業から賄賂を受け取ったという容疑です。
参入しようとしている企業にはラスベガスのカジノを経営している大企業もあります。
しかしアメリカでは収賄などの汚職の規制が厳しくて犯罪になるようなことをまだしていないようです。
秋元議員の逮捕に関する記事を以下に示します。
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「収賄容疑で逮捕の秋元衆院議員 「一切身に覚えがない」と否認 」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191225/k10012227621000.html
2019年12月25日 20時50分カジノ含むIR法
カジノを含むIR=統合型リゾート施設などを担当する内閣府の副大臣を務め、自民党を離党した秋元司衆議院議員がIRへの参入を目指していた中国企業から現金300万円などの賄賂を受け取っていたとして、東京地検特捜部に収賄の疑いで逮捕されました。特捜部はIR参入をめぐる癒着の実態解明を進めるものとみられます。25日夜、接見した弁護士によりますと、秋元議員は容疑を否認しているということです。
収賄の疑いで逮捕されたのは、国土交通省や内閣府などの元副大臣で自民党を離党した衆議院議員、秋元司容疑者(48)です。また中国・深センに本社があり、スポーツくじなどの事業を手がける「500ドットコム」の顧問の紺野昌彦容疑者(48)と仲里勝憲容疑者(47)、それに日本法人の元取締役の鄭希容疑者(37)の3人が、贈賄の疑いで逮捕されました。
東京地検特捜部の調べによりますと、秋元議員はIR=統合型リゾート施設などを担当する内閣府の副大臣を務めていたおととし9月、IRへの参入を目指していた「500ドットコム」側から東京都内で現金300万円の賄賂を受け取ったとして収賄の疑いが持たれています。
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このニュースを明快に理解した人は多くないと思います。
その理由は「カジノを含むIR=統合型リゾート施設」というものがどのような施設なのか分からないからです。
カジノが中心の不健全な施設というイメージをカムフラージするためIRなどという分かり難い略語を用いているのです。
そこで今日はIRの手本になっているラスベガスの風景やカジノの写真をお送りします。
写真は「ラスベガスのカジノの写真」を検索してネットからお借りしました。









いかがでしょうか。写真のような町を日本各地に作るのです。
確かにその地方の経済は活性化するでしょう。
しかしアメリカ流のカジノは日本文化を破壊しないでしょうか?
それともアメリカ流のカジノを日本風の花札博打や半丁博打に置き換えるのでしょうか?
日本には博打は何時の時代にもありました。しかし日本文化では博打は隠れて行うものです。
「ラスベガスのような町」が日本各地に出来ればまた一つ日本文化が消えて無くなります。
時代とともに美しい日本文化がまた一つ消滅します。それが色即是空というものだと分かっていても淋しいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、初詣で有名な高幡不動の写真を撮りに行く」

2019年12月27日 | 写真
東京近辺で初詣の多い所は日野市の高幡不動と府中市の大國魂神社と調布市の深大寺です。
今日は寒い木枯らしが吹いていますが晴天です。
午後から高幡不動の写真を撮りに行ってきました。
まず去年の元日の高幡不動の写真を示します。

1番目の写真は初詣客が溢れている高幡不動の写真です。
この写真の示すように正月になると毎日のように参拝の人で賑わいます。
今日は暮れの27日なので参拝の人が少なく境内は静かでした。

2番目の写真は初詣客を迎える用意の出来た山門です。

3番目の写真はまだ参拝の人も居ない本堂です。本堂の前に巨大な賽銭箱が用意してありました。

4番目の写真は豪華な装飾を施した五重塔です。

5番目の写真は豪華な社務所の写真です。この高幡不動は経済的に恵まれている様子が伺えます。
高幡不動の広い境内では何時も数台の車を並べて交通事故除けのお払いや、多くの信者を堂内に上げて護摩を焚いています。その上、いろいろな商品のたたき売りの屋台などが出ていて活気のあるお寺です。
なにか庶民の為に色々なことを多角的にしているようです。商売繁盛と言えば失礼になりますが、兎に角人気のあるお寺です。
高幡不動は関東三大不動の一つで、征夷大将軍が関八州を支配していた頃の大宝年間の701年より以前に創建されたと言われています。またの言い伝えでは奈良時代に行基菩薩によって開基されたとも言います。
いずれにしても武蔵の国の国分寺が完成したのは760年以降ですから、それより古いお寺です。
関東三大不動とは高幡不動、成田の新勝寺、埼玉県、加須の總願寺の3つです。すべて不動明王を本尊にしていて、人々へ取りつく悪鬼や不運や事故を追い払ってくれます。
天皇の命令で作った国分寺はすぐに荒れて、縮小してしまいましたが、3大不動は庶民の信仰と経済的支援によっていつの時代も栄え続きました。
4番目の写真が示すように境内には豪華絢爛たる五重の塔も建設されています。
同じ庶民の素朴な信仰にささえられて存続している長野や飯田の善光寺とは雰囲気が違います。高幡不動や成田不動は賑やかで活気があるお寺ですが飯田や長野の善光寺は静かな祈りのお寺です。
皆様はどのようにお感じになっていらっしゃいますでしょうか?  
写真を家内が撮りに行っている間車の中で長野や飯田の善光寺のことを考えていました。日本にはいろいろな性格のお寺があるのですね。

「間もなく元朝詣りなので神道の話をお送りします」

2019年12月27日 | 日記
間もなくお正月です。多くの日本人は元朝詣りのために神社に行くと思います。
神道や神社の歴史はとても古く旧石器時代や縄文時代から始まり弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと言われています。
日本列島に人が住み始めたのは3万年以上前のことです。ですから神道の歴史は3万年以上もあるのです。
私は日本人として民族宗教の神道を誇りに思っています。
そこで今日は神道のことを少し書きたいと存じます。
そのために昨日、清瀬市の「水天宮、日枝神社」の写真を撮って来ました。同じ境内に水天宮、日枝神社、御嶽神社、金毘羅神社、八雲神社と5つの神社がある広い境内です。
その写真をお送りします。

1番目の写真は水天宮です。

2番目の写真は日枝神社です。

3番目の写真は御嶽神社です。

4番目の写真は金毘羅神社です。

5番目の写真は八雲神社です。
この5枚の写真は神道が多神教であることを明快に示しています。神道にはキリスト教や仏教のような開祖が存在しません。
教典や具体的な教えはなく、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的な民族宗教なのです。あらゆる山や川、大木や大岩のような自然に神が宿っているのです。
そして神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社なのです。
日本にある神社は東京都渋谷区代々木にある神社本庁によって統括されています。神社本庁は「庁」と称していますが政府の行政機関ではなく民間の宗教法人の一つです。

日本において「神道」という言葉が初めて出て来るのは『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であると言われています。
神道は外来の宗教である仏教と日本固有の信仰を区別するため用いられた言葉ですがやがて神仏混交するのです。
しかし現在でも日本独自の宗教を神道と称し佛教や儒教やキリスト教と区別する言葉として一般的に用いられています。
このように神道は日本だけに存在する民族宗教として人類の貴重な文化の一つなのです。
日本国内で約85,000の神社が登録され約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるそうです。
初詣の参拝者が多いのもうなずけます。
東京近辺で初詣の多い所は浅草寺、深大寺、増上寺、明治神宮、神田明神、靖国神社、大國魂神社などなどです。私は地元の小金井貫井弁天と稲穂神社に行きます。皆様は何処の神社に初詣に行かれますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、武蔵野の畑と雑木林の写真を撮りに行く」

2019年12月26日 | 写真
今日は朝から暗い寒い冬日です。
こんな冬の日の武蔵野の写真を撮ろうと車を走らせました。
小金井市から北上し東久留米市と清瀬市を縦断すると埼玉県に入ります。そして所沢市の郊外に出ると昔ながらの武蔵野の風景が広がっています。黒々とした土の畑があり、畑の向こうに雑木林が見えます。
そんな冬の武蔵野の畑と雑木林の写真をお楽しみ下さい。









日本のキリスト教の実態、そしてお釈迦さまの佛教の実態

2019年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
私はカトリック小金井教会に毎週、日曜日に行っています。習慣になっていますで自然な日常的な出来事です。クリスマスのミサにも行っています。
写真にクリスマスイブの夜半のミサ風景をお送りします。

1番目の写真は教会入口の質素なクリスマ飾りです。

2番目の写真はローソクを灯して行うクリスマスイブの夜半のミサ風景です。
クリスマスには多くの信者が教会に溢れます。
しかし普通のミサに出る信者の数が少ないのです。
この教会の会員は1700人ほどですが、日曜日のミサに出ている人は160人くらいです。カトリックでは毎日、朝か夕方にミサがありますから、それに出ている人もいます。しかし平日のミサには十数人しか出席していません。
カトリックでは毎週一回はミサに出なければなりません。それが建前です。
しかし実態は信者の10%位の人しかミサに出ていません。
その上、ミサには洗礼を受けていない人も多く出ています。このようにミサに出ている信者が少ないのです。
これが日本のカトリックの実態です。
そして日本人の信者の多くは仏教のお葬式や法事にも出ます。神社に行けばお賽銭もあげます。
これも日本のキリスト教徒の実態なのです。例外的に少数の頑な信者は仏教のお葬式や法事に絶対に出ません。神社の境内には近寄りません。
さて何故ミサを欠席する人が多いかの理由を書きたいと思います。理由はいろいろありますが一つだけ取り上げます。
日本人は洗礼を受ける時、指導してくれた神父さんや、友人の信者に心酔して洗礼を受ける人が多いようです。
人間ですから当然なことです。
しかしその親しい神父さんや先輩の信者が引っ越してしまって、同じ教会から去ってしまったらどうなるでしょう?
信頼している人のいなくなった教会には魅力がなくなります。自然と教会から離れていきます。これも実態の一つの現象ですね。
何故こうなるでしょうか?それは日本では神父さんや先輩の信者だけを信頼し尊敬しているからです。
その上にあるイエス・キリストや神を視ていないからです。
神父さんはイエスの弟子を作ることが使命です。自分の弟子を作ってはいけないのです。そのように毎日努力しているのです。しかし日本人は神よりも人間を信頼する傾向があるのです。

カトリックでは数多くの聖人がいます。信者は聖人を尊敬しますが、信仰の対象にはしていません。「どうか家内安全をお願いします」と祈りません。聖人は我々の祈りをイエスや神に取りなしてくれますが、祈りの対象ではないのです。
私は日本にキリスト教を伝えたザビエルを尊敬しますが絶対に信仰の対象にしていません。
しかし日本人の多くは数多くの聖人を信仰の対象にします。これが日本のキリスト教の実態の一場面です。

何故そうなるのでしょうか?答は日本が多神教的な大乗仏教の国だからです。
お寺にはいろいろなご本尊さまが祀らていて人々の信仰の対象になっています。
例えば弘法大師も伝教大師も日蓮上人も人々の信仰の対象になっています。曹洞宗では道元さんも信仰の対象です。
しかし私は弘法大師さまや道元さまは尊敬はしますが信仰の対象にはしたくないのです。
もし私が佛教を信仰するとしたら信仰の対象はお釈迦さまただお一人にしたいのです。
それはそれとして、東大寺の大仏はお釈迦様の像ではないのです。お釈迦さまを超えた宇宙仏なのだそうです。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏が毘盧遮那仏なのだそうです。
日本の仏像は薬師如来や観音菩薩や大日如来や千手観音菩薩やいろいろあってお釈迦さまの像ではないのです。
この点で言えば東南アジアの上座部仏教は明快です。仏像と言えば大部分がお釈迦様ご自身の像なのです。お像には涅槃像という寝姿のお釈迦さまが多いのです。このことだけで考えれば私は東南アジアの上座部仏教が好きです。
ついでに書けばキリスト教ではイエスさまの言った言葉だけを重要視し、毎週朗読し忘れないようにします。
しかし日本の僧侶はお釈迦様の教えを書いた般若心経の意味を説明しません。そして関係の無い自己流の人生訓をくどくど説教するのです。困ったものです。
ですから日本の精神的風土ではお釈迦さまより弘法大師が偉いのです。日蓮上人が偉いのです。創価学会の池田大作さんが偉いのです。
私は尊敬の対象と信仰の対象を別けて考えています。
日本人が神父さんや誘ってくれた先輩の信者を信頼し尊敬することは美しい心です。しかしその為に教会から離れて行ったとしたら残念なことです。悲しいことです。
今日はこれでお終いにしますが今日書いた内容は全く私の個人的な好みの問題です。違う見解の方々のご意見も尊重しますのでコメントを頂けたら嬉しく存じます。

今日の挿し絵代わりの3番目と4番目の写真は函館のカトリック元町教会で5番目の写真は五島列島のカトリック井持浦教会の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「冬の奥多摩の清流の写真を撮りながら時の流れを想う」

2019年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
檜原村のある奥多摩は戦後頃から観光地になり川遊びの人々や登山客で賑わうようになりました。
それ以前の奥多摩は清流が流れ山間のところどころに人々がひっそりと住んでいました。静寂が大自然をつつみ夜は真っ暗になり星空の美しい所でした。
そのような奥多摩を現在見ようと思ったら冬に行けばよいのです。夏の間は川遊び人々や登山客で賑わっていた奥多摩から人々が消えてしまって静まり返っています。聞こえるものは風の音と暗い谷を流れ下る川音だけです。少しばかり散在している集落も過疎で人の姿がありません。
これこそ奥多摩という名前にふさわしい自然なのです。
そんな冬の奥多摩の冷たい清流の写真を撮りに昨日行ってきました。
五日市から檜原街道にはいり十里木で右に折れ支流の養沢を遡りながら写真を撮りました。その昨日の写真をお送りします。

1番目の写真は十里木の交差点から右に曲がってすぐの養沢の風景です。写真の上の方の左にある平地は駐車場で夏の間は百台くらいの車がビッシリ駐車している場所です。前の川は浅いので子供連れの若い家族で溢れかえっています。その喧噪が消え静かに清流だけが流ています。

2番目の写真も冬の養沢の風景です。ここは初夏から鮎釣りの人で賑わう瀬です。冬には誰もいません。

3番目の写真は養沢の少し上流にある鱒のルアー専門の釣り場です。夏には数人の釣り人が静かに毛鉤を水面に流して岩魚を釣っています。めったに釣れませんが釣り人は浮かんだ毛鉤の流れをジッと見て時を過ごしています。

4番目の写真は養沢の奥の集落です。周囲には植えた杉や檜の人工林が並んいます。昔はその林業で栄えた集落です。林業で財を成したような豪華な家が集落の高い場所にあります。林業は過ぎ去った夢です。集落は過疎なのか人の姿が見えません。

5番目の写真も杉や檜の人工林に囲まれた金持ちの家です。奥多摩の山々を見回すと山仕事のしやすい集落の近辺は人間が植えた杉や檜の人工林になっています。しかし険しい斜面や山々の奥は照葉雑木林になっています。そこは村人が使う薪や材木を切り出す場所なのです。
時代は変わりました。
燃料に使っていた枯葉や薪はプロパンガスに変わりました。高価な材木だった杉や檜は安い輸入材木に席捲されて出荷出来なくなりました。若者は職を求めて立川、八王子、東京へと出て行きます。過疎の集落が出来ます。

奥多摩の山々はそんな時代の変化も静かに見ています。それは悠久の時の流れの一齣に過ぎないのです。
冬の奥多摩の冷たい清流の写真を撮りながらそんなことを想いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

東京から近い天守閣のある3つの城の写真

2019年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
白壁の高い天守閣のある城は日本独特の美しい建造物です。
天守閣は高い石垣に囲まれ碧い水を湛えたお堀に写っています。
このような建物はヨーロッパにも中国大陸にもありません。
私は若い頃から日本のお城の美しさに魅了され日本中のお城を丹念に見て回りました。
北海道の松前城、本州の津軽城、盛岡城、仙台城、白石城、松本城、掛川城、犬山城、名古屋城、大阪城、彦根城、姫路城、岡山城、松江城、高松城、熊本城などを訪れました。
日本のお城は戦争の為の構造もしていますが、それよりも美しく作られている文化財と思います。
今日は何度も行った東京から近い天守閣のある3つの城の写真をご紹介したいと思います。
諏訪氏の居城だった高島城と行田城と小田原城です。
考えて見ると箱根の関所から東には立派な天守閣のある本格的なお城は3つしかありません。
お城のある風景を見ながら戦国時代の歴史を想って頂けたら嬉しく思います。

1番目から3番目の3枚の写真は諏訪湖の畔にある高島城です。撮影日時は2017年12月です。





4番目から6番目の3枚の写真は関東平野の北部にある行田城です。行田へは東北高速道路の久喜インターを出て、一面に広がる水田の中を根気良く車を走らせると行田に行けます。撮影日時は2008年6月7日午後です。





7番目から9番目の3枚の写真は東海道にある小田原城です。
2011年2月27日 に撮影しました。



歴史が好きな方々のためにこれら3つの城の歴史を書いておきます。

(1)日根野氏が1598年に築城した高島城
 諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って上野国惣社(現群馬県)に移されました。
 かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。
高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、1598年の慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
日根野高吉(?〜1600)は美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。

 日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。

(2)1479年に成田顕泰の作った行田城(忍城)
埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。
1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。
石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。
深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。
しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。
江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城しました。
上の写真にある白い天守閣は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。
幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。

(3)北条早雲家が作った建築者不明の小田原城
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていていました。だが、建築者は、不明です。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説です。
北条早雲から3代目の当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれていました。
そして上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えたのです。
しかし1590年の秀吉による関東平定の時落城しました。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となります。
この城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだのです。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させます。
小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる重要な立場だったのです。

高島城と行田城と小田原城はあまり有名ではありません。しかしその歴史を調べると戦国時代から徳川の江戸幕府が出来るまでの動乱の時代の地方、地方の実態が浮き彫りになってくるのです。それぞれの地方には激しい時代の変化と武将の興亡があったのです。その動乱に巻き込まれた農民や町人を想うと粛然としたき気持ちになります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、ミサに行き、スーパーに買物に行きました」

2019年12月22日 | 日記
今日は待降節第四の主日です。午前はカトリック小金井教会のミサに行きました。
昼食後にヤイコーというスーパーに買物に行き、下仁田ネギを送ってくれた方へ御礼の品を発送しました。
このヤオコーというスーパーは川越市の八百屋さんが作った店で、埼玉県と東京の西北部に数多くのスーパーを展開しています。
その上創業者の女主人、川野トモさんが油絵が大好きで川越美術館を作ったのです。
この美術館は三栖右嗣(みす ゆうじ)記念館でもあります。
彼の絵画を蒐集し33点展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあります。

建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
ヤオコー川越美術館に展示してある三栖右嗣画伯の油彩画の写真を示します。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。

2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。

ヤオコー川越美術館は2年前に訪問しました。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。
ヤオコーというスーパーに買い物に行くたびに三栖右嗣さんの油彩画を思い出して楽しい気分になります。
そんなスーパーが近所にあるのは幸運ですね。
川越の近辺にお住まいの方は是非この美術館を訪問なさって下さい。
=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 現代リアリズムの巨匠といわれ、人気作家であった彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。物を捉える並はずれた技術力と温かみのある描写の作品の数々は、何度でもその前に足を運び、対峙したくなる非常に質の高い、充実したコレクション群です。
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。

「クリスマスツリーのある風景写真」

2019年12月22日 | 日記
間もなくクリスマスです。今日は待降節第四の主日です。
そこで日本とスウェーデンのクリスマスツリーのある風景写真をお送りいたします。
どうぞ楽しいクリスマスをお過ごし下さい。

1番目の写真は北海道美瑛町の星空とクリスマスツリーの木の写真です。写真の出典は、http://starwalker.jugem.jp/?eid=1006 です。

2番目の写真はスウェーデンのクリスマスの風景です。
15世紀に建てられた教会のある「ルレオのガンメルスタードの教会街」(世界遺産)のクリスマスの風景です。写真の出典は、https://hokuo-guide.com/christmas-in-sweden です。

3番目の写真は横浜赤レンガ街のクリスマスツリー です。
写真の出典は、https://www.pinterest.jp/pin/11118330302076190/ です。

寒い日が続いていますがお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)