後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(1)

2018年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
そのモンゴル人はソヨルジャブと言う男性です。満州のハイラルを統治する省公署に勤めていました。
その役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。

今日のお話は美しく、せつない一人のモンゴル人の日本人との絆の話です。
一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないで日本人へ忠誠をつくします。
何故、彼はそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な絆です。
戦後、ソヨルジャップさんはソ連軍の強制収容所に入れられます。その後は中国の矯正収容所です。合計36年間の収容所生活でした。しかしこの苦難にもかかわらずソヨルジャブは一生変節しないで日本人を愛し、その絆を大切にしたのです。
彼は2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。骨はホロンバイル草原に散骨されました。
この美しい物語を2回の連載で順々にお話しましょう。
以下の話は細川呉港著の「草原のラーゲリ」、文藝春秋社、からの抜粋です。

ソヨルジャップは昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
 それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
 省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
 藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
 それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
 藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
 広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・

これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語は、「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」(2018年07月26日掲載記事)にあります。

 藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。その後、数十年間も探すのです。そして日本まで探しに来たソヨルジャップはついに藤田の妻と娘に会います。
続きは次回の記事で話します。

この情報はハイラルの小学校に通っていた大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂きました。
今日の挿し絵代わりの写真はモンゴルの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







昔の武蔵野の面影を求めて写真を撮りに行く

2018年07月30日 | 日記
今日は車を北に向けて埼玉県三芳町の農村地帯に行きました。
昔の武蔵野の面影のありそうな畑と雑木林、そして茅葺の農家の写真を撮って来ました。
どうでしょうか? 昔の武蔵野の感じが出ているでしょうか?
あまり自信がありませんが写真をお送りいたします。









中国、ホロンバイル草原に樟子松を植える日本人達

2018年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次大戦の前にはアメリカはフィリピンを植民地にし、イギリスはマレーシア、シンガポール、香港などを植民地にしていました。しかし植民地主義はどのように考えても倫理的には悪です。
同じ様に日本は朝鮮を併合し、満州国を作りました。それも倫理的には悪です。
欧米諸国が倫理的に悪いことをしていたから日本も見習ったのです。しかし悪は悪です。
当時はそれが世界の趨勢でした。大多数の日本人は満州国は倫理的に悪いと認識していませんでした。
しかし現在多くの日本人は朝鮮を併合し、満州国を作ったことは倫理的には悪かったと認識しています。
その倫理的間違いに気がつき、満州のハイラル近辺の草原に松の木の植林事業を長年続けた日本人がいたのです。
これは倫理上のことですから謝罪したり許したりしません。現地の中国人も植林をする日本人の気持ちを理解し、何も言わずに一緒に松の木を植えたのです。黙ってニコニコして一緒に苦労してくたのです。お互いに何も言わない心の交流です。魂の共鳴です。
これこそ草の根外交の本質ではないでしょうか?

今日はホロンバイル草原に松の木を植え続けた日本人たちをご紹介いたします。
大学時代の友人の竹内義信さんから聞いた話です。10年間に54万本の植林を行ったのです。
さて表題にある樟子松のことを説明します。この松の一種は中国の東北部の北の方に自生している松です。大きな松ぼっくりをつけます。
しかし中華料理に使う松の実は、中国東北部から朝鮮半島に生えているチョウセンゴヨウの松ぼっくりから採取します。チョウセンゴヨウの中国名前は「紅松」と言います。
写真で示します。1番目、2番目、3番目の写真はいずれもハイラルの付近のホロンバイル平原での風景です。





以下は旧友の竹内義信君の手記です。
 私は国民学校一年生から、四年生の昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、満州のハイラルという町で平和に暮らしていました。その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。
ハイルラルは北緯49度に位置し、冬の寒さは厳しく、零下40度以下になることも稀ではありません。しかし、樟子松は零下40度の真冬でも緑の葉を付けたままで、春にはまた新芽を吹いて成長します。
 海拉爾在満国民学校の同窓会は戦後間もなく40年になろうという昭和57年に設立されました。そして芋づるのようにな同窓生探しが実を結び500名以上の名簿が作られたのです。
始めての同窓会総会には全国から200名近くの、懐かしい顔ぶれが集まりました。そして平成12年には同窓会活動から一歩踏み出したハイラル市の植林に協力することになりました。
そのためにNPOの「呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化協力会」を有志で立ち上げ、私も参加しました。
丁度、時を同じくして設立された「日中民間緑化協力基金」(通称、小渕基金)の助成金を受けて10年間に54万本の植林を行いました。
主な樹種は懐かしい樟子松でした。海拉爾市も2,000ヘクタールの「中日友誼林基地」を準備して協力してくれました。
その植林地は私が戦争中に遊んでいた西山の数キロ西方にあります。私達が戦時中に見た樟子松の林は現在では国家森林公園として保護されており、樹齢400年から500年の樟子松が何本もあります。その上、樟子松は海拉爾の郷土木なのです。
 樟子松はハイラル付近に多いので別名ハイラル松とも呼ばれます。学名はPinus sylvestris var. mongolicaでヨーロッパアカマツ(Pinus syrvestris)の仲間で日本の赤松(Pinus densiflora)とは違います。
 海拉爾での植林は樟子松が中心で一緒にマメ科の黄槐を混植しました。黄槐は根塊で窒素を固定しますので、栄養分の乏しい砂地では大切で樟子松の成長を助けます。
ホロンバイル草原に関する著書の多い細川呉港氏によると海拉爾から満洲里までの海拉爾河沿いの砂丘には昔はずっと松林が続いていたと蒙古人から聞いたとのことです。
更に、細川氏は1998年の夏に嵯崗というところから砂山に入って何十本か群生している樟子松の林を見付けられたそうです。昔、大平原の砂丘を樟子松の林が100キロ以上も連続していた頃はさぞ壮観だったことと想像できます。
 ハイラルの友誼林基地での樟子松の植林方法には春と秋の二通りの全く違った植林の仕方がありました。
樟子松の松傘から集めた種を苗畑に蒔くと発芽率は良く、丁度稲の苗畑の様に密生して芽を出します。
春季植林は手植えと機械植えがあり、手植えでは、2年目の15センチ位に伸びた樟子松の苗を30センチの穴に苗の頭が出て風に当らない様に手で植えて行きます。雨が降れば水が溜ることも期待します。3メートル間隔で1ha当たり二千株ほどになります。
同じ春季植林でもトラクターで二人の乗った車を引っ張り、3メートル間隔位に交代で苗を置いて行くと、後ろに土寄せのタイヤで土を掛けます。トラクターに乗った二人は前屈みで目に土が入らないように風防眼鏡をしてかなりの重労働になります。
 一方、海拉爾独特の冬期植林があります。土の凍らない9月頃に立横高さがそれぞれ50センチの穴を掘っておきます。11月頃には地面も凍結し樟子松も冬眠状態となります。7~8年生の樹高約1.2メートルの樟子松を掘り起こします。慣れた職人でも一日15株掘り起こすのがやっとの重労働です。この凍土の付いた木を9月に掘っておいた穴に入れ土を掛け踏み固めたら、根元に50lの注水をするとたちまち凍結し、苗木はそのまま越冬して、翌年の春に水を要求する時期になると凍結した水がゆっくりと溶けだし根は十分に水分を吸い上げると言う大変合理的な植林方法です。
 植林基地の一部に畑だった場所に植えた1メートル一寸の樟子松は9年後には6メートルにまで成長しましたが、大部分の砂地では精々2~3メートルでした。
 プロジェクトの終了から5年目の2014年の夏に前出の樟子松に詳しい細川氏が海拉爾を訪問されると聞き、私達の「中日友誼林基地」を見て来て欲しいと依頼しましたが、昨今の日中関係のせいか基地は封鎖されており誰も入れないと断られてしまったそうです。しかし、私はこの封鎖は私達が植えた樟子松にとって決して悪いことではないと思っています。
戦争中に北海道の函館山は要塞だったために、その原生林は立派な森になりました。私達の植えた樟子松も郷土木としてハイラルの地で立派に成長して見事な松林になることを願っております。中国の環境保護の一助になればと考えるこの頃です。これで旧友の竹内義信君の手記は終っています。

4番目の写真は日本人の植林作業を助けようと集まって来た中国の中学校の生徒たちです。

5番目の写真葉はホロンバイル地域緑化推進協力会、(http://www2.u-netsurf.ne.jp/~s-juku/hurunboil.htm )の会合の写真を示します。竹内義信さんはこの写真の左手前の方です。事務局長として活躍しました。

なお中国での日本人による植林事業は数十カ所の各地で実施されました。今日のホロンバイル地域での植林はその中の一つなのです。
日中間の友好や交流は奥が深いのです。はるか昔の遣隋使や遣唐使から交流しているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

台風一過、青空に流れる白い雲に誘われて・・・・

2018年07月29日 | 写真
昨夜の激しい雨、風が嘘のように晴れ上がり、青空に白い雲が流れています。
午後から流れる雲に誘われてドライブに行きました。風景の良い多摩尾根幹線道路を稲城の光陽台から多摩センターまで行きました。
右手には奥多摩の山並みが青く光っています。左前方は丹沢の峰々が見えます。
運が良ければ富士山も見えます。
とにかく風景の良い尾根の上の幅広い舗装道路なのです。
西端は遥かに高尾山まで続いています。
今日は多摩センターで右折して、平山城址の下を通リJR中央線の豊田駅前に出ました。
そこを過ぎて行くと、日野市の黒川清流公園の傍に洒落たパン屋さんがあります。
雰囲気の良いパン屋さんで、店の隅に5つほどテーブルがあり、コーヒーと美味しい菓子パンが楽しめます。
家内も好きな店なので、ドライブに行くとよく寄るところです。
今日も午後のコーヒーをゆっくり楽しんで来ました。
そこからは甲州街道を通って帰りました。真夏の積乱雲の上に、秋の気配を漂わせる絹雲がうっすらと懸かっていました。
撮って来た写真をお送りします。平穏な老後の一日でした。









あなたは神の存在やあの世を信じていますか?

2018年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する話を簡単に書きます。
あなたは神の存在を信じていますか?
あの世を信じていますか?
こういう質問をされたら多くの人は当惑すると思います。
第一、神とはキリスト教の神様なのか神社に祀られている神々なのか分からないからです。質問が曖昧過ぎて話になりません。
キリスト教の神とイスラム教の神とヒンズー教の神々は全部違います。姿と性格が違います。
それを一緒くたにして、「あなたは神の存在を信じていますか?」と聞かれたって返事のしようがありません。
その上、仏教ではお釈迦さまはヒンズー教の神々の偶像崇拝を否定しています。人間自身で修行して悟りの境地に入れるのです。ですから仏教徒に、「あなたは神の存在を信じていますか?」と聞いても返事が返って来ません。
人間はある時は神の存在を信じています。ある時はあの世を信じています。
人間はある時は神の存在を信じていません。ある時はあの世を信じていません。
人間は迷える存在なのです。
ところが社会的な雰囲気で「信じている」と明快に答えなければいけない国々があります。
例えばアメリカでは、「信じている!」と答えないと他人から信用されない社会なのです。
一方、理屈っぽいドイツでは、「あなたは神の存在を信じていますか?」と聞くと返事の代わりに、逆に質問が返ってきます。
「そんな曖昧な質問がありますか?まず神の定義をして下さい」と説教され、逆に質問をされます。
ですからこんな質問をして世論調査をしても無意味かもわかりません。
しかし私はこの世論調査に大きな興味を持っています。その国の社会と宗教の関係が透かし彫りになっているからです。
宗教を信じていると言わなければいけない国もあります。宗教を信じないと言える自由のある国があります。イスラムの国々では神を否定したら生きて行けません。
大乗仏教の日本には多種多様な仏像を拝みます。神社の神々も敬います。その上、宗教を信じないと言った方が居心地が良いのです。こんな社会的な背景が見えて来るのです。興味が尽きません。

それでは数多くの国々にあける神に関する世論調査の結果を見てみましょう。

1番目の写真の図面がその統計調査の結果を示しています。
この図面は、世界55ケ国の神を信じる人の数を各国の人口のパーセントで示しています。2000年の統計調査の結果です。出典は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html です。
統計調査には、世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し実施しました。
調査には、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較する「世界価値観調査」も含まれています。調査は1981年から始まり、1990年からは5年ごとに行われています。各国毎に全国の18歳以上の男女1,000サンプル程度の回収を基本とした個人単位の意識調査です。
図の詳しい説明は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html に御座います。

神の存在と死後の世界を比べると、神の存在の方が一般的に信じられています。
神の存在は24カ国で90%以上の人が信じていると答えています。50%未満の人しか信じていない国は5カ国に過ぎないのです。
これに対して、死後の世界は、90%以上の人が信じていると答えた国は4カ国しかなく、50%未満の人しか信じていない国は25カ国もあります。つまり神の存在は信じていると一応答えても、あの世の存在は否定しているのです。
 エジプト人は、神の存在、死後の世界ともに、100%の人が信じています。イスラム教のヨルダンやインドネシア、キリリスト教のフィリピンといった諸国も、エジプトと同様の見方を示しています。
逆に、ベトナムは、神の存在も死後の世界も信じていない者が多い点で目立っています。これは神を否定する上座仏教の影響と共産主義の影響なのでしょう。
日本は、ベトナム、チェコと並んで、神の存在を信じないと答えた人の多い国です。そして死後の世界については、信じない人が多いのです。その比率は、ドイツ、デンマークと同程度であり、それほど目立っているわけではないようです。もっとも「あの世の実態は」は日本とドイツでは違うようです。
さて日本には神を信じていないと答えた人が非常に多い国です。外国の諸国に比較して非常に多いようです。
しかし日本には無宗教の人が多いとは言えません。日本の仏教には神の存在がないのです。

さて今日の記事で私は何を主張したいのでしょうか?
まず第一は「あなたは神の存在を信じますか?」という質問の曖昧さを主張したいのです。
従ってこんな質問で国際的な世論調査を行っても、その結果を正しく理解するためには慎重な考察が必要だと主張したいのです。
そして第二に言いたいことは、私は完全な意味において宗教の自由がある日本に住んでいることに深く感謝していると声を大にして言いたいのです。
私は自称カトリックの信者です。ですからカトリックに関する記事を何度も書いています。
しかし読者は寛容なのです。誰もその記事を非難しません。何を書いても許してくれるのです。
こんな日本が大好きです。日本を愛せざるを得ません。毎回宗教に関する記事を書くたびに感謝の気持ちが湧いて来るのです。読んで下さる皆様へ感謝しています。

今日の挿絵代わりの写真は数日前に撮った三鷹、花と緑の広場の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







遥かなハイラルにあった日本人学校の同窓会

2018年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
今日の話はこのハイラルに存在していた日本の小学校の同窓会活動の話です。
ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
この学校に関する資料はその小学校に通っていた竹内義信君から頂きました。

竹内義信君は大学時代の旧友でした。3年ほど前に何度か会い、彼の通っていた遥かなるハイラルにあった日本人学校の思い出話を聞きました。
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
そしてその後の同窓会の活動の話を詳しく聞くことが出来ました。
ハイラルにあった小学校の同窓生たちは1980年代の日中友好の時代にその小学校を訪問したのです。
同窓生一行は中国人から大歓迎を受けたそうです。竹内義信君も心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。
以下は竹内君から聞いた話です。
まずハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」の写真をご覧下さい。

1番目の写真は「草原明珠」という同総会誌の写真です。この本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。

(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。ですから私はその学校が日本人だけを入学させ、現地人を入学させなかったかを問題にしたいのです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。武力占領という日本の負の遺産を少し正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。

(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。
この本は数百人の悲しい涙と感傷に満ちています。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会はハイラル小学校の後身の「文化街小学校」への友好訪問をしたのです。正式訪問は5回、非公式には、同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことは学校へ寄付しただけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。

上記のハイラル小学校の同窓生たちが感傷だけに溺れないで、現在の中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。

鄧小平が亡くなり江沢民の時代になると日中関係は暗転したのです。
しかし我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。それにしても最近の日中関係の悪化はどうしたことでしょうか?
満州にあった日本人の学校の写真を4枚お送りします。写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

2番目の写真は撫順にあった小学校の運動会の風景です。内地の学校の運動会風景と同じです。

3番目の写真は撫順の小学校の体育館で運動をしている児童の様子です。

4番目の写真は撫順にあった幼稚園の風景です。

5番目の写真は日本人小学校と満人小学校の交流会の写真です。壇上に飾られた数多くの人形は日本人児童から満人小学校へ送る贈り物です。

満州というと日本人は敗戦後のソ連兵の略奪やシべリア抑留を思い出します。引揚者の苦難の逃亡の経験を思い出します。
しかし無法なソ連軍の侵入までは平和な日常が続いていたのです。満州に住んでいた人々の幸せな日常でした。
歴史を振り返る時にそのように静かな日常があったことを忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

また夏の花の写真を撮って来ました

2018年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
台風が近づいて来たせいか少し気温が下がり、なんとか我慢できるようになりました。
2日前まで連日、庭の寒暖計が37度になっていましたが、今日は最高で32度です。
家から車で40分くらいの三鷹市、花と緑の広場で夏の花の写真を撮って来ました。
サルスベリやヒマワリの他に美しい八重のヒャクニチソウが一面に咲いていて見事でした。
夏の花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
















涼しい北海道のロマン、トラピスト修道院

2018年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の猛暑が続くと北海道がうらやましくなります。カラッと晴れ上がって涼しい風が吹いてるのを想像します。心の中が秋風が吹き抜けて気分が爽快になります。
そして北海道への旅にはロマンがあるのです。北海道へは私共も何度も旅をしました。
北海道の魅力は自然の風景が本州以南と大変違うことです。そして何故か北海道には異国情緒が漂っているのです。
今日も暑くなるようなので北海道の自然とトラピスト修道院のことを書いてみようと思います。

北海道は本州や九州とは違った地質でシベリア的な植物が育っています。そして農村地帯へ行くと、なだらかに起伏する丘に牧草地が広がり、風景がヨーロッパに似ているのです。牧草地や麦畑の仕切りに美しい白樺が並んでいます。なだらかに起伏する丘は氷河に削られたからと言います。
北海道だけに棲むヒグマやエゾ鹿をバスの車窓から眺めていると、やはりここは異国だと感じます。
地質学的には太古の昔、北海道は樺太と共にシベリアに繋がっていたそうです。
そして本州以南は朝鮮半島や上海付近の中国大陸に繋がっていたようです。
このように考えると北海道の風景がヨーロッパ的なことが納得出来ます。

この自然の景観だけでなく、北海道には明治維新後、ヨーロッパ文化がやって来て根付いている場所もあちこちにあります。北海道にはアイヌ文化だけでなくいろいろな異文化が混在し、独特のローカル文化があるのです。
北海道の魅力は美しい風景を楽しみながら異文化の探訪も出来ることにあります。
そこで今日は異文化の色濃い函館の郊外にあるフランスのトラピスト修道院をご紹介したいと存じます。
あれは随分と前の2012年の6月のことでした。
函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南を丁寧に見て回ったことがありました。
函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園は太平洋に面しています。
4日間いましたので西の松前の城下町から東の太平洋岸まで観光しました。
東では、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、森、大沼公園、と丁寧に見て回りました。
しかしこの旅の中で、特に強烈な印象を受けたのがトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。
この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。
石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて畑や乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。
レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。
何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。
トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。周囲の景観にロマンがあり素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。

このトラピスト修道院の中での生活を少し調べました。
一番大切なのは「祈り」だと書いてあります。
聖務日祷の時刻には、合図の鐘の音が聞こえます。それが聞こえると、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならないそうです。
修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。
ご聖体のパンが安置されている聖堂に全員集まって熱心な祈りをささげます。
修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての市井の人々のためにささげられているのです。
そして労働をします。
怠慢は霊魂の敵です。みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのです。
祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。
修道者たちは自然界の中での酪農、菜園、果樹園、庭園などの世話をする労働を行います。
このような厳しい生活を想像しながら、トラピスト修道院の見える牧草地を散歩しました。
そして裏手に回って古い木造の牧舎を長い間、見上げて来ました。

この地にヨーロッパから数名の修道者が来た当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野だったそうです。
 渡来した修道士たちは徐々に日本人の入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷を埋めて畑に変え、今日の姿にしたのです。
生活の糧として、牛乳から作ったバターやチーズを売り出しました。
当初、乳製品は日本人に売れません。なじみが少なかったのです。製酪工場の経営は困難をきわめたようです。しかし、よく耐え抜いたのです。
私の撮った写真をご紹介いたします。

1番目の写真は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

2番目の写真は修道院の入り口です。
正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

3番目の写真は古い牛舎の写真です
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

4番目の写真は修道院の下に広がっている牧草地です。

5番目の写真は修道院の内部の聖堂でのミサの光景です。
この写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

この当別修道院は、函館から西方に約30Km、JR江差線「渡島当別駅(としまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにあります。

以上のように北海道の旅は美しい風景とともに何か異文化もあり楽しみが深いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇

2018年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦直前のソ連軍の満州占領で日本人は凄惨な悲劇に見まわれました。略奪、暴行、虐殺そして最後は55万人以上のシベリア抑留です。樺太でも同様でした。
もう忘れたい悲劇です。
しかし人間の本能は戦争が好きなのです。その本能を鎮め、平和を続けるためには戦争の悲惨さを繰り返し、繰り返し、書いて確認しなければなりません。
そこで今日は満州に住んでいた日本人の大きな悲劇のほんの少しの例を示します。

さて満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人以上と言われています。
このうち8万人近くが満蒙開拓団員でした。当時、満州には155万人の日本人が住んでいました。
満州を占領したソ連軍は、55万人余の日本兵を捕虜にし、シベリア各地で強制労働をさせたのです。
これこそシベリヤ抑留です。同じことが樺太でも起きました。そこからの抑留者を含めると60万人以上の日本人がシベリア抑留されたのです。
あまりの寒さと飢えで6万人近くの日本兵がシベリアの土になり、二度と故国へ帰らなかったです。
さてソ連軍が攻撃を始め、満州に攻め込んだ時、日本軍の関東軍はどうしたでしょうか?
列車を仕立てて敗走したのです。取り残された民間人は武器も無く、ソ連兵の蹂躙に身をまかせる他は無かったのです。関東軍が本気でソ連軍と戦っていれば、民間人の婦女子が南に逃げる時間がかせげたのです。
この関東軍の卑怯な逃亡が民間人の悲劇を大きくしたのです。

しかし例外的に勇敢にもソ連軍と本気で戦った日本の軍人もいたのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語です。
藤田藤一は元、ハイラルの参事官でした。召集され関東軍の少尉になっていたのです。
この話が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間待っていました。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像にあまりあります。
この藤田少尉の話をもう少し詳しく書きます。
当時、ハイラルを取り囲んで5つの堅固な防衛陣地がありました。8月9日から119師団の主力が興安嶺に後退したあと、編成された独立混成第八十旅団ほか、国境守備隊などいくつかの部隊がソ連軍を迎え撃ちました。挺身隊(夜間切り込み隊)をつくって応戦しましたが、結局10日後の8月18日に主陣地であった河南台要塞が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が、数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で、藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
見渡すばかりの草原のなかで、トラックは急遽カーブを切り、大きく遠回りをしてハイラルに向って逃げ始めました。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。助かった人々は後に語っています。
「藤田少尉とその部下の方たちのおかげで、われわれは命拾いをしたのです。彼らは本当に私たちの命の恩人です。まさに捨て石となってわれわれを救ってくれた」 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」の中に、「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事を崎谷さんが書いたのです。上はその記事の抜粋です。
(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)

日本の軍国主義は悪いと一言で切って捨てるのは易しいことです。しかし以上のような個人の献身と悲劇を具体的に知ることも非常に重要ではないかと信じています。
こういう個人の悲劇が我々の魂へ働きかけ平和の重要性を強く、強く教えてくれるのです。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラルの風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                            後藤和弘(藤山杜人)







真夏の奥多摩への小さな旅

2018年07月25日 | 旅行記
平日の奥多摩は人がいなくて森閑とした実に静かな場所です。
甲州街道を分岐した奥多摩街道で立川、昭島、牛浜、青梅とドライブして行きます。
青梅を過ぎると奥多摩の山並みが眼前にせまり、いよいよ奥多摩に入り込んだという気分になります。
沢井を過ぎてJRの御岳駅に近づくとぐっと山並みが迫って来ます。

1番目の写真は御岳駅近くの奥多摩街道の風景です。
御岳駅の前を過ぎて2Kmくらい上がると多摩川の川原に下りられる国際マス釣り場に着きます。

2番目の写真は誰もいない国際マス釣り場の風景です。

3番目の写真は多摩川の綺麗な水の流れの写真です。多摩川も御岳駅から上流になると清流になります。
国際マス釣り場を過ぎて古里を通り鳩ノ巣に行きます。鳩ノ巣では渓谷の巨岩を多摩川の急流が洗い、風光明媚な観光地になっています。
この鳩ノ巣とJRの終点の奥多摩駅の間の山間に花々を栽培している農園があります。

4番目の写真は花の農園のヤマユリです。

5番目の写真は同じ花の農園のヒマワリです。
JR奥多摩駅を過ぎて、ひたすら車を走らせると奥多摩湖に出ます。

6番目の写真は奥多摩湖です。
奥多摩湖へはJRで奥多摩駅下車、西東京バスでも行けます。JR奥多摩駅から西東京バスの留浦・丹波・小菅行きに乗り約20分です。バス停の奥多摩湖で下車します。
奥多摩湖の奥で道は山梨県の丹波村、塩山などへ抜ける道と、奥多摩周遊道路に分かれます。
奥多摩周遊道路を上ると古い歴史のある数馬の里にでます。
そして数馬の里から秋川渓谷をえんえんと下ると五日市に出ます。そこから奥多摩街道に戻って帰路につきます。
数馬の里は南朝時代の落人なのです。

7番目の写真は伝統的な兜造りの家ですが現在は「蛇の湯」という入浴施設の写真です。
「数馬の里」は東京都西多摩郡檜原村の山地の奥深くにあります。
屋根が異様に大きい兜造りの家々があり、いかにも古い歴史のある集落の雰囲気です。
南北朝時代の1336年ころ、南朝方の武士、中村数馬が落ちて土着したので「数馬の里」と言うそうです。
豊臣秀吉が天正18年(1590年)、小田原城を落とし、甲斐の武田一家も滅びました。その時も武田の落ち武者が「数馬の里」に住み着いたと伝えられています。
江戸時代になって甲斐から兜造りが入ってきました。
数馬の里は武蔵平野や甲斐盆地から隔絶された孤島のような山郷なので、独特な方言や地域文化を維持してきました。
現在も地名の読み方が不思議です。人里と書いて、へんぼり、と読み、笛吹は、うずひき、神戸は、かのと、事貫は、ことずら、日向平は、ひなたびら、などなど独特な読み方が現在でも使われています。
7番目の写真の「蛇の湯」は昔、傷ついた大蛇が傷をいやしたと言い伝えられているそうです。この事は江戸時代寛政年間の林述斎の「新編武蔵野風土記稿」に載っているそうです。
このように数馬の里は奥多摩地方に珍しく古い歴史のある集落なのです。

少々長くなりました奥多摩への小さな旅のご案内をいたしました。

猛暑をしのぐ方法(1)南極に行った小さなヨットの写真を見る

2018年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、毎日、猛暑ですね。
現役のあいだは仕事に熱中していて暑さを忘れることが出来ました。
しかし引退後は毎日暇で猛暑が一層骨身にこたえます。そんな引退後の方々は家のクーラーを付けっ放しでこの暑さをしのいでいると思います。
そこで今日からさらに涼しい思いをするような写真や文章を連載でお送りいたします。
連載の第一回は南極に行った小さなヨットの写真と話です。
見て涼しくなるような南極の写真をお送りいたします。そして危険がいっぱいの小さなヨットの姿もあります。よくぞこんな小さなヨットで、独りで荒れる海を横切って南極まで行ったものです。
今日、ご紹介します写真は片岡佳哉さんが撮影したものです。彼は岩手県盛岡市で1953年に生まれ、東北大学理学部在籍中にヨットに出合います。
ソフトウェア技術者として一度は就職するも、世界一周の夢をあきらめきれず、全長7.5mという小さな中古ヨットで宮城県浜田港を出発しました。それは1981年のことでした。
太平洋を横断、マゼラン海峡を含むパタゴニアの海を航海しました。そして日本人初の南極単独航海の後、8年がかりで世界一周を遂げたのです。
スポンサーもまったくいないまま日本を飛び出して、世界のあちこちでアルバイトで資金を稼ぎながら航海を続けたのです。
そして、「ブルーウォーター・ストーリー・たった一人、ヨットで南極に挑んだ日本人」という 単行本 を2015年6月に出版しました。その時、彼は62歳でした。
それでは早速、南極の写真をご紹介いたします。
写真の出典は全て、 [ヨット青海]http://aomi-sailing.com/  です。

1番目の写真は南極の火山島、デセプション島の内部の風景です。
とても珍しい風景です。外洋のうねりから完全に守られ、湖のように静かな水面が続いています。陸地は火山弾、火山礫、万年雪に覆われていたそうです。降水日数は一年の8割ほどもあり、晴天はまれというので、この晴天の写真は奇跡のようなものです。

2番目の写真は南極の陸からの長い舫ロープで係留し夜の眠りの準備が終わったヨットの姿です。

3番目の写真は単独帆走中の写真です。荒れる南極海の大波が次から次へとヨットに襲いかかります。
氷山の流れる南極の海は低気圧が続々とやって来て海は大荒れの毎日です。世界のどの海域にも見られない強風が吹き氷山を押し流します。

4番目の写真は南極の山を背景にしてアンカーで海底に固定して停泊しているヨットの姿です。

5番目の写真は2本の舫ロープを岸から張り、さらにアンカーを降ろして停泊しているヨットの姿です。

わずかに風のおさまった沖に出て氷山を縫うようにして進んで行きます。青く光る南極の島々はこの世のものと思えない絶景を見せています。しかしまた嵐が襲って来ます。
何度も逃げ帰りたいと思います。気持ちが折れ、荒れた海の恐怖が勇気を砕きます。
南米の南端から危険な海として有名なドレーク海峡を1ケ月もかけてやっと遥々南極大陸に辿り着いたのです。しかし南極は秋も終わり海は氷り始めています。無事生還は無理と思い南極観測のイギリス基地へ冬の間だけ働くことをお願いします。鄭重に断られます。もう一度勇気を奮い起して帰路につき、命からがらアメリカ基地まで戻ります。イギリス基地から連絡のあったアメリカ基地の人々が大歓迎してくれます。そこで勇気づけられ南米まで帰ります。そこからは喜望峰を回りインド洋を横断しオーストラリアまで行きます。地球を一周して日本に帰って来たのです。

いかがでしょうか?少しは涼しい気分になられたでしょうか?
早く立秋も過ぎ、暑さが少しでもやわらぐようになることを祈っています。
下記の「8年間の南極、地球一周の後の片岡佳哉さんの想い」も是非ご覧になって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                            後藤和弘(藤山杜人)

===8年間の南極、地球一周の後の片岡佳哉さんの想い===========
南極を離れた[青海]とぼくが、ツメに段がつくほど体力を消耗した航海の末、三千キロ北のブエノスアイレスに戻り着き、アフリカやオーストラリアを経て日本に帰ったのは、さらに四年が過ぎた北半球の夏でした。
ヨットから陸に上がり、町に住み始めると、海とは随分違うことに気づきます。数メートルも上下する船室で転んで怪我することも、頭上から波が襲って海に落ちそうになることも、嵐を心配して人の顔色をうかがうように空を見上げることも、座礁の恐怖に震えて過ごす闇の夜も、もうありません。航海中のぼくは、海という広大な原野の中、天敵に脅えて暮らす小動物のようでした。

人という生き物は、いつのころから、他の動物に捕食される不安もなく、自然の力に脅えることもなく、日々を送っているのでしょう。天敵も自然の力も恐れず、むしろ忘れ、町という群れの中で安全に暮らすのは、幸せなことかもしれません。でも、そういう生活が続く間に、遠い昔の記憶、もしかすると恐竜か何かに追われていた祖先の時代のこと、自然界で存続するために不可欠な掟や、勇気や、態度や、感性のようなもの、今後の人類にも同様に大切なことを、忘れかけた気がするのです。
そういう思いを抱くのは、町という住み慣れた世界を、ヨットで飛び出したからかもしれません。ひとりきりで自然の美しさと厳しさの中に生きるうち、感覚がしだいに研ぎ澄まされ、狭い町の常識が地球の常識ではないことを、体のすべての部分で直感したのかもしれません。人工物のない大洋の真ん中を走りながら、強烈なオレンジに燃える太陽や、海面を銀色に光って吹く風が、はるかな太古からあると想うとき、我々の住む現代社会の常識が、四十数億年も続く地球の常識ではないことを、心で直接理解したのかもしれません。
これらの詳細を語る力は、ぼくにはもちろんありません。おそらく言葉になり得ないもの。肌や筋肉や、もしかすると内臓の一部で感じとる、あるかないかさえ不確かな、言語や記号に変換できない種類のものでしょう。
とはいえ、長い視点で考えれば、地球に住む人々の運命をも決めることだから、たとえ言葉で表現できなくても、どんなに困難でも、なんとかしてあなたに伝えたい、この実際の物語で少しでも分かってもらいたいのです。

地球を一周する八年間の単独航海を終え、外敵から守られた安全な町で暮らす今、そんな思いが日増しにつのる一方で、もう一つの思いも、おさえきれないほど心の真ん中に湧くのです。命の保証がなかった航海の日々、冬山のように白く泡立つ嵐の海、南極で衝突した青い氷の恐ろしさ、マストを折って漂流した漆黒の夜、それらは本当に現実だったのかと。――長い長い夢を見ていたようにも思うのです。
でも、よく考えてみると、ぼくはあのとき、地球という美しい水の星に、自分が本当に生きて存在する現実を、自分自身の両眼と肌、間違いなく全身で鮮烈に感じていた。これだけは疑いようもない気がするのです。

 ならば、あれが現実なら、あの命がけの航海が夢でないなら、平和な町で暮らす今こそ夢に違いない。ぼくはやはり、陸に戻り着けずに別の世界に入ったのかと、不思議な気持ちになるのです。そして、ひょっとすると現実も夢も、生きていることもそうでないことも、結局は区別がないのだと、半ば本気で思いもしたのです。

今日の花の写真をお楽しみ下さい

2018年07月23日 | 写真
お暑いですね。
近所の花畑の夏の花の写真を撮って来ました。
順に白っぽいアジサイ、紅色の花、小型のヒマワリのように見える花。そして自宅に咲いたノウゼンカズラ、ムクゲの花です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。









夏が来ると思い出す太平洋戦争(4)満州での中国人の悲劇

2018年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
戦争というものの無駄と悲劇の大きさを客観的に深く理解するためには敵、味方、双方の立場に立って考えなければなりません。
満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇を中国と日本の双方の立場にたって考えて見ようと思います。満州で起きた中国人の悲劇と日本人の悲劇を2回の記事に分けて書いてみたいと思います。
今日は中国人の立場に立ったら満州事変や満州建国をどのように見えるかを書いてみます。勿論、私は日本人ですから、完全に中国人の立場になることは不可能です。
しかしその立場になったらどう感じるかは想像は出来ます。

1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。しかし一般には1933年の停戦条約までを満州事変としています。
この柳条湖事件を中国人は九一八事変と呼んで学校の教科書で現在でも教えています。
満州事変は中国人にとっては大きな悲劇として現在でも学校で教えているのです。
この柳条湖事件の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご参照下さい。そして満州事変については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 をご覧ください。
日本軍が柳条湖事件で鉄道を爆破しておきながら、中国軍が爆破したと主張して戦争開始の口実にしたのです。
この嘘の口実を中国人は憎んでいるのです。日本の軍隊は中国人を蔑視し、謀略によって満州全土の武力占領を完了したのです。
そして日本の意のままになる傀儡国家の満州帝国を作ってしまったのです。
中國人にとって大きな悲劇でした。
その上に、中国人が辛亥革命で追放した清朝の最後の皇帝の溥儀を満州国の皇帝に利用したのです。
この行為は辛亥革命でやっと清朝を倒した中国人の感情を逆なでするものでした。
これほど中国人を愚弄するものはありません。
日本人が中国を蔑視し、武力で満州国を作り上げたのです。
戦前生まれの私は現在は絶対に書けない酷い蔑称で中国人を呼んでいました。昔の日本人は皆そうでした。本当に中国人を軽蔑していたのです。
中国人がそのことを恨みに思い、教科書で子子孫孫へ伝えているのは当然でないでしょうか?
中国共産党は日本の悪辣さを教科書で教え、記念日には反日デモなどのイベントを律義に行っています。
毎年9月18日になると満州事変の発端になった柳条湖事件の日を九一八事変記念日として瀋陽市では反日デモが行われます。
北京でも政府統制の反日デモが行われます。インターネットを使用した反日運動が続いているようです。満州事変の中国側の戦死者数は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163741036 に出ています。
日本の人々は戦後73年、平和な生活に慣れ親しんできました。
しかし中国では、戦後は共産党と国民党の凄惨な内戦があり、1966年から1976年まで文化大革命という国内戦争が続いたのです。
1981年に北京に行った時、その街々の荒廃と、すさんだ人心に暗澹たる思いをしました。犯罪が横行し、家々の全ての窓には紅衛兵よけの鉄格子が厳重に取り付けてあります。
北京訪問の後、柳条湖事件の起きた瀋陽にも行きました。
そこの東北工学院の陸学長から満州のことをいろいろ聞きました。陸学長は日本が作った旅順工大の卒業生でした。いろいろ聞く私をなだめるように、旅順工大には良い日本の先生もいましたと言って微笑んでいました。その微笑みは「もうこれ以上聞くな」と言っているようです。

この瀋陽訪問の直後の1981年に、その東北工学院の金応培先生が筆者の研究室へ留学して来たのです。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身でした。
日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し東北地区へ移住したのです。
新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。
日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。
金さん一家は北の方の満州へ移住せざるを得ませんでした。そこはさらに貧しい朝鮮族自治区だったそうです。
金さんは家が貧しいので大学へ行けません。
しかし北満州には「樟子松」という巨大な松ボックリをつける松の木が生えています。
そこで金さんはその松ボックリを集め、松の実を多量に収穫し、都会の中華料理屋へ売って貯金をつくったそうです。そのお金で瀋陽にある東北工学院を卒業し、そこの教授になったのです。
「なぜ何回も移住したの?」「日本人が入ってくると、肥えた農地を強制的に買い上げてしまうのです。農民はお金が欲しいので売ってしまい、また奥地へと移住するのです」「でも日本では満州開拓と言い、農地を買ったなんて言いませんよ?」「買える、肥えた農地が無くなってからは開拓していました」
苦労した金さんは、中国の開放政策直後の混乱期に外国へ出る危険も顧みず、第一陣の研究留学生として来日したのです。昔勉強した日本語を忘れないでいたのです。

満州事変で戦死した中国兵は不運でした。これほど大きな悲劇はありません。残された家族も不幸です。戦死こそ、これ以上大きな悲劇はありません。
その一方で、満州に在住していた現地の中国人達も金さん一家のように苦難が続いたのです。これも戦争の大きな悲劇だったのです。
戦争ほど無駄なものはありません。必ず大きな悲劇が起きるのです。

挿絵代わりの写真は戦前の満州の大連の街の風景です。
写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)









何故、この猛暑の中、毎週、教会に行くのでしょうか?

2018年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。少しだけ宗教に関することを書きます。
日本人の多くはキリスト教のことを知っています。そしてその考え方に何となく影響を受けています。例えば、「人はパンのみで生きてはいけない」という言葉を知っています。
美味しいものを食べることばかり考えないで、もっと精神的なものを求めなさいという意味に解釈しているようです。解釈は自由で良いのです。
しかし教会でこの言葉の説明を聞くと、「人はパンのみで生きてはいけない。神の言葉で生きよ」という教えだと言います。
このように教会に行くといろいろと面白いことが聞けるのです。
そして私は次のような理由で教会に行きます。
(1)教会に行かないと本当のイエスの教えが理解できない。
(2)教会に行くと神やイエスさまが私を愛して下さっていることが確信出来る。
(3)神の存在を信じたり、信じなかったりする私の心が少しだけ「信じる」方向に傾く。
(4)いろいろな結果として教会に行くことが楽しくなる。日曜日はドライブして遊ぶより楽しくなるのです。

さて宗教は、どんな宗教でも本で読んだだけで理解は深まりません。本で勉強したのものは「教養としてのキリスト教」というもので、かなり皮相的な理解なのです。
どんな宗教でも宗教的訓練(Religious Training)や修行が絶対に必要だと、私個人は考えています。
佛教には不立文字という言葉があります。お釈迦様の悟りの境地は文字では説明出来ないという意味です。
修行や座禅をして始めてその境地が理解できるのです。私はこのことを信じています。
キリスト教での修行は毎週ミサに出ることです。ミサの中で座禅のように静かに祈ることです。
これを毎週実行するとイエスの教えが体験的に理解できるのです。
私は1969年にドイツのローテンブルグに3ケ月滞在している間に、若いインド人のフェルナンデス君と毎週カトリックの教会に行きました。まだ洗礼前でしたが、知らずに、イエスの体のパンを神父さんから貰って食べていました。その時、私の「教養としてのキリスト教」はいかに皮相的な理解だったかを思い知ったのです。そこでいずれ帰国したらカトリックの洗礼を受ける決心をしたのです。
ですから現在でも教会に行くことは宗教的訓練だと思っています。それは楽しい訓練なのです。
楽しい修行なのです。何故楽しいのでしょうか?その訓練をしているとイエスさまを身近に感じます。
神が愛していてくれると感じるのです。
教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良いのです。それはまったく個人の自由です。
しかし教会に行くと、何故か修道院の存在理由が分かるような気がするのです。仏教の修行の重要性が分かるような気がします。
それだけの話です。

今日の挿し絵代わりの写真は先週撮った夏の花々の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======不立文字の意味とは?==========
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅の根本を示すものとして知られています。
禅は定(じょう)とも呼び、インドで古くからある精神修行の方法です。
それが仏教に取り入れられたものです。
「不立文字」は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない」という教えです。
したがって、悟りのためにはあえて「文字を立てない」という戒めです。唐代の中国の禅僧である慧能は特にこれを強調し、慧能を祖のひとつと考える南宗禅によって禅の真髄として重視されました。
仏教の悟りにおいて重要な姿勢は、仏心を持って智慧を学ばなければ悟りに至らないという考え方なのです。









奥多摩にドライブし、夏の花々の写真を撮ってきました

2018年07月20日 | 写真
猛暑の夏ですね。庭の温度計が38度になっています。
暑さに負けないように飲み水を沢山車に積んで奥多摩の鳩ノ巣の先までドライブして来ました。そこには毎夏、カサブランカやヤマユリやキスゲや紅蜀葵やノウゼンカズラなど夏の花を咲かせている農園があります。毎年のように花の写真を撮りに行く農園です。
車の中は冷房が効いていて快適です。多摩川の清流の両岸は緑濃い山々が連なっています。ウグイスが避暑に来て、しきりに鳴いていました。
夏の花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。