後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

元朝参りとお賽銭の話の思い出

2008年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃の仙台の愛宕神社の思い出。市街地の南、広瀬川の崖が盛り上がって小高い山になっている。頂上に愛宕神社と虚空蔵堂がある。毎日、朝の5時、夕方の5時に虚空蔵堂の鐘が鳴る。保存緑地なのか、あれから70年にもなる現在も、大木に覆われ緑豊かな愛宕山が新幹線の車窓から見える。

お正月には雪深い階段を登って元朝参りをした。手足が凍えて辛い思いをしたが、厳しかった父が喜ぶので必ず行くことにしていた。父は兵庫県の田舎のお寺の出で、祖父が住職をしていた。その父が、「神社やお寺にいったら少なくてもよいから必ずお賽銭を上げるものだよ」と言っていた。いくら小さなお賽銭でも参詣する人が多いと大きな金額になるのだよ、それに神社やお寺の人にとっては参詣した人の拝む気持ちが分かって嬉しいものだよ、とも教えてくれた。

父は分析化学の研究者として毎晩書斎でタイプを叩きながら論文を書いていた。厳しい父親で子供とは滅多に会話をしない。そんな父が本気で話しかけたのだ。

これが遺言のように心に残り、一生の間、お賽銭を上げてきた。通りがかった村の神社で、ふらりと寄ったお寺で、その上、ヨーロッパの田舎の教会で、とにかくささやかな賽銭を上げてきた。

現在住んでいる土地にも神社やお寺が数多くある。季節の良いころには散歩をしたり、子供や孫をつれて遊ばせたりしている。お正月になると一年間お世話になったお礼の意味も込めてお賽銭をあげに行く。これを「元朝参り」という。

今年は拙いブログをお読み頂いた方々のご健康と幸多きこともお祈りして来たいと思う。

どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。    藤山杜人

                    

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海上でヨットの舵が壊れたらどうしますか?(続き)

2008年12月30日 | うんちく・小ネタ

Hoota’s Yacht Life というブログを書いていらっしゃる、hoota さんと友人になり、メールでヨット術の指導を受けています。( http://hoota.blog.so-net.ne.jp/ )

海上でヨットの舵が壊れた場合にはセールをトリミングしながら、舵無しでも帰港できます、というご指導を受けました。霞ヶ浦へ船をだして、自分で試みて見ました。ところが上手くゆきません。2度行って実験しましたが小生のヨット術では出来ないと思いました。その結果をhoota さんへご報告したら、「エマージェンシー・ラダー」の写真を送って下さいました。教えられた通り、材料をいろいろ買ってきて昨日完成しました。

下の写真がそれです。舵と直角に長い棒が固定してありますが、舵が水中でクルクル回転しないようにハルへ止まるようにしました。

自分のヨットにはスターンにプレイデッキが大きく出ているので、その先に自作の舵を取り付ける必要があります。丈夫に取り付けるにはプレイデッキの先端2ケ所に折り曲げた厚い鉄板を引っ掛けて、ワイヤーで前方へ引いて固定するつもりです。

その2本の鉄板の間に舵をロープでゆるく取り付け、テラーが左右に動くように取り付ける予定です。実際にヨットへ行って、アチコチの寸法を正確に測定して、もう一度材料を買いに行くつもりです。そんな手間暇かけることが面白いのです。

暮れの大掃除はなんとかして逃げ回ろうとしましたが、ついに家内に捕まって少し協力しました。しかしヨットのことは手を抜かず、良い仕事をゆっくりします。趣味の楽しみですね。

下の写真にはストーム・ジブが背景に写っています。前のオーナーも一度も使わなかったようです。新品の超小型なジブを揃えて、嵐の中のセイリングを心の中で楽しんでいたのでしょう。

ヨットはいろいろ想像して楽しむことも多い趣味です。(終わり)

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日本が世界に誇れる大旅行家の話

2008年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。

ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。ついこの前の11月24日に長崎の列福式でローマ法王によって福者として認めらた。知らなかった。(しかし遠藤周作の著作には詳しく紹介されていたそうである。)今回の列福式でやっとその名を知ったに過ぎない。

マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族の部落の助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ想像してみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の旅をした玄蔵法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。

岐部にも玄蔵法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。

大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。

ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。これも岐部の人徳の威力によると筆者は考えている。その後2年して彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船で密かに日本へ帰ってきた。1630年と言われている。

以上が、日本が世界に誇れる大旅行家としての岐部の紹介である。以下は殉教したペトロ岐部司祭の宗教人としての紹介である。宗教に興味のない方には参考にならない部分。

1620年から1622年までローマの修道院で司祭として活動していたが、その間にイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラとザビエルの列聖式に参列する幸運に恵まれている。

ペトロ岐部司祭は大分県に1587年に生まれ、長崎の神学校を卒業し、1614年に徳川家康によって国外追放される。徳川の時代も三代将軍、家光になり、キリシタンの迫害や殉教が一層熾烈になってきた。その時にペトロ岐部司祭は隠れキリシタンの希望と慰めを与えるために日本へ潜入したのだ。

潜入後、9 年間も日本各地を司祭として巡回し、ついに水沢で捕まる。江戸で処刑されるが処刑したときの記録が残っている。「ころびもうさらずのでしょけいした」という意味の文言が見える。処刑した人も気の毒だったと思う。(終わり)

引用文献:http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1822791.html?reload=2008-12-29T20:20:03

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亡き人々が心の中で生きている、その(3)ある中学校の同級生のこと

2008年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

年末になると亡くなった恩師、知人、友人の顔や声が心の中によみ返って来る。

その中に中学校時代のある遊び仲間の顔が見える。村木良彦君の顔や声である。

今年の1月に芝の増上寺で葬儀があった。その後でブログへ掲載した記事を再度出して物静かだった村木君へ感謝したい。

======2008年1月29日掲載記事の再掲載です======

「あるテレビマンの死」

村木良彦が死んだ。筆者の中学の同級生である。TBS社から独立し同志3人とともにテレビマンユニオンを1969年につくった。村木良彦という名で検索すると、「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしたという輝かしい業績が並んでいる。そんなことは一切知らなかった。同窓会で何度も会って話したが、彼は自分の仕事のことは話さない。ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけであった。今日、都内のあるお寺で葬儀があった。弔辞を読んだのは昔の同志の今野氏であった。村木氏の業績のことは殆ど触れない。やさしく、穏やかで、決して怒らず。いつもまわりの人々に愛されていたと話す。ただ仕事のことになると、視聴率がもの言うテレビ番組作りへ鋭い批判を繰り返し、何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたそうだ。その思いでテレビ番組制作者連盟という組織を創り、自ら理事長を務めていた。日本のテレビ番組の質的向上へ意欲を燃やし続けてきたそうである。

どんな業界にも良識派という人々が居る。しかし彼らはとかく同業者を批判はするが自分は手を汚さない。今野氏の弔辞によると村木氏は番組を作る仕事で手を汚しながら低俗な番組に果敢に立ち向かったらしい。よほど情熱を燃やし続けないとうまく行かない。そんな内容の弔辞であった。

死んだ人の輝かしい業績だけを羅列する弔辞も多い。しかし、死者の優れた人間性を賞賛する弔辞ほど生き残った人々へ勇気を与えるものは無い。

昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことを思い出しながら葬儀会場を後にした。知人、恩人の葬儀のことをブログに書くのは憚られるが、マスコミの業績のみを羅列した短い記事へささやかな補足をしたいと思う。

            合掌。                     藤山杜人

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亡き人々が心の中で生きている、その(2)本田宗一郎さんの思い出

2008年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

その中には一度だけ会ったが印象が深い人もいる。そのような人に本田宗一郎さんがいる。強い個性とその元気さは今でも忘れられない。とにかく元気な方であった。昨年の12月に掲載した記事に事の顛末がある。

本田宗一郎さんのご冥福を祈りつつ以下に再度掲載いたします。

======2007年12月7日掲載記事の再掲載です======

◎米国で尊敬される本田宗一郎

1988年、オハイオ州立大学で働いていたとき、本田宗一郎氏がオハイオ・ホンダ工場を視察に来た。工場はフル操業しており地元経済は活況を呈していた。地方紙が一面トップで本田氏来訪を伝え、翌日の新聞には黒人の労働者と握手している写真が大きく出た。広大な工場を視察し、多くの労働者と親しく会話し、握手をしたと報じた。

アメリカの大企業幹部は工場労働者とは握手をしない。食堂もトイレも社員と労働者は別である。ところがホンダ工場は一緒。本田氏は「自由と平等」をホンダ工場の中で徹底した英雄といえる。

よく知られているように、本田氏は小さなオートバイ工場を出発点にして、世界中に乗用車製造工場を建設した。この話はアメリカ人の好むアメリカン・ドリームの物語である。飾らない開放的な人柄も手伝って、多くのアメリカ人に尊敬されている。

@面白い体験

オハイオに住んでいると、日本人という理由で親切にされる。ホンダ工場のおかげである。近所のガソリンスタンドで車を修理してもらった。「日本人か?」と修理工。「そうだ」「ならホンダ工場の日本人に頼んで就職できるよう話をつないでくれない?」

ホンダ工場とは付き合いが無い。1週間後にホンダの採用窓口の電話番号を調べて教えたら、「有難う!忘れていなかったのが嬉しい」。アメリカ人に頼まれたらできる範囲のことをしてあげる。なぜそこまでしかできなかったのかを説明する。

学科の同僚教授へ呼び掛けてホンダ工場を見学に行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、労働者は色々な人種が混じっている。組み立てラインでキビキビと正確に部品を取り付ける。こんなに楽しそうに働くアメリカ人の集団を見たことがない。一緒に行ったアメリカ人教授も皆この集団に圧倒されていた。

アメリカの頭痛の種はリンカーン大統領の昔から人種差別の問題。ホンダ工場では黒人も白人もアジア人も同じ組み立てラインに平等に働く。ラインはいつも動いており、チームワークが絶対に必要である。声を掛け合って部品の取り付けが遅れたり不完全になったりしないようにする。

「黒人と白人が一緒に楽しく食卓を囲む日が必ずやって来る!」―暗殺された公民権運動の黒人リーダー、キング牧師の言葉を思い出す。ホンダの組み立てラインをキング牧師に見てもらいたかった。

@本田氏を訪問

その年の初冬、オハイオの恩師夫妻と東京駅八重洲口のホンダ会館へ本田氏を訪問した。目的はホンダ工場と大学との共同研究をお願いすることだった。本田氏は機嫌がよかった。戦前に芸者さんと飛行機に乗った話、初めてオートバイを作ったころの話、マン島レースでの優勝の話などを楽しそうに語ってくれた。

民間企業から研究費を貰う交渉に抜群の能力を発揮する恩師が本田氏の話をウットリして聞いている。上気して顔が赤くなり、尊敬の眼差しで本田氏の顔を見上げている。帰途、「終始黙っていましたね。研究費を貰う話はどうなったのですか?」と聞くと、「そんな話は出せなかった。お話を直接聞けたことが人生で二度とない貴重な体験だった」。

オハイオ州立大学のアメリカンフットボール競技場に立つ巨大な電光掲示板はオハイオ・ホンダの寄付と聞く。(終わり)

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今は亡き人々が心の中で生きていて人生を豊かにしてくれる

2008年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は12月27日(土曜日)です。年末になるとテレビや新聞は、亡くなった有名人の追悼番組や記事を出す。自分も何年も前に亡くなった恩人、知人、友人のことをあれこれ思い出す。みんな死んだ筈なのに心の中では生きている。表情がアリアリと見え、話し声がはっきりと聞こえてくる。

考えてみると自分が如何に助けられ、親切にされて来たか、年末になるとしみじみと思い知る。何か人生が豊かになり、心が明るくなる。

年末だけではない。常日頃なにもきっかけも無いのにフッと心の中に現われてくる。

生来、社交的でないため親しい友人が居ない。孤独な人生だと思い込んで仕事だけをしてきた。

しかり現役を引退し、自分の人生を振り返ってみると、孤独な人生だなどと考えてきたことが許せない思い上がりで、大間違いであることに思い至る。

特にブログを始め、ネット上のクラブに入ってみると人々の善意と友情に圧倒される。始めて意見を交換する人々の優しい心づかいに感動する。直接会ってみると昔からの友人のように感じる。

タイや、そしてネパール、ドイツ、ハンガリー、アメリカ、オーストラリア、中国に住んでいる日本人からメールを貰う。心がこもっている。

お会いすることは無いであろう。でも心に深く残る。

大学時代の同級生であったT君は50歳位で亡くなった。昭和33年当時、下宿代が勿体ないと小さな土地を借りて、廃材を貰ってきて3畳一間の掘立小屋をつくり住んでいた。学校ではいつもニコニコとして陽気な男で、家を自分で作ってしまった顛末を何度か聞いた。彼は特殊鋼専門の会社の技師になったが、卒業後も何度も会ってお酒を飲んだ。特殊鋼を精錬する難しさをしゃべった後は自作の家の話、そして学生時代の思い出話と続く。彼の影響で自分も住宅金融公庫から借金をして気軽に、早々と家を作ってしまった。その家が終の棲家になりそうだ。いつもT君の笑顔を思い出すと、「家なんか簡単に作れるよ」と言っていた彼に感謝している。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人

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ネットで知り合った方が山林に感動する

2008年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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知り合った甲斐駒さんの別荘を再びたずねました。

別荘は豪華で、この写真のような立派な薪ストーブがあります。

小生の小さな小屋へ車を連ねてご案内しました。

遠い狭い山道を高級車が後からゆっくり登ってきます。やっと小生の小屋に着きます。

甲斐駒さんは回りの林をジッと見ています。

「素晴らしい林だ」

自然が好きな方は林の佇まいを見て感動するようです。

小屋の庭に小川が流れているのを見て、

「うん。これは良い」としきりに独りでうなずいています。

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回りの木々の春先の様子、新緑の頃、夏の夕暮れ、秋の紅葉と、いろいろな季節の移り変わりが見えるようだともおっしゃいます。

夏の夕暮れ、日暮蝉の合唱のなかでビールを一緒にのむ約束をして帰って行きました。

(終わり)

撮影場所:山梨県北杜市の横手(始めの1枚)、武川(下の2枚)の山沿いにて、

撮影日時:12月25日午後2時頃。

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男がつくる大型正月料理

2008年12月26日 | 食・レシピ

お節料理は女性が手間暇かけて楽しみながら作ります。男性が親切心で手を出すのはいけません。せいぜい泥のついた野菜を洗うなどという汚れ仕事を担当するくらいです。しかしそれでは男の面子が立たない。自分で家族が驚くような本格的な料理を作ってみようと思いませんか?

それは尾頭つきの大きな魚を買ってきて、唐揚げにし、楕円形の大皿に盛りつけ、上から甘酢餡をたっぷりとかけた料理です。細く切った刻み生姜を振りかけてテーブルの真中へ、ドンと出します。

お節料理を負かしてしまうので大晦日に年越しの御馳走としたほうが良いかも知れません。

作り方のポイントは尾頭付きの大きな魚を自分で買いに行くことです。

以前は大鯉を奥多摩の養魚場へ買いに行きましたが、現在はもう其処はありません。

デパートの鮮魚売り場や大型魚店へ行くと大きな尾頭付きの魚を売っています。

鯛、黒鯛、金目鯛、大きなイシモチ、大メバル、など長さ40cm以上なら何でも良いのです。大カレイでも良いです。しかしブリ、カツオ、サバなどの赤身の魚は駄目です。唐揚げには向いていません。

大きさが重要で、出来たら45cm以上あると圧倒的な料理が出来ます。

魚はエラ、内臓、鱗を取り除き、切れ目を3、4か所いれてショウガ醤油酒に漬けておきます。

その後で、中華鍋へ油をたっぷり入れて加熱します。

ショウガ醤油に漬けて置いた魚を取り上げ、カタクリ粉をまんべんなくまぶします。この時カタクリ粉を腹の裏側、頭の表とエラブタの内側、尾の先まで丁寧に押し付けながらまぶします。そうすると小骨や頭も食べられる様になります。

油で揚げるコツははじめに強火で魚を固めてひっくり返せるようにします。

こがさないように注意します。その後、弱火にして20分位揚げ続け、大魚の内部の水分を蒸発させ、頭や小骨がカリカリと食べられるようにします。

30分後に火を止めて、魚をとりあげ、完全にさまします。

さましている間に甘酢餡を作ります。この部分は男には無理なので、奥さんにして貰います。

ニンジン、タケノコ、乾しシイタケ、ネギ、などを細く刻みます。それにモヤシを加へて野菜の準備をします。豚の三枚肉を細く切っておきます。材料がそろったらフライパンへ油をいれてよく炒めます。

炒め終わったら、スープ(だし汁)、砂糖、多めの酢、醤油をいれて甘酢餡の味を調えておきます。このときトマトケチャップを少しいれるとロマンチックな味になります。甘酢餡は最後にといたカカクリ粉をいれて適度のトロミにして完成ですが、それをする前に、冷えた魚をもう一度じっくりと揚げます。2度揚げするのが一番重要なステップです。

2度目は中火でこがし過ぎないようにしながら20分位あげます。

上げた魚は油を切って、楕円形の大皿に盛ります。

カタクリ粉をいれてとろみをつけた甘酢餡を上からたっぷりかけ、きざみショウガを振りかけます。テーブルの真中へどっしりと置いて完成です。

さて注意事項が3つあります。

(1)45cmくらいの魚は中華鍋でも頭と尾が油の外へでます。頭を沈めて尾は、熱い油を玉ジャクシで根気よくかけて揚げます。

(2)中華鍋が無い場合は大きな魚は初めから2つに切って、ショウガ醤油に漬けます。一番大きくて深い鍋に油を十分いれて2つに切った魚を同時に入れて、2度揚げします。揚げ終わったら大皿に魚をつないで盛り、甘酢餡をかけます。つなぎ目は餡で隠れるので丸揚げしたものと同じように見えます。

(3)甘酢餡作りは奥さんに初めからお願いして、奥さんの好みの味に作ってもらったほうが無難です。魚の2度揚げが失敗して、生臭くて不味いものが出来ることがあります。その時は甘酢餡だけでも美味であればそれだけで一つの料理になります。甘酢餡に救われることがありますから要注意です。

くどいようですが、この料理はお正月のお節料理とは一緒に食べない方が良いと思います。奥さんのご機嫌が悪くなる恐れがあります。

今日も皆様のご健康と家庭の平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人

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ネットで知り合った方の別荘を再び訪問します

2008年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ネットで知り合った方の別荘を再び訪問します。

おはよう御座います。

今日は、朝早く車で出発して、中央高速道路を走り、山梨県北杜市の山奥の小屋へ遊びに行きます。午前中は小屋で薪ストーブを燃やして今月号の文芸春秋を読みます。午後にブログで知り合った甲斐駒さんの別荘を再び訪問します。

日帰りなので夕方自宅へ帰ります。甲斐駒さんの別荘の写真をここに掲載します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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この別荘や甲斐駒さんについての詳しいご紹介はブログの12月5日掲載記事にございます。

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クリスマスに関する簡単な話

2008年12月24日 | 食・レシピ

ローマ帝国の占領地であった中近東にイエス様が生まれました。ローマから派遣された総督がその地方を統治しています。丁度、マッカーサー司令官が敗戦後の日本を統治していたような状態です。その地方はユダヤ教の地でした。

現在のイスラエルの死海のそばのナザレという町があります。そこに大工のヨゼフとマリアが住んでいます。ある年に2人は旅に出ます。当時のローマ皇帝が全領土の人口を正確に調べることにしたためです。ヨゼフとマリアは自分の郷里のベツレヘムへ行き登録しなければならないのです。この政策ではローマ帝国領の住民全員が出身地へ帰って戸籍簿へ登録する必要があったといいます。

ヨゼフとマリアがベツレヘムという町の郊外にやっと着いたときは夜も更け、どの宿屋も満員でした。仕方が無いので馬屋の中の少しでも温かい所に寝ることにしました。明け方に、マリアが一人の男の子を産みます。生まれた赤子は飼葉桶の藁の中に寝かせました。イエスはこうして生まれたのです。

飼葉桶の赤子は成長して、新しいユダヤ教を広めました。それが、キリスト教と呼ばれる宗教に育っていったのです。イエス様は異教徒や下層に生きる人々を差別なく大切にしました。

ユダヤ民族もあらゆる民族も差別しないという教義のためギリシャ、ローマ、アフリカと広まり、ついには世界中に広まりました。

今日は、この赤子がベツレヘムで生まれた誕生日です。もちろん2000年位前の大昔のことですから、正確な月日は分からないと想定したほうが学問的には正しいと思います。ヨーロッパに伝わって冬至祭と一緒になり古くから12月25日の明け方に生まれたということになりました。ですから24日はイエス様の生誕前夜祭(クリスマスイヴ)と言います。

キリスト教信者はイエスが2000年位前の実在の人間で、新約聖書に書いてある数々の奇蹟をおこしたと信じている人々のことを言います。またイエス様は神から遣わされ、後にピラト総督の裁判によって処刑され、3日後に復活し、現在は神の右の座についていると信じている人々です。

ところが信者にとってはイエス様は現在でも生きていると信じています。毎日生まれているとも信じています。先日の「クリスマスにちなんだちょっと良い話」のコメントでカズノコさんが、この部分が理解出来ない。説明して下さい、とおっしゃっています。

この感覚を日本人へ分かりやすく説明するとき、私は何時も四国のお遍路さんの気持を説明します。お遍路さんは「同行二人」と信じて苦難の道を歩き通すのです。同行二人とは弘法大師と自分の二人という意味です。いつも弘法大師様が付いてきて下さるから、苦しい道も歩き通せるのです。今日は夜のクリスマスイヴのミサへ行きます。信者でない方々もどこの教会でも歓迎します。

今日も、皆さまのご健康を平和をお祈りいたします。(終わり)

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クリスマスにちなんだちょっと良い話

2008年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

毎週通う教会の山本量太郎神父様の説教にはいつも感心します。短くて感銘深い話ばかりです。この前の日曜日は神父様と幼稚園の女の子の会話でした。

子供が神父さんへ聞きます、「イエスさまは、ずうっと昔に死んでしまったのに、なぜ毎年誕生日のお祝いをするの?」

返事に困った神父さんが(イエスさまがよく聞き返したように)、「どうして、そう思ったの?」と聞き返したそうです。

女の子はおじいちゃんが大好きでした。毎年おじいちゃんの誕生日のお祝いの宴が楽しいのです。ところがある年からその楽しい宴会が突然なくなりました。おじいさんが死んでしまったからです。死んだら誕生日はお祝いしない。女の子は悲しい理解をしました。でも教会では毎年クリスマスにイエス様の誕生をお祝いします。

神父さまはこの思いもかけない質問に一瞬戸惑います。が、次の瞬間あたかも精霊がおりてきたような感じで、良い返事を思いつきました。

「それはね。イエスさまは今でも生きているからですよ。いや毎日私達の中に生まれれているから、誕生日をお祝いするのですよ」、続けて神父さんがおっしゃいました。

「この答えに女の子は納得した様子ですが、一番よく納得したのは私自身でした」

この一言で教会中が笑い出しました。

山本神父様の説教はこれだけでした。明日はそういう意味のお祝い日です。

家族が集まって夕食を召し上がるとき、このお話を思い出して頂ければ嬉しく思います。そして一人でクリスマスを迎える人々のことも思いだして下さい。

(終わり)

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少し変わったクリスマス料理の作り方

2008年12月23日 | 食・レシピ

クリスマスディナーは家族団欒の時。久しぶりに主人自身がオーブンでローストチキンやローストビーフを作ってテーブルで切り分けて、家族サービスする家々も多い。(しかし孤独にクリスマスの夜を過ごす人々の為へのお祈りを忘れない)。

今日はフィリピンからの留学生に教わったアドボといいう料理をご紹介します。何十年も自分で作ってきた料理で、作り方が至極簡単な男の料理です。

一言で言えば、豚肉、骨付き鶏肉、を黒コショウ、ニンニク、ベイリーフ、トウガラシと塩・酢で煮込んだものです。誰にでも出来る肉料理です。煮上がったらパイナップルの缶詰めを加えて完成です。一気に大量作り2、3日家族全員がゆっくり楽しみます。

この料理の特徴は男が作っても失敗しないということ。

濃い味に仕上げるので特に上等な肉を買わなく良い。脂の多い豚肉と骨付きの豚肉など1Kgぐらいと、それに骨付きの鶏肉のブツ切り1Kgぐらいを大鍋に入れ、油で焦げ目が付くくらい炒める。水を加えて塩、コショー、トウガラシ、丸ニンニク、ベイリーフ(月桂樹の葉)そして大量の酢を入れて40分位煮込む。もちろん大量の油が浮いてくるが玉ジャクシで掬う。味はお好み次第。トウガラシを多くするのもニンニクを多量に入れるのもお好み次第。ただし塩味は十分につける。最後に醤油を隠し味に入れる。味が出来上がったら、パイナップルの缶詰めを汁と共に入れる。甘味が足りなかったら砂糖を追加する。要するに、しょっぱくて、すっぱくて、甘くて、辛くて、ニンニク臭くて、凄い味になるが、それにパイナップルの香りが加わっていかにも熱帯地方の御祝い料理になる。

大きな皿に肉を種類ごとに綺麗に並べ、その周りにパイナップルを並べる。テーブルの真中へドンとおいて皆で取り分けて食べる。

この料理は自分の創作でどのようにでも変えることが出来る。缶詰めでなく生のパイナップルの輪切りを入れると香りがもっと良くなる。しかしこのときは砂糖を十分追加しないと甘味が足りなくなる。カレー粉を入れてインド風にしても良い。八角や五香粉などを入れれば中国料理になる。

この料理やシチューの為につかうベイリーフの苗木を庭に植えてから40年。大きくなりすぎるので毎年枝を剪定している。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します      (終わり)

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山奥で「注文の多い料理店」のような店を発見する

2008年12月22日 | 写真

036_2 この写真の家は商店だという。商品が並べてあって、お客が来て、買って行く。確かに商店に違いない。

入口には看板がかかっている。Renaissance と彫りこんだ芸術的な看板だ。不思議に思って見入っていると黒雲が太陽を覆い、山林の中が急に暗くなる。不気味な空気が流れる。ふと宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出す。

その時、後ろから「今店をあけます!見て行って下さい!」という大声が聞こえる。

向かいの大きな別荘からダンボール箱を抱えた恰幅の良い中年男が出て来た。店の主人の豊田ですと挨拶する。中に入ると、下の写真のように世界中の薪ストーブが陳列してある。お客はインターネットでここを見つけ買いにくるという。冬を前にして、毎日お客がくるそうだ。海外から取り寄せた薪ストーブは、向かいの別荘にしまってある。別荘が倉庫になっているのだ。

商店は人通りの繁華な所でしか成り立たないと思い込んでいた。それがインターネットのお陰でこんな山奥でも繁盛するのだ。隔世の感がする。本当に世の中が変わった。

山奥で、繁盛している不思議な商店を見つけましたという話です。山梨県北杜市の横手の甲斐駒の山林の中のことです。

 豊田さんの商売がますます盛んになるようにお祈りします。

あわせて、今日も皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。(終わり)

033 032 030 http://www.renaissancephoto.com/image7/stoveshop.html

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クリスマス、1羽のローストチキンを作る

2008年12月21日 | 食・レシピ

お早うございます。24日のクリスマス・イブが今年も近づいてきました。

今日は、クリスマスの前の日曜日なので、1羽のチキンを丸ごとオーブンで焼く家が多いと思います。夕食の食卓では、夫がこんがり焼きあがったチキンを切り分けて、家族仲良く楽しむ人々も多いと思います。クリスマスはイエス様の誕生にあやかって親類や家族が集まり仲良くなる季節です。

私もチキンの丸焼きを毎年作りました。そこで自分なりの作り方を書いて見たいとおもいます。

チキン1羽の下拵えを丁寧にします。金属の串を使って、全身の皮に小さな穴を開けます。そこからおろしたニンニクと塩をすりこみます。内蔵を取り除いた腹の中にもニンニクと塩を十分すぎるくらいすり込みます。

そのあとで、レバー、パセリ、セロリ、タマネギ、ジャガイモを微塵切りにしておきます。これをチキンのお腹に詰めて、オーブンで30分くらい焼いても良いのですが、自分流では微塵切りした野菜は、別にフライパンで炒め、塩とコショーで味を調えます。パン粉、又はごはんを混ぜることもあります。

塩とニンニクをすり込んだチキンはサラダ油をかけて、オーブンで焼き上げます。

腹の中が空洞になっているので、内部の水分が飛んで、こうばしい焼き上がりになります。

食卓へは丸焼きにしたチキンへフライパンでいためた微塵切りの野菜をそえて供します。 サッパリと水気の少ないローストチキンをお好みの方々へお勧めできる作り方です。天板に出た油を調味してグレイビーとして添えます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人

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荒れ狂う里山

2008年12月20日 | 写真

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昔の村の里山は人々の生活に必要な材木や薪のため重要であった。大切に手入れをされてきた。でも、高度成長期によって農村が豊かになる。燃料がLPGになり、材木は輸入したほうが安くなった。もう誰も雑木林の手入れをしなくなった。

雑木林は荒れ果てている。薄情な人間にたいして怒り狂っているようだ。この2枚の写真は、人々の心の貧しさを訴えているようだ。見たくない写真だがこれが日本の一つの現実である。しかしこれが原始の森の自然な風景と考えると複雑な感慨にとらわれる。皆様はどのようにお考えでしょうか?  (終わり)

撮影場所:山梨県北杜市武川町柳沢の里山にて、撮影日時:12月18日午後2時頃

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