後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

明けましておめでとうございます

2018年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
   謹賀新年
       2019年   元旦

        
   新年にあたり皆様のご健康と
   平和をお祈りいたします。

   昨年中はこの欄のつたないい記事をお読み頂きまし              
   て誠に有難う御座いました。
   どうぞ本年もよろしくお願い申しあげます。後藤和弘









今日は墓参りに行きました

2018年12月31日 | 写真
お墓に眠る故人が気持ちよくお正月を迎えるようにお墓の掃除をして線香を上げて来ました。
鐘楼では大晦日の除夜の鐘を突く準備をしていました。住職さまが落ち葉掃きをしています。
静かな午後のひとときでした。
この欄の拙い私の記事をご覧頂いた皆様へ感謝しながらお寺の境内を歩いて来ました。
一年間ほんとうに有難う御座いました。
皆様、良いお年をお迎えください。
撮って来た写真をお送りいたします。











遥かなハイラル(4)ハイラルへ、中国全土への植林

2018年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
満州のことを中国人は偽満州と呼び歴史から抹殺したいと思っています。
考えてみると日中戦争で日本軍が中国の北部から南部の桂林まで占領した事実は長い日中交流史の中で初めてのことでした。
戦後、日本はその償いをいろいろな形で行い現在の日中関係を築いて来ました。長年の中国への「ODA」の支払いや技術交流なども償いに含まれます。以下の小渕基金も償いの一つです。   
江沢民主席から小渕首相へ協力要請され、1999年に「日中民間緑化協力委員会」が設立されました。日本政府は計100億円を拠出し中国の植林緑化を進めたのです。
これを「日中民間緑化協力基金」と言い、通称、小渕基金とも言います。
この植林事業は現在でも続行されています(http://www.green.or.jp/nichu/gallery_dayori-16/ )

さて私の旧友、竹内義信君は前にも書きましたとうり満州のハイラル小学校から引き揚げてきました。この竹内君たちが小渕基金の支援を受けてハイラルに10年間にわたって植林事業を続けたのです。この事業について彼が寄稿してくれた文章をお送りします。
お読み頂く前に樟子松をご理解頂きたいと思い、その美しい樟子松の写真を3枚お送り致します。写真はいずれもハイラルのあるホロンバイル平原での風景です。






====竹内義信著、『「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業』=====
 私は国民学校一年生から、四年生の昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、満州のハイラルという町で平和に暮らしていました。その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
海拉爾は北緯49度に位置し、冬の寒さは厳しく、零下40度以下になることも稀ではありません。しかし、樟子松は零下40度の真冬でも緑の葉を付けたままで、春にはまた新芽を吹いて成長します。
 海拉爾在満国民学校の同窓会は戦後間もなく40年になろうという昭和57年に設立されました。そして芋づるのようにな同窓生探しが実を結び500名以上の名簿が作られたのです。
始めての同窓会総会には全国から200名近くの、懐かしい顔ぶれが集まりました。そして平成12年には同窓会活動から一歩踏み出した海拉爾市の植林に協力することになりました。
そのためにNPOの「呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化協力会」を有志で立ち上げ、私も参加しました。
丁度、時を同じくして設立された「日中民間緑化協力基金」(通称、小渕基金)の助成金を受けて10年間に54万本の植林を行いました。
主な樹種は懐かしい樟子松でした。海拉爾市も2,000ヘクタールの「中日友誼林基地」を準備して協力してくれました。その植林地は私が戦争中に遊んでいた西山の数キロ西方にあります。私達が戦時中に見た樟子松の林は現在では国家森林公園として保護されており、昔からの樹齢400年から500年の樟子松も何本もあります。その上、樟子松は海拉爾の郷土木なのです。
 樟子松は海拉爾付近に多いので別名ハイラル松とも呼ばれます。学名はPinus sylvestris var. mongolicaでヨーロッパアカマツ(Pinus syrvestris)の仲間で日本の赤松(Pinus densiflora)とは違います。
 海拉爾での植林も樟子松が中心で一緒にマメ科の黄槐を混植しました。黄槐は根塊で窒素を固定しますので、栄養分の乏しい砂地では大切で樟子松の成長を助けます。
ホロンバイル草原に関する著書の多い細川呉港氏によると海拉爾から満洲里までの海拉爾河沿いの砂丘には昔はずっと松林が続いていたと蒙古人から聞いたとのことです。
中国人の増加もあり、鉄道沿線に住む多くの人たちが伐採して炊事や暖房に使ってしまい樟子松も少なくなってしまいました。

 海拉爾の友誼林基地での樟子松の植林方法には春と秋の二通りの全く違った植林の仕方がありました。樟子松の松傘から集めた種を苗畑に蒔くと発芽率は良く、丁度稲の苗畑の様に密生して芽を出します。春季植林は手植えと機械植えがあり、手植えでは、2年目の15センチ位に伸びた樟子松の苗を30センチの穴に苗の頭が出て風に当らない様に手で植えて行きます。雨が降れば水が溜ることも期待します。
3メートル間隔で1ha当たり二千株ほどになります。同じ春季植林でもトラクターで二人の乗った車を引っ張り、3メートル間隔位に交代で苗を置いて行くと、後ろに土寄せのタイヤで土を掛けます。トラクターに乗った二人は前屈みで目に土が入らないように風防眼鏡をしてかなりの重労働になります。
 一方、海拉爾独特の冬期植林があります。土の凍らない9月頃に立横高さがそれぞれ50センチの穴を掘っておきます。11月頃には地面も凍結し樟子松も冬眠状態となります。7~8年生の樹高約1.2メートルの樟子松を掘り起こします。慣れた職人でも一日15株掘り起こすのがやっとの重労働です。この凍土の付いた木を9月に掘っておいた穴に入れ土を掛け踏み固めたら、根元に50リットルの注水をするとたちまち凍結し、苗木はそのまま越冬して、翌年の春に水を要求する時期になると凍結した水がゆっくりと溶けだし根は十分に水分を吸い上げると言う大変合理的な植林方法です。
 植林基地の一部に畑だった場所に植えた1メートルの樟子松は9年後には6メートルにまで成長しましたが、大部分の砂地では精々2~3メートルでした。
 プロジェクトの終了から5年目の2014年の夏に細川氏が海拉爾を訪問されると聞き、私達の「中日友誼林基地」の樟子松にを見て来て欲しいと依頼しました。しかし昨今の日中関係のせいか基地は封鎖されており誰も入れないと断られてしまったそうです。しかし、私はこの封鎖は私達が植えた樟子松の保護のためには決して悪いことではないと思っています。
私達の植えた樟子松も郷土木として海拉爾の地で立派に成長して見事な松林になることを願っております。中国の環境保護の一助になればと考えるこの頃です。
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下にハイラルの小学生の協力の光景の写真と呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化推進協力会の会合の光景の写真を示します。


竹内義信さんは最後の写真の左手前の方です。事務局長として活躍しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料========
特定非営利活動法人 呼倫貝爾(ホロンバイル)地域緑化推進協力会
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~s-juku/hurunboil.htm
平成12年2月17日、呼倫貝爾地域(中国内蒙古自治区)の砂地緑化を支援するボランティアグループが生まれました。
ホロンバイル地域の中心都市は海拉爾(ハイラル)市です。
現在この地は、黄砂の害に悩まされ、砂地が広がっており、防風林造成や砂地緑化が緊急の課題になっています。
今回、この地で50年以上前に学童時代を過ごした有志が中心となって緑化推進協力会の設立を行いましたが、今後多くの方々の参加と支援を求めていくこととしています。
したがいまして、このページも今後逐次充実させて参りますのでご期待ください。
注、呼緑協は平成12年10月から、特定非営利活動法人(NPO)に移行しました。

今日は新種のサクラソウの花で有名な石塚園芸店に行きました

2018年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
隣町の東久留米市へ新種のサクラソウの花を育成している石塚園芸店に行きました
10年ほど以前から旧知のご主人、石塚健壽さんは相変わらずお元気で花々の世話をしていました。
広い温室の中で今年のサクラソウの花の写真を撮らせて貰いました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。水色の花が石塚さんが開発した「湖畔の夢」です。










以下にご参考までに以前掲載した記事の抜粋をお送りします。
(1)「石塚園芸のサクラソウがオランダの花の祭典、フロリアードで金賞一席と特別賞を受賞」
2013年01月25日掲載記事;
石塚園芸はいろいろな意味で感動的な花の栽培園です。
石塚健壽さんが精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
2012年のオランダでの花の祭典、フロリアード2012に、石塚園芸は新種のサクラソウを出展したのです。この花の祭典、フロリアードは10年に一度開催される世界的な花のオリンピックのようなイベントです。
石塚さんの出した新種のサクラソウ「黄萌」が金賞一席、「湖畔の夢」が特別賞を受賞したのです。

7番目の写真はオランダのベアトリクス女王陛下とその足元にある石塚園芸のサクラソウ3種の写真です。2012年4月に撮った写真です。
・・・・・以下省略。

(2)「新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します」
2012年01月14日掲載記事;
真冬にみずみずしい花が欲しくなることがあります。車であちこちを回り、大きなガラス張りの温室がある花屋さんを見つけて飛び込みます。
東久留米市の滝山にある石塚園芸はそのような花屋さんです。何度も行って花を買っています。
何時行ってもお店には人が居ません。この花屋さんは花の栽培に熱心ですが、売って儲けることにはあまり関心がありません。店に入ると暖房がしてあり、熱いお茶の出る機械が置いてあり、ご自由にお茶をお飲み下さいと書いてあります。
お茶でも飲んでいると、そのうち店の主人が現れるという寸法です。・・・・・以下省略します。

華麗なるヴィースの巡礼教会をご紹介します

2018年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教関係の写真をお送りします。
ここ数日、世界一美しい教会をいろいろ検索して探していました。検索に使うキーワードを変えて探しました。
そうしたら1983年に世界遺産に認定された南ドイツの農村にある教会にたどり着きました。
その教会はヴィースの巡礼教会です。
そこを訪れた兵庫在住の「まき子さん」のブログから写真を3枚お借りしてお送りします。
出典は、https://tripnote.jp/germany/wieskirche です。





まき子さんの説明文です。
「ヴィース(Weis)」とはドイツ語で「草原」という意味です。
【ヴィースの巡礼教会(Wieskirche)】を直訳すれば「草原の教会」になりますが、まさにその通りでした。
南ドイツの田舎の周りには何もない広々とした牧場で、その大草原の中にポツンと建っています。
ここは、ロマンティック街道 にある「シュタインガーデン (Steingaden) 」という町の外れです。日本で「ロマンティック街道」というとメルヘンな街がいっぱいあるのかな?と思われがちですが、本当の意味は「ローマへの道」のことです。
この教会には1740年ごろから多くの巡礼者が訪れています。
これらの装飾や天井画が評価され、1983年に ユネスコ世界遺産 に認定されました。でも、こんな草原の真ん中の教会がなぜこんなに素晴らしいんでしょう?・・・・・

その説明は、https://tripnote.jp/germany/wieskirche にありますのでご覧下さい。
最後に私の感想です。
この教会はあまりにも華麗過ぎて祈る気持ちになりません。美術作品として鑑賞するために訪問したいと思いますがお祈りはしません。
教会はやはり天井が高く質素な内装でうす暗いほうが落ち着いてお祈り出来るのです。そのような薄暗く寒いドイツの教会を懐かしく思い出しています。はるかな昔の思い出です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は多摩の横山の中の小さな禅寺の写真を撮りに行きました

2018年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩の横山の中の雑木林の奥にひっそり建っている禅寺があります。
多摩の横山に平行している多摩尾根幹線道路を町田市の小山田緑地への脇道に下ります。
暫く走ると大泉禅寺という鎌倉時代のお寺が雑木林の奥にあります。
何度か行きましたがそのお寺を散策していると心が静まり座禅をしているような気分になります。
私の好きなお寺なので今日も行って写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









この大泉寺のある小山田の一帯は小山田氏に支配されていたのです。
小山田氏が1200年前後に大泉寺のある土地に本拠の城を作りました。小山田氏は本拠の城(大泉寺)の他に小野路城、小山田東砦(図師)升 形城(登戸) 小沢城(稲城市川崎市境)を作り、狼煙で連絡を取り合ったといわ れていいます。
この詳しい歴史は、http://www.machida-tky.ed.jp/e-zushi/zushirekishi/pdf/zusinorekisi.pdf に出ています。

1228年創建大泉寺の歴史;
曹洞宗寺院の大泉寺は、補陀山水月院と号します。大泉寺は、小山田別當有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に起立、無極(永享2年1430年寂)が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していました。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番です。

遥かなハイラル(3)ハイラル小学校の同窓会と日中友好

2018年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
旧友の竹内義信君は内蒙古のハイラル国民学校から引き揚げて来ました。当時、世話になったハイラルへ恩返しをしようと現地の植林事業を何年も根気よく続けました。人間味のあふれる情熱家です。
今日は竹内義信君のハイラル小学校の思い出を書きたいと思います。そして完全に消滅した母校の同窓会を作りハイラル国民学校の詳細な記録を作りました。その本は「草原明珠」という部厚い本で国会図書館にも収められているそうです。
満州のこととなるとシベリア抑留や引揚の悲劇だけが喧伝されていますが、満州が平和だった頃の庶民の生活の歴史は欠落しています。そのことを考えると「草原明珠」は貴重な歴史的な価値があります。

さてハイラルは満州のフルンバイル平原にありました。すぐ西にはソ連の国境が近い所です。蒙古族の住んでいるので、現在の中国では内蒙古自治区になっています。このハイラルに日本人が沢山住んでいました。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し指導した日本の教育をしていたのです。ハイラル国民学校もその一つでした。

ハイラル小学校(国民学校)の歴史については「草原明珠」に竹内義信さんが書いています。それによるとハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。
その歴史の詳細は省略しますが、最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。

ちりぢりになって引き揚げた同窓生がハイラル小学校の同窓会を結成したのは戦後30年も経過した昭和50年代の後半でした。そして第一回の全国同窓会が昭和57年に開催されたのです。そして翌年から毎年のように同窓会が開催され、その同窓会誌も発行されたのです。
その会誌は年に2回のもありましたので全部で40巻以上になります。その全てを合本し、装丁したのが「草原明珠」という部厚い本なのです。「草原明珠」の意味は草原のなかの美しい真珠のようなハイラルという意味です。
その後、同窓生の高齢化によって、この同窓会は平成17年(2005年)に解散したそうです。約20年の活動でした。
そしてこの同窓会は日中友好の活動もしたのです。現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
「草原明珠」には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容の記載が多かったのです。昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。前述のように、ハイラルの周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。
ハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのが素晴らしいと思います。
これは一つの例に過ぎません。この様な例は40カ所以上の中国の場所での植林事業です。
最近この中国での日本人による植林事業は忘れ去っているようです。残念です。

満州というと日本人は敗戦後のソ連兵の略奪やシべリア抑留を思い出します。引揚者の苦難の逃亡の経験を思い出します。
しかし無法なソ連軍の侵入までは平和な日常が続いていたのです。満州に住んでいた人々の幸せな日常でした。
歴史を振り返る時にそのように静かな日常があったことを忘れるべきではないと思います。

添付の写真は「草原明珠」の写真と4枚の満州にあった日本の小学校の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「草原明珠」という同総会誌の写真です。この本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命

満州にあった日本人の学校の写真を4枚お送りします。写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

2番目の写真は撫順にあった小学校の運動会の風景です。内地の学校の運動会風景と同じです。

3番目の写真は撫順の小学校の体育館で運動をしている児童の様子です。

4番目の写真は撫順にあった幼稚園の風景です。

5番目の写真は日本人小学校と満人小学校の交流会の写真です。壇上に飾られた数多くの人形は日本人児童から満人小学校へ送る贈り物です。

遥かなハイラル(2)戦死した藤田少尉とあるモンゴル人の運命

2018年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と彼を慕うモンゴル人、ソヨルジャップの暖かい絆の物語です。国境を越えた強い人間の絆です。

藤田藤一参事官は関東軍の少尉として一隊を率いてソ連の戦車隊へ突っ込んで戦死しました。その事実が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年の辛酸をなめていたのです。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像にあまりあります。
さて1945年当時、ハイラルを取り囲む、5つの堅固な防衛陣地は、8月9日から119師団の主力が興安嶺に後退したあと、国境守備隊などいくつかの部隊がソ連軍を迎え撃ちました。しかし結局10日後の8月18日に主陣地が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」で崎谷が書いた「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事の抜粋でした。
その記事は遺族の藤田藤一妻・藤田美代子に送られたのです。(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9aeより)

一方こんなことを全然知らなかったモンゴル人、ソヨルジャップはハイラル中を東奔西走して藤田の家族を探し回ったのです。ソヨルジャップは藤田の家族の安全を守り無事日本へ帰すと藤田に約束していたのです。しかし藤田の家族は杳として見つかりません。この約束を守ろうとしてソヨルジャップはその後の一生苦しみます。
藤田の家族を探し続けたのです。
彼の一生は波乱万丈の厳しいものでした。しかし藤田との約束は絶対に忘れなかったのです。
そしてソヨルジャップは遂に藤田の家族が日本に無事帰っていたことを確認したのです。
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤め、戦後は共産国家、モンゴルで逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は36年間でした。その後、名誉回復され、モンゴルのフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の荒筋はこの欄で、2015年02月14日に掲載した、「満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇」という記事でご紹介しました。
本の全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。

藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事として2008年までの63年間、重く彼の心の重荷になっていたのです。2008年になってはじめて藤田の家族が無事生き延びて日本へ帰って来たことを知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人は1946年に無事帰国したことが判ったのは2006年の事でした。
ソヨルジャップが死の直前に一つの封筒を日本にいる藤田少尉の長女の明巳さんへ届けくれと頼んだのです。それから安らかな顔で息を引き取ったそうです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶に従いソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。
私はソヨルジャップと藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた人間の縁(えにし)の確かさに心打たれるのです。

今日の挿し絵代わりの写真はソヨルジャップの生きたモンゴルの草原の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







遥かなハイラル(1)ソ連軍の侵攻と日本人、モンゴル人の運命

2018年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
これは第二次世界大戦の末期に満州で起きた悲劇です。ハイラルから引き揚げて来た友人の竹内義信君が教えてくれた細川呉港著、「心残りの樹」という本の抜粋です。戦争の悲劇を忘れないようにと祈りつつお送りします。

昔の満州のハイラルの役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。
これからご紹介する話はソ連軍侵攻の時、藤田藤一が犠牲になって避難民を送り出したという話です。そして藤田の家族の安全を託されたソヨルジャップが使命を果たせず、藤田の家族を見失います。その後、ソヨルジャップは一生の間、そして日本に来てまで探し続けたのです。数十年後、藤田の家族が日本に帰り、生き残っていたことを遂に突き止めました。そして年老いたソヨルジャップに死が訪れる時、自分の貯金を藤田藤一参事官の遺族へ贈ったのです。
これは国境を越えた献身と愛の物語です。
この物語は、細川呉港の「心残りの樹」という作品で紹介されています。そしてその大部分は 渓流斎日乗さんの - Gooブログに掲載してあります。

上でも書きましたが、この「心残りの樹」は大学時代の友人の竹内義信君が教えてくれたのです。竹内君は、ハイラルにも立派な人々がいたことを知って欲しいと云ってました。
これは実話にもとづいた長い物語です。しかし私が感動した以下の三つの部分のみ抜粋してこの欄で連載記事としてご紹介いたします。
(1)藤田藤一参事官と蒙古人、ソヨルジャップの会合と永遠の別れ。
(2)陸軍少尉、藤田藤一のソ連戦車隊への体当たり攻撃。
(3)来日し、藤田の遺族を発見し、その生活を助けるソヨルジャプの寄付。
それでは今日は、(1)から始めます。http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/5c5b6d6a52f2d1bf455083c08c73a084 からの抜粋です。
ソヨルジャップは満洲国時代、ハルピン学院で、多くの日本人に混じって高等教育を受けたモンゴル人です。彼は藤田の遺族を探すために戦後、度々日本を訪れたのです。一度は日本に長期滞在もしました。1925年生まれなので昭和の年号と同じ歳で、日本語が達者です。
 彼は昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラル(海拉爾)の省公署に勤務しました。
その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいましたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。その役所でソヨルジャップが人格者の藤田と会合し強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かったのです。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の「心残りの樹」から転載します。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
 それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われたのである。
 省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
 藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人を全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
 それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
 藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
 広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田に着いていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
 藤田の家族は4人いましたた。ハイラルの日本人の中でもとりわけ美人で評判の奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。この家族を見失ったソヨルジャップは数十年探すのです。(続く)

挿し絵代わりの写真として、ハイラルの風景写真をお送りします。写真の出典は、http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=16799638 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






お正月用の花とお節料理の材料が並ぶ店の写真

2018年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
年の瀬も迫って何となく忙しくなってきました。
午前中には毎月行くお医者さんの所に行って血圧を下げる薬を貰って来ました。
午後はスーパー・ヤオコーでお節料理の材料を買ってきました。暮れからお正月に墓参りをする人も多いので仏花も売っていました。
仏花とお節料理の材料の写真をお送りいたします。










アメリカと中国の対立、抗争と日本の立場(2)

2018年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本を取り巻く国際環境はトランプ大統領の出現以来、激しく変わってきました。
トランプ大統領のアメリカ第一主義で日本は自国の経済や安全について従来のアメリカ依存政策を考えなおす必要が生じてきたのです。それに拍車をかけたのは中国のGDPが世界2位に急上昇した事実です。
このトランプ大統領のアメリカ第一主義と中国のGDPの急上昇は日本にとって厳しい国際環境を作りつつあるのです。
このような時代になると日本は国際的な政策を独自に考えなければいけない時代になってきたのです。
アメリカと中国の対立、抗争が激しくなるこの情勢で日本の立場は厳しいものになります。
そこでこの連載では以下の5つの問題で日本はどのようになって行くかを順々と考えて行きたいと思います。
(1)中国の一帯一路政策への日本の参加と中国との貿易活動
(2)日本の自衛隊の軍備拡大に影響を与えるトランプ大統領と中国軍の太平洋進出
(3)中国と北朝鮮の団結が日本の外交政策に及ぼす影響
(4)ヨーロッパ諸国とアメリカと中国の対立、抗争の関係
(5)アジア諸国とヨーロッパ諸国とのロシアの脅威
以上の諸問題は相互に関連しているので単独に取り上げて議論すべきではありません。
しかし話を判り易くするためにそれぞれを分離して考えて行きたいと思います。
今日は「アメリカと中国の対立、抗争と日本の立場」という連載の(2)として以下の問題を取り上げます。
(2)中国の一帯一路政策への日本の参加と中国との貿易活動

さてこの主題を考える時一番重要なことは中国のGDPの急成長です。そこでこの問題から議論を始めようと思います。

1) 中国のGDPが世界2位に急上昇し2025年に世界一位になる
中国の経済力、GDPが世界で2位になり、やがてアメリカを抜いてトップの座につこうとしているのです。

1番目の写真は世界の主要国のGDPの1980年から2021年の推移を示す図面です。
この出典は,各国のGDP、http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。
この図を見ると中国のGDPの増加は驚異的で、2025年には間違いなくアメリカを抜いて世界一になる勢いです。
従来、アメリカのGDPを抜いた国は皆無だったのです。これは破天荒なことです。この図の出典は,各国のGDP、http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。
今後、中国はアメリカと並んで世界経済の秩序の規範を決めるようになると考えられています。
アジアの一国である中国が世界経済の秩序の主導権の一角を握るのです。
従って日本の対外経済活動も中国に左右されることになるのです。

日本はアメリカと安保同盟を結び、軍事的にはアメリカ依存が続きますが、経済分野では日本はアメリカから離れ中国に依存する運命にあるのです。
しかも経済力は軍事力の支えなのです。その意味でも日本の安全保障は中国の経済力とその中国が作ろうとしている巨大経済圏に大きな影響を受けることを客観的に理解すべきです。

2)一帯一路でつなぎ中国の巨大な経済圏
中国の一帯一路経済圏のGDPを合計してみましょう。

2番目の写真は世界全体のGDPに占める各国の2017年の比率です。出典は1番目の写真と同じです。
中国の15.5%と日本の6.4%とインドの3.1%とを加算すると25、0%になります。この数字はアメリカの24、4%よりも多いのです。
この中国、日本、インドの合計の25%に韓国と台湾のGDP加えればアメリカのGDPを遥かに抜いてしまうのです。
さらにインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、バングラデシュなどのDGPを加えれば中国の一帯一路経済圏には巨大な経済圏が既に出来ているのです。
日本の経済活動が中国の一帯一路経済圏に巻き込まれるのは避けられないのです。
トランプ大統領自身も一帯一路への協力について米国はオープンであると述べています。
米国内ではキャタピラー社などといった米国企業、カリフォルニア州などが独自に一帯一路構想への参加を表明しています。
中国は共産党独裁の国だから付き合いは止そうという考えは現実的でありません。
国際経済はイデオロギーや宗教とは関係無くダイナミックに動いて行くものです。

3)中国の一帯一路経済圏の構想の詳細
一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想は日本の経済活動に大きな影響を与えるので、その詳細をもう少し詳しく見てみましょう。
中国政府は中国から西方のアジア諸国、ロシア、中東諸国、ヨーロッパ諸国にまたがる広大な地域を一帯一路でつなぎ巨大な経済圏を作ろうとしています。
一帯とは陸路でつなぐ経済圏で一路とは海路でつなぐ経済圏です。

3番目の写真は中国が進めている巨大経済圏の地図です。青い色の国は一帯だけでつなぐ国で、褐色の色は一路でもつなぐ国です。
この図面の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B8%AF%E4%B8%80%E8%B7%AF です。

4番目の写真は陸路の一帯と海路の一路の見取り図です。陸路の一帯も海路の一路の計画はまだ具体的には出来ていません。自動車高速道路の具体的な計画もまだ発表されていません。コンテナ船を航海させる航路もまだ決まっていません。暫くは複数の自動車道路や鉄道をつないで貨物の輸送をします。航路も同様です。
この一帯一路巨大経済圏構想に従って中国政府は外交活動を展開しています。
中国政府の李克強国務院総理は、沿線国を訪問し、支持を呼び掛けています。
すでに100を超える国と地域から支持あるいは協力協定を得ており、さらに国際連合安全保障理事会、国際連合総会、ASEAN、EU、アラブ連盟、アフリカ連合、アジア協力対話などの場で盛んに宣伝、勧誘を展開しているのです。
その結果、上海協力機構など多くの国際組織が支持を表明しているのです。
この活動を補強するために中国は、諸国の経済不足を補うアジアインフラ投資銀行(AIIB)を作りました。
その上、中国・ユーラシア経済協力基金、シルクロード基金などを矢継ぎ早に作っています。
これらの金融資金はインフラ投資を拡大するだけではなく、中国から発展途上国への経済援助を通じ、人民元の国際準備通貨化による中国を中心とした世界経済圏を確立する壮大な目的があるのです。

「一帯一路フォーラム」とは、2017年5月14日から15日、中国の習近平国家主席が旗振り役となり開催した国際会議です。
参加者は29か国の首脳と130か国以上の代表団、約70の国際機関、合計約1500人でした。
テーマは、かつてアジアとヨーロッパの貿易に多大な役割を果たしたというシルクロードを現代に復活させ、中国から海と陸のルートでヨーロッパまでをつなぐ一大経済圏を作ろうというものです。

5番目の写真はこの国際会議の参加者の集合写真です。

4)貿易における日本の対米と対中の立場の変化?
日本の立場はどうなのでしょうか?
日本の貿易の相手として中国がすでにアメリカより重要になっているのです。

6番目の写真は2012年度の日本の貿易の相手国の貿易額の割合を示しています。
この図の出典は、https://www.assist-theonlyone.com/2018/09/29/米中貿易戦争が泥沼化の様相/ です。
この図が示すように日本の一番重要な国は現在中国です。2位がアメリカなのです。そして中国との貿易額はますます増大しているのです。将来アメリカは日本の貿易相手国としては重要ではなくなるのです。
輸出・輸入を合計すれば、日本の最大の貿易相手国は中国です。2012年度の貿易総額は約130兆円ですが、その2割が中国で、2位のアメリカの1.5倍以上の割合です。今の日本経済にとって、中国はアメリカ以上に影響力の大きな存在なのです。中国経済が崩壊すれば、中国への輸出が激減することは必然です。

アメリカは生産国家・軍事国家として世界の秩序を維持しようとしてきました。貿易収支で大きな赤字を背負い力をなくしています。
トランプ政権は世界の相手国に対し対し、自国第一主義と保護主義を唱えた戦争を仕掛けています。
日本は経済活動分野ではアメリカを見限り、中国の味方にならざるを得ない趨勢です。
しかし安保条約が存在する以上、日本は露骨にアメリカに敵対出来ません。

今日の議論の結論です。
中国の一帯一路政策へ対して日本はもっと積極的に協力して各企業が参加すべきです。そして中国との貿易活動をアメリカの理解を得ながら拡大すべきです。

この連載の次回、第3回目は以下の問題を取り上げたいと思います。
(3)日本の自衛隊の軍備拡大に影響を与えるトランプ大統領と中国軍の太平洋進出
(続く)

昨夜のカトリック小金井教会のクリスマスイヴのミサ

2018年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は12月24日なのでクリスマスイヴのミサがありました。カトリック小金井教会では午後6時からと午後8時からの2回のミサがありました。
300人位入れる聖堂が溢れるような人々で埋まっていました。皆がイエス様の誕生を祝って楽しそうにクリスマスの聖歌をい唄っています。
「静けき真夜中、星は光・・・」や「牧人 ひつじを守れるこの夜・・・」や「もろびとこぞりて・・・・・・」など毎年歌うクリスマスの聖歌を歌っていると飼い葉桶の中に寝ている赤子のイエス様の姿が見えるのです。
12月24日の夜だったという確証はありませんが、宿屋が満員で馬屋に泊まって、その夜生まれたことは史実だと言います。
その赤子が現在22億人以上の信者がいるキリスト教を作ったのですから不思議です。
昨日はミサのなかで皆はイエスの誕生を神に感謝します。そしてそれぞれの家族の幸せを祈り、貧富の格差の無い世界が来ることを祈ったのです。世界中の真の平和を祈り、神の栄光を讃えたのです。
そんな昨夜のカトリック小金井教会のクリスマスイヴのミサの風景写真をお送りします。

それはそれとして、クリスマスの今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











江戸時代のままの武蔵野の写真を撮りに行く

2018年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
東京都下の東久留米市の一角に江戸時代のままの武蔵野を保存した所があります。
巨木をまじえた雑木林が広がり江戸時代に建てられた茅葺の農家があります。
今日は快晴なので写真を撮って来ました。
この雑木林は、その後の明治維新や日清・日露の戦争や太平洋戦争などをただ静かに見ていたのです。
そんな怒涛の時代など無かったように雑木林の中を冬の風が静かに吹き抜けていました。
江戸時代のままの武蔵野の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













車椅子のお医者さんから受けた感動的な治療

2018年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になると時々病気をします。医者のお世話になります。
するとお医者さまは優しく病気の説明を丁寧にしてくれることに感心します。
昔の医者はぶっきら棒で威張っていました。治療したから、これで直ると言うだけで病気の説明などしないのです。
この十数年間に、お世話になった数人の医者は例外なく優秀で人柄も良いことに感動します。良い時代になったものです。
その感動を何度かブログに掲載して来ました。

今日は最近お世話になった整形外科の若い女のお医者さまについて書いてみたいと思います。ある総合病院の整形外科担当の先生です。
今迄経験しなかったことも含めて、3つ程の感動した理由を書いてみたいと思います。話を分かり易くするため個条書きにします。

(1)整形外科担当のこの先生は車椅子で患者の診断と治療を行っていたのです。
医者が車椅子だと骨折や怪我の患者達が勇気づけられるのです。腰椎を圧迫骨折した私は病院の玄関にあった車椅子に乗って診察室まで行きました。家内が車椅子を押してくれました。
車椅子に乗るのは初めてです。それに乗ると、嗚呼、私の人生も店仕舞いだと暗い気分になります。意気消沈します。
常日頃、もう83歳まで生きたので何時死んでも満足だとうそぶいていましたが、車椅子はいけません。
車椅子は面白い感じもしますが、意気消沈もするのです。
診察室の前で暗い気持ちで順番が来るのを待っていました。やがて自分の順番になり診察室に入ったら、何とそこには車椅子の女性のお医者さんがいたのです。
私はとたんに明るい気分になってしまったのです。
このお医者さまは、自分が車椅子なので整形外科医になって患者を勇気づけようとしているかも知れません。これは私の勝手な思い込みと思いつつも何故か感動しました。

(2)この先生は「車椅子の世界も素晴らしいものです」と言ったのです。
この一言は先生の人生観を一言で表現しているのです。老人になると人の何気無い一言でその人の人柄や人生観が分かるようになります。
「車椅子の世界も素晴らしいものです」は次のようなメッセージなのです。
身体障碍者は健常者と競争するのではなく、独自の幸多い世界を作りなさいというメッセージなのです。
私は車椅子に乗って意気消沈したことが恥ずかしくなりました。もう私の邯鄲の夢もお終いだと考えるのは軽率でした。
人間は最後の日まで幸せに生きなければならないのです。
このことを教えてくれたのがこの一言だったのです。これは初めての経験です。車椅子に乗ったお陰でもう一つの素晴らしい世界があることが分かったのです。
車椅子が好きになったので自分で購入しようと思い家内に相談しました。にべもなく却下です。「あなたが車椅子に乗ったら際限無く怠け者になりますよ」と笑ってお終いです。

(3)この先生の診断が丁寧で説明が明快なのです。
先生は医学部を卒業し、医師の国家試験に合格したのです。その前から車椅子の生活だったのかもしれません。
その事に感動します。
そして診断が丁寧で説明が明快なのです。
私は転んで腰椎を圧迫骨折しましたが、その骨折の様子をMRIとX線を使って実に丁寧に調べてくれました。
人間の腰椎の模型を示しながら、MRIとX線の撮影結果を明快に説明してくれたのです。歯切れの良い説明です。
人間の腰椎は臼の形をした5個の骨が縦につながって出来ていますが、今回は第二腰椎が圧迫骨折していました。
MRIの写真とX線の写真の説明を聞くと、素人の私でも第二腰椎が正常な形でないことが理解出来たのです。
この先生は間違いなく名医です。明るいご性格なのでご自分の身体のハンディを私に感じさせないのです。

こんな訳で私はまた良いお医者さんに巡り合ったのです。幸運でした。
お陰で現在はもとのように歩けるようになりました。骨折してから丁度2ケ月になります。

私はお医者さまを尊敬しています。尊敬するとお医者様は自分の能力をつくして誠心誠意患者の病気を治そうとします。それでも駄目ならこの世から静かに退席すれば良いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真はヒイラギナンテンと日本の南天の実の写真です。ヒイラギナンテン属には約60種あり、中国から北米・中米にかけて分布しています。
日本に自生している南天は中国原産で、西日本、四国、九州に自生しています。古くに渡来した栽培種が野生化したものだと言われています。東北、中部、東日本でも自生しています。 山口県萩市川上の「川上のユズおよびナンテン自生地」は、国の天然記念物(1941年指定)になっています。

1番目の写真はヒイラギナンテンの実です。出典は、
https://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201106010000/ です。

2番目の写真もヒイラギナンテンの実です。
出典は、http://mimimin.com/nanten/ です。

3番目の写真は赤いナンテンの実の写真です。

4番目の写真も赤いナンテンの実の写真です。

5番目の写真は白ナンテンの実の写真です。
南天の実と白ナンテンの実の写真の出典は、
https://s.webry.info/sp/0876542.at.webry.info/201511/article_29.html です。

寒い日々が続くので南国、タイ王国の花々の写真を、

2018年12月23日 | 写真
今日は冬の曇り日で暗い雲が低く覆っています。まるで北欧の暗い冬の日のようです。
最近は寒い日々が続くので南国、タイ王国の花々の写真をネットでいろいろ調べ、眺めては楽しんでいます。
その中から5つの花の写真をお送りします。
花の写真の出典は全て、http://chaocnx.seesaa.net/category/22001647-1.html です。

1番目の写真は11月30日に咲き出した桜の花です。チェンマイ県のタイ桜です。
(โครงการอนุรักษ์พันธุ์กล้วยไม้รองเท้านารีอินทนนท์ บ้านขุนกลาง、นางพญาเสือโคร่ง、“ซากุระเมืองไทย”)

2番目の写真は紫陽花です。アジサイは日本固有種ですが、タイのロイヤルプロジェクトで栽培されて温帯の珍しい花として出荷されているようです。日本の梅雨の代表的な花である紫陽花が、冬季直前のこの10月に、チェンマイの高地で咲き誇っているそうです。

3番目の写真はゴールデンシャワーの花です。4月下旬、緑濃い木の枝先にとんがり帽子のような紫の花々を咲かせます。

4番目の写真はドイインタノン国立公園のドイインタノン固有種である赤いシャクナゲ(กุหลาบพันปี)です。2月中旬頃までが見頃だそうです。

5番目の写真は サイアム・チューリップです。チューリップの名前が付いてますが、実際は生姜の仲間です。タイでは“パトムマー(ปทุมมา)”と呼ばれ、雨季の時期にピンクや白系統の花を咲かせます。

タイ王国は仏教国で仏教歴を使用している珍しい国なので、ついでにこの国の紹介を下記にお送りします。
現在のタイ王国はチャクリー王朝で仏陀の入滅をゼロ年とする仏教歴を使用している国なのです。
タイ王国という国名が示すように、この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。
タイにおいては、男子はすべて出家するのが社会的に望ましいと考えられているのです。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。
ですから修業中の人へ食物を献上する行為も自分の親や先祖の恩に報いるということになります。
また貧しい家に生まれたが、学業に優れていたために僧になって仏教大学に入学する若者もいます。

タイの仏教は日本の仏教よりも本物のように思えるのです。お釈迦様の教えどうり忠実にその教えを守っているように思えるのです。
個人的なことで恐縮ですが私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。それで仏教関係の本を多く読みました。
日本の仏教は中国や朝鮮の百済を通って飛鳥時代に入って来ました、そのせいで中国の道教や儒教や朝鮮の原始宗教と習合し多神教的な宗教になっているようです。お寺のご本尊はお釈迦様ではなく薬師様、観音様、弘法大師様、伝教大師様などいろいろです。
しかしタイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。お釈迦さまの座った姿の仏像か、寝た姿の涅槃像なのです。
そして出家による修行を大切にしています。私個人は修行無くしては宗教を理解出来ないと信じていますので、タイの仏教こそ本物だと魅力を感じるのです。
スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマなどの仏教を上座部仏教と言うそうです。そして日本、中国、チベット、朝鮮半島などの仏教は大乗仏教と言うそうです。
最後にバンコックの住宅街での忘れられない体験を書かせて下さい。
それは1993年の頃でした。バンコックに数日滞在した時のことです。朝にホテルの窓から見ていると、幅広い河の向こうから沢山の通勤者が船てやって来るのです。
好奇心にかられて、その日の夕方私は小さな舟に乗り河向うの住宅街に行ったのです。そこは樹木に囲まれた家々が並んでいる住宅街だったのです。決して金持ちではなく、家には塀がありません。道から部屋の中まで見通せるのです。仏壇があって灯明の炎が揺れています。子供が庭で遊んでいて可愛い声が聞こえます。家の裏の方から夕食の準備の包丁の音が聞こえます。何やら金木犀の花のような良い香りが風に乗ってきます。外国人の私がズカズカと歩き回っているのに全く警戒しないのです。全ての人を信頼しているのです。
嗚呼、なんと平和なのだろうと感動しました。仏教国だなあと感動したのです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、長くなるのでこれでお終いにします。