後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

今日の散歩道の風景・・・多摩湖自転車コースを小平ふるさと村から歩く

2011年01月31日 | 写真

今日の午前中はコンピューターで確定申告しました。昨年一度したので、易しいと思って始めましたが、酷くトラブッテ、3時間もかかってしまい、フラフラになってしまいました。B申請書に打ち込むべきをA申請書へ打ち込み出したので躓いてしまったのです。2時間30分悪戦苦闘してから間違いに気がつきました。B申請書から入ったらスルスラ解決して、完了しました。

雪の多い年ですね。日本海側や北海道の方々へは申し訳ないと思いながら青空の下を散歩して来ました。

多摩湖自転車コースは村山貯水池から武蔵境浄水場までの20kmが直線に出来ています。自転車コースと歩道が完備していて、所々に清潔なトイレや小公園もついています。

今日は、その「小平ふるさと村」の前から西武線、小平駅を通り越して小平霊園のそばまで歩きました。往復3.2kmでした。家内は走りながら菜の花を見つけ、撮っていました。

毎度、同じようで詰まらない写真ですが、下に示します。恐縮です。

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明治時代の熱気・・・地方実業家、有山彦吉ものがたり

2011年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなりで恐縮ですが下の2枚の写真をご覧下さい。上の写真は平成9年に郷土出版社から出た「八王子・日野の100年」という本の表紙です。下の写真はこの本の26ページと27ページに掲載されている写真を示しています。右端に土方歳三の写真があり左上には近藤勇が腕組みをして坐っています。その下に立って写っている男は山口清之助(左)と有山彦吉(右)です。ニューヨークで撮影した写真です。

この有山彦吉(右)の一生を偶然調べ始めましたが、その燃えるような事業慾に圧倒されました。日野村の地方実業家として活躍したのです。その様子が明治時代の熱気を感じさせます。明治時代の地方社会の雰囲気を直接感じるような気がします。そこで少し調べた結果を、写真の下に簡略な伝記としてご紹介したいと思います。

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日野宿の有山彦吉が生まれたのは幕末の1961年でした。佐藤俊正の4男でしたが有山家へ婿に入り、明治20年、1887年、26歳の時、写真に一緒に写っている山口清之助(左)と一緒に渡米します。

有山彦吉は若い時から自由党に入り自由民権運動をしていましたが、やが実業家を目指し、渡米して貿易業を始めようとしたのです。しかし数か月後には帰国し、金融業へ転身し日野銀行を興し、その頭取になります。そして銀行家として成功しながら多摩川の砂利採取の権利を得、それが大きな利潤を生んだのです。当時は甲武鉄道の敷設や建築土台として砂利の需要が爆発的に有ったのです。有山彦吉所有の砂利採取会社の荷車や馬車が砂利を満載して長い列になって甲州街道を行来したそうです。

日野村有数の資産家で、山林や農地を広く所有していました。その後県会議員になるのです。当時、日野村は神奈川県だったので神奈川県の県会議員です。しかし有山彦吉は実業家でした。政治家としてはあまり成功しなかったようです。

明治時代の実業家と言えば岩崎弥太郎や渋沢栄一など、全国的に活躍した人だけを学校の歴史で習います。しかし全国の地方、地方にには有山彦吉のような故郷の興隆のために情熱を燃やした人々が沢山居たのです。文明開花で燃えていたのは東京だけではなかったのです。それが明治時代の地方の雰囲気でした。

日清戦争に勝ち、日露戦争に勝った明治時代に活躍し、第二次大戦のころは引退していたそうです

それは日本の激動の中を明治、大正、昭和と活き活きと活躍した地方実業家の一生でした。

先日、小金井公園にある江戸東京たてもの園の図書室で偶然家内が上の写真を見つけ、撮ってきて祖父の若い頃の姿だと説明してくれたのです。その後、「有山彦吉」を検索して見ました。ネット上に幾つか情報が存在しています。

老年になって地方史を調べるのも趣味の一つになりました。今日はその一例を書いて見ました。皆様の住んで居る地方地方の幕末から明治の頃の歴史を調べると興味深い物語を沢山発見されると思います。それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人

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宗派の違うキリスト教信者が一緒に神へ祈りました

2011年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

私は宗派間の違いや争いに心を痛めていました。宗派間の争いはあってはならないものです。イエス様も悲しみます。

そこで一昨年から色々なプロテスタント系の教会やロシア正教系の教会も訪問して見ました。そして自分の行っているカトリックの教会と比較して見ました。

そこで重要な発見をしました。どんな宗派でも一番大切にしているのはイエス様の教えを書いた福音書です。それは感動的なまでに共通しているのです。違いはたった一つです。礼拝式やミサの仕方の細部が少しずつ違うのです。

小金井市にある宗派の違う11の教会が一緒に集まって神へ祈る祈祷会をしようという運動が日本キリスト教団系の教会に生まれ、次第にその運動が大きくなって行ったそうです。そして昨年の1月31日に第一回の小金井市一致祈祷会が実施されました。その具体的な推進には日本キリスト教団の小金井教会の丸山牧師様とカトリック小金井教会の前の主任司祭の山本神父様でしたと、今日の司式をなさった宮川浩二牧師様からご紹介がありました。

その第一回の共同祈祷会の様子は昨年の1月31日にこのブログで、キリスト教の宗派間の争いはありませんと題して掲載しました。

今日の午後2時30分から東京フリー・メソジスト小金井教会で第二回の小金井市一致祈祷会が開催されました。

参加したのは小金井市にある11の教会の司祭さん、牧師さん、一般信者です。フリーメソジスト教会は以前何度か訪問した頃より立派になり礼拝堂も綺麗になりました。祈祷会はフリーメソジスト教会の宮川浩二牧師様の司式でした。祈祷会は普通の礼拝式のような式次第です。

はじめに全員が立って讃美歌493番、「いつくしみ深い」を歌います。

いつくしみ深い 友なるイエスは うれいも 罪をも ぬぐい去られる。

なやみ 苦しみを かくさず のべて、重荷の すべてを み手に ゆだねよ。

全員が情熱的な声で歌い出しました。私は何故か感動して、涙が出そうになり、声が止まってしまいました。こんなに一生懸命に一般信者が讃美歌を歌うのを聞いた事があまり無かったのです。それは宗派を超えて一緒に祈祷会をする喜びに溢れているのです。宗派間の争いに心を痛めて居た人々が一瞬にして癒されたのです。実を言うと何故私が涙の出るほど感動したか今でも理解出来ません。何時かその原因が分かったらまた書いてご報告します。

祈祷会の後は礼拝堂の2階の広間に上がって茶話会をしました。初めて会う人々と何故か楽しく雑談をして帰って来ました。下の写真はフリー・メソジスト小金井教会の建物と、その次の写真は茶話会でご挨拶をする我らがディン神父様です。一番下の写真は昨年の第一回共同祈祷会の様子です。司式しているのが前の主任司祭の山本神父様です。宗教的な話で失礼しました。宗教にご関心の無い方々のご寛容をお願い申し上げます。(終り)

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江戸、明治、昭和と日本の家はこんなに大きく変わりました

2011年01月30日 | 写真

東京都立小金井公園の一角に「江戸、東京たてもの園」という家々の屋外展示場があります。何度も見に行きましたが行く度に展示してある家が増えています。展示の内様も充実しています。

江戸時代から明治、昭和と時代が移るにしたがって家の材質や構造がどのように変化したかが明快に分かるように展示してあります。

江戸時代の農家から始まって、商店と住宅を兼用した東京の商店街の家、勤人の住む郊外の住宅などなど時代順に、そして住人の職業別に展示してあります。

明治維新以来の日本の住宅の変化の大きさに驚きます。そして現在の住宅に比較すると、昔の家の貧しさに胸が痛みます。材料が質素で、小さな間取りなのです。商店では居住部分が狭いのです。しかしそんな事とは別に、当時の人々が懸命に生きていた息吹が感じられます。江戸幕府が明治維新によって終焉し、やがて時代は明治、大正、昭和、平成とめまぐるしく変わって行きます。戦争もありました。そんな社会の風潮を想像しながら家を見て回ると興味が尽きません。

昨日、撮った写真3枚と、「江戸、東京たてもの園」のHPから転載したいろいろな家の写真をご紹介いたします。是非、一度お出掛けになってみて下さい。

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私のゴッドファーザーへの追憶と感謝

2011年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

30年以上前、アメリカ映画の名作といわれる「ゴッドファーザー」が日本でも公開されました。音楽も哀愁にみち、美しいメロディーなので有名になった作品です。家族を愛し、友人を信じるイタリア系マフィヤの親分の悲しみと怒りを描いた名作です。

ゴッドファーザーとはカトリックの洗礼を受けるときの後見人であり、洗礼を受ける人が男なら代父、女なら代母といいます。ですから、ゴッドファーザーとはこの代父のことを意味します。

1971にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。私のゴッドファーザーは山本大二郎先生でした。家内のゴッドマザーは教会で神父様の生活の世話をしていらした荒垣さんの奥様でした。

代父になって頂いた山本大二郎先生はある有名な大学の化学の教授でした。1975年までの3年間、立川教会で日曜日毎にお会いしました。いつも変わらぬ温顔で、「お元気ですか?」とお声をかけて下さいました。

1975年、小金井にも教会が出来て立川へは行かなくなりました、それから30年近く年賀状を頂きました。年賀状には毎年必ず多摩山地の珍しい山野草の花の写真がついていて楽しいものでした。毎年その年賀状を頂くのが楽しみで、家内と一緒によく話をしました。もう亡くなって何年にもなりますが、私の心の中には山本先生のニコニコとしたお顔が生きて住んでいます。

今から11年程前に、カトリック小金井教会へ新しい主任司祭様が赴任して来ました。驚いた事にその神父様は私のゴッドファーザーの山本大二郎先生のご子息の山本量太郎神父さんでした。毎日曜、神父様の説教を聞きながら代父のことを追想していました。

家内の代母の夫の新垣氏は沖縄出身の作曲の才がある方です。カトリックの本部へ転勤になった後、数多くの作曲をし、宗教音楽の世界で活動をしています。日曜日毎に歌われる聖歌のなかに時々新垣さんの作った曲が混じっています。歌うたびに立川でお会いした若々しく、新婚夫婦のようだった夫妻の様子を思い出します。心の中では人間は年を取らないものです。

今日はこれからミサへ行きます。私のゴットファーザーの為にお祈りをしてきたいと思っています。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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男・女のことなど、その四・・・ジムの友情

2011年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

忙しく仕事をしている現役の間は、友情の有難さなどを深く考えませんでした。引退して自分の人生を振り返って見ますと友情が貴重な宝のように思います。それに気が付かなかった自分の愚かさに愕然とします。

アメリカ人のジムと初めて会ったのは1960年の9月でした。オハイオ州立大学の大学院に入学した時、同じクラスにジムがいました。痩せて背の高い、もの静かな男です。私は英語の講義が分からないで苦労しましたが、ジムが助けてくれます。今日の講義の内容はこの本のここに書いてありますとか、明後日は試験があるから準備するようにと助けてくれます。努力家で夜遅くまで実験室にこもって研究に没頭しています。私の実験装置も彼のそばに作りました。作るためには機械工場やガラス細工工場の職人さんと仲良くなり手伝って貰う必要があるのです。その橋渡しをしてくれたのはジムです。

翌年、家内を日本からよんで結婚式や披露宴をしましたが、その折もジムと奥さんのウィディーは世話をしてくれました。少し落ち着くと、ジムとウィディーは4人の幼子を連れて私共の家に遊びに来てくれました。それ以来、ジム一家とは家族同士の付き合いが始まりました。兎に角、性格が優しくて、根気があって何事もやり遂げるのです。難しい実験をいつの間にか成功させてしまうのです。

オハイオでのPh.Dを取るための勉強は非常に厳しいものでした。その厳しさを共に通り抜けたので、ジムとは古い戦友のような親しみを現在でも感じています。

アメリカの学位授与式はCommencementと言い、学長が一人一人へ学位記を手渡す荘重な式典です。

ジムはその後、シカゴの近郊にある国立研究所に就職し、一生そこで働きました。私は東京に帰りましたがその後も彼とは付き合っていました。アメリカで学会がある時は少し回り道をして彼の家に泊りに行ったりしました。彼の趣味は釣りです。大きなモーターボートを車で牽引してミシガン湖に降ろし、一緒に釣りをしました。バスが沢山釣れて、帰宅後、すぐにムニエルにしてジムとウィディーと3人で美味しく食べました。その全ての情景を鮮明に覚えています。

ジムの釣りの趣味はかなりなものです。休暇になるとアラスカへ行き、大きな鱒や鮭を釣るのです。13年前に引退してからはアラスカのガルフ・ショアへ引っ越して本格的に釣りを楽しんでいます。毎年のクリスマスカードと共にその年に釣った大物の写真が同封してあります。

最近のクリスマスカードでは2人の曾孫が出来たと、嬉しい知らせが書いてありました。

彼の友情を思う時、私は頭を垂れて終生、感謝している事が一つあります。それは私が専門書を出版するときジムが原稿の英語の間違いを徹底的に直してくれた事です。勿論、無償で、それも迅速に訂正後の原稿を送り返してくれたのです。

1960年に知り合ってから51年になります。彼の友情はその間変わりませんでした。

ジムとウィディーに感謝しながら私の人生が終りに近づいている事に深い満足しています。不思議な体験です。有難い体験です。

下の写真はジムと私の実験装置が1960年にあったオハイオ州立大学のLord Hall です。実験室は一階で右手の樹木の向こう側にありました。懐かしいです。(終り)

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武蔵御嶽神社と高尾山薬王院の特別展示

2011年01月29日 | 写真

江戸から一番近い山岳宗教の拠点は武蔵御嶽神社と高尾山薬王院です。現在の御岳と高尾山は東京の人々のハイキングコースとして、何時行っても多くの人が歩いています。そこにある御嶽神社と薬王院も参拝者で賑わっています。両方とも奈良時代に行基によって創建されたと言い伝えられています。特に江戸時代は庶民の参拝者が多かった様子が絵本などに残っています。幕府も数十石の知行を与えて支援してきました。この神社と薬王院に残る種々の古文書や絵本、仏画などが展示してありました。期間は1月15日から4月10日迄です。御岳山や高尾山に登った方々はきっとご興味があると思い、ご案内いたしました。下の写真は展示会場の様子です。

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今日の散歩の風景・・・小金井公園の梅林

2011年01月29日 | 写真

もう来週は2月に入ります。ローバイや梅の花も満開になります。そんな事を思いつつ小金井公園の梅林へ行きました。その後で、江戸東京たてもの園をゆっくり散歩して来ました。武蔵御嶽神社と高尾山薬王院の特別展示もあったのでそれも見て来ました。この記事に続いてそれらの写真もお送り致します。毎度、同じような写真で恐縮です。

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このブログは詰まらないと徹底的に非難されました

2011年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

中学生の男の孫がこのブログを見て居ます。有難いと、心温まる思いをしています。

ところが彼が、「このブログの文章、特に写真は詰まらない!」と何度も批判します。何時もは野球の練習で忙しく話も出来ませんが、今朝は珍しく暇らしく、何故詰まらないか幾つも理由を言ってくれました。

(1)毎度、毎度、同じような散歩の風景の写真を繰り返し掲載するのは実につまらない。

(2)その風景写真はただ写しているだけで考えが足りない。

(3)文章は単純で、いつも同じ調子だ。

どれも痛いところを突かれました。悔しくなって反論しましたが論争は負けてしまいました。それでも毎日400件くらいもアクセス数があるんだと自慢したら鼻先で笑われてしまいました。その上、僕が手本の写真を撮ってあげると言います。

その写真を下に示します。テーマが2つあるそうです。一番上の写真は今年の冬の寒さを描いたものだそうです。水盤の氷が厚く張っているので竹トンボを差し込んでも立っている様子を写し、厳寒ぶりを表現しているそうです。

その下の3枚は巨人が子供を手の平の上に乗せたり、指でつまんでいる様子を写真に撮ってあるそうです。最後の一枚は巨人の大きな足の向こうに小人がたっている写真です。

じじ馬鹿な 記事で恐縮です。ご免なさい。

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学校で国歌を唱うのは当然!国旗も掲揚すべし!

2011年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、裁判所で判決があり学校で国家を歌い、国旗を掲揚するのは憲法違反ではないと言う結論が出ました。

何故、国家や国旗が裁判沙汰になるか皆様ご存知なのでっしょうか?国歌の歌詞が天皇を讃えているから反対というのです。その発想は、戦後一貫して天皇制へ反対して来た共産党の影響を受けた日教組系の教員が訴訟を起こして何年間も係争を続けているのです。

学校を政治的闘争の現場にしているのは共産党が学校を政治闘争に利用しているのです。その結果、子供たちへ日本の天皇制は悪いと理解させているのです。

「君が世は、千代に八千代に、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで」これだけの歌詞です。君が世とは、天皇様の世の事ですから天皇の時代の永久に安泰なことを願う歌詞なのです。天皇は日本のシンボルなのです。ですから天皇の安泰は日本という国家が安泰である必要があります。そのように考えると何も学校で政治闘争をする程の問題では無いのは明白です。

天皇制に反対する政党が存在する事は自由です。大いに反対すれば良いのです。しかし生徒を巻き添えにしてはいけません。

日教組系の教員が政治的な運動をすれば、学校を管理している教育委員会が国歌へ反対する教員を処分をするようになるのは必然です。

昨日の判決で教育員会が国歌に反対した教員を処分するのは合憲という決定をしました。こんな問題で学校の現場を荒らす日教組系の教員は本当に正しいのでしょうか?

国旗はもっと多くの場所に掲揚した方が良いとおもいます。

天皇陛下万歳と叫んで死んで行った兵士の新聞記事や、国旗が出征のとき振られたいた光景を見た私でさえ反対しません。天皇や国旗は狂った軍部が利用しただけで、天皇や国旗が悪いのではありません。もう少し合理的に考えて頂きたいと思います。自分の国を大切に思う。愛する。それが日本では弱過ぎると感じて居る一老人の感想でした。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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今日の散歩の風景・・・巨木の林の中の集落

2011年01月28日 | 写真

近くの東久留米市の柳窪地域は巨大なケヤキ、ムクノキ、クヌギなどの林の中に農家が散在しています。こんなに大きな樹木の枝も切らないで自然の林のようにして保存しています。遠方から見ると、大きな林が平野に浮かんだ島のように見えます。今日はその柳窪の集落の中を散歩してきました。樹木が大き過ぎてカメラからはみ出し、構図に苦労しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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男・女の事など、その三・・・男の友情

2011年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

老境になると自分の人生を振り返っていろいろ大切な発見をします。その一つに中学校以来、変わらぬ友情をよせててくれるS君がとても重要で、有難いことに気が付きました。私がいろいろな失敗をしても彼の私へ対する好意にはいつも変わりません。いつ会ってもニコニコして勇気づけてくれます。

S君と知り合ったのは茫々63年前の昭和23年です。戦災で焼け野原になった仙台に、進駐軍の命令で新制中学校が出来たのは昭和22年でした。

その2回生として入学し、S君と知り合ったのです。とても利発な少年で、絵が上手で何故か魅力的な性格です。すぐに仲良しになり、彼の家にしょっちゅう遊びに行きました。彼も私の家に来て一緒に鉱石ラジオを作ったり、忍者ごっこをして遊んだものです。

私の家は仙台の郊外の向山という所にありましたが、彼の家は土樋町の近くにあり、とても都会的な雰囲気でした。家が都会的な感じなだけでなくS君は東京言葉に近い話し方をします。そんな彼に洗練された都会の雰囲気を感じていました。絵画が得意だったせいか、彼は一生アート関係の仕事をしました。

新制中学校とはそれまで存在していなかった学校です。校舎も机もありません。しかし進駐軍の命令で全国に急造されたのです。校舎が有りませんから、我々の中学校は荒町小学校の教室を借りました。机も椅子も無いので家からミカン箱を持って行って机にしました。仙台第十中学校と言っていましたが、そのうち校舎が愛宕山のそばの遠藤山に新築され、愛宕中学校と名前が変わりました。

新しい校舎が完成したのは1年生の終り頃でした。その頃は流石に机と椅子が出来ていました。新校舎への引越しは生徒が全員自分の机と椅子を背負って2往復したものです。それはとても嬉しい出来事でした。木の香りのする校舎には生徒たちの笑い声が溢れます。そして先生達も嬉しそうに色々な部活を指導してくれるのです。

踏査部とか演劇部とか歴史研究部のようなものから庭球部、野球部、バレー部などなど全てが活発に動き出しました。S君は演劇部とバレー部で活躍していました。私も彼と一層親しくなったのは演劇部で一緒にいろいろな事をしてからです。

高校は仙台一校に入り、また演劇部で共に活動しました。一緒に松島湾でカッターを漕ぎ、カキ棚に乗り上げて青くなったりしたものです。

中学と高校の演劇部にはテレビマンユニオンの創立メンバーの村木良彦君もいました。残念ながら彼は亡くなってしまい、このブログで追悼記を書く巡り合わせになってしまいました。(あるテレビマンの死 )

村木君のお葬式でもS君に会いました。芝の増上寺でガッカリしている私を慰めてくれました。とにかく優しいのです。昭和35年に私が初めてアメリカへ留学するとき羽田空港まで送りにも来てくれました。

このブログを3年前に始めて以来、S君は、「もえじい」というハンドルネームで、好意に溢れるコメントを何度も送ってくれました。

S君の事を今振り返って考えると、それこそ「男の友情」と言うものなのだと理解出来ます。

私は彼の為に何もして上げませんでした。助けてあげた事もありません。勇気づけた事もありません。一切は利害を超えているのです。不思議です。と、ともに頭が下がります。

茫々63年前、焼け野原の仙台で知り合って以来、彼の友情は変わりません。こんな貴重なものはありません。S君、本当に長い間有難う御座いました。(続く)

下の写真はS君から頂いた今年の年賀状の絵です。

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事業仕分けと官僚のシビリアン・コントロール(Civilian Control)

2011年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

市民が選挙で選んだ政治家が軍隊を統制する事をシビリアン・コントロールと言います。私はこのシビリアン・コントロールの定義を拡大して市民が選んだ政治家が官僚を統制する事も含めます。そうすると、「官僚のシビリアン・コントロール」という新しい考え方が明確になります。以下はこの定義に従って論を進めます。

軍隊は軍事力だけから開戦を考えます。政治家はそれ以外の種々の国際関係の要因を総合的に考えて避戦と開戦を考えます。

同様に官僚は自分の部課の利益だけを考えます。政治家は市民の幸せを総合的に考えて政策を決定します。

民主党政権の最も特徴的な事は、この「官僚のシビリアン・コントロール」を実行しようとして事業仕分けを行っている事です。政治家が官僚の自由裁量で行っている巨大な事業の効果を市民の利益という視点から検討し、公開している事が従来の政治に無かった斬新な点です。しかし明治維新以来連綿と続いた官僚組織の強さは一朝一夕では崩せません。

そこで私は市民の個人個人が出来ることを提案いたします。官僚の仕事ぶりについて良いと思ったことはインターネットへ記載する事です。建設的に褒めるのです。官僚のあらさがしをしたり建設的でない攻撃はいけません。

まず私が何時も感心している官僚組織は市役所や地方自治体の役所です。健康保険や確定申告の事で小金井市役所を時々訪ねますが、何時行っても役人さんが親切で、明快に説明してくれます。住民票や印鑑証明を貰うときにも実に迅速で親切です。申請書を書く時も、受付机の外側に若い役人が走り回っていて申請書の書き方を教えています。官僚のシビリアン・コントロールの成果が素晴らしいと感激しています。日本が高度成長する以前の市役所の役人は威張っていて決して親切ではありませんでした。その当時と比較すると雲泥の差です。

現役の頃は、仕事の関係で経済産業省、文部省、環境省、外務省などの官僚と直接会った事がありました。そこで気が付いた事を、一つの定理のように書いて見ます。「民間人と接触の多い省庁ほど官僚主義が弱い」という定理です。民間人の考え方や組織の動かし方の影響を受けている省庁は民間人の利益を重視する傾向が強いのです。勿論全ての定理には例外があります。

しかしこの定理に従ってシビリアン・コントロールが行き届いている省庁を上位から書くと、経済産業省、環境省、文部省、外務省という順になります。

経済作業省の役人は何時も日本の産業の活性化を建設的、そして総合的に真剣に考えています。勉強も良くしています。その努力には頭が下がりました。

一番悪いのは外務省です。外務省は民間人と接触する機会が極端に少ないのです。外交という自分の城だけに閉じこもって勝手なことをしているようです。個人的な経験ですが、北京にある日本大使館を何度か訪問しました。それは官尊民卑の城でした。

ちなみにアメリカでは政権が代われば世界中の大使や領事は総入れ替えです。日本の大使は年功序列で外務省が独自に決めています。

少しずつ、少しずつ、日本の官僚主義が弱まれば良いと祈っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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遊びと散歩・・・今日の散歩の風景・・・雪深い地方へ申し訳ありません

2011年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

引退して遊び出してからまる5年になりました。最近の生活は、遊んで、遊んで、又遊ぶ、という生活です。遊びがめっぽう面白くなっています。その為には健康管理に少し注意して体調を整えています。しかしこんな生活も間もなく終り、病院とのお付き合いが忙しくなります。それも自然の摂理と思い心静かに受け入れます。

遊びはヨットや山小屋に行ったり、家内と国内旅行に出たりしています。何をしても楽しく、老人の生活も健康である限り意外に幸せと吃驚しています。ところで最近、散歩が趣味のようになってしまいました。近所の住宅街を歩いたり繁華街を歩くのではなく、車で人の少ない所へ行って歩き出します。いろいろ調べて3kmから5km位、自然の風景の中を歩けるところを探して出掛けます。

今日は霞ヶ浦の土浦駅東口近くのヨットの係留地点から湖岸に沿って歩き出しました。1.5kmくらい歩くと桜川の河口に出ます。そこを右へ曲がって桜川の堤防の上を500m位上流へ歩きました。堤防がぐるっと回ってヨットの係留地点に一番近づいた所で真っ直ぐ住宅街を横切って帰って来ました。合計3km位の散歩でした。

温かい陽射しの中、鴨や鴎が足元の湖岸で遊んでいます。白い雲と碧い水面を見晴らして気持ちが良くなります。何故か笑いがこみあげて来ます。寒くなる前に早めに帰宅しました。

それにしても日本海側や青森・北海道の雪の深い地方の方々のご苦労を偲び、申し訳ないと思いながら歩きました。

車は完璧な安全運転をしました。別にノロノロ走るわけではなくかなりスピードをあげて走ります。充分車間距離を取り、車路を変えるときには早めに合図をして礼儀正しく走ります。自分がそうすると周りの車も優しくしてくれます。下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。一番上の写真は枯れ芝の広い遊歩道を示しています。こういう道が何処までも続いています。(終り)

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あなたは海というと何を思い出しますか?

2011年01月27日 | インポート

海。それは人々にとって憧れです。幼少の頃から家族で一緒に遊んだ楽しい思い出を持つ人がいます。あるいは失恋の悲しさを背負って、海辺を旅した思い出を持つ人もいます。そして漁師を家業にしている場合は家族の誰かの命を海に奪われた悲劇にあった人も居るかもしれません。

海。それは人々の憧れであり、いろいろな想い出のいっぱい詰まった風景です。

先日、下田に旅した折に、海の輝き、カモメの鳴き声、そして静かな漁港というようなイメージを写し撮ろうと努力してみました。うまくいきませんでしたが、写真からあなたの海の楽しい思い出をお楽しみ頂ければ嬉しいです。136 147 044

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