後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

日本の幸福度が実感できる神代植物公園の大温室

2016年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
数年前にブータンの国王夫妻が来日し「我が国はGDPの増加ではなく幸福度の増加に努力している国です」と言ってました。
幸福度をどのようにして数字で示すかは判りませんが、観念的には良い感じがする表現だと感心したことを憶えています。
今日の記事も観念的で、その上、主観的な想いを書いたものです。しかし植物が好きな方々、特に南洋の熱帯植物に憧れている方々にはご理解頂くのではないかと思います。
私は神代植物公園の大温室に入る度に、嗚呼、幸せだなと感じ入ります。そうして日本の幸福度が実に大きいと実感出来るのです。日本は幸せな国だとしみじみ感じるのです。
その理由は私が戦前生まれ戦後育ちにせいだと思っています。自分の幼児のころから絵本や物語で熱帯の南洋はすばらしい所だと教わって来たからなのです。
そこでは見たことも無い熱帯の花々が咲き乱れ、まだ食べたことの無いマンゴーやパパイアが実っているのです。この世のものとは思えぬ美味しい果物だと聞いていたからです。
ですから私は幼い頃から熱帯植物に強い憧れを持っているのです。
それで昨日も神代植物公園の大温室に入って実に幸せな感じがしました。嗚呼、日本の幸福度は大きいなと感じ入ったのです。

さて神代植物公園の大温室は日本でも最大級です。広さは3200平方メートル、約1000坪もあります。
サボテン類などの貴重な乾燥地の植物や、世界自然遺産である小笠原諸島の植物も含めて、色鮮やかな花を咲かせる熱帯植物や、食虫植物など、世界中の珍しい植物を収集し、合計約1,300種・品種も展示しているのです。
その上、チリのビーニャ・デル・マル植物園との協定でチリ植物のコーナーもあるのです。
それは世界中の熱帯植物を展示してある大温室なのです。
植物のお好きな方が見たら必ずや感動すると思います。
人間が植物や花々を愛するのは「豊かな精神」のあらわれです。最初に書いた通リこの文章は観念的なものです。豊かな精神とはどのようなものですか?などと野暮なことは言わないで下さい。

それはそれとして、豊かな気持ちを持つと植物が好きになるようです。
ですから強く意識していなくても人々は大温室に入ると何となく豊かな気分になり幸せそうになります。温室内では植物だけではなく、幸せそうな人々の姿も見るとこちらも幸せになるのです。
そんなことを考えながら一昨日、神代植物公園の大温室で撮った写真を8枚お送りいたします。

上の1番目の写真は広いバラ園の向こうにある大温室の全景です。













さて温室と言えば新宿御苑にも大温室があります。多数のランの品種を収集してあることで有名な温室です。
その他、都立夢の島公園内にも大温室があります。
伊豆七島の八丈島にも都立の熱帯植物園があります。
勿論、全国には数多くの熱帯植物の温室があり公開しています。
その上、多くの人々が熱帯の観葉植物を部屋の中で育てています。
このように植物は人間を幸せにしてくれているのです。何故か頭(こうべ)の下がる思いがします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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共産主義によるキリスト教弾圧を逃れた私どもの神父さま

2016年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
共産主義はキリスト教圏で生まれた思想です。キリスト教では労働者や貧しい農民は幸せになれないので武力革命を起こし彼等を幸福にする政府を樹立するという考えです。従って共産党政府はキリスト教を弾圧しました。
世界で初めて共産主義革命で政府を作くられたのは1917年で、その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。そのソ連は1991年に崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧が続きました。
一つの例だけを示します。
1番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。

2番目の写真は1991年のソ連崩壊後に再建された同じ大聖堂です。聖堂の前の参道を人々がのんびりと歩いている様子をご覧ください。嗚呼、平和って良いものだとお感じになりませんか?

このソ連と中国共産党の支援で北ベトナムがアメリカが支援していた南ベトナムを占領し、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。ベトナム戦争は1964年のトンキン湾事件でアメリカの本格的介入が始まり1975年のパリ協定で終了しました。その間アメリカ軍の戦死者は5万人にのぼる熾烈な戦争だったのです。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
アメリカをはじめ自由主義の国々がボートピープルを拾い上げる為に大型船を沖合に派遣しました。
このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として着任してからもう5年間もたっています。
とても優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様です。
3番目の写真は昨日、初聖体を貰う女の子と母親にミサの始める前に初聖体の受け方の手順を説明しいる場面です。

4番目の写真はミサの最中にこの女の子へ初めてパンの聖体を渡している場面です。

5番目の写真はミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。

このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後の弾圧を逃れ日本に来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になるための勉強を続け30年ほど前に正式に叙階されたのです。
東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父はベトナムで過酷な体験をした筈です。しかし一切話しません。沈黙しています。たまにベトナムから兄弟や家族が会いに来ますが本人は帰国しません。日本の土になるのでしょう。
この神父さまの説教は分かりやすい説教です。難しい神学は出てきません。イエス様の愛を信じ、そのことをわかりやすく話します。素朴で信仰心の強い神父様です。
昨日、ミサの間、いつもは忘れていた共産党のキリスト教弾圧のことを思い出しました。そしてディン神父の神学生時代のベトナムでの困難な生活を想像していました。
神学生と言えば1番目の写真にある教会の爆破を命じたスターリンも神学生だった時代があったのです。グルジアの神学校に通っていたのです。それなのに何千万人も粛清した残忍な独裁者になったのです。人間の恐ろしさに粛然とした思いになります。
平和が70年続く日本に住んでいる幸せに毎日感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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宗教と秘密、何故お経は意味がわからいか?

2016年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する気楽な感想を書きます。個人的な感想ですから正しいと主張出来ません。観念的な話なので読み流してくだされば幸せです。
キリスト教の聖書を読むとカナの婚姻というエピソードが書いてあります。婚姻の祝宴で葡萄酒が足りなくなったので、キリストが幾つもの水甕の水を上等なブドウ酒に変えた話です。このような奇蹟物語が聖書に幾つか書いてあります。このような話は合理的でありません。
しかし信者は信じています。半信半疑の信者もいるでしょう。カナの婚姻は楽しいエピソードですが、人智では理解できません。
そこで仏教や神道の場合も考えてみましょう。そうすると、どうも宗教には神秘的な話はつきもののようです。
例えば九州の天満宮には京都から飛んで行った梅の木があります。
そして菅原道真が九州に旅立つとき庭の梅に歌った和歌も伝えられています。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
梅の木が京都から九州に飛んで行くことは不合理です。神秘的です。でも大宰府の天満宮をお参りする人は信じているかも知れません。神道には幾つも神秘的な話があり、合理的には理解できません。
仏教にも幾つも不思議は話があります。
弘法大師が全国を旅をしました。そしであちこちで独鈷を突いて温泉を湧かせたという話も奇蹟物語です。
このような不思議な話を観念的に総括すると、「宗教には人智では理解出来ないことが含まれている」ということになります。
仏教は身近な宗教なのでもう少し詳しく見てみましょう。
我々が仏教で困ることの一つはお葬式の時、僧侶が読むお経の意味が判らないことです。お経は40分から1時間続きましから足がしびれます。意味の判らないことを緊張して聞いていることは苦痛です。
実はお経を読んでいる僧侶もあるお経の意味は判らないのですから、他の人が判る筈がありません。そのお経は人智では理解出来ないように出来ているのです。
僧侶はお経の意味を説明しません。自分で調べて理解するのが基本です。僧侶に意味を問うと、「それは有り難いお釈迦さまの教えを読んでいるのです」と簡単に教えてくれます。そして意味が判らないから有り難いのだよと心の中で呟いているのです。
正確に言えばお経には完全に意味の判るお経と、意味の判らないお経の2つの種類に分けられます。
日本で読まれていお経の大部分は唐の時代に玄奘三蔵法師がインドから持ち帰り、西安で漢文に翻訳したものです。
その時、意味の判る漢文にしたお経の他に、インドのサンスクリット語の原文の音を漢字で表現したお経があるのです。
意味の判る一番重要なお経は 般若心経です。お釈迦様の教えを判りやすく短く説明した漢文のお経です。実はこの般若心経の中にもギャーティー、ギャーティーやノウマクサンマンダ、ボタナンバンという部分などはマントラと言って意味不明のサンスクリット語です。
しかしこの部分を除けば 般若心経は意味が明快に判るお経の代表なのです。
それでは意味の判らないお経の代表はと言えば何というお経でしょう?
それはお葬式の時、必ずのようによく読まれる大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)というお経です。
「なむからたんのー、とらやーやー」という出だしが聞こえたら、それが大悲心陀羅尼なのです。それはお葬式だけでなく、禅宗で広く日常的に読誦されている基本的なお経なのです。
その意味は?と問われれば判りませんとしか答えられません。
しかしそれを繰りかえし声を出して読んでいるとお釈迦様が身近に感じられるのです。そして自分がお釈迦様に帰依し、自分の身を捧げますという気分になっていくのです。ですから大悲心陀羅尼はお釈迦さまへの信仰告白だと解釈している宗派もあるようです。
このように宗教には人智では理解出来ないことが含まれています。そしてこの人智では理解出来ないことが非常に重要な柱になっているのです。
私は幼少のころ祖父や伯父が住職をしていたので般若心経と大悲心陀羅尼を何度も声を上げて何回も読みました。意味も判らずに読みました。
祖父や伯父は一度も意味を説明しようとはしませんでした。ただ幼いながらもそれが仏教というものだという感じがしました。
大人になって偶然が幾つか重なって私はカトリックになりました。そうしたらお経を読むという幼児体験があったおかげで、人智を越えた聖書の内容が判る感じがしたのです。その感じが信仰にとって重要だったのです。
これは私の個人的な感想ですから正しいと主張するつもりは毛頭ありませ。読み流してくだされば私も気楽です。
皆様にも気楽になって頂くために今日の挿し絵代わりの写真は昨日、神代植物公園で撮ってきたいろいろな花の写真です。4番目の黄色の花は雲南省原産の地湧金蓮です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料=============
大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)とは?
正式には『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼』といい、伽梵達摩訳『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼經』の陀羅尼部分を取り出したものとされる。略して大悲呪という。

南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶。摩訶薩埵婆耶。摩訶迦盧尼迦耶。唵。薩皤囉罰曳。數怛那怛寫。南無悉吉利埵伊蒙阿唎耶。婆盧吉帝室佛囉楞馱婆。南無那囉謹墀。醯唎摩訶。醯唎摩訶皤哷沙。薩婆阿他豆輸朋。阿逝孕。薩婆薩哷那摩婆薩哷。那摩婆伽。摩罰特豆。怛姪他。唵。阿婆盧醯。盧迦帝。迦羅帝。夷醯唎。摩訶菩提薩埵。薩婆薩婆。摩囉摩囉。摩醯摩醯唎馱孕。俱盧俱盧羯蒙。度盧度盧罰闍耶帝。摩訶罰闍耶帝。陀囉陀囉。地利尼。室佛囉耶。遮囉遮囉。摩摩罰摩囉。穆帝隸。伊醯伊醯。室那室那。阿囉參佛囉舍利。罰沙罰參。佛囉舍耶。呼盧呼盧摩囉。呼盧呼盧醯利。婆囉娑囉。悉利悉利。蘇嚧蘇嚧。菩提夜菩提夜。菩馱夜菩馱夜。彌帝唎夜。那囉謹墀。地利瑟尼那。婆夜摩那。娑婆訶。悉陀夜。娑婆訶。摩訶悉陀夜。娑婆訶。悉陀喻藝。室皤囉夜。娑婆訶。那囉謹墀。娑婆訶。摩囉那囉。娑婆訶。悉囉僧阿穆佉耶。娑婆訶。娑婆摩訶阿悉陀夜。娑婆訶。者吉囉阿悉陀夜。娑婆訶。波陀摩羯悉陀夜。娑婆訶。那囉謹墀皤伽囉耶。娑婆訶。摩婆唎勝羯囉耶。娑婆訶。南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧吉帝。爍皤囉耶。娑婆訶。悉殿都。漫哆囉。跋陀耶。娑婆訶。

読み方
なむからたんのー。とらやーやー。なむおりやー。ぼりょぎちー。しふらやー。ふじさとぼやー。もこさとぼやー。もこきゃるにきゃやー。えんさーはらはえー。しゅたのーとんしゃ。なむしきりー。といもーおりやー。ぼりょきちーしふらー。といもーおりやー。ぼりょきちーしふらー。りとぼー。なむのらーきじきりー。もこほどー。しゃみさぼー。おとじょーしゅべん。おしゅいん。さばさとー。のもぼぎゃー。もはてちょー。とじとーえん。おぼりょぎー。りょぎゃちーからちー。いきりもこー。ふじさとー。さぼさぼー。もらもらー。もきもきー。りといんくりょくりょー。けもとりょーとりょー。ほじゃちやー。もこほじゃちやー。とらとらー。ちりにー。しふらやー。しゃろしゃろー。ももはもらー。ほちりー。いきいきー。しのしのー。おらさんふらしゃりー。はざはざー。ふらしゃやーくりょくりょー。もらくりょくりょー。きりしゃろしゃろー。しりしりー。すりょーすりょー。ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。みちりやのらきんじー。ちりしゅにのー。ほやものそもこー。しどやーそもこー。もこしどやーそもこー。しどゆきーしふらやーそもこー。のらきんじーそもこー。もらのらそもこー。しらすんおもぎゃやーそもこー。そぼもこしどやーそもこー。しゃきらー。おしどやーそもこー。ほどもぎゃしどやーそもこー。のらきんじー。はぎゃらやーそもこー。もほりーしんぎゃらやーそもこー。なむからたんのうとらやーやー。なむおりやーぼりょぎちーしふらやーそもこー。してどー。もどらー。ほどやー。そーもーこー。








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神代植物公園の春バラのフェスタの写真

2016年05月28日 | 写真
東京都立の神代植物公園は広大でいろいろな花々や樹木が見事です。
今日は家内と一緒に昼前に家を出て、春バラのフェスタを見に行きました。
この植物公園には大きなバラ園があります。
西洋風に左右シンメトリックに設計された庭園に植えれたバラは種類が多く、春バラは409品種5,200余本もあり、その上、秋バラは約300品種5,000余本が植えてあります。
このバラの花期は年2回で、春は5月下旬の頃が盛りで、秋は10月中旬からです。
行ってみたら丁度満開のバラの花々が色彩豊かに溢れるように咲いていました。
下手な写真ですが今日撮りましたバラの花の写真を5枚お送り致します。

神代植物公園への交通の便はのHP;https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index045.html をご覧下さい。









上の写真に写っている白っぽい建物は最近、拡張工事が完了した大温室の様子です。温室内の花々の写真は後日掲載致します。
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オバマ大統領の広島訪問を絶賛する

2016年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のオバマ大統領の広島訪問には多分多くの人々が感動したと存じます。
日米両国政府はオバマさんの広島訪問を調整中に、私はチュコのプラハで2009年にオバマ大統領が行った核廃絶の演説を読んでみました。読んで納得しました。これはノーベル平和賞に値すると。その有名な演説には核廃絶への強い信念が吐露されていたのです。それを読んで、私は「オバマ氏は広島へ行く!」と確信しました。
昨日、オバマさんは広島で原爆資料館を見て、原爆犠牲者の慰霊碑に花輪を供え、そして感動的な演説をしたのです。
その演説を見るとオバマ氏が個人としてどのような世界観を持っているか、そして核廃絶への如何に強い信念を持っているかが明快に読みとれるのです。
以下にその抜粋を示しますので是非お読み下さい。
その前に一つだけ日本人の卓越したユーモア感覚をご紹介させてください。オバマ氏が被爆者の坪井 直さんに歩み寄り話をした時のことです。始めは深刻な話をしていましたが途中でオバマさんが破顔一笑したのです。坪井さんも笑いました。そばに立っていた安倍総理も笑いました。広島に到着以来、緊張していたオバマさんがホッとくつろいで笑ったのです。坪井さんが気楽に、「ときどき広島にやって来て、見たり、聞いたりしてやってください」と言ったそうです。この言葉にオバマさんが破顔一笑したのです。坪井さんは来てくれて有難う。でもそんなに緊張しないで良いでよ。気楽にまた広島に来て下さいと言いたかったのでしょう。坪井さんは遠路やって来たオバマさんを巧みに慰労してくれたのです。それはオバマさんが広島で一回だけ見せた笑顔でした。オバマさんも偉いが日本人も立派だったと嬉しくなった場面でした。
それではオバマさんの格調高い演説の前の部分と終りの部分を抜粋してお送りいたします。

オバマ大統領のスピーチ全文(http://rabiru.com/10080) より抜粋
Seventy-one years ago on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city, and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.・・・・
71年前、よく晴れた朝、空から死が降ってきて世界は変わりました。閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。
これは我々人類が、自分たち自身を破壊する手段を手に入れたということを意味します。
なぜ私たちはここにいるのでしょうか?なぜ広島に来たのでしょうか?
私たちは、亡くなった方々を悼み、恐ろしい力がそれほど遠くない過去に解き放たれたことを深く考えるためにここにやって来ました。

10万人を超える日本の国民の方と、そして何千人もの朝鮮の人々が命を落としました。
その魂が、私たちに語りかけています。もっと内側を見て、私たちが一体何者なのかを振り返るように。そして、どのようになろうとしているのか語りかけています。
広島だけが特別なのではありません。暴力的な争いは古くから行われています。石や槍などが扱われました。これはただ狩りをするためだけではなく、人間同士の争いにもこのような武器が使われてきました。どの大陸においても、どの歴史においても、あらゆる文明は争いの歴史に満ちています。
富をもとめ、また民族や宗教的な理由からもこうした争いが起こってきました。帝国が台頭し、また衰退しました。そして人々が同じ人間に支配され、また解放の道もたどってきました。それぞれの歴史の転換点において、罪のない人たちが苦しみました。多くの人たちが犠牲になりました。その犠牲となった人たちの名前は、時が経つと忘れ去られました。それが人類の歴史であります。
第二次大戦は、広島と長崎で、とても残虐的な終わりを迎えました。これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出しました。そして偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生み出してきました。しかし、同じところから争いは出てきました。征服をしたいという思いも出てきました。古いパターンが新しい能力によってさらに増幅されてきました。そして、そこには制約が働きませんでした。
(第二次大戦中の)ほんの数年の間に6000万人ものたちが亡くなりました。男性、女性、子供達。私たちと全く変わらない人たちです。撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせられ、拘束され、またはガス室に送られ亡くなりました。

世界中にはこの争いを物語るところが沢山あります。慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、様々なことを示しています。空っぽな収容所などが、そういうことを物語っています。
しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。私たちの考えや想像、言語、道具など、私たちが自然とは違うということを示す能力、そのものが大きな破壊の力を生み出しました。
だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。例えば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。
・・・中略・・・・
アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのは決してアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。例えば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは争いは望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。この未来こそ、最悪の未来の夜明けではないということを、そして私たちの道義的な目覚めであることを、広島と長崎が教えてくれたのです。(終り)

さて今日の挿し絵代わりの写真はどうしましょうか?オバマ大統領の写真を出そうと思いました。
しかしそれをオバマさんは喜ぶでしょうか?オバマさんの写真はマスコミに溢れています。そこで私の感謝の気持ちを込めて自分で撮ったあやめの花の写真をお贈りしたいと思います。数日前に東村山氏の北公園で撮ったものです。

オバマさん、本当に有難う御座いました。オバマ大統領の広島訪問を絶賛いたします。








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「やがて消えゆく運命にあるタチアオイの花の写真」

2016年05月27日 | 写真
毎年、5月の下旬になると見事なタチアオイが沢山咲いている畑があります。色合いもいろいろで100本以上のタチアオイが咲いています。
そこは村山貯水池に近いある農家の庭先でした。
しかし数年前から農家が消え洒落た一戸建ての家が並ぶようになりました。それでもタチアオイの咲いている畑だけは残り毎年綺麗に咲いていました。
ところが昨日、例年通り写真を撮りに行きましたら、その畑が荒地になり僅か10本位のタチアオイが咲いているだけです。
誰も世話をしてないようです。昨年まで咲いていたタチアオイの幾つかだけが生き残り花を咲かせているようです。
来年はもう住宅地になり、私を楽しませてくれたタチアオイは消えてしまう運命にあるのでしょう。何となく寂しい思いをしながら写真を撮って来ました。お送りする写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。








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伊勢志摩G7参加国のなかの日本の特異性

2016年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
伊勢志摩サミットG7は今日共同宣言を出して2日間の会議を終了します。
この会議は連日、日本のマスコミ報道に盛んに取り上げられているので皆様いろいろな感想や感慨をお持ちのことと存じます。
自由民主主義を掲げた7つの主要国が結束して世界をリードして行うという意図です。
これに対抗する勢力はクリミア半島併合で主要国サミットから除名されたロシアです。
そして中国は発展途上国を含めた20ケ国の会議をG20と称して9月に中国の杭州で開催します。いずれも自分達の国際社会における勢力拡大を狙った政治活動です。
従ってG7やロシアやG20の内容と国際社会への影響に関してはいろいろな議論と評価があります。
今日は政治的な問題は抜きにしてG7に参加している国の文化の相違について自分の個人的な感想を書いてみようと思います。
昨日、参加国7つの首脳がそろって伊勢神宮を参観したことです。
日本は神道・仏教国で他のアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアはキリスト教国です。宗教が現在、どれだけ信じられているかは別にして日本だけその文化の基盤をなしているのが神道と仏教なのです。明治維新以前は神仏習合で神道と仏教は融合していたのです。
このように文化的な基盤をみると日本だけ違うわけです。その上、今日は省略しますが日本の自由民主主義も他の6ケ国とは相違した発展の歴史があるのです。それを「日本の特異性」と呼ぶことにしました。
安倍総理が日本の文化を各国首脳に理解して貰おうとしたのです。その姿勢は高く評価すべきです。ただ欲を言えば伊勢神宮ではなく法隆寺か唐招提寺にして貰いたかったと思います。
安倍さんは仏教はインドの宗教で神道こそ日本独自の文化だと考えたのでしょうか。
玄奘三蔵法師という中国人が教典をインドから背負って来て、日本人はそれに深い影響を受けたのです。ですから伊勢神宮と法隆寺の両方を見学して貰いたかったと思います。
広島へも行かねばならない日程の忙しさを思うと仕方が無いとも思います。
広島の原爆投下の資料館は日本にだけある展示館です。そこをオバマ大統領が参観し、核兵器廃絶に関する演説をすることになっています。
これも画期的なことです。日本人として素直に喜びたいと思います。
さてG7の国々は政教分離の原則を固く守っています。ですから伊勢神宮訪問は文化的な行事として行います。ですから神殿の前で安倍さんも他の6つの国の首脳も手を打って拝むことはしませんでした。
いろいろな政治家がバチカンを訪問しても宗教活動とは見做されないとと同じです。
文化と言えば神道や仏教だけではありません。日本にはいろいろ美しい伝承や風習もあります。
一つだけ取り上げてみます。夫婦の間に女の子が生まれると桐の木を植える風習があります。地方によっては違うかも知れませんが、その桐の木と娘が大きくなり、娘がお嫁に行く時、この桐が大切な役目を果たすのです。両親は成長した桐の木を切って桐の箪笥を作るのです。嫁入り道具にするのです。
下の1番目の写真に普通の桐の花の写真を示します。

そして2番目の写真は材質の良いと言われている桐の木の花の写真を示します。

3番目の写真は昨日撮った桐の木の全体の写真です。

このような風習があるので桐の木を見ると女の子の赤ん坊を連想します。そして両親の嬉しそうな顔を連想します。
日本の文化にはこんな些細なことも含めて奥が深いのです。
忙しいとは思いますが、G7に参加した首脳達がこれを機会に日本の文化に興味を持ち、今後も理解を深めるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「今年もあやめが美しく咲く季節になりました」

2016年05月26日 | 写真
あやめと言えば潮来のあやめ祭りを思い出します。何年か以前に霞ヶ浦を船で渡り一面に咲く潮来のあやめを見た時の感動が忘れられません。
しかし茨城県の潮来は遠過ぎます。近年はもっぱら東村山市の北山公園のあやめ 花菖蒲を見て楽しんでいます。
今日の午後に車を駆って行って来ました。
あやめの花々がまぼろしのようにに美しく風に揺れていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。








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皆様のコメントで判った自分の間違い、自虐史観などなど

2016年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
2007年11月からブログを書いています。その上、趣味人倶楽部などのSNSへも記事を掲載しています。
長い間書いていると皆様からいろいろなコメントを沢山頂きました。
頂いた多くのコメントのお陰で自分の間違いがいろいろ判りました。そして自分の考えが変わった部分も多くあります。
考えてみると戦前生まれ、戦後育ちの私は「日本軍の残虐行為」を繰り返し本で読み、学校では「日本の復興」に邁進せよと教わりましたした。そして大学の工学部を卒業した後は、「欧米に追いつき追い越せ!」というスローガンのもと日本の工業技術の向上に協力してきました。
戦勝国のアメリカは日本を6年間占領し統治しました。日本人は間違った戦争をした。負けたのは自分が悪かったからだ。日本民族は劣等民族だ。こんな傾向の教育を受けたのです。これが自虐史観教育というものだそうです。
そのような趣旨のコメントを沢山頂きました。
その結果、私の史観が部分的に変わりました。日本人だけが残虐で悪い民族だという考えが間違っていると判りました。
しかし朝鮮を併合し満州を作ったことは倫理的に望ましいことではないと現在でも信じています。
日本人だけが残虐で悪い民族だという考えの間違いが判ったことで、私は劣等感から解放されました。
朝鮮併合や満州立国は倫理的にはいけないことだという考えは私を静かな気持ちにしてくれます。
これら全ては頂いた多くのコメントのお陰です。感謝しています。
しかし「欧米に追いつき追い越せ!」というスローガンは80歳になった現在の私の心の底に棲みついていたのです。
5月23日に、「欧米人に自慢したい日本の文化(1)お盆での死者との交流」という記事を掲載しました。そうしたらある方から以下のようなコメントを頂きました。
・・・「こんなに日本は素晴らしいだぞ! お前たち、こんないい文化を知らなかっただろう」は「上から目線」は嫌われでしょう。・・・
このコメントには驚きました。「上から目線」は心外です。しかしよく考えてみるとこの連載の主題の「欧米人に自慢したい日本の文化」は「欧米に追いつき追い越せ!」というスローガンの結果として出て来た題目でした。それは上から目線ではなく欧米は優れているという偏見の裏返しだったのです。
その上、ある方からは以下のようなコメントも頂きました。
・・・古いカソリックのメキシコやスペインのは、とても豪華で、明るい。外も家庭内も。墓地もお花で精一杯飾ります。・・・死者を明るく迎えて、一緒の時間を楽しむようです。・・・ドイツで教えられました。教会の中に、ローソクに火を付けて立て、その明かりが現世の自分と、死んだ友達や先祖を結びつけてくれる。死者は生きている家族や知人を守っていてくれているんだと。・・・
このコメントはやんわりと「あまり自慢しないように!」と教えています。
そこで私は「欧米に追いつき追い越せ!」というスローガンは捨てることにしました。それは貧しい心です。恥ずかしいです。
その結果この連載は1だけで中止することにしました。
その他、頂いたコメントのお陰でいろいろと私の考え方や感じ方が変わりました。
あまり長くなるので今日はこのくらいで終わりに致します。

コメントを下さいました皆様へお礼の気持ちを込めて、今日は小さな薬草の花々の写真をお贈りいたします、
5枚の写真の花の名前は1番目の写真から順々に次の通りです;ヒルザキツキミソウ、ジギタリス、八重のドクダミの花、タンジソ、マメ科のヒロハノレンリソウの5種類の花です。昨日、都立薬草植物園で撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








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「睡蓮とウツギと山ボウシの花が美しく咲く季節になりました!」

2016年05月25日 | 写真
先程、小平市にある都立薬用植物園で撮って來ました。季節の移ろいは早く、もう初夏の花々が美しく咲いています。スイレンの花の写真3枚とウツギの花とヤマボウシの花の写真を1枚ずつ順々にお送りいたします。








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伊勢志摩での先進国首脳会議、G7開催を喜ぶ

2016年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦で完膚なきまでに負け、荒廃した日本を見た老人の私はサミットの会議が開催される度に嬉しく感じます。
荒廃しきった日本の復興に国民が心血を注いで努力してきたのです。その結果、1975年の第1回先進国首脳会議で日本がメンバーとして参加したのです。
このとき程嬉しく感じたことはありません。敗戦で地の底に落ちた日本が再び復興し主要な先進国としてみとめられたのです。
この先進国首脳会議の第一回の会議の参加者は、以下の通り6ケ国の首脳達でした。
ヴァレリー・ジスカール・デスタン(議長・フランス共和国大統領)
ジェラルド・フォード(アメリカ合衆国大統領)
ハロルド・ウィルソン(イギリス首相)
ヘルムート・シュミット(西ドイツ首相)
三木武夫(日本国内閣総理大臣)
アルド・モロ(イタリア首相)
この進国首脳会議にはその後カナダが加わりG7となります。そして一時、ロシアも加わった時期もありましたが最近は7ケ国のG7に戻っています。
会議の開催地はフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回りで開催されます。
今回の伊勢志摩での会議は42回目です。
今日の記事ではこの会議の国際的な役割や影響を議論しようとしていません。それは皆様からのコメントにお任せいたします。
私は第二次大戦による大日本帝国の軍隊の壊滅と全ての都市の焼失を知っている者として先進国首脳会議への深い感慨を書いてみたいと思います。
現在のG7のメンバーはフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダです。
この7ケ国は第二次大戦の時は2つに別れて戦ったのです。
日本とドイツとイタリーが枢軸国として、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、(そしてソ連と)と死闘を繰り広げたのです。
イタリーは早々に降伏しましたがドイツはモスクワ近くまで攻め込んだのです。日本は中國との戦争に引き続き真珠湾攻撃をしてアジア諸国を占領したのです。
この人類未曽有の大戦争が1945年に終結すると、今度はソ連と中共にに敵対するアメリカ、イギリスなど資本主義諸国との間の冷戦が厳しくします。
その30年後の1975年に先進国首脳会議が始まったのです。
1991年のソ連の崩壊によりロシアは民主国家になり一時、先進国首脳会議へ加わったのです。しかしその後ロシアはアメリカを主にする西側に激しく対立します。その結果、ロシアは参加資格を停止され、再び7ケ国になったのです。
そして1990年頃から中国経済が急成長し。そのGDPも現在、アメリカについで世界2位になっているのです。
これに平行するように中国は南沙諸島に軍事基地を作り太平洋へ進出し始めました。
このような国際情勢の変化を受けて先進国首脳会議、G7はどのような役割を担うのでしょうか?
この先進国首脳会議、G7が間も無く伊勢の志摩で開催されるのです。どのような議題がどのように議論されのか見守りたいと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は主要国首脳会議の第一回会議がフランスで開催されので、それにちなんでフランスの街路樹のマロニエの花の写真をお送りします。

なおマロニエの花の背後の建物は、ラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれ、1900年に開催されたパリ万国博覧会のワインのパビリオンを模して山梨県の清春に再現されたものです。清春のラ・リューシュは画家の共同利用のアトリエになっています。
余談ですが、パリのパビリオンはその後、モンパルナスに移築されてアトリエに改装され、通 称ラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれました。若き日のシャガール、スーチン、モジリアニなどの巨匠たちが住んでいた所として有名であり、現在はパリ市の記念建築物として保存されています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
主要国首脳会議とは;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E5%9B%BD%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0
発足時の名称は「先進国首脳会議」。
冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。これらのトラブルによってアメリカで、西側諸国(ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本)の財務大臣級が集まり、経済的課題を討議する会議「ライブラリーグループ」がまず生まれた。
1975年に、フランス大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンはライブラリーグループメンバーに西ドイツを加えた、“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5カ国ではじめての首脳会議を開催し、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国を交代しつつ年に一回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相が第1回会議に乗り込んで来た為、イタリアを加えG6となる。しかし、これでは欧州に偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットでアメリカのジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加したことにより、「G7」となる。以下省略。

その他:
近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。
まず国家首脳として、
中華人民共和国主席
インド首相
ブラジル大統領
メキシコ大統領
南アフリカ大統領
の5名である。2005年から3年連続で参加したが、その後は参加していない。







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欧米人に自慢したい日本の文化(1)お盆での死者との交流

2016年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
地球上には実にいろいろな文化が花咲いています。大別すると東洋文化、西洋文化、中東文化、アフリカ文化、その他になると思います。
この中で私が比較的よく知っているのが日本の文化と欧米の文化です。両方に在住した経験のある私にとっては比較しやすい2つの文化です。そこで今日から、「欧米人に自慢したい日本の文化」と題する連載記事を気楽に書いて行きたいと思います。
自慢したい日本文化は私自身の趣味と好みで勝手に選んだものですから異論がありましても どうぞ寛容にお許し下さい。
第一回目の今日は夏のお盆での亡くなった先祖と家族の交流の風習を取りあげます。お盆になると、家族は亡くなった先祖を家に来てもらい、歓迎し感謝し冥福を祈るのです。そして亡くなった先祖は家に帰ってきて、家族の傍らに立ち、その幸せを祈るのです。
お盆が終わると先祖さまは又彼岸に帰って行きます。
私の考えでは、お盆の風習は欧米人へ自慢したい美しい日本の文化の一つなのです。
一方、欧米人も亡くなった家族の墓詣りをして、故人を偲びます。故人が生き返ってきて話をしてくれることを夢見ます。ですから日本人のお盆の風習を理解出来ます。羨ましいと思うでしょう。それが自然の人情というものです。
それではもう少し詳しく書いてみましょう。
夏になると地方、地方で違ういろいろなお盆の行事があります。先祖の霊を迎え、霊をなぐさめ供養するのです。
ご先祖さまをなぐさめるためにいろいろなお供え物を捧げます。そして盆踊りを楽しんで貰います。青森では佞武多(ねぶた)も楽しんでもらいます。
この世とあの世の行き来の乗り物としてキュウリやナスで作った牛や馬をを飾ります。
迎え火で亡くなった家族の霊を家に迎えます。盆の行事がすむと送り火でご先祖様たちをあの世へ送ります。精霊流しで霊が安らかにあの世に帰るのを祈るのです。
この風習は日本人の優しさの象徴のようなものです。
幻想的で美しい行事がそれぞれの地方でおこなわれるのです。そこで一つの例として「盆踊り」を取り上げてみます。
盆踊りはどんなに騒がしくても死者への捧げものなので一抹の哀愁がこもっているようです。
たとえば激しい踊りの郡上八幡の盆踊りの中にも淋しい曲と所作が混じっています。
私が見たいろいろな盆踊りの中で一番印象深いものは富山県のおわら風の盆です。
踊り手の女性は笠を深くかぶり、絶対に顔を見せません。姿だけの踊りで先祖の霊を供養するのです。男衆の踊りも凛々しく落ち着いたもので、何故か淋しげな表情で三味線や胡弓を弾きます。
通りに面した家々は電燈を消して静かにしています。
ああ、これが本来の盆踊りなのだと感動したことが忘れられません。
その風の盆の写真を3枚お送りいたします。





この3枚の写真の出典は以下の通りです; 富山市八尾町のおわら風の盆:http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2014/08/post-8c8c.html
お盆に行われることは盆踊りだけではありません。
地方によっては「施餓鬼」(せがき)と呼ばれ、餓鬼道に陥った亡者を救ったり、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、道ばたに倒れた人の霊を慰めるなどの風習もこの頃に行われます。
また、盆提灯と呼ばれる特別な提灯を仏壇の前に飾ったり、木組に和紙を貼り付けた灯篭を流す灯篭流しや、提灯を小船に乗せたようなものを川などに流す精霊流しを行う場合もあります。
特に長崎県長崎市では精霊船を曳き、市内を練り歩くのが有名です。
特殊な例として盛岡市では供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われます。
そして私は「精霊流し」という言葉を聞くと、何故か悲しい気持ちになります。悲しい夏の夜の風物詩です。
その風景を2枚の写真で示します。



この2枚の写真の出典は以下の通りです。
精霊流しの写真:http://blogs.yahoo.co.jp/yokohama_crows/GALLERY/show_image.html?id=50643264&no=2
精霊流し夜景:http://community.travel.yahoo.co.jp/mymemo/tass/blog/123614.html

このようなお盆の風習は欧米人にも意味が判ります。しみじみと静かに考えさせます。
欧米では死者はみな天国にいてイエスさまと神様の足元に幸せに暮らしていると信じられています。天上からこの世の家族の幸福を見守っているのです。しかし死者がこの世に降りてきて家族と交流することはありません。
それは最後の審判の時イエスさまがこの世に来て全ての人の審判をするのです。その時全ての死者が復活して生き返るのです。
欧米ではこのように信じられています。
しかし彼等も人間です。愛した人が死んだら、また再び会えるように願うのは自然なことです。日本のお盆の風習はその願えをかなえるかも知れません。ですから私が自慢したい日本の文化の一つです。
お盆の風習は無意味だというような野暮は言わないで下さい。それは一つの文化なのです。

さて人それぞれお盆にはいろいろな思い出をお持ちのことと思います。
お盆の時期は地方によって違います。先祖の霊の迎え方やお供え物も違います。盆踊りも違います。これこそ豊かなローカル文化として、夏の美しい風物詩になっているのです。
皆様のお盆にまつわる思い出をお聞かせ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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自然の景観を生かした宮ケ瀬湖畔の広大な散策公園

2016年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京近辺には規模壮大な公園が幾つかあります。昭和記念公園や水元公園や秋ヶ瀬公園は広い敷地に森や湖があり自然そのままの景観があります。そして昭和公園には霧が吹き出す林があったり、子供の遊戯具も散在しています。その上バーベキューを楽しむ施設やレストランもあります。
いろいろな施設があるのですが、公園が広大で大きな木々が茂っているにで、人工的な施設が目立ちません。
散策していると大自然の中を静かに歩いているような気分になります。
そのような広大な公園が神奈川県の丹沢山系の麓ににもあります。宮ケ瀬湖畔にある公園です。
宮ケ瀬湖の特徴は巨大なダム湖の少し上に広がっている「水の郷」というもう一つの湖があることです。この水の郷は広い回遊式の散策路があり、中心の湖ではカヌーを楽しめます。そしてこの湖の中心には噴水があります。
この「水の郷」こそ宮ケ瀬公園の特徴で、他のダム湖の公園には無いものです。
私共は宮ケ瀬湖に行くと必ずのように「水の郷」の湖の周囲を歩きます。やく2Kmくらいゆっくり歩きます。丹沢の山からはウグイスやカッコーの声がして来ます。晴れ上がった皐月の風が頬をなでています。
それでは一昨日散策しながら撮った写真をお送りいたします。

上の1番目の写真が宮ケ瀬湖と呼ばれるダム湖です。日本では最大級のダム湖で1971年(昭和46年)にダム計画が発表され、2000年に完成しました。

上の2番目の写真が「水の郷」というもう一つの湖の写真です。この湖は湖畔公園のためにわざわざ作った小さな湖で、周囲2Km位の回遊庭園になっています。
この写真の遠方に写っている吊り橋は、全長315mもありますが、これも散歩道の一部としてわざわざ作ったものです。この吊り橋の向こう側の下が宮ケ瀬湖になっています。この吊り橋の上から宮ケ瀬湖を見下ろすと絶景です。なおこの吊り橋の下に宮ケ瀬湖の遊覧船の発着場所があります。

上の3番目の写真はこの「水の郷」にある噴水で高さ30mまで水柱が上がっています。
夏になるとこの噴水の周りでカヌーを楽しみます。

上の4番目の写真は「水の郷」にある小川です。浅く作ってあるので、いつも子供が自由に水遊びをしています。回遊している散歩道の左右にはこのような小川があちこちに流れています。

上の5番目の写真は「水の郷」の周囲2Km位の回遊庭園を走っているロードトレインです。1昨日は歩いて一周した所に丁度停留所があったので初めて乗ってみました。このロードトレインでまた一周しました。トレインの上から見る景観はまた違うようです。のんびりと幼児に返ったような気分になります。
以上が宮ヶ瀬湖の「水の郷」のご紹介です。
ここは四季を通じたイベントも沢山あります。
春は桜祭りや、フリーマーケット。夏はカヌー体験、バーベキュー、花火大会。秋は紅葉を楽しめます。冬には宮ヶ瀬クリスマス、光のメルヘン、バレンタインウィークなどがあるそうです。
しかし私共は静かに散策したいので人の多いイベントは勘弁してもらっています。
静かな広い大自然の中の散策路を楽しみたい方は是非平日に宮ヶ瀬湖の「水の郷」へお越し下さい。湖畔には他にも3つ。4つの公園が散在しています。
詳しくは、https://www.miyagase.or.jp/ をご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
宮ヶ瀬ダム(みやがせダム)は神奈川県愛甲郡愛川町半原と相模原市緑区青山、更に愛甲郡清川村宮ヶ瀬の3市町村に跨る、一級水系 相模川水系中津川に建設されたダムである。湖名は宮ヶ瀬湖(みやがせこ)。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%B6%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0 より)

沿革:
日本で早期から河川総合開発事業が展開された相模川では1947年(昭和22年)に相模ダムが完成し、1970年(昭和45年)には城山ダムも完成した。だが、その後も相模川流域では人口の増加が進行し、上水道や工業用水道の需要は2ダム完成後も供給が追いつかない状態にあった。更に元来氾濫原であった地域への宅地化の進行は相模川の治水安全度を低くし、水害の際には大きな被害が予測されたが堤防の建設や川幅拡幅は用地の取得が困難であった。加えて東海道新幹線や東名高速道路といった日本の大動脈が開通するにおよび、万全の治水対策が求められるようになった。

神奈川県内の相模川水系では流域面積の大きい中津川は、合流点より下流に厚木市などの人口密集地帯があり、特に治水の重要性が指摘されていたことからダムによる洪水調節が計画された。当初は「中津川ダム」として計画されていた宮ヶ瀬ダムは、1969年(昭和44年)よりダム建設のための予備調査が開始され、2年後の1971年(昭和46年)より特定多目的ダム事業としてスタートした。堤高156.0mの重力式コンクリートダム、総貯水容量約2億トンという首都圏最大のダム計画は難航する補償交渉を経て、計画発表から29年後の2000年(平成12年)12月に完成した。関東地方では奈良俣ダム(楢俣川・158.0m)に次ぐ高さで浦山ダム(浦山川・156.0m)と並び、総貯水容量は奥多摩湖(小河内ダム)や奥利根湖(矢木沢ダム)に次ぐ関東屈指の大ダムである。

目的:
ダムの目的は中津川・相模川中下流部の洪水調節、沿岸農地への慣行水利権分の農業用水補給・中津川における河川生態系保全のための河川維持放流を目的とした不特定利水、横浜市・川崎市・相模原市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の90%への上水道供給、直下流に併設された神奈川県企業庁の愛川第一発電所による最大出力24,000kWの水力発電である。

また、ダム湖である宮ヶ瀬湖から相模川、道志川へと水路で接続されている(相模導水)。相模ダム(相模湖)・城山ダム(津久井湖)・道志ダム(奥相模湖)と連携した管理運営を図ることによって、貯めることができずそのままでは無効放流で無駄になっていた水を宮ケ瀬湖で貯水することにより水資源を確保することが目的である。

直下流には宮ヶ瀬ダムから放流した水を調整し、下流への水量を安定化させ急激な増水を防ぐ為の逆調整ダムとして宮ヶ瀬副ダムが建設されている。副ダムは別名石小屋ダムと呼ばれており、県立あいかわ公園の敷地に程近い場所にある。洪水調節の他、愛川第二発電所による水力発電(1,200kW)を行う。

補償:
総事業費は、完成当時にして約3,970億円であり、日本では最大級のダム事業である。1971年(昭和46年)にダム計画が正式に発表されたが、ダム建設によって300戸が水没することから当時より猛烈な反対運動が持ち上がった。これ以後補償交渉は長期化を余儀なくされたが、1977年(昭和52年)3月28日には水源地域対策特別措置法の第9条指定ダムとして指定され、補償費国庫補助の嵩上げ対象となった。

最終的には城山ダム建設時の補償内容と同様に代替地造成による補償内容で交渉は妥結した。移転先としてダム上流部の宮の平地区の他、厚木市宮の里や相模原市に代替造成地を建設。宮ヶ瀬小・中学校を始め公民館、消防施設(倉庫2か所・消防水利10か所)、JA出張所などの公共施設、県道13.5kmの整備等を行い住民・地域の生活再建を図った。なお、清川村・津久井町(当時)・愛川町の3町村で移転を余儀なくされた住民は1,136名である。 ダムの計画発表から完成までの歴史は以下の通りである。


1969年 9月 建設省、「宮ヶ瀬ダム建設計画」発表。予備調査を開始する。
1971年 4月 実施計画調査着手。「建設省関東地方建設局宮ヶ瀬ダム調査事務所」開設。
1974年 4月 建設事業着手。調査事務所を「建設省関東地方建設局宮ヶ瀬ダム工事事務所」と名称変更。
1976年 8月 用地測量のための「一筆調査」が開始される。
1977年 3月 水源地域対策特別措置法の「第9条等指定ダム」に指定される。
1978年 12月 「宮ヶ瀬ダム建設事業基本計画」、官報に告示される。
1981年 8月 清川村と愛川町の水没住民との補償交渉が妥結する。
1983年 1月 津久井町の水没住民との補償交渉が妥結する。
1984年 6月 ダムサイト建設地点の地権者との補償交渉が妥結し、ダム建設に伴う補償交渉が全て妥結する。
1986年 11月 神奈川県企業庁電気局による水力発電事業が計画に加えられ、基本計画変更。
1991年 10月 宮ヶ瀬ダム本体コンクリート打設開始。
1994年 11月 本体コンクリート打設完了。
1995年 1月 宮ヶ瀬副ダム(通称:石小屋ダム)コンクリート打設開始。
10月 宮ヶ瀬ダムの試験湛水が開始される。
1996年 4月 神奈川県道514号宮ヶ瀬愛川線の付け替え工事が完成し、全ての道路付け替えが完成する。
12月 宮ヶ瀬副ダムの試験湛水が開始される。
1997年 3月 宮ヶ瀬副ダムの試験湛水が終了する。
4月 神奈川県企業庁、愛川第一・第二発電所の営業運転を開始する
(水力発電目的のダム暫定運用開始)。
1998年 6月 宮ヶ瀬ダム湖(宮ヶ瀬湖)が満水位に達し、試験放流が行われる。
9月 第53回国民体育大会のカヌー競技会場として宮ヶ瀬湖が選ばれ、開催される。
11月 宮ヶ瀬ダムの試験湛水が終了する。
1999年 4月 城山ダムへ導水する「津久井導水路」の導水事業開始(上水道目的のダム暫定運用開始)。
2000年 12月 宮ヶ瀬ダム・宮ヶ瀬副ダムの工事が全て終了し、竣工する。
2001年 1月 省庁再編により、建設省が「国土交通省」と組織再編される(地方建設局は「地方整備局」と改称)。
3月 道志川の道志ダム(奥相模湖)との間で相互に導水する「道志導水路」の導水事業開始。
4月 宮ヶ瀬ダム・宮ヶ瀬副ダムの運用が開始され、管理業務へ移行される。
事務所名が「国土交通省関東地方整備局相模川水系広域ダム管理事務所」と改称される。

観光:
ダムは完成以後地域の観光拠点としても整備されている。首都圏から50km圏内の近距離にあることから、直下流にある神奈川県立あいかわ公園と共にピクニックなどが行える行楽地として、週末・祝日になると観光客が多く訪れる。国土交通省の相模川水系広域ダム管理事務所は宮ヶ瀬ダムを積極的に開放して、市民へ事業に対する理解と啓蒙を図っている。ダムではインクラインを利用したダム天端と直下部を結ぶケーブルカー(鉄道事業法に準拠する正式な鉄道ではない)を設置し、ダムと下流にある神奈川県立あいかわ公園とのアクセスを促している。また、毎週水曜日と第二日曜日には宮ヶ瀬ダムの観光放流が行われる。高さ100m付近にある常用洪水吐きの2門のゲートから豪快な放流が4分間、1日2回行われる(午前11時 - 11時4分、午後2時 - 2時4分)。この時は放流を見るために多くの行楽客がダムの真下へと訪れる。

宮ヶ瀬湖では夏の花火大会を始め、12月にはクリスマスツリーが湖畔に飾られ、夜にはイルミネーションで彩られる。湖畔の宮の平代替地には水源地域対策特別措置法の補助によって建設された「宮ヶ瀬水の郷」やビジターセンターがある他、早戸川の国際マス釣り場、中津川・布川沿岸のキャンプ場群、ダム下流のふれあい村など多くのレジャー施設が設けられている。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが指定する「ダム湖百選」に、清川村などの推薦で選定されている。なお、ダム完成により清川村はダムによる固定資産税の発生によって財政が回復、地方交付税交付金の交付対象外自治体となっている。
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信仰に入るには宗教に接するチャンスと 修行による良い洗脳

2016年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
毎週、日曜日には宗教のことを少しだけ簡明に書くようにしています。宗教を持たない方々と信じる方々の間に違和感が無くなり、皆が平穏に暮らせるように願って書いています。
宗教は良いものか悪いものか私には分かりません。ですから宗教を薦める気持ちは毛頭ございません。それは人それぞれ自然体で考えるべきもので他人へ宣伝したり強制したりすべきものではありません。ですから今日の文章を気楽に眺めて頂ければ幸いです。ある静かな風景をご覧になるように眺めて、忘れて頂きたいのです。
今日の文章の趣旨は宗教を信じるにはそれと偶然接するチャンスがあることが重要ですということです。そしてほんの少しだけ勉強や修行をすることも重要です。すると自発的に洗脳されます。他人から強制された洗脳ではありません。これを私は良い洗脳と言います。
信仰には、(1)宗教に接するチャンス、(2)修行、(3)自発的な良い洗脳、の3つが偶然そろうことが重要です。これが趣旨です。
しかしこの趣旨は私個人の体験からの結論ですから全く普遍性はありません。自分の体験であり他人の場合は間違った考えかたになると存じます。
それでは私はこの3つのことをどのような偶然から体験したのでしょうか?
(1)宗教に接するチャンス、
まったく個人的なことですが、私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
これが私の宗教に接するチャンスでした。中年になってからカトリックの洗礼を受けましたが、上に書いた偶然お寺の住職の孫に生まれたことが洗礼へと繋がったと私は考えています。カトリックになったのは偶然会ったインド人の若者が毎週教会のミサへ連れて行ってくれたからです。それは全て偶然の重なりだったのです。
考えてみると私のカトリック信仰には仏教の影響を深く受けているのです。それは偶然の重なりの始めが仏教と接する幼児経験だったので仕方のないことです。
(2)いささかの勉強と修行、
これも偶然ですがある時、隠れキリシタンの研究で有名な片岡弥吉さんの本を何冊か読みました。感動して片岡弥吉さんへ手紙を出しました。そうしたらとても温かい内容の長い手紙が返ってきたのです。それがキッカケで隠れキリシタン関連の本を沢山読みました。特に遠藤周作の「沈黙」という本には感動しました。これらの読書が「いささかの勉強」になったのです。
それでは修業とはどういうことをしたのでしょうか?修行とは仏教用語ですが、キリスト教では宗教的訓練と言うようです。
教会に通う、牧師さんや神父さまの話を長時間聞く、巡礼をするなどが宗教的訓練になります。
特別なことはしませんでしたが洗礼を受ける2年位前からカトリックの教会に毎週通ったのです。その延長で1969年の秋にドイツのある小さな町で偶然インド人の若者と知り合い、毎週一緒にミサに行ったのです。
それが洗礼を受ける決心をした最後の修行になりました。
(3)自発的な良い洗脳、
洗礼を受けた後も自発的に毎週45年間、ミサへ行っています。すると不思議な偶然がいろいろと重なって起きたのです。
一つだけ書きます。私共は1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父さまから洗礼を受けました。その時、私の代父をして下さった山本大二郎さんが毎年、何十年も年賀状を下さったのです。その賀状には必ず多摩地方の小さな花の写真が印刷してあったのです。
この何気ない年賀状が私を洗脳してくれたのかも知れません。
そしてこの代父のご子息さんがカトリックの神父に叙階されたのです。その方は山本量太郎神父さまですが、15年ほど前、私共の通っているカトリック小金井教会の主任司祭として着任して来たのです。山本量太郎神父さまは10年間、小金井の主任司祭をしてから本部の教会の主任司祭となって帰って行かれました。しかも、このブログを時々ご覧頂いています。
このような偶然の重なりは一つの例ですが、私が良い洗脳を受ける一つのキッカケになっていると考えられます。

上に書きましたように宗教を信じるようになるためには3つの偶然が重なりあうことが重要と思います。3つの偶然とは(1)宗教に接するチャンス、(2)いささかの勉強と修行、(3)自発的な良い洗脳、のことです。

宗教は良いものか悪いものか私には分かりません。ですから宗教を薦める気持ちは毛頭ございません。
今日の挿し絵代わりの写真は去年の4月に訪問した五島列島の5つの教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、昨年、4月にやっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
そして五島列島という大きな島を巡りいろいろな問題を考えてきました。
ここには古い日本の文化が残っています。しかし過疎化や経済の低迷など現代の問題も抱えているのです。
そしてこの島は遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
現在、五島列島は福江のある下五島を五島市といい上五島は上五島町という2つの自治体になっていて上五島と下五島の人口の総数は約7万人です。
下五島のカトリック信者は人口の約10%で、上五島は25%位と言われています。
たった7万人の住民にたいして50もの教会が存在するのです。


上の1番目の写真は井持浦天主堂です。

上の2番目の写真は堂崎天主堂です。

上の3番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。

上の4番目の写真は頭ケ島天主堂です。

上の5番目の写真は中ノ浦天主堂です。




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風景が変わってしまった、故郷も消えてしまった!

2016年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
あちこちへ出かけて行き美しい風景写真を撮ってブログに掲載するのが私の趣味です。あまり体力もいらないので老後の趣味には良いと思っています。
この風景写真を撮る時に一番苦労するのは高圧電線や、その鉄柱です。それが写真に入ると美しい風景が台無しになってしまうのです。電線は街中の頭上にも縦横無尽に走っています。美しい街の風景も台無しです。
風景写真の邪魔になるものは電線だけではありません。高架の高速道路や新幹線が横切っていて風景の邪魔をします。俗悪なホテルや風情の無い家などが視野に入ってしまいます。
ですから風景写真を撮るときは車を停めて、あちこち歩き回って電線が視野に入らない場所を探します。下の1番目の写真は先日撮った富士山です。電線が無くて、手前に芽吹き始めた木々の見える場所を探す苦労をしました。

このように風景写真を撮っていると、つくづく日本の風景が変わってしまったと思います。
電線や高速道路が風景を変えただけでなく、昔風の家々が洒落た洋風の一戸建てになりマンションのビルになってしまったのです。
都会では古臭い赤レンガのビルが消え、白い清潔な高層ビルが林立し、昔の街の面影がすっかり消えてしまいました。
故郷を離れた人々が久しぶりに帰省してみると故郷の風景の変貌ぶりに驚きます。故郷の風景が消失したようです。
皆様はそのような経験をされたことはありませんでしょうか?
私は戦前に仙台で生まれ、戦後にそこで育ったので、仙台に行く度に故郷が消えてしまったような気分になります。
我がふるさと、仙台が見知らぬ白い街になってしまったのです。
仙台を出て茫々56年。甘い追憶の中の故郷、仙台は消えて失くなってしまったのです。
あれは確か2010年の10月のことでした。久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ったのです。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンが存続していましたが、後は全て消えてしまったようです。
消えてしまったふるさとの街を歩く寂寥感が身に沁みます。
2番目の写真に青葉城跡の高台から見た仙台の風景を示します。

この白いビルの並ぶ風景は見知らぬ風景です。以前の仙台は杜の都と呼ばれていました。大きな街路樹や庭木が昔風の家々を覆っていました。その緑の間から赤レンガの県庁のビルや裁判所のビルが見えるだけでした。
街の風景が変わっただけではありません。子供の頃遊んだ秘密の場所がすっかり変わってしまっていたのです。
昔住んでいた家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。
その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。
そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。
その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。
3番目の写真が立派に改装された瑞鳳殿の写真です。

そしてこの瑞鳳殿は仙台観光の目玉らしく、観光客がゾロゾロと歩いています。
私は何故か悲しくなり、中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったような気分になってしまったのです。
そんな感じ方はまったく理不尽なことは判っています。
家内だけが一人の観光客になって気楽に中に入って楽しそうに見物しています。

しかし一方、自然の景色だけは変わらないで残っている場所もありました。
4番目の写真は仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真です。

この写真の左に写っている高層ビル群は別にして白い断崖のある経ケ峯の風景だけは昔のままです。
そして5番目の写真は現在の評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の上流方向の写真です。

川原に樹木が茂っている風景やその向こうの青葉山は昔のままです。右手の白い住宅は56年前もあった公務員住宅でした。

さて変わったものは風景だけではありません。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
この昔の仙台の名産品は、笹蒲鉾以外、全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か、「それは違う」とつぶやきます。
牛タンは美味しいものです。それは知っています。しかし私は仙台では絶対に食べないようにしています。老人の頑固です。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。
それで地域振興が出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし名産品が変わっていくことが何故か淋しいのです。
そして人々も忙しく変わって行きます。風景も名産品も変わってしまった仙台は私のふるさとは違う気分です。
大袈裟に言えば私の故郷は完全に消失してしまったのです。
しかし私は静かな心でそれを受け入れています。輪廻転生です。
しかも自然の景観だけは何時までも同じです。仙台は良い所だと思います。

皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
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