後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

私の趣味は花の写真を撮り、皆様へお送りすること

2017年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
決して上手な写真ではありませんが、花の写真を撮るのが私の趣味です。花を眺め、写真に撮っている間が楽しいのです。花を植え、育てた人の優しさを想い、幸せな気分になります。
家に帰り、撮って来た写真をほんの少し修正します。色彩は変えません。明るさだけを修正することがあります。端に余計なものが写っている場合は少しトリミングをします。
それから皆様へお送りするのです。
花の写真を撮った場所へ行きたい方々のためにその場所の全体の風景写真も1枚つけます。
場所の名前を明記して、検索すればHPから交通の便が分かるようにいたします。

私が四季折々おとずれる花園は大体決まっています。
都立小金井公園、都立武蔵野公園、三鷹市花と緑の広場、都立神代植物公園、都立薬草植物園、府中市郷土の森博物館公園、八王子市にある都立小宮公園、そしてたまには都立新宿御苑や都立水元公園などです。検索するとHPがあります。
それぞれの場所には季節ごとに特有の花々が咲いています。すべて頭の中に記憶しています。

こんなに花が好きになったのは活け花をしていた妻の影響です。花の名前を教えてくれます。花の特徴や咲く季節などを教えてくれます。それと老境にいたると花と遊ぶ時間がふんだんにあります。
植物や花に関心が向くようになります。人間が枯れてくると植物の気持ちが分かるようになるのです。
下らない講釈は止めます。
昨日、三鷹市花と緑の広場で撮って来た花の写真をお送りします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









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この世の人種差別を少しでも減らす方法と自分が差別されない方法

2017年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「ともえさとこ著、『フランスあれこれ』・・・私の感じるフランスでの人種差別について、その一」という記事を掲載しました。
この記事の要点は2つです。
(1)ともえさとこさんはフランスに40年以上住んでいますが、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けた経験は皆無だったのです。
(2)日本人が欧米人に差別される原因は自分たちがまず先に「白人」に対して差別をしているからなのです。自分たちの方から差別すれば相手も差別します。自分が相手を差別しなければ絶対に差別されません。
この相手を差別しないという鉄則を守っている限り自分は差別されないので悲しい思いをしません。

まあ、以上のような趣旨でした。
この記事はブログやSNSのFace Bookや趣味人倶楽部に同時に発表しました。
それに対して、自分の差別された、されないとは関係なく、この世には絶対に人種差別が存在し続けるという趣旨のコメントを沢山頂きました。従って相手を差別しないという鉄則を守っていても差別されるという趣旨のコメントです。
その上、頂いた全てのコメントはアメリカのキング牧師の公民権運動による黒人差別の撤廃を完全に無視しています。そしてヨーロッパ諸国におけるアフリカ系移民の受け入れや人種差別反対の運動を無視しています。そして第二次大戦以前の欧米の人種差別だけを取り上げています。要するに公平な議論ではないのです。実に偏見に満ちたコメントという感じが致します。

一例を以下に示します
浦野 明人さんからのコメント;
人種差別の問題は、多面的で難しいですね。著者の様な立派な方もおられれば、一方で差別を実際に受けた方々もいます。私もヨーロッパでそのような感じを持った事も有りました。日本人のアジア人に対して過去に行った事も差別です。米国での、特にアフリカ系の人達に対する差別は露骨でした。真珠湾攻撃の日本軍の飛行隊長が、戦後、密かに黒人兵士グループから「よくぞ白人をやっつけてくれた」と言ってパーティーに招待されたとの話も有ります。
フランスが戦後、ドイツの占領下で苦しんだにも拘わらず、再度ベトナムを植民地化しようとして失敗した事例等は、何となく人種差別意識の延長に感じられます。

そして浦野 明人さんは続けます。
・・・日本人がかって中国や朝鮮その他東南アジアの人達にした事また現在も心の中で思っている可能性の有る事も人種差別です。
アメリカで日本人移民の一世たちがされた事、又現在もアフリカ系の人達に対してなされている現実を後藤さんは人種差別とお考えにならないのですか?
どんなに理想論を書いても現実に世界で起きている人種差別をどうする事も出来ません。失礼ですが、後藤さんの様な理想論で納得する人達は少ないのではないですか。
・・・日本国内でも今なお大きな人種差別が有ります。アイヌや部落民問題です。特に後者は現在決して表に出てきませんが、根深いものが有ります。又神戸で知り合いになったブラックアフリカの若い女性は、既に日本に20年位住んでいます。英語や日本語も堪能で、漢字も驚く程知っています。しかし悲しい事にアパート探しがアフリカ人の場合には非常に難しいとのことです。我々はこれらの現実を直視し、認識すべきです。

このような批判はSNSの趣味人倶楽部でも沢山頂きました。

それに対して私は強く反発を感じています。
コメントを下さった多くの方々は人種差別の実例をこれでもか、これでもかと羅列しています。しかし誰一人として人種差別は非常にいけない事だから減らそうと提案していないのです。減らす方法を具体的に提案していないのです。
ですから人種差別の現状を認め、それはどうしようも無いから放置するという姿勢なのです。
そして日本人は欧米人やアジア人を相変わらず差別しても、それを容認しているようなニュアンスなのです。

それに対して今回の記事を書いたフランス在住の ともえさとこ さんだけが差別を減らす方法を具体的に提案しているのです。
「自分がまず差別するのを止めよう!そうすれば相手も差別しない」という方法です。これこそ、ささやかな、しかし貴重な第一歩ではないでしょうか。このように昨日の記事を整理して、再度、皆様からの差別を減らす方法の提案を募集したいと思います。

なお趣味人倶楽部のニックネームさんだけは記事の趣旨を正確に理解し、ともえさとこさんの書いた記事へ力強く支援するコメントを投稿して下さいました。記して謝意を表します。

挿し絵代わりの写真は今しがた三鷹市花と緑の広場で撮ってきたものです。




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細川呉港著、「花人情」(愛育出版)のご紹介

2017年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
花のお好きな方に良い本です。無名の人々の清らかな生き方に興味がある方に良い本です。それが『花人情(はな、ひと、なさけ)』という題の新刊書です。著者は細川呉港さんです。

私は以前に『美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆』という小文を掲載しました。先日の2月11日のことです。
この小文は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本の紹介でした。
そして2月23日の記事では、同じ細川呉港さんの『桜旅』(愛育社出版)という2016年4月11日出版の本もご紹介しました。それもネットで簡単に購入出来ます。1800円です。

さて今日は同じ著者の新刊書、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版刊 1,600円)をご紹介いたします。

まず細川呉港さんから頂いた本の説明文をご紹介いたします。
・・・人間、歳をとり、六十を過ぎ、七十を過ぎると、いままで気がつかなかったことでも、見えてくるものがあります。人生の節々で出逢った人と、 思いがけず再会する。そうしたときは本当に嬉しい。今から思うと、若いときの大人げない行動が、とても恥ずかしく思える。あの時こうしておけばよかった。あの時が人生一番輝いていた――。そうしたことは、多くの人たちに共通の思いではないかと思います。
歳老いて、自分を支えていくものはなにか――。団塊の世代が定年を迎えて久しく、彼らは今、何を考え、どんなことをしているのでしょうか。そうしたことに、私のささやかな、生涯体験がお答えすることができればと思います。オビに「伝えておきたい人生の味。問わず語り、生きてきてよかった」としました。常に無名の人の美しい生き方を追い続けています。ぜひ読んでみてください。・・・

この本は細川さんが20年以上にわたって書きつづった随筆を本にしたもので、その目次は下の参考資料に掲載した通りです。

各章の見出しを丁寧に見ると細川呉港さんの人生で会った人々への思い出を書いているのが分かります。昭和時代の雰囲気が立ちのぼっています。そしてその中に必ずのように花や植物のことが書いてあります。

細川さんの文章の特徴は一直線ではありません。その主題の一直線から脇道へ、そしてその先の小道や路地へ彷徨うのです。そして小道や路地で会った人々の印象深い生涯を紹介します。自分の生き方を見つめ直します。そしてしばらくして主題の一直線に戻ってくるのです。
まるで一見無駄のように見える脇の小道や路地を熱心に歩き、その風景や心象風景を描いているのです。
下に紹介した26の各章は独立した作品です。どの章から読み出しても良いのです。

それぞれが美しい人生だけを描いているだけではありません。人生の陰や宗教とのかかわりも書いています。内容が深いのです。
例えば、第19章「京都大徳寺大仙院の青年僧」では単に禅宗の教えだけを紹介しているのではありません。
一人の弁舌の巧みな青年僧が大徳寺のある塔頭で観光客相手に感動的な説明をしています。聴衆が緊張して聞き入っています。
説明では禅宗の教えは「その時その場を懸命に生きる」というものだと話しています。これが第一幕の場面です。
舞台は急に変わって第二幕は上野の花見の雑踏の中でこの同じ青年僧が数人の花見客を集めて説法をしています。
すると中年の男が青年僧に問いかけます。
「あんたは、一生懸命生きている?」、、、「あんたは、無心になったことある?」。
青年僧は「ええ、私は禅の修行を何年も。比叡山にも」と答えます。
中年男、「無心になった男が、こうやって東京まで出て来て、みんなに説教をしている?」・・・「私だったらそんな若さでは説教なんかできない」と言うのです。青年僧は絶句し、京都に帰ります。
そして第三幕はそれから数十年後の上野の櫻花の下を著者の細川呉港さんが歩いている場面です。そして昔、ここで恥をかいた大徳寺の青年僧のことをあれこれ想い出している場面です。青年僧の生き方が正しいのか、間違っているのか書いていません。恥をかかせた中年男が礼儀を失したとも書いていません。全ては読者の心に任せています。
そして最後にこの青年僧は尾関宗園といい、後に有名になり沢山の生き方に関する本を出していると紹介し、この章を終わっています。

このように各章は一つの独立した物語になっています。それぞれが偶然会った人の生涯が簡潔に書いてあります。しかし清らかな生き方はどのようなものかを深く考えさせるのです。理想の人生とはと考えさせるのです。
こんなことが書いてある本が細川呉港氏の『花人情(はなひとなさけ)』という本です。

だれでも老境にいたると自分の人生を振り返ります。そのような方々にとって非常に参考になり、そして考えさせる本です。お薦めします。

今日の挿し絵代わりの写真は小さく可憐なサクラソウの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)細川呉港著、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版刊)の目次
○〈まえがき〉  
人生、「めぐり逢い」こそすばらしい、            
この広い世の中、あなたは何人知り合いがいますか。   

1 台湾の田舎の畦道で出会った世にも不思議な体験
     時空転移装置が働いた瞬間
2 人生で一番すばらしかった授業
     四十年後に解けた老教授の疑問
3 曼珠沙華の想い出
     秋祭りの最中に突然消えた彼女
4 山吹の花は咲けども
     学費値上げ闘争のころ。初めての機動隊学内突入 
5 わが青春の旅立ち
     ブラジル航路の最後の移民船が、私の青春の始まり
6 キューバの日系一世たち
     世界の果てで生きる明治生まれの老人たちが、どうしても私に伝えたかったこと
7 連れ出された旅と楷(かい)の樹
     中国山東省曲阜から持ち帰られた樹の種子が、やがて日本中に――思想を伝える樹
8 白いエンジュの花の雨 
     『紅楼夢』の舞台で出合った女詐欺師
9 タイ、丘の上の高級リゾート・ホテル
      ブーゲンビリアの垣根の中の夢と現実
10 錦木を持つ男 江戸時代にもてはやされた悲恋物語
11 向こう三軒隣組 日本的お隣との付き合い方
12 「鉢木(はちのき)」と「佐野の船橋」 能や謡曲に出てくる恋の浮橋
13 ツキヨタケの陰謀 吾こそはキノコ博士と自慢した男の「死」
14 大伴旅人と「鞆の浦」の、むろの樹
      古代から現代まで、わけありの男たちが忍んだ隠れ里
15 幸田露伴『五重塔』の十兵衛と倉吉
      幸田文の娘の情操教育は成功したか
16 人は何によって生かされているか
      サギソウの保存運動五十年から得たもの
17 北向き観音と愛染かつら
      信州、別所温泉にある桂の大樹と碑林
18 人間の夢のユートピア
      富と権力を手に入れた者が最後につくる庭園
19 京都大徳寺大仙院の青年僧
      「その時その場を懸命に生きる」禅宗の教え
20 松の人格   三十年来の友人が隠していたもの
21 折口信夫(釈迢空)、葛の花は壱岐島か熊野古道か
      地元を巻き込んで論争が続く名歌の謎
22 土屋文明とふるさとの柿の木
      歌人として名をなしても生涯帰れなかった故郷とは
23 柚子の木の夢
      残り少ない人生なのに、返してもらいたい騙された七年の歳月 
24 レバノン杉の教訓
      メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ、古代文明を支えた樹(香柏)
25 月見草の歌  サラリーマン哀歌--美しい花も人によっては単なる雑草
26 オバマが広島にやってきた 戦争は、かぼちゃを悲しい野菜にした

(2)著者略歴

一〇四四年、広島県呉市生れ。一九六五年、最後の移民船でキューバへ。早稲田大学卒業後、集英社に入社。宣伝部、雑誌編集部、つくば科学万博副館長などを経て学芸図書編集部長を最後に定年。中国担当として長年中国を取材。財団法人一橋文芸教育振興会など歴任後フリー。著書に『桜旅』愛育出版、『紫の花伝書』中国書店、『草原のラーゲリ』文藝春秋社、『日本人は鰯の群れ』、『ノモンハンの地平』光人社、『満ちてくる湖』平河出版など。他に『バイコフの森』『台湾万葉集』集英社、などの編纂もある。東洋文化研究会の運営は三十年になる。

『花人情(はなひとなさけ)』は四六上製本、366ページ。大活字を使用しています。愛育出版発行。(☎03-5604-9431 FAX03-5604-9430)
 ご希望の方はアマゾンでお求めになるか、東洋文化研究会の事務局へchio4613@jcom.zaq.ne.jp のメールで申し込んでください。
なお、細川呉港の前作『桜旅』、『草原のラーゲリ』も、東洋文化研究会の事務局でも販売、発送のお手伝いをしています。




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ともえさとこ著、「フランスあれこれ」・・・私の感じるフランスでの人種差別について、その一

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで過ごす年数は日本に住んだ年数の3.6倍になるということに最近気がついた。しかし、この40数年、一度も人種差別を受けたことがない。前にしばらくパリで仕事をしていた時、私のマネージメント会社で出会う日本人の仲間は、よく「人種差別された」「日本人だからと言って馬鹿にされた」と言っていた。私にはどうしてもそれが納得できないのであった。また、仲間たちからは私が人種差別を受けたことがないということは「フランス贔屓」と見られていたのだと思う。
私は決してフランス贔屓ではないし、住めば住むほどフランスの悪い点が見えてきている。ただ、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けたという経験は皆無なのだ。もちろん、郵便局や店、カフェその他で嫌な扱いを受けたことはあるが、それは私だけではない。係りの人がそういう対応をするだけで、フランス人も同じところで同じようにぶっきらぼうで不親切な扱いを受けるのである。最近は役所や郵便局なども応対が随分と親切になり、感じが良くなったが。

日本人だから、フランス人でないから嫌味を言われたとか無視された、とかいうのは視点が違うからなのではないかと思う。肌の色や国籍など関係なく、ただその嫌味を言ったり不親切である人が馬鹿なだけだ。それを自分が日本人だから、「黄色人種(もう死語に近い)」だからと言うのは、思い込みに過ぎない。一種の被害妄想ではないかと思ってしまう。
アフリカ出身の人たちや北アフリカ系の人も「人種差別を受けた」と言うことがある。しかし、よく話を聞いてみると、結局は自分たちがいわゆる「白人」に対して差別をしているのだ。日本人もそうやって自分たちの方から差別をしているのだろう。ただの人間同士のこと、と思ってしまえばそれだけである。人間の馬鹿さ加減の表れの一つが「人種差別」という考えではないか。とても残念なことだ。
ある日、夫の会社で仕事をしていたグアドループ島出身のフランス人で、もちろんブラックの長身の子とノルマンディ出身の子が、我々の村で極右翼で知られているカフェに行った。そして、カウンターでブラックの子は「小さい白(白ワイン一杯)」、ノルマンディの子は「コーヒー。大きいカップでブラックで」と大声で頼んだ。カフェにいた人は、全員どっと大笑いしたそうだ。もちろんレイシスト(人種差別主義者)で有名なオーナーも。

1990年から1991年にかけてパリ・ダカールラリーに日本チームのレポーターとして初めて行った。このラリーには一日休息日というのがあり、一行はアフリカのニジェールのアガデスという町でその休息日を過ごした。飛行機で移動していた我々はその町で3日ほど滞在したが、その時のこと。この年は日本のパイオニア社がスポンサーをした最後の大会だったが、私のチームの広報担当がパイオニアの人たちに会わなければならなくなった。しかしどこに泊まっているのか分からない。色々な用のため、チャーターしておいたボロのピックアップをサハラの遊牧民であるトゥアレグ族の人たちに運転してもらい、住民たちに聞きながら町を走り回った。私と彼らはフランス語で話すが、もちろん彼ら同士はアフリカのタマシェク語で話す。突然「ナサラ」という言葉が耳に入った。何回もサハラを車で横断したことのある夫から、トゥアレグ族は西洋人のことを「ナサラ」(語源はナザレト人、つまりイエス・キリストで、キリスト教徒を指す)と呼ぶということを聞いていたので、「え?ナサラじゃないよ、黄色いよ」と声をかけた。それが大受け。爆笑は長く続き、その後も彼らは私の言った言葉を繰り返して笑っていた。彼らは日本人も肌の色が黒くないから「ナサラ」だと思っていたのだろう。

翌年の1992年には日本のNECがスポンサーとなったパリ北京ラリーというのがあり、オーガナイザーはフランス、オーガナイザー会社の社長は日本人だった。まだロシアと中国の国境が閉鎖されていた時でもあり、そこを通れるということで多くの日本人ドライバーが参加した。私はオーガナイザーの通訳として参加したわけだが、通訳に留まらず、特に日本人エントラントのお母さん役もやった。毎晩日本からのチームを周り、話を聞いたり、クレーム処理もしていた。ある日ビバークを回っていると、ある日本チームの人たちが「本当に日本人を馬鹿にしている」、「移動レストランの奴らは怪しからん」と言っている憤慨の声が聞こえてきた。彼らに話を聞いてみると、大テントの下に設けられたセルフサービスの係りが彼らに嫌な態度を示すと言う。レストランの人たちは全員ボランティアでバカンスの代わりにラリーに来ている人たちで、私も良く知っている人たちばかりである。変だな、と思いながらレストランサービスのボスにその話をした。彼も不思議そうだった。その翌日、係りの人たちに聞いてみると、「ああ、あいつら、失礼なんだよな。挨拶も全くなし、口もきかず礼も言わない。ただ、皿を我々の前に突き出すんだ」との答え。分かった!つまりはコミュニケーションの不足なのであった。日本では何か店て買う時も、切符を買う時も、「こんにちは」または「こんばんは」と言わないし、「ありがとう」とも普通言わないが、フランスでは買う方も挨拶しお礼を言うのが普通なのである。そのことを彼らに説明し、日本人エントラントたちに礼儀は徹底させると約束した。もちろん日本の人たちもちゃんと理解してくれ、その後はすべてうまく行った。言葉が通じなくても、出来なくても構わない。フランス語が出来なければ英語でGood evening 、Thank youでもいいし、日本語で「こんばんは」「ありがとう」であとは笑顔と態度でコミュニケーションを図ればいいのだ。レストランの人たちは日本人だからと言って差別をしていたのではなく、彼らの横柄と感じられる態度に反感を持っていただけだったのだ。

レイシスト(人種差別主義者)たちに対してはユーモアやジョークで応え、コミュニケーションの問題に対しては誰かを通じて解決すればいい。文化の違いは確かにあるので、感情が行き違いになることはあるだろうが、それは決して人種差別ではないと思う。
心底から人種差別を信条としている人もいることではあろうが、非常に少数だと考えている。
(続く)
==================================
後藤和弘による後記;
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスに在住の、ともえさとこ さんに随筆をお願いしました。彼女とはFace Book を通うして知り合いました。私の掲載する記事に何度も素晴らしいコメントを下さった方です。私の記事の趣旨を正確に理解し、実に的確な、そして建設的なコメントを下さいます。
少女時代に短歌に親しみ日本の文学や唐時代の漢詩などにも精通しています。文学だけでなく社会問題や国際政治など幅広い話題に客観的で公平なご意見を頂けるのです。それも独自の意見も添えてです。
その上、文章が美しい日本語です。女性としての魅力に溢れた文章です。まさしく才媛です。
以前からこの欄へのご寄稿をお願いしょうと思っていました。しかし、あまり素晴らしい方なので原稿の依頼を逡巡していました。
今回、思い切ってお願いしたところ快く引き受けて下さいました。これから何回か原稿を頂けそうなご返事を貰いました。
ともえさとこ さんは高校を卒業されフランスに移り住んだ日本の方です。フランス人と結婚し子供さんや孫たちに囲まれた幸せな生活を送っています。
さて今日の随筆は人種差別という重い話題です。この随筆の内容に同感し感動を覚えます。特に以下の一文は何度も、何度も読み、私の座右の銘にしたい文章です。
「この40数年、一度も人種差別を受けたことがない」
そして人種差別を受けたと言うのは一種の被害妄想です。そして日本人は自分たちの方から外人を差別するから自分も差別されるのだという趣旨のことを述べています。まったく同感です。
すなわち自分の心が貧しいから悲しい思いをするのです。
私も外国で差別されたことが何度かあります。しかしよく考えてみると自分がまず先に相手を差別していたことに気がつきます。自分の心が貧しかったことに恥ずかしくなるのです。ですから私は差別されたとは絶対に言わないようにしました。言えば自分の恥を広告していることになります。そんな心境になっていると不思議にも差別を感じなくなったのです。
そして育ちの良い人は何処の国へ行っても差別されないようです。そんなことも考えさせる今日の ともえさとこさんの随筆でした。

挿し絵代わりの写真はフランス南部のアルルの街の風景写真とそこでゴッホが描いた絵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





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「今日の日記、暖かい陽気に誘われて薬用植物園に行きました」

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日も気温が18度もあります。陽気に誘われて久しぶりに都立薬用植物園を散歩しながら花々の写真を撮って来ました。
1番目の写真はサンシュユの花です。
2番目の写真はアンズの花です。
3番目の写真はキクザキリュウキンカです。
4番目の写真はバイモ(貝母)です。アミガサユリとも言います。
5番目の写真はボケです。
6番目の写真はミツマタの花です。
7番目の写真はコブシです。
8番目の写真はトサミズキです。
9番目の写真は植物園の裏の雑木林です。
















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ベトナム戦争のある一つの悲劇、そして神の愛

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ベトナム戦争には本当にいろいろな悲劇が起きました。
今日はそのある一つの悲劇と、そして神の愛について書きたいと存じます。
実は私どのもカトリック教会の主任司祭のヨセフ ゴ・クアン・ディン神父はベトナム人でした。
10年ほど続いたベトナム戦争の末、共産党軍が全土を制圧して共産党の国家が成立しました。1975年のことでした。その時、ディン少年は教会の学校に熱心に行っていました。
神学校や教会の閉鎖と弾圧に耐えかねた、ディン少年は1981年のある闇夜に難民船に乗って南の海に逃れたのです。
3日間の難民船の旅の末、折よく通りかかった日本のLPGタンカーに救助されたのです。
そして東京大司教区で神父になったのです。
その後、東京の幾つかの教会の主任司祭を務め、2010年に小金井教会の主任司祭になったのです。
ディン神父さんは完璧に漢字の読み書きが出来ます。非常に良く信者の世話をしてくれる優しい神父さんです。そして彼の素朴で強い信仰心が小金教会の信徒の信仰の模範になっています。毎年、洗礼を受ける人が沢山います。
神様はディン少年を愛していました。3日間の難民船の苦難のあとで日本のタンカーを送ってくれたのです。その愛に感謝したディン少年は漢字の難しい日本語を完全に使えるようになったのです。そして東京大司教区の司祭になったのです。
小金井教会に送ってくださったのも神様です。私どもも神の愛を感じています。

昨日はこのヨセフ ゴ・クアン・ディン司祭の叙階25周年の銀祝に盛大なミサがありました。ミサ後に楽しい祝賀の野外パーティがありました。
それでは昨日撮った写真に従ってもう少し詳しく書きます。

1番目の写真は聖職者が祭壇の上に並んでミサが始まる場面です。説教台のすぐ右がディン神父さまです。そして時々ミサを司式してくれたイエズス会の住田神父さまやサレジオ会の吉田神父さまも並んできます。

2番目の写真はミサの中で聖杯を捧げて祈っているディン神父さまです。右隣は助祭の神父さんで、やはりベトナム人でディンというご苗字です。
パンと葡萄酒が聖変化してイエスの体と血になるように祈っています。この後、イエスの体になったパン片を信者の一人一人に手渡すのです。この儀式を聖餐と言います。

3番目の写真はミサが終わって、信者代表から花束を貰った後で挨拶をしているディン神父さまです。

4番目の写真はミサ後の祝賀野外パーティの折の楽しそうなディン神父さまです。この時、神父さまと私の並んだ写真を撮りました。
神父さまは私の肩に優しく手をまわしてくれました。

5番目の写真はベトナムのホーチミン市にあるカトリックの大司教座大聖堂です。聖マリア大聖堂とも呼ばれています。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設されました。

6番目の写真はベトナムがまだアメリカの支配下のあった当時のサイゴンの風景です。

尚、ディン神父さはは6人兄弟の上から2番目で、サイゴン脱出の時は家族を残して一人で難民船に飛び乗ったのです。
日本に着いてから2年ほど徳島県の造船所で働きます。その後品川に移り、日本語を勉強します。そして粕谷神父さまに会います。
この粕谷神父は親身の世話をしてくれ、やがて白柳誠一大司教の面接を受け東京神学院へ入学したのです。東京神学院の初めての外国人の神学生でした。

25年前に東京大司教区の神父として叙階された後はあちこちの教会で主任司祭を務めましたが、信者の面倒をよく見て下さいます。
それにしてもディン神父の波乱万丈の半生を考えると神の愛を感じざるを得ません。よくぞ生き残って日本の神父になられたものです。

ディン神父のご健康と平和をお祈りいたします。

===ベトナムのカトリック========
ベトナムにおけるローマ・カトリック教会の信者は、現在、全人口の約6.87%あると言われています。
17世紀になるとフランスから宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが派遣され、6000人以上のベトナム人に洗礼を授けたと報告した。ちなみにドゥ・ロードはクオック・グーというベトナム語のアルファベット表記を発案し、現在でも使われている。19世紀になってフランスの支配が強まると、カトリック教会は全面的に擁護された。
20世紀後半になって冷戦が深刻になると、社会主義国の北部から逃れたカトリックは多数南ベトナムに移り住んだ。アメリカ合衆国は南部に資本主義陣営の国家としてベトナム共和国を設立し、初代大統領としてゴ・ディン・ジエムが就任した。ゴ・ディン・ジエム政権のもと、南ベトナムはカトリック中心主義を推し進めた。将校や官僚のトップはカトリック教徒が占め、カトリックは土地政策や税制で優遇を受けた。果ては、1959年にゴ・ディン・ジエムは南ベトナムを聖母マリアに捧げることを宣言した。公的な催しの日にはバチカンの旗が翻り、カトリック教会が国で最大の地主となる一方、人口の70%から90%を占める仏教徒は抑圧され、仏旗を掲げることすら禁じられた。
1963年5月には仏旗掲揚禁止に抗議する民衆が射殺されたことを期に「仏教徒危機」と呼ばれる騒乱が発生した。ゴ・ディン・ジエムは戒厳令を出し、仏教寺院を迫害した。抗議の焼身自殺を図った僧侶、ティック・クアン・ドック師の行動に対し、大統領の弟ゴ・ディン・ヌーの妻マダム・ヌーが「人間バーベキューだ」と発言し、ますます宗教間の対立を深めた。この混乱は同年11月に軍事クーデターが起きゴ・ディン・ジエムらが失脚し射殺されるまで続いた。
共産主義政権となった現在では、公式には宗教は否定されているが、それでも教会の活動は続けられている。2007年に教皇ベネディクト16世はベトナムの信徒に手紙を送り、励ました。

大司教区と司教区
ハノイ大司教区
ソンタイ教区、バーリア教区、ハイフォン教区、ランソン教区
フエ大司教区
ダナン教区、ニャチャン教区、クイニョン教区
ホーチミン市大司教区
ミトー教区、カントー教区、ファンティエット教区

上記は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF からの抜粋です。

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「今日の日記、近所の花々の写真を撮りに行きました」

2017年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中は教会のミサに行き、午後から近所に咲いている菜の花、パンジーの花壇、雪柳、ミモザの写真を撮りに行きました。
春爛漫のような日和で、花々が急に咲き出したようです。
皆様お住まいの場所は春の訪れは如何でしょうか?








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キリスト教は何故「愛の宗教」というのか?

2017年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本は人々が意識していませんが仏教の影響を深く受けています。正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭のディン神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要にまります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真はこの季節の花、モクレンの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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甲斐駒岳と八ヶ岳の麓を巡る小さな旅

2017年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の幸せは時間が自由なことです。時間に束縛されないことの楽しさに感謝して毎日を暮らしています。
今週の火曜日と水曜日は寒い雨の日でした。ところが木曜日から急に暖かくなり快晴になるという天気予報でした。
そこで思い立って、甲斐駒の麓にある山小屋に遊び、その足を伸ばして八ヶ岳の麓を巡る旅に出ようとしました。以前に泊まった八ヶ岳ロイヤルホテルに一泊する小さな旅です。
八ヶ岳の清里では清泉寮にも遊びました。清里を開いたポール・ラッシュに敬意を表したいと思い、彼の記念館にも寄ってみました。ホテルの傍に俳優の柳生さんが作った八ヶ岳倶楽部があるので寄ってみました。
そんな小さな旅日記を写真にしたがってご紹介いたします。

1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。中央高速道路の須玉インターを出て日野春の駅を越えると武川町が見下ろせる公園があります。
釜無川が眼下に流れ、その向こうに甲斐駒岳が聳えている場所です。毎回、ここを通るたびにしばし休息します。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓の山林の中にある私の山小屋です。もう40目年以上、足繁く通って来ました。周囲の雑木林に中を意味も無く歩き回りました。猿の群れがそんな私を不思議そうに眺めています。
今回は昨年から溜まった落ち葉を熊手で掻き集めて小屋の庭の掃除をしました。庭に流れる小川の落ち葉も掻き揚げ、川底の砂が美しく見えるようにしました。そして小屋のなかで妻と昼食をすませてから午後に八ヶ岳に向けて出発しました。
途中、山林の中に独りで住んでいる友人の所に寄りました。

3番目の写真はその友人の山荘の庭に咲いていた福寿草の花です。急に思い立って旅に出たので、寄ることを事前に連絡しなかったので生憎留守のようでした。しかし林の中を歩いて行って友人の懐かしい山荘や庭を見て過ぎ去った年月を思い出していました。彼とは随分一緒に遊んだものです。そして山林の中に独りで住んでいる友人の勇気と忍耐に心が打たれています。

4番目の写真は甲斐大泉の展望台から見た八ヶ岳です。ここまでは清春と長坂を通って車で50分かかりました。
大泉は標高1200m位の素晴らしい高原でホテルやペンションや洒落た別荘が散在しています。

5番目の写真は清里の清泉寮の前に広がる牧場です。このような風景を窓越しに見ながらカフェで一休みです。
ここはジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが有名です。それとコーヒーをゆっくり楽しみました。
その後、清泉寮を作り清里を開拓した宣教師のポール・ラッシュに敬意を表するために彼の記念館に寄りました。
清泉寮とポールの物語はいずれ別稿でご紹介したいと思っています。

6番目の写真は泊まった八ヶ岳ロイヤルホテルです。一泊2食付きで1人8000円です。施設が良くて食事も美味しいので山小屋に来たらここに泊まることに決めました。山小屋の泊まるのは厳しいのでもう勘弁してもらうことにしました。

7番目の写真はホテルの窓から見える八ヶ岳の夕暮れです。この窓際に座り、売店で買って来たビールをゆっくり飲むのです。
背後で妻がテレビを見て、「稀勢の里がまた勝った!」と言ってます。横綱になったら落ち着いて強くなったようです。

次の日はホテルを出て俳優の柳生さんが作った八ヶ岳倶楽部を見にいきました。雑木林がとても美しいと言います。
八ヶ岳倶楽部のことは別稿でご紹介したいと思います。
その後はもう一度甲斐駒の麓に山小屋に行き、しばらくその庭や小川の掃除をして遊びました。11時に小屋を出て、一路、帰宅しました。夕方、病院に行く用事があったので。家に着いたのが2時過ぎでした。
この2日間は暖かい春のような日和でした。
このような小さな旅をしながら老境の月日が流れて行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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第51回、「八丈島フリージアまつり 」へのご案内

2017年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
何年か以前に冬の八丈島を独りで旅をしたことがあります。そうしたら天候が荒れ出して帰りの客船も飛行機も欠航続きになりました。
独り旅だったので、島に取り残され心細い思いをしました。その折に島の人々がとても親切にして下さったのです。
その恩返しに八丈島で行われるイベントは宣伝するようにしています。なるべく多くの方々に八丈島を訪問して頂きたいのです。

今日は第51回の「八丈島フリージアまつり」をご案内したいと存じます。
今年は3月19日(日)から4月2日(日)まで開催されます。
八丈富士を望む広大なフリージア畑で、美しい花を無料でつみ取ることができます。
約35万本の黄色、白、ピンク、紫、赤など、色とりどりの愛らしい花に囲まれて、春の訪れをお楽しみ下さい。
フリージアの花の鑑賞と無料つみ取りの他、花遊び体験ワークショップ、島内スタンプラリー、八丈太鼓演奏&体験などのイベントも楽しめます。
詳しくは、http://www.rurubu.com/event/detail.aspx?ID=14176 をご覧ください。

八丈島へは羽田から毎日飛行機があります。また竹芝桟橋から毎日、船旅を楽しめる客船が出ています。島には洒落たホテルや民宿が沢山あります。
それでは1,2,3番目の3枚の写真で八丈島のフリージア畑の風景を示します。






八丈島は想像以上に大きな島です。東に10万年前に噴火で出来た三原山、西に1万年前に出来た八丈富士、そして西の海上には八丈富士の弟のような急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠う過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさだそうです。
八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。

八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
そして忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
そんな楽しかった八丈 島への独り旅の思い出を楽しみながら皆様へも島で撮った風景写真をお送りいたします。

4番目の写真は東の三原山の中腹から撮った八丈富士の風景です。手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

5番目の写真は八丈富士の南西の沖に浮かぶ八丈小富士です。以前は人が住み、小学校もありましたが現在は無人島です。

フリージア祭りの折に、レンタカーで八丈島の全部を巡る旅もたのしみましょう。あちこちに温泉があり、気軽に入浴が楽しめます。
海の風景も雄大です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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あなたはご存知ですか?実に奇妙な庚申塚のことを

2017年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
農村の道を歩いていると道端に石碑が立っていて花が供えてある光景があります。
旅人の安全を守る神様のようです。馬頭観音や道祖神なのだろうと気軽に見過ごしていました。
しかしある時、少し詳しく調べてみようと思い立ちました。
そこで分かったことは道端の石碑には庚申塚とか庚申塔と呼ばれる石碑が多いことです。
旅人の安全を守る馬頭観音や道祖神なら理解出来ますが、この庚申塚は本来旅とは全く関係の無いものです。

この甲信信仰は実に奇妙です。調べてみると、中国の道教の庚申信仰が日本に伝承されたものでした。
その信仰とは人の体内に住む三匹の虫にまつわる俗信です。馬頭観音や道祖神とは全く違うのです。
しかもこの俗信の内容が時代とともに、どんどん変化して行ったのです。
いろいろと検索して詳しく調べてみましたところ、庚申信仰の時代による変化を精緻に学問的に研究した記述がありました。
それは、戸原のトップページ:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/index.html でした。
優れた記述ななので、以下にその一部を転載させて戴きました。

=======庚申信仰の時代による変遷==========-
庚申信仰とは:
今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。“庚申”とは干支(エト)でいう“カノエサル”で、昔、年や日などを干支で記していたとき、60年(日)の周期で巡ってきた。庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)巡ってくるが、その庚申の夜、人々は身を慎み徹夜して過ごしたという。
Ⅰ、庚申信仰とは
 庚申信仰とは、教祖もなければ経典・教義らしきものもない信仰で、今の我々からすると何とも得体の知れない俗信である。もともと中国の民間道教の一つで、その源淵は東晋時代の古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283~363)に記されている『三尸(サンシ)説』によるという。

※三尸説
 『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。抱朴子には、『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』とある。天帝(司令神ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。
 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要、と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為で、これを『守庚申』といった。

※庚申の御遊
 この三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが、はっきりしない。しかし平安時代、宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼んだ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に『中旬はじめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』とあることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の条に、『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の夜と同じである』とあること、その後の史書あるいは公卿の日記などからみて、9世紀末から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。
 宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言の「枕草子」(1000年頃)に、『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟いていたが・・・』(94段)とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。

※庚申待(コウシンマチ)
 この庚申の御遊という形で、一夜を睡らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、「吾妻鏡」にも守庚申の記事が散見され、また.続く室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのであろう。

 この庚申待が一般庶民に広まったのがいつ頃かは不明だが、古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)に『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』とあること、関東地方にその頃の庚申塔が残っていることなどからみて、室町末期(16世紀前半)には一般に広まっていたらしい。

 ただ一般庶民の庚申待には、宮廷貴族のそれとは異なり礼拝対象となる神仏が登場してくる。はじめの頃は阿弥陀仏や薬師如来・文殊菩薩などの諸仏だったが、江戸時代にはいると、それらの庶民信仰を主導した密教僧や修験行者の影響を受けて、仏教系では青面金剛が単独の主尊となり、神道系では猿田彦命へと収斂していったという。

 いずれにしろ、そこでおこなわれる庚申待は、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので、三尸説など影も形もないものに変貌している。換言すれば、庶民の庚申待とは、古くから続いているカミ祀り(カミ祀りは夜おこなうのが本来の姿)・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。

 庚申講の人々は、入浴するなどして身を浄め、庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱えるといった“おつとめ”をおこない、その合間に酒を飲んだり世間話をしたりして夜を過ごした(「長話は庚申の夜に」ともいったらしい)が、完全に徹夜するのではなく、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝にはいったともいう。古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳梁していた悪霊・邪鬼どもが退散するといわれ、すべての禍は去っていくといわれていた。これが今、庚申尊掛軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁でもある。

※庚申の神仏
 今、庚申信仰で礼拝対象となっているものは、仏教系では『青面金剛』、神道系では『猿田彦』というのが大方である。
◎青面金剛(ショウメンコンゴウ) 
 庚申尊としての青面金剛は、室町末期頃に諸仏の一尊として現れ、江戸時代に入って主尊として崇拝されるようになったが、庚申と青面金剛との関係はよくわからない。

1番目の写真は『青面金剛』です。
 青面金剛とは仏・菩薩ではなく、ましてや神でもない。仏教(密教)パルテノンの天部に属する夜叉(ヤシャ)の類である。夜叉とは、ヒンドゥー教にいう荒々しく怖ろしい鬼神だが、仏教に入って帝釈天の使者で毘沙門天の眷属となり北方を護るとされる護法善神で、中国で民間道教と習合して庚申尊となったという(仏教辞典)。
 また雑密経典・「陀羅尼集経」によれば、“大青面金剛呪”という真言陀羅尼を唱えて青面金剛に祈れば、諸病たちまち治癒するという。特に江戸時代に死病として恐れられた労咳(ロウガイ、今の肺結核)は“伝尸(デンシ)病”とよばれ、これの予防・治癒には体内に潜む三尸九虫を駆除する要があり、それには青面金剛に祈ることが肝要とされていたという。この伝尸・デンシが字形・音ともに三尸・サンシに似通っていること、病気治癒に験があるとされたことなどから庚申と混同され、青面金剛が持ちこまれたのかもしれない。

庚申信仰ーーー青面金剛童子像
 陀羅尼集経に記す青面金剛は、一身四手(下手に三股叉と棒、上手に法輪と羂索を持つ)、身は青色、眼は三眼で牙をむき、髑髏を頂く逆立った頭髪や両腕には大蛇がまといつき、足許に邪鬼を踏まえるという恐ろしい姿で、その左右に童子二人を従えるという(中央に青色の主尊、左右に赤色2躰・黄色2躰の五夜叉一組が普通)。

 これに対して庚申尊としての青面金剛はほとんどが主尊の一躰のみで、身は青色と経典に準じるが三面六手と腕が多くなり(一面もある)、中段の2手には弓と矢を持つのが普通で、二童子とともに三猿・鶏などを従えるという違いがある。他に二手・四手・八手などがあるというが、いずれもその忿怒相を以て邪霊を威嚇調伏し、教えに従わない衆生を教化するとされる。ただ庚申尊掛軸での青面金剛が、前に4夜叉を描いているところは経典に忠実といえる。

◎猿田彦
 仏教にいう青面金剛に対して、神道の側から「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である山崎闇斎(1618~82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。
 サルタヒコとは記紀神話で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じることもあるが、サルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことかせ、禍を払う力があると考えられたためとも、別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを叶えてくれる神と考えられたためともいう。ここには、山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を司ると見られていたことを示唆している。

※庚申塔
 今、庚申信仰が残っているかどうかはわからないが、かつて庚申待がおこなわれていたことを証するものに『庚申塔』と呼ばれる一群の石碑・板碑がある。 “庚申”・“庚申待”・“庚申供養”などと刻んだ文字碑、あるいは青面金剛を彫りこんだ石碑で、信州から北の東日本に多いというが、関西でも、注意すれば古い集落の片隅などで時折見かけることがある。
 庚申塔とは、庚申縁起に『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養とは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、云々』とあるように、3年18度の庚申待を続けた記念として立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申講内に目出度いことが起こったのを記念して立てたものなど種々あるという。
 しかし、いずれにしろ庚申講あるいは庚申年を記念して石碑を立てることと、守庚申本来の三尸説とは何の関わりもない。庚申塔とは、縁起に“供養のために卒塔婆を立てよ”というように一種の供養塔ということもできる。その例証として、仏教で三十三回忌を迎えてホトケがカミになったことを祝って立てる“梢付塔婆”(ウレツキトウバ)と同じように、七庚申年を記念して枝先の梢が残る生木を立てる風習もあったという。庚申待が、三尸の虫を云々するというより、先祖の霊を祀る古来からの祭祀習慣の延長上に位置づけられていたことを示唆しているといえる。
 今、残っている最古の庚申塔は、文明3年(1471、埼玉県川口市)の庚申待板碑で、ついで文明15年(1483、東京都足立区)、長享2年(1488、東京都練馬区)が続くという。いずれも室町時代のもので、室町期には庚申信仰が一般に広まっていたことを示す遺構である。
 
庚申信仰ーーー庚申塔

2番目の写真は熊野・那智の庚申塔(左は青面金剛)です。 

そして3番目の写真は伊豆・修善寺の庚申塔)   
Ⅱ、庚申信仰の現状
 庚申信仰は、いろんな変遷を経ながらも庶民の宗教生活になかに根を下ろしていたようだが、大正以降急速に衰えたという。資料によっては昭和30年代頃の農村部には残っていたともいうが、平成の代になった今、昔ながらの庚申信仰はなくなったといっていいだろう。例えば、江戸時代に日本三大庚申とその殷賑さをうたわれた大阪・四天王寺の庚申堂、京都・八坂の庚申堂、東京・入谷の庚申堂についても、大阪・京都の2社は庚申日ともなればそれなりの参詣人を集めてはいるが、東京・入谷のそれは廃絶している。
 庚申信仰を支えたのは同信心の者が集まってつくる“庚申講”だったといえるが、人々の社会的関係と宗教意識が大きく変わってしまった今、都会はもとより地方にあっても宗教を絆とした集まりがもたれることはなくなっている。今、四天王寺や八坂にお詣りする人々も老齢の方が多く、時が経つほど寂れていく可能性がある。
 四天王寺庚申堂・八坂庚申堂など、大阪近傍の庚申堂については稿を改めて記す。
(以下省略)
===================================
以上が中国の道教に由来する庚申信仰が飛鳥、奈良時代に日本に入って来てどのように変化して行ったかの説明です。
信仰の内容が時代とともにどんどん変わって行く様子が興味深いです。そして現在はこの俗信の一種が忘れ去られていくようです。
考えてみると人々の信仰や思想の内容が時代と共に変わるのは仕方がないのです。
そしてある時代に隆盛をきわめた宗教や思想も歴史の闇に呑み込まれて消滅するのです。何か無常を感じます。この世のことはすべて無常なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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最も信頼出来る親日国、タイ王国

2017年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実です。そこでアジアの諸国と日本の関係について考え、幾つかの記事を書くことにしました。
3月10にはインドを取り上げ、「経済力の拡大と善い意味でのアジア主義の薦め」という記事を掲載しました。
この記事の主張はインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と友好関係を推進することが重要だという主張でした。日本の将来の安全を守り、豊かな文化を築くために重要だという主張だったのです。このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼ぶことにしました。

続いて3月13日には中国を取り上げました。その記事は、「中国の経済発展が欧米人のアジア人への評価を改善した」という題目でした。
その記事の主張は現在、多くの日本人が嫌っている中国と友好関係を築くべしという主張でした。
中国とは日中戦争を続け満州国を作ったという歴史がありました。その負の遺産のせいで日中関係は一向に改善しません。
その上に中国は航空母艦を中心にした艦隊を編成し、太平洋を巡航させています。そして南沙諸島に軍事基地を作っています。これらは日本にとって脅威になっています。
そのことを充分知った上で、私の主張はこの軍事的対立を超越して日本はアジアの一員として中国とも友好関係を進めたほうが良いというものでした。広い視野でアジア全体を視ればそのほうが将来の日本のためになるという考えからです。

さて3番目に取り上げる国として私はタイ王国を取り上げたいと思います。何故か多くの日本人が好きで、タイに長期滞在したり移住している日本人が多いようです。
タイは19世紀から始まったイギリス、オランダ、フランスによるアジア地域の植民地争奪戦のなかで唯一独立を守った国でした。正確には日本とタイだけが植民地にならず独立を守ったのです。
そして第二次大戦中は日本の軍事作戦に協力した同盟国でした。

このようなタイの賢明な外交政策も立派なものでしたが、私個人はタイが仏教国としてお釈迦様を大切にしていることに深い感銘を受けています。

1番目の写真は巨大な釈迦像の周りを練り歩いている僧の行列の光景です。この写真も含めてすべての写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD です。
個人的な感じで根拠も薄弱ですが、私はタイの仏教がお釈迦さまの像だけを大切にしているので、日本の仏教より本物だと感じています。
そこで少しタイの仏教をご紹介します。
まずタイの宗教は、仏教(南方上座部仏教)95%、イスラム教4%、キリスト教、他にヒンドゥー教、シーク教、道教などとなっています。
その仏教は上座部仏教であり、それにヒンドゥー教や、精霊信仰を加味した独特の仏教になっていると言われています。
タイの仏教ではヒンドゥー教の神々を神話の産物として位置づけ、信仰の対象にしていません。
タイの寺院では本尊には必ず仏像を配置しヒンドゥーの神々はあくまで装飾の一部としています。
一方、日本のお寺の本尊としては、大日如来や薬師如来や観音菩薩や弘法大師やいろいろな信仰の対象が祀られています。多神教のような信仰内容になっているのです。
タイの寺院の本尊はお釈迦さまだけです。でしから私はタイの仏教は日本の仏教より本物だと感じています。
その他、一生に一回以上の出家の習慣も古い仏教の信仰形態も守っているようです。

仏教のことはさておき日本とタイの経済関係を見てみましょう。
2015年のタイのGDPは約3952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模です。これは日本の九州とほぼ同じ経済規模です。同年の一人当たりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーより遥かに高い反面、中進国とされるマレーシアに比べると大幅に低い水準です。
経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景にした1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録した。
従って多数の日本の企業がタイに投資し、工場を作りました。
その上、タイの人々の人情は日本と似ていて人事管理上のトラブルの少ないことでも有名です。
首都のバンコクはビジネス、文化、政治などの中心として発展しました。世界都市格付けでは41位の都市と評価されているそうです。

2番目と3番目の写真はこのバンコックの写真です。


さてタイの特徴は国民が王様を尊敬していることです。
伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられているのです。王や王妃の誕生日は祝日となり国中が誕生日を祝うお祭り状態となるそうです。国王や王妃の誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られます。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られているのです。。

4番目の写真は王宮の写真です。
その他にタイの風景写真を示します。

5番目の写真はプーケット島パトンビーチの夕暮れです。

6番目の写真は山岳地が広がる北部地方の写真です。

7番目の写真は水田の写真です。タイは世界最大の米の輸出国です。

この記事ではタイの素晴らしところをご紹介しましたが、タイにも問題があるのです。
タイでは政変や軍事クーデターによる政情不安があり、軍による民主化運動の弾圧などが多発しているのも事実です。
現在、反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限しています。
政府によるタイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュース・NHKワールドTV、CNN等の海外衛星放送ニュースチャンネルを切断し、配信させていません。
さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動しています。しかしパタヤ、プーケットなど一部の観光地は現在解除されています。
その他、タイ南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争や周辺の国境線問題において国境紛争などを抱えています。
しかし不思議なことにタイ人はこれらの国内問題が観光事業や日本の工場の企業活動に極力影響を与えないように努力している様子なのです。

このような事情で私はタイ王国を最も信頼出来る親日国と信じているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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瀬戸内海の素晴らしいローカル文化、イカナゴの釘煮と文学

2017年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
早春の瀬戸内海の風物詩、イカナゴの釘煮を今年も頂きました。
友人の鈴木 裕さんの母上が精魂込めて煮たものを送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類がハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてあります。特に解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮です。
毎年、3月になると須磨にお住いの鈴木裕さんが送ってくれるのです。これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という温かい気持ちになり、春の陽に輝く瀬戸内の海の風景が眼前に広がるのです。早春の季節の風物詩です。
このように瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴという小魚を大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化です。瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』です。この地方文化の恩恵を楽しめる幸運に心が豊かになります。

イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。しかし瀬戸内海のイカナゴは特別に美味しいのです。生育中に食べている餌が違うのです。
毎年、瀬戸内海でのイカナゴの解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。

イカナゴのクギ煮と同じものを東京ではコウナゴの佃煮と言います。味がどのように違うのか食べ比べてみると歴然と違いが分かります。
同じ魚ですが全く味が違うのです。
瀬戸内海沿岸の須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因だと断定できます。
断定したといえば大げさですが、交互に東京で売っているコウナゴの佃煮を食べてみると明快に分かるのです。コウナゴにはアンコウの肝やカワハギの肝の美味成分が皆無です。その上、身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。

毎年、3月の早春になると友人の鈴木さんが送って下さいます。彼の母上の味は上品です。その上、生姜や山椒の香りが程良くてなんとも言えない風味があるのです。料理は作っている人の性格を表わすと言いますが優雅で、その上根気の良い母上のお人柄が偲ばれるのです。
2種類の釘煮の仕切りをお庭の葉蘭でしてあるのですがその細かな切り方が本当に丁寧な事に今年も感嘆します。
これこそ瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』なのです。
そして鈴木さんの母上はお正月の初詣でのおりに毎年、須磨の海苔もお送り下さいます。このように伝統文化を大切にするご婦人は素晴らしいと須磨の初海苔を頂くたびに想います。

イカナゴの釘煮がローカル文化であることは、それにまつわる和歌や俳句や随筆をみるとよく分かります。
毎年、いかなごくぎ煮振興協会が主催してイカナゴの釘煮にまつわる和歌や俳句や随筆を募集しています。
そして優秀な作品へ『いかなごのくぎ煮文学賞』を与えているのです。(http://kugini.jp/contest/index_b2016.html )
昨年の第5回目を迎えた文学賞では、過去最多の1410作品が全国43都道府県から寄せられました。

その中から主な作品をご紹介いたします。
第五回 いかなごのくぎ煮文学賞 グランプリ作品

≪ 短歌 ≫
「春暁(しゅんぎょう)の 海に漁火 煌(きら)めきて 茅渟(ちぬ)の浦曲(うらわ)に ●子(いかなご)のくる」 ( ●は魚へんに白)    
                 大濱義弘 さん  72歳 (神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
さながら万葉の一首のような風格を持つ作品です。「茅渟」は大阪府南部の古称で、黒鯛のことを「チヌ」と呼ぶのも、この地名にちなんだものととか。「浦曲」は入江のこと。こうした古語をすんなりと用いた技量に感服しました。

≪短歌≫ 「 くぎ煮炊く 母との会話 味わって 顔知らぬ祖母へ 想いをはせる 」 
                  川野沙綺 さん  高1 ( 神戸市垂水区)
三田 完 先生 講評
くぎ煮を炊く香りを鼻孔で味わいながら、作者はくぎ煮を炊くお母さんとの会話も耳で味わっています。会話の内容は、くぎ煮の炊き方を教えてくれたお祖母ちゃんのこと。この会話のおかげで、炊き上がったくぎ煮の味がふっくらと豊かになります。味がそれぞれの家庭で受け継がれていく-そのことについて書いた投稿は毎年たくさんあります。この短歌もそうした一篇なのですが、未知の祖母に寄せる孫の思いが、くぎ煮の味わいを数段引き立ててくれました。

≪ 俳句 ≫ 「 いかなごを ふくふく育てる 春の波 」     
                        マコッチャン さん  58歳 (神戸市西区)

三田 完 先生 講評
「ふくふく育てる」が、瀬戸内の海の豊かさをみごとに伝えてくれます。春風駘蕩の海原を詠んだ句なのに、口の中にはくぎ煮の味が沸きあがる-まさしくくぎ煮文芸の神髄といえるでしょう。

≪ 俳句特選 ≫ 「 春を告ぐ ほのかに香る いかなごよ 」   
                        さりい さん  高2 (神戸市長田区)

三田 完 先生 講評
温かいご飯の上にくぎ煮を載せたとき、ほのかに香りがたちのぼる。その淡い香りに春を実感する…。これこそ、まさに俳句-日々の暮しのなにげない一瞬に季節を感じ取ることです。

この他にイカナゴに関する随筆もありますが、長くなるので割愛いたします。

如何でしょうか?瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴを大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化ではないでしょうか?瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』と言っても過言ではないと存じます。

1番目の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。
2番目の写真は目の細かい網にイカナゴがビッシリ獲れて、それを船の上に引き上げようとしている光景です。
3番目の写真はとれたイカナゴです。背景に大人の指が写っていますが、イカナゴは指の半分くらいしかない小さな魚です。
4番目の写真は大量にとれたイカナゴの写真です。
5番目の写真はイカナゴを丁寧に煮て作った釘煮の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








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陽賜里工房の恒例の春のお花見会のご案内

2017年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの春の公開と花見が例年通り開催されます。桜が満開になる頃です。庭でお茶をゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:4月7日(金)、8日(土)、9日(日)の、朝10:00時~午後4:00時ころまで、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには私も家内と一緒に参加したことがあります。
======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===
これは不思議な喫茶店です。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が数本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれづれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。
下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。




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「今日の日記、春の色彩を楽しみに高島屋へ行きました」

2017年03月13日 | 通販・買い物
デパートの婦人服売り場は四季折々、季節を先取りした色彩の服が並んでいます。
今日は朝から憂鬱な曇りでした。そこで春を先取りした色彩の写真を撮りに立川市の高島屋に行きました。家内も春の服を買いました。
婦人服売り場はもう春が来たようです。
あまり上手な写真ではありませんが、お楽しみ頂けたら嬉しく思います。








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