後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

川にまつわる思い出(3)ライン河の鰻の蒲焼と船上パーティ

2017年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

1番目の写真はドイツの鰻の写真です。写真の出典は、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。

2番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。

3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目と5番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です

4番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。

5番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。

6番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



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川にまつわる思い出(2)利根川と霞ケ浦の思い出

2017年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
利根川は日本で2番目に長い川です。銚子から太平洋に注いています。その河口は雄大な大河のような風格を見せています。

1番目の写真は利根川の河口付近の写真です。
この利根川の河口の風景写真の出典は「青空・星空」; http://wp.ensky.jp/?p=246 です。
昨日書いたように私は仙台で生まれ育ったので広瀬川が遊び場でした。川というものは楽しい所だと思い込んでいました。
そしてアメリカ留学から帰って来て初めて会ったのがこの利根川の上流でした。
群馬県の前橋付近の坂東簗という場所で利根川のアユの塩焼きを食べて感動したのです。それはまだ食料難の影が続いていた1962年の秋でした。

2番目の写真は数年前に惜しくも廃業してしまった坂東簗の写真です。2番目と3番目の写真の出典は、 http://blog.livedoor.jp/funky_dog3/archives/51722334.html です。
写真の中央に大きな簗が傾斜して利根川の支流に差し込んでいる光景が写っています。
この簗の先端に鮎が踊っています。その活きの良い鮎を炭火で焼いて客へ供するのです。

仙台の広瀬川には簗がありませんでした。鮎の塩焼きなど見たこともありませんでた。生臭いイワシの塩焼きだけが魚の塩焼きでした。
ところが鮎の塩焼きは上品な滋味深い味がするのです。鮎独特の何とも言えない香りがします。感動です。嗚呼、世の中にこんなにも美味しい塩焼きがあるのです。利根川に思わず頭を下げている自分に気がついたのです。
この坂東簗に連れて行ってくれたのが、本郷の研究室の先輩の今は亡きSさんでした。
私は仙台の大学を出てアメリカ留学に行き、東京の本郷の大学の工学部の研究室に入りました。まわりは見知らぬ他人ばかりで心細い思いをしていました。それを見かねたSさんが同じ研究室の仲間とともに前橋の坂東簗へ招待してくれたのです。
そして写真にあるような鮎の塩焼きをご馳走してくれたのです。

そんな事があって十数年がアッという間にたってしまいました。2人の子供の受験や就職に追われる忙しい年月が過ぎました。2人とも結婚し、やっと一息ついたのが1980年代の頃でした。
気持ちに少し余裕が出来たので家内を坂東簗へ招待しました。魚は生臭いと敬遠していた彼女が驚いたことに「鮎だけは別です!」と興奮し、塩焼きを綺麗に食べてしまいます。
家内は鎌倉生まれですが実家が多摩川沿いの日野にあったのです。毎年夏休みには、鮎の塩焼きを食べ、それでも余った鮎を祖母は煮びたしにしたり乾して保存していたそうです。ですから鮎を食べると優しかった祖父母のことを思い出して幸せな気分になるようです。
そのようなことがあって、私共は毎年必ず1回は、坂東簗に鮎を食べにいくようになりました。
そんな習慣が20年位続いていましたところ、2年位前の春に坂東簗から廃業を知らせる手紙が来たのです。
それはある時代の終わりです。衝撃を受けました。初めてそこへ連れて行ってくれたSさんも何年も前に亡くなりました。

さて利根川と言えば霞ヶ浦に23年間クルーザーを係留してヨットを楽しんだことが忘れられません。それは1989年から2012年の秋までのことでした。
明治33年になるまでは現在の霞ヶ浦は利根川の一部だったのです。それまで利根川は現在の横利根川を流れ霞ヶ浦に注ぎ、その東端から潮来に流れ、さらに外浦を経て、銚子へと出て行ったのです。
1900年(明治33年)になり、霞ヶ浦沿岸の農地が水害に襲われるのを防ぐために利根川本流の位置を現在のように変える土木工事をしたのです。
しかしその後も利根川の一部の水は横利根川を経て霞ヶ浦につながって舟運に使用されていたのです。

4番目の写真はヨットをしていた頃に撮った霞ヶ浦の風景です。

5番目の写真もヨットをしていた頃に撮った自分のクルーザーの写真です。
霞ヶ浦でも楽しかったヨットの思い出は今までこの欄で何度も書きましたので今日は省略いたします。

利根川の思い出として、上流の坂東簗の20年間位の思い出と下流の霞ヶ浦での23年間のヨットの思い出があります。しかし中流域や最上流部の水上付近の思い出がないのが残念です。
皆様にその部分も含めて利根川の思い出をお聞かせ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


参考資料:「利根川の鮎料理、坂東簗の店仕舞いーある地方文化の終焉ー」
2015年06月17日、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/57427ece4c92d7c98ca18fc6d4090c53 

毎年、6月になると利根川上流の坂東簗から今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと案内状が来ます。
それが今年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできたところが無くなるのです。しばし寂寞感にとらわれます。
これはある地方文化の終焉です。簗で鮎を捕り、見晴らしの良い川岸で鮎料理を楽しむのは、その地方の食文化です。時代が変わればその文化も終焉するのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。 ・・・以下省略します。
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川にまつわる思い出(1)広瀬川流れる岸辺

2017年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
青い海、白雪の山々、そしてゆったりと流れる美しい川の風景は人々の人生を豊かにしてくれます。自然の風景は四季折々変わり、しみじみとした美しさを見せてくれます。この邦に生まれた幸運にいつも感謝しています。
そこで今日から「川にまつわる思い出」を連載風に書き進めて行きたいと思います。
私は昭和11年に仙台に生まれました。
市街地の南を広瀬川が蛇行しながらゆっくりと流れています。川の南側には、お霊屋下や向山と呼ばれる住宅地になっていました。
私の家は向山にありましたので市街地に行くには鹿落坂(ししおちざか)を下ってお霊屋橋か評定河原橋を渡ります。
お霊屋とは伊達政宗の霊廟のことで、その霊廟は経ヶ峰という小高い山の上にありました。その霊廟のある山の麓一帯をお霊屋下と呼んでいたのです。
評定河原とは伊達藩政の頃、藩の評定所があった河原の呼び名です。お霊屋橋の少し上流にありました。
このような場所で育ったので、川の思い出としては お霊屋橋と評定河原橋から見下ろした広瀬川の風景が心に焼き付いています。

幼児の頃、お霊屋下の住宅街を通リ抜けて評定河原橋を渡って左に仙台市が作った動物園があったのです。戦前は象もキリンもライオンもいました。幼稚園に入る前に何度か胸を躍らせて見にいったものでした。
その行き帰りに必ず評定河原橋を渡り、川の流れの風景を随分と長い間眺めていました。川波が岸辺に寄せて、やがて下流に流れて行く様子が子供心に面白かったのです。
小学校に上がると同級生がお霊屋下に住んでいたので広瀬川の岸辺に降りて水遊びをしました。そして川石をソオッーとのけると小魚のカジカがいます。それを取るのに夢中になりました。
中学校に上がると親友が評定河原橋の近くに住んでいました。何度も遊びに行くうちに評定河原橋の下で悪い遊びもしました。
ずっと上流の青葉城の城門の近くまで行くと軍隊が捨ててしまった折り畳み式の上陸用の小舟が何隻も並んでいるのです。その一隻に悪童連とともに勝手に乗って、川を流れ下るのです。始めは川がゆったり蛇行して、動物園のあった琵琶首丁の周りを丸く流れています。そして、やがて馴染みの評定河原橋の付近の瀬にさしかかります。
すると上陸用舟艇は瀬の岩に乗り上げて止まってしまいます。
悪童連の舟遊びはそこで終わりです。土手を這いあがって評定河原橋の上から上陸用舟艇へ別れを告げます。
その後、あの船はどうなったでしょうか?何度も勝手に上陸用舟艇に乗りに行く度に消えて無くなっています。そして終いには軍隊が捨ててしまった上陸用舟艇が全て無くなってしまいました。多分、太平洋に流れ出て、海の底に行ったのでしょう。戦後の大人たちは忙しく、誰も子供の遊びに干渉する暇が無かったのです。

やがて高校生になると泳ぎも上手になったので鹿落坂の下の広瀬川を泳ぎ渡りました。川を泳ぎ渡ることが自慢でした。
泳ぎ渡るのにはコツがあるのです。斜めに泳ぎ、川の流れに身を任せるのです。
高校になると通っていた仙台一高が東の市街地にありましたので、今度は下流の愛宕橋を毎日のように渡りました。
すると橋下に堰があり、川幅が広くなっています。そこに貸ボートが並んでいます。随分と何度もこのボートに乗ったものです。
ボートを漕ぐ面白さに目覚めたのは広瀬川でした。それで塩釜から松島までカッターを漕いだり、レース用のエイトを漕ぐことになったのです。
そんな遊びの相手をしてくれたのが広瀬川です。
遊び相手だけでなく夏の夜に岸辺を歩くとカジカ蛙がコロコロと実に心地良い声で鳴いているのです。今は亡き叔父の肩車に乗って、夜の鹿落坂をカジカ蛙の声を聞きながら何度も行き来した情景を思い出します。
広瀬川。嗚呼、それは懐かしいいとおしい思い出の川でした。

皆様も川にまつわる思い出を沢山お持ちのことと思います。少しお教え下さいませんか?(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

青葉城恋歌の動画;https://www.youtube.com/watch?v=u-GYBCktieU&feature=youtu.be

写真は広瀬川の写真です。出典は、「技師の黙想」;http://www.alexforencich.com/blog/ja/2010/11/17/hirose-river/ です。








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「今日の日記、青い山並と多摩川上流の写真を撮りにドライブ」

2017年01月16日 | 日記
老境とは実に楽しいものです。なにせ毎日遊んでいられるのですから。

午前中は風邪をひいた中学3年生の孫をホームドクターに連れて行きました。

午後は、今日も青空なので、奥多摩の山並みと多摩川の写真を撮ろうと片道25Kmほど、五日市街道を根気よくドライブしました。

玉川上水の水の取り入り口の羽村の堰を過ぎ、青梅市の郊外まで足を伸ばしました。そこは多摩川の崖の上から、奥多摩の山並みが美しく見える場所です。

40年位前には大きなスケートリンクの建物があった場所です。当時はスケートの好きな家内や子供達を連れて何度も通った場所です。
現在はスケートリンクの建屋も消えていて、小奇麗な一戸建ての家々が並んでいます。
昔そこに大きなスケートリンクがあったということは誰も知らないようです。

写真の左の方の一番高い山は御岳の大岳です。一度だけ登ったことがありました。それも遠い、遠い昔の思い出です。

こうして平穏に今日も暮れて行きます。老境の平和です。




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写真を見て答える楽しいクイズです・・・お遊び下さい

2017年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は簡単なクイズ遊びをしたいと思います。
4枚の写真を示して4つの質問をします。是非、写真をよくご覧になってお答えください。最後に写真はありませんが世界の宗教に関する質問です。楽しくお遊び頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は富士山です。(1)この富士山は駿河湾の浜辺から見た富士山でしょうか。それとも相模湾の浜辺から見た富士山でしょうか?

2番目の写真は修学旅行でもよく行くお寺です。(2)お寺の名前は何でしょうか?

3番目の写真はよく見かける神社の写真です。(3)神社に祀っている神様は何でしょうか?

4番目の写真は日本の三大稲荷の一つです。(4)このお稲荷さんは何というお稲荷さんでしょうか?

以上の4つの問題は宗教に関連したものでした。そこで5番目の質問も視野を広げた宗教にかんする質問です。
(5)世界で一番多くの人が信じている宗教は何でしょうか?

それでは正解を示します。
(1)の正解は相模湾の浜辺から見た富士山です。先日、相模湾の茅ケ崎海岸で撮って来ました。

(2)の正解は法隆寺です。正岡子規の「柿くへば、鐘がなるなり、法隆寺」という俳句が有名ですね。法隆寺は平成5年に世界文化遺産に認定されました。

(3)の答に稲荷大明神とかキツネさんとお答えになる方がいらっしゃると思います。ほぼ正解ですが、実はこの問題は難しい問題なのです。

一般に稲荷信仰とはキツネを神の使いとして敬い、願い事を祈る信仰と言えます。
全国の稲荷神社は仏教系と神道系の2つに大別できるのです。ですから祀ってある神様はそれぞれ違うのです。
仏教系とは豊川稲荷の系統を汲むお稲荷さんです。祀ってある神が仏教系(ヒンズ-教)の神様なのです。
さて一方神道系のお稲荷さんの祭り神を祐徳神社の場合に示すと以下のようになります。
倉稲魂大神、大宮売大神、猿田彦大神、 神令使命婦大神、 萬媛命 。
このようにこの質問は実に難しい問題だったのです。
しかしこんな複雑に考えないで、お稲荷さんは稲荷大明神が祀ってあってキツネはしの使いだと答えたら正解と言えるでしょう。

(4)このお稲荷さんは何というお稲荷さんでしょうか?
正解はこの写真の右側の柱に書いてある通り、豊川稲荷です。
豊川稲荷の場合の神様は吒枳尼天(だきにてん)と言うインドの古代民間信仰に由来する仏教の女神です。
この吒枳尼天(だきにてん)は日本に入って来ると稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるようになったのです。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼んでいます。
ですから豊川稲荷では手を打つ代わりに曹洞宗の陀羅尼経の一部を唱えます。その部分は本殿の両脇の左の柱に大きな金文字で書かれています。陀羅尼 (だらに)とは、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せずサンスクリット語原文を漢字で音読して唱えます。

さて最後の質問です。
(5)世界で一番多くの人が信じている宗教は何でしょうか?
正解はキリスト教です。
5番目の写真は世界の宗教を信者の数の多い順に示した一覧表です。

この一覧表はどのくらい正確なのかは分かりません。あなたはどの宗教を信じますかと問われたら明確に答えることが出来るでしょうか?
多くの日本人は、仏教を信じているようでもありますが、どちらかと言うと無宗教に近い人が多いのではないでしょうか?
ですからこの一覧表の精度には疑問があります。しかし順番は大よそ正しいのではないでしょうか?
この表で意外なのは無宗教が4番目に多いという事実です。近年、世界中が宗教離れをしているそうですが、成程と納得できます。

如何でしょうか? 楽しくお遊び頂けたら嬉しく思います。今日はこれでお終いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「今日の日記、冬木立の写真を撮りに行きました」

2017年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日から今日にかけて日本海側は大雪で、その上、名古屋や広島まで雪が積もり大変な荒れ模様です。東京も零下になったらしく、庭の水盤の水が氷っていました。
午前中は教会のミサに行きました。
昼食後、空を見上げたら、碧い空に冬雲が足早に流れています。
ああ、この碧空と雲を背景にして冬木立の写真を撮ったら綺麗だろうと思いました。
さっそく稲城市のいつも行く崖の下に行きました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。








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お釈迦さまの教えを深く理解するためには宗教的訓練が必要

2017年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教の話を少しします。宗教を信じるためには宗教的訓練や修行が必要だという話です。
宗教的訓練を受けると少し信じることが出来ます。信じればその宗教の教えがより深く理解できるようになるのです。
私はカトリックですが祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので、今日は曹洞宗の宗教的訓練法をご紹介いたします。

多くの人が曹洞宗の本山の永平寺に観光に行きます。すると全国から集まって来た若い坊さんたちが一心に雑巾がけや庭掃除をしています。それは作務といって一つの宗教的訓練法なのです。そして決まった時間が来ると座禅や読経もします。これも宗教的訓練なのです。
こうして規則正しく宗教的な訓練を受けるとお釈迦様の教えの深い意味が理解されるようになります。理解出来ればお釈迦さまを信じるようになります。信じればまた一層深く理解できるのです。そしてお釈迦さまに帰依します。
これが佛教を信じる方法なのです。

この宗教的訓練の重要性はどんな宗教でも同じです。
仏教では宗教的訓練を修行と言います。修行をしないとお釈迦様の教えが信じられないのです。修行しなければ仏教を信じられないのです。日本のインテリは修行をしないで仏教の批判をします。しかしそれは的外れな非難になってしまうのです。

曹洞宗では座禅を重視します。そして集中座禅会も行います。それを「臘八摂心(ろうはつせっしん)」と言います。
12月1日から8日まで、曹洞宗の多くの寺院では、「臘八摂心」が行われます。
「臘」というのは、12月を意味する「臘月」の略で、「八」は「8日」のことです。また、「摂心」というのは「心をおさめる」ことで、つまりは坐禅のことですが、特に一日中坐禅することを指します。
 臘八摂心は特に、12月8日に仏道を成就されたお釈迦さまの坐禅を追慕する期間として行われます。普段、忙しくて、なかなか坐禅修行ができないという人であっても、この時期には諸々の仕事を止めて静かに坐るのです。この時期だけは、門戸を開いて一般の人の坐禅を歓迎する寺院もあります。 曹洞宗では、この修行は大本山總持寺御開山・太祖瑩山禅師さまの頃から行われています。

それでは具体的にはどのようなことをするのかご紹介しましょう。
ネットの趣味人倶楽部で知り合った浄心さんのお寺で3人だけの「臘八摂心会」のプログラムや準備の様子をご紹介します。

なお浄心さんは桃太郎さんという名前で趣味人倶楽部でこの「臘八摂心会」を素人にも分かり易く説明しています。
浄心さんは宮城県の曹洞宗のあるお寺の住職さんです。
以下は、https://smcb.jp/users/463063 からの抜粋です。

「臘八摂心会」を浄心さんと檀徒の「又やん」と以前の弟子の元照さんの3人だけ行うのです。

この3人の「臘八摂心会」のプログラムは以下のようになっています。
12月4日~7日
 12時30分 経行(経行鐘2声)、抽解(抽解鐘1声)、上張、香師入堂、下張
 13時00分 止静(止静鐘3声)
 13時40分 経行、抽解
 14時00分 止静、提唱
・・・中略
 19時00分 経行、抽解
 19時20分 止静
 20時00分 抽解
 20時10分 止静(普勧坐禅儀)
 21時00分 略経行、抽解、打眠
・・・・以下省略。

12月7日~8日
・・・前略
16時50分 下鉢、藥石の後
 17時50分 止静
 18時30分 経行
 18時40分 止静
 19時20分 経行、抽解
 19時40分 止静
・・・・・以下省略。

全ての差定が 鐘と魚鼓(ぎょく)と大太鼓の音を合図で粛々と進められ 誰ひとり言葉を発する者は無い。

以下は桃太郎さんの日記をそのまま引用します。
・・・・・
「摂心も終盤になると 僧堂の中に 呻き声が聞こえる事がある。
折れた樫の警策が 僧堂の磚の上を転がる音が聞こえる事がある。
失心した坐禅人が 單の上でドサリと倒れ込む音が聞こえる事がある。
そのほかは 僧堂の回り 亭々と聳える杉木立を揺する風の音 揺すられて落下する雪の音 時に明るい陽の射す頃には 僧堂の大屋根の瓦の上で囀る小鳥の声・・・。

こうして書いているだけで 俺の頭蓋骨は 大僧堂の屋根になる。
嗚呼 なんと懐かしく 愛しい日々だろう。

などと 思い出に耽っている場合ではない。
俺は 明日からの摂心の準備に取り掛からねばならない。」

この「臘八摂心会」は始め浄心さんと檀徒の「又やん」だけの2人で行う予定でした。
ところが鳥取のお寺にいる元弟子の元照さんが急に参加することになったのです。
その元照さんと浄心さんの電話の会話と浄心さんの日記をそのまま転載します。
・・・・
「まあ 私は少しは忙しいがな」
「叔父貴 今日は12月3日ですが・・・」
「そうだ。諸般の事情で 明日4日から8日までにしたのだ」
「ふ~ん・・・」
元照が一瞬黙った。

「叔父貴。私 行きます!」
「何だって?」
「そちらに参ります」
「何を言い出す」
「ご迷惑でしょうか?」
「迷惑も何も・・・」
突然の申し出に 狼狽(うろた)える。

「明日は何時からですか?」
「12時30分経行鐘の 13時止静だが」
「今から行きます。止静に間に合うか分かりません。遅れるかも知れませんがご容赦下さい。では!」
と 電話を切りそうにする。

臨時の坐禅堂の準備が終わり お菜の下準備もして 小豆を浸して 応量器を三組分清めて 浴司を清拭して 寝に就いたのが11時を回ったが いつもと大して遅いわけでもない。
元照は既に○○空港から○○駅に着き 突然の旅の疲れを 何処ぞの宿で癒やして居るのだろう。

それにしても 俺がふた月半掛けて歩いた所を 元照はほんの数時間で飛んで来るのだ。
過ぎし日々の事を思い出しながら 眠りの淵に深くふかく 沈んで行ったようだ。

翌朝
『○○山○○寺 臘八大摂心会』
太々と墨書した紙を 仮僧堂の入口に張り出し 眺めて居るところに 元照が着いた。
確かに 背中に 背負い鞄を背負っている。
即ち 聖像を 釈迦像を下ろしておいた須彌壇に据え 九拝の礼をする。

仮とは言え 其処は三黙道場たる僧堂であれば 発声は許されない。
元照も心得ており 安着の挨拶もせずに 旅装のままで従う。・・・以下省略。

何故、私は浄心さんをことさら取り上げて、ご紹介するのでしょうか?
理由はたった一つです。彼は時々お釈迦様を疑いながら、それでもお釈迦様を信じているのです。信じようとして毎日の修行に励んでいるのです。お寺の財産は竈の灰まですべて檀家の物だと考えています。お寺の会計は檀徒に任せているのです。しかしお金を稼ぐためにお葬式で読経します。しかしそれはお金を得るための行為であり宗教活動ではないと明言しています。こんな住職さんが沢山いれば寺院仏教も衰退しなかったと思います。

宗教とは今日の記事のような修行が大切なのです。そんな訳でこれからミサに行ってきます。
今日の挿し絵代わりの写真はシクラメンの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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中国の人権問題は経済成長しても改善されていない

2017年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、「同性婚を差別する日本人の文化の特徴」という記事を掲載しました。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの欧米諸国では差別されず、普通の結婚と同じ法律的優遇処置がとられ、差別されていません。
これに反して日本では法律的な優遇処置が一切取られていません。
この差別の根底には日本の人権無視の文化があると考えられます。明治維新で封建制からいきなり近代国家になった日本は欧米の精神文化を取り入れなかったのです。
市民革命を経験しないで、欧米の表面的な模倣で近代国家になった日本は彼等と違います。個人の尊厳とか人権という精神的な価値観を重要視しない文化になっているのです。
これは封建制からいきなり近代国家になったアジアの諸国と同じような共通の特徴ではないでしょうか。アジア諸国では個人の尊厳はとかく軽く考えられ、従って人権なんて無視される傾向があるようです。

そこで今日はお隣の中国の人権に対する考え方の現状を見てみましょう。
中国も清朝の封建制を倒し、一時は孫文の革命が成功しますが、1949年に共産国家になった国です。
アジア文化特有の人権軽視の上に共産党独裁が重なり人権など軽視されるのは当然です。
しかし経済的発展が続けばいずれ人権も尊重されるようになるという希望的意見もあります。この観測は何度も、何度もマスコミで報道されてきました。はたしてこの観測は正しかったでしょうか?

現在の中国の人権の状態をいろいろ調べていましたら、国際的な人権擁護運動をしているアムネスティ・インターナショナルが現状を一番客観的に報告していることが分りました。
そこでこの団体の東アジア地域事務所所長であるベクラン氏の話を引用することにしました。以下は、
http://www.huffingtonpost.jp/amnesty-international-japan/china-human-right_b_9745400.html
(2016年04月22日 )からの抜粋です。
=================================
国連安全保障理事会の常任理事国でもある中国は、多くの国際人権条約を批准しています。しかし最新のアムネスティ・レポート(年次報告書)2015/16に見られるように、中国は多くの人権問題を抱えています。
昨年7月以降、拘禁・逮捕された弁護士や人権活動家の人数は約250人にものぼり、現在アムネスティ日本では釈放を求める署名をオンラインで集めています。
その他、新疆ウイグル自治区やチベット自治区では宗教活動や母語の保護活動が厳しく取り締まられています。高度な自治権を持つとされる香港でも、最近では書店員の失踪事件に見られるような自由の抑圧の動きがあります。
このような中国の人権問題について憂慮する12カ国が、国連で共同声明を発表しました(2016年3月10日)。この12カ国の中には今まで声を上げることの少なかった日本も加わっており、これは評価に値することだと思います。

■ 死刑執行数が国家機密である理由
中国では毎年数千名が死刑執行されており、その数は中国以外の他の国々の死刑執行人数の合計よりも多いのです。法律上、死刑は認められていますが、その数は国家機密とされているのは何故でしょうか?
実は中国では死刑が執行された人の身体から臟器を取り出し、それを臓器移植に使用するということが行われています。中国政府は、このようなことはやめると、これまでも何回も言明しているのですが、なかなかやめられないようです。このことも、中国国内での死刑執行数を国家機密としている理由の一つだと思われます。

■ 「法の支配」
土地の強制収用や立退き、粉ミルクにかさ増しのためにベビーパウダーを入れる事などは、明らかに中国の法にも違反する行為ですが、そのことを告発するとひどい嫌がらせを受け、場合によっては逮捕されてしまいます。これらは中国国内で「法の支配」という意識が欠如しているために起こっているのではないでしょうか。
現在の中国は「法の支配」を確立するには程遠い状況にあります。しかし、人権保護のため、「法の支配」のために闘っている人びとが実際にいるのです。彼ら/彼女らは、政府や大企業も中国が定めた法律を正しく守ることを要求し、多大な犠牲を払いつつも確実に成果を出しています。
現在の中国では、中国共産党を批判するだけで国家を脅かすものと判断されてしまいますし、結社の自由もありません。独立した人権団体の設立が認められたこともありません。それどころか、人権活動家を懲らしめ罰し続けているのです。中国ではアムネスティのような人権団体は違法団体に認定され、私のような講演をするような人はすぐに捕まってしまうでしょう。

■ 外国人の私たちは声を上げるべきか
今まで国際社会では、「中国の人権侵害についてうるさく言わないほうが良い」「経済状況が良くなれば人権状況も改善されるのではないか」などと言ってきましたが、それは大きな間違いです。現在の中国は世界的な経済大国となった一方で、今までにないほどの人権侵害が行われています。だからこそ人権侵害について大きな声を上げなければならないのです。中国国内で大きなリスクを抱えながらも、それに負けずに活動している人権活動家に対してもっと支援をすべきなのです。
私は中国で1000人近い人権活動家と話す機会がありました。そのたびに私は彼ら/彼女らに「あなたたちの活動に対して我々は声を上げるべきか、黙るべきか」と問いかけてきました。それに対しての回答はいつも同じでした。
「もちろん声を上げていただければ、こんなにありがたいことはありません」。
中国には彼ら/彼女らのような勇敢な人権活動家がいるのに、私たちが何もしないということはあり得ません。

200人以上に対する弾圧―現在も18人が拘束されている
2015年7月9日以降、一連の弾圧の標的となった弁護士や活動家は、アムネスティが2016年2月5日までに把握しているだけでも、248人にのぼります。拘束されていた人の多くは解放されましたが、18人が正式に逮捕され、現在も拘束されています。このままでは、彼ら/彼女らが裁判にかけられ、長期の禁錮刑を受ける可能性があります。

アムネスティ日本では、中国の弁護士への弾圧について、2015年7月に引き続き、オンラインの署名活動を行っています。拘束されている弁護士・活動家への不当な扱いをやめさせ、人権活動が理由で拘束されていることがないよう、今すぐ、あなたのご協力をお願いします! 以下省略。

以上の報告は中国で1000人近い人権活動家と話したことのあるベクラン氏による報告です。私はこの現状の報告を信用しました。その故に上でご紹介したのです。

中国人は政権担当者も一般人民も経済成長を続け、中国が国際社会で覇権を握ることに努力しています。その為には人権などは犠牲にすべきだと考えているようです。ですから中国は経済的に成長すればするほど人権が軽視される体質を持っていると考えられます。

恐ろしいことに、中国の影響は日本人も知らず知らずのうちに受けていると思います。日本の平和と安全のためには個人の人権も犠牲にしなければならない場合があると言うのです。個人の権利を主張すると日本が平穏な住みやすい国でなくなると言うのです。
しかし日本が共産党独裁の国家でなかった幸運には感謝すべきです。
この感謝の気持ちを表するために園芸種のサクラソウの花の写真をお送りします。昨日、東久留米市の石塚園芸店で撮らせて頂いた写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








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難民になった満蒙開拓団と現在の6500万人の世界の難民

2017年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
都立公園の桜が丘公園の入り口に満蒙開拓団が難民のようになって引揚げる途中の犠牲者の慰霊碑があります。
中心に「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔を囲んで全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。

1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。昨日撮って来た写真です。

2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。

3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い冬木立の上に白い雲が流れていました。

満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されました。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員がだったのです。

私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りして来ました。死者の冥福を祈るとともに、戦争の悲劇を思いめぐらせます。
考えると戦争が起きると必ずのように難民が発生します。かつて中国大陸に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の中国人が難民になったに違いありません。命を落とした中国人も少なくないと思います。その中国人犠牲者の冥福も一緒に祈るようにしています。
なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。

昨日はこの満蒙開拓団の慰霊碑に参りながらいろいろなことを考えました。その一つに現在の世界の難民のことがあります。
以下は、「世界の難民」 http://www.bbc.com/japanese/36573394 より抜粋した情報です。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2016年06月20日、世界の難民や難民申請者、国内で住居を追われた人の数の合計が昨年末時点で推計6530万人に上り、第2次世界大戦後で最多となったと明らかにしました。

UNHCRの年間統計報告書によると、2015年末の数字は1年前と比べて500万人の増加を示しており、世界で113人に1人が難民化していると報じているのです。
一方、UNHCRのフィリッポ・グランディ高等弁務官は、欧州が移民危機への対応に苦慮するなかで高まる「外国人排斥の空気」に懸念を示しています。移民・難民の流入は、極右勢力や反移民政策への支持拡大につながっているから懸念されるのです。
国連が定める「世界難民の日」に合わせて発表された今回の報告書は、難民の数が初めて6000万人を超えたと指摘しています。そのうち半数以上がシリア、アフガニスタン、そしてアフリカ大陸のソマリアの3カ国だけで占められているのです。
国連によると、欧州での移民危機に高い関心が集まっていますが、実は、難民の86%はヨーロッパ以外のアフリカや中東の現地をさまよいながら難民キャンプのテントや戦乱の無い地域の古い建物に住んでいるのです。
最も多くの難民が生活している国はトルコで、250万人が滞在し、パキスタンとレバノンがそれに続いています。

一方、国際移住機関(IOM)によると、海を渡って欧州に到着した人は2015年に、101万1700人以上でした。
他の調査機関によると、101万人を大幅に上回る数を報告されています。
難民たちは、ドイツやスウェーデンなど比較的裕福な北部の国での居住を希望しています。国連がまとめた2015年の難民申請者数では、ドイツが最大で、米国とスウェーデンがそれに続いています。
尚、トルコに滞在するシリア難民の大多数はトルコ政府の一時的保護措置の対象となっていることから、難民申請者には含まれていません。。

欧州の移民危機は欧州連合(EU)内で大きな政治的亀裂を生み、一部の加盟国は、域内の自由な移動をうたった「シェンゲン協定」に違反して、国境にフェンスを設置したり、国境での検問を行っているのが実情です。
EUとトルコは2016年3月に大量の移民流入を抑制する措置で合意しました。


4番目の写真は満員のゴムボートから、ギリシャ・レスボス島の海岸に飛び移る、アフガニスタン人の移民(2015年10月19日撮影)

5番目の写真は泥の中を通って、ギリシャからマケドニアへの国境を越えるシリア難民たち(2015年9月10日)
4番目と5番目の写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2016/04/20/greek-photographers-win-pulitzer-prize_n_9744966.html です。

現在の世界では難民問題が重大な問題になっています。この移民や難民の問題が背景にあって、イギリスがEUから脱退し、アメリカではトランプ大統領が生またとも考えられます。
我々日本人は難民問題に関心はありませんが、難民問題は間接的に日本にも大きな影響を及ぼす重要な問題です。
しかし難民問題は戦争があるかぎり発生します。日本人に出来ること難民支援です。その他のことはあまり出来ません。
しかし世界の重要な問題なので常に注意しておく必要があるのではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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同性婚を差別する日本人の文化の特徴

2017年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
先日、「欧米と日本の人種差別意識の大きな相違」と題する記事を掲載いたしました。
差別にまつわる色々な問題を取り上げましたが、同性婚の問題もかなり詳しく論じました。
欧米、すなわちアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどでは同性婚は普通の男女の結婚とまったく平等な法的な優遇処置がとられています。
しかし日本では差別され同性婚に関する法律が整備されていません。単に同性婚証明書を発行するだけでの自治体が少しだけはありますが。

日本人も個人的には同性婚に賛同する人も多いのですが、それは隠れて行うべきであり、法的には普通の男女婚と平等に優遇すべきではないという意見が圧倒的に多いようです。

私はこの欧米と日本の違いに非常に興味が湧いてきました。この違を比較文化人類学的に考えると日本文化の特徴が見えて来るのではないかと考えたのです。
そこで今日は何故、日本人が同性婚を差別しているかという問題を考えてみたいと思います。そして日本文化の特徴が少しでも明らかにしたいと思います。

さて欧米では生まれつきの身体障碍者を「遺伝的マイノリティ」として保護すべしという思想が定着しています。ですから遺伝子的原因によって生まれつきの精神障碍者も大切にしているのです。
この考え方と同じように同性婚の問題も取り扱われています。
同性婚をする人を欧米では性的マイノリティとして保護し、差別をしない文化が定着しているのです。同性婚の場合の税金の控除や遺産相続の権利は正常な男女の結婚と全く同じ法律が適用されているのです。そこが日本と非常に違うことです。

私の友人に体は男性だが精神構造は完全に女性だという人がいます。分かり易く言えば「おとこおんな」ですね。京都大学出の知的な人です。知的なばかりでなく人間性が良いのです。尊敬に値する人物です。外国で同性婚をして、その国の法律の保護を受けています。
それでは何故、「おとこおんな」が生まれるのでしょう?
ある方に教えて頂いたことです。「性分化の臨界期である幼児の胎生期に、分化した脳に男性ホルモンが作用しなかったことによって、脳の思索機能を持っ部位に異常が起き女性型になった」というご説明を頂きました。

一般に男女の違いは、精神病の問題ではなく医学生理学上の差異であって、生命の緻密で微妙な作用の結果なのです。
欧米では性的マイノリティは、精神病の問題ではなく胎児の、遺伝子と性ホルモンの差異であって、生まれつきの結果だと広く信じられているのです。
「おとこおんな」や「おんなおとこ」が生まれつきの少数マイノリティである以上、差別すべきではないと言うのが欧米の社会に定着している考え方なのです。
それに反して日本の法律では差別されているのです。

人間、各個人には、持って生まれた「資質」または「属性」というものがあります。
しかし、身体の特性、頭脳の特性、などは、努力によって、自分の望む方向に、ある程度は変えるることが出来ます。
しかし絶対に変えることの出来ないものもあります。
例えば、人種、持って生まれた身体的、精神的不具などです。そして、同性婚をする人々の性差も変えられません。
このように個人の力ではどうしようもないものを、一般大多数とは違うからという理由で、「差別」視することは欧米では「人権の侵害」と考えられているのです。

以上は一般論ですが、趣味人倶楽部というSNSである方から以下のようなコメントを頂きました。イギリスの日常生活で性的マイノリティがどのように取り扱われているかを活写しています。
======あるコメントより================
「おとこおんな」に関してですが、イギリスでもそれが生まれつきのものであるという論は広く知られていますが、それでも首をかしげる人がいるのも事実です。しかし、首をかしげながらも差別はしない、そこが彼らの礼節であり、私は心から尊敬しています。

20数年前にロンドンに住み始めた頃に、同姓カップルでも全くハンデなく養子縁組をすることができる、そして実際に子供がもらわれていくケースを見まして、心から感心しました。人間性の本質を見ているな、と思いました。

娘は美大生なので、男友達にはとにかくゲイが多いのですが、「ゲイを差別しない、普通に付き合う」から一歩進んで、「別に誰がゲイかストレートかなんて、そもそも知る必要もないじゃん」というふうに若い人の意識は変化しています。すばらしいことではないでしょうか。

ゲイであれ、身障者であれ、困窮者であれ、病弱者であれ、正常者(というのも変な言葉ですが)よりも「もっとほしい、もっと助けてくれ、これしてくれ、あれも改善してくれ」と声高に叫ぶのは社会にとっていいことです。叶おうと叶うまいと、とにかく叫ぶことです。そういうことのできる国が本当の大人の国ではないのでしょうか。(終り)
============================

上の文章を見て、私は日本人の文化の特徴を以下のように考えました。
(1)日本人は最近の医学生理学の同性婚に関する研究成果を重視しない傾向がある。すなはち自然科学の進歩を無視する文化的特徴があるようです。しかし新しい工業製品の開発に繋がる自然科学の研究成果には敏感に反応します。そうでない限り、新しい自然科学の研究成果は無視する傾向があります。
(2)少数者を差別しなで尊重するのは欧米の思想であり、日本古来の文化では生まれつきの障害者は隠れて生きて行くべきという文化的特徴があるようです。
(3)日本文化は、変化が緩慢であり、特に社会倫理の分野は非常に保守的なのが特徴のようです。

これらは私の雑な考察です。皆様からのコメントで考えを深めて行きたいと思います。どうぞ多数のコメントが頂けますようにお願い申しあげます。

さて先日の「欧米と日本の人種差別意識の大きな相違」と題する記事に対してある方から考えさせるコメントを頂きましたの、最後にご紹介したいと思います。

===障害者の子供を持ったある父親からのコメント======
一般に人は自分が経験していないことは理解できません。
私は吃音歴が40年で、吃音の苦しみはよく分かります。
障害者といっても、目に見える分かりやすい障害(例えば視覚障害など)は周囲が配慮してくれますが、性的マイノリティや吃音などの、目に見えない障害は、法律などで特別に保護しないと、あまりにも本人に負担がかかりすぎます。
ひどい場合は精神障害や自殺する例も多いのです。
教育などで障害者理解を進めるのが一番の方法です。
しかし、人は一般的に経験していないことは分からないものです。
こころの病などへの偏見があるのはそのためです。
私は重度障害者の娘の世話もしています。
自分では何ひとつできない重度ですが、不思議なことに、そんな弱い人がいるということが、とても家庭を明るくします。
多分、社会も同じです。役に立たない人がいることが、社会そのものを豊かにしているのです。
=============================

今日の挿し絵代わりの写真は府中郷土の森博物館のロウバイの林で撮った写真です。
2年前の1月に撮りました。今年もそろそろ満開になる季節になりました。季節のめぐりは早いものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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1917人の流人が貢献した八丈島の繁栄

2017年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島は大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していました。しかし遠島のため直接的な統治はほとんど無かったと考えられています。
直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まります。
それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居たという記録もあるようです。しかし、船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島でした。
ところが江戸幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治をし始めたのです。犯罪人を遠島にする島として利用しはじめたのです。
それとともに幕府は従来から住んでいる島民に年貢を荷しはじめます。独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせたのです。
江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行でした。一行は1606年に島に到着しています。
それ以来幕末までに合計1917人の流人が八丈島へ流されたのです。

江戸幕府の島役所は島の中央部の大賀卿村の高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれる部落が出来ます。島役人とその家族の住む家もありました。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ていいます。
以下の写真はすべて私が撮ったものです。

1番目の写真は現在も残っている玉石の石垣です。

2番目の写真は江戸幕府の島役所のあった場所の写真です。現在は大里というバス停があるのみで建物はありません。
現在も石垣は大里の部落中にあり、その中の家には人々が住んでいます。家々は江戸時代そのままの玉石垣で囲まれていて八丈島の昔の面影を残しています。

3番目のの写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家のお墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。
八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。
豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。
宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として八丈島の繁栄に貢献します。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの大きな部屋があります。

八丈島の繁栄に貢献したのは宇喜多一族だけではありません。
八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。
歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。
養蚕業と黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し、現在でも感謝しています。
中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。
これらの文化発展を総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

一例として色々な焼酎が作られています。
幕末に八丈島へ初めて芋焼酎の製法を伝えたのは薩州出水郡阿久根村の丹宗庄右衛門です。その伝統を受け継いで、現在でも薩摩流の焼酎醸造が盛んで色々な焼酎が売りだされています。

4番目の写真は現在、八丈島で作られている焼酎の写真です。2009年の1月31日午後に八丈島空港の売店で写した写真です。写真にある焼酎の他にも実にいろいろな製品が販売されています。八丈島焼酎を検索すると全ての焼酎を見ることが出来ます。
尚、丹宗庄右衛門は島津藩御用の回漕問屋で苗字帯刀を許されていました。島津藩に保護されながら、藩財政立て直しのための密貿易をしていました。しかし、幕府に逮捕され嘉永6年八丈島に流されました。在島15年、漸く明治元年に赦免されました。島の新しい産業への貢献を感謝する記念碑があります。

明治維新後、島には水力発電所も作られ電灯もつきました、稲作や乳牛飼育も盛んでしたが現在はそれらの産業はなくなりました。
現在の産物はフリージアやハイビスカスのような花々の栽培とフェニックス・ロベレニーの栽培が主な産業になっています。
その他、珍しいものにはクサヤ、明日葉、パッションフルーツ、ぶどー( 海藻を煮出して味付けした八丈島独自の郷土料理)などがあります。

5番目の写真は八丈島のハイビスカスの花です。
東京都八丈町は人口が8200人くらいで5つの集落があり、数多くの温泉があります。都立高校も病院もスーパーもあり住むには困らないようです。観光客も多く、なかなか賑わっている様子です。
温かくなりましたなら是非お出掛け下さい。羽田空港からの航空便と竹芝からの客船があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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我々の先祖、縄文人は離島の八丈島にも住んでいた

2017年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今年はトランプ氏がアメリカの大統領に就任し、新しい政策を次々に実行し世の中が変わる年になりそうです。
その影響もあり、世界中の国の国境が高くなり、各国にナショナリズムが広がりそうです。世界が変わる潮流の潮目を見るようなことになりそうです。
何故か心が落ち着きません。こんな時は縄文時代のことを考えることにしています。はるか悠久の縄文時代のことを考えると現在の世の中の変化が取るに足りない些細なことのように思えます。こころが平穏になります。
そこで今日は絶海の孤島の八丈島の縄文時代をご紹介したいと思います。

八丈島からは、6000年前の縄文土器や石器が多数発見されているのです。それらの貴重な資料は八丈島歴史民俗資料館に展示してあります。驚いたことに縄文時代の人々は丸木舟で伊豆半島から黒潮を横切って漕ぎ渡ったのです。現在の日本人の体力からは考えられない事です。

私は2009年1月29日に歴史民俗資料館を訪問しました。そこで地域歴史専門家の細谷昇司氏と知り合い、その後も数年にわたり島の歴史をいろいろ教えて頂きました。
資料館を訪問した時、彼の説明を聞きながら各室を詳しく順々に見て行きました。
そうしたら、ある部屋に、約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が多数展示してあったのです。
石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を丸木舟に積んで太平洋を渡って本州から来たのです。
下の1番目から3番目の3枚の写真に歴史民俗資料館に展示してある土器と石器の写真を示します。





そして下の4番目の写真は八丈島歴史民俗資料館の様子です。これらの写真は2009年1月29日に撮りました。

八丈島は東京から約300キロメートル南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島です。
現在から6000年も前の縄文人が丸木舟で海を渡るのは危険な冒険です。古代人の体力と勇気に感動します。
そこで東京に帰ってから八丈島の考古学的研究をいろいろ調べてみました。

そうしたら国学院大学の小田静夫先生の「八丈島の先史文化」という題目の研究論文を見つけました。以下はこの研究論文の抜粋です。
全文は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
まず考古学の調査の経緯以下にを示します。
(1)1962年(昭和37) 夏、地元中学生が一点の「大形磨製石斧」を採集(八丈島誌1973, 1993)。
(2)1964年(昭和39) 1月、地元都立八丈高等学校による試掘調査(八丈島誌1973,1993)。
  同じく3月、明治大学考古学研究室による八丈島最初の正式発掘調査(杉原・戸沢1967)
(3)1973年(昭和48) 3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団の発掘調査
  (永峯・小田ほか編1976)。
(4)1978年(昭和58) 2月~ 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団の発掘調査(永峯ほか1984)。

以上のような発掘によって判明したことを整理してまとめると以下のようになります。
現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明したのです。
その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのです。
1 八丈島先史時代第一期
 湯浜遺跡(7,000~5,000年前)で代表されます。厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出て来ました。現在までのところ、その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相も否定できないそうです。
2 八丈島先史時代第二期
 倉輪遺跡(5,500~5,000年前)で代表されます。本土の縄文土器と石鏃、磨製・打製石斧、砥石、各種装身具、骨角器など豊富な遺物が出て来ました。その故郷は土器型式から、南関東地方と近畿・中部地方北半分の縄文人の渡島文化と推定されます。
3 八丈島先史時代第三期
 供養橋、孫兵衛遺跡(年代不詳)で代表されます。円筒片刃石斧に特徴があり、その形態から琉球列島(黒潮の道)や、マリアナ地域(太平洋の道)からの渡島文化の可能性が高いと言れています。
4 八丈島先史時代第四期
 八重根遺跡(1,700~1,200年前)で代表されます。最下層文化に厚手無文平底の鉢形土器と本土の弥生土器、土師器が伴い、若干の石器、紡錘車が存在する。その故郷は、伊豆地方や神奈川県南部の弥生・古墳時代人の渡島文化なのです。

以上は、国學院大學考古学資料館紀要 第21輯(「加藤有次博士追悼」特集号)2005.3.31 所収(pp.55-84)「八丈島の先史文化」からの抜粋です。詳細は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。

ところで八丈島歴史民俗資料館には縄文時代の土器や石器だけでなく島の歴史が分かるいろいろな資料が展示してあります。

さて、八丈島に丸木舟で渡るには伊豆半島から最短距離の下田附近から大島へまず渡ると想像出来ます。その間は40Km位です。そしてそこから目に見える利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と順々に島づたいに丸木舟を漕いで行ったと考えられます。
そのように人力で漕ぎ渡る実験をした人がいます。実験は海用のカヌーでしました。そうしたら島づたいに渡ることに成功したのです。
ですから縄文人が丸木舟で本州から渡ることは可能だと想像できます。
そんなことを考えて今日も平穏な一日が過ぎて行くようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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欧米と日本の人種差別意識の大きな相違

2017年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
我々日本人はケネディ大統領の暗殺事件はよく知っていますが、彼が議会に提案した「公民権法」はあまり重要視しない傾向があります。
公共のあらゆる施設や就職のとき黒人を差別してはいけないという法案です。
この法案はアメリカの黒人差別の歴史のなかで革命的な法案です。
ケネディの暗殺後、ジョンソン大統領の時、可決、制定されたのです。この法律は非常に包括的な法律でした。選挙の投票、公共施設の利用、小学校から大学までの教育を平等にし、雇用の分野でも黒人にも白人とまったく同じ権利を与えたのです。
黒人と白人は平等な機会均等が保障されました。もちろんこの陰には暗殺されたキング牧師の公民権獲得運動があったのです。

この法律の1964年の制定以後のアメリカでは、すべての公共の場で供されるサービスや施設や設備が人種によらず平等になったのです。
人種や皮膚の色、そして宗教あるいは出身国を理由とする差別や分離が無くなったのです。人種によらず社会的恩恵を平等に享受する権利を持つようになったのです。
 この結果、食堂やバスにおいて「白人用」「黒人用」と座席を分けたりすることは違法となり、即座に差別が撤去されました。
その上、黒人だけでなく、ヒスパニック、先住民、アジア系、太平洋諸島出身者などの少数民族と女性をめぐる差別も表面的は消えて無くなったのです。

余談ながら1960年から62年にわたって留学していた私は「白人用」と「黒人用」と座席を分けたバスに乗っていました。黒人をニグロと呼びアメリカ原住民をインディアンと呼んでいました。その言葉も禁止です。二グロを黒い人、インディアンは原住民と呼ばないと非難されるようになりました。
この公民権法の可決、制定の影響は西ヨーロッパ諸国内の人種差別に対する考え方にも当然、大きな影響を及ぼしたと考えられます。

この公民権法の施行以後のアメリカでは差別用語も当然、廃止されることになりました。差別用語廃止の運動が燎原の火のような勢いでアメリカ大陸にひろがりました。
この影響はかなり遅れて日本に入って来て、マスコミはこぞって差別用語を使わなくなりました。これには従来差別用語を使っていた日本人に混乱した気分を与えたものです。

このアメリカの差別撤廃の本質は人間が遺伝子によって肉体構造や精神構造に特別な差異を持って生まれた人々を差別しないという考え方にあります。
従って生まれつきの身体障碍者が車椅子で公共の交通機関やレストランを、健常者と平等に使えるように施設を改造したのです。すべての出入り口の段差や階段を撤去してスロープに改造したのです。しかし日本ではいまだにあちこちに階段がありスロープのついて無い場所が沢山あります。随分と遅れているのです。

生まれつきの身体障碍者は少数なので「少数マイノリティ」として保護すべしという思想が定着したのです。
そして遺伝子的による生まれつきの精神障碍者も大切にしているのです。
この考え方は不妊の夫婦にも適用されます。どちらかに遺伝子的に不妊症がある場合は人工妊娠がより広く使われるようになったのです。
夫婦の不妊症にはいろいろな原因がありますが、一つだけ例をあげると、今朝の新聞にありましたが、「ロキタンスキー症候群」という不妊症があります。
赤子が母の胎内で受胎後に遺伝子とホルモンの作用で性別がはっきりし、女性としての性差が次第に育って行く過程で、異常が発生し子宮がないまま女性として生まれる場合があります。これを「ロキタンスキー症候群」というそうです。

生まれつきの障害者なので、保護して、条件が良ければ母親などの他の女性から子宮を移植するのが当然です。
今朝の読売新聞によると2000年にサウジアラビアで初めて移植が行われ、スウェーデンでは2014年以後この手術で5人以上の赤子が産まれています。しかるに日本ではこれから子宮移植の手術をするための倫理的な議論を始めるというのですからこれも随分と遅れているのです。

同じような問題に同性婚の問題があります。同性婚をする人を欧米では性的マイノリティとして保護し、差別をしない文化が定着しているのです。同性婚の場合の税金の控除や遺産相続の権利は正常な男女の結婚と全く同じ法律が適用されているのです。
日本では考えられないことです。

アメリカの公民権法の書き出しから随分と話がそれましたが、もう少しお付き合いください。
私の友人に体は男性だが精神構造は完全に女性だという人がいます。分かり易く言えば「おとこおんな」ですね。京都大学出の知的な人です。知的なばかりでなく人間性が良いのです。尊敬に値する人です。外国で同性婚をして、その国の法律の保護を受けています。
あまりにも感じの良い人なので何故、「おとこおんな」が生まれるかを調べました。
ある方に教えて頂いたことです。「性分化の臨界期である胎生期に、分化した脳に男性ホルモンが作用しなかったことによって、脳の思索機能を持っ部位に異常が起き女性型になった」というご説明を頂きました。

一般に男女の違いは、精神病の問題ではなく医学生理学上の差異であって、生命の緻密で微妙な作用の結果なのです。
私には到底この分野の研究の詳細は理解出来ませんが、欧米では性的マイノリティは、精神病の問題ではなく胎児の、遺伝子と性ホルモンの差異であって、生まれつきの結果だと広く信じられているのです。ご興味のある方は、「脳の性分化」の研究
> http://endocrine.seitai.saitama-u.ac.jp/research_tsukahara1.html もご覧ください。

「おとこおんな」や「おんなおとこ」が生まれつきの少数マイノリティである以上、差別すべきではないと言うのが欧米の社会に定着している考え方なのです。

ことの良し悪しは私は一切議論しません。
しかし人種差別や身体障碍者や性的マイノリティに対する差別は欧米人と日本の意識には大きな相違があるような感じが否めません。

しかし時代の流れに逆らうことも出来ませんから日本人の意識もしだい、次第に変わって行くのでしょう。
今日は少し込み入った話だったので挿し絵代わりの写真は先日、京王フローラル・ガーデンで撮った花の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









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「今日は教会で成人式がありました」

2017年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック教会では普通のミサの間に数分間の成人式をはさんで行います。
神父さまの説教の後で新しい成人の祝福の儀式をします。
1番目の写真はその儀式の様子です。今年は少なくて2人だけでした。
2番目の写真は成人式の終りに神父さまから記念の聖書を受け取っている新成人の写真です。
3番目の写真は通常のミサの式次第にもどり、何時ものように聖なるパン片を貰う行列の写真です。




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現代の物欲を全て捨て去り信仰に生きる人々

2017年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
高度な物質文明を誇るアメリカに、全ての物質文明を捨て、信仰に生きるキリスト教の宗派あります。物欲を捨て自動車も家電製品も持たない生活をしているのです。日本の仏教の宗派には無いものなので注目に値すると思います。
アーミッシュという宗派の人々で、アメリカの東部や中西部に彼等の村落が散在しています。
このアーミッシュの人々のことは何度もご紹介してきました。しかし自分の心が弱くなり、贅沢を憧れる度に何度でも書くようにしています。

私は1989年と90年にオハイオ州立大学で働いていたことがあります。単身赴任でしたので、週末になるとオハイオ州の農村地帯をよくドライブして楽しみました。
その折りに近代文明を拒否して原始的な生活をしている村落を偶然見つけたのです。帰宅していろいろ調べてみました。そしてアメリカ人の同僚に聞きましたところ、是非訪問して一泊してみなさいと言われました。
アーミッシュ派の人々は自動車、電気、ガス、水道を拒否して、中世のヨーロッパの農村生活を現在でも続けているのです。
アーミッシュ派はルターの宗教改革で生まれた純粋原始キリスト教の一派で絶対平和主義の信仰を守っている人々です。

私はオハイオ州の北部にあるアーミッシュ村を1990年に訪問し、一泊しました。
その時の旅行記をご紹介したいと思います。
@アーミッシュ村の風景
アーミッシュの村に入ると、「路上で黒塗り箱型の馬車が近付いたら徐行すべし」という意味の絵看板が増えてきます。
周りは一面の実り豊かな麦畑です。その間に牛馬がのんびり草を食む牧場が散在し、素朴な木造一階建ての農家が栃の大樹の木陰に見え隠れしています。
看板通りの黒塗りの箱形馬車が近付いて来ます。慌ててブレーキをかけ、徐行しながらすれ違います。手を挙げて挨拶をすると、黒いシルクハットをかぶり、襟の小さな黒い背広を着た老人が目を上げないで、手をわずかに振って挨拶を返すのです。
麦畑では刈り取った麦束を馬車に積み上げています。農夫はさすがに上着を脱ぎ、黒いチョッキ姿で汗を流しながら一心に働いていました。

アーミッシュに車で観光に行った場合のマナーを大学の同僚が教えてくれまさいた。
「御土産店、喫茶店、民宿の前以外の道端に絶対車を停めないこと。馬車が見えたら急いで減速し徐行せよ。必ず挨拶をすること。しかし相手の目を見たりしない。もちろん話し掛けてはいけない。女性は黒い長い服を着ているが、車と馬車がすれ違う時、前から覗き込んではいけない。アーミッシュ専用のスーパーマッケットがあり、黒い馬車がたくさん止まっているが、スーパーの店内へ入ってはいけない。ソーッと遠方から眺めるだけにすること」「御土産店では村への入場料のつもりで多めにチーズやヨーグルトを買って上げなさい」

@その豊かな人生の質
夜は木造2階建ての民宿に泊まりました。部屋にはローソクしかないが、外の方が明るいのです。窓から見ると、満天の星空です。
「夕食ですよ」と呼びに来たので食堂へ降りて行きます。
食堂には明るく電気がついています。新鮮なホーレン草のサラダと鶏肉のソテーのみでしたが、農薬を使わないので実に美味しいのです。もちろんビールや酒類は一切ありません。
布に包んだ温かい焼きたてのパンが籠に入って出てきます。

そばに座ってくれている女主人にいろいろ聞きました。電気は来ているので、冷蔵庫、洗濯機、井戸水の汲み上げポンプには電気を使っていると言います。そして食堂と調理場だけは電燈が灯っています。
アーミッシュの人の職業は農牧業しか許されていないので、民宿やスーパーマーケット、御土産店などの経営者は普通のアメリカ人だそうです。

「ところで、明日、アーミッシュの人々の生活を見たいし話も聞きたいので、誰か紹介してくれませんか」
「泊り客はそういうことをよく頼みます。でも丁重にお断りしています。アーミッシュの信仰中心の日常生活を邪魔しない。それが正しい接し方と思いますよ。」「日本にもキリスト教徒がいるのですか?」

五島列島の隠れキリシタンの250年の歴史や現在のキリスト教信者の話をしながら、ふと気が付いたらもう十時を過ぎていました。ローソクの炎の揺れる暗い部屋へ引き揚げ、星明りの窓の外をもう一度見てベッドへ潜り込みました。
アーミッシュの村は静けさに満ち、時がゆっくり流れている。ここには間違いなく人生の豊かさがあると思いました。
しばらく帰っていない日本の人々の生活を想い、日本の「人生の豊かさの質」を考えているうちに眠ってしまいました。

さて、そのアーミッシュの生活を示す写真をお送りします。

1番目の写真は自動車を使わない彼等の日常の乗り物の馬車です。

2番目の写真は多人数が乗れる大型の馬車です。

3番目の写真は彼等の家の中の様子です。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るしておくほど沢山持っていません。下着は箱にしまい、農作業と礼服を共用する黒い服を毎日着ています。

4番目の写真は彼等の農作業の様子です。
農作業にはトラクターは一切使いません。この写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。

5番目の写真はアーミッシュの村の静かな夕方の様子です。彼らの村は本当に静かなのです。
彼らはアメリカの義務教育を受ける義務はありません。税金も収める必要もありません。しかし徴兵には従うのでアメリカ人としての国籍を持っています。徴兵に応ずるときは徴兵期間を延長して平和的な看護兵や後方勤務につきます。

さて日本にはいろいろな仏教の宗派があります。しかしこのアーミッシュのように近代文明を排除して質素な生活をしている宗派はあるのでしょうか?
何か深く考えさせられます。

写真の出典は以下通りです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Amish 
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=%EF%BC%A1%EF%BD%8D%EF%BD%89%EF%BD%93%EF%BD%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=x21sTdiDCoXovQPLhoHYBA&ved=0CDQQsAQ

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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