後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

「残暑厳しい中、頑張って花々の写真を撮りに行きました」

2016年08月25日 | 写真
台風が過ぎたら、秋風が吹くのではないかと期待していましたがが見事裏切られ猛暑がまたやって来ました。
午後から都立薬草植物園へ行きました。
夏は花の種類が少ないのですが、それでもオミナエシなどが咲いていました。
裏の雑木林でミンミン蝉が耳を聾せんばかりに鳴いていました。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は、オミナエシです。

2番目の写真は、キキョウです。

3番目の写真は、コウホンです。

4番目の写真は、コガネバナです。

5番目の写真は、タバコの花です。

6番目の写真は、ニラの花です。

7番目の写真は、ニチニチソウです。
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北方四島の歴史と元そこに住んでいた島民たちの考え方

2016年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦は人類の経験した一番大規模な戦争でした。数多くの悲劇がヨーロッパで、アジアで、中東で、アフリカで起きました。
何千万人もの人が犠牲になりました。各地で飢餓状態が生じました。そして戦勝国は領土を拡大して、現在にいたるまで領土をめぐる抗争をあちこちに残しました。
日本も例外ではありません。現在にいたるまで隣国との島の領土権を巡って抗争が続いています。尖閣諸島、竹島、北方四島、はそれぞれ中国、韓国、ロシアとの間で現在に至るまで抗争が続いています。戦争が遺した悲劇です。

今日は北方四島がロシアの実効支配下になった経緯と、その後の歴史を簡略に示し、北海道の東部の標津町に住んでいる元島民たちの考え方をご紹介したいと思います。

まず北方四島の場所を示します。

この1番目の写真は北方四島です。知床半島のすぐそばにあるのが国後島で、その右上が択捉島です。根室の東にある小さな島々が歯舞諸島で、その右上にある長方形の島が色丹島です。

2番目の写真は知床半島から見た国後島の遠景です。

さてこれらの北方四島の歴史はどのようなものでしょうか?
分かり易く箇条書きで下に示します。

(1)ヤルタ会談での密約でロシア領になることを決める。
第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった昭和20年(1945年)2月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。
ここでルーズベルトは、スターリンに、ドイツ降伏の3ヵ月後に日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう要請しました。ルーズベルトはその見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する全ての権益をソ連に与えるという密約を交わしたのです。
(2)ヤルタ会談に従って、日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し、千島列島に侵攻を開始。
  太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が北方四島に上陸、占領しました。
(3)
アメリカがソ連による占領を承認する。
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されましたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となったのです。
(4)北方四島をソ連の行政区に正式に編入。
1946年1月29日、アメリカ占領軍のGHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されました。すると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に行政編入をしたのです。そして3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更されました。
(5)アメリカとソ連と日本人の島民の引揚について合意成立。
1946年12月、日本占領軍のGHQとソ連との間で、日本人全員の引き上げが合意されました。そして引揚が1947年に始まり1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。
(6)戦後のソ連による国後島の開発。
戦後のソ連は、ユジノクリリスクという新たな町を、日本時代の古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設します。そして北方四島に軍事基地を作ります。
(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6 からの抜粋です。)

3番目の写真はユジノクリリスクの風景です。

4番目の写真は北方四島にあるロシアの小学校の写真です。
(7)ソ連崩壊後、2島返還論が小渕首相に進められた。
小渕政権時代に鈴木宗男大臣がエリツイン大統領と歯舞島と色丹島の2島返還交渉をしました。
しかしアメリカが日露間の親密化を嫌い、横やりが入ったらしく、挫折したと言われています。これで北方四島の返還にはアメリカの意見を斟酌する必要があることが明らかになったのです。日本がロシアと関係が悪くなるほど安保条約がより強化されるのです。
ですから北方四島が返還されない方がアメリカの利益になるのです。

以上を要約すると1946年にアメリカ占領軍とソ連側との交渉によって北方四島はソ連の領土に編入されたのです。
しかし以前の統治国のだった日本を完全に排除した上での決定は国際法的によると無効と理解出来ます。
そこで日本はサンフランシスコ平和条約の成立後、しばらくしてから4島の返還運動が始めたのです。平和条約成立以前は日本はアメリカの占領下であったので、占領軍が合意している以上、ソ連に対して返還運動が出来なかったのです。

このような歴史を持っている北方四島の元の島民はどのように考えているのでしょうか?
北方領土からの引揚者の多くは国後島の対岸にある標津町に住みました。
その標津町に数年住んでいたことのある友人が以下のような文章を送ってくれました。

・・・・以前、私は北海道の標津町に住んでいました。多くの友人もできました。
特に漁業関係者とも胸襟を開いて話しました。
敗戦後、国後島が占領され、島民は追われました。
それはそれとして、国後の原住民はアイヌでした。江戸時代から和人が滅ぼしたり、混血して、昭和時代になると純粋な原住民はいなかったそうです。
ソ連に追われて、彼らは標津町の漁民になりました。漁業に成功した人もあり、失敗して釧路や札幌へ流れた人もいたそうです。
月日が経てば、子供たちは進学し、内地へも行ってしまいます。残って父の漁業を継ぐ者もいます。
元々この地は内地からの入植者で開けた土地です。国後からの移住者が増えただけです。戦前から結婚などで標津町と国後は交流もありました。ですからスムーズに移住生活が出来ました。
しばらくすると内地から「北方領土返還」の声が聞こえてきました。
標津町にも同調する者はいます。しかし、元の国後島民の関心は「漁業権」だけなのです。あの海でもう一度漁がしたい!!。あの豊かな魚、昆布を獲りたい。浜に番屋ぐらいは建てたい。それが本音です。
彼らの歳はあと何年もありません。子供たちは日本の生活に慣れて、不便な島へ戻る(移住する)事は誰も望んでいません。勉強のできる子供を札幌の学校へやりたい、それなんです。
隣の別海町の人が墓参で島へ行きました。その人は島の様子を話します。別海町のほうが好い、これが結論です。
しかし、表立っては言いません。90歳の爺さんは夢のような海の幸を語りますが、設備の整った標津町の病院へ通っています。
まあ、北方領土返還運動も飯の種ですから、その筋の人にとっては命よりも大切でしょう。市町村も国から対策費が出ていますから、建物も立てられるし、いいんじゃない、と思っています。
こんな面白い噂話が有ります。噂話ですから真偽はわかりません。
日本から墓参団が船で国後へ行きました。船の先には行先の国の国旗を掲揚するそうです。当然日の丸をつけて入港しました。するとソ連の役人が日の丸を降ろせと指示したそうです。船長は降ろそうとすると、乗っていた厚生省の係官が、絶対ダメと言い張ったそうです。国後島は日本だからです。
入港し上陸しなければ墓参は出来ません。
すると復帰運動をしている活動家が日の丸を降ろし、赤い旗を掲揚したそうです。勝手にした事ですから日本の顔も立ち、ソ連も顔が立ち、皆ハッピーだったそうです。
噂話ですから笑い流して下さい。(終わり)・・・・・・

第二次世界大戦戦争の悲劇は何千万人という人間が死んだことです。そして実にいろいろな未解決の問題をこの地球上に残しました。

北方四島が一日も早く日本に返還されることを祈りながら終りと致します。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

5番目の写真は北方四島の風景写真です。


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アメリカの自由と平等にはキリスト教が少し関係している

2016年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカには転職の自由、残業をしない自由、上役に意見を堂々と述べる自由、転勤を断る自由、結婚の相手を自分で選ぶ自由、離婚の自由、それに銃を持つ自由などなどがあります。
そして、黒人差別があるにも関わらず、彼等はよく「人間は皆平等だ」と言います。何故、このような文化を持っているのでしょうか?
今日はその理由の一つとしての、彼等とキリスト教の関係を見てみましょう。

アメリカで平等とか自由という言葉を使う時、多くの人々は神を連想しているようです。
そして平等とか自由は神から与えられた基本的な人権だと感じます。何せアメリカでは95%の人がキリスト教の言う神の存在を信じているのです。
このような文化がある一方で、 アメリカは戦争をよくします。貧富の差も大きい社会です。相変わらず黒人差別があります。
それはアメリカ文化の大きな欠陥に違いありません。

以下に示した1番目の写真は 「世界55ケ国の神を信じる人の数の2000年の統計調査結果」を図面で示したのもです。

この写真の出典は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html です。

この統計調査は、世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し実施した調査結果です。調査には、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較する「世界価値観調査」も含まれています。調査は1981年から始まり、1990年からは5年ごとに行われています。各国毎に全国の18歳以上の男女1,000サンプル程度の回収を基本とした個人単位の意識調査です。
その調査結果から、ここでは、神の存在、死後の世界に対する各国国民の見方を図に示してあります。
この図の詳しい説明は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9520.html に御座います。

神の存在と死後の世界を比べると、神の存在の方が一般的に信じられていあす。
神の存在は24カ国で90%以上の人が信じており、50%未満の人しか信じていない国は5カ国に過ぎないのに対して、死後の世界は、90%以上の人が信じている国は4カ国しかなく、50%未満の人しか信じていない国は25カ国もある。
 エジプト人は、神の存在、死後の世界ともに、100%の人が信じている。ヨルダン、インドネシア、フィリピンといった諸国も、エジプトと同様の見方を示している。逆に、ベトナムは、神の存在も死後の世界も信じていない者が多い点で目立っている。これは上座仏教の影響なのかも知れないと思います。
日本は、ベトナム、チェコと並んで、神の存在を信じない人の多い国ですが、死後の世界については、信じない人が多いのです。その比率は、ドイツ、デンマークと同程度であり、それほど目立っているわけではないようです。

このような調査結果を見るとアメリカの自由や平等に対する考え方にキリスト教の教えが影響しているのではないかと考えられます。
キリスト教では神の前では人間は皆平等だと強く教えています。この世では不平等でも神は平等に愛してくれると言います。
同じ様に人間の自由は神が与えたという理解が根底にあってアメリカのいろいろな自由があるのかもしれません。
これは私が感じていることなので間違っているかも知れません。


今日の挿絵代わりの写真は6月に神代植物公園で撮ったダリアの花とベコニアの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







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日本会議を支援している安倍政権の本質と今後の政策

2016年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
安倍総理と自民党の大部分の国会議員は日本会議国会議員懇談会に所属していて、日本の右派的団体の日本会議を支援しています。
ですから安倍政権の本質と、今後の政策は日本会議の活動方針を見れは明快に分かります。

しかし何故か日本のマスコミは「日本会議」について報道をほとんどしません。触らぬ神に、祟りなしと考えているのでしょうか。
そこで今日は、この日本会議の活動方針をご説明したいと思います。

その前に、まず日本会議国会議員懇談会を説明させて下さい。
この懇談会は日本会議の活動を支援する超党派の議員によって構成される議員連盟です。1997年に設立されました。
2014年の時点での参加国会議員数は289名でした。2015年9月時点では、281名の国会議員が参加しており、そのうち256人が自民党員なのです。自民党以外にも民進党の一部の右派系議員も加盟しています。

そして驚いたことに15人もの日本会議国会議員懇談会会員が第二次安倍内閣への入閣しているのです。
しかも、この懇談会の運営担当者は以下のように安倍政権と一体になっているのです。

特別顧問、安倍晋三、麻生太郎

会長、平沼赳夫、会長代行、 額賀福志郎

副会長、
石破茂
小池百合子
菅義偉
中谷元、など

以上のように安倍政権は右翼団体、日本会議の活動を支援するために政策を決めているのです。ですから日本会議の将来の活動方針を見れば安倍政権の本質と、今後の政策の内容が理解できる寸法になっているのです。

それでは右翼団体、日本会議とはどのような団体なのでしょうか?
日本会議は、1997年に設立された日本の民間団体です。2016年現在、会員は約38000名、全国都道府県に本部があり、その傘下には241の市町村支部があります。
そして上で説明した日本会議国会議員懇談会と、地方の日本会議地方議員連盟は、日本会議の中の関連団体なのです。

その詳細を、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0 に従って説明いたします。

この団体の活動目的は、"美しい日本の再建と誇りある国づくり"です。その実現のための政策提言と国民運動を行うのがこの団体の目的なのです。

主な活動には以下のものがあります。

1、男系による皇位の安定的継承を目的とした皇室典範改正
2、「押し付け憲法論」に立った憲法改正要綱の作成
3、学校教科書に於ける「自虐的」「反国家」とみなした記述の是正
4、自衛隊法の改正等による「有事法制」の整備
5、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
6、男女平等への反対運動
7、「人権機関設置法」反対

組織は都道府県を9区域にまとめ、県毎に県本部を置き、さらにその下に支部が置かれていまます。月刊機関誌「日本の息吹」を発行しています。
会員種類は、支援会員(月刊誌購読のみ)、正会員(年会費1万円)、維持会員(年会費3万円)、篤志会員(年会費10万円)、議員会員(年会費1万円)、女性会員(年会費5000円)などです。

主な役員は以下の通りです。
会長
塚本幸一(ワコール会長、初代 1997年 - 1998年)
稲葉興作(石川島播磨重工業会長、第2代 1998年 - 2001年)
三好達(元最高裁判所長官、第3代 2001年 - 2015年)
田久保忠衛(外交評論家、杏林大学名誉教授、第4代 2015年 - )

副会長
安西愛子(声楽家、元参議院議員、日本福祉党顧問)
小田村四郎(明成社社長、拓殖大学元総長)
小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
田中恆清(神社本庁総長、石清水八幡宮宮司、国民の会代表発起人)

顧問
石井公一郎(ブリヂストンサイクル元会長、明成社初代社長)
北白川道久(神社本庁統理)
鷹司尚武(伊勢神宮大宮司)
服部貞弘(岩津天満宮名誉宮司、神道政治連盟常任顧問)
渡邊惠進(第255世天台座主)

以上のようにこの団体の始めは神道関係者や天台宗などの仏教関係者や生長の家などの右派が作ったものです。
それに実業界の幹部の愛国者が加わり、安倍政権になってから安倍総理を始め閣僚や多数の自民党議員が支持することに決め、加盟したのです。
日本会議は安倍政権と直接組んだことで一躍、注目をあびるようになったと考えられます。

先の参議院選挙でも自民党が大勝したのです。このことは国民の大多数は日本会議の活動を支援することを意味します。

皆様は本当に以下の方針迄まで賛成なのでしょうか?
・・・
5、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
6、男女平等への反対運動
7、「人権機関設置法」反対

賛成なら、それはそれで多数決が重要な民主主義では、上の5、6、7は安倍政権によって法制化がなされるでしょう。
私は老人です。日本の将来は若者に任せるのが良いと思います。しかし、どのように考えても
5、6、7へ対しては深い危惧を感じています。
皆様のご意見をコメントとして頂けたら嬉しく思います。
今日の挿し絵代わりの写真は10日前に撮った甲斐駒岳の麓の小屋の付近で撮った何気ない風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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石原慎太郎氏の欧米人差別とトランプ氏の差別主義の共通性

2016年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の文芸春秋の9月特別号に石原慎太郎氏が、「日本は「白人の失敗」に学べ」という記事を書いています。

この記事の中で彼は白人の植民地収奪が現在のイスラム過激派のテロの原因になっていると書いています。
そして田中角栄氏の失脚は、田中氏がアメリカを怒せたので、アメリカがしたことだと書いています。
さらにアメリカでの人種間対立を悪化させたのはオバマ大統領だと言うのです。

そこで日本はこれらの白人の悪行や失敗から学ぶべきだと言います。
その結果、日本は移民を日本になじませて、入れろと主張しています。
最後の部分ではアメリカの先端的な戦闘機や武器は日本の先端技術が支えていると言うのです。

結論として、「ヨーロッパは衰退し、EU崩壊は目前のこととなりつつある。このままではヨーロッパはもたない。アメリカの人種的分裂もひどくなるばかりである。そんな時代だからこそ、白人でもなく、キリスト教徒でもなくイスラム教徒でもない日本人の役割は重要になっている。日本ほどアメリカが必要としている国は無いと言いたい、混迷を深める世界にあって、最も重要な役割を果たせるのはこの日本であることを、日本人は知っておかなければいけない。」と主張しているのです。
すなわち今後の世界では日本人が一番重要になると自画自賛しているのです。

この記事を読んで私は石原氏は差別主義者で、その上排他的考えの持ち主だと感じました。
そして、嗚呼、これはアメリカの大統領候補のトランプ氏の差別主義や排他主義と同じ性質だと感じたのです。

石原氏は白人を差別し、嫌います。彼等の悪行をあげつらい現在のテロ事件の原因になっているというのです。
アメリカ社会の白人と黒人など人種対立が将来ますます激しくなると言うのです。

一方のトランプ氏は人種にかかわりなくイスラム教徒は差別してアメリカへの入国を禁止すると言うのです。メキシコとの国境に壁を作り、メキシコ人の不法移民を禁止すると言うのです。

石原氏とトランプ氏の排他主義の違いは差別の基準だけです。
石原氏は日本人か白人か黒人かという基準を使います。同じアジア人へ対する考慮が見られません。
トランプ氏はイスラム教徒かキリスト教徒かという基準で差別します。そして不法移民でアメリカ人の職を奪うか否かという基準でメキシコ人を差別し排斥します。

誤解の無いように書きますが民族の違いはその文化の差別から自然発生的に生じます。ですから差別というものが全て悪いと私は考えていません。
問題は差別の基準の問題です。石原氏の基準に問題があるのです。同様にトランプ氏の基準が悪いのです。

ここでかねがね私が考えていた政治家としての石原氏の弱点を短く書いておきます。
彼は卓越した国内政治の指導者です。たった一つの弱点は彼には国際的視野が完全に欠落していることです。

今日取り上げた、「日本は「白人の失敗」に学べ」という記事をアメリカ人やヨーロッパ人が読んだらどのように考えるでしょうか?
白人を一方的に悪と断罪していることに怒りを感じるでしょう。
アジアのいろいるな国の人が読んだらどう思うでしょうか?アジア人を無視しているので悲しく思うでしょう。
石原慎太郎氏にはそのような発想が欠落しているのです。

何故、欠落しているか?その原因を考えると彼には欧米に住んだ経験がないのです。アジアのいろいろな国に住んだことがないのです。
若くして芥川賞を受賞して国内ではなばなしくもて囃されました。弟の裕次郎さんも一緒にもて囃されました。
その後、国内政治家として高く評価され忙しくなり、外国に長期間住むこと出来ませんでした。

外国に長期間住んでみると白人、黒人、日本人と差別することの愚かさがしみじみ理解出来るはずです。
人間は心の中での差別はさけられません。
しかし翻訳される可能性のある「文芸春秋」に、あのような記事を公表することは国益にかなうものでしょうか?
白人が読んだら嫌悪する筈です。同じことでも礼儀正しい言い回しを使えば良いのです。

もう一つの石原氏の白人嫌いは、彼がキリスト教をあまりにも知らな過ぎるからと思います。
キリスト教徒のスペイン人が南米を蹂躙し、残酷な所業をしたからキリスト教は悪であると単純に思っているのでしょうか?
どんな宗教でも悪い側面と良い側面があります。どちらの側面を大きくするかは人間が決めることなのです。
もし当時、日本人が大洋の航海術を知っていて、鉄砲を持っていたとしたら、日本人も南米で同じことをした可能性もある筈です。
そのことを考えない態度が偏狭過ぎるのです。

世界にはいろいろな人種が住んでいます。実に種々の宗教もあります。この状態は将来も変わらないでしょう。
ですからこそ、石原氏やトランプ氏のような差別主義は人類に幸をもたらさないと信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は、石原氏が軽く考えているキリスト教の風景です。
ユネスコの世界遺産へ申請中の長崎の教会群とキリスト教関連遺産の中の3つの天主堂の写真です。上から順に、大浦天主堂、野首集落跡と旧野首教会堂、そして江上天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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国指定特別天然記念物の阿寒湖のマリモの楽しいお話

2016年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者の方は憶えていらっしゃるでしょうが、阿寒湖にしか育たないマリモが急に騒がれ始め、とても持て囃された時代がありました。
なにせ球のような形に育つ、美しい緑の藻なのです。
今日は、あの頃を懐かしいと思う方々へ阿寒湖のマリモの楽しいお話をお送りします。

マリモは戦後の暗い世の中に明るい夢を与えたのです。新聞が大々的に書きたてたものです。
あれは1952年頃のことでした。その1952年に、この非常に珍しい阿寒湖のマリモを、国が特別天然記念物に指定したのです。
マリモが大きな球状の集合体を形成するのは日本では阿寒湖と青森県の小川原湖だけなのです。非常に珍しい藻の一種なのです。
そして、ヨーロッパ北部、ロシア、北アメリカ等にも分布しています。

特別天然記念物に指定された翌年の1953年には、「マリモの歌」も一世を風靡したのです。日本中のラジオから毎日のようにこの歌が流れていたのです。

1 水面(みずも)をわたる風さみし
  阿寒(あかん)の山の湖に
  浮かぶマリモよ なに思う
  マリモよマリモ 緑のマリモ

2 晴れれば浮かぶ水の上
  曇れば沈む水の底
  恋は悲しと嘆きあう
  マリモよマリモ 涙のマリモ

3 アイヌの村に今もなお
  悲しくのこるロマンスを
  歌うマリモの影さみし
  マリモよマリモ 緑のマリモ
(作詞:いわせひろし、作曲:八洲秀章、唄:安藤まり子)

流行歌とともに、次のようなアイヌの伝説もつたわって来ました。

その昔、阿寒湖畔の小さな村に美しい娘セトナがおりました。セトナはその村の酋長の娘で、酋長が定めた男と結婚する約束がありました。ところが、セトナはそのしもべ、マニベといつしか恋仲となってしまいました。マニベがしもべであるために、二人の恋はついにかなわず、やがてセトナは約束の男と結婚することになりました。
けれども婚礼の夜、セトナはマニベを忘れることはできず、遠くから聞こえるマニベのかなでる美しい草笛に誘われて湖畔にさまよいいで、月淡き湖に二人は丸木舟で沖に漕ぎ出しました。 この世に結ばれぬ運命を故郷の湖底に結ぼうと身を投げたのです。
酋長をはじめ村人も、二人の深く清い心をそのとき初めて知り、二人の永遠の幸せを祈りました。
セトナとマニベの激しい恋の魂は、まもなくマリモの姿と変え、湖の中で永遠に生きて行き続けていると伝えられています。
阿寒湖では、いまでも相愛の男女がマリモに祈りをささげると、いつまでも幸せになるといわれています。

あの頃、私は阿寒湖のマリモを一度は見てみたいと憧れていました。
ところが、それから何年もたってから瓶の水の中に入れたマリモが売り出されたのです。
日本では阿寒湖のマリモは特別天然記念物です。採集は厳禁です。
しかしマリモに憧れる人々が多かったのです。輸入業者が採集が禁止されていないロシアから天然マリモを輸入して、瓶の水に入れて売り出したのです。その上、釧路湿原のシラルトロ湖で採取したマリモ糸状体を人工的に丸め、育てた球状のマリモを「養殖マリモ」として売り出したのです。
養殖まりもは、1年間で約1ミリ~2ミリ大きくなると言われ、天然まりもは1年間で約4ミリ~7ミリ大きくなると言われております。最近はネットの通販に簡単に手が入るのです。
美しい緑の球体を見ていると、不思議にこの世の憂鬱を忘れ、癒されると言います。

私はマリモに憧れて阿寒湖まで何度か旅をしたことがあります。
なにせ阿寒湖の沖にある チュウルイ島にはマリモ展示センターがあり巨大なマリモが展示してあるのです、。
何回か訪問し、巨大な球体を作って何十年も生きているマリモに何故かひどく感動したものです。それは本当に不思議な植物です。

そんな旅をした、2012年の9月に撮った阿寒湖の風景写真を示します。








そしてチュウルイ島のマリモ展示センターにあるマリモの写真を示します。

このマリモの写真の出典:http://tomato-tabi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_224/tomato-tabi/E381BEE3828AE382822.JPG
さらに、最近、販売されているマリモの写真を示します。

販売されている養殖マリモの写真の出典は、http://shop-n.co.jp/SHOP/marimo_004.html です

この阿寒湖はベニザケの陸封型の湖沼残留型のヒメマスが生息し、2005年11月、ラムサール条約登録湿地となったそうです。

マリモが大きな球状の集合体を形成するのは日本では阿寒湖と青森県の小川原湖だけです。しかし、球状にならないマリモの生育が確認されている湖沼は以下のように報告されています。
•北海道:釧路湿原内の中小湖沼(シラルトロ湖・塘路湖・達古武沼)・チミケップ湖
•青森県:左京沼・田面木沼・市柳沼・姉沼・内沼
•山梨県:山中湖・河口湖・西湖
•滋賀県:琵琶湖
よく観察すれば糸状の毬藻になる藻を見つけることが出来るかも知れません。
今日は自然の不思議さの一つのマリモのお話をお送り致しまいた。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料=========================
マリモ発見の歴史;https://pucchi.net/hokkaido/marimo/marimohistory.php より抜粋しました。

国内で球状マリモが発見されたのは阿寒湖が最初でした。その美しさと希少さゆえに、天然記念物、そして特別天然記念物に指定されました。開発に伴いマリモの生息域が減少したため保護活動も進められてきました。

世界的には1753年にカール・フォン・リンネがスウェーデンでマリモを採取し学名を付けたのが記録に残る最初ですが、国内でマリモが最初に発見されたのは1897年のことでした。札幌農学校(当時)の川上瀧彌(かわかみたきや)氏が、阿寒湖西部の湾であるシュリコマベツ湾で発見したものでした。川上氏はこれに「毬藻(まりも)」と命名し、翌年に農学校学芸会雑誌などで湖底に大小の球状の藻が羅列していたことを報告しました。

1919年には植物学者・吉井義次氏が阿寒湖で本格的な研究を行い、マリモが世界的に見て貴重だと断定、2年後の1921年3月3日に国指定天然記念物になりました。しかしその後、マリモが国民の間に知られるようになるとマリモの違法採取が相次いだことから、1950年以降のマリモ調査に基づき1952年3月29日の国指定特別天然記念物へとつながりました。

1955年に全国各地からマリモが阿寒湖に戻されましたが、生息域は減少。最初に発見されたシュリコマベツ湾周辺では"絶滅"したとされています。現在は環境省レッドリストで最も絶滅が危惧される「絶滅危惧I類(CR+EN)」に分類され、マリモ保護の観点からマリモ生息域への立ち入りやマリモの移動・持ち帰りは禁止されています。

阿寒湖のマリモを巡る歴史 阿寒湖においては、シュリコマベツ湾上流の森林伐採と開発や、ウチダザリガニによる巣作り・食用の影響で減少傾向にあります。それは阿寒湖に限った話ではなく、例えば標茶町のシラルトロ湖は多数生息している地ですが、土産用マリモはここ出身であることから徐々に減少、釧路町の達古武沼に至ってはあまり確認されなくなったということです。

阿寒湖のマリモ関連年表(主なものだけ掲載)

1897年:川上瀧彌がシュリコマベツ湾で発見
1898年:川上瀧彌が植物学雑誌で発見記録を掲載し「毬藻」と命名
1919年:吉井義次が調査、飽別発電所供用開始、阿寒湖は湖面低下へ
1921年:天然記念物指定
1923年:保護のためマリモを他の湖沼に移植
1941年:シュリコマベツ湾のマリモ全滅
1950年:マリモ保護会発足、第1階マリモ祭り、電力利用による水位低下による被害を調査開始
1952年:特別天然記念物指定
1953年:然別第1発電所竣工、阿寒湖水位低下阻止へ
1957年:チュウルイ地区にマリモ保護監視人常駐
1961年:観光船のマリモ生息地航行自主規制
1978年:チュウルイ島マリモ展示観察センター竣工
1995年:チュウルイ島マリモ展示観察センター改修
2002年:阿寒湖畔エコミュージアムセンターにマリモ研究室設置
2005年:阿寒湖ラムサール条約登録
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美しき会津、しかしその排他性と東京の自由

2016年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の記事には2つのことを書きます。
一つは日本の各地にある美しい風光の一例として会津地方の魅力をご紹介します。
そして二つ目は、その美しい地方には、しばしば排他的な風土があることです。それに対照的なのが東京の自由な社会です。
従来から、東京に人口が集中する理由として就職口があるからと言われていました。しかしそれも重要な理由に違いありませんが、東京の自由な雰囲気が若者を地方、地方から吸い寄せるからとも考えられます。
過疎化の原因を経済的な理由だけで理解するのは間違いではないでしょうか?こんな主張も織り込んでみたいと思います。

ぞれでは早速、会津の魅力を写真でご紹介いたします。

この1番目の写真は冬の猪苗代湖と磐梯山です。湖の手前に写っている一列の白い点はハクチョウのようです。冬になると白鳥が群れをなしてシベリアから渡って来るのです。写真の出典は、http://find-travel.jp/article/6221です。

2番目の写真は夏の猪苗代湖のヨットの写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
ヨットの上には遊覧船のように人が沢山乗って、夏の風を楽しんでいます。余談ながら自分も今は亡き友人のヨットに誘われて猪苗代湖の花春カップレースに数回出たことを思い出します。

3番目の写真は春の夜の鶴ヶ城の写真です。出典は、http://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=13337です。
戦国武将の蒲生氏郷が領主になって、城を拡張しました。その氏郷が茶道を持ち込み、城跡や御薬園には風雅な茶室があります。その茶室で抹茶を楽しむことも会津の魅力の一つになっています。

4番目の写真は白虎隊の墓の写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/chi_hiro_0926/53039601.htmlです。
白虎隊は会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊でした。戊辰戦争の時、江戸幕府軍として西軍と戦い、敗戦に追い込まれ19人が郊外の飯盛山で落城寸前の鶴ヶ城を見ながら自刃しました。
この事件は日本が明治維新によって近代国家に生まれ変わる過程で起きた数多くの悲劇の一つになりました。

5番目の写真は白虎隊の19人の墓の説明板の写真です。
出典は、http://www.360navi.com/photo/07fukusima/02aizu/03byakko/10page.htmです。
白虎隊の自刃は悲しいことです。彼等のお墓を見るとしみじみとした気分になります。その気分で猪苗代湖や磐梯山を眺めると一層美しく見えます。
会津の魅力は他にもいろいろありますが省略いたします。

さてこの会津の排他性に話を進めます。
近所に会津出身の紳士が夫婦で住んでいました。上の写真のような思い出がありましたので、ある時、その紳士へ会津は良い所ですねと言いました。そうしたら彼は途端に表情を変えて、会津の悪口を縷々と話し出したのです。何度も繰り返し言っていた言葉が「排他性」という言葉でした。彼は東京に出てからは二度と会津には帰ったことは無いと語気を強めるのです。そしてよそ者がいじめられて泣くこと、次第に仲良くなり別れる時に又泣くくことを「会津の二度泣き」という言葉になっていると言います。
何があったのかは知りませんがよっぽど嫌な思いをしたに違いありません。
地方によっては排他的な文化が強いところがあるのでしょう。しかしそれを意識する人は回りの人にいじめられたのかも知れません。
会津の排他性を非難している紳士は個性豊かなインテリです。とても地方の文化にはなじめそうではありません。

異なる考えを持った人をのけ者にし、排斥する文化は私の生まれ育った東北地方の各地にもあるようです。津軽藩、南部藩、鶴岡藩、伊達藩などのあった地方は城下町を誇りにし、一般的に排他的な雰囲気がおるのではないでしょうか。そういえば、京都や金沢にも排他的な文化があると聞いています。

若者にとってそのような地方の息苦しさに耐えかねて、自由な東京に出て来る人も多いと想像されます。
この感じは地方で生まれ育つたひとには理解出来ると思います。都会で生まれ育ちの人にはなかなか判らない地方の文化なのです。
ですから東京の自由な雰囲気が若者を地方、地方から吸い寄せると私は考えています。

21世紀にもなって、排他性など日本から消えてしまったと言う人もいるでしょう。しかし移民を絶体に入れようとしない日本に、本当に排他性は消滅したと言えるでしょうか?そんなことを考える今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
白虎隊(びゃっこたい)とは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A より抜粋。

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの)によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。

途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。

その後、飯沼は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に、日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。このほか「士中二番隊」の隊士であった酒井峰冶も生き残って精米屋を営み、没後の1993年に酒井家の仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』が発見され、戸ノ口原の戦闘の様子が後年に残されている。
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「日韓友好と日中友好は日本の平和のかなめ・対立より平和を」

2016年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、中国人や韓国人の悪口を言う日本人が増えています。その言い分は、常に相手が日本に対して意地悪いことをするからだというものです。しかし冷静に客観的に考えれば先方も同じ言い分なのだと考えるのが正しい判断というものです。

関係3国の政府の考えは別にして、将来の日本の真の平和を確実に守るためには防衛力の整備をしただけでは不十分です。
隣国の韓国と中国との友好が絶対的に必要になります。
国際間の友好は国民一人一人の友好も非常に重要なのです。あなた自身が韓国や中国を憎んでいたら平和を確実には守れません。
その上、あなたの憎悪は自分の人格を傷つけているのです。
外国を憎むより、外国を大切にすることが平和の基本になるとお考えになりませんか?

そこで私がカトリックだったお陰で韓国や中国に対して好意的になった体験をご報告したいと存じます。
1980年代に中国や韓国を訪問しました。そして、中国と韓国のカトリック教会で彼等と一緒に祈った体験がありました。
中国の教会は文化大革命で破壊され荒れ果てていました。椅子も薪にされ教会の中は荒れていました。その教会で中国人の信者達が冷たい床に膝まづいて熱心に祈っていました。それは感動的な光景でした。

私は外国に行くとその土地の教会や寺院を訪れるようにしています。そうするとその国の人々に暖かい親近感が湧いて来るのです。
これが洗礼受けたお蔭で変わったことの一つです。私は宗教のお陰で韓国や中国人を友人のように感じることが出来たのです。

私のキリスト教は仏教の影響を深く受けています。ですから 全ての宗教は同じようなものだと思っています。
中国と韓国にはキリスト教の他に仏教も道教も儒教もあります。韓国にはシベリア系の原始宗教もいろいろあります。
しかし全ての宗教の間には絶対に優劣はありません。
宗教が違うからと言って争うことほど愚かなことはありません。
そんな考えなのでいろいろな宗教を信じている中国人や韓国人に親しみを感じるのです。

これは洗礼を受けたお蔭で私が変わったことの一つの実例なのです。

勿論、無宗教の人々でも善意と博愛の精神さえあれば日韓友好も日中友好も確実に築き上げることが出来ます。これも人間の素晴らしさです。
将来の日本の真の平和を確実に守るためには、あなた自身が中国や韓国に対して好意を持ち、個人として日中友好と日韓友好を可能な限り推進するのが良いと信じています。

なお上の文章では北朝鮮のことには触れませんでしたが、北朝鮮と日本の関係も全く同じように考えるべきと信じています。
勿論、最悪のことも考えて日本の防衛力は可能な限り充実すべきことは論を待ちません。

今日の挿絵の写真はの先週、訪ねた奥多摩湖の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





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老いの悲しみ、淋しさと道端に花々のある風景

2016年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人にもよりますが、ほぼ70歳以上になると老いというものを意識するようになります。
そうすると人生の全ての束縛から解き放されて、毎日が実に明るく、楽しくなるものです。これを老いの華やぎと言うこともあるようです。
しかし同時に老いの悲しみや淋しさが時々、湧き上がって来ます。
老いの悲しさや淋しさにはいろいろな原因があります。
その原因の一つに親、兄弟、や恩人や友人がみんな、みんな亡くなってしまうことがあります。自分独りだけがこの世に取り残されているのです。
亡くなって淋しさを感じるのは親や恩人だけではありません。戦後、読みふけった数多くの本の作家もみんな亡くなってしまいました。
思い出すままに書くと、遠藤周作、堀田善衛、北杜夫、井上靖、三島由紀夫、内田百閒、船橋聖一、山本周五郎、水上勉、武田泰淳、新田次郎、開高兼、大岡昇平、石川達三、林芙美子、火野葦平、檀一雄、高見順、大仏次郎、川端康成、谷崎潤一郎、志賀直哉、などなど。
歌で勇気づけられた美空ひばりが亡くなったときは悲しいショックを受けました。
そして戦後の映画でよく見た俳優が次々に亡くなって行くのです。まだ存命の方もいますが、テレビではめったに見えません。
その俳優を思い出すままに書いてみます。
山本富士子、原節子、岸恵子、高峰秀子、山田五十鈴、司葉子、浅丘ルリ子、若尾文子、佐田啓二、三船敏郎、緒形拳、菅原文太、池部良、仲代達矢、フランキー堺、 渥美清、高倉健、などなどです。

此の世に私の知っている人が皆いなくなるのです。私を知っている人も皆いなくなるのです。
これほど悲しく淋しいことはありません。
この老いの寂寥感は普通は忘れています。老境の遊びに取り紛れているので悲しさや淋しさをあまり感じません。
しかし都会の雑踏の中を歩いている時など、フッと寂寥感に襲われます。まわりにこんなにも人が歩いていても、私を知る人は一人もいません。それほど孤独なことはありません。
そして誰も居ない高原の道路を車で走っている時も、フッと寂寥感が心に湧き上がってきます。写真をご覧下さい。

この1番目の写真は甲斐駒岳の麓の高原の道路の写真です。私の車が小さく頼りなげに写っています。暗い曇りの日だったので一層淋しい風景に見えました。
しかしこの道路の道端には色とりどりの花々が沢山咲いていたのです。
花々の美しさに誘われて車を停めました。

2番目の写真は車を停めた道路わきに咲いていた花々の写真です。
車から降りて何枚も何枚も写真を撮りました。その中から3枚の写真をお送り致します。





車から降りた途端に心を暗くしていた寂寥感がすっかり吹き飛んでしまったのです。
私のそんないい加減さに自分ながら驚いてしまいます。

そうして発見したのです。「花々は老人の淋しさや悲しさを吹き飛ばす」という発見です。
おおげさな書き方ですね。この花々を育てているのは傍の別荘に住んでいるご婦人です。
以前、少し話をしたことがあります。花が好きだから、楽しいから植え、育てているそうです。何故、お好きなのですかと問えば、「理由はありません。好きだから植えているのです」と静かに話していました。 

老いの悲しさや淋しさが道端の花々で消えていまったのです。それだけの話です。
でも蛇足を書きたいのです。
お葬式に行くと沢山の花々が飾ってあります。あの花々は残った遺族や友人の悲しみをいやしてくれているのです。そして故人も天上から花々を見て別離の悲しみをやわらげているのです。
花々は悲しみをやわらげるだけではありません。花言葉というものがあるように人と人の美しい絆も作ってくれます。愛を強めてくれます。でもあまり長くなるので、その話題は別稿に譲りたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「多摩川上流でマス釣りを楽しんでいる人々の風景」

2016年08月17日 | 写真
先週の12日、多摩川上流の「多摩フィッシングセンンター」で撮っ写真です。人々がのんびりと楽しそうに釣りを楽しんでいる光景です。
バーベキューをしている人もいます。
清流に泳いでいるマスを釣り上げるのは素人には難しいものです。
釣れなくても楽しそうです。それでも、たまに釣り上げている人がいます。
夏休みの長閑な風景をお楽しみ下さい。








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我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景を懐かしむ

2016年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。
皆様はそのような昔の故郷の風景をご覧になりたいとお思いではありませんか?
幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。
私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。その仙台を例にして昔の故郷の風景を幾つか見つけましたのご紹介したいと存じます。
昭和という時代は大きな戦争に明け暮れました。そして徹底的な敗戦、続いてアメリカ軍による占領がありました。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。
故郷の仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。ですから仙台は私の大切な故郷です。
仙台に関しては2011年に、以下の4編の記事を、http://blog.goo.ne.jp/yamanasi-satoyama に掲載しています。
追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(2)ベーブ・ルースが来て2本のホームランを打つ 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり 
2011年11月21日 掲載記事
追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅
2011年11月22日 掲載記事
そこで、今日は私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。
ここでは仙台の風景だけを示しますが、日本全国の都市はほぼ同じような風景がひろがっていたと思います。是非、皆様も故郷の昔の風景写真をインターネットで探してご覧になりませんか?

1番目の写真は戦前の仙台駅です。ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。

2番目の写真は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。


3番目の写真は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

4番目の写真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

5番目の写真は 戦災で焼ける前の青葉城の大手門と隅櫓です。

6番目の写真は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。

7番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて、町には何時も軍人さんが歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

8番目の写真は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。

これらの写真を見ていると、戦前、戦後の日本の貧しさがしみじみと身に感じます。
こんなに貧しいにもかかわらず、よくアメリカ相手に戦争をしたものだと驚いてしまいます。日本人は狂っていたのでしょうか。茫々80年、時代の変化に隔世の感を深くします。
昔の日本の風景を見ると現在の豊かさに吃驚します。そしてこの豊かな日本に生きていることに感謝します。人間は感謝の気持ちがあると幸せになると言います。
ですから昔の故郷の写真を見ると懐かしいと胸がうずくと同時に幸福感につつまれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。後藤和弘(藤山杜人)
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イスラム教徒は何故、豚肉を食べず、ヴェールをかぶるのか?

2016年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
イスラム教を信じる人が世界に14億人いると言います。しかし日本人にとってイスラム教ほど理解が難しいものがありません。仏教やキリスト教とはあまりにも違うので全く理解出来ないと言っても過言ではありません。
そこで日本人にも容易に分かりやすい説明の仕方を長い間いろいろと考えて来ました。

イスラム教を検索すると、その教義の「六信五行」がまず出て来ます。教徒が信じるべき6つの事と行うべき5つのことです。
そしてこの「六信五行」の神学的な背景や意味が実にクダクダと書いてあります。
まったく机上の空論です。これではイスラム教徒の実際の日常生活が皆目見当もつきません。
そこで私は勇気をもって簡単に分かるように説明することにしました。

中東やアフリカ北部のイスラム教の国々では禁酒で豚肉を食べず、女は種々の形があるが必ずヴェールをかぶっています。これがイスラム教なのです。
中東から離れたバングラデッシュ、マレーシア、インドネシアでは禁酒とヴェールが必ずしも厳密には守らない人もいます。
しかし、イスラムの特徴は禁酒、豚肉厳禁、ヴェールの3点セットです。如何でしょうか?分かり易いです。

ところがイスラム教は他の宗教と違うところは生活全般と政治や法律も裁判も全て、イスラム法に厳しく従って行われていることです。
ですから政教分離の欧米の考え方や個人の尊厳を守ろうとする考え方からは到底受け入れることに出来ないものなのです。
日本の仏教からも実に理解しがたい考え方なのです。

しかしこれを理解する鍵があります。
何故、豚肉厳禁なのでしょうか?理由はありません。疑問も感じません。イスラム法で厳禁しているから絶対に食べないのです。
何故、禁酒でしょうか?イスラム法で厳禁しているからです。
何故、女はヴェールをかぶっているのでしょうか?イスラム法で決まっているからです。

イスラム教の本質は、「イスラム法」への絶対服従なのです。それは見方によっては一番純粋な信仰といえます。
究極の宗教とも言えます。
よく欧米人や、そして日本人も「彼等には恋愛の自由もなく人権も無く不幸な人々だ」と見下した考えを言う人が多いものです。
冗談ではありません。彼等こそ現在の世界で一番幸福な人々なのかも知れません。そこには宗教的な法悦がみなぎっています。濃厚な家族の愛があります。喜捨の精神があり隣近所が助け合う平和な社会があります。
一日五回の礼拝や、断食月などを行うと生きている喜びが湧き上がってきます。

このように書くとイスラム教の国々は世界一幸福な国ということになります。
ところがイスラム教の国々には大きな貧富の差があります。奴隷のように疲れ切った労働者が沢山います。イスラム教を棄教すれば処刑されます。信仰の自由など絶対にありません。
しかしそれだからと言ってイスラム教の国々は世界一不幸な国ということにはなりません。彼等も赤い血の流れている人間なのです。我々と同じように喜怒哀楽の人生を送っているのです。

何故、中東地域で欧米とイスラム教の国々がいろいろな形の戦争をしているのでしょうか?
その原因の一つに欧米側が「彼等には恋愛の自由もなく、人権も無く、政治と宗教が合体した酷い国々だ」と見下した考え持っているからです。そしてアメリカは敵対する国々を武力で制圧して、民主主義の国家にしてしまえと考えるから戦乱が続くのではないでしょうか?

こんなことを先週の土曜日に山林の中の小屋の窓から周囲の木々を見ながら考えていました。添付した写真がその窓から撮った写真です。
末尾にイスラム教徒の実生活の様子をもう少し詳しく説明してあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










===参考資料=============================
イスラム教の特徴;http://www.geocities.jp/timeway/kougi-44.html

正式の教義である「六信五行」以外のイスラムの特徴

聖戦
ジハードともいう。
 これは、イスラム教徒が異教徒と戦うことです。

イスラム法。

 イスラム教徒はコーランにしたがって生活します。コーランには宗教的な話だけではなくて、日常生活のルールもいろいろ定めている。ムスリムとして生活しようとすると、宗教生活以外でもコーランに縛られることが多いのです。また、ムスリムが生活上でいろいろなトラブルがあった場合にも、コーランの記述に基づいて裁く。
 こうして、イスラム世界ではコーランに基づく法律が発展しました。これをイスラム法という。
 イスラム法を学んだイスラム法学者、ウラマーという人たちが、人々の日常的な生活の相談から政治的な指導までする。そういう世界です。
 日本や欧米では、政教分離が原則ですね。政治に宗教が関わらないように制度上さまざまな工夫をしている。ところが、イスラムでは政治・法律と宗教を切り離すことができない。すべてがイスラム教に関わっているのです。
 だから、一日五回の礼拝や、断食月なども可能になるのです。

 たとえば結婚ですが、ムスリムは結婚前に両者が契約書を作る。何が書いてあるかというと、離婚する場合の条件が書いてある。離婚の場合、夫はどれだけの金額を妻に渡すとかなんとか。契約書をイスラム法学者に見せて問題がないのを確認してもらってから、正式な結婚となります。こういう結婚の仕方がイスラム世界でどこまで一般的かはわかりませんが、そういう地域もあるということ、生活のすべての面がイスラム法、コーランに基づいているということを覚えておいてください。

 聖職者の存在を認めない。
 イスラム教ではお坊さん、聖職者はいません。信者はすべて対等です。キリスト教の牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていません。
 テレビを見ていると「○○師」という名前で聖職者のような人が出てくるときがありますが、あれはイスラム法学者で聖職者ではないのです。イスラム法を解釈するだけで、神との関係で特別な地位にあるわけではない。
 ただ、一般民衆の心情として「聖者」を求める気持ちはあって、地域地域でいろいろな聖者がまつられています。ただ、これは公式的なイスラム教から見ると変則的ということになる。

 商人の倫理を重視。
 ムハンマド自身が商人だったこともあって、イスラムは商業倫理を尊重しています。仏教でも、キリスト教でも商売を軽視、もしくは蔑視するところがある。これは、農民のように額に汗して手に豆を作って働きもせず、右のものを左に動かすだけで儲けることを卑しいこととしたためです。イスラムにはこういう面はない。
 むしろ、商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。・・・・

 手形や為替のような商業システムも整備されました。

 商業が発展すると、当然都市も発展する。
 都市はその中心にモスクがあります。モスクは礼拝所です。寺院に近いですが、正確には寺院ではない。信者が礼拝のために集まる集会所と言った方がよい。イスラムは偶像崇拝禁止ですから、モスクの中にも何もない。ただ、部屋の壁にメッカの方向を示すくぼみが作ってあるだけです。ご本尊やご神体をまつってある寺院ではない。

 もう一つ都市の中心にあるのが市場です。バザールです。すっかり日本語になっているほどです。ここで、さまざまな取引がおこなわれる。

 それ以外に都市には、隊商宿、公衆浴場、公衆便所、賃貸アパート、貸店舗などが整備されていました。
・・・  ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していたわけですから、本来ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよいということになる。

 全身を服で覆って頭からすっぽりヴェールをかぶっています。肌はどこも露出していない。
 ただ、これは極端な格好で、インドネシアやマレーシアでは女性もここまで肌を隠してはいません。せいぜい頭髪をスカーフで覆っているくらいです。・・・・

 それはともかく、なぜイスラムでは女性はヴェールをつけるのでしょう。

 イスラムでは人間は弱いものだ、という発想がある。人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。先ほど、結婚の前に離婚の条件を決めておく話をしましたが、夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしているのです。人は弱いから。決して、永遠の愛は誓わない。

 同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つのです。
 弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す、ということらしい。面白い理屈です。

 だから、単純に女は引っ込んでおけ、という発想のファッションではないようですね。しかし、現代では、肌を出すことができないことは女性に対する抑圧だという意見がイスラム世界の女性からも出ているようです。
 イスラムでは一夫多妻で男は妻を四人持てるというのは有名な話です。あれも、男尊女卑の典型のように思われがちですが、ムハンマドとしては女性を保護するためだったらしい。
 イスラム以前のアラブ社会も一夫多妻で、男は何人でも妻を持つことができた。ムハンマドのイスラムはそれを四人に制限したのです。
 しかも、ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。これ、厳密に考えたら複数の女性を平等に愛するなんて不可能でしょ。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。ムハンマド自身もハディージャが亡くなるまでは、他に妻を迎えませんでしたね。・・・
また、公共の場では男女を一緒にしないのがイスラム世界では一般的です。先日イランの映画を見ていたら、小学校では男子と女子の登校時間が違うんだね。女子が帰宅してから男子が登校するの。
 イランではスキー場でもゲレンデが男女別になっていて、家族でスキーに行ってもお父さんとお母さんは別のゲレンデ、兄と妹も一緒には滑れないようになっています。銭湯みたいですね。

 最後に、サウジアラビアとかイランとか、女性が顔を隠すのが一般的な国では恋愛はどうなっているのでしょうか。
 イスラム教であろうと年頃になれば女の子が好きになる。ところが、若い男が女の子と知り合う機会は全くない。町を歩けば女性とすれ違うけれど、容姿どころか年齢すらもわからないんだから好きになりようがないです。まことに可哀想です。
 だから、結婚は親が決めたお見合い結婚が一般的らしい。・・・・
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「今夜はマリアさまの被昇天のお祝いのミサへ行ってきました」

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、8月15日はマリアさまの被昇天のお祝いのミサがあります。
マリアさまが天に上げられた日を祝うのです。

今夜7時からカトリック小金井教会のミサへ家内と共に行きました。
ミサの中の「共同祈願」の一つとして次のようなお祈りをしました。

「終戦の日にあたり、戦争の惨禍と多数の人の犠牲を思い起こし祈ります。主の愛の教えを心にとめ、戦争の根を絶つために、すべての力を注ぐことができますように。」

そしてマリアさまのお取次ぎによってこの世界に真の平和がくるように祈りました。
今日はカメラを持って行かなかったので代わりのに2枚の写真をお送り致します。

1番目の写真は長崎の大浦天主堂の写真です。

2番目の写真は浦上天主堂の2014年8月9日の夜の平和祈願ミサの風景です。
写真の出典は、http://www.nagasaki.catholic.jp/cms/?p=2055 です。

カトリック長崎大司教区は2014年8月9日(土)20時から浦上教会で、髙見三明大司教主司式による平和祈願ミサを行った。今年のテーマは「明日へつなごう平和の願い」。この日予定されていたたいまつ行列は台風の影響のため中止となり、ミサ前の聖堂ではロザリオの祈りが唱えられた。

 集まった約1,000人の信者らは、被爆マリアと共に、世界平和とすべての戦争犠牲者のために祈りました。
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全国200市町村の空襲による焼け野原を忘れないで!

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様、今日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジアの2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。あれは人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々71年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
しかし今日は自分の目で見た大空襲のことにだけ絞ってご報告したいと思います。

終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。

まず、すっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真をご覧下さい。

この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。
10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。

現在、インターネットで仙台空襲のことを調べますと次のように書いてあります。(出典は1番目の写真と同じです。)
・・・7月9日、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B-29、131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。
7月10日午前0時3分、高度約3,000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。
焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。市街地が焼け野原と化したため、「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られている。被害は、死者2,755人、被災人口57,321人(全市の約26%)、被災戸数11,933戸(全市の約23%)にのぼり、東京以北の都市では最大規模となった。・・・

このような米空軍による無差別空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続きました。
そして全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。そして多くの国宝・重要文化財も焼失したのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

もう一度書きます。全国津々浦々の200の市町村が空襲されたのです。そしてその空襲による犠牲者が原爆による犠牲者も含めると50万人もあったのです。その様子を示す写真をもう2枚示します。

(写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。)
2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。

(写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。)
3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。

このような一般市民を対象にした無差別攻撃は3月10日の東京大空襲から本格的に開始されました。攻撃の主体は多数の焼夷弾を束ねた大きな焼夷弾束で行ったのです。焼夷弾束は落下途中でバラバラの焼夷弾に分かれ同時に多数の家に火をつけたのです。燃えやすい日本の家屋は実に簡単に燃え上がったのです。
このような一般市民に対する無差別攻撃は、ボーイングB-29による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などからの攻撃機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。

その上、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもあるのです。釜石や室蘭は徹底的な艦砲射撃も行われ、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場がある工業都市が攻撃されました。

また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害したのです。
外地でも、1945年5月31日には台北へも大空襲が行われたのです。

このようにアメリカ軍は日本本土の徹底的な焼失攻撃と破壊攻撃を繰りかえしたのです。そして広島と長崎の原爆投下でとどめを刺したのです。

このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
今日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘
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甲斐駒岳山麓の高原の花畑の写真をお送り致します

2016年08月14日 | 写真
一昨日と昨日、甲斐駒岳山麓の高原の小屋に行って来ました。小屋のあるところは深い森の中ですが、そこから下って別荘地に出ると道端に花畑のある場所があります。近くの別荘に住んでいる人が毎年丹精を込めて植えている花畑です。
高原の花畑です。実にいろいろな花々が咲いています。何時ものように昨日も写真を撮らせて頂きました。
高原の新鮮な空気を想像されながら写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

今日は日曜日なので教会のミサに行きます。そして、
皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)












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