後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

暗く憂鬱な森と華やかに咲く花々の写真を撮りに行きました

2016年09月25日 | 写真
秋雨前線というのでしょうか低気圧が日本を覆っているようです。毎日、曇りや雨が続き憂鬱な気分になります。
昨日、そんな気分を吹き飛ばそうと車を飛ばして甲斐駒岳の山麓にある小屋に行ってきました。
行く前から撮る写真の主題を決めていました。「暗く憂鬱な森と華やかに咲く花々」がテーマです。
甲斐駒岳の山麓には鬱蒼とした森が広がっていて八ヶ岳の山麓の森とつながっています。
その森は四季折々いろいろな表情を見せてくれます。そして晴れの日、雨の日、雪の日とその景観が変わります。
昨日は間違いなく暗い憂鬱な景観になっている筈です。それとは対照的に人の住む家のまわりには明るく華やかに花々が咲いています。花を愛する人々が沢山住んでいるのです。
暗い森と明るい花々の対比を写真で示そうという想いです。

昨日撮った森と花々の写真をお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秋になると、あけびを思い出す、そして森の中の小屋、ヨットを想う

2016年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりました。 店には秋の果物が美しく並んでいます。
戦中、戦後に仙台市に育った頃は秋の果物といえば柿しかありませんでした。冬になれば青森の林檎や静岡のミカンも並びがましたが、一般的に果物は貴重品でたまにしか食べることができませんでした。
そんな時代に郊外の八木山の森深く入って行くと不思議に山栗が沢山落ちているところを一度だけ発見したのです。それは踊り上がるような歓喜の瞬間でした。食糧難の時代だったので栗はあこがれの食べ物だったのです。
栗の実を拾い集めてからさらに森の奥に入って行きました。と、不思議な果物がつるにぶら下がっていたのです。それは淡い紫色になっていたアケビでした。
すぐに取って、中身のふわふわの果実を口に入れると、やさしい穏やかな甘味が広がります。その甘味は砂糖のように強くなく、ほのかな甘味ですが、何故か体中が幸せになるような感じがします。
この世の果物ではないような味です。幻想的な味です。
それ以来、野生のアケビを探して八木山の奥に毎年のように入りましたが、なかなか見つかりません。まさしく幻の果物でした。

・・・それからいろいろな事がありました。

1975年になって山梨県の甲斐駒岳の麓の森の中に小屋を建てました。初めて行った時、小屋の庭の小川の向こうに何と、あの幻の果物のアケビが実っていたのです。薄紫色のアケビが3個ぶら下がっています。
少年の頃。仙台の八木山でアケビを見つけた時の歓喜がよみがえります。
そこでその小屋の名前を「あけび荘」とし、その名前を彫刻用のサクラの板に彫って小屋に取り付けました。

・・・それからまたいろいろな事がありました。

1990年に琵琶湖で中古のヨットを買って、霞ヶ浦のマリーナまで陸送しました。その時、ヨットを買った店の人に「あけび号」と船首に書いて下さいと頼みました。
霞が浦に浮かんだ「ヤマハ19」の白い船首の両側に黒々と「あけび号」と書いてあります。
そして10年後に、少し大きな中古ヨットに買え替えました。LunaⅢ号ですが、その登録名も「あけびⅡ号」としました。

アケビの実は不思議です。
いつもは忘れているのに人生の折り目、折り目に心の中から出てくるのです。そして食料難の頃、仙台の八木山の奥でアケビを発見した時の歓喜がよみがえってきます。幸せな気分になるのです。
こんな俳句も思い出します。
「あの頃のほのかに甘き通草(あけび)かな」  松井矢菅

この秋は80歳の秋です。少年の頃、仙台の八木山の奥で見つけたアケビの実の薄紫の色を思い出します。
そして甲斐駒の山林の中の小屋や、25年間乗った2艇のヨットのことを想うのです。
そうだ今日は車を駆って山林の中の小屋に行ってみることにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真にあけびの写真を示します。
あけびの写真の出典は、http://tititake.sakura.ne.jp/diary/nicky00088.html です。

2番目の写真は甲斐駒の山林の中の小屋を裏側から見た写真です。この小屋の向こう側の山の斜面にアケビが成っていたのです。1975年の秋でした。

3番目の写真は1990年に琵琶湖で買って、霞ヶ浦まで陸送してきたYamaha19です。「あけび号」です。現在の持主が霞が浦でまだ帆走させています。

4番目の写真は13年間乗った「あけび2世号」です。

5番目の写真はLunaⅢ「あけび2世号」と家内の写真です。ヨットは5年前の75歳で止めました。この写真は2009年頃の写真です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「東京にある大きな魚小売店の写真です!」

2016年09月23日 | 写真
東京には新鮮な魚を一匹ごとに売り、目の前で切り身にしたり刺身にしてくれる魚屋さんが少ないようです。
しかし数年前から新潟県寺泊漁港にある角上魚類という店が関東一円に大きな鮮魚販売店をたくさん開店しました。
私は魚が好きなので家から車で20分位の小平店によく魚を買いに行きます。先程も新鮮なヒラメを1枚買って来ました。その時撮った写真をお送りします。
関東一円の店舗情報は、http://www.kakujoe.co.jp/index.php に御座います。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代、その三

2016年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、1978年に中国の最高指導者、鄧小平が初めて日本を訪問した後、中国では熱烈な日本ブームが巻き起こったのです。
日本の物なら何でも大好き、日本人なら誰でも大歓迎という熱気あふれる時期が1978年から天安門事件の1989年まで続いたのです。現在の険悪な日中関係からは想像もつかない蜜月時代だったのです。
それは現在の中国側にとっても貴重な歴史的な大転換だったようで、最近の中国側の資料にも「鄧小平の訪日」関連の資料が多く発表されています。
それらの中国側の資料に基づいて鄧小平の日本訪問の様子と、私が1981年以後数回、中国で歓迎された体験をご紹介したいと思います。

(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入
1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年でした。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結し、続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初めて正式に日本を訪問したのです。
この訪問は、「中日平和友好条約」の批准書交換式に出席するためのものでしたが、鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあったのです。
8日間の訪日期間中、鄧小平氏は新日鉄・日産・松下の3社を見学します。
新幹線で東京から関西方面に向かう途中、感想を聞かれた鄧氏は、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」「我々は駆け出す必要に迫られている」「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」と語ったそうです。

新日鉄の君津製鉄所を見学した鄧小平氏は、工場の設備や技術について詳しくたずね、日本の進んだ生産と管理の経験を、中国人技術者に紹介してほしいと依頼します。同じような工場を中国にも建てたいという鄧氏の決意を示すものでした。この決意こそ、その後の日本の技術指導による上海宝山製鉄所の建設になったのです。
松下電器への訪問時、電子レンジなどの新製品の展示室を鄧小平氏が見学した際にも印象的な一幕がありました。松下の案内員が電子レンジの機能を説明するため、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せます。鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込み、「なかなかおいしい」と感想を述べたのです。松下の従業員らもこれには驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したといいます。

鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。
多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれます。中日政府のメンバーによる会議も相次いで行われました。
官民の各分野での交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展したのです。(文作者:王泰平)
以上の文は、「1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの」http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html からの抜粋です。

さらにもと中国の駐日本大使、符浩元さんによると鄧小平は2度も日本を訪問しているのです。(http://www.bjreview.cn/JP/04-32/32-zhongyao-3.htm )
鄧小平は再び、1979年1月に米国を訪問した後、わざわざ日本に立ち寄り、短期間滞在したのです。奈良を訪れた時、宿泊したホテルでちょうど結婚式があるのを知った鄧小平氏は、自ら結婚披露宴の会場に行き、新郎新婦に祝賀の言葉を贈ったのです。

このように鄧小平は先進技術を開発し経済の高度成長を続けている日本人を尊敬し、日本が大好きだったのです。その結果、中国は日本から先進技術と資金の導入を大々的に行ったのです。日本の約2万の会社が中国に工場を作ったり支社や支店を出したのです。

さて1978年の鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。このお陰で私も北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院に招待されました。往復の航空運賃以外のホテル代、交通費、さらに各地の観光の費用の全ては中国側が負担しました。
歓迎宴が何度もありましたが、観光地で会った一般の中国人が皆、大変親切で礼儀正しいのには驚いたものです。当時は一般の人々も日本人を外国からの賓客として礼儀正しく接したのです。彼等はすべて人民服で日本人は背広姿だったので区別が容易についたのです。汽車に乗ってもレストランに入っても皆ニコニコして道を開けてくれました。

そして金属工業省の人が日中鉄鋼会議を開催してくれないかと私に頼んだのです。帰国後、日本鉄鋼協会の当時の専務理事の故田畑新太郎氏と東京大学の故松下幸雄先生に相談し、日中鉄鋼会議を北京と東京で開催することが出来ました。
このように当時の中国側の日本人へ対する尊敬は絶大でした。

しかしこの日中友好関係は1990年以後の江沢民の時代に急に暗転します。
そして習近平時代の覇権主義の時代になったのです。
このような劇的な日中間の歴史の転換を見て来た私にとって最近の日中の険悪な関係ほど心を痛めるものはありません。
習近平時の覇権主義が消え、円満な話し合いによる国際平和の時代が来ることを切に祈っています。

今日の挿し絵がわりの写真は鄧小平が1978年の10月に日本を訪問した時の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

訪日の写真;http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014-08/22/content_33310086.htm


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

  「南米原産、巨大なパンパスグラスの写真」

2016年09月22日 | 写真
昨日、神代植物園で撮りました。大きさを示すために家内に立ってもらったのです。比較すると巨大さがお分かりと存じます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

昨日、神代植物公園で撮ったオオオニバスの写真をお送りします。

2016年09月22日 | 写真
昨日、都立神代植物公園の池で大鬼蓮の花が咲いているのを見つけました。
東京では新宿御苑の温室内でも見た記憶がありますが、野外の池に秋になってから咲いているのは珍しいと興奮して写真をとりました。

1番目の写真は池の全景です。

2番目の写真は白い花です。咲いて始めはこのように白いのですが、時間の経過とともにピンクに色が変わるそうです。
帰宅してから調べました。
原産地のアマゾンでは直径3m以上になる大きな丸い葉をもち、水面にその葉を浮かべているそうです。
花は夕方から咲き始め、はじめは白色ですが、翌朝にはピンク色に変化し、その後は紫色に変わるそうです。花の直径は約40cm位です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9 をご覧ください。
昨日見た大鬼蓮の葉はそんなに大きくなく直径が1m以下から60cm位だったでしょうか。
たしか赤ん坊が乗っている写真を見た記憶があります。そこで大鬼蓮の写真を検索したら子供を乗せている写真を見つけました。

3番目の写真は子供が乗っている大鬼蓮の写真です。この写真の出典は、https://www.youtube.com/watch?v=NrwRxund0G8 です。

少し珍しいので写真をお送りします。それにしてもイギリス人は地球のあちこちに行って植物を広く研究していることに感銘を受けます。


参考資料;大鬼蓮の歴史、

オオオニバスは、1832年にアマゾン川の上流で、ドイツの植物学者、エドゥアルト・フリードリヒ・ペーピッヒによって発見された。1800年代にイギリスに持ち込まれ、デヴォンシャー公やノーサンバーランド公爵といったヴィクトリア朝の園芸家がこぞって栽培し、大輪の花を最初に開花させることを競い合っていた。1837年には種子が船旅の途中で枯死するなどといったこともあったが、1847年にキューガーデンに種子が届き、発芽、生育に成功した。そして、その苗を譲り受けた造園家のジョセフ・パクストン (デヴォンシャー公に仕えていた) が、1849年に開花に成功させた。
オオオニバスはその目立つ外見から、人々の関心を集めてきた。例えばウォルター・フィッチとウィリアム・ジャクソン・フッカーは、キューガーデンで栽培された個体の標本を元に、1851年に『Victoria Regia』(オオオニバスの当時の学名)というイラスト主体の書籍を刊行し、「正確で、そして美しい」と賞賛された。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代、そのニ

2016年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような連載記事を書いています。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別(昨日、掲載しました)
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結(今日、掲載いたします)
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入
それでは今日の部分をご紹介いたします。

(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。このことは下記にしめします。

さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。

2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。

3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秋の七草の花々の写真を撮りに行きました

2016年09月21日 | 写真
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

上の万葉集にある秋の七草の花々の写真を神代植物公園に撮りに行きました。
何処に咲いているかと探しました。そしたら正門を入った所に、萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、をみなへし 藤袴、朝顔の花(キキョウ)が一カ所に寄せ植えになったいました。
苦労せずに七種類の写真を撮ることが出来ました。その写真をお送り致します。

1番目の写真は寄せ植えになっている様子を示す写真です。

2番目の写真はオミナエシです。

3番目の写真はキキョウの花です。

4番目の写真はナデシコの花です。

5番目の写真は白い萩の花の写真です。
それにしても日本に万葉集時代から咲いている花々はみなおだやかな美しさを見せてくれます。心がしずまります。和の花は西洋の花々とはやはり違うのですね。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代、その一

2016年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本と中国との関係は非常に悪い時代です。経済交流は盛んですが、日本人の対中感情は非常に悪い状態が続いています。
日本人の考える原因は中国政府の悪質な対日政策と反日教育にあるといいます。一方、中国人は日中戦争中の日本の残虐行為に対する反省と謝罪が足りないと考えています。
しかし日中関係が非常に良かった時代があったのです。
それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度、思い出すと将来の日中関係の改善に少しは役に立つのではないでしょうか?
そこで1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。

周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入
それでは上の3段階を順々に考えて行きます。

(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
これこそが現在の中国の反日教育のもとになっていると言われています。

一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。
私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?

それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。

もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

80歳を過ぎると水車のある風景が急に懐かしくなる

2016年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、80歳以上の人生は天から頂いたボーナスのようで楽しいと書きました。
何故、楽しいのかと聞かれれば悲しかったこと、苦しかったことをすっかり忘れてしまうからです。そして楽しかったことだけを憶えているからです。
そして楽しかったことだけを毎日、懐かしく思い返えして、時がゆっくり流れていくのです。
その楽しい思い出の一つに水車の見える風景があります。今日はそんな風景をご紹介したいと思います。

時々訪れる所にも水車があります。隣町の小平市の「ふるさと村」です。
江戸時代中期から戦後まで使われていた農家が復元してあります。その家にあがると部屋から裏口の外に水車が見えるのです。
水車が回っているゴトン、ゴトンと低い音が聞こえてきます。

1番目の写真が裏口から見える水車の風景です。旧懐の情がかきたてられる眺めです。
水車のある風景が好きなので、この近辺では何処にどういう水車があるか分かっています。小平市の玉川上水沿いの雑木林に覆われた遊歩道には3つも水車が復元してあります。

水車のある美しい風景は全国に沢山あると思います。
私が好きなところは山中湖の西にある忍野八海の水車です。背景に残雪が輝く富士山が見える季節が良いのです。
そして長野県の穂高町にある大王わさび園の水車は周囲の景観と良く調和して、ロマンチックな風景です。下にその写真を示します。

2番目、3番目、4番目の写真は昨年の7月に久しぶりに訪問して撮った写真です。



この水車は黒沢監督が数十年前に「夢」という映画を撮影するためにわざわざ作ったものです。水車の間を笠智衆が扮した村の老人と村人が楽しげに踊り歩いている場面に出てくる水車です。水車が美しいだけでなく北アルプスの伏流水を集めた水量豊かな清流も美しいのです。

水車小屋と言えば1970年頃に住んでいたシュツットガルト市の郊外にもありました。
ドイツ語でたしか Sieben Muhre(七つの水車)の道という名前のついた道でした。中世から続く古い道を遊歩道にしていました。
車が通れない道なので、子供を連れて行っても安心なのでよく散歩に行ったものです。
遊歩道のところどころにコーヒーとドイツ菓子を出す店があります。

5番目の写真にドイツの水車小屋を示します。Sieben Muhre を検索して見つけた写真です。

水車小屋は洋の東西を問わず人々が好きなようです。 皆様の近所にも水車小屋がありますでしょうか。こんな気楽な思い出を楽しみながら今日も一日過ごします。
天から貰ったボーナスのように楽しい一日です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

80歳以上の人生は天から頂いたボーナスのようで楽しい

2016年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は午前にカトリックのミサに行き、午後には家内の実家の墓参りに行きました。ミサの間はイエスさまの言葉を考えることが忙しくて自由な雰囲気でありませんでした。しかし墓参りに行ったら、まだお彼岸でないので人影が無く静かです。
森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。2日前に義妹の供えた花々との調和をとっています。
私はチャッカマンという長い形のライターで線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天からケーキ」という想いがこみあげて来ます。そして愉快になります。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が80歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。この記事を読んでくれる全ての人々への感謝です。

私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして70歳代を乗り切りました。乗り切れて本当に嬉いのです。
80歳以後は思いがけず貰った「天からのぼた餅」です。そんな訳で毎日笑いながら楽しんでいます。
今日の記事はこれでお終いです。今日の挿し絵がわりの写真は昨日の墓まいりの時撮った写真です。

ところで昨日はキリスト教と仏教について少し書きました。
そうしたらフランス在住のMotokoさんと日本在住のひかりさんから素晴らしいコメントを頂きましたので、あらてめて以下にご紹介いたします。

Motoko Boutdumonde;
こんばんは。といってもそちらはもうそろそろ朝ですね。では、おはようございます!興味深いお話、ありがとうございました。今でこそキリストはユダヤ人でユダヤ教のラビでもあったことは知られていますが、19世紀にはキリストがユダヤ人だったと言うだけで冒涜だった時代がありましたね... でもキリストの教えは、私の(狭い)考えでは、キリスト教徒になれば救われる、ということではないと思っています。何のためにキリストは十字架の上で死んだのでしょう?すべての人を救うためだったと思います。それでなければキリスト教を知らなかった人は善人でも救われないということになりますから。神は慈悲の神だと思います。クリスマスのミサに歌われるフランス語の聖歌、MINUIT CHRETIEN という歌では「我々の原罪を消すために」とありますし。
話は変わりますが、仏教の色即是空、空即是色という考えも、灰の水曜日のミサのときの「汝は埃である、埃に戻るであろう」という言葉に通じるところがあり、宗教の普遍性を思います。
インドの昔の記録にも、「ユダヤからラビが来ていた」という記載があり、それがキリストだったとも考えられています。いろいろ考えされられますね。特に宗教の対立がまた過激に表面化してきた現在ですが、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の神は同じものですし、またキリストが仏教やヒンズー教も学んだかもしれないと考えると...

ひかりさん;
私には、神がいるのかいないのかさえも解りません。
もっと正確に言えば、神がいようがいまいが構わないという立場です。
また、科学では解明できない人知を超えたものがあることを認めていますが、神ではなく自然の摂理であると考えれば何の問題も生じません。
しかし、他人の心は不可侵です。ですから、信仰心や宗教も否定しません。尤も、亡き先祖の供養は欠かさずやっています。
この欄へコエメントを下さる方には宗教を否定するために、科学用語を利用する生物学決定論者がいるようですが、それは明らかに科学の誤用です。科学(技術)の本来の目的は、自然や社会の未知の領域を明らかにし、人々の生活の豊かや利便性を追求するものであって、宗教を否定するためにあるのではありません。むしろ、こういう似非科学者こそが当方が対峙すべき相手だと最近とみに感じだしました。
なお、神の存在確率をベイズ統計によって計算した書籍がありますが、それによれば神の存在確率は67%とのことです。ベイズ統計とは主観確率を基にする統計学手法であり現代のスグレモノで、従来の答えは一つであると仮定する頻度主義のフィッシャー統計とは根本的な違いがあります。また、ベイズ統計の生みの親は、イギリスの数学者かつプロテスタントのベイズ牧師です。キリスト教の主観的なモノの見方が生み出した統計学と言ってよいかもしれません。
===========================
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日の日記、ミサにあずかり、午後はお墓まいり

2016年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。午前中はカトリック教会のミサに行きます。
そしてイエスさまのみ言葉を聞きます。聖歌を歌います。イエス様の最後の晩餐を再現して小さなパンを頂いて終りです。
イエスさまは2000年前の方でユダヤ教を信じていました。そのユダヤ教の律法主義を改めて、数多くの教訓を残しました。貧しく、弱い人に愛をそそぎ、異邦人を大切にしました。
隣人を愛しなさい。復讐をしてはいけません。七の七十倍の回数、許しなさいと言いました。

イエスさまの教えはユダヤ民族を越えて、ギリシャ人、ローマ人に感銘を与えたのです。
イエス様の死後、その教えはユダヤ民族だけでなく、他の多くの民族にも感銘を与えました。すべての人類に普遍的な宗教となったのです。その新しい宗教が後にキリスト教と呼ばれるようになったのです。

その教えは1549年にザビエルによって日本にも伝えられました。多くの日本人が感動して信者になりました。しかしやがて禁教の時代が250年続いたのです。
そしてフランスの神父が長崎の大浦天主堂を立てた時、隠れキリシタンが現れたのです。
それは劇的な場面です。当時のローマ法王へ報告されました。

私は何故、カトリックになったのか理由を知りません。気がついてみたらカトリックになっていたのです。

今日の午後は家内の実家の墓まいりに行きます。
そしてお釈迦様の教えを偲びます。色即是空、空即是色の意味をあれこれ考えます。
お釈迦さまが亡くなるとき、遺骨は野に捨てよとおっしゃった意味を考えます。
仏像を作ってはいけないとおっしゃった意味を考えます。
2500年も前にビンズー教から生まれた仏教はその普遍性の故に世界宗教になりました。
今日はそんなことをあれこれ考えて時を過ごします。

今日の挿し絵がわりの写真は、世界文化遺産に申請中の天主堂の写真です。写真の出典は、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という題目のWikipedeaの資料です。
URLは長すぎるので省略します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秋愁、霞ヶ浦の秋風を想い、亡き友を偲ぶ

2016年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
来週は秋のお彼岸です。彼岸がすぎると秋が深まって行きます。
彼岸という言葉を見るとあの世に旅立った親、親類、恩人、友人のことを思い出します。もう此の世では2度と会えません。
そして朝夕が冷えてくると何となく心細くなります。そして悲しい空色のような思い出が湧き上がって来ます。
毎年、秋になると5年前まで楽しんでいた霞ヶ浦のヨットの風景を思い出します。秋空のしたで清涼な風を帆いっぱいに受けて走るヨットの光景です。

この写真は2010年の秋に撮ったヨットと秋の空の写真です。

ヨットの趣味は50歳の頃始めました。始めの2年ほどは江の島や葉山のマリーナから沖に出ました。
そして琵琶湖から小型クルーザー・Yamaha19を買い、霞ヶ浦マリーナへ陸送してきました。
霞ヶ浦マリーナは当時、「筑波水郷汽船株式会社」という古い名前の会社が経営していました。そのマリーナは経営者が変わり、最近は「ラクスマリーナ」という名前になっています。
私はすぐに茨城県の県庁の管理している係留場所へ船を移動し、そこに22年係留していました。
そして62歳の頃、少し大きなJoyrack 26を買いヨットを楽しんだものです。

しかしこの楽しかったヨットも体力の衰えで75歳で一切止めてしまいました。残念です。悲しいです。
悲しみはそれだけではありません。
猪苗代湖で何度もヨットに招待してくれた大学時代の友人が旅立ってしまったのです。
2010年の秋まで、一緒に私の艇でセイリングしたH君があっけなく消えてしまったのです。それはもう一度、霞ヶ浦に来る直前でした。下に2010年の秋に撮った写真を示します。

この写真の右側にH君が写っています。左側は同じく大学時代の友人のO君です。
O君とは相模湾を古い巡視艇で横断し、初島に一緒に泊まった思い出があります。
そしてH君とは猪苗代湖の花春カップ・レースに何度か出たことがあります。彼のヨットのキャビンは大きくて夜には一緒にビールを飲みます。窓の外の波の向こうには黒い磐梯山がそびえていました。
H君は私のヨットに来る時は毎回よく冷えたシャンパンの瓶を担いで来ました。シャンパンを美味しく飲むにはシャンパングラスが必要だと、そのグラスまで冷やして断熱バックに入れて持って来たものです。
そんな彼が2011年の秋にあっけなく亡くなりました。霞ヶ浦に来る直前でした。

来週は彼岸です。家内の実家の先祖の墓参りに行きます。そして自分の親、親類、恩人、H君などの友人の冥福をお寺のご本尊様に祈ってきます。全ての死者の冥福を祈ってきます。

下にもう3枚の霞ヶ浦の風景写真を示します。雲と水面の輝きの風景写真です。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本人の独創性の無さはその文化に由来する

2016年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「日本の高度成長はもう無い、日本人の価値観の大転換」という記事を掲載してました。その主張は、高度成長した日本がもう一度成長するためには独創的な新しい技術を開発しなければならないという主張でした。日本人自身が世界に先駆けて次々と新しい技術を開発し、新製品と新技術を外国へ売り出せば、再び経済の高度成長が可能なのです。
今日の記事は日本人には独創性が無く、その原因は日本の伝統文化にあるという主張です。
結論を先に描けば、この伝統的な日本文化を完全に否定して、アメリカ型の文化にしなければ日本には再び経済成長は有り得ないというものです。

さて、そのそも独創的な芸術や技術はどのような文化の国に生まれた来たのでしょうか?
それは個人の尊厳を大切に考える文化をもったヨーロッパやアメリカで生まれてきました。異端的な考えを持った人を排除しないで、その考えを尊重する文化から独創性が生まれるのです。
独創的な芸術はおもにヨーロッパ諸国で生まれました。一方、独創的な先端技術は主にアメリカ合衆国で生またのです。

それでは日本の伝統文化の特徴は何でしょうか?
一言で言えば、それは聖徳太子の「和を以って尊しと為す」という言葉が日本文化の特徴を明快に示しています。

これでは日本の会社から新しい独創的な技術はほとんど絶対に生まれません。
優秀が技術者が発明をして特許を取っても、その特許は会社のものになります。発明した技術者へは金一封で終わりです。
これでは優秀な技術者がバカバカしくて本気で新技術の開発の仕事に取り組めません。

唯一の例外が青色の発光ダイオードを発明した中村さんのケースです。
彼は自分の会社を訴えて、莫大な特許使用料を得たのです。
しかしその行為は日本の伝統文化にいろいろな意味で反するものでした。
その後、彼はアメリカのある大学の教授になって日本を離れました。

日本では異端的な考えの人は排除する傾向があるのです。それが日本の文化なのです。
結論ば、この伝統的な日本文化を完全に否定して、アメリカ型の文化にしなければ日本には再び経済成長は有り得ないということです。

皆様は日本がアメリカのような社会になることをお望みでしょうか?
胸に手をあてて静かに考えれば解答がおのずと明快になります。
今日の挿し絵がわりの写真は長野県、美ケ森野外美術館にある独創的な彫刻の写真です。
数年前に私どもが撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本の高度成長はもう無い、日本人の価値観の大転換

2016年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「日本と中国のGDPが世界の3位と2位になったのは何故か?」という記事を書いて両国の高度成長の原因の一つを明示しました。

日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
同じ様に中国は1966年から1976年の文化革命という凄惨な内戦があり、荒廃した中国の復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPは日本を抜いて世界2位になっています。
この日本と中国の高度成長を支えてきたのはどちらも欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
この高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きると考えられます。

そしていろいろな分野で優秀な人材が集まらなければなりません。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。

ところが現在に日本では大学生は勉強しなくなりました。技術者も自分の分野の必要最小限以上の勉強をしなくなりました。
1990年前後のバブル経済の崩壊によって多くの日本人の価値観が大きく変わってしまったのです。
一言で言えば、「経済成長よりも人間性を豊かに生きることがより重要だ!」という方法に価値観が転換したのです。
人生にとって生活を維持するためのお金は必要です。しかしボランティア活動をしたり趣味を楽しむ余裕を持ちながら自分らしい一生を送ることが一番幸福だと考えるようになったのです。結婚しないで自由に自分の独自の一生を送るのも幸せな一生だと考えるようになったのです。

高度成長期まで日本の社会にあった立身出世主義が消えてしまったのです。現在は東京大学や京都大学の卒業生で吉本興業に入ってお笑いタレントになる人もいます。
昔は大会社に入社して出世競争に勝つことが世の中の尊敬を集めました。中小企業は大会社の傘下に隷属し、縦社会を作っていたのです。
その産業構造が高度成長の基盤にあったのです。それが1990年前後にもろくも崩れたのです。
縦社会の崩壊は産業構造だけでなく社会のいろいろな分野で起きました。
その結果、価値観が大きく変化してしまったのです。
「経済成長よりも自分らしく生きることがより重要だ」という価値観です。

すると会社で働いている人は転勤を嫌がります。残業続きで会社に縛られることを嫌がります。そこで転職が多くまります。自分らしい会社を探して転職します。転勤や残業が嫌なので非正規職員になります。
これでは日本に再び経済の高度成長がやって来ることは絶対にありません。ある筈が無いのです。
しかし高度成長を起こす方法があるのです。それは末尾に書くことにして、価値観の変化で得たものを書かせて下さい。

得たものの最大なものは日本人の人間性が非常に良くなったことです。特に若い日本人は素晴らしい人間性を持つようになたのです。
現在の若い日本人は親切で優和で上品なのです。そうでないと反対する高齢者がときどきいますが、それは自分の心が貧しいだけです。
私は毎週一回、4時間ほどあるリハビリ施設に通っています。そこのスタッフは30歳代の男女ですす。いろいろな運動器具を使います。
全身のストレッチをしてくれます。ボールやゴムバンドを用いた奇妙な運動もします。そしてその合間、合間に盛んに話しかけるのです。高齢者の口の筋肉の劣化を予防するのです。
その話し言葉が綺麗な日本語なのです。彼等は皆人柄が良いのです。親切で優和で上品なのです。彼等は高齢者だから親切にしているのではありません。相手が人間だからなのです。それはスタッフ同士の会話を聞いているよ分かります。嗚呼、一本人も変わったものだと心豊かになります。

さて最後にもう一度高度成長をする方法を書かせて下さい。
その方法は日本人自身が独創的な技術を創造して、その技術を外国に売るようにすることです。陶然、日本の特許収入が増大します。
アメリカのGDPが世界で一番なのは常に独創的な技術を創造して、その技術を外国に売っているからです。
日本も中国も韓国もすべて欧米の技術を模倣したり特許権を購入して工業生産をしているのです。
中国のGDPは総人口が日本の十倍ありますから現在のGDPの数倍になったとき成長が鈍化する筈です。その後はやはり独創的な技術を創造しなければいけなくなります。

さて独創的な技術の創造は容易なことでしょうか?
不可能ではありませんが、それには気の遠うくなるような日本文化の大転換をしなければなりません。このことは別稿で説明したいと存じます。
ここでは独創性の一例を箱根の彫刻の森の写真で示します。
展示されている彫刻を見てみると兎に角、嗚呼、独創的だと感動するのです。そしてその作者の名前をみます。ロダン、アントワーヌ・ブールデル、へンリー・ムーア、ジャコメッティ、ロッソ、ブランクーシなどの名前が銅板に彫り込んであります。勿論、日本人彫刻家の作品もありますが、欧米の彫刻からヒントを得たような作品です。絶対的な独創性を感じません。なおピカソに関しては「ピカソ館」があり、彼の数多くの絵画や陶器が展示してあります。
工業技術の独創性は芸術の独創性と密接に関連しているのです。芸術に独創性が無い限り、技術の独創性は生まれにくい社会と理解するのが自然ではないでしょうか。
彫刻の森の写真は今年の4月に訪れた時に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




コメント
この記事をはてなブックマークに追加