後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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東洋と西洋の融合(3)日本へ地質学を教えたナウマン博士へ感謝

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
考えてみると明治維新以来、日本は西洋諸国から近代科学を学び、工業技術を発展させて来ました。西洋人は常に日本人に丁寧に教え、指導してきたのです。ですから私はその恩を忘れません。常に感謝しています。
しかし現在の多くの日本人はこの恩を忘れていませんか?。
そこでこの連載記事の第三回目の記事では明治8年から10年間も日本人を指導した地質学者のハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士の功績を書きたいと思います。
彼は全国の現地調査をして日本の地質地図を始めて作り、日本人へ地質学の重要性を教えてくれたのです。
そして地質調査の結果、日本には昔、象が棲んでいたことを発見しました。そして糸魚川から静岡にいたるフォッサマグマを発見し、その東西では地質が異なることを指摘したのです。
ナウマン博士が日本に象が棲んでいたことを発見したので、そのアジア象を日本ではナウマン象と呼んでいます。
それではナウマン象の話から始めます。
さて、縄文時代が始まる12000年前までは無土器の旧石器時代でした。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代の日本には象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
象が日本に棲んでいたことを科学的に証明したのが前述通りナウマン博士です。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
もう少し詳しくその後の調査についてご説明いたします。
長野県の野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘調査が続行されてきました。その発掘を指導したのが数年前に88歳で亡くなった亀井節夫氏でした。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
野尻湖ナウマンゾウ博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
ナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘され、それらもこの博物館に展示されています。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるのは珍しいことです。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

1番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

2番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。

さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。そして2万年前以後の新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
ナウマン博士の功績は古代象の発見だけではありません。最大の功績は日本人へ地質学を教え、その考古学や鉱山開発などでの重要性を説明してくれたことです。

3番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナなどを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように変化し動いてきたか?雨風に流されてどのように変化して来たか?
このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。土質よっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

4番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動して何度も訪問しました。
良くご覧下さい。黒っぽい岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。
今日の記事では明治8年から10年間も日本に住み日本人へ地質学の重要性を教えてくれたナウマン博士をご紹介しました。教えを受けた日本人はその後日本の地質学を進歩、発展させ、つくば市に国立地質標本館を作ったのです。
これこそ「東洋と西洋の融合」の一例ではありませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年9月11日 - 1927年2月1日)は、ドイツの地質学者。
(ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - Wikipedia、から抜粋)
いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。
ザクセン王国マイセンで生まれた。
1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招聘され、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
ナウマンは貝塚を2、3発見し、ハインリヒ・フォン・シーボルトの貝塚研究を助けた。
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。
ドイツに帰ってから、ナウマンは1886年にミュンスター大学で私講師(正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、地質学や地理学を講じた。後年、ドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した[4]。
1886年3月にドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、森鴎外がそれに反駁して論戦し、新聞にも反論を投稿した。
1923年に関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。
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老境を格調高く生きるための心の持ち方

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は大体70歳以上になると自分の人生の来し方をいろいろと反省することが多くなります。仕事で誇らしい業績をあげたことも思い出します。しかし年を経るに従って、それは自分の人生にとってあまり重要な意味が無いと思うようになります。
それよりも人生とは恥多いものだとしみじみ想います。功名心や金銭欲に負けて低俗な生活をしていたという反省が年と共に強くなってまいります。
せめて老境だけはこの世の欲から離れて格調高く過ごしたいと思うようになります。
そのためには心の持ち方が重要になります。
以下は私が努力している幾つかの目標です。まだ達成出来ていない目標です。
(1)自然を愛す
自然を愛すとは小さな草花を含めて自然界のすべてのものを好ましく思い、大切にすることです。特に老境になると美しい風景を長い時間眺め、その光景を日常の生活の間に何度も思い出すのです。
それは丁度恋人を美しいと思い、その顔や姿を何度も思い出すことと同じです。
例えば下の写真をご覧ください。

1番目と2番目の写真は先週訪れた安曇野にある有名な山葵園の脇にある美しい流れの光景です。

川底の藻がゆらゆら揺れていて、その左右に揺れる様子から流れる水流の早さがわかります。背後の北アルプスの高い山々の雪解け水が安曇野に湧き出しているのです。
このような自然の風景に人の手が加わると一層美しく見えることがあります。例えば下の写真のようにこの清流に人間が作った水車を置いて眺めてみましょう。

3,4,5番目の写真は安曇野の大王山葵園の傍にある黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車と、北アルプスの雪解け水の風景です。

水車の羽根が水流で押され水車がゆっくり回り、水車小屋の中の粉ひき用の杵がゴトン、ゴトンという低音がのどかに聞こえています。

このように自然の風景に人間の作ったものが添えられると一層美しく見えるものです。
例えば、遠方に残雪の山並みがあり近景には緑の水田が広がっている風景は本当に美しいものです。
このような風景を常日頃思い出していると、この世の欲から解放されて老境が格調高く過ごすことが出来ます。
(2)他人を恨まず、他国を憎まない心が重要
老境になると社会から離れるので仕事の上での他人との確執が無くなります。自分を酷い目に合わせた人のことも次第に忘れます。老境になると誰でも他人を憎まなくなります。
そして恩人たちへの感謝の気持ちが一層強くなってくるものです。すべてのことに感謝の気持ちが強く湧いてきます。自然に湧いてきます。仕事を止め引退すると誰でもそのような気持ちになるようです。
しかし毎日見る新聞やテレビでは他国を悪いと非難したり、憎しみをかき立てる扇動的な報道で溢れています。
例えば韓国の慰安婦像のことを何度も、何度も報道し日本人の憎しみをかき立てています。私はそんな報道にかかわりを持ちません。
それは日本の背負った負の遺産の一つに過ぎないのです。そう思えば韓国人を愛せます。
中国も南シナ海や尖閣諸島の近海で日本人を怒らせるような行動をとっています。多くの日本人は怒ります。
それも日本が満州を建国したり、中国の南部の桂林まで侵攻したお返しなのです。そう思うと中国人を愛せます。
他人を恨んでいたり、他国を非難している限り格調の高い老境を過ごすことは不可能です。
(3)レストランや泊まるホテルを選ぶ時は経営者の品格を考える
世の中の経営者には「品質を多少落としても安い方が客が増える」と信じている人が多いものです。
しかしクラシック・ホテルのように、サービスの質を重大視している旅館もあります。このようなホテルや旅館は高価なことが多いようです。
しかし品格の高い経営者は高価でなくても良質なサービスを提供するものです。
最近はインターネットの上でお客さんの評価が掲載されています。
それを注意深く見ると以下の3つの違いが分かるのです;1、安かろう悪かろう、2、間違いなく良いが高い、3、安いが品格のあるサービスを提供しているところ。
勿論、上記の3はなかなかありませんが、私はそれを探すようにしています。
(4)政治家を評価する場合はその品格も考慮に入れる
例えばオバマさんは品格があったがトランプさんは品格が無いと言えば納得する方が多いと思います。
トランプさんが大統領になりアメリカの経済が良くなり失業者も減少したと言います。アメリカ第一主義を貫きアメリカ人の面子を立てました。
ですからトランプ大統領はオバマさんより偉いと評価する人もいます。
しかしオバマさんはかつて戦争でひどい目にあったワルシャワで核兵器廃絶の格調高い演説をしてノーベル平和賞を受賞しました。広島にも来て原爆犠牲者の冥福を祈りました。
このような政治家の方を私は尊敬します。

まだまだ書きたいことが沢山ありますが、それを割愛するのも格調の高い姿勢なのかも分かりません。これで終わりにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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東洋と西洋の融合(2)現在も生きている板垣退助の自由民権運動

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
1789年にバスティーユ襲撃で始まったフランス革命は西洋諸国に自由と平等の民主主義を広めるきっかけになりました。
日本でも明治維新後この西洋の思想をいち早く取り入れます。それは自由民権運動として明治時代の初期に燃え上がったのです。
この自由民権運動も西洋の政治思想と日本の政治思想の融合の一つの例です。その結果、新しい日本の政治機構が議会制になり、それは第二次世界大戦後の民主主義へと繋がったのです。
この明治初期の自由民権運動の中心にいたのが板垣退助です。
1882年(明治15年)に暗殺されそうになりながら生き延びた板垣は『板垣死すとも自由は死せず』という有名な一句を残しました。
しかしこの「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は誰が言い出したかは不明なのです。板垣自身が後に「(襲撃を受けた瞬間は)アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いており諸説あります。多分、大阪朝日新聞の記者が書いたのかも知れません。
それはさておき、板垣 退助は天保8年(1837年)に生まれ、 大正8年(1919年)に亡くなりました。享年82歳でした。
土佐藩士の武士で明治維新に活躍し新政府の要職につきます。
そして日本の各地で起きた激しい自由民権運動の主導者として知られます。そして「庶民派の政治家」として国民から圧倒的な支持を受けたのです。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられたのです。
この明治初期の自由民権運動はやがて強権的な明治政府に抑えされ明治天皇を戴く富国強兵策の中で弱体化して行く運命でした。
しかし自由民権運動が日本の民主政治の始まりでもありますのでもう少し詳しく見てみましょう。
自由民権運動を三つの段階に分けることができるようです。
第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。
第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまででの運動の最盛期。(この間の明治15年に板垣が襲われたのです。)
第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である。
(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95 よりの引用です。)
1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂します。板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野します。これが明治六年政変です。
下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成します。
政権側の専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して、高知に立志社を設立します。
この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになります。
この建白書を巡って、民選議院を設立すべきかどうかの論争が新聞紙上で交わされました。
翌1875年(明治8年)には全国的な愛国社が結成されますが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、愛国社はすぐに消滅します。
江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれるものでした。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であったという見方が正しいようです。。
しかしその後、自由民権運動が高揚します。
1878年(明治11年)に愛国社が再興し、1880年(明治13年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出されます。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していったのです。
特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていきました。
例えば現在の東京都多摩地方や町田市でもこの頃、豪農達による自由民権運動が燃えあがったのです。その実態は町田市立の「自由民権運動展示館」に詳しく展示してあります。
この展示館を注意深く見ると、この時期の農村の自由民権運動は地主や豪農を中心にした運動であり、「豪農民権運動」というものでした。
この豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、1876年(明治9年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府のあいまいな政策が原因とも考えられます。
その上、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られたのです。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875年(明治8年)には新聞紙条例の公布、1880年(明治13年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗しました。
このような社会運動の経過なかで明治天皇を中心にした帝国議会の制度が確立しやがて日清戦争や日露戦争が起きたのです。
一般に外国との戦争が起きると国民は一致団結し政府の言うことを聞くようになります。
その後の日本は戦力を増強し西洋諸国の植民地政策に習い海外領土の獲得に努力した歴史は皆様ご承知の通りです。
フランス革命の自由と平等の民主主義が日本へ導入され
日本の社会に融合するためには長年の苦しみがあったのです。
しかしそのお陰と、アメリカ占領軍の指導で、現在の日本はより完全な民主国家になったのです。
このような歴史を想う時、日本と西洋の融合は困難な道のりであったことを知ることが出来ます。

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた信州の仁科3湖の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は北アルプス主峰連山と仁科3湖の写真です。中綱湖は小さいので写っていません。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E4%B8%89%E6%B9%96 です。

2番目の写真は木崎湖です。

3番目の写真は中綱湖です。

4番目の写真は青木湖です。

5番目の写真も青木湖です。
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東洋と西洋の融合(1)ロダンと荻原碌山

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
信州、安曇野に彫刻家、萩原碌山の美術館があります。
碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。郷里の相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
今回、碌山美術館を見ながら東洋と西洋の文化の衝突と融合を考えました。
明治維新以後にいろいろな分野で起きた東西の文化の衝突と融合を考えながら客のほとんどいない静かな美術館を歩みながら考えました。『東洋と西洋の融合』という連載記事を書いてみようと考えていました。
萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その前に彼の日本での生活を見てみましょう。
1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。これこそが東洋と西洋の融合の一例ではないでしょうか?
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女の悲しみが感じられるのです。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせる信州、安曇野の碌山美術館への旅でした。
写真で碌山美術館の様子を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の様子です。

2番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

3番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

4番目の写真は遺作・明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

5番目の写真は萩原碌山です。
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信州、安曇野、大町、仁科3湖をめぐる旅

2017年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨の晴れ間を探して昨日と一昨日の信州への旅をしました。安曇野を中心にして碌山美術館、大王山葵園、大町山岳博物館、仁科3湖、白馬村などを丁寧にめぐりました。大町温泉の黒部ビューホテルに泊まりました。
帰りに松本城に寄り、さらに八ヶ岳の清里の清泉寮の広い牧場の前で車を停め、富士山や甲斐駒岳の遠景をしばし眺めて帰ってきました。走行650Kmの家内と2人だけののんびりした旅でした。
旅の間、この地方の歴史や30歳で夭折した彫刻家の碌山のことや明治時代のことをいろいろと考えました。それらは別稿としてお送りする予定です。
今日は今回の旅で撮った風景写真をお送りします。

1番目の写真は大町山岳博物館の前から撮った大町市と北アルプスの山並みです。数多くの登山家達が大町から穂高、槍、大天井、燕岳、そして白馬、唐松、五竜、立山へと登ったのです。そして何人もの若者が帰らぬ人になったのです。

2番目の写真は明治12年生まれ明治42年に血えを吐いて夭折した天才彫刻家、碌山の作品を数十点展示してある碌山美術館です。

3番目の写真は仁科3湖の一つの木崎湖です。この上の北方に中綱湖と青木湖があります。

4番目の写真は大王山葵園の傍にある黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車と北アルプスからの雪解け水の清流の風景です。

5番目の写真は国宝、松本城です。明治維新の後、競売にかけられ取り壊されそうになった天主閣を市民が買って保存したことで有名なお城です。

このように旅をすると信州独特の風景や文化に魅了されます。信州は山国と言いますが広い盆地があり水が豊富で稲作地帯が広がっているのです。長野市を中心にした盆地、松本盆地、天竜川沿いの伊那谷の稲作地帯と文化もそれぞれ違うのです。
今回は松本盆地とその西に広がる安曇野から大町、仁科3湖、そして白馬村の範囲だけを巡りました。
大町温泉の雑木林と八ヶ岳高原ルート沿いの雑木林にハル蝉が美しい夢幻のような声でしきりに鳴いていました。カナカナ蝉の鳴き声の音程を低くした神秘的な声です。あの世の美しい鳴き声の感じがします。
今更ですが、この日本の自然の豊かさに感動して帰ってきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?

2017年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。
従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。
しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。
この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。
このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。
私はもう40年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど30位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。下に3枚の写真を示します。

1番目の写真は海蔵寺です。
(写真の出典:http://c-saito.at.webry.info/theme/b81436e5da.html)

2番目の写真は報国寺です。(写真の出典:http://matome.naver.jp/odai/2139072013871894901/2139088534565345703)

3番目の写真は光明寺です。(写真の出典:http://blog.takuzousuinari.com/?eid=674527)
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。この寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気が侘しいのです。誤解を恐れずに書けば質素過ぎます。
しかしその侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。日本文化の底に流れる侘びと寂びが強く感じられるのです。
その魅力にとりつかれて以来、何故、鎌倉のお寺はそのような雰囲気を持っているか考えてきました。
一番大きな原因は上にも書きましたように、鎌倉の仏教は質素を美徳にした武士や庶民の為の仏教なのです。
鎌倉時代の宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。

現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。
ところが、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になっていたので華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗などの寺院を格付けし、管理コントロ-ルをする制度で選ばれたお寺です。京都・南禅寺を別格上位とし、第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
現在の政教分離の考えからあまり尊敬すべき制度ではありません。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。
そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「わびさびの世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの「わびさびの世界」を感じ鎌倉を再訪する人も多いのです。
今日は鎌倉仏教とお寺の特徴を簡単に書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺 東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺 扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市) 立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山 臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺 泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山:
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US
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キリスト教の異質さが日本人の信者を少なくしている

2017年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人にとってキリスト教はあまりにも異質です。日本人は古くから神道と仏教に慣れ親しんできました。しかしキリスト教の教えは神道や仏教とはあまりにも違うのです。
今日は宗教のことを書くことにしている日曜日なので、このキリスト教と日本人とのかかわりあいについて気楽に書いてみます。
日本人がキリスト教を知ったのは1549年にザビエルがカトリックのキリスト教を伝えてからはじまりました。信長、秀吉時代に急に信者が30万人と増えましたが、やがて厳しい禁教の歴史が250年間続きます。いわゆる隠れキリシタンの時代です。
しかし今回は隠れキリシタンのことは一切省略します。
今回のテーマは明治6年の禁教令の廃止以後のキリスト教と日本人のかかわりについてです。
例によって、かかわりの様子を、「風景をスケッチ」するように気楽に描いて行きます。
まず公平に見回すと日本人にはキリスト教が嫌いな人が案外多いようです。内心は嫌いでも、「いいじゃないですか。日本には宗教の自由がありますから」と穏健なことを言います。
しかし明治維新以来、西洋の文化を熱心に導入してきたわりにはキリスト教の信者の数は総人口の3%を越えたことはありません。ザビエルの伝えたカトリックにいたっては0.3%と非常に少ないのです。ミッション・スクールは非常に多いのに洗礼は殆ど受けません。
正直に書けば私はカトリックの洗礼を受けてから40年以上、毎週のように教会のミサに出ています。あまり熱心な信者ではありませんが、一応信者のはしくれに座っています。
洗礼を受けてから何年間は日本にキリスト教信者が一向に増えないことを悲しく思っていました。そして増えない理由をあれやこれやと考えました。遠藤周作の本も沢山読みました。
しかし老境にいたってみると考えが変わってしまったのです。悲しく思うのは考えが浅いのです。そして何事も正解の無い原因を考えるのは全く無駄なことに気がつきました。あるがままに受け入れて平穏な心で生きて行くことが一番大切なことに気がついたのです。
確かに日本人で洗礼を受けた人の数は少ないのです。しかし日本人は明治時代以来、キリスト教の教えの影響をいろいろな分野で深く受けているのです。キリスト教の嫌いな人でもその影響を逃れることは出来ません。
日本人ら誰でも、「汝の隣人を愛せ」という言葉を知っています。「人間はパンのみで生きては行けない」という言葉も知っています。そして聖書を読んだ人は。「全ての人間は神の前で平等で自由だ」ということを知ります。
現在、日本は人間は生まれながらにして自由で、平等だと信じています。江戸時代には皆無ではありませんが、あまり無かった考え方です。そして賢い人は欧米の民主主義は実はキリスト教を下敷きにして発達してきたことを知るのです。
その上、共産主義はキリスト教の反対の思想を整理して体系化したものなのです。ですから共産主義はキリスト教国でしか生まれなかったのです。
日本人は明治維新以来、西洋文化の導入に熱狂してきました。当然、キリスト教的な考え方が怒涛のように流れ込んだのです。
しかし今でも「耶蘇は嫌いだ!」とか「キリスト教徒は偽善的だ」と言って嫌う人がいます。
当然です。キリスト教の信者には自分の考えを他人へ押し付ける人が多いのです。困ったものです。「福音宣教」の鉄則は、まず他人を愛することです。愛せば自然に信者になります。口先だけの宣教は厳禁です。困ったものです。

今日の挿絵代わりの写真はポーランドの世界遺産である木造教会群の中から3つの教会の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はデンブノの大天使ミカエル聖堂です。

2番目の写真は聖レオナルド聖堂です。

3番目の写真は大天使ミカエル聖堂です。
===ポーランドの世界遺産の木造教会群=================
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%80%A0%E8%81%96%E5%A0%82%E7%BE%A4
マウォポルスカ南部の木造聖堂群は、マウォポルスカ地方南部にあるポーランドの世界遺産である。ビナロヴァ、ブリズネ、デンブノ、ハチュフ、リプニツァ・ムロヴァナ、センコヴァなどの各村に残っている木造聖堂が登録対象である。
中世後期に起源を持つこの地方の木造聖堂の様式は、ゴシック様式の装飾や色とりどりの細部で始まったが、木造であることから、石やレンガで出来たゴシック建築とは、構造も全体像も印象も大きく異なっている。より後の時代に建設された木造聖堂には、ロココ様式やバロック様式の装飾的影響を示しているものもある。これらの聖堂の形態は、この地方での東方典礼カトリック教会や正教会の存在に深く影響されている。
いくつかの聖堂は上から見たときにギリシャ十字を形作っており、たまねぎドームを備えているが、最も興味深いのは、それらの特色が引き伸ばされた身廊や尖塔とともにローマ・カトリックの様式と組み合わさっていることである。
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横山美知彦著、『利根川のなまず料理と麦とろの思い出』

2017年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
1、利根川のなまず料理
群馬県の東部地区になろうか、すぐ隣が埼玉県という所に位置する街が、館林市である。
最近は、真夏の気温が全国で一、二を争う高い場所でもある。この辺りは利根川の水量も多く、江戸の時代から、文福茶釜の「茂林寺」や川魚の獲れる処として有名だ。
その為に川魚料理をメインにした料亭が栄えた地であり、現在もその名残りの店をあちこちに見ることが出来る。
特に「うなぎ」は遠方から、これを目当てにやって来る客も多い様だ。
七、八年前になろうか、小学校時代の友人夫婦に誘われ、「うなぎ」を家内と共に御馳走になったのがきっかけで、その後何度かプライベイトで食べに行く機会があった。
「うなぎ」の他に、やはりこの利根川で獲れる「なまず」がメニューには必ず載せてあるが、何故か値段は「時価」としてある。友人に御馳走になり、その淡泊な味に魅せられていた。
帰郷していた町田市に住む二男の息子と三人で、立ち寄ったことがあった。さて一般的に時価と書いてある物は、常時提供できる物と比較して五割は高額と認識していたので、注文をためらったが、今度何時来られるか判らないので、思い切って注文してみた。「なまず」のフライは期待に違わずうまかった。
さて勘定と云うところで、一寸心配になったが、勘定書きを見て間違ってはいないか目を疑った。そこには「なまず」のフライ650円とあった。ちなみにメインに注文した「うな重」は一人前1,500円であった。
あの目の小さなとぼけた表情の「なまず」の料理がこんなに淡泊で美味い物とは、しかもその値段の安さに驚いた。
2、麦とろ苦しさと美味しさ
私が「とろろ汁」が人並みに食べられる様になったのは、20才を過ぎてからである。
父母が「とろろ」が好きで、とろろ芋が手に入ると「とろろ汁」を作り食卓を賑わしていた。戦前、東京の板橋に住んでいた頃、親子5人の他に田舎からの下宿人が、代わる代わる訪ねて来て宿にし、東京での生活の一歩にしていた。
ある晩の夕食に「とろろ汁」を母が作り、幼い私の口に「とろろ汁」を運んでくれた。生まれて初めての経験だった。だがそれが成人になるまで食べられなくなった最初でもあった。
「いも」の質があまり良くなかったのか、口の周りに「とろろの粘粘」が付いた為に即座に痒くなった。 痒さのあまりに泣き叫んだことを今でも思い出すことがある。
さらに喉を通る時の味わいとでも云うのか、普段の食べ物とは違う為、何とも気持ちの悪い戻しそうな症状になった。
それ以来、昭和18年田舎に引っ越した子供達も小学校、中学校と物心が付き始めて、戦後の物のない時期の「とろろ汁」は貴重な栄養源であって、家族は私を除いて目の色を変えて「とろろ汁」を食べていたが、私は見向きもしなかった。
高校を終えて上京した私は、都会での生活になれ始めた頃、同僚に連れられ酒場の料理を口にする様になった。品書きには必ず「とろろ」を使った料理が載っている。
都会人になったつもりの私も恐る恐る、まぐろ入りのとろろ、「やまかけ」の料理を口にして見た。ところがそれが抵抗なく喉を通り、その味の良いことを初めて経験したのだ。
それ以来、とろろを使用する料理や、自宅で家族の作る「とろろ汁」は期待の一品となり、幼かった頃の記憶のあの痒い気持ちの悪い雰囲気は無くなっていた。
「とろろ汁」には、麦飯が合う。最近麦の身体への効果が見直され、良質の押麦が手に入るようになり、何か月か前から僅かな麦を入れた「ご飯」に我が家も代わった。したがって「とろろ汁」を作れば、だまっていても「麦とろ」を食べる事が出来る。これはうれしい。60~70年以前を思い起こすと、まさに天と地が入れ変わった感がする。やや大げさとは思うが。(終り)

挿絵代わりの写真は利根川の上流、中流、下流の風景写真です。写真の出典は以下の通りです。
上流、http://www.pixpot.net/view_spots/spot/1879/onakajima-park
中流、http://www.rindo21.com/review/2010/05/-1020mm-f35-ex-dc.html
下流、http://mizbering.jp/archives/943




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森友、加計学園騒動と南シナ海での日米海軍共同作戦訓練

2017年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のマスコミは森友学園騒動と加計学園騒動で大騒ぎをしています。
しかしこの大騒動のかげで日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練を実施しているのです。
日本軍がいつの間にかアメリカ軍に組み込まれて作戦をする演習を、遠く離れた南シナ海で行っているのです。
次はインド洋でしょうか?中東近海で行われるのでしょうか?
共同作戦の訓練の指揮権は軍備が優位にあるアメリカ軍にあると考えるのが自然ではないでしょうか?
これは日本の軍隊は将来アメリカの指揮権の下で戦争に参加することを示しています。その可能性を示しているのです。

森友学園騒動と加計学園騒動よりも日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練をしているというニュースの方が重大ではないでしょうか?
マスコミが加計学園騒動ばかり大きく報道しているので、日本の将来を決める日米の軍事練習が実に小さく報じられています。
そこで以下に南シナ海に関する2件の報道を示します。

『中国、南シナ海で実効支配下の人工島付近航行した米駆逐艦に警告』
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/05/post-7679.php
5月25日、中国は、南シナ海で同国が造成した人工島から12カイリ(約22キロ)内を米海軍の駆逐艦が航行したことを受け、同海域の外に出るよう警告したことを明らかにした。

1番目の写真は米海軍の駆逐艦「デューイ」。南シナ海で6日撮影。(2017年 ロイター/U.S. Navy/Handout via Reuters)

『海自護衛艦「いずも」「さざなみ」が米空母「R・レーガン」と共同訓練 中国を牽制』
http://www.sankei.com/politics/news/170616/plt1706160036-n1.html
海上自衛隊は16日、南シナ海で活動中のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」と護衛艦「さざなみ」が13~15日の間、米海軍の空母「ロナルド・レーガン」など艦艇数隻と陣形や通信などの共同訓練を行ったと発表した。南シナ海や東シナ海で強引な海洋進出を進める中国を牽制(けんせい)する狙いだ。

2番目の写真は手前から護衛艦「いずも」、空母「ロナルド・レーガン」、護衛艦「さざなみ」(海上自衛隊提供)
海上自衛隊と米海軍が南シナ海で共同作戦訓練を実施した。

3番目の写真は護衛艦「いずも」艦上から見た米空母「ロナルド・レーガン」(海上自衛隊提供)

2つの国の軍隊が協力して戦争を行うときは必ず指揮権がどちらにあるか決めてから行います。そうしないと無用の混戦と友軍同士の相打ちが起きます。日米の海軍の共同訓練でも指揮権をアメリカが持つでしょう。そうしないと艦艇同士の衝突事故が起きる可能性があるのです。日本のマスコミは指揮権については一切報道しません。加計学園騒動ばかり大きく報道しないで日米軍事共同訓練の指揮権も含めて、もっと詳しく報道すべきではないでしょうか?

さて加計学園を助けるように安倍総理が指示したか否かという問題です。
安倍総理は明確な指示をしていないと思います。
しかし例えば側近に、「昨日は加計学園の理事長とゴルフをしたよ。彼は昔からの友達だけど気持ちの良い男だよ」と雑談したかも知れません。
するとそれを聞いた側近は文科省に問い合わせ、加計学園の案件の現状を知ります。それを受けて側近は文科省へ、「総理の意向で・・・・」という文書を送ります。総理大臣の友人を助けるのは側近の忠誠心の証になると思っているのです。これを品性の悪い忠誠心と言います。
もしこのような話が事実なら安倍総理は無罪です。側近が品性の悪い忠誠心の持ち主だったのです。
森友学園騒動も同じような構図だったのでしょう。
安倍総理の側近は政治家です。政治家に品性の良さを求めるのは無理なのではないでしょうか?

ですからこそ森友学園騒動と加計学園騒動よりも日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練をしていることの方が日本の将来に重大な影響を与えると私は主張したいのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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横山美知彦著、『鮎の塩焼き』

2017年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
小魚の食べ方は、人によってそれぞれ異なると思うが、小骨の付いたままの焼き魚は上手に食べるのに苦労する。私もその一人だ。短気が災いして我慢出来ず、まだ食べる部分があるにもかかわらず、途中であきらめてしまう。
 家内は上手い。全くの骨だけにしてしまう。これには真似の出来ない何かがある様だ。
 川魚で特に馴染みのある魚、それは鮎だ。その塩焼きは川魚の王様だと思っている。養殖の岩魚や鱒も塩焼きには趣があり美味いが、私は口にする機会が鮎ほどない。
 これら小魚の料理の方法だが、大方頭の方から串を刺し魚全体に塩をまぶし、炭火でこんがり焼く。川で自然に泳いでいる姿をイメージして途中に曲がりを入れ、尻尾の手前をやはり一寸曲げて焼く。
 一般には、焼きあがった鮎に打った串を抜き皿に移し、箸を使い骨を取りながら、「たで酢」などを漬けて食べる。当然「わた」の部分も食べるが、大方残してしまうことが多い。
 鮎は、焼き立てを食べるのが一番美味いと思うが、それを串も取らずに背の部分から、かぶりつくのは、繊細な鮎を食べるには、あまりにも能のない食べ方で雰囲気がない。
 もう随分と昔のことだが、父親が仕事の合間を利用して近所の川で鮎、うなぎ、かじかを獲っていた。だから鮎は中学時代から口にする機会があったので慣れていた。
一度焼いて数日空気に当てて乾燥したものを父親からは「風吹かす」と教わった。それを甘辛く煮つけておき、昼の弁当の「おかず」となっていた。その後可成りの年になって、違った食べ方を覚えた。
 それは、平皿の上でまず串を抜き、尻尾の部分を手でちぎり離す。次に頭の部分を手で押さえ、鮎が川で自然に泳いでいる状態の縦にして、頭の部分から骨を残して肉部分をちぎる。そして肉の部分を箸で静かに押さえて左方向にゆっくり離して行く、つまり頭を持ち骨を引き抜くのだ。
 頭と中心の骨と尻尾と真ん中の肉の部分に分けられるので、肉の部分を「たで酢」をつけて食べればよい。ただあくまで焼き立ての熱い間でないと外しにくい。
 旅先の夜の食事に出される焼き物は、焼いてから時間が経過しており、この方法で食べることは無理の様だ。折角の「鮎の塩焼き」も美味い時に食べられないのは残念なことである。
=======終り==========================
上記の文章の著者の横山美知彦さんは終戦前後に家内が疎開した群馬県の下仁田小学校の同級生でした。
この6月初旬に同級会があり家内を下仁田まで送って行った時いつものように横山さんから文集を頂きました。
上の文章はその中の一編です。
尚、下仁田小学校のまつわる話は以下の記事にあります。
『茫々70年、群馬県の山の中、下仁田小学校物語り』
(2017年06月09日掲載)
そして鮎の塩焼きに関する記事は次の記事にあります。
『利根川の鮎料理、坂東簗の店仕舞いーある地方文化の終焉ー』
(2015年06月17日 掲載。)
毎年、6月になると利根川上流の坂東簗から今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと案内状が来ます。
それが今年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできたところが無くなるのです。しばし寂寞感にとらわれます。
これはある地方文化の終焉です。簗で鮎を捕り、見晴らしの良い川岸で鮎料理を楽しむのは、その地方の食文化です。時代が変わればその文化も終焉するのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。
鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
・・・・中略・・・・・・
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう無くなってしまうのです。夏の風物詩が一つなくなり、淋しくなります。(以下省略)

今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の写真です。


今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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テロ準備罪、憲法改正、軍備強化、3年後の日本は?

2017年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人ならこの国の平和が何時まで続くか心配になります。将来はどのような国になるか心配です。
10年後の将来は分かりませんが、3年後くらいなら予測出来るような気がします。
最近、テロなど無い日本でテロ準備罪を罰する法律を作ろうとしています。戦前の治安維持法とは全く違いますが、なんとなくそれを彷彿とさせます。
そして安倍政権はいよいよ憲法改正にとりかかります。自衛隊を日本の安全を守る軍隊として憲法で認めます。戦後レジームからの脱却です。そして軍備強化をします。
アメリカはパリ協定から脱退しました。トランプ大統領がアメリカ第一を主張し国際協調が崩れ出しました。
北朝鮮が核ミサイルの改良に努力しつつあります。中東の戦乱は混迷を深め何時までも続いています。
このような現在の情勢から3年後の日本を予想してみましょう。ただ漠然と予想するのではなくいろいろな分野に分けて成るべく具体的に予想してみましょう。
(1)憲法改正と日本の軍備強化
安倍政権が存続している間に、憲法は改正され、自衛隊が憲法で日本の安全を守る軍隊として認められるでしょう。
そして危険なミサイル発射をしている北朝鮮や中国の太平洋進出の脅威を受けつつある日本は軍備強化に努力します。この方向は多くの国民が支持しているようですので3年後はそのようになるでしょう。
それと並行して自衛隊のアメリカ軍との共同作戦の準備がより鮮明になります。
3年後の日本は外交努力と軍事力の両方を使っていよいよ国際社会に乗り出すのです。これを喜ぶ国民が多数になるでしょう。
気分的に日本がやっと独立国になるように感じる人が多いことでしょう。

(2)中東の戦乱と日本からの出兵
中東の戦乱は長い将来も続くでしょう。この状態でトランプ大統領は親米のサウジアラビア、ヨルダン、などの国々に大規模な武器の売り渡しを契約しました。これら親米のアラブ諸国はイスラム国と大国イランと対立しています。
このような構図の中でサウジアラビアとイランが戦争を始める危険性があります。戦争が始まればアメリカはチャンスとばかりイラン攻撃のため軍事介入するでしょう。日本は当然、アメリカ海軍を支援するためにイージス艦や駆逐艦をインド洋に派遣するでしょう。そして小規模ながら陸上自衛隊の中東への派兵もあるでしょう。

(3)第二次大戦以前の歴史の見直しと過去の日本の正当化が行われる
戦後のアメリカ占領軍は日本の朝鮮合併や満州国建国や中国侵略は悪であったという教育を徹底的に行い日本の軍国主義を完全に粉砕しました。
他国を武力侵略することは、勿論、倫理的には悪に決まっています。しかし昔の欧米の植民地政策を棚に上げて、日本だけが悪の権化だと言わんばかりの教育を押し付けたのです。新聞や本の出版の検閲もしたのです。
この戦後教育の偏向を正そうとして戦前の歴史の見直しが最近しきりになされています。
しかし日本が朝鮮を合併したり、満州を建国したことは悪であることには間違いなのです。倫理的に悪なのです。その負の遺産は受け入れるのが人間として正しいと思います。
しかし3年後の日本では日本の正当化の勢いが一層強くなるでしょう。

(4)3年後も変わらぬ日常の暮らしぶり

上記のように日本を取り巻く国際情勢は現在より厳しくなります。
しかし国民の生活ぶりは現在とほとんど変わらないでしょう。消費は現在と変わらず活発でしょう。
相変わらず野球やサッカーに国民は一喜一憂し、相撲ではモンゴル勢が活躍しているでしょう。稀勢の里の優勝が光明です。
国民の暮らしぶりが悪くならないのは日本の経済が好調だからです。
アメリカが中東で軍事作戦をずれば経済が活性化します。日本は中東から離れているので戦乱に巻き込まれなく、経済の活性化の恩恵を少し受けるでしょう。

結論を書けば、3年後の日本の暮らしは現在と変わりません。しかし社会の雰囲気は戦前の統制国家のような雰囲気に少しなるでしょう。しかし統制国家といっても戦前の大政翼賛会による全ての締め付けはありません。民主国としての個人の自由と平等は守らるでしょう。
唯一危惧されるのが北朝鮮とアメリカとの軍事衝突です。これだけは回避すべきです。安倍政権の賢明な外交が期待されます。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立薬草園で撮った花の写真です。写真は順々にオオアマチャ、トウカンゾウ、セイヨウナツユキソウ、ジキタリスの花々と大麦です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








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古民家の趣味への憧れ、そして今は亡き恩人の思い出

2017年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム
一生の間に一度はしてみたいという趣味があります。しかし81歳の老境に至った現在は儚い夢として終わりそうです。
その趣味は田園地帯に古い民家を丁寧に復元して住んでみるという趣味です。それを別荘のようにして四季折々数日泊りに行くような趣味です。
もう随分昔のことですが、そのような趣味を持っていたスウェーデンの人にその古民家に招待され泊まったことがありました。
私をストックホルム王立工科大学の集中講義に招待してくれたエケトルプ先生が古民家を復元する趣味を持っていたのです。
驚いたことに先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。
ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいるのです。
昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはないのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてあります。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをするのです。深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなります。
大きな石組みの煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。
寝室には電気が無く、灯りはローソクです。
昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけでした。テレビはありませんでした。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。古い農家を再現するときの苦労話を聞きながらその強い酒を少しずつ飲みます。
夜が更ければ寝室へ引き揚げます。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていたものでした。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで昔泊めて貰ったあのスウェーデンの古民家に似た画像をいろいろ探しました。似ている古民家の写真を見つけましたので下にお送りいたします。

1番目の写真はスウェーデンの古民家です。
写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。1番目の写真の古民家では外壁が板壁になっていますが、私が泊まった家は窓から上の部分は白い土壁でした。屋根は藁葺でした。

2番目の写真はスウェーデンの古民家の室内の様子です。
写真の出典は、http://hanatomo31.exblog.jp/16424403 です。

日本でも古民家を復元して住んでいる人がいます。羨ましい趣味です。私はこの趣味に憧れていましたが、儚い夢として終わりそうです。
スウェーデンで古民家に招待してくれたエケトルプ先生には公私ともに大変お世話になりました。その恩人も亡くなって随分年月が経ちました。亡くなったとき花束を贈っただけでした。
日本のテレビでは時々古民家を復元して住んでいる人を紹介する番組があります。それ見るたびにスウェーデンの古民家に泊めてくれたエケトルプ先生をしみじみ懐かしく思い出します。お元気だったころのお顔や姿が思い出されるのです。


ついでにもう一つの思い出も書かせて下さい。
これも昔のことですが、1989年、オハイオ州コロンバスの郊外にサラブレットを八頭も飼っている中年女性に会ったことがありました。
彼女は当時私が研究をしていた大学で計測器の操作を担当していた技術者でした。
毎年夏の終わりごろ、職場の教授、学生を家族連れで彼女の馬小屋前のバーベキューパーテイーに招待してくれるのです。
子供も大人もおとなしいサラブレットに乗れるので人気があるパーティです。
馬小屋の内部には、中心の通路に向かい八頭の馬の個室があります。
そして通路の先は百坪ぐらいの屋内乗馬スペースになっています。冬でも馬に乗れるようになっているのです。
女性用の乗馬服に身を固めた飼い主が客の座っているテーブルを回りながら談笑します。私のテーブルにも回って来ました。
私が、「8頭とも姿が素晴らしい。馬を飼うとは良い趣味ですね」と言いました。
彼女は「とてもお金がかかるのですよ」と答えます。そして続けて言ったのです。「幸い、いや不幸と言うべきか、5年前の離婚の時、大きな慰謝料を貰ったのです。それで少女時代からの夢であった馬を飼うことにしたのです」と。何か少し淋しそうです。
「いつまでも続けるのですか?」「学科主任に契約は延長しないと言われたので、来年は馬も手放してコロンバスから出ていきます。仕事も面白かったし、念願の馬も八頭も飼えたし、この土地には楽しい思い出だけです」「お元気で引越しをなさってください」「有難うございます。またいつか会えるでしょう」
それ以来、彼女に会うことはない。消えてしまった人です。しかし、馬を見る度に彼女の輝く、そして少し淋しそうな顔を思い出します。何故か人生の儚さを感じる思い出です。
馬を飼う趣味は日本にもあります。
木曾の御岳山の中腹で日本古来の木曽駒を飼っているのを見たこともあります。そこで、その写真を下に示します。

写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.html です。


話は変わりますが、家内は大学時代に乗馬クラブにいたので、その影響で私も馬が好きになりました。九州の野生馬や北海道の道産馬も見に行ったことがあります。九州の「都井岬」には、江戸時代の高鍋藩の藩営牧場があり、100頭ほどの「御崎馬」が野生化して自然の中に棲んでいます。
そして木曽駒は5、6回も見に行きました。ここの感動的なことは広い牧場を数頭の木曽駒が何時も走り回って、遊んでいることです。馬が遊びで疾駆している光景は感動的な光景です。厩舎に入って馬にも触れますし、乗馬もできます。家内が乗馬を楽しんでいました。
それも随分と昔になったものです。
馬を飼うという趣味もこの世の儚い夢として終りそうです。

このような古民家に住む趣味と馬を飼う趣味は出来ませんでしたが、心残りはありません。そのような趣味があることを知っただけでも幸せでした。さて皆様はどのような趣味をし残したでしょうか?お聞かせくだされば幸せです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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花々を種から育て咲かせている方のブログをご紹介します

2017年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
花の写真を掲載している方々は多いものです。しかし種を外国からも取り寄せて丁寧に育て、花々を咲かせている方は少ないようです。
そのような珍しい花々の写真を沢山掲載してあるブログがあります。
『KITAHOのデジカメ散歩』というブログで、URLは、http://kitaho321.blog25.fc2.com です。
KITAHOさんは横浜に住んでおられ、毎日のように自転車で郊外の野原やお寺を巡りながら自然に生えている小さな草花を見つけては美しい写真を撮っています。
自宅の庭に実にいろいろな珍しい原種の花を育てています。
そして山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓にロマンチックな別荘を持っていて、そこでも草花を育てています。別荘の隣の雑木林を地元の人から借りてそこに自然に咲く草花も観察しています。私は何年か以前にその別荘を訪れて花々のお話を聞いたことがあります。博識で、まるで植物学者のようです。
今回、そのKITAHOさんのご承諾を得ましたので、『KITAHOのデジカメ散歩』から花々の写真と説明文を以下にご紹介することにしました。尚、説明文の中にある「秘密基地」とは甲斐駒岳の山麓にある別荘のことです。
===『KITAHOのデジカメ散歩』からの抜粋==========

1番目の写真は八重咲きのウツギ、サラサウツギです。可愛く開花しています。
別名、サクラウツギと呼ばれるように、うっすらと桜色を見せ、他のウツギとは格別な美しさを見せてくれます。
しかし、八重咲きの宿命?ともいえるうるささがあります。
数輪のサクラウツギは素敵なのですが、いっぱいの八重の花はうるさくて仕方ありません。
でも一輪、二輪をまじまじと眺めてしまいます。

2番目の写真は東京・町田市三輪町にある『高蔵寺』の境内に咲いていた黄色い睡蓮です。この寺はシャクナゲ寺として知られています。

3番目の写真は同じ寺に咲くテイカカズラです。この『高蔵寺』は春夏秋冬、いつもお邪魔させていただくお寺さんです。特に自転車での休憩地点でもあります。 初夏の佇まいを見せる境内はめっきり花数が減りました。しかし、アスチルベ・ザクロの花や白花ヤマブキの実などが私の心を和ませてくれます。

4番目銅葉のゲラニュームの花です。暑さに弱いというのがもっぱらの噂の花です。
しかし、銅葉ですが、暑さに強いゲラニュームがありました。
このゲラニウム・エリザベスアン(Geranium maculatum 'Elizabeth Ann')と、いいます。
とても大きくなり、秘密基地(北杜市の別荘)行きが間近です。
Geranium maculatum は北アメリカ~カナダに自生するゲラニウムで、エリザベスアンは、その園芸品種です。
柔らかなピンクというより、透明感のある藤色といった方が良いような彩りで、素敵なものです。大事にしたいゲラニュームです。
英語では、Geranium maculatum 'Elizabeth Ann'と言います。

5番目のヒメサユリ(姫小百合)です。
ヒメサユリは、福島県と新潟県、山形県の三県にまたがる山地。飯豊連峰に自生が確認されている日本固有のユリです。
別名、オトメユリ(乙女百合、学名:Lilium rubellum)とも呼ばれます。
秘密基地のヒメサユリやササユリは実生から育成したものです。頑張った甲斐がありました。
自然の野原で、こんな素敵な彩りに出会えるとは思ってもみませんでしたから。
ヤマユリに比べ、弱々しい株立ちですが、そっと優しく開花する姿は、まさに乙女ですよね。

6番目の写真はササユリです。ササユリは貴重な日本固有の原種ユリです。
また、自生地として、伊豆半島以西の本州及び四国、 九州の地域にのみに見られるユリです。
ネットで知り合いました石川県の方からササユリの球根や種を頂いたのが2010年の晩秋の頃でした。
袋撒きがよいと言うことで、ナイロン袋に鹿沼土を湿らせ、その中に種を入れました。(袋撒きは2010年11月13日)
・・・2回の冬を経験しますと、発芽するようですね。(2012年04月17日17日)
そして、少しだけ球根が大きくなり、球根の植え替えが出来ました。(2014年11月06日)
発芽して4年目。やっと開花に辿り着きました 。(2016年06月01日) 嬉しかったですねぇ。
そして、秘密基地のササユリもしっかりとした花が付きました。(2016年06月17日)
ササユリは・・・今年も元気です。
この写真は横浜の自宅のバックアップ用のササユリ

7番目の写真は南アフリカ原産の『トリトマ』の花です。
北杜市に別荘を建設した時から『トリトマ』という植物に興味があり、苗探しに奔放したのを覚えています。
7年前ですので、苗らしきものが見当たらなく、『じゃぁ・・・種から育ててやる』でした。
で・・・イギリスから種を取り寄せました。短絡的な行動でしたね。
しかし、種から育ててやるというチャレンジは容易なものではありませんでした。
育て方もわからず、ただただ、熱帯性ですが、標高の高い所(1400~2800mくらい)に自生していて、耐寒性もあり、地植えでも育てられるとのことを信じ、4号ポット苗になった頃を見計らい、秘密基地に持ってきました。・・・結果。上手くいきましたよ。達成感いっぱいです。
今や、別名の松明百合(タイマツユリや英名の『トーチリリー』などと言われる通りの姿となって来ています。
特に、美しいと感じるポイントが・・・黄色からオレンジに変わるグラデーションの美しさです。
秘密基地のはどうなっているのでしょう・・・・来週末の秘密基地入りが楽しみです。
=============転載の終り========================
私の記事には内容に関係ない挿し絵代わりに花々の写真を添えています。今後は時々KITAHOさんの花々の写真をお借りすることにしました。それもご承諾下さいましたKITAHOさんへ感謝しながら今日の記事を終りと致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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「高齢者と社交性(4)定年後に知る妻の心の深さ」

2017年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者になると他人の助けが必要になります。一番重要な人は共に住む妻です。ですから妻へ感謝し尊敬し、良質な社交性で接しなければなりません。感謝と尊敬の念をスマートに伝えることをこの連載では良質な社交性と言います。
今日は妻への感謝と尊敬について短く書いてみたいと思います。
その前にこの連載の今迄の記事をちょっと振り返ってみましょう。
「高齢者と社交性(1)医師と看護師への感謝と尊敬」2017年06月06日
「高齢者と社交性(2)リハリビ施設のスタッフへの感謝と尊敬」2017年06月08日
「高齢者と社交性(3)ネットを利用した交流のための社交性」2017年06月09日 
この3つの記事の題目を見ると人間が老境でなると実に多くの人々に助けられ、支えられているかがよく分かります。
そして今日取り上げる妻は毎日の生活でかけがえの無い助けです。支援者です。
それは日常の当たり前のことなので妻への感謝や尊敬を忘れがちになります。
ところで私が妻の愛の深さを知ったのが70歳になって一切の仕事を止めた時のことです。
それまでは定期的な収入もあり社会的な立場もありましたから夫の人間としての価値は具体的に分かる状態です。
分かり易く、いささか下品な書き方をすれば夫が生活費を稼いでくるのですから妻は夫へ感謝し尊敬するのが当たり前です。
ところが70歳で一切の仕事を止め、社会と繋がりの無い状態になるのですから妻の感謝と尊敬は消えても可笑しくはありません。
私が一切の仕事を止めても妻は一切態度を変えませんでした。赤ん坊のように何の力も無い夫を以前と変わらない感謝と尊敬の念をもって接してくれるのです。夫が外で嫌な思いをしても我慢し、生活費を稼ぎ続けるから感謝していたのではなかったのです。
夫を裸の無力な一個の人間として結婚以来ずっと愛し続けて来たのです。老いて醜くなった夫を変わらず愛しているのです。
嗚呼、女には負けた。男は真似出来ないと感じることが多くなるのです。
世間では、女は子供を生むから男より偉いとよく言います。それも同感しますが、定年後になってみると妻の態度が変わらないことに驚きます。微動だにしない大地のようなものです。
これに比べると男は女の見かけなどに左右される浅はかな存在なのです。男は老境に至って初めて女性の姿ではなく心の美しさがしみじみと、そして深く理解出来るのでしょうか。勿論、賢い男は若い時からそのことを知っています。
夫婦が共に健康で老境に至ることが出来ると、多くの男性は妻の愛が純粋で深いことに気が付きます。
それは幸運なことです。
しかしこの幸運に恵まれない人も沢山いるでしょう。しかし老境に至った多くの人間は平穏な幸せそうな顔をしています。近所を独りで散歩している高齢者は皆んな、みんな幸せそうです。犬と何やら話をしながら歩いている人もいます。
やっぱり人間とは素晴らしいものですね。

定年後、妻の愛の深さを知った愚かさを書いてしまいました。

今日の挿し絵代わりの写真は水郷、都立水元公園の風景写真です。5月27日に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




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あなたは愛されていますか?欧米と日本では愛という言葉の使い方が違う

2017年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
『愛』という言葉を調べれば「アガペー」から始まって、いろいろと詳しい説明があります。今日はその難しい議論を省略して『愛』という言葉の簡単至極な説明をしたいと思います。
『愛』という言葉の意味と使い方は日本と欧米では非常に違う場合があるという説明です。
例えばキリスト教では神が私を愛していますと言います。私はイエス様を愛していますと言います。教会でのミサではこのような文句を何度も言います。ですから欧米人にとっては「愛します」という言い方には慣れています。それを言うことに何の抵抗感もありません。
日本人が「お早う御座います」とか「こんにちは」と気軽に言うように、夫婦の間でも「私は貴方を愛しています」と気楽に言います。
朝昼晩と愛してますと言います。その時、信心深い欧米人はその瞬間、愛という言葉で神やイエス様の愛を連想するのです。
一方、日本では夫婦になってしまったら「あなたを愛してます」とはめったに言いません。照れくさいし、第一、夫が妻を愛しているのは当たり前です。当たり前のことをことさら声を出して言う馬鹿はいません。
その上、日本の文化では暗黙の了解を重視します。心と心の信頼関係を重視します。老夫婦がお互いに愛していますと言い合う光景はあまり見かけません。
これは日本は佛教国であるせいかも知れません。仏教ではお釈迦さまが人間を愛しているとは言いません。仏教の信者がお釈迦さまを愛していますとは絶対に言いません。
お釈迦様は人間に慈悲深い方ですが、人間がお釈迦さまへ慈悲を与えるとは絶対に言いません。
このように『愛』という言葉の使い方は日本と欧米で違います。
それでも日本の女性は男性に「愛していますよ」と言って貰いたいのです。ですから老夫婦の間でも夫は妻へ「愛しています」と明快に言うほうが良いのです。当たり前のことでも改めて声を出して言うべきなのです。
このように言葉というものは日本と外国では同じ言葉でも意味が違う場合があるのです。
例えば『神』という言葉は日本では普通、神道の神様のことです。複数の神様のことです。
一方、欧米で『神』と言えばキリスト教の神を意味します。全知全能の唯一の神です。

今日は文化が違えば、同じ言葉でも意味が違うという当たり前のことを書きました。
当たり前のことを書かないと違いを忘れてしまって、日本と欧米の間に誤解が起きます。相互理解があれば戦争は起きないと言います。
ささいなことでも、こうして書いておくのは重要だと信じています。

今日の挿し絵代わりの写真はマリア様の写真です。写真とその説明文は蝉の日和見さんの「天の后(あめのきさき)コレクション-その1」から転載させて頂きました。URLは、http://cicadan.blog111.fc2.com/blog-date-201305.html です。このHPの著者の方は1955年生まれで、科学図書執筆編集のお仕事をされています。専門分野は生物学系だそうです。 

1番目の写真は長崎県の黒崎教会のマリア像です。布の表現が立体的で軟らかです。
 像の台は、100年以上(禁教時代を入れると400年以上)におよぶ黒崎教会の歴史が書き込まれた碑となっています。2000年竣工。

2番目の写真は、長崎県の神ノ島教会にあるマリア像です。美しく彩色された大きなマリア像で、お顔を僅かに下に向け、教会の前に立った人々に優しく視線を合わせて下さっています。

3番目の写真は「日本の聖母」という称号を持つ大浦天主堂のマリア像です。
この像は苛酷な弾圧を耐えた日本のキリシタンと、ヨーロッパの神父との感動の再開を記念して、フランスの教会から贈られました。明治12年(1879年)の聖堂建替え時からずっと正面入口に置かれています。これが日本の屋外マリア像の第1号と言われています。高さは1m40cmで、頭に頂く冠と足下の三日月が金色で、品の良い豪華さがああります。
 信徒再発見の当事者プチジャン神父はパリ外国宣教会に所属していたので、そこからの贈り物と思われるが、明治期に輸入されたマリア像の中でも、これは特に優れた作品といえ、特別に選んで贈られたことが伺えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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