後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

2024年09月23日 | 写真
北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真をお送り致します。
写真は、「十勝平野に咲くルピナス」を検索してインターネットにある写真をお借り致しました。

「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

2024年09月23日 | 写真
北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真をお送り致します。
写真は、「十勝平野に咲くルピナス」を検索してインターネットにある写真をお借り致しました。



「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」

2024年09月23日 | 写真
 私は仙台で生まれ育って24歳まで住んでいました。青葉城跡へは何十回も登り眺望を楽しみました。天気の良い時は太平洋まで見えるのです。そして『荒城の月』という歌を口ずさみました。

春高楼の花の宴 めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁かりの数見せて
植るつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ

いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし

天上影は替わらねど 栄枯えいこは移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)


懐かしい青葉城跡の風景の写真をお送り致します。


「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」

2024年09月23日 | 写真
ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真です。
写真は三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。
その戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。

「秀吉軍に落城された滝の城の写真」

2024年09月23日 | 写真
北条氏康の三男として生まれた北条氏照は埼玉県の所沢に滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など数多くの城を作り関東の南部を支配していました。
しかし天正18年(1590年)に秀吉に負け切腹しました。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっていました。しかし八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、兄の氏政と共に切腹を命じられ果てました。
今日は所沢市の南東部にある滝の城の写真を撮って来ましたのでお送りいたします。高台の上にある城跡から見下ろした風景や城跡にある石碑や神社の写真です。









もう少し詳しく書きます。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名の佐竹義重や宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃したのです。
小田原征伐と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し3か月の末ほとんど無血で開城させました。
この時、所沢の滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など関東の南部の数多くの城が落城したのです。その後、関東地方の城は全て徳川幕府の直轄になったのです。

「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、渋谷城、八王子城、片倉城、滝山城など」

2024年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の人々は忘れてしまったようですが、昔の東京には世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城などお城がいろいろあったのです。
鎌倉時代の後は室町時代です。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたのです。
今日は世田谷城と八王子城と渋谷城と片倉城をご紹介したいと思います。
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えたのです。
貞治5年(1366年)に吉良治家が世田谷郷を領有します。応永年間(1394年 - 1426年)頃には館として整備されたと考えられています。
天正18年(1590年)、吉良氏朝の代に小田原征伐により豊臣氏勢に接収され戦役後廃城になったのです。
世田谷城阯公園内から北に向けて延びて空堀及び土塁が現存しています。世田谷城阯公園内の遺構は手が加えられていますが豪徳寺住宅脇の遺構は良く旧態を留めています。2020年に撮って来た写真を示します。
1番目の写真は世田谷城阯公園の説明板です。世田谷城は吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた城だったと書かれていました。
現在は世田谷城阯公園の正面入り口の石段だけが当時のものです。
さて八王子城は世田谷城よりずっと後の時代に作られたのです。
小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主北条氏政は関東中央部までを支配するようになっていました。その氏政の弟の氏照が作ったのです。
しかし天正18年、1590年6月23日に落城します。秀吉に忠誠を約束した前田、上杉、真田の軍勢によって滅びされたのです。以前に行って自分で写した八王子城跡の写真です。
2番目の写真は本丸の主殿へ登る石段です。
3番目の写真は本丸の主殿を守る石垣です。
現在は本丸の主殿が存在していた場所は広場になっています。なお戦をする時の本丸は裏山の高い頂上にあり、現在そこには土塁だけが残っています。
1590年に八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍です。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させたのです。
八王子城が落ちた6月23日は城主の北条氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因でした。
天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年です。八王子城のような悲劇は関東全域の各地で起きたのです。
その後徳川家康が豊臣家を滅ぼし全国を統一し江戸幕府を開いたのです。
関東は鎌倉幕府の倒れた1333年から江戸幕府が始まった1600年までの267年間は戦乱が続き実に数多くの城や砦が作られたのです。一般の農民にとっては苦難の時代だったのです。
さて渋谷城と片倉城をご紹介いたします。
現在の東京の繁華街に渋谷城があったのです。その理由で渋谷区という名前が出来たのです。
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 
4番目の写真は金王八幡宮の境内に展示されている昔の渋谷城の石です。
渋谷城のあった場所に現在は金王八幡宮があります。金王八幡社は渋谷駅から歩いて行けるところにあります。しかし渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定した時に1612年に造られ、その後何回か修理したものです。
現在の渋谷区のこのあたり一帯の高台は渋谷氏一族の居館跡でした。東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地の黒鍬谷があって、昔は数ヶ所に涌泉があったのです。
この渋谷金王丸常光が渋谷城主になっていた時期があったため渋谷城は、金王丸城とも呼ばれ、現在の金王八幡社になったのです。
それにしても皆様は渋谷駅のそばに平安時代から渋谷城が存在していたことをご存知でしたでしょうか?
さて話は変わり謎の片倉城をご紹介いたします。
このお城は八王子の郊外にあり小高い山の上にありました。土塁や堀の遺構ははっきり残っていますが誰が作ったかさっぱり判っていない城跡なのです。
5番目の写真は片倉城の見取り図です。
頂上にある本丸跡は広場になっています。私は片倉城には以前に何度か登りました。
6番目の写真は城跡にある住吉神社でです。この写真も私が撮ったものです。
このお城は鎌倉時代よりも前の山城と推定されています。東京都指定文化財で、片倉城の城跡と周辺の優れた自然環境の保全を目的とした公園になっています。二の丸広場周辺の空堀などの遺構を見ることができます。
片倉城の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E5%9F%8E にあります。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。今日ご紹介したような地方の歴史は教えません。自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多く興味が尽きません。
歴史の闇に消えてしまった地方の武将や領主の野望が地方の歴史を作っていたのです。それは儚い夢でした。嗚呼。

今日は世田谷城と八王子城と渋谷城と誰が城主だったか分からない謎の片倉城をご紹介いたしました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツの教会の写真」

2024年09月22日 | 写真
ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュ で多少違います。エバンゲリッシュ とはプロテスタント教会のことです。ドイツの教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。
1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。
2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。
3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。
4番目の写真はヴィースの巡礼教会 です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ 教会です。
5番目の写真はヴィースの巡礼教会の内部 です。世界遺産に認定されています。
6番目の写真は南ドイツの田舎でよく見かける村の教会です。 7番目の写真も南ドイツのコロマン教会 です。山並みを背にし草原に立っています。
さてドイツの宗教事情を簡略に記しておきます。
オットー1世が戴冠した962年以降の神聖ローマ帝国時代の宗教事情から紹介します。
ドイツ王オットー1世が戴冠を受けたことによってはじめて成立したのが、イタリアから西ヨーロッパ全体を包括する神聖ローマ帝国 です。
次の歴史的転換期として、1517年にはマルティン・ルターによる宗教改革が起こったのです。
この宗教改革からエバンゲリッシュ(プロテスタント教会)が派生します。
現在「エバンゲリッシュ」は、カトリックとともにドイツにおいて最大規模の宗派となっています。 
そして1990年の東西ドイツの統一後、東ドイツの無宗教の人が多数加わったのです。
更に流入した200万人以上の移民はイスラム教徒なのです。
 イスラム教団体との対話を進めるための場を作るべく、ドイツ政府は「ドイツ・イスラム会議(Deutsche Islam Konferenz、DIK)」を2006年から設置します。
この会議の最終目標は、イスラム教を公法上の宗教団体として国家システムに組み入れ、公立学校でのイスラム教育を実現し、社会の様々な分野でより幅広く活動できるようにすることです。
しかし議論が紛糾しこの会議は具体的な成果をあげていません。
ドイツは伝統的なカトリックとエバンゲリッシュ(プロテスタント教会)の2つだけの社会だったのです。
 
なおこの記事を書くために、http://www.newsdigest.de/newsde/backnumber/7650-1021/ を参考にしました。記して謝意を表します。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ヘルナンデス君とローテンブルグの教会の思い出」

2024年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
随分と昔のことです。1969年の晩夏から晩秋にかけて3ケ月間、ローテンブルグに逗留していました。ゲーテインスティテュートという学校でドイツ語の講習を毎日受けていたのです。
その折、インド人のヘルナンデス君がカトリック教会へ連れて行ってくれました。カトリック聖ヤコブ教会でした。
その外観と内部の写真を示します。
この3枚の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201001100001/、 です。
ミサはドイツ語ですが以前に行っていた日本のカトリック教会のミサと同じ内容なので大体の意味が分かったのです。
そのミサのはじめに「あわれみの賛歌」を会衆が歌います。その意味を説明します。
自分は神様の教えに従うつもりでしたが、意志が弱くて度々悪いことをしてしまいました。神様そしてキリスト様そんな弱い私を憐れんでください。憐れんで、そしてどうかお許し下さい。
このように、自分の弱さを憐れんで下さいという願いなのです。あわれみの賛歌(キリエ)として歌います。
聖ヤコブ教会でこの歌を唄っているドイツ人達の様子を見てある重要な発見をしたのです。
常日頃傲慢そうにしているドイツ人が例外なく頭を垂れれ、文字通り「青菜に塩」という様子なのです。彼等は毎日よっぽど悪いことをしているに違いありません。
それはそれとして、第二次世界大戦でアメリカ人に徹底的に負けた日本人として、私は欧米人に少し恐怖感を持っていました。
そしてアメリカに留学し、その理想的な社会に圧倒されました。そんな個人的な経験から私は欧米人を恐れ敬っていたのです。別世界の人間として越えがたい距離感を持ち続けていました。
しかし聖ヤコブ教会でのドイツ人達を見てこの「越えがたい距離感」が一挙に消えてしまったのです。それは私個人にとっては大発見です。
この発見以来、私はドイツ人に同じ人間としての親近感が持てるようになったのです。そして欧米人の全てに親近感を持ったのです。
この親近感はカトリックの多いフィリピンや、はるか遠方の南米諸国にも強く感じます。
これが初めて行ったドイツの聖ヤコブ教会の忘れられない個人的な大発見でした。
私はキリスト教にかかわったお陰で人間はみな同じだと確信したのです。国々や人種の違いがあっても人間はみな同じなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日曜日になると思い出す塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さま」

2024年09月22日 | 日記
日曜日はインターネットを通してミサにあずかります。
そして塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまを思い出します。府中市にあるカトリック墓地にある2人のお墓を思い出します。
私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。
1番目の写真は1954年頃のカトリック立川教会幼稚園児に囲まれた塚本金明神父さまです。
一方、ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。お世話になった2人の神父さまのお墓の写真を示します。
2番目の写真は塚本神父様のお墓です。府中市にあるカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十名の神父様たちの名前が刻んであります。塚本金明神父(1919年生まれ、1991年帰天)と刻んであります。
3番目の写真の右側がヨゼフ・ムニ神父さまのお墓です。
お二方が亡くなれてもう30年以上になるのです。しかし日曜日になる度に思い出します。
 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック松原教会の今日のミサ」

2024年09月22日 | 日記
今日はインターネットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。

今日のミサの動画配信は下記です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/

〒156-0043
東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009
matsubara-church@gray.plala.or.jp

「中秋の名月の写真」

2024年09月21日 | 写真
2024年の中秋の名月は、9月17日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽歴 の8月15日の夜に見える月のことです。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。
写真はインターンットからお借りしました。

「紅葉は私の心を震わせる」

2024年09月21日 | 写真
毎年秋になり樹々が紅葉すると私の心が震えます。紅葉の風景に感動するのです。まだ近くの小金井公園の樹々は紅葉していません。しかし見事に紅葉した風景を思い出して感動するのです。それで思い出すのは昔、仙台に住んでいた頃に見た蔵王山の紅葉です。
今日は蔵王山の紅葉をご紹介いたします。
山形県の蔵王温泉から登った蔵王の中腹にドッコ沼という神秘的な沼があります。昔、沼の前の山小屋に何度も泊まり、その上の懺悔坂でスキーをしたのです。懺悔坂の頂上が地蔵岳です。
懺悔坂は急坂で狭い雪道です。その上雪が無くて氷になっているのです。スキーで滑り降りるのは恐怖の連続です。こういう時は人間は自然と悪行を懺悔しながら滑り下ります。
もう60年以上も前のことですが懺悔坂をスキーで下りた時の恐怖を忘れません。怖いから面白いのです。地蔵まで登っては何度も懺悔坂を滑り下りました。滑り下りたというよりスキーを横にして雪崩れ下りた箇所が 幾つかあったのです。
そんなことを懐かしくい思い出しながら蔵王のドッコ沼と地蔵岳の紅葉の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://forestpost-jp.com/2021/09/28/yamagatazaokoyo/ です。


「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」

2024年09月21日 | 写真
世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景の写真をお送り致します。
昔からカナダの紅葉風景は世界一美しいと聞いていました。しかし見に行けませんでいた。せめて写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。

「写真で巡る東北地方の秘湯の紅葉」

2024年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は火山列島です。全国各地に温泉が湧いています。そして山奥には秘湯の一軒宿もあります。温泉につかるのは日本人の楽しみでした。
私も東北の人間だったので幼少の頃からいろいろな温泉に行きました。仙台を中心にして作並温泉、秋保温泉、鳴子温泉、青根温泉、峩々温泉、遠刈田温泉、飯坂温泉、山形県の高湯温泉、上山温泉などに何度も行きました。
戦前、戦後の温泉宿は質素でした。ただし湯舟には各地独特の泉質の湯が溢れ流れてました。
そんな昔の温泉の湯舟の光景が懐かしいです。そこでインターネットでいろいろ調べましたら昔の侘しい温泉宿や湯が溢れ流れる湯舟の写真を見つけました。
それは「日本秘湯を守る会」のHP(https://www.hitou.or.jp/ )です。
秘湯の宿は昔の東北の温泉のように質素です。分かり易く言えば貧乏臭い旅館です。しかし湯舟だけは感動的なのです。そんな秘湯の紅葉の写真をお送り致します。
1番目の写真は岩手県八幡平 の紅葉の峡雲荘です。
2番目の写真は秋田県仙北市田沢湖 の鶴の湯別館 山の宿です。
3番目の写真は岩手県岩手郡雫石町 の石塚旅館 です。

4番目の写真は宮城県鳴子温泉 の百年ゆ宿 旅館大沼です。

5番目の写真は秋田県湯沢市の阿部旅館です。
私は幼少の頃から写真で示したような温泉に馴染んで来ました。ところが結婚して東京に住むようになって東北の温泉場と縁遠くなってしまいました。東京育ちの家人は温泉に特別の興味を示しません。都会には温泉趣味の人が少ないことが分かりました。しかし結婚してから私が方々の温泉宿へ連れて行きましたら、家内もすっかり温泉のファンになって混浴の乳頭温泉や酸ケ湯にまで入るようになりました。
酸ヶ湯温泉は懐かしい曾遊の地です。東北の山奥にある実にひなびた温泉場です。近所の農民が湯治に来る素朴な宿があるだけです
写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25053017647&GroupCD=0&no=&rtm=likeimage です。
 6番目の写真は酸ヶ湯温泉です。

仙台の近くの蔵王の山の中の峩々(がが)温泉にはよく行ったものでした。当時は本当に粗末な宿でした。しかし大きな千人風呂がありました。宿は一軒だけです。その後、宿の建物が改築され大きくなりました。しかしやはり一軒宿の秘湯です。そんな峩々温泉の紅葉に囲まれた写真をお送り致します。
7番目の写真は峩々温泉です。
次の作並温泉の紅葉の風景写真をお送り致します。
8番目の写真は作並温泉です。
仙台から車で40分ほどの宮城県と山形県との県境に「作並温泉」があります。寛政8(1796)年の開湯以来、仙台の人々に親しまれてきました。
広瀬川が流れる自然豊かな土地で秋には鮮やかに色づいた錦秋の山々を眺めることができます。
そして昔よく行った鳴子温泉の隣には紅葉の名所の鳴子峡がありました。 懐かしい鳴子峡の紅葉の風景の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://koyo.walkerplus.com/.../ar0204e12863/image3.html... です。
9番目の写真は鳴子峡の紅葉です。

10場目の写真は奥州の3名湯の鳴子温泉の吉祥の湯です。

今日は東北地方の秘湯の紅葉を写真でご紹介しました。昔住んでいた仙台を中心にして作並温泉、秋保温泉、鳴子温泉、青根温泉、峩々温泉、遠刈田温泉、飯坂温泉、山形県の高湯温泉、上山温泉などに何度も行きました。茫々70年、懐かしい温泉です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の美しい紅葉」

2024年09月21日 | 写真
世界中に紅葉が美しい所があります。しかし日本の紅葉は優しい風景です。カナダやヨーロッパの紅葉と色合いが微妙に違います。
ここでは日本の紅葉の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://allabout.co.jp/gm/gc/447887/ です。

1番目の写真は上高地の大正池です。

2番目の写真は旧白山スーパー林道の姥ヶ滝です。

3番目の写真は広島県庄原市の帝釈峡です。

4番目の写真は北海道えりも町の豊似湖です。