後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

Gooブログの皆様に今年も大変お世話になり有難う御座いました!

2015年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
暮の迫ってきたここ数日、今年を振り返ってGooブログの皆様へ深く、深く感謝しています。
このつたない文章をお読みくださまして本当に有難うございます。そしてご好意あふれる数々のコメントを頂きましたことに感激しています。まことに有難う御座いました。
大晦日にあたり心からのお礼を申し上げます。
今年はイスラム国による後藤健二記者の殺害、フランスでの2件のテロなどがありましたが、幸い国内は平和でした。しかし大雨による堤防決壊などの天災がありました。
今年の記事を振り返って見ていると四季折々沢山の花々の写真が掲載してあります。
その花の写真だけを見ていますと幸せな一年間だったと思えます。
その花々の写真をお送りいたします。

皆様にとって来年も幸多い素晴らしい一年間になりますように心からお祈り申し上げます。


1番目の写真は府中郷土の森公園の梅林で撮りました。

2番目の写真は小金井公園の桜です。

3番目の写真は山梨県韮崎市長府の桃畑で撮りました。

4番目の写真は甲斐駒岳山麓に咲いていたヤマツツジです。

5番目の写真は小金井市真蔵院の蓮の花です。

6番目の写真は神代植物公園のダリア畑で撮りました。

7番目の写真は山梨県北杜市の横手の集落のはずれで撮りました。

8番目の写真は神代植物公園での菊の展示会で撮りました。
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「今日は暮の墓参りに行ってきました」

2015年12月30日 | 写真
日野市の浄土宗の大昌寺に年末の墓参りに行きました。
驚いたことにこのお寺の檀家さんはほとんど皆が暮に線香と花を供える習慣があるようです。
家内の祖父母、父母の墓に花を供え線香を上げ南無阿弥陀仏を唱えてきました。
今日のお寺で撮った写真です。
静かな歳末の一日でした。








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武蔵野!そして国木田独歩とツルゲーネフが教えた雑木林の美

2015年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
クヌギやコナラやカシワの木が混じっている林を雑木林と言うようです。樹木は他にもエゴノキ、シデノキ、ナラノキ、クリノキ、ヤマザクラなどなど落葉する木々が混じっています。
関東平野は昔、武蔵野とよばれ、雑木林で覆われていました。人々はその雑木林を切り開いて田畑にしました。しかしその一方、雑木林は薪を取り炭を焼くために必要でした。落ち葉は肥料になります。雑木林からは山菜やキノコも採れます。そこで田畑の周囲には雑木林が大切に保存してあります。
このような雑木林は里山とも呼ばれ、美しい田園地帯の風景になっています。
私はそんな雑木林の美しさに魅了されあちこちに行きます。
下の3枚の写真は昨日、埼玉県の所沢市の郊外で撮ってきた写真です。





上の3枚の写真の場所は畑の北側に雑木林を美しく保存した場所です。
ここには新緑の頃、夏の緑濃い季節、そして紅葉の時期、そして冬枯れの梢が美しいシルエットを見せるこの頃と四季折々なんども行くところです。昨日は手前の畑を作っているおばさんに「写真を撮らせてください」と挨拶しました。おばさんは微笑みながら「良い林でしょう」と言います。それだけの会話ですが畑を作っている人々もこの雑木林を美しいと思っているのです。
下の写真は3年前の12月初旬に撮った写真です。

冬の雑木林は緑が見えず淋しいものです。寒風に梢が揺れているだけです。しかし青空を背景にした樹林の姿は美しいものです。詩的なムードが流れています。
私が雑木林に興味を持つようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。
その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新以後のようです。
明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。
江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。少なくとも文学作品には取り上げられていません。
明治維新は日本の政治体制や社会構造を変革しただけではありませんでした。
日本人の自然の風景の好みや美意識が変革したのです。
この落葉する広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。
ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。
彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。
それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。
若い頃、この「武蔵野」という本を読んで、すっかり雑木林の魅力にとりつかれました。以来、茫々50年、60年、今でも雑木林が好きで武蔵野を広く散策して写真を撮っています。
下に国木田独歩の「武蔵野」のほんの一部を示します。
・・・自分は明治二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌く、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。・・・・
この作品に描かれている林は雑木林であります。里山とも言います。
そしてその雑木林は自然林を保存したものもありますが農民が植えて育てた林もあります。
人間が植えた雑木林では木々が整然と並んでいて木の種類も一種だけのことが多いのです。
冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。
そんな雑木林の周囲を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。
小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。残念です。本人も、もっともっと文学作品を書きたかったことでしょう。心残りだったに違いありません。
今日は所沢市郊外の雑木林の写真だけを掲載しましたが美しい雑木林は全国にあります。
よく通った山梨県の八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓には深い森が広がり美しい景観を見せています。
北海道に旅をすると美しい白樺林が畑の周囲を囲んでいます。
ああ、これこそツルゲーネフの世界だとロシアの大地を想います。
そして沖縄の西表島の熱帯樹林を見ては何故か興奮してしまいます。
それにしても林や森は人々の心にいろいろと語りかけてくれます。
皆様の近所にも美しい雑木林が御座いますでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。
(2)国木田度独歩の経歴を下に掲載して置きます。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。
また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9
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今回の日韓合意の背景にある中国とアメリカの外交戦

2015年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の日韓合意はいろいろな意味で良いことです。安倍総理や下交渉に努力した方々のご苦労に感謝いたします。
さてそれはさておき、アメリカと中国は、過去の日韓対立と、今回の日韓合意にどのように関係して来たのでしょうか?
視野を広げて雑な言い方をすると以下のような構図が見えてきます。
(1)小平の市場経済推進政策で1990年代に経済が躍進した中国は、太平洋の覇権を求め出しました。そこで邪魔になるのが日米安保と韓米軍事同盟です。
小平の後をついだ江沢民は韓国と日本の仲を裂くため日本の朝鮮領有時代の諸問題を持ち出し、韓国側に働き掛けます。慰安婦問題もその一つでした。
これで昔の朴政権や金大中政権時代の日韓友好関係が見事に壊れてしまったのです。
(2)この結果一番困るのはアメリカです。太平洋の制海権を維持できなくなる恐れが出て来たのです。特に最近、南沙諸島に中国が飛行場を作ってからはアメリカは中国の脅威を実感します。
もう一度、アメリカ、日本、韓国の間の軍事同盟を確立しなおす必要にせまられたのです。
アメリカのオバマ政権は日本と韓国に直接そして水面下でもいろいろ働きかけ日韓関係の修復をせまったのです。ケリー国務長官とその関係者も日韓関係の修復に努力したようです。全ては水面下の交渉なので新聞にはあからさまには出ませんが、その一部が何度もマスコミに出ていました。
(3)アメリカの意に忠実な安倍総理は日韓合意に動きます。韓国側も、強いアメリカの要請で動かざるを得ませんでした。その結果が昨日の日韓合意だったようです。
アメリカはこの合意の仲人あるいは保証人のような立場です。今回の合意を国際的に高く評価するという趣旨の声明を近く発表すると報じられています。
さて以上の(1)、(2)、(3)の説明をもう少し詳しく考えてみます。
(1)は中国政府の外交戦略の勝利でした。アメリカは一敗地にまみれたのです。
本来、中国には朝鮮の日本領有を嫌って移住した人が多いのです。特に東北地方には数多くの朝鮮族自治区があります。勿論、その自治区の幹部は中國共産党幹部や党員になっています。彼等は日本領有時代の恨みを沢山持っています。
北京の中国政府がその恨みを利用して韓国の民衆が日本と争うようにすることは易しいことです。その一つが慰安婦問題でした。朝日新聞が動いてくれたので大きな反響があったのです。
この中国の外交戦略は2つのことで明らかです。一つは習政権がハルビン駅に伊藤博文の暗殺者の記念室を作ったことです。そしてもう一つは上海の元韓国亡命政権庁舎を整備、復元し、朴大統領を昨年そこへ招待したことです。朴大統領は習国家主席と親しくなったのです。こうして現在の朴大統領政権がすっかり中国よりになってしまったのです。アメリカは流石に慌てだしました。
上記の(2)はそれを受けて、アメリカが動き出した結果です。アメリカは後手を取りましたが昨日の日韓合意でやっと中国へ一矢報いたのです。
さてこのようにアメリカの立場から考えてみると今回の日韓合意の構図が見えてくるようです。
上記の全てが正しいと主張する気は毛頭ありません。しかし上記のような見方は「当たらずとも遠うからず」ではないでしょぅか。
皆様もご意見を頂ければ大変参考になります。
今日の挿絵代わりの写真は先日撮ってきたシクラメンの花の写真です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




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「私はこんなコンピューターで毎日記事書いています」

2015年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の8月に古いコンピューターがダメになってしまい、この写真のようなFujitsuの無線ランのデスクトップ型に新しくしました。
そして今日は古いデジカメのCanon IXYがダメになり、新しい同じデジカメを買ってきました。この写真は新しいカメラでとった毎日使ってデスクトップ型コンピューターとキーボードの写真です。
明日からも記事を掲載いたしますので今までようによろしくお願いいたします。
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門松やおせち料理は美しい日本の文化

2015年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は山の小屋に行き暮れの掃除をしながら門松やおせち料理のことを考えていました。
まず昨日の甲斐駒岳と八ヶ岳の写真を順にお送りします。



そして3番目の写真に小屋の写真を示します。

この写真のようにこの小さな小さな小屋は大きな松の木や雑木に囲まれた森の中にあります。
毎年、暮れになると門松につかう松の枝を取りにきます。
小屋の周囲の松は大木すぎて門松には、向いていません。小屋の後ろの雑木林を200mくらい入ったところに石空川が流れていて、その川原に小さな松が沢山生えています。
数年前まではその松を取りに川原へ降りて行きましたが、最近は体が硬くなってしまい降りて行けません。門松は東京で買うことにしています。
話はそれますがこの小屋は森と遊ぶ小さな基地です。周囲の雑木林を散歩したり、野鳥の鳴き声を楽しみます。夏にはセミの声が降り注ぎます。新緑も紅葉も楽しめます。小屋の窓から猿や鹿も見えます。自然の中に溶け込んで楽しむ小さな基地です。
それはさておき、お正月が来ると多くの人は門松を飾り、お節料理を作ります。
しかし人それぞれでそれを一切しない人もいます。
それににしても門松とお節料理は連綿と続いています。それは美しい日本の風物詩なのです。
日本の美しい伝統文化と思います。
何故、多くの人々が続けているのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、私の場合は門松やお節料理は家庭の幸せの証として大切にしています。
楽しかったお正月の思い出として大切にしています。
まだ家内が若く、子供も幼かった頃におせち料理を熱心に作っていたものです。
自分が子供の頃の食糧難の時代に両親が必死でお正月のご馳走を用意していたからです。
そのような楽しかった頃の思い出がよみがえって来るのです。
上にも書きましたが 門松は以前は山に取りに行きました。半紙と稲縄で作った飾りをつけて毎年門扉にとりつけます。それはお正月を迎えるささやかな儀式のようなものです。
そして今日からお節料理の材料の用意を始めます。
昔は全てのお節は手作りでした。現在は半分完成した材料を売っています。その上、大小さまざまな大きさの重箱に美しく詰めたお節料理さえ売っています。
家内は何でも手作りしようとしていました。作っている最中が楽しいらしいのです。
日本人なら「お節料理」についてはいろいろな想いを持っていると思います。
戦前生まれ、戦後育ちの人々にとっては悲しい思い出もまつわりついています。
戦後は食糧難で材料が無いのです。当時の親たちはお正月料理の準備で苦労したものです。
最近は豊かなになり材料で苦労することが無くなりました。
美しく重箱につめたお節料理を前にして、時々私は、南の島々で餓死した兵隊さんたちへ食べさせたかったと想うのです。
私はお節を見ると楽しい思い出とともに、今でもそのように想いが頭をかすめるのです。
そして現在でも孤独な人々はお節料理を作らないかも知れません。
幸せな家庭でも門松もお節もしない人々もいます。
いろいろな時代と、いろいろな家庭の光景を想像します。
それはさておき、美しいおせち料理の写真をお送りします。
4番目の写真は高島屋のお節料理の写真です。

この写真の出典は、http://www.takashimaya.co.jp/shopping/special/osechi/0900002064/0900002065//-/です。
5番目の写真に 三越のお節料理の写真を示します。

この写真の出典は、http://mitsukoshi.mistore.jp/osechi/nihombashi/index.html;jsessionid=swvsJd1QMPNR7n6cT6QDF2vgvlyn3wYLjFdypGQRBlQnm1WGNmjx!30512671 です。
そして、http://erecipe.woman.excite.co.jp/theme/osechi.htmlには非常に数多くのお節料理の作り方が書いてあります。

それにしても門松やおせち料理は美しい日本の文化です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
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昭和の歴史から完全に消えてしまった亜炭という燃料を調べている仙台市市民文化事業団

2015年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
昭和時代の仙台市の生活を支えていた薪や木炭の他に亜炭という不思議な燃料がありました。
その亜炭が戦後の経済成長とともに跡形も無く消えてしまったのです。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その地区には戦前戦後にかけて東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが存在していました。
この地区の番地には越路路地丁という地名があり、長徳寺や大満寺というお寺もあります。
その長徳寺の前のバス通りに沿って3つの沼が並んでいて、そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って蛙にさせたりして遊んだものでした。
昔の滝の口渓谷の下流の川になっていたところで窪地になっていた場所なので沼や湿地になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長に従って、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられフナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
そして完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
故郷の風景が消えてしまい悲しいという記事を掲載しましたら、仙台在住の郷土史家の三原征郎さんから何度も写真を送って頂きました。
下に送ってもらった2枚の写真をしめします。

1番目の写真の右側の建物の並んでいる裏が沼があったところです。すっかり建物が沼の跡地を覆っています。

2番目の写真が現在の鹿落ち坂の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉の建物があった場所です。

そして3番目の写真に重さ10トンの巨大な亜炭の塊を示します。宮城県の三本木地方から産出した亜炭の塊です。

4番目の写真は亜炭運搬に使われていたオート三輪車の写真です。戦後のこんな車が活躍していた時代まで亜炭鉱山があったのです。
そもそも亜炭とは褐色から暗灰色のもの400万年前ころの樹木が土に埋れて炭化したものです。炭化作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多いのです。
特に仙台市内で産出された亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木細工の材料になりました。この埋れ木細工の飾り物は仙台の名産品になっていたのです。
亜炭は末尾の参考資料に示したように全国で産出し昭和時代には家庭用の燃料として大いに使用されていたのです。
それが昭和40年ころも経済高度成長とともにすっかり消えてしまったのです。
夕暮れになると家々のお風呂の煙突から亜炭の煙がながれその独特の臭いが夕闇とともに町を覆ったものです。その懐かしい臭いも二度と嗅ぐことが出来ません。
亜炭は人々の記憶から遠うのき忘れられていました。
昭和時代の生活の歴史がまた一つ闇の中に消えてしまったのです。
ところが最近、仙台文化事業団(http://www.sendaicf.jp/)の学芸員、薄井真矢さんが中心になって仙台地方の亜炭の歴史を詳細に調べ上げたのです。
その上、新聞「亜炭香報」(http://sendaicf.jp/machinaka2012/blog/atan/)という情報紙を定期的に発行して調査の結果や数々の亜炭に関する研究会の様子を公開しているのです。
このことは前述の仙台在住の郷土史家の三原征郎さんが教えてくれたのです。
私は三原さんに感謝しながら早速、学芸員の薄井真矢さんへメールを送りました。
薄井さんは他にもプロジェクトを担当していて大変多忙な方です。それにもかかわらず貴重な資料を多数お送り下さいました。
大変多くの資料ですが以下にはそのほんの一部だけをご紹介いたします。
それによると、『亜炭は戦後の仙台市内で風呂用の燃料としてごく一般的な燃料であった。燃えると微妙な匂いが漂い、たそがれ時ともなると路地に紫煙がたなびいた。その匂いと煙で夕方になったことを知り、一家だんらんのぬくもりを教えてくれた。』(市史せんだい vol.12より、
http://www.sendaicf.jp/atan2015/contents.html)
仙台は足元から生活燃料「亜炭」が採れる街でした。また同じ地層からは、地元の工芸特産品「埋木細工」の原木も産出され、一家にひとつはあるともいわれるほど、普及していました。しかし時は流れ、かつて大人達を手伝って風呂の焚きつけをした子供達(今や還暦越え)の記憶からも亜炭は消えつつあります。埋木細工もまた、現在では最後の工人ひとりを残すのみとなってしまいました。地下鉄東西線工事が青葉山の亜炭層を掘り抜いて、奇しくも時代の地層が開かれつつある今、ひとむかし前の仙台のくらしの風景を、当時を知る方々の証言とともに再発見してみたいと思います。そして伊達伸明さんが以下の催物を開催しています。
「またたく記憶の紡ぎ方」
「亜炭・埋木」をキーワードに市民が持ち寄った記憶や思い出の品々(生活用品、写真、地図など)を素材に、美術家伊達伸明が、街の心象風景をほのかに浮かび上がらせます。地中に潜む見えない物語(過去)と地上に表出する物語(現在)、足元のカケラがもつ、膨大な時間の積層にこもる人々の暮らしの物語を感じてください。
●埋木製ウクレレ「ウモレレ」(伊達伸明作)初公開!8月8日のみ同建物内1階で展示されます。展覧会関連イベント「地中を想う/地上を語る」で、同日15時より1階で作品演奏があります。
●東北工業大学・緑の楽校 運営委員会代表 松山正將 先生が、会期中の午前中、展示室に在室します。
日時:2015年8月8日(土)~18日(火)10時~19時(初日は11時から、最終日は17時まで) 会場:せんだいメディアテーク6階ギャラリー
「複眼でみる」
歩く達人、三原征郎さんと、風景の中に見落としている先人の記憶のカケラを見て歩きます。
A.向山の痕跡
見どころ:鹿落坂周辺の歴史、とっておきの絶景と黒沼炭鉱跡をゆっくり堪能します
日程11月29日(日)13時~15時30分会場向山一丁目周辺定員健脚の方20名参加料300円(野外保険料込み)主催(公財)仙台市市民文化事業団申込11月12日(木)必着までに下欄 ★印の「申込方法」のとおり、お申込下さい。応募多数の場合抽選。応募者全員への返信は11月18日(水)頃です。
そして情報紙、「亜炭香報」の記事の一例を以下に示します。http://sendaicf.jp/machinaka2012/blog/atan/
2015.9.14
ワークショップ「埋木みがき隊」
2015.8.28
展覧会「山のひかり川のほし」終了
2015.7.06
埋木製ウクレレ『ウモレレ』ついに完成!
2015.7.04
亜炭家族 春の一日、などなど以下省略。
以上は仙台市市民文化事業団の学芸員、薄井真矢さんが中心になって企画、実行した亜炭に関する催しものの一端です。
これらの資料を見ると消えてしまった亜炭の歴史をもう一度よみがえらせたことが分かります。
郷土史の発掘をして、亜炭というものを人々の心に強く焼き付けたのです。
戦前、戦後を仙台で過ごし亜炭の煙の臭いとともに育った私としては実に嬉いことです。
郷土史家の三原征郎さんと仙台市市民文化事業団の学芸員、薄井真矢さんに深甚な感謝の意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===================
(1)亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E7%82%AD
褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。仙台市内で産出される亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木として細工物の材料にもなった。
世界の埋蔵量は、褐炭と合わせて、より高品位の石炭の埋蔵量をしのぐ6,000億トン以上の規模とされる。日本国内でも埋蔵量は多く、東北地方だけでも3億トンとも推測されている。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市や名古屋市、長野市など大規模~中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。
(2)宮城県大崎市三本木亜炭記念館:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8%89%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E4%BA%9C%E7%82%AD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8
重さ10トンの亜炭塊(大崎市三本木亜炭記念館)が展示してあります。
仙台藩では幕末から亜炭の採掘が行われた。現在の宮城県大崎市三本木の大松沢丘陵などでは三本木亜炭が産出され、1920年代の仙台鉄道開通により、仙台市へ大量に供給された。
(3)仙台亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%BA%9C%E7%82%AD
仙台亜炭(せんだいあたん)は、宮城県仙台市およびその周辺で採掘された亜炭のこと。
第三紀の鮮新世(約500万年前~約258万年前)に形成された仙台層群のうち、竜の口層以外に亜炭が含まれる。亜炭のうち、彫塑可能な「木質亜炭」は仙台埋木細工に、炭化した「炭質亜炭」は香炉灰や燃料に、珪化木は観賞用または放置された。
幕末以降は、主に広瀬川中流の向山層において、小規模な炭鉱が多数散在する形で採掘が行われた。
江戸時代になると、香道に造詣が深い仙台藩祖・伊達政宗が、名取川下流右岸(南岸)の名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸に年貢諸役を免除する代わりに埋れ木および埋木灰の生産を命じた。
1822年(文政5年)、仙台藩家臣の足軽・山下周吉が竜ノ口渓谷で埋れ木を得て持ち帰り、食器類を作った。竜ノ口渓谷は、名取川水系広瀬川の中流にある同河川の支流がつくった渓で、仙台層群が広く露出している場所である。足軽身分で扶持の少ない周吉は、埋木細工を内職にしようと採掘許可を願い出たが、仙台城南面の防御である同渓谷は軍事的に重要な地区であるため許可されなかった。しかし仙台藩が黙認したことで採掘が始まり、埋木細工が作られるようになった。当初はあまり売れるものではなかったようだが、足軽の石垣勇吉によって製品として高められて名産品となった。そのため、幕末から明治・大正にかけて仙台土産として人気となり、特に観光地である日本三景・松島でよく売れた。
一方、「炭質亜炭」も明治から、木桶風呂(鉄砲風呂)やダルマストーブなどの燃料として盛んに採掘されるようになり、広瀬川沿いの青葉山・越路山(八木山)・向山などのほかに、現在の仙台市内にあたる地域では宮城郡広瀬村や大沢村(以上、現・青葉区の一部)、七北田村や根白石村(以上、現・泉区)でも採掘が行われ、鉱山鉄道を敷設する鉱山もあった。燃料事情の悪化に伴って、太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)から戦後占領期の1949年(昭和24年)までは石炭とともに亜炭は国の重点施策となり、採掘の最盛期となった。そのため昭和30年代までの仙台では、夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いが街中にただよっていた。
しかし、もともと薄い亜炭の層から大量に採掘したため、昭和30年代半ばには大年寺層の一部と向山層で採掘されるのみとなり、亀岡層からの採掘は無くなった。
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私は矛盾した心を持っている始末の悪い男です

2015年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、私の秘密の場所に行って独り淋しく散歩して来ました。
私は人々と交わり賑やかに暮らしたという欲望と、このように独りで静かに孤独を楽しみながら暮らしたいという欲望を持っています。孤高というものに憧れ、この誰もいない秘密の場所を何度も散歩しています。しかししばらくすると誰でも良いから無性に人に会いたくなるのです。
私は矛盾した心を持っている始末の悪い男なのだとつくづく思います。
さてその場所ですが、そこは数千坪はあるような荒涼とした土地です。端の方に枯れたススキが寒風に揺れているだけです。自宅から車で30分で行ける所です。
好きな場所なので四季折々何度も散歩に行きますが、人に会ったことが無いのです。ひとけの全く無い、あの世のような寂しい場所なのです。
その広い荒地の南を見ると関東ローム層の崖があり、その上のに冬枯れの雑木林の見える場所です。その風景写真を下に示します。





孤高を愛する一方で、他人と賑やかにまじわることも愛するのです。矛盾です。
私の矛盾はあらゆる問題でも同様です。
例えば中国や韓国と友好関係を進めるべきだと書きますが、彼らが嫌がらせを次々していることに怒髪天を突く思いもしています。
私はカトリックなのでキリスト教は戦争の原因にはなったことが無いと書きます。しかし過去の歴史をありていに言うと何度も戦争の原因になったと認めざるをえません。
私はどんな差別も絶対にしませんと書きながら毎日のように心の中では差別しています。
それでは私の書いていることは嘘なのでしょうか?
絶対に嘘ではありません。私の心の半分だけを書いているのです。
何方の半分を書くかは確かな方針に従って書いています。
どちらの半分がより建設的で、世の中を良い方向にするかという指針で選びます。
それを読んだ他人や外国人が不愉快な思いをしないように公平に書きます。
例えば西洋人は南と北のアメリカ大陸を武力侵略し、原住民を殺戮した極悪非道の人種ですとだけ書けば建設的な書き方ではありません。その文章を西洋人が読めば不愉快に感じます。感情的になって日本人の悪い点を攻撃します。
同じことを私は以下のように書きます。
西洋人は素晴らしい芸術を生み、近代科学でも人類にはかりしれない貢献をした。その素晴らしい人種が南北アメリカで原住民を殺戮した歴史的事実は尊敬出来ないことです。人間の善悪両面性に深い溜息が出るばかりです。
このように書けば西洋人が読んでもあまり不愉快に感じないかも知れません。そして良識ある一部の西洋人は反省し、償いをしようとするでしょう。
ですからこのような書き方が建設的な書き方になると思います。
建設的に書いていると偽善的と非難する人がいます。中学生の理想論と非難します。
しかし私は動じません。日本は自由で平等の国です。どのような書き方をしても人それぞれです。
それにしても「私は矛盾した心を持っている始末の悪い男」ということには変わりがありません。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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戒名が高額な3つの理由、戒名の宗派別作り方

2015年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
この世で僧侶に戒名をつけてもらうと多くの場合、高額の料金が請求されます。
私の祖父は曹洞宗の住職でした。そして自分はカトリックの信者です。信者になってみると戒名の重要性が理解出来るのです。
そして何故それが高額な請求になるかも想像出来るのです。
始めに誤解を避ける為にはっきり言えば高額過ぎる戒名には私自身は強く反対します。
低額で戒名を付けたい方々には日本生前戒名推進会という組織が存在していることもをご紹介しておきます。この方法の問題点は後程書きます。
さて戒名とは何でしょうか?
それはお釈迦様の弟子としての名前です。丁度、カトリックの洗礼名と同じことです。洗礼名はイエスさまの弟子としての名前です。
お釈迦様に弟子になるのは死んで成仏したときがチャンスです。そこで住職がその檀家の死者にお釈迦様の弟子としてふさわしい名前をつけてあの世に送り出すのです。戒名が無ければお釈迦さまの弟子になれないし極楽浄土にも行けないのです。
例外は沢山ありますが、以上が一般的な考え方です。
この考えは洗礼名が無ければイエス様の弟子になれないし天国へも行けないというカトリックの考え方とよく似ています。
それでは戒名が何故高額になるか考えてみましょう。
(1)財政難のお寺が戒名料を高額にしてお寺の経営を維持したい。
日本全国には7万5千の寺院があるといいます。しかし過疎化で檀家数が激減し寺院の収入が減っています。お寺の財政難で住職の居ない寺院が増大しています。数年のうちには2万5千の寺院が消滅するという予測を言う人もいます。
地方のお寺の収入の主なものは檀家のお墓の管理料、葬式や法事の時の読経料、そして戒名料です。都会にあるお寺には他にも副収入が多いものですが地方のお寺は財政難です。そこでつい戒名料を高額にしたくなるのです。
(2)戒名を付けるのは住職の特権と思っています。
住職が戒名を付けてあの世に送り出さなければ死者は成仏出来ません。お釈迦様の弟子にもなれません。極楽浄土にも行けません。
そのように信じ切っている住職にとってはいくら高額の戒名料をとっても当然だと思えるのです。
ちなみにカトリックでは洗礼を受けるとき料金を一切要求されません。その人に相応しい洗礼名とイエス様の弟子になったお祝いの品を頂きます。小さな白衣・ベールや聖書を下さいます。
(3)住職は実社会での営業経験がありません。
会社で営業経験を積むと、どんな商品やサービスを提供したら幾らくらいの金額が請求出来るかということが骨身にしみて理解するのです。そして見積もり書、請求書、受領証は必ず出すのが鉄則です。住職は戒名に見積もり書を出さないのが普通です。
あの世でのサービスに対して1万円や2万円の要求はまあまあですが数十万円、数百万円は法外です。
さて住職が戒名を付ける必要がはたしてあるのでしょうか?無いと考えて宗派別の戒名をつけるサービスを提供している団体が幾つかありますが、日本生前戒名推進会はその一つの例です。この方法は家族葬をして宗教に関係の無い墓地の墓に葬る場合には問題がありません。しかし住職の常駐しているお寺の墓地にする場合は問題がある場合もあります。
そして表題の戒名の宗派別作り方は日本生前戒名推進会のHPに詳しく書いてありますのでご参照ください。
根本的には僧侶が戒名を付けるのは特権として認められるかとい問題です。
キリスト教でも洗礼を重要視しないプロテスタント宗派が多いものです。
お釈迦さまの弟子になるために本当に戒名は絶対必要なのでしょうか?
イエス様の弟子になるのに洗礼名は絶対必要なのでしょうか?
ひとそれぞれ考え方があります。個人個人が自由に判断すれば良いのです。
今日の挿絵代わりの写真は紅葉の頃に行った平林寺の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




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今年、急激に変わった日本人の戦争観、そして「国破れて山河在り」を想う

2015年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はクリスマスのミサがあり、間もなく今年も暮れようとしています。
今年起きたいろいろなことを思い返しています。
国内では安倍政権が安保法案を改正して海外派兵が出来るようにしました。そして米軍との共同作戦の緊密化も進めました。
これを受けて多くの日本人の戦争観が変わったようです。勿論、日本人の戦争観は敗戦後から次第、次第に少しずつ変わってきたというのが正しい言い方です。しかしその変化がマスコミやインターネットの上で顕在化したのは安保法案の改正がキッカケになったことは否めません。
安保法案審議中の国会議事堂を15万人もの反対デモが取り囲んだ事実は外国のマスコミでは報道されたそうです。その写真をインターネットで私も見ましたが、15万人とは分かりませんが兎に角すごい人数のデモが国会を取り囲んでいました。この大規規模なデモの写真を日本のマスコミはほとんど報道しませんでした。
そして数週間前に「沖縄基地移転反対デモ」で、新宿南口通りが通行止めの状況になり1時間も自分の車が立往生した体験もしました。それは非常に大規模なデモでしたが翌日のマスコミはほとんど報道しませんでした。
これらのことから私は日本の新聞やテレビが安倍政権を支援することに潮流を変えたと理解しました。
日本は敗戦後、軍備を放棄し、全ての戦争をしない国家として再出発したのです。
その戦争放棄は国民に熱狂的に歓迎されたのです。決してアメリカ占領軍の押し付けだけではなかったのです。戦争放棄は全国民の希望でした。
しかしその後70年経過して日本人の戦争観は他の国々の国民と同じように戦争は必要だという考え方に変わったのです。自衛のための戦争は必要だと変わったのです。他国に侵略されないためには軍備を強化すべしと変わったのです。
この戦争観の変化は日本の運命にどのような結果をもたらすでしょうか?勿論、私にも分かりません。
ただ敗戦直後の日本の社会の風潮は戦争放棄に熱く染まっていたのです。
そして国が敗れても下の漢詩の「国破れて山河在り」を合言葉のようにして復興と工業技術の向上に邁進したのです。戦争で散った300万人もの犠牲を無駄にしないためにも絶対に日本を一流国家にしようと努力したのです。
今年の暮れにあたり、敗戦直後の日本の社会の雰囲気をあれこれ想う今日この頃です。
下に7歳から詩を作っていた杜甫(712-770年)の漢詩を示します。
「春 望」  
 (五言律詩。長安の賊中にあって、春の眺めを述べる。)
 
国破山河在   国破れて山河在り
城春草木深   城春にして草木深し
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月   烽火 三月に連なり
家書抵万金   家書 万金に抵る
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、町は春を迎えて、草木が生い茂っている。
 時世のありさまに悲しみを感じて、(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)もさすことができないほどである。
(上の意訳の出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B09_1.htmlです。)
間も無くお正月も来ます。楽しい休日が続く季節です。今日の挿絵の写真は山梨県北杜市で撮った風景写真です。

今日は皆様が楽しい気分でクリスマスやお正月をお過ごしなさるようにとお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)




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日本古来の馬、野生馬、木曽馬、そしていきなり矮小な話

2015年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
弥生時代に稲作が始まり、その末期には馬は日本人の農耕や産物の運搬に人々に役にたっていたようです。
次の古墳時代になると馬具や馬の埴輪が沢山出土することから古墳時代の少し前から馬が活躍したと想像するのは自然ではないでしょうか。そして奈良時代の律令国家の時代になるると全国各地で馬牧場が出来て朝廷に軍馬として献上されたのです。
それでは古墳時代や律令国家時代の馬はどのような馬だったのでしょうか?
簡単に結論を言えば小型ながら頑健な蒙古馬が中國や朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられます。
野生の馬と言えば宮崎県の都井岬に現在でも野生の馬が多数生息しています。
1番目と2番目の写真が都井岬の野生馬の写真です。



この都井岬の野生馬の写真の出典は、http://www.kanko-miyazaki.jp/data/ja/smartphone-index?page-id=9265とhttp://meito.knt.co.jp/1/ca/11106005/1/です。
しかしこの野生馬は旧石器以前の野生馬ではなく、姿をよく見ると蒙古系の馬のように見えます。
この宮崎県の都井岬の野生馬は国の天然記念物に指定されています。
これらの野生馬は約300年前秋月藩主が放牧したのが始まりと明確に分かっています。
日本の律令国家の時代に飼育され朝廷に献上された蒙古系の馬に近いと考えられ、木曽馬のような馬と言われています。
3番目の写真に木曽馬の写真を示します。後ろの山は木曽の御嶽山です。

写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/nihonzairaiba08/1030166.htmlです。
木曽馬とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%ACによると長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬だそうです。岐阜県飛騨地方でも飼育されています
日本在来種は他に北海道和種(北海道、俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)がありますが、本州の在来種は木曽馬のみです。
一時絶滅寸前であったが木曽馬保存会が中心に活動が行なわれた結果、飼育数は増加しました。しかし以前のような乗馬、農耕を目的とした需要ではなく、種の保存と観光用として現在は200頭以下が飼育されています。
この木曽馬は平安時代から江戸時代にかけて、武士の馬として使用されきたのです。
起源ははっきりしていませんが、元々は蒙古の大陸系の馬です。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀に、朝鮮半島経由で渡来したと言われています。この馬が木曽地域という山岳地帯で飼育された影響で、木曽馬となったのです。
北海道の道産馬には欧米系の労働馬と小型の和種の道産馬の2種があるようです。

4番目の写真に和種の道産馬を示します。
道産馬の写真の出典は、http://www008.upp.so-net.ne.jp/kurumada/horse.htmです。

ついでに5番目の写真に大型の欧米系の道産馬と家内の写真を示します。2012年9月に道東の弟子屈市の郊外で撮った写真です。
さてここからが私的なそして小さな話になり大変恐縮なのです。
家内が馬が大好きで夫婦喧嘩になりそうになると馬の話で喧嘩が回避できるのです。
そんな関係で私共は都井岬の野生馬も木曽馬も見に行きました。
こんなことを書くと年が分かってしまいますが、家内と馬の馴れ初めは軍馬だったそうでせす。
群馬県下仁田町の疎開先の家の息子が終戦で軍隊から帰るとき軍馬に跨って帰って来たのです。当時は軍のトラックを持ち帰る復員兵もいましたし私の見たのは戦闘機に乗って自宅の近くの川原に不時着して帰ってきた復員兵もいたのです。
話はそれましたが、少女だった家内はその軍馬に何度も乗せてもらい乗馬の楽しさを覚え込んでしまったのです。
都内の大学に入学するとすぐに馬術部の入ります。しかし長続きしませんでした。毎日馬屋掃除をさせられ体に悪臭が沁み込んで寮の同室の学生の顰蹙をかってしまったので部活を止めたそうです。
しかし「馬は賢くて馬屋掃除をしてくれる人になつく」と何度も言っていました。
結婚後も住んでいる小金井市に昔さくら乗馬会というクラブがあり、馬場で乗り回していました。
旅行をすると必ずのように馬に乗れるところがありますかと聞きます。
毎回、馬とつきあうわけにはいきません。しかし馬牧場に行き少し乗馬すると大変機嫌が良くなるのです。北海道や八ヶ岳の麓にはそのような馬牧場が散在しているのです。
現在は乗馬はしませんが餌をやって何やら話し合っています。
私は馬が怖くて近寄れません。子供の頃、馬車馬の腹の下をくぐって遊んでいたら蹴とばされたのです。それ以来馬は敬遠しています。
敬遠はしていますが私は馬を見るのが好きです。皆様は馬がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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世界で唯一の野生馬、「モンゴルの野生の馬」の写真

2015年12月23日 | 写真
「NHKが世界で唯一の野生馬、モウコノウマをモンゴルの大草原に追いました。」
2014年1月5日午後7時30分からNHKテレビで放映したものの写真です。
(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348より。)
モウコノウマは、体高140センチ。ポニーほどの大きさで、足は短くずんぐりした体型をしています。漢字で書くと「蒙古野馬」。ずばり「モンゴルの野生の馬」という意味です。現在、モンゴルと中国にわずか数百頭しか生息していないため、絶滅危惧種に指定されています。気性が荒く人に慣れないので、家畜化は不可能だといいます。
1頭のオスと複数のメス、そしてその子どもからなる家族単位の群れで暮らすモウコノウマ。オスは、家族のリーダーとして圧倒的な力を持っています。移動のときは常に最後尾を歩き、オオカミなどの外敵を警戒、家族を守ります。指示に従わない家族がいれば、噛みついて追い立て統率するのです。メスたちの役割は子育て。いつもぴったりと我が子に寄り添い、授乳や毛づくろいなどの世話をします。
初夏、繁殖期を迎えるモウコノウマの家族に、さまざまな騒動が勃発します。最大の脅威が独身のオスの襲撃。メスを奪おうと群れのオスに戦いを挑んでくるのです。群れのオスが戦いに敗れると、メスを奪われ、幼い子どもは取って変わったオスに殺されてしまうこともあります。そのため、オス同士の勝負は命がけ。互いに噛みついたり、後ろ足で蹴り合ったり、ときに致命傷を負うことさえある激しさです。また、初夏とはいえ朝晩は激しく冷え込むこともある大草原で、命を落とす子供もいます。母親は、死んでしまった子供からいつまでも離れられずにいました。美しくも厳しいモンゴルの大草原を舞台に、野生馬たちの知られざる生きざまに迫ります!








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アメリカのイスラム教徒入国禁止と差別用語禁止の関係

2015年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
イスラム教徒入国禁止を主張するトランプ氏が共和党の大統領候補指名選挙運動で相変わらずトップの座にあり独走しています。対する民主党のクリントン氏はイスラム教徒入国禁止に激しく反対し、入国禁止はさらなるテロ事件の増加をよび国益を害すると声高く主張しています。
そこで分かることはアメリカ人はイスラム教徒入国禁止を差別と考えていないことです。
ここで差別という言葉の定義を再確認します。
「差別とは自分と他人を区別して他人をさげすみ軽蔑し、他人に対して不当な扱いをすること」と定義されます。
アメリカ人は建前としてイスラム教徒をキリスト教徒と区別はしますが、さげすんだり軽蔑したりしないことになっています。
ですから入国禁止は差別ではないと主張出来るのです。
イスラム教徒はテロを行う可能性があるから入国禁止なのです。
しかし私は今回のトランプ氏の入国禁止の主張は正真正銘の差別であると考えています。そのことは善良なイスラム教徒にとっては実に不愉快な不当な扱いであることには間違いないからです。
ですからこそ良識あるアメリカ人はトランプ氏を宗教差別主義者そして人種差別主義者と非難しているのです。
もともと差別用語の廃止運動を社会全体に広げたのはアメリカでした。そのアメリカで公然と差別的なイスラム教徒入国禁止を支持する人が多いことに驚いています。
このアメリカ社会の動向は間違いなく日本人の考え方にも影響があると考えるのが自然です。
影響の一つは差別用語の復活です。
差別用語を禁止すると自分の感じ方や想いを的確に表現できないと主張する人々がいます。
特に文学作品では人間の赤裸々な感情を書いて作品としても魅力や完成度を高める場合も多いのです。
ですから最近のテレビでは「作品の元来の芸術性を示すためにあえて差別用語をそのままにして放映いたします」という意味の小さな文章を画面に出して、堂々と差別用語を放送しています。
考えてみると古典作品には階級差別的な文章が堂々と何度も出て来ます。しかもそれが物語の内容を深めているのです。
しかし差別用語の復活には私は断固として反対します。
その理由は差別の定義を見れば明らかです。「差別とは自分と他人を区別して他人をさげすみ軽蔑し、他人に対して不当な扱いをすること」。
差別用語に断固反対すると書くと必ず「人間は差別するのが自然であり当然なことです」と反論する人がいます。
人間は神様ではないのですから心の中では必ず差別しています。しかしそれを顔に出したり、言ったり、他人をさげすむことは止めることが出来るものです。
差別用語には「蔑み軽蔑する意味」があるのです。差別された人は不愉快になります。怒ります。
私は心の中ではしょっちゅう差別しています。例えば国際関係に無関心な人を自分とは区別して理由もなく軽蔑してます。しかし可能な限りそれを隠すように努力しています。
その方が人間として望ましい態度だと信じているからです。
このように書くと日本における差別用語は法律で決まっているのかと聞いてくる人がいます。答えは簡単明瞭です。他人が聞いて不愉快に感じたり怒りを感じたりする言葉は全て差別用語なのです。ですからその言葉を使う相手との信頼関係があるか否かによって差別用語になったりならなかったりするのです。言葉の前後の文脈にもよって差別用語になったり、ならなかったりするのです。その違いを考えれば間違いがありません。と書いていますが私も時々間違って不愉快な言葉を使うことが多いのも困ったものです。
それにしてもアメリカの大統領の選挙運動内容の影響で深く考えされらている今日この頃です。
今日の挿絵代わりの写真は先日、花屋さんの店先で撮ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




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スケールの大きな趣味、「馬を飼う趣味」

2015年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の北杜市の甲斐駒岳の山麓に山の小屋を1974年から持っています。そこは北杜市の武川町の柳沢という地域です。武川米という美味しい米のとれる農村です。そこから山林の中に上って行った所に私の小屋があります。その小屋などを管理するために柳沢の清流園という組合を作りました。
今日はその柳沢清流園近辺に馬を6頭と犬を10匹を引き連れて、奥さんと共に引っ越したいというある方にまつわる話を書きたいと思います。
広々とした高原で馬を飼う趣味とはスケールの大きな趣味と思い、その話を聞いただけで楽しくなりました。
まずその方から私のブログ(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)へ頂いたコメントの要約をご紹介いたします。
===GREEN BOOKさんからのコメントの要約=======
「柳沢清流園」で検索したところ、貴ブログが最初に在り、柳沢の件のみならず、最近のお話しなど、暫く愉しみながら拝読させて頂きました。
さて何故、私が「清流園」を検索したかと申しますと、清流園近辺の土地を購入しようと考えているからにほかなりません。
私は予てより北杜市の白州、武川辺りが気に入り、移住を考えて居ります。土地を物色して、すでに一年余りが過ぎようとしておりますが、なかなかに適地が見つかりません。その理由の主たるものは、当方には馬が6頭、犬が10頭おりまして、彼等と共に移り住もうとしているからです。人間よりも彼等に最適な土地を探すのは簡単ではありませんが、柳沢の物件は、それを可能にするかも知れないと思われたのです。
人間はどうでも良いのです。とにかく夏場が過ごし易い事が必須なのです。馬も犬も、近年の温暖化に依る異常なまでの暑さが堪えます。人間にとっても心地良い場所であれば、それにこしたことはありませんが。
そこで、どなたか近辺にお住まいの方の情報はなかろうか?と検索してみた訳です。実に手前勝手な振る舞いですが、まさか清流園に別荘をお持ちの方のブログに行き着くとは思いませんでした。しかも、長きに亘って清流園に通っておられるということで、ブログを拝読し、コメントを書いているというのが今日の事でした。
機会を得て柳沢の事などお聞かせ頂くことが出来ますなら幸甚であります。乱文、どうかご海容願います。GREEN BOOK拝
===========================
話は飛びますが、私には趣味で馬を5頭ほど飼っていた知り合いがいました。一度だけですが、その立派な馬小屋と、雨天でも乗馬できる広い建物を訪問したことがあります。上のコメントを頂いてその馬を趣味にしていた人の楽し気な様子を思い出しました。
あまり楽しい気分になったので先週の土曜日にあらためて「清流園」の小屋に行きました。そして午後からその近辺を車でまわりながら馬の牧場の趣味に最適のように見える3ケ所の写真を撮って来ました。
それではまづ馬牧場の様子を示す写真です。

この親子の馬の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshiz_2010/3603332.htmlです。
この写真を丁寧に見ると親子の馬が走り回れるかなり広い土地があり、その柵の向こうは牧草が生えている斜面になっています。そして牧場を管理する人が寝泊まりす小屋も見えます。
このような施設が作れるような広い土地を探せば良いのです。清流園の東の高原地帯には広い平らな土地があります。

上の写真は乗馬を趣味にしていると考えられる人の別荘の隣に広がる土地です。この別荘の東と北は広大な野菜畑になっています。
その野菜畑を牧草地にすれば馬が走れ回れる広場になりそうです。勿論、家も馬小屋も犬小屋も作れます。なおこの別荘の南隣には東西に走る見事な桜並木があります。真原(まきがはら)の桜並木と称して桜の時期には賑わう場所です。
余談ながら武川町には現在でも牧原という地名があり、奈良時代の律令国家の甲斐の国の頃は盛んに馬を飼育して朝廷に献上していた土地でした。

上の写真は放棄された広い畑のあとです。雑草が生えているだけです。この近辺は高原の寒冷地なので農業には厳しい場所なのです。
この畑作跡の前の道路をはさんで南側に昔、5頭ほどの馬を趣味で飼っていた人が住んでいました。夏が涼しいので馬には快適な土地です。
しかし数年前に馬も人間も見られなくなりました。先週の土曜日もその場所に行きましたが荒れ果てた馬小屋と廃屋があるだけでした。

上の写真は数年前まで乳牛を28頭飼っていた方の土地の写真です。写真の右手にある家屋が28頭の乳牛の入っていた牧舎です。背景の山が甲斐駒岳です。
「清流園」という別荘地はこの写真の手前の林の向こう側にあります。40年以上前に小屋を作ったころはこの乳牛の牧畜をしていた一家には大変お世話になったものです。
搾りたての牛乳を一升瓶に入れて、お婆さんが孫と一緒に何度も届けてくれました。遊びに行くと、私どもの子供に牛を見せてくれます。そして搗き立ての餅も頂きました。美味しい漬物も沢山頂きました。春には竹藪に行って竹の子を掘ってくれました。当時元気だったおじいさんとおばあさんは亡くなりましたが、一家はお元気です。数年前に牧畜は止めてしまい便利な山高という場所に立派な家をつくり悠々と暮らしています。本当にお世話になった一家でした。
話はそれましたが馬牧場の候補地の話に戻ります。

上の写真は2番目の遠景の写真で示した別荘の門から撮った写真です。別荘の右手に乗馬用の馬を走らせる広場を囲った柵が写っています。
馬の姿が見えないのは残念です。乗馬をする時だけ馬専用の輸送車でつれて来るらしいです。馬場の周囲には形を整えた樹木が一列に並んでいます。何時通っても手入れの行き届いた様子に感心します。
さて「清流園」の東側に広がる土地の様子は以上の通りです。
ここは高原で夏は涼しく、冬は寒いながら積雪も少ないので牧場には良い所かも知れません。そして自然の風景だけを見ると素晴らしい所です。
しかし厳しい寒冷地です。農業を廃業した人々の廃屋が点々としてあります。人の来なくなって荒れた別荘も廃屋になっています。ですからあまりロマンチックな場所ではありません。
馬を飼う趣味はロマンチックな趣味と思います。ですからその趣味に合致した土地柄でもなさそうです。
しかし今日掲載した写真の中に馬が走り回っている風景を想像すると楽しくなります。
そんな楽しい想像をしながら写真を撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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冬の雑木林の美しさをお楽しみください

2015年12月20日 | 写真
冬の雑木林はすっかり落葉してしまい、陽射しが明るく根元まで差し込んでいます。
梢のシルエットが碧い空に広がっています。
雑木林は四季折々いろいろな美しさを見せてくれます。
冬の雑木林の美は淋しさがあり人の心を振るわせます。
昨日、甲斐駒岳の麓の小屋の周りで撮った写真です。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。






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