後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き

2023年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」の続きとして私のアメリカで出来た人間の絆を書きたいと思います。さて私どもは1961年にオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たちでした。茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。

昔、お世話になったアメリカ人たちの写真を掲載します。0044

1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。0012

2番目の写真は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイです。その奥さんのゲイルで、この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。008_21

3番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。結婚式の案内状はセント・ピエール教授の奥さんのボビーの呼びかけで代母のゲイルが手書きで書いて送ってくれたのです。家内は奥さん達にウエディングシャワーおをして貰い、新生活に必要な品々を沢山頂きました。(翌年長女が産まれる前にもベイビイシャワーをしてもらいました)0076

4番目の写真の左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。

1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友のような感じでした。その中でジム・バテル夫妻とジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。

恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。

同級生のジェリー・ワースはアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。

又同級生のオートンさんも一家で日本に来て我が家に泊り、一緒に熱海の温泉へも行きました。

遠い異国でお世話になった方々を思い出して、感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

2023年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

後期高齢者になると人生のあれこれを思い出して楽しんでいます。この頃は私の人生で出来た不思議な人間の絆を思い出し考えています。そして忘れ得ぬ人々の顔や姿を懐かしく思い浮かべています。

今日はそんな不思議な人間の絆と忘れ得ぬ人々のことを書いてみようと思います。人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。
これらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。

(1)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆
ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。
約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。
ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深い印象があるのはHootaさんという方です。
彼はブログやメールを通してヨットの帆走技術や修理方法を私にいろいろ教えてくれていました。
その縁で、2009年の春に千葉県に係留してある彼の艇を訪問し、一晩ビールを一緒に飲んだのです。それから数週間して駿河湾で素晴らしい帆走に招待してくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の長さ43フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していました。千葉県の保田港を母港にしていました。Hootaさんとの絆は私の心の貴重な財産になりました。

(2)結婚という不可思議な人間の絆
人間の絆は運命のようなものです。その絆で一番不可思議なものは結婚によって出来る男女の絆です。大した必然性も無く偶然会った男女が何故か愛し合うようになり結婚します。それには確固とした理由が無い場合もあります。そして子供や孫も出来ます。
人間の親子は人にもよりますが大体20年間くらいしか一緒に暮らしていません。それなのに夫婦は40年、50年それ以上一緒に暮らします。育ちも趣味もまったく違う夫と妻が何事も無いように一緒に暮らしているのです。結婚するまでは全く赤の他人だったのです。
ですから私は結婚ほど不可思議な人間の絆は無いと考えています。
結婚して一緒に暮らし始めてから好きになって愛し合う夫婦もいます。結婚が愛し合う原因になっているのです。このように書くと未婚の若者が、それは嘘だ、愛し合ったから結婚するのだと反対します。そのような理解があっても良いのです。しかし40年、50年と一緒に暮らしてみると結婚が愛し合う原因になっているように思えるのです。
子供や孫が出来るとそれがまた夫婦愛を一層強めてくれます。私も幸運にも良い伴侶を得て結婚という不可思議な人間の絆に毎日感謝しています。実に不思議な絆です。

(3)親子関係の絆の強さと不思議さ
親子関係ほど強い絆は無いと思います。
親子関係を父と息子の関係と母と息子の関係だけに限定して描くと明快に整理出来そうです。
一般に父と息子の関係は悪い場合があります。しかしその問題も孫が出来てから次第に解消してきます。
母と息子の関係を見ると始めから完璧に仲が良いのです。この世で母子の関係ほど強い絆は無いと思います。
外出すると幼児を連れた若い母親によく会います。幼児が可愛いので笑顔で見とれていると母親が挨拶をします。「どうです。素晴らしい子でしょう!」という自慢が笑顔に見え隠れします。女性にとって一番幸せな時期なのです。親子関係の絆はこれ以上書く必要がありません。

(4)あるモンゴル人と日本人の絆
数年前に旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は亡くなったあるモンゴル人と日本人の絆を書いたものです。
モンゴル人のソヨルジャブさんの追悼文をまとめて本にしたものです。日本人によって書かれた追悼文です。
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。
その絆には国境も思想も宗教も一切介在しない純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然日本人も彼を慕い愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
ソヨルジャブさんは満州国の国立ハルピン学院を卒業し、満州国のモンゴル地区の官吏になりました。敗戦後は日本へ協力したとして収容所に入れられ34年間も過酷な運命に甘んじたのです。日本人と付き合ったために悲惨な収容所生活を送ったのです。
しかし彼の日本人へ対する信頼と尊敬は微動だにしなかったのです。
ソヨルジャブさんの一生は阿部重夫さんによっても書かれています。(http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html)

(5)インターネットで出来た人間の絆

彼は「ひかるのさん」と言います。インターネットを通して知り合いました。彼はしみじみとした人生を静かに歩み、そして孤独のなかに50歳代で旅立って行きました。瀬戸内海のある島の出身だったようですが、故郷にはなにか深い事情があり生涯一度も帰りませんした。
インド、タイ、ブータンなどの南アジアに25年も住みながら、各地の伝統的な染色布や柄織りの布の美しい写真を自分のブログに紹介していました。「インド ブータン アジアの布 染織美術館」というブログで、URLは、http://asiancloth.blog69.fc2.com/ です。このブログは今でも生きています。
このブログを発見し、その内容に感動したのは2008年8月のことでした。染織の写真が美しいだけではありません。「ひかるの」さんが種々の民族を尊敬し何かを学ぼうとしているのです。読んでいて心豊かにさせるのです。
こうして彼とはネットの上で知り合い、その後何度かお会いしました。物静かな人柄でした。その「ひかるの」さんが肺ガンで亡くなる直前にもお見舞いに行きました。亡くなってもう10年以上になります。忘れ得ぬ人でした。

彼は独身でしたが息子が一人いました。バンコックでストリートチルドレンだった少年を引き取り、育て上げたのです。大人になってバンコックで働いています。
息子は病身の「ひかるの」さんの最後の世話をあれこれしてくれました。このタイの息子は「ひかるの」さんにとっては唯一人の家族です。しかし最後はその息子とも別れ、東京へ帰って来ました。そして肺ガンで2010年の5月に亡くなったのです。正確な享年は分かりませんがまだ50歳代のように見えました。
しみじみとした人生を送り、静かにこの世から退席して行ったのです。
「ひかるの」さんのブログ、http://asiancloth.blog69.fc2.com/  から彼の撮った写真を5枚を転載します。

1番目の写真はバンコックにある精霊の樹木です。ヒンズー教の影響を受けた庶民の信仰です。近代的なバンコックにもこんな信仰もあるのです。日本でもよく見られる樹木信仰の風景です。

2番目と3番目の写真はこれはブータンの衣装のキラです。野蚕の絹を手織りにし、草木染にした布です。見ていると暖かい気持ちになるから不思議です。



4番目と5番目の写真もひかるのさんが撮った写真です。この2枚は肺ガンがちょっと良い時に病院を抜け出して近所の公園を散歩した時の風景です。


今日は不思議な人間の絆と忘れ得ぬ5人の人々のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「堂々とそして華麗に咲く一本桜の姿」

2023年03月30日 | 写真
堂々とそして華麗に咲く一本桜の姿です。
1番目の写真は美しく雪化粧をした岩手山を背景に、小岩井農場の緑の大地に根を張る一本桜です。
2番目のです。福島県三春町の「日本三大桜」のひとつで、国の天然記念物の「三春滝桜」です。3度ほど見に行きました。
3番目の写真は埼玉県 北本市の石戸蒲桜です。東光寺の境内にある国の天然記念物に指定されている名木です。
4番目の写真は千葉県 印西市の吉高の大桜です。
印西市吉高地区にある樹齢300年を超える孤高の一本桜です。
5番目の写真は山梨県韮崎市の「わに塚の一本桜」です。ここは自分の山小屋に近いので何度も見にいきました。

「花見の歴史と江戸時代のお花見の様子」

2023年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

東京地域の櫻は終わりかけ散りはじめました。しかし日本は南北に長くあるのでこれから桜が満開になる地方も多いと思います。

今日は日本のお花見の歴史を簡略に書いて、その後で江戸時代のお花見の様子をご紹介したいと思います。

桜の花見は日本の春の重要な風物詩です。桜は開花から散るまでの期間は2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は人の命の儚さになぞらえられたりします。独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見弁当や酒を愉しむ野外宴会を開くことが江戸時代からおこなわれて来ました。花を見ながら飲む花見酒は風流なものです。そして乱痴気騒ぎとなることも珍しくありません。また花見は外国からの観光客の来日目的になったりしています。お花見の歴史を簡略に書きます。

花見は奈良時代の貴族の行事が起源と云われています。初は中国から伝来した梅を鑑賞しながら歌を詠んでいました。平安時代以降は次第に桜をめでるようになります。

鎌倉・室町時代に入ると武士階級に花見の風習が広がり、安土桃山時代には豊臣秀吉が桜の名所として知られた奈良の吉野山や京都の醍醐寺で盛大な花見を催しました。

江戸時代になると庶民の間にもお花見が広がり江戸末期には非常に盛んになりました。現在の花見は井戸末期から続く風習です。春の風物詩です。

それではお花見の様子を示す写真をお送り致します。写真の出典は、花見 - Wikipedia です。

1番目の写真は飲食を主にした花見の様子です。

2番目の写真は野外の新鮮な空気の中で悠々と花見を楽しんでいる様子です。

3番目の写真は江戸川の1910年の花見の様子です。(「東京名所写真帖」 1910年7月発刊)

4番目の写真は歌川広重の「浪花名所図会 安井天神山花見」です。(1834年頃)。踊りに興じる花見客と花見弁当に酒や三味線も見えます。

5番目の写真は墨堤(隅田川の堤)の花見客を描いた三代広重の「東京名所第一の勝景墨水堤花盛の図」、1881年です。

こうして見ると現在の花見は井戸末期から続く春の風物詩ということが分かりです。それにしてもこの間、日清戦争や日露戦争や太平洋戦争があったのにお花見の伝統は変わらず続いて来たのです。これからもお花見の文化を守ろうと思います。

今日は日本のお花見の歴史を簡略に書いて、その後で江戸時代の花見の様子をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「都立武蔵野公園で美しく咲く桜の写真を撮りに行った」

2023年03月29日 | 写真
今日は晴天です。午後から都立武蔵野公園まで行って、美しく咲く桜の写真を撮ってきました。同じ小金井でも都立小金井公園のソメイヨシノは10日も早く咲きます。
しかし都立武蔵野公園のソメイヨシノは今が満開です。枝垂れ櫻も咲き始めました。その写真をお送り致します。

「人類の文化を豊かにする少数民族の写真」

2023年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
世界には多くの少数民族が住んでいます。その多様な文化が人類の文化を豊かにしています。文化人類学を趣味にしている私は様々な少数民族が重要と信じています。しかし生活の便利さを追求する近代化によって少数民族は次第に絶滅の可能性があるのです。高度に発達した世界が少数民族を絶滅させたなら人類の大きな悲劇です。そうならないことを強く祈ります。
今日はアジアの少数民族の写真を示そうと思います。
まず中国やベトナムの山地に住むミャオ族の写真です。ミャオ族は総数、1100万人位です。
1番目の写真はミャオ族の伝統衣装を着た少女たちです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F をご覧下さい。
2番目の写真はミャオ族の建物と正装したミャオ族の人々です。写真の出典は、1番目の写真はと同じです。
 
ミャオ族の言語はミャオ諸語で宗教はシャーマニズム、仏教、キリスト教他です。
ミャオ族(中国語: 苗族) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいます。自称はモン族と言います。中国に住む55の少数民族の一つです。
 
次は漢族ですが宗教だけが違う回族をご紹介します。
3番目の写真は中国に住んでいる回族です。出典は、「回族」を検索して、出て来た写真をお借りしました。
回族は漢族ですがイスラム教を信仰している人です。服装はイスラム教の伝統的なものを祭日に着ています。ですから中近東風の格好をした漢民族なのです。宗教だけが違うので回族と呼んでいます。北京に行くと街で白い帽子を被った男が多数歩いています。日本では考えられない異様な風景です。
人口は約900万人で、主に寧夏回族自治区に集中的に居住し、甘粛省、青海省、河南省、河北省、山東省、雲南省などの地域に集中的に居住している区域があるそうです。
回族は広く分布し国各地に散在し、中国で分布地域の最も広い少数民族です。
回族のコミュニティには普通、モスクがあります。
言語は当然漢語を用いていますが、イスラムに関わる用語が混じっています。
姓名は漢族と同じですが、預言者ムハンマドの名から取った 「馬」 の姓が多く見られます。
回族は漢族などと雑居しながらもイスラムにのっとった生活を行い、漢族とは食習慣や冠婚葬祭などの習俗を大きく異にしています。この違いが回族の民族としてのアイデンティティの拠り所となっているのです。
次はに中国の少数民族の広西チワン族を示します。
4番目の写真は伝統衣装を着た広西チワン族です。写真の出典は、「広西チワン族」を検索して、出て来た写真をお借りしました。長い美しい黒髪の手入れをしています。
5番目の写真は広西チワン族の立派な屋根のついた橋です。写真の出典は、4番目の写真はと同じです。
広西チワン族は稲作をしています。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万が住み、中国最大の少数民族です。言語はタイ・カダイ語族に属するチワン語をします。 宗教は道教を信じ、冠婚葬祭の儀礼もこれに則って道士が行うことが多い そうです。
 
さて中国に生きている少数民族を以下に示します。
漢族: 2,702万人 (62%)、少数民族: 1,721万人 (38%)
少数民族の内訳は、チワン族: 1,520万人、ヤオ族: 147万人、ミャオ族: 46万人、トン族: 30万人、コーラオ族: 17万人、マオナン族: 7.4万人、回族: 3.3万人、プイ族: 2.1万人、満族: 9576人などです。
中国には漢民族が62%しかいないのです。少数民族が38%もいるのです。
 
最後にインドネシアの少数民族をご紹介します。
6番目の写真はプランバナン寺院を背景とした少数民族、ラーマヤナの踊りの公演です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%B3%E5%AF%BA%E9%99%A2%E7%BE%A4 です。
7番目の写真はジャワ島にある首都のジャカルタの風景です。インドネシアの都会は高層ビルや車が多いのです。中国の北京や上海の高層ビルの並んだ風景に似ています。
さてインドネシアは5,110kmと東西に非常に長く連なる、世界最多の島嶼を抱える島国です。公用語はインドネシア語で、人口は2億6,400万人を超え世界第4位です。また世界最大のムスリム人口を有する国家でもあります。
 
インドネシアの民族の構成は、ジャワ人45パーセント、スンダ人14パーセントなどが中心ですが、350あまりもの少数民族で構成されています。350あまりの民族がそれぞれの伝統的文化を保持しています。インドネシアの特徴は多くの島や農村地帯に多様な文化が並列しています。
都会には高層ビルが並んで車が溢れていますが、ちょっと地方に行くとそこには原始的な生活をしている少数民族が活き活きと暮しています。幸せに暮しているのです。
ジャカルタから4時間で行ける山村にバドゥイ族という少数民族が幸せそうに暮らしているのです。バドゥイ族の村に泊ったlifenesia.さんの体験記、https://lifenesia.com/?p=2430 をご覧下さい。
男は農作業、女はハタ織り、子どもはお手伝い。傍目には退屈な生活に思われるが、そこにはお金では決して買うことのできない幸せの本質があるのです。
 
今日は人類の文化を豊かにするアジアの少数民族の写真を示し説明を加えました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「何故、私は道端の道祖神などに興味を持つのか?」

2023年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

何故、私は道端の道祖神、馬頭観音、庚申塔やマリアの祠などに興味を持つのでしょうか?それらは民族古来のものです。卑小なものですが民族の文化として興味深いものです。写真を示します。1番目の写真は日本の安曇野地方によくある道祖神です。

2番目の写真はヨーロッパの田舎の道端にあるマリアの祠です。こういうものに興味を持つ理由は比較文化人類学が私の趣味だからです。

今日はこの比較文化人類学を日本に普及させたアメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトのことをご紹介したいと思います。

彼女が書いた「菊と刀」という本を1948年私は若い時読んで非常に感動したのです。
そのルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は1887年にニューヨークで生まれ、1948年に亡くなりました。アメリカ合衆国の文化人類学者で日本文化を説明した『菊と刀』の著者として戦後の日本で大変有名なった人です。この本はアメリカ軍に依頼され、敵国日本の人々の文化と行動パターンを調査し、研究した成果をまとめた本です。戦後、マッカーサーが日本の占領政策を決める時大いの参考した本でした。下の写真に彼女の写真を示します。

3番目の写真はルース・ベネディクトです。

彼女は1946年に「菊と刀――日本文化の型」をに出版しました。彼女は一度も日本の土地を訪れることなく、参考文献と日系移民へのインタビューによって日本文化と日本民族の気質を深く洞察し『菊と刀』という貴重な日本文化論を書き上げたのです。『菊と刀』は元々アメリカ陸軍がルース・ベネディクトに委嘱したもので、西欧人とは異なる日本人固有の文化・気質を理解することで太平洋戦争後の円滑な占領統治に役立てようとしたのです。
日本では1948年に翻訳出版されました。終戦後3年目です。
この本の内容で私は次の二つのことで衝撃的な感動を覚えたのです。
(1)日本は戦争に敗けたのに彼女はその文化や人間性を尊敬しているようなニュアンスで書いてあったのです。そして世界中の全ての民族の文化には絶対に優劣が無いと言うのです。
このメッセージは敗戦で意気消沈していた日本人を鼓舞したのです。もう一度復興し文化国家として世界に認めて貰おうと日本人が決心するキッカケになったのです。
(2)外国の文化を分析し、深く理解し整理体系化するためにはその国に何年も住んでいる必要があると言われます。ところがルース・ベネディクトは日本へ一度も来たことがないのに日本文化の真髄と行動パターンを明快に描き出したのです。その学問的な研究手法に感服し、感動したのです。

この本を読んで、衝撃を受け、それ以来、いろいろな民族の文化に強い興味を覚え、調べる癖がつきました。そのことが楽しくなって趣味になってしまったのです。

ついでにベネディクトが「菊と刀ー日本文化の型」を書いた頃の略歴を示しておきます。
1945 研究休暇中に「菊と刀」執筆
1946 『菊と刀』公刊。コロンビア大学に復帰。全米女性大学人協会の年間功労賞受賞。
The chrysanthemum and the sword : patterns of Japanese culture / by Ru th Benedict. -- Houghton Mifflin, 1946
1946-47 アメリカ人類学会会長
1948 コロンビア大学教授に昇進。9月17日に死去。


さてそれはそれとして今日は比較文化人類学を簡略にご紹介し、アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトのことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

 


「インターネットで新しい友人を作る」

2023年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

毎日つまらない記事をインターネットへ投稿しています。有難いことにいろいろな方から心温まるコメントを頂きます。こうして新しい友人が出来ます。今やインターネットは私の楽しい趣味です。

今日はインターネットで新しい友人を作る方法をご紹介したいと思います。

さて人間は高齢になると祖父母や両親が旅立って行ってしまいます。それまで目をかけて励ましてくれた恩人や友人達も何時の間にかいなくなってしまいます。自分を昔から知っている人々がみな消えてしまうのです。気が付いてみると周りには知っている人がいなくなってしまいます。老人の孤独です。淋しいです。
そんな場合にインターネットが老人の孤独を救ってくれます。インターネットを用いて新しい友人を作るのです。そのために一番重要なことは「老人の頑なさ」を綺麗さっぱり捨て去ることです。徒手空拳の状態になることが一番重要なのです。
私はインターネットの上に掲載した自分の文章を読んでくれる人に感謝します。読者を尊敬します。そんな人の中から自然に友人が出来ます。
さてもっと具体的に書くと私はブログ(https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama )に随筆をよく書いています。
その随筆をFace Book(https://www.facebook.com/kazu.s.goto )にも掲載します。
それから中高年者が主に会員になっている趣味人倶楽部というSNSの日記のページ(https://smcb.jp/mypage)にも掲載します。
すると外国や日本に住んでいる人々からコメントが来ます。コメントを下さった方々のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページを見て丁寧な言葉で返礼のコメントを投稿します。これを繰りかえしていると自然に親しくなります。
そして親しくなったらその新しい友人へ私のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページに記事を書いて下さいと丁重にお願いします。記事の内容はその方の家族のことだったり趣味の話だったり自由にお願いしますと書き送ります。なるべく数回続く連載記事になるようにお願いします。
例を書きます。ブラジルに移民して、成功したある宗教家に移民後の体験記の連載を書いて頂きました。
フランス人と結婚し孫までいる幸せな日本女性にその体験記を連載して頂きました。
日本である問題の故に差別されてイギリスに移住し成功した日本人男性の一生の物語を連載して頂きました。
みんな私のかけがえの無い友人になりました。
まだあります。猟期だけ北海道に移住しエゾ鹿の銃猟を趣味にしている方に猟犬と銃猟に関する連載記事を書いて頂きました。親しくなったらエゾ鹿とイノシシの上質な肉を送ってくれました。
まあこのような例は沢山ありますが、長くなるので止めます。

今日はインターネットを用いて新しい友人を作る方法について自分の体験を書いてみました。
新しい友人を作るためには一つの鉄則があります。それはインターネットで知り合った人は皆尊敬すべき友人だと信じることです。知り合ったことに感謝します。こうして私は孤独な老境でも豊かな日々を送っています。それは楽しい人生の一つの期間です。

今日はインターネットを用いて新しい友人を作ることについて自分の体験を書いてみました。

今日の挿し絵代わりの写真はハクモクレンの花の写真です。春になると華やかに咲きます。葉が出ないで花だけが梢に咲くのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「小金井公園の櫻の写真を撮りに行ったが・・・」

2023年03月27日 | 写真

午後から小金井公園の櫻の写真を撮りに行ったのですが曇りで暗いうえに桜花も散り始めていました。写真を撮ったのですが暗い写真になりました。

そこで3月19日に撮った美しく咲いている桜花の写真をお送りします。

今年の櫻の花の季節も終わりです。残念です。


「懐かしい葉山マリーナの写真」

2023年03月26日 | 写真
私は37年前の50歳の時、趣味としてヨットを始めました。始めは江の島のヨットスクールと葉山マリーナでデンギィの操船方法を1年間ほど習いました。それから中古のクルーザーを買ったのです。

懐かしい葉山マリーナの写真です。