後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

戦前のイタリアとドイツの乗用車の写真をお送りします

2014年08月29日 | インポート

昨日、河口湖自動車博物館で撮ってきた戦前のイタリアとドイツの乗用車の写真をお送りします。昨日、掲載したイギリスとフランスの戦前の車の写真も含めて、ヨーロッパの4ケ国の文化の違いを暗示しているようです。自動車には作られた国と時代の雰囲気を反映しているのです。
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上の写真はよく分かりませんが、色彩が綺麗なのでお送りします。自動車が作られ始めた頃のプジョー・ベベらしいです。この当時はまだ走れば良いという時代ですから、現代の基準を当てはめるならエンジンは非力。ようやく冷却のためのラジエーターグリルが誕生したという時代です。
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上の写真は1938年のイタリアのランチアアプリリア、1352CC,Ⅴ型4気筒、4輪独立懸架。120Kmの巡航速度でした。実用車らしい頑丈な作りになっています。
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上の写真はアルファロメオ、6気筒、2500CCです。いかにもイタリアらしい華麗なデザインです。
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上の写真はヒットラーがよく乗っていたベンツと同じ型のメルセデス・ベンツ/540Kです。3500CCのエンジンで2.7トンと重い車体でも時速170Kmで走れました。やがて第二次世界大戦を始めるドイツの武力を連想させるような重厚な作りになっています。
その他の車は,http://auto.ultimative.org/2012/car-airmuseum/ にも掲載されています。

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中国は全般的に見ればイスラム教徒の回族もラマ教徒も大切にしています

2014年08月26日 | インポート

時々、中国政府がウイグル自治区やチベット自治区でデモを武力鎮圧しています。
しかし全般的に見れば、漢民族は中国内のイスラム教徒やチベット仏教信者(ラマ教信者)を、現在でも大切に思い、共に仲良く暮らしてゆこうと努力しているのです。
日本のマスコミはこのことを一切報道しません。そこで今日は私の見た中国国内の実態を報告します。少し昔の話ですが、ご勘弁下さい。

◎中国のイスラム教徒と漢族の食習慣
北京の大学へ何度か行ったのは1981年から数年間です。観光客の行かない学生食堂で学生と一緒によく食事をしました。
当時、中国の大学は原則として全員寮生活で、朝昼晩の三食は大きな学生食堂で取ります。料理の品数は少ないが美味しい北京料理です。
食器は自分が寮から持ってくる琺瑯引きの鉄製のドンブリです。食べ終わったらまた寮へ持ち帰り自分で洗います。
よく見ると、隣にもう一つ広大な学生食堂があります。イスラム教信者(回族)の学生専用の食堂です。回族は豚肉を一切食べません。ラードでいためた料理もだめです。回教の定めに従った方法で殺した羊は食べます。
一方、豚肉抜きの北京料理は考えられないので、異なるメニューの学生食堂が二つ必要になります。
また一歩外に出ると北京の街には回族食堂という看板を掲げた店が多いものです。白い布で髪の毛を隠した女や丸い帽子をかぶった男の回教徒が大勢歩いています。あるとき、中心街に近い大通りを、羊の大群が悠々と流れている光景を見て驚いたことがあります。
独特の帽子をかぶった回族の羊飼いが一人ついています。だれも非難がましく見ません。回族の当然な権利なのです。ある季節になると北京の市内で羊の市が立つそうです。羊の群れは北京の風物詩でもあったのです。
この光景は1985年頃まで続きました。高層ビルが林立する現在では見られない中国の風景でした。漢民族とイスラム教徒は仲良く混じって暮らしているのです。

宗教的戒律のない漢民族は、北京料理に飽きると回族食堂にはいります。漢族は羊に違和感を持たないのです。回族食堂では帽子をかぶったイスラム教徒も漢族も肩を並べて仲良く料理を楽しんでいるのです。
共産党独裁の中国でも回族はその伝統的食習慣を守りながら悠々と生きているのです。この状態は中国の歴史とともに古い生活様式なのです。

      @北京の北、承徳にあるチベット仏教のポタラ宮
中国が歴史的にチベットを領有した時代がありました。特に清朝の皇帝はチベット仏教を大切にして、ラサにあるポタラ宮と同じ寺を北京の北230Kmにある承徳の郊外に作ったのです。
私も1981年に、この清朝の避暑山荘を訪問しました。
郊外にある豪華絢爛たるラマ教寺院の壮大な規模に圧倒されました。
当時は文化大革命で建物が徹底的に破壊されていましたが規模の大きさと崩れたレンガの華やかな装飾に圧倒されたのです。このような中国とチベットの友好関係の時代があったのです。
ダライ・ラマ氏は傑出した仏教徒です。彼はチベットの独立を主張していません。自由な宗教活動を要求しているだけなのです。中国政府が誠実にダライ・ラマ氏と話し合うことを祈っています。
承徳にあるチベット仏教のポタラ宮風の寺院は、現在、完全に復元され「世界遺産」として登録されているそうです。下にその写真を掲載します。


写真の出典は、承徳の避暑山荘:http://ja.wikipedia.org/wiki/外八廟 です。
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下はチベット仏教の普寧寺の千手観音像 です。
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久しぶりに石塚園芸に行って花の写真を撮らせて頂きました

2014年08月23日 | インポート

石塚園芸はいろいろな意味で感動的な花の栽培園です。
石塚健壽さんが精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
その石塚さんの仕事ぶりついては以前から何度かごご紹介してきました。
例えば、石塚園芸のサクラソウがオランダの花の祭典、フロリアードで金賞一席と特別賞を受賞 をご覧下さい。
2012年のオランダでの花の祭典、「フロリアード2012」に新種のサクラソウを出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。
毎年、1月になると見事なサクラソウの花々を見せて貰うために訪問しています。

今日は久しぶりに石塚園芸に行って花の写真を撮らせて頂きました。あいにく栽培家のおじさんは不在でした。
下にお送りする花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
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トリックアート美術館の意外な面白さを発見しました

2014年08月22日 | インポート

トリックアート美術館の意外な面白さを発見しました。
そこで不思議な写真数枚をお送り致します。

昨日、家内と中学1年生の男の双子の孫が高尾山トリックアート美術館に行きました。向かい側に広大な有料駐車場がありましたが、私は入りませんでした。
こういうトリック絵は好きでないから勘弁して貰い、裏高尾の日影沢の自然を楽しんで来ました。
帰宅後、彼らの話を聞き、写真を見ました。...

そうしたら平面的な絵画の前で自分がどのような姿勢でポーズをとるかを深く考えて写真を撮ったそうです。
自分が絵画の一部として参加して、トリック効果を最大にすることが面白いそうです。自分で三次元的な映像を創り出すことが面白いのです。そうです。体験型美術館なのです。
その彼等の苦心作の不思議な映像を5枚お送りいたします。
なお高尾山トリックアート美術館の詳細は、
http://www.trickart.jp/information.html に出ています。
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裏高尾の日影沢に行って、のんびりして来ました

2014年08月21日 | インポート

家内と下2人の孫を高尾山トリックアート・ミュージアムに送り、私は裏高尾の自然の中を車でのんびり走ってきました。
杉木立の道は蒸し暑くて、アブラゼミがしきりに鳴いていました。
時々、車を止めて写真を撮りました。
大自然は何度行っても良いものです。

1時間後にまたトリックアート・ミュージアムに寄り家内と孫を車に乗せて帰宅しました。

高尾山や杉木立やマス釣り場やテッポウユリの写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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オルセー美術館展を見てきました

2014年08月13日 | インポート

今朝は思い立って、六本木にある国立新美術館で開催中のオルセー美術館展を見に行ってきました。家内と一緒でした。
マネ、モネ、セザンヌ、ピサロ、ミレー、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、カイユボット、バジールなどなどの印象派の油彩画がゆったりと展示されていました。

それぞれの画家の出来の良い作品を選んで持って来たオルセー美術館の学芸員の見識に頭が下がりました。失敗作が混じっていないのです。

特にマネの笛を吹く少年の画は何度見ても何故か感動します。
それにモネのサン・ラザール駅の風景画の前にはつい立ち尽くしてしまいました。40年以上前にパリで初めて見たときの感動を思い出します。

それにマネの「ロシュフォールの逃亡」は感動です。沖の波の上の船に、逃亡者が数人乗っているだけの絵です。波の色合いが柔らかで美しいのです。そして美しいだけでなく、立ち騒ぐ波が船を揺らし、逃亡者の不安な気持ちが私にも伝って来るのです。

この展覧会は10月20日(月)まで開催されています。絵画のお好きな方々にとっては必見の展覧会です。但し、かなり混みますから週末や祝日は避けた方が良いと思います。
なお美術館の専用駐車場はありません。100m位離れた「ミッドタウン」の広い有料駐車場場が便利です。10分100円でした。
下にオルセー美術館展のポスターと国立新美術館の写真を示します。
 
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自民党の憲法全面改定案に衝撃を受けない日本人ははたしているのでしょうか?

2014年08月06日 | インポート
自民党の憲法全面改定案に衝撃を受けない日本人ははたしている<wbr></wbr>のでしょうか?

憲法改正は欧米の価値観と世界観を拒否し、日本の村社会の思想で<wbr></wbr>国作りをし直そうというものです。
天皇を元首として和をもって日本を纏め、再び富国強兵をやり直そ<wbr></wbr>うとするものです。
欧米の個人の尊重とか、人権は神から与えられた全ての人類の保有<wbr></wbr>する一番重要な権利だという考えをあざ笑っているのです。

私は第9条の戦争の放棄を「侵略戦争の放棄」にだけ改正し、残り<wbr></wbr>はそのままにしておくことに賛成なのです。欧米諸国の憲法と同じ<wbr></wbr>にすことに賛成なのです。

自民党の憲法全面改定案に衝撃を受けます。日本人は自民党の憲法<wbr></wbr>全面改定案を誰も読んでいないのでしょうか?
...

森一弘氏の著書によると、・・・人間は国のためだけに存在するも<wbr></wbr>のではなく、また自らの生の充実感は国家の発展によって得られる<wbr></wbr>ものでないことは確かです。国家は本来そうした人間一人ひとりの<wbr></wbr>豊かさ、深さに敬意を払い、それに奉仕するための存在である筈で<wbr></wbr>す・・・・

私はカトリックでローマ法王の部下です。しかし熱烈な愛国者です<wbr></wbr>。日本が好きです。日本を誇りに思っています。ですからこそ狭量<wbr></wbr>な愛国心で作られた自民党の憲法改正案に衝撃を受けているのです<wbr></wbr>。
普通の日本人ならアマゾンの原住民にお会いしても礼儀正しく接すると思います。全ての人間を大切にすると信じています。それが個人の尊厳というものです。
それは国家とか宗教とか人種に関係が無い人間の善意です。その善意が個人の尊厳や基本的人権の根源なのです。
それは欧米人の尺度を超える考え方です。
私は仏教国のカトリックです。ですから欧米人の間違ったキリスト教の理解が分かるのです。お釈迦様の教えに反することは間違った解釈です。
ですから人権は国があるから存在するとは理解していません。

皆様のご意見を頂けたら嬉しいです。
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今日の小金井市、真蔵院のハスの花

2014年08月04日 | インポート

今日の小金井市、真蔵院のハスの花の写真をお送り致します。

猛暑のなかで写真を撮っていたらハスの花は暑くないのか平然として風に揺れていました。この暑さが好きなのですね。驚きです。咲き終わってハチスになったものも多くなりました。

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ブランドと人の心(2)女性の魂を奪うシャネルとルイ・ヴィトン

2014年07月25日 | インポート

シャネル社の創業は1909年でありルイ・ヴィトン社は1854年です。どちらもパリでの店が隆盛をきわめ、フランス文化のしゃれた華麗さが魅力になっています。

ただ華麗なだけでなく、少し病的な雰囲気も混じっていて単なる美しい工芸の世界から芸術の世界へにつながる深い美しさを出しています。

このブランドは、工業製品であるロールス・ロイス車のブランドとは異なる意味を持っています。異なるブランド力を持っています。

シャネルとルイ・ヴィトンはフランス文化を背景にして商品のイメージを高め、世界中の女性の心を掴んでいるのです。

ロールス・ロイスはあくまでも車の高品質性と信頼性を保証するブランドなのです。しかしシャネルやルイ・ヴィトンは高品質性とか信頼性のような実質性とは無縁の商品なのです。

と言えば言い過ぎで、高品質性と高級イメージの両方が重要な商品なのです。

下にシャネルとルイ・ヴィトンの公式HPからの写真を一枚ずつ示します。

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上のようなHPを見ると「イメージ商品」という私の主張がお分かりと思います。

シャネルは帽子のデザインから出発して現在はしゃれた婦人服、香水、化粧品、装身具などなど女性向けのあらゆる商品を売っています。

それらの品質は上のファッションショーとは直接関係ありません。しかし華麗なファッションショーの写真を先に出して、あとで商品の紹介をするのは、「まずあなたも華麗になります」というメッセージなのです。イメージが先行しているのです。

そして下はルイ・ヴィトンのHPの写真です。Louisvuittonfashionshowcampaignlv_w

この写真のルイ・ヴィトンではいきなりハンドバッグや旅行鞄の写真を出しません。美しいイタリア車のそばにたたずむ女性にハンドバッグをさりげなく持たせています。

ルイ・ヴィトンという会社は車は製造していません。美しいイタリア車のイメージを借りてハンドバッグの美しさを引き立ているのです。

「このハンドバッグを持つと写真の女性のように美人になります」というメッセージを送っているのです。

このようなイメージ商品は現代文化を多彩にし、そして楽しくしてくれいます。

ですからこそ私は大切にすべき文化の一分野と尊敬しています。

それにしても販売価格が高すぎると思います。高ければ高いほど売れるそうです。

購入する女性の虚栄心が少し関係しているようで、もしそうならあまり感心出来ません。

それはさておき、美しい夢を売っている商品です。世界の経済が発展すれば、ますます隆盛する一分野と考えられます。

下にココ・シャネルの写真と香水のシャネル五番の写真を示します。

そしてその下にはルイ・ヴィトンのハンドバッグと靴の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)

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===シャネルの起業、ルイヴィトンの起業などについて========

ココ・シャネル(1883年 - 1971年)の活躍:

前の部分は省略します・・・・その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。1918年に、第一次世界大戦が終戦。・・・以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB にあります。

ルイ・ヴィトン(1821年 - 1892年)の起業と死後の隆盛:

前の部分は省略します・・・・ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイが亡くなった後のことである。ヴィトン社はまず「グリ・トリアノン・キャンバス」(Gris Trianon) というトランク工場として創始された。このトランクは灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものであった。1854年、ルイはエミリー (Emilie Clemence Pariaux) と結婚、同年、世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。3年後の1857年には息子のジョルジュ (Georges Vuitton) が生まれた。

1859年、アニエール=シュル=セーヌに最初のアトリエを構える。

1860年、ヴィトン社は需要に押されて規模を拡大した。1867年、万国博覧会で銅メダルを獲得。これにより世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注した。また、当時世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からもトランクの注文を受けるなど、主にスラブ、ラテン系王侯族に重用された。

トランクの上から布地を貼るというルイの技法は賢明であったが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ルイは別の布地を使うようになった。この布地は、「Striped Canvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地である。しかし、これもすぐにコピー商品が出回ることとなった。・・・・・

以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3 にあります。

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お薦めの夏の旅(2)東京の夜景を海から楽しむ小さな旅

2014年07月23日 | インポート

いよいよ梅雨明けですね。暑いです。こういう季節は夜の東京湾へ船で出てビールを飲みながら街々の夜景を楽しむ小さな旅をお薦めです。

涼しい風が甲板を吹き抜け,街の灯がダイヤモンドのように輝いています。

船は竹芝から出るシンフォニーやヴァンデアンやクリスタル・ヨット号のように豪華な客船と浅草や浜松町などから数多く出る屋形船の2種類があります。

海風をじかに楽しみたいなら屋形船がお勧めです。天麩羅などの食べきれない料理と冷い生ビールが出ます。
前者の情報は、
http://www.symphony-cruise.co.jp/ にあります。
後者の情報は、
http://www.mapple.net/bythemearea/a13b71c100/0303010000/spots_all_1.htm  に出ています。
下に2010年7月16日に東京湾から撮った夜景の写真を示します。

四番目の写真の右側のヨットがビッグベアー号、39フィートで、この船に乗せて貰い浜離宮わきの運河から出港しました。

五番の写真は典型的な屋形船で内部は大きな座敷になっていてご馳走を食べながら生ビールを飲みます。

六番目の写真はシンフォニー号クラシカです。小生が撮った写真です。
中には大きなレストランが2つあり、フランス料理やイタリアンを食べながらワインを静かに飲みます。
ヴァンデアン号も同じスタイルです。しかし船が大きいうえに、船内が明り過ぎて夜景を楽しむにはデッキに出なくいといけません。内装も費用も少し高級です。

それにしても夏の夜の東京湾への小さな旅はお勧めです。

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「人生で一度は行ってみたい!日本の絶景花畑で癒されよう」からご紹介します。

2014年07月20日 | インポート

このところ戦争のいまわしい話が続いたので素晴らしい花園の写真を3枚お送りします。出典は、http://mery.jp/13631 です。
上から順々に以下の通りです。
茨城県のひたち海浜公園の「みはらしの丘」のネモフィラの花園です。
山梨県南都留郡富士河口湖町本栖212の富士芝桜まつりの写真です。
長崎県佐世保市ハウステンボスのチューリップ畑です。

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今日のの花はユリとカンゾウとヒマラヤ・ユキノシタです

2014年07月19日 | インポート
今日の花はユリとカンゾウとヒマラヤ・ユキノシタです。
最後の五枚目の写真がヒマラヤ・ユキノシタです。
昨日、都立小金井公園で撮ってきました。
 
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今朝の蓮の花の写真をお楽しみ下さい

2014年07月18日 | インポート

今朝の蓮の花の写真をお楽しみ下さい。

先程、小金井市の真蔵院で撮ってきました。

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宮城県、オニコウベ高原の野に咲く小さな花々

2014年07月16日 | インポート

宮城県、オニコウベ高原の野に咲く小さな花々の写真をお楽しみ下さい。
7月15日に撮りました。

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海上に漂流中の英国兵422名を救助した駆逐艦、雷の艦長、工藤俊作中佐の快挙

2014年07月16日 | インポート

先の大戦中、日本軍は数々の残虐行為をしました。

敵艦を撃沈させ、海上に逃れた敵兵は機関銃で処分するのが普通でした。救助なんかしていると敵の潜水艦にやられてしまうのです。それが戦場の常識でした。

しかし逐艦、雷の艦長、工藤俊作中佐は海上に漂流していた英国兵422名を救助し、オランダの病院船へ引き渡したのです。

この武士道精神にあふれる行為は2003年まで日本では秘密になっていたのです。

この事実を正確に紹介しているHPを見つけましたので下にご紹介いたします。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/319402.htmlです。

下の写真は駆逐艦、「雷」(イカヅチ)

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1998年5月天皇皇后両陛下は、イギリスを訪問されました。この時、第二次世界大戦で、日本軍の捕虜となった元イギリス兵たちが、戦争中の捕虜虐待(泰緬鉄道での強制労働等)の賠償を日本政府に求め、天皇へ謝罪を求めて、反日運動を活発にしていました。

 当時は日本の財界がイギリスに積極投資をしている時期で経済的に親密度が増しており、イギリス世論も、新しい関係を重視するものや、あくまで日本政府を非難し謝罪を要求するものなど様々で、新聞も大きく取り上げました。
 この元捕虜たちは、日本軍を恨んで激烈な反日活動をしていましたが、細川首相の時にすでに講和条約の終わった問題にもかかわらず、この元捕虜に謝罪し、「慰謝料は在英の日本企業から払わせる」と発言したものですから、大変な混乱を生じてしまい、在英日本人会は大騒ぎになったこともありました。この時から問題が泥沼化しました。
 天皇皇后両陛下が到着後、エリザベス女王と馬車に乗ってバッキンガム宮殿に向われるパレードで、イギリス国民が歓迎する中、元捕虜の数人は、背中を向けて抗議したほどでした。この元捕虜たちの天皇訪英を阻止しようとする反日運動がもりあがるなかで、1998年4月29日英タイムズ紙に、ある投稿が掲載されました。
 サー・サミュエル・フォール卿による、「戦時中、日本帝国海軍に捕虜になったが友軍以上の処遇を受けた」とする一文でした。この投書は読者に感動を与え、以降この反日活動は急速にトーンダウンしていきました。
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左はサー・サミュエル・フォール卿 ===右が工藤俊作・駆逐艦「雷」艦長
  昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。
翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷(いかずち)」に発見されたのだ。
一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。
「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。
救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。
ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。
一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、内火艇(艦載ボート)で救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。
ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。
一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。
「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。
サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。
一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。
戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間  だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。
さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。 
  今年七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。  サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いはここに達成されるのである。 (この記事での日付は2008年のものであり、再来日はその年128日となり、89歳(2008年)になるフォール卿は、義理の息子に車椅子を押してもらいながら12月8日の「工藤中佐顕彰式典」に臨み、亡き工藤艦長はじめ帝国海軍に感謝を述べた。 

(自由主義史観研究会)

  驚くべきことに、本会理事の岩田義泰先生(終戦時、陸軍少佐)は、そのとき近くのジャワ島のバタビヤにおられ、この海軍の敵兵救助劇についても噂で聞いていた、と先日伺った! しかしながら、工藤艦長も、それを知った陸海軍の将兵も「美談」や「手柄話」として語る者はなく、フォール卿が語り始めるまで、日本国民に知られることはなかったのである。
  この奇跡の実話が多くの人々に知られるようになったのは、偶然、恵隆之介氏がフォール卿に関するリポートをラジオで聞いたことに端を発する。
  《2003年6月13日、私はNHKラジオの朝の番組「ワールドレポート」を聞いて、強い感動と驚きにとらわれていた。それはロンドン発のリポートで、ラジオのリポーターは「なんでこんな美談が戦後、日本で報道されなかったか、不思議でならない」と興奮を抑えながら発言していた》(恵著『海の武士道』)   
  このお話は、フジテレビのアンビリーバボーでも放映され、ご存じの方も多いと思いますが、もっと多くの人に知って欲しいおはなしです。
http://www.youtube.com/watch?v=jLdX2ngSepY&feature=related 
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フィリピン
非常に感動的な物語だ・・・。
            本来、人間はこうあるべきなのだ。
 
アメリカ合衆国(24歳)
この事実は、日本人が悪人でない事をはっきり示しています。
イギリスと日本に栄光あれ!
 
カナダ(54歳)
            美しい話です。
            溺れているイギリス水兵を救助するために、海に飛び込む日本水兵のシーンは非常に説得力があります。
            戦時中に起こった全ての忌まわしい出来事に対して、ひとつの光をあてるものです。
 
アメリカ合衆国
            非常に説得力があります。
こんな話はこれまで聞いたことがありませんでした!
 
タイ(46歳)
これは間違いなく賞賛に値する行動です。私は尊敬の念を禁じえません。
 
フィリピン(27歳)
とても感動的です・・・。涙が出てきました。
 
イギリス(35歳)
たとえ、戦いの中であったとしても、名誉と尊厳は存在するのだ。
 
訳者注
            埋め込みしてある動画は、某両国によって荒れ放題になっているので、翻訳は諦めました。
ここからは同じ内容の別の動画からです。


Japanese Bushido saved lives (1-3 of 3-3)

http://www.youtube.com/watch?v=jLdX2ngSepY

            Japanese Bushido saved lives(2/3 of 3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=vbHIC_CLDhk

            Japanese Bushido saved lives (3/3 of 3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=KcwX93oi1CE
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