後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「大多数の韓国人は日本人と違って宗教を堅く信じている」

2024年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

鮮半島、特に韓国の宗教事情を調べてみました。日本の宗教事情とは大きく違ってます。大多数の韓国人は日本人と違って宗教を堅く信じているのです。

韓国にはシャーマニズムから仏教、儒教、キリスト教、イスラム教まで様々な 宗教が共存しています。2015年の統計によると、韓国の人口の44%が宗 教を信じています。
韓国人にとって根強い思想は仏教と儒教で、韓国の遺跡や文化財の半分以 上が、仏教や儒教に関連しています。仏教は西暦372年に伝わり、全国に数万 ヶ所の寺があります。
儒教は朝鮮時代(1392~1910)の国教で、宗教というよりは、忠孝と祖先崇 拝を重視する倫理的な行動綱領に近いと言えます。

死んだ祖先が子孫の成功 に影響を与えるという儒教的な信仰が、良い場所である名堂に祖先を埋葬す る風習を生みました。日当たりの良い韓国の山で豪華な墓をよく見かけるの も、このような伝統のためです。

此処までは理解できますが、日本と大きく違うのはキリスト教の信者が非常に多いことです。以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99 からの抜粋です。

韓国統計庁の発表によると2005年の韓国においてキリスト教信者は総人口の約3割を占め、総人口の約2割を占める仏教徒よりも数が多く、韓国の宗教人口全体の中でキリスト教徒が最大になっています。キリスト教徒の中ではプロテスタントの信者2に対してカトリックの信者1の割合になってます。ちなみに日本のキリスト教信者は人口の3%以下です。

なぜ韓国でこれほどまでにキリスト教が拡大したのでしょうか?

様々な説がありますが、まず韓国の伝統的な民間信仰であるムーダン(巫堂)というシャーマニズムが影響しているという説があります。シャーマニズムとはシャーマン(巫女)を仲介して神霊や祖先の霊などと心を通わせることです。韓国のプロテスタントは、キリスト教が一般的に忌避するシャーマニズムの神秘主義を取り入れ、これが韓国の風土と合致し、教会の急成長をもたらしたと言われています。

特に教会のマンモス化は宣教のおかげというより、キリスト教がシャーマニズム化され、それが韓国のキリスト教を成長させたそうです(崔吉城『キリスト教とシャーマニズム』)。しかし1970年代以降、近代化に伴い、シャーマニズムが迷信であるとして批判の対象となり、表立ってその儀式を行うことが難しくなりました。

キリスト教とシャーマニズムの合体は日本にはありません。

戦後、キリスト教が韓国ではさらに拡大します。一方、日本ではキリスト教にあまり馴染みがないのが実態です。韓国と日本は似ているようで実は大きな違いがたくさんある隣国なのです。

ところで私はカトリックの信者なので韓国のカトリックを少し詳しく記します。

プロテスタントは諸教派に分かれるので、単一の宗派としては信者数574万人(2016年)のカトリックが最大です。組織的にも最も強固なものです。韓国のカトリック教会は枢機卿が2人、大司教(朝鮮語では大主教)5人、司教(朝鮮語では主教)35人、大修道院長2人です。

さらに神父は5,162人もいるのです。最大の教区はソウルで信者数152万人、次に水原の88万人です。北朝鮮にも沈黙の教会と称する秘密組織が平壌などにあるそうです。

写真に韓国のカトリック教会を示します。出典は、https://architecture-tour.com/world/korea/catholic-yakhyeon-church/ です。

今日は高句麗、百済、新羅の三国時代(4世紀中葉-676年)から朝鮮半島には朝鮮族だったと書きました。そこで韓国の宗教事情を調べました。日本と違って韓国は宗教が強く信じられている事実をご紹介致しました。韓国は日本と違う文化なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「幼少時の思い出、そして想うこと」

2024年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でも仕事を止めて老境に入ると、それまで仕事の忙しさで忘れていた幼少時の思い出がよみがえって来ます。それは喜びと悲しみの入り混じった懐かしさです。切ない思い出です。
われわれ年代の高齢者の幼少時は戦前、戦後の苦しい時代でした。貧しさ故の悲しみが入り混じった懐かしい思い出です。
さて自分が撮って来た山郷の花々の写真をお送りいたします。甲斐駒岳の東に広がる北杜市の武川町の花々です。






これらの花々の写真をしみじみと眺めながら想ったことがあります。
現在、働き盛りの若い人々は老境になってどのような思い出を持つのでしょうか?
時代が違いますから思い出の具体的な内容は違います。想像して書いてみました。
楽しかった海外旅行、スマホ、ゲーム、ドライブ、ショッピング、旅先で食べたソフトクリームの味、おとぎの国のようなディズニーランドの情景などでしょう。
時代がどんなに変わっても老境に思い出すのは幼少時の楽しかったことではないでしょうか。しかしどんなに時代が良くなっても悲しみが入り混じります。 道に迷って泣いた時の恐怖、可愛がっていたペットの死、転居による友人との別れ、突然の家族の死、などなど幼い人生にも悲しみがあるのです。
悲しみと喜びの混じった幼少時の思い出は時代が変わっても何時までもあるのではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「春も過ぎ、時々思い出すはるかな尾瀬 遠い空」

2024年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
初夏の季節になりました。こんな季節には遥かな尾瀬の風景を思い出します。一時流行った尾瀬の歌を思い出します。『夏の思い出』という歌でした。1949年発表の日本の歌曲です。
NHKにて放送されるや否や、瞬く間に多くの日本人の心をとらえたものです。この歌のおかげで尾瀬(おぜ)の人気が高まり訪れる人が非常に多くなったのです。
私は1951年に高校に入学し、1954年に大学に入学したのでこの曲をNHKのラジオで何度も聞き、自分でもよく歌ったものです。当時は仙台に住んでいて、復興もまだまだで苦しい生活でした。はるかかなたの尾瀬などへ行くことは出来ません。
ですから尾瀬とか水芭蕉という言葉は憧れの夢だったのです。
写真雑誌で尾瀬の風景や水芭蕉の群落の光景を見てますます憧れが強くなったものでした。
『夏の思い出』の作曲は、『ちいさい秋みつけた』、『めだかの学校』などを手掛けた中田 喜直(1923-2000)で、父は『早春賦』を作曲した中田章です。
作詞は、新潟県上越市生まれの詩人・江間 章子(1913-2005)です。それでは歌詞を読んでみましょう。
「夏の思い出」
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

大学時代には当時流行った「歌声喫茶店」などで、友人と一緒に何度も唄ったものです。
しかし尾瀬も水芭蕉も憧れのまま月日は流れ、あっという間に60歳を過ぎてしまいました。
その頃、少し人生に暇が出来たので国内の彼方此方を訪ねる旅に出るようになりました。
そうしたら北海道に行ったとき、はからずも水芭蕉の群落を見つけたのです。約50年近く強く憧れ続けていた水芭蕉の大群が眼前に忽然と現れたのです。
それは網走湖の出島という場所でした。レンタカーで網走湖の東岸を南下しながら、何の気もなく出島で右に折れ田舎道に入りました。そしたら網走湖に続く湿地帯に水芭蕉の一群が咲いていたのです。何十年と憧れていた水芭蕉に偶然会えたのですから感動しました。その風景を心に焼きつけました。
撮った写真を下に示します。
1番目の写真は北海道の網走湖の出島の水芭蕉の写真です。水芭蕉の花の奥に家内が立っています。

何年か後にこの場所を車で通りかかったのでまた田舎道に入って、車を停め、湿地帯に入って行きました。しかし季節が早すぎたので何もありません。雑木林の下に湿地が広がっているだけだったのです。しかし心に焼き付いていた風景を思い出しながらしばし散歩しました。
北海道の網走湖で偶然、水芭蕉の群落を見つけて以来、本州にもある筈となんとなく探していました。
そうしたら箱根の仙石原の湿性植物園にもあったのです。毎年、4月から5月にかけてかなりの数の水芭蕉が小川にそって咲いているのです。
そして水芭蕉の群落は尾瀬でも見つけました。
鳩待峠までバスで登り、登山道を下りて行くと尾瀬に1時間くらいで着きます。そこから木道を歩いていきました。確かに尾瀬は別天地でした。

2番目の写真は尾瀬の風景です。写真はインターンットからお借りしました。

3番目の写真は尾瀬の木道の周囲に咲ている花々です。キスゲとショウブです。インターンットからお借りしました。

4番目の写真はキスゲの拡大写真です。インターンットからお借りしました。

これで「夏の思い出」という歌の流行以来、50年以上も憧れていた尾瀬も水芭蕉も見てしまったのです。何故か人生も完成に近づいたような気分がなりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「初夏。時々思い出す戦争のこと」

2024年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
五月です。良い季節です。そんな季節でも私は時々戦争のことを思い出します。一面に焼け野原になった仙台の風景を思い出します。
79年前の8月15日は日本が無条件降伏しました。人にはそれぞれの思い出があります。私も時々終戦直後のことをいろいろ思い出します。
私は男3人の兄弟の長男でした。その3人だけで宮城県北部の農村に疎開してました。7月10日の空襲で仙台が焼け野原になった後に疎開したのです。
今でも時々自分が聞いた玉音放送を思い出します。真夏の太陽が照りつける田舎の国民学校の校庭で聞きました。
雑音が大きくてよく聞き取れませんでしたが、敗戦を告げる昭和天皇の悲しそうな声が途切れ途切れに聞こえました。先生が敗戦だから今日は家に帰れと言います。
田圃のあぜ道をつたい歩きしながら疎開先の農家に帰りました。その夜はドジョウがいっぱい入ったスイトン汁がでました。これが79年前の私の終戦の日でした。
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、終戦の日が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。
7月10日の故郷の仙台の大空襲の真っ赤な炎、一面の焼け野原の光景は心に焼き付いています。そして戦後の疲弊しきった日本、殺伐とした社会、食糧難の戦後、それらは忘れようとしても忘れられません。
 
今でも時々第二次世界大戦のことを考えます。そしてこの平和な状態に感謝します。この平和が永遠に続くように祈ります。

今日の写真は終戦直後の風景です。写真は、「終戦直後の風景写真」を検索してインターネットにある数多くの写真から選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)