後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「インド人のフェルナンデス君の思い出」

2024年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アジアと西洋の間にインドがある。行ったことはないが、アメリカやドイツで会ったインド人は皆例外なく親切で、私の面倒をよくみてくれた。宗教はヒンズー教が多い。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれる。

1969年秋、ドイツのローテンブルグでのこと。私は34歳。カトリック教会へ連れて行ってくれたインド人フェルナンデス君は22歳。中世風のカトリック教会で3ケ月間、毎日曜日ミサへ連れて行ってくれた。ミサの後は決まって傍のレストランでチキンの空揚げの昼食をとり別れた。宗教談義はしない。ただ「ヨーロッパを車で観光するときには、村々の教会へ入り、お祈りしなさい。ヨーロッパ人の宗教が理解できますよ」と言った。彼はカトリック教徒であった。

まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真とをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。
ローテンブルグを離れた私はシュツッツガルト市へ引っ越しました。その後、家族が合流した。週末には南ドイツやスイスへ車で遊びに行くようになった。村々の中心には広場があり、カトリック教会と新教のエバンジュリッシュ教会が向かい合っている。教会に静かに入り、お祈りして小銭を献金箱に入れて出てくる。フランスでもスウェーデンでも教会に寄った。有名な豪華な教会でなく、ひなびた小さい教会ほど味わい深い。出てくるわれわれを見る村人の目が微笑んでいる。旅をすると、外国人がなんとなく恐くて緊張する癖があった。しかし、教会に寄るようになってから緊張は一切消えてしまった。

そして時々フェルナンデス君を思い出すのです。

フェルナンデス君が興味津々で聞いた話は、江戸時代260年の禁教とそれに耐えた日本の隠れキリシタンのことでした。明治になり、フランスからやって来たプチジャン神父が浦上天主堂を建てた時、日本の信者が「私たちは神父さんが必ず戻ってくると260年間待っていました」と言ったという話もしました。

しかしフェルナンデス君とは一別以来会っていない。消息も分からない。ドイツ帰国した私は1971年に立川カトリック教会で塚本金明神父さんから洗礼を受けた。
インドにはザビエル神父の腕が保存してあり、カトリック信者の数も多いそうである。マザーテレサをインド人は宗教の違いを超えて熱烈に支援した。
あれから茫々50年、フェルナンデス君のことを今でも良く思い出す。善良な彼の顔を思い出します。

「一生の後半は幸せだった小泉八雲と『耳無しに芳一』」

2024年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
八雲の生涯は不遇な一生でしたが、セツという素晴らしい女性と結婚したお陰で最後の14年間は幸福になります。セツから聞き出した数々の怪談話を文学作品として英語で発表したのです。
しかしその文学作品が翻訳され日本で有名になったのは彼の死後10年以上経過した大正時代の末頃でした。平川 呈一などの名訳でさらに広く読まれるようになったのです。そのような悲しい、そして幸せな人生もあるのです。
以前に松江に行き彼の旧居と記念館を見てまわりました。
記念館を見て、その雰囲気に感動しました。記念館には家庭の愛が感じられたのです。どんなに八雲がセツや子供を愛したかがすぐに分かるように展示してあるのです。遺族が経営に参加し展示を受け持っているようです。
そこで小泉八雲の一生をかいつまんでご紹介しておきます。
ギリシャで生まれ父母の離婚で親類に引き取られ、その親類も倒産しラフカデオ(小泉八雲)はアメリカに渡ります。恵まれた文才で新聞社で働きます。間もなく黒人の女性と結婚し、その理由で新聞社を馘になります。でもその妻ともすぐに離婚。浪々の身で横浜に流れ着いたのが1890年です。松江の学校の英語教師の職を得ます。この不遇な男の人生を一転 明るい日々に変えたのが小泉セツという賢い女性です。情愛に満ちた女性です。小泉八雲と名前を変え帰化します。子供にも恵まれラフカデオは初めて幸福な家庭を持ちます。職場が変わり熊本、東京へと移り住みますがセツは子供と一緒に付いて行きます。1904年東京の自宅で狭心症で死にます。満54歳でした。戒名は正覚院殿淨華八雲居士で墓は東京の雑司ヶ谷墓地にあります。
小泉八雲の一生の前半は不遇でしたが後半は幸せでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====================
耳無しに芳一
赤間関にある阿弥陀寺に芳一という琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であった。
ある夜、住職の留守の時に、突然どこからともなく一人の武者が現われる。芳一はその武者に請われて「高貴なお方」の御殿に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよく分からなかったが、そこには多くの貴人(きじん)が集っているようであった。壇ノ浦合戦のくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると、皆、熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにつれて、皆、声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになるが、女中頭から「このことは他言しないように」と釘を刺された。
住職は、目の見えない芳一が無断で毎夜一人で出かけ、明け方に帰ってくることに気付いて不審に思い、寺男たちに後を着けさせた。すると、大雨の中、芳一は一人、誰もいない平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で、恐ろしいほど無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。驚愕した寺男たちは強引に芳一を連れ帰る。事実を聞かされ、住職に問い詰められた芳一は、とうとう事情を打ち明けた。芳一が貴人と思っていたのは、近ごろ頻繁に出没しているという平家一門の邪悪な怨霊であった。住職は、怨霊たちが邪魔をされたことで今や芳一の琵琶を聴くことだけでは満足せず、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。住職は自分がそばにいれば芳一を護ってやれるが、あいにく今夜は法事で芳一のそばに付いていてやることができない。寺男や小僧では怨霊に太刀打ちできないし、芳一を法事の席に連れていけば、怨霊をもその席に連れていってしまうかもしれず、檀家に迷惑をかけかねない。そこで住職は、怨霊の「お経が書かれている体の部分は透明に映って視認できない」という性質を知っていたので、怨霊が芳一を認識できないよう、寺の小僧とともに芳一の全身に般若心経を写経した。ただ、この時、耳(耳介)に写経し忘れたことに気が付かなかった。また、芳一に怨霊が何をしても絶対に無視して音を立てず動かないよう堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武者が芳一を迎えにきた。しかし、経文の書かれた芳一の体は怨霊である武者には見えない。呼ばれても芳一が返事をしないでいると、怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば…。」と、独り言を漏らす。怨霊は芳一の姿を探し回った挙句、写経し忘れた耳のみを暗闇の中に見つけ出した。「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳のほか、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、できる限り上様の仰せられたとおりにした証として、この耳を持ち帰るほかあるまい。」と怨霊はつぶやき、怪力でもって芳一の頭から耳をもぎ取った。それでも芳一は身動き一つせず、声を出さなかった。怨霊はそのまま去っていった。 明け方になって帰ってきた住職は、両の耳をちぎられ、血だらけになって意識を無くした芳一の様子に驚き、昨夜の一部始終を聞いた後、芳一の全身に般若心経を書き写いた際に納所が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに気付き、そのことを見落としてしまった自らの非を芳一に詫びた。
その後、芳一の前に平家の怨霊は二度と現れず、また、良い医師の手によって芳一の耳の傷もほどなくして癒えた。この不思議な出来事は世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。やがて、芳一は、琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたという。
1番目の写真は下関にある赤間神宮 の芳一堂です。

芳一堂は1957年(昭和32年)5月[21]に建立されました。堂内には、山崎朝雲の門下生で山口県防府市出身の彫刻家である押田政夫の木造の芳一坐像が奉納されています。
2番目の写真は芳一堂の左にある平家一門を供養する七盛塚です。
毎年7月15日には芳一堂と七盛塚の前で「耳なし芳一琵琶供養祭」が斎行されています。
七盛塚は、関ヶ原合戦(慶長5年/1600年)の頃、関門海峡で頻発した海難事故を「平家の怨霊が騒ぎ出した」と世間が騒いだので散在していた7基の墓標を、江戸時代になって阿弥陀寺の境内に集めたものです。

「日本人が忘れてしまった夜の暗さ、妖怪も怪談も消えて行く」

2024年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
山里の山林の中の小屋に以前は時々泊りました。でも最近はその元気もなくなりめったに行きません。時々思い出すのは漆黒の闇に包まれた森の奥の小屋に泊まったことです。周囲の木々が暗い森の中を歩き回るような恐怖を感じました。考えてみたらこんなにも暗い夜
に人魂が飛んでいるのを見たことがありました。そして「のっぺらぼう」や「かまいたち」や「おいてけぼり」が人間に悪さをする話もよく聞きました。半信半疑ながら熱心に聞いたものです。妖怪たちは身近にいたのです。
小泉八雲の怪談に出て来る「雪女」は雪国に本当にいると思い込んでいました。「耳無芳一の話」や「鳥取の蒲団」を読んではゾクゾクしたものです。
そのような私の楽しみが最近消えてしまっていたのです。街中に住んでいると暗闇の不気味さを忘れていました。
ところが暗い森の奥の山小屋に泊まると、その妖怪たちのことや怪談のことを思い出します。その小屋の周囲の風景や小屋の写真でご説明いたしましょう。 
1番目の写真は森の奥にある一軒家へ行く道の様子です。根気よく半里ほど上って行くとたどり着きます。
2番目の写真は夜のガーデン燈の光景です。手前の小川の流れに写ってユラユラ光っている様子は人魂が小川の上を飛んでいるように見えます。
3番目の写真は真夜中の森の光景です。風で木々がザワザワと音がします。木々が歩き回っているのでしょうか。このような小屋に泊まると夜が怖いのです。怖いものです。
しかし朝になって太陽の光が木々に射して、小鳥たちが啼きだすと生き返ったような喜びにつつまれます。
4番目の写真は朝の森の奥にある小屋です。左手前に写っている女性は幽霊ではありません。家内です。その家内のすぐ隣に写っている電灯はガーデン燈ですが、夜になると2番目の写真のように人魂のように見えます。
日が昇るとハルゼミも鳴き出します。子連れのサルの一群が小屋の前を横切っていきます。暗かった森に命の営みが溢れます。
その小屋の周囲の風景を写真でご説明いたしましょう。
 
5番目の写真は山里に広がる草原の風景です。この草原の端が森になっていて私の小屋はその森深い暗い谷間にあります。

 6番目の写真は私の小屋から登ったところの風景です。広い牧場の向こうに甲斐駒岳がみえます。

本棚から小泉八雲の怪談集を取り出して読みました。「雪女」の粗筋だけをお送りいたします。

ある山村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3 より)
このような怪談の世界や妖怪文化は今や消えようとしています。しかし最近、水木しげるさんがそれを復活させました。喜ばしいことです。

それにしても夜はやっぱり暗い方が人間の生活に深味を与えてくれるような気が致します。陰影が深いほど人間の幸せを光り輝せてくれると思います。

月夜も星空も美しいものですが、雲が覆い漆黒の夜も人間にとっては重要ななものと信じています。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===もう一つ、「鳥取のふとん」=======
鳥取の町に小さな宿屋が開業し、1人の旅商人の男が初めての客として泊まった。ところが、深夜ふとんの中から「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」という子どもの声が聞こえてくるのに目を覚まし、幽霊だと主人に訴えた。主人はそんな話を相手にしなかったが、その後も宿泊客があるたびに同じような怪異が続き、とうとう宿屋の主人もふとんがしゃべる声を聞いた。主人がその原因を調べようとふとんの購入先を当たってみると、次のような悲しい話が明らかになった。
そのふとんは、元は鳥取の町はずれにある小さな貸屋の家主のものだった。その貸屋には、貧しい夫婦と2人の小さな男の子の家族が住んでいたが、夫婦は子どもを残して相次いで死んでしまった。2人の兄弟は家財道具や両親の残した着物を売り払いながら何とか暮らしてきたが、ついに1枚の薄いふとんを残して売るものがなくなってしまった。大寒の日、兄弟はふとんにくるまり、「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主がやってきて家賃の代わりにふとんを奪い取り、兄弟を雪の中に追い出してしまった。かわいそうな兄弟は行くあてもなく、少しでも雪をしのごうと、追い出された家の軒先に入って2人で抱き合いながら眠ってしまった。神様は2人の体に新しい真っ白なふとんをかけておやりになった。もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後に2人は見つかり、千手観音堂の墓地に葬られた。
この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、ふとんを寺に持って行き、かわいそうな2人の兄弟を供養してもらった。それからというもの、ふとんがものをしゃべることはなくなったという。