後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「仙台の広瀬川」

2024年05月18日 | 写真

広瀬川は仙台市のシンボルとして親しまれている川です。『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われています。

中流では仙台市の西縁から南縁を経て東へ流れています。両岸には自然が多く残され、初夏の釣り、秋の芋煮会など市民がレジャーを行うことも多い川です。仙台七夕花火祭や広瀬川灯籠流しなど祭りの会場にもなっています。

上流には紅葉の名所の作並温泉があります。宮城県と山形県の境にある関山峠付近が源になっています。全長は45Kmの一級河川です。

江戸時代に伊達氏が居城にした仙台城は、広瀬川中流の右岸にある青葉山に築かれ、川を第一線の守りにしていました。

幕末に広瀬川中流域で亜炭が発見されて以降、家庭で亜炭が広く使われてきました。しかし亜炭採掘は1950年代に終わりました。

江戸時代には、広瀬川は上流から流れる場所の地名をとって様々な名で呼ばれました。作並川、熊ヶ根川、愛子川、仙台川、長町川などです。

愛宕橋の川下にある愛宕堰からは、下流左岸の七郷堀六郷堀を流れる農業用水が取り入れられています。これにより、左岸の仙台平野の灌漑がなされた。さらに下流にある郡山堰からは、右岸の名取郡域に用水が取り入れられてます。

水質は最近回復し、最近では釣り人もよく見かけます。1996年平成8年)に環境庁は「残したい日本の音風景100選に「広瀬川のカジカガエルと野鳥」を選びました。

特にカジカガエルの鳴き声は美しく私の耳に今でも鮮明に残っています。

写真はお霊屋橋と広瀬川です。

写真と文章の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%B7%9D_(%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C)#%E6%AD%B4%E5%8F%B2🄱bです。


「広瀬川」

2024年05月18日 | ブログ

広瀬川は仙台市のシンボルとして親しまれている川です。『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われています。

中流では仙台市の西縁から南縁を経て東へ流れています。両岸には自然が多く残され、初夏の釣り、秋の芋煮会など市民がレジャーを行うことも多い川です。仙台七夕花火祭や広瀬川灯籠流しなど祭りの会場にもなっています。

上流には紅葉の名所の作並温泉があります。宮城県仙台市青葉区作並の山形県境にある関山峠付近に源になっています。全長は45Kmの一級河川です。

江戸時代に伊達氏が居城にした仙台城は、広瀬川中流の右岸にある青葉山に築かれ、川を第一線の守りにしていました。

幕末に広瀬川中流域で亜炭が発見されて以降、家庭で亜炭が広く使われてきました。しかし亜炭採掘は1950年代に終わりました。

江戸時代には、広瀬川は上流から流れる場所の地名をとって様々な名で呼ばれました。作並川、熊ヶ根川、愛子川、仙台川、長町川などです。

愛宕橋の川下にある愛宕堰からは、下流左岸の七郷堀六郷堀を流れる農業用水が取り入れられています。これにより、左岸の仙台平野の灌漑がなされた。さらに下流にある郡山堰からは、右岸の名取郡域に用水が取り入れられてます。

水質は回復し、最近では釣り人もよく見かけます。1996年平成8年)に環境庁は「残したい日本の音風景100選に「広瀬川のカジカガエルと野鳥」を選びました。

特にカジカガエルの鳴き声は美しく私の耳に今でも鮮明に残っています。

写真はお霊屋橋と広瀬川です。

 

 


「川物語(1)故郷、仙台の広瀬川にまつわる思い出」

2024年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日まで日本の美しい湖を沢山ご紹介しました。北海道の摩周湖から九州の池田湖まで丁寧にご紹介しました。

今日からは「川物語」として数々の川にまつわる思い出を書き進めたいと想います。第一回の今日は故郷の仙台の広瀬川にまつわるいろいろな思い出です。

いろいろありますが、広瀬川の川下りから始めます。

仙台には青葉城跡があります。そばの経ケ峰の上には伊達政宗の霊廟があります。その青葉城跡の下には戦前の第二師団の軍隊の兵舎が並んでいました。そしてそばの広瀬川の岸辺に上陸用舟艇が15隻ほど放置されていたのです。

1番目の写真は上陸用舟艇での川下りをした場所です。上陸用舟艇はここから500メートル位上流の第二師団跡の河原に放置してありました。今日の写真の5枚はすべてインターンットからお借りしました。
上陸用舟艇は折り畳んであったので両方の側面を起こして棒で支えて乗り込みます。あとは持参して行った竿で上陸用舟艇が浅瀬に座礁しないように方向を変えながら川下りをするのです。
一番遠くまで川下りをしたのは愛宕山の下まででした。重い上陸用舟艇は何度も座礁するのでした。

2番目の写真は愛宕山の下の広瀬川です。

敗戦直後のドサクサだったで私が勝手に上陸用舟艇を持ち出しても誰も咎めませんでした。

広瀬川の上流は作並温泉の脇を流れておりました。何度も作並温泉に行く度に広瀬川の上流で泳ぎました。

3番目の写真は作並温泉とその脇を流れる広瀬川の上流です。風呂場から広瀬川の上流へ下りて行って何度も泳いだのです。

4番目の写真は作並温泉の脇を流れる広瀬川の上流です。

この広瀬川では中流でも何度も泳ぎました。中流とは鹿落坂の下です。当時の自分の家から近かったのです。

また広瀬川には鮭が遡って来ました。

5番目の写真は広瀬川へ遡って来た鮭です。

我が故郷の広瀬川にはいろいろな思い出が沢山あります。懐かしい川です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)