後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「壊れた零戦、ナマズ、トマト畑と寝転がる馬」

2024年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年に仙台がB29の空襲で焼野原になった後で田舎に疎開しました。その農村の生活は都会とは違って面白いものです。その思い出を4つ書きます。
(1)河原に不時着した零戦に登って遊ぶ。
終戦後一刻の早く故郷に帰りたい零戦の操縦士が郷里の実家の近くの河原に不時着したのです。考えは良かったのですが凸凹の河原で機体が大破しました。我々悪童連は操縦席に入り込み遊んだのです。その上風防のガラスを割り破片を持ち帰りました。そのガラス片はこするとバナナの香りがしました。食糧難の当時ばバナナの香りで幸福になったものです。
すべての写真はインターネットからお借りしました。
1番目の写真は零戦です。
(2)ナマズを泥川で捕って食べる。
零戦が不時着したのは泥の川の河川敷でした。その川で我々は竹竿に糸をつけて大きなミミズを餌にしてナマズを釣りました。

2番目の写真はナマズです。こんなナマズが2匹釣れたのです。ナマズは煮て食べました。白身で上品な味でした。
(3)トマト畑に入って好きなだけ食べる。
疎開先きの農家は広いトマト畑を持っていました。いつも飢えていた私はトマト畑に入ってあきるまでトマトを食べました。それを見た農家の人は笑っていいました。「仙台の食糧難はひどいものですね」と。

3番目の写真は広いトマト畑です。

(4)馬が寝転がって面白い動きをする。
仙台では通りに馬がいつも立っています。私は馬が寝転がるとは知りませんでした。ところが馬小屋では馬は坐ったり寝転がるのです。
その上ゴロゴロ転がったりするのです。
4番目の写真は農家の庭で座り込んでしまった馬です。
農村の生活は都会とは違って面白いものがこの他にもいろいろありましたが今日はこれでお終いにします。

「鰻のかば焼き」

2024年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸前とはうなぎから生まれた言葉であり、大川(今の隅田川)河口付近で獲れた鰻を江戸前鰻と称していたことがはじまりです。
江戸前「鰻のかば焼き」は、生きた鰻を割いて串打ちにし、白焼きにして蒸したものにたれをつけて焼く。関東と関西では、調理法が異なり、関東では、鰻を背開きにして骨、内臓を取り、串に刺して白焼きにし、蒸す。そして、炭火でたれをつけながら焼きあげる。関西では、蒸さずに焼きあげる。腹開きにすることで、蒸しても串から落ちずに焼くことが出来る。
名前の由来には、鰻をぶつ切りにした鰻を、竹串に刺して焼いたものが蒲(がま)の穂に似ていることからという説、焼き上がった際の色や形が「樺の木」に似ているからとする説、いい香りが早く鼻に入るという意味の「香疾(かばや)」が転じたとする説など、諸説ある。
味つけは醤油の普及とともに、塩から醤油をかけて焼くことが主流となる。その後、醤油、砂糖、みりんを用いたたれを使うようになったことで、鰻のかば焼きは大流行し、江戸っ子たちに愛される料理となった。鰻は万葉集の大伴家持の有名な一首からも栄養価が高いことが知られており、夏バテに良いと言われ、土用の丑の日に食べる慣習が江戸時代に行われている。この始まりは、平賀源内の発案という説が有名である。 
現代では、土用の丑の日に鰻を食す習慣があるが、本来は冬に向けて脂が乗る秋が旬とされている。脂が乗ると、鰻は黄色みを帯びるようになり、鰻の語源といわれる「胸黄(むなぎ)」に通じる。 
夏バテをしないよう滋養強壮の観点から、土用の丑の日には鰻屋をはじめ、スーパーやコンビニエンスストアなどで大々的に販売され、多くの人が家庭や飲食店で食べている。 

以上は、https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/34_24_tokyo.html から抜粋致しました。


「泥鰌はどんな魚?」

2024年05月13日 | うんちく・小ネタ

泥鰌はコイ目ドジョウ科の淡水魚です。小川や田などにすみ、冬は泥に潜ります。全長約20センチにもなり、体は細長い筒形で尾部は側扁し、背側は緑褐色、腹側は淡黄褐色で、口ひげは五対です。うろこは細かく、厚い粘液層で覆われ、補助的に腸呼吸を行います。柳川鍋やどじょう汁などにして食べます。
分布:
日本列島(伊豆・小笠原諸島、琉球列島を除く)、朝鮮半島、アムール川、中国中南部からベトナム北部、台湾、海南島。移植として、ヨーロッパ、北アメリカ、北海道などです。
雑食性で、ユスリカの幼虫、イトミミズなどを主に摂食する。主に用水路や田などに生息しており、冬に水温約7℃を下回ると、泥の中で冬眠を始める。
口ひげは上顎に3対下顎2対で合計10本ある。
このひげには味蕾(みらい)があり、食物を探すのに使われる。えらで呼吸するほか、水中の酸素が不足すると、水面まで上がってきて空気を吸い肛門から排出する、腸呼吸も行うが、腸呼吸は補助的な酸素取り込み手段であり腸呼吸だけでは生存のための必要量を摂取できず死亡する。
 条件が良ければ1年で成熟し、水田域での寿命は1 - 2年と考えられている。山間の池沼などでは、より長寿と考えられる大型の個体もみられる。

 ドジョウは水田に多く見られ、古くから農村地帯で食用に用いられていた。江戸時代から戦前にかけては東京郊外の水田でいくらでも獲れ、低湿地で水田が多かった東京の北東部地域の郷土料理となっている。 

以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A6#%E6%96%87%E5%8C%96 から抜粋致しました。

「疎開生活とドジョウ汁の思い出」

2024年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
生まれ育った仙台は終戦直前の7月10日に焼け野原になってしまいました。100機のB29が焼夷弾をばらまいて焼け尽くしました。その後すぐに私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べ食べました。農家の夕飯によく出たのです。
散歩する度にそんなことを時々思い出します。武蔵野公園の「どじょう池」の傍を通る度に思い出すのです。
1番目の写真は武蔵野公園の「どじょう池」です。
2番目の写真は「どじょう池」の看板です。
この付近は湿地帯でや沼が沢山あります。そこにはドジョウが沢山棲んでいます。昔からこの地の人々がそのドジョウを食べていたのです。
この「どじょう池」を見る度に私は昔の疎開生活を思い出します。そしてよく食べたドジョウ汁を思い出します。
3番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家で馬を飼っていました。珍しいので草をよく食べさせました。
4番目の写真は大鍋がぶら下がった囲炉裏の写真です。。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家では朝と昼の2食には白米が出ました。夜は囲炉裏の大鍋でスイトンを煮て食べました。皆で車座になってスイトンを食べるのです。その時水田の水路で取ったドジョウをたくさん入れるのです。濃厚なドジョウ汁です。ドジョウには脂がのっていて芳醇な味わいです。
食糧難の仙台から疎開したのでドジョウ汁は大変美味しいご馳走でした。感動的な食べ物でした。
その感動は忘れられません。それから暫くして東京に住むようになりました。そうしたら東京にドジョウの専門店があったのです。浅草の「駒形どぜう」です。

5番目の写真は浅草の「駒形どぜう」の本店です。写真はインターネットからお借りしました。
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は埼玉県北葛飾の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。それが現在の「駒形どぜう」の本店になったのです。
「駒形どぜう」で疎開先の農家で食べたドジョウの美味しさを思い出して浅草の「駒形どぜう」の本店に家内と一緒に行きました。
6番目の写真は「駒形どぜう」の丸どじょぅ鍋です。
7番目の写真は「駒形どぜう」の柳川鍋です。
「駒形どぜう」のドジョウは淡白で泥臭くないのです。妻は初めてドジョウを食べましたが泥臭くないので美味しいと言います。しかし私は少し泥臭い芳醇な味が忘れられません。疎開した農家で食べた味が忘れられません。

今日は泥鰌にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)