不正確なものと正確なものとがあったとしよう。例えば、物差しでも、秤(はかり)でも、あるいはニュースや教科書でも何でもよい、このどちらを選ぶと言われたら、誰でも躊躇なく「正確なもの」を選ぶだろう。しかし、いつもいつも正確なものがよい、あるいは物事の本質を表わすとは限らない。
たとえば、絵画の一つの形態にカリカチュアというものがある。人の特徴を捕えて、多少誇張気味に描くことで、写実的に描くものより一層、その人をよく写すことができる。実際に、下記の絵を見ると私のいう意味がお分かり頂けるだろう。
【出典】カリカチュア・ジャパン株式会社(Kageさんの作品)
絵だけでなく、地図にも正確なものと不正確なものとがある。例えばイラストマップでは、距離や方角は正しくはないが、初めての土地を観光する際には観光スポットなどをすぐに見つけることができ、正確な地図よりずっと役立つ。しかし、イラストマップで土地の売買をする人はいないだろう。つまり、正確な地図とイラストマップはそもそも目的が異なるのだ。ざっくりと全体を見渡すには、おおざっぱで多少不正確でも、イラストマップの方が、正確な地図よりずっと良いという事だ。
ところで、私はリベラルアーツに関する講演や企業研修を引き受けることが多いが、その時に歴史的なことも含め、いろいろなテーマについて話すが、この時に心がけていることがある。それは聴講者が『文化のイラストマップ』を頭の中に描くことができるように話すことである。
例えば、高校の歴史の授業を思い出して欲しい。歴史といえば、必ず年号や人名、戦争や条約などについて、実に多くのことを記憶したことだろう。それもあやふやなな記憶ではだめで、正確にきちっと記憶することが求められた。その結果、詳細なことがらは記憶したものの、全体的な意義(例えば、ルネッサンス、宗教改革、モンゴル帝国)などはまるっきり分らず仕舞い、あるいは考えたこともないまま終わっていたのではないだろうか。部分部分は完璧でも、それを組み立てることができない出来そこないのレゴのようだ。
高校の歴史教育のこの不自然さは、記憶するのはすべて大学受験のためという歪曲された目的意識によるものだが、高校を卒業したあとでも、「歴史とはこのような年号、人名などの詳細の正確さにこだわることだ」との考えから脱却できていない人がいる。残念ながら、この点においては、日本人の几帳面さが逆に裏目に出ている。
学生のころ、おぼろげながら上記に述べた高校教育の欠陥に気づいていたものの、方法論的にはどうすればよいか、確たる考えがもてなかった。しかし、今、確実に言えるようになった。それは、リベラルアーツの観点から世界各地の文化を包括的に俯瞰した場合、細部の正確さに拘らず、多少不正確やデフォルメでもいいから『文化のイラストマップ』というビッグピクチャー(big picture)を自分なりに描くことが重要だということだ。
その為には、本を読むときには年号や人名などを覚えようとせず、物事の歴史的意義を考えるという方向に意識を向けることだ。そして多元的に見ることだ。歴史的事実とは、単に政治経済、戦争だけでなく、生活そのものである。従って、その時代感覚(『手触りのある歴史観』 『手ざわりのある歴史観』)を得るために、生活誌的観点の本(例:『生活の世界歴史』 河出書房新社)を読むことを勧めたい。
本来的に歴史というのは、過去の人たちの生活を記したものだという観点に立てば、全ての事柄は当時の人々の生活と密接な関連をもっているというのは、口にするのもバカらしいほど当たり前のことである。私は常々、「リベラルアーツとは文化のコアをつかむことだ。そこから、自分なりの世界観と人生観を作りあげることだ」と述べているが、文化のコアをつかむためには当時の人々の生活を基軸としてさまざまな社会現象 ― 政治、経済、貿易、科学、技術、芸術、工芸、風俗、など ― を総合的・多面的にとらえることだ。こういった観点で、歴史を学び直すことは社会人にとって非常に意義のあることであろう。そのためには、まずは大学入試に出てくるような歴史的な枝葉末節に拘泥する「几帳面な日本人」を一度止めてみてはどうだろうか?
たとえば、絵画の一つの形態にカリカチュアというものがある。人の特徴を捕えて、多少誇張気味に描くことで、写実的に描くものより一層、その人をよく写すことができる。実際に、下記の絵を見ると私のいう意味がお分かり頂けるだろう。
【出典】カリカチュア・ジャパン株式会社(Kageさんの作品)
絵だけでなく、地図にも正確なものと不正確なものとがある。例えばイラストマップでは、距離や方角は正しくはないが、初めての土地を観光する際には観光スポットなどをすぐに見つけることができ、正確な地図よりずっと役立つ。しかし、イラストマップで土地の売買をする人はいないだろう。つまり、正確な地図とイラストマップはそもそも目的が異なるのだ。ざっくりと全体を見渡すには、おおざっぱで多少不正確でも、イラストマップの方が、正確な地図よりずっと良いという事だ。
ところで、私はリベラルアーツに関する講演や企業研修を引き受けることが多いが、その時に歴史的なことも含め、いろいろなテーマについて話すが、この時に心がけていることがある。それは聴講者が『文化のイラストマップ』を頭の中に描くことができるように話すことである。
例えば、高校の歴史の授業を思い出して欲しい。歴史といえば、必ず年号や人名、戦争や条約などについて、実に多くのことを記憶したことだろう。それもあやふやなな記憶ではだめで、正確にきちっと記憶することが求められた。その結果、詳細なことがらは記憶したものの、全体的な意義(例えば、ルネッサンス、宗教改革、モンゴル帝国)などはまるっきり分らず仕舞い、あるいは考えたこともないまま終わっていたのではないだろうか。部分部分は完璧でも、それを組み立てることができない出来そこないのレゴのようだ。
高校の歴史教育のこの不自然さは、記憶するのはすべて大学受験のためという歪曲された目的意識によるものだが、高校を卒業したあとでも、「歴史とはこのような年号、人名などの詳細の正確さにこだわることだ」との考えから脱却できていない人がいる。残念ながら、この点においては、日本人の几帳面さが逆に裏目に出ている。
学生のころ、おぼろげながら上記に述べた高校教育の欠陥に気づいていたものの、方法論的にはどうすればよいか、確たる考えがもてなかった。しかし、今、確実に言えるようになった。それは、リベラルアーツの観点から世界各地の文化を包括的に俯瞰した場合、細部の正確さに拘らず、多少不正確やデフォルメでもいいから『文化のイラストマップ』というビッグピクチャー(big picture)を自分なりに描くことが重要だということだ。
その為には、本を読むときには年号や人名などを覚えようとせず、物事の歴史的意義を考えるという方向に意識を向けることだ。そして多元的に見ることだ。歴史的事実とは、単に政治経済、戦争だけでなく、生活そのものである。従って、その時代感覚(『手触りのある歴史観』 『手ざわりのある歴史観』)を得るために、生活誌的観点の本(例:『生活の世界歴史』 河出書房新社)を読むことを勧めたい。
本来的に歴史というのは、過去の人たちの生活を記したものだという観点に立てば、全ての事柄は当時の人々の生活と密接な関連をもっているというのは、口にするのもバカらしいほど当たり前のことである。私は常々、「リベラルアーツとは文化のコアをつかむことだ。そこから、自分なりの世界観と人生観を作りあげることだ」と述べているが、文化のコアをつかむためには当時の人々の生活を基軸としてさまざまな社会現象 ― 政治、経済、貿易、科学、技術、芸術、工芸、風俗、など ― を総合的・多面的にとらえることだ。こういった観点で、歴史を学び直すことは社会人にとって非常に意義のあることであろう。そのためには、まずは大学入試に出てくるような歴史的な枝葉末節に拘泥する「几帳面な日本人」を一度止めてみてはどうだろうか?
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