限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第241回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その29)』

2014-07-06 20:35:34 | 日記
前回

 『TOEIC英語ではなく、多言語の語学を(12)』

【2.古典ギリシャ語・ラテン語の語彙と文体(その2)】

ギリシャ語の単語は非常に系統だっている。日本語との比較で考えてみよう。

色について言えば、日本語では青い、赤い、白い、黒い、とは言うが、緑い、紫い、橙い、黄い、とは言わない。同じく、色の形容詞から名詞形を作る時、青さ、赤さ、白さ、黒さ、とは言うが、緑さ、紫さ、橙さ、黄さ、とは言わない。明らかに色に関する単語に、大和ことばオリジンのものと、中国からの輸入物の2系統が存在することが分かる(後者の色のセットが中国からの輸入物)。これから、中国からの文化が日本に流入する前の日本人は後者の色は前者のどれかに属すると考えていたと推測できる。虹の色も普通は七色と言われているが、歴史的や地域的にかなり差があるようだ。
 (参照:Wikipedia 虹)

印欧語は接辞(affix)、具体的には接頭辞(prefix)や接尾辞(suffix)、が非常に充実している。英語でもそうだが一つの単語にいろいろな接頭辞(例:A-head, DIS-like, UN-happy)や接尾辞(例:friend-SHIP, fool-ISH, gold-EN)をつけることで、元の単語と関連した単語が多数つくられる。

ギリシャ語にもこれらの接辞は多い。英語と異なる点は全て接辞がギリシャ語本来の単語であるということだ。というのは、英語の接辞にはギリシャ語やラテン語由来のものが多いからだ。
 ○ギリシャ語由来 -- BI-cycle, DIA-meter, MONO-poly, bio-LOGY,hero-ISM,
 ○ラテン語由来 -- MULTI-plex, OB-ject, SUB-ject, signi-FY,dilig-ENCE...


数が豊富である点もさることながら、感心するのは、その意味区分が明確であったことだ。例えば、ギリシャ語の文法書で定評の "Greek Grammar" (H. Smyth, revised by G. Messing, ISBN: 978-0674362505)には接尾辞に関して20ページにもわたって説明が延々と続く。ギリシャ語は、接辞だけでなく、分詞の種類も豊富であることは以前のブログ
 沂風詠録:(第236回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その24)』
で述べた。

かつて、東大名誉教授で高津春繁という西洋古典語学者がいた。古典ギリシャ語だけでなくラテン語、サンスクリット語をはじめ広く印欧語に精通していた。『古典ギリシア』(筑摩叢書)で、ギリシャ語とラテン語を比較して(第二章、P.124)
 『ギリシャ語は柔軟であるが、ラテン語は堅苦しい』
というような感慨を述べていた。私がまだギリシャ語やラテン語を知らない時にこの文を読んだ時は、まったく意味が分からなかったが、現在、ある程度この2つの古典語が理解できるようになってみると、高津氏の指摘がよく理解できる。この差の一つの原因は冠詞のあり/なしに起因すると思われる。(ギリシャ語には定冠詞があるが、不定冠詞はない。一方、ラテン語には冠詞は一切ない。つまり冠詞にだけ限定して言うとラテン語は日本語と同類なのだ!)ギリシャ語の定冠詞は英語のように単に名詞だけに付くのではなく、文全体をあたかも一つの語句のように付けることさえ可能である。また(ドイツ語にも見られるが)動詞や形容詞に定冠詞を付けることで抽象名詞を作ることが可能である。つまり、冒頭で述べたような日本語の色の形容詞にみられるような不具合が全く存在しないということだ。

具体的にギリシャ語の柔軟性を示す例を挙げてみよう。

『過去・現在・未来』を大和言葉で表すと『むかし・いま・これから』というようになるが、なんだか統一がない。英語では『past・ present・future』というが、これらの3つの単語は英語本来の単語ではなく、全てラテン語由来の単語、つまりカタカナ英語である。それはフランス語の単語『passé・présent・futur/avenir』と比較するとよく分かる。つまり、これら3つの英単語はフランス語からのパクリであるのだ。(これだけでなく英単語の半分は何らかの関係でフランス語と関連がある。)

一方、ゲルマン語のドイツ語では『Vergangenheit・Gegenwart・Zukunft』とかなりゴツイ単語である。しかし、見かけはゴツくとも、中味を吟味するとかなり合理的な単語であることは分る。

Vergangenheit(過去)-- ver-gehenの完了形 + heit(名詞化の接尾辞)。ここで ver- という(非分離動詞の)前綴は『去ってしまう』というニュアンスである。gehen は英語の go。この事から、 Vergangenheitとは『去ってしまったこと』という意味だと合理的に理解できる。

Gegenwart(現在)-- gegen-wartの gegen- とは『向かって』とか『反対に』という意味(英語:towards, contrary to)。-wart は『の方角へ』という意味(英語:-ward)元は、空間的に『物に面と向かっている』という意味であったが、 18世紀以降時間的な意味に変化した。(cf. Hermann Paul, "Deutsches Worterbuch")

Zukunft(未来)-- zu-kunftの zu- とは『付いて』という意味(英語:to)。 kunft とは kommen (英:come) の名詞形。つまり Zukunft とは文字通り『来ること』となる。ただ、この語はラテン語の adventus(近寄ってくること)をドイツ語に訳したものだと Paul は説く。

ところで、これらのドイツ語を見て分るように、ドイツ語の単語(特に抽象性の高い単語)には人工的に作られたものがかなりあることが分かる。日本語で言えば、明治初期に西洋語からの翻訳のため、数多くの和製漢語(例:民権、立憲、共和国)が作られた過程と似ている。

ギリシャ語の『過去・現在・未来』の単語はドイツ語のものと同じ発想の単語である。(参照: Plato, Laches, 198B)

τα γεγοντα(ta gegonta, 過去)-- ta は定冠詞(中性複数)、 gegonta は gignomai(生じる、発生する、happen)の完了分詞。つまり『起きてしまったこと』という意味となる。

τα παροντα(ta paronta, 現在)-- ta は定冠詞(中性複数)、 paronta は para+eimi(para=横に、eimi=存在する)の現在分詞。つまり『今、身の回りに起きていること』という意味となる。

το μελλον(to mellon, 未来)-- to は定冠詞(中性単数)、 mellow(~をしようとする、about to do)の現在完了分詞。つまり『為るであろうこと』という意味となる。あるいは、複数形の τα μελλοντα もある。また別に gignomai の未来分詞から作られた το γενεσομενον(to genesomenon)という単語も『未来』という意味を持つ。

このように、ギリシャ語は分詞が豊富であり、その特性をうまく活かし、定冠詞をつけることで新しい概念を表わす抽象名詞を次々と自由自在に作って思想を盛り込んだため、ギリシャ語の哲学書や科学書は基本単語を知っているだけで、極めて容易に理解できる。この点、やたらと『難解な漢語と晦渋な文体』を並べ立てる日本語の哲学書とは大いに異なるなる。



ところで、ショーペンハウアーが『余録と補遺』(Parerga und Paralipomena)のどこかで『近代ヨーロッパ言語の中で唯一ドイツ語だけが、ギリシャ語とラテン語という2つの古典語と肩を並べることができる』という意味のことを述べていた。 20代の頃にこの部分をはじめて読んだときは、私自身がまだギリシャ語もラテン語も知らなかったので、「やれやれ、またもや、ショーペンハウアーのドイツ語が優秀だとの自慢がはじまったわい」と思ったが、その言い回しが妙に気にかかった。
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【付記】『読書について』(岩波文庫)斎藤忍随・訳(昭和49年版)

P.73 ドイツ語はギリシア語やラテン語にもほとんど劣らないほどの立派な文章を作り出す唯一の言語である。ドイツ語以外の主な現代ヨーロッパ語はこの二つの古典語の方言にすぎない。

P.75 。。。しかし、比較的、理想的な原始言語に近い言語では、句読法をゆるがせにするわけには行かない。なぜなら、複雑な学問的文法組織をそなえていて、いっそう技巧的な文章を可能にするのが、このような言語の特徴だからである。ギリシア語、ラテン語、ドイツ語はこのような言語なのである。

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その後、ラテン語に続いてギリシャ語を独習するようになって(After Twenty Years)ようやくショーペンハウアーの言っている意味が理解できるようになった。それは、彼の個人的な愛国主義的感想というのではなく、事実そうだということが分かった。つまり、近代ヨーロッパ言語のほとんどは格変化を喪失しているが、ドイツ語(と、ロシア語)はヨーロッパ祖語が持っていた複雑な格変化の名残を留めている。それが為、古典語のふくよかな文体をまねることができるのだ。

以上のことから『ギリシャ語とラテン語を学ぶ露払い、あるいは前座としてだけでもドイツ語は学ぶに値する』と私は思っているのだが。。。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第198回目)『リベラルアーツとしての哲学(その10)』

 百論簇出:(第90回目)『稀代の幻学者、西田幾多郎(その2)』

続く。。。
コメント
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