ユダヤ教やキリスト教では人類は万物の霊長であり、世界の全ての生物を支配する権能を神から与えられていると考えていて、動物のような性質を獣性(the beast)と言って卑しめている。また中国の古典では、人の言動を極端に卑しめる時に必ず『禽獸の行い』であるとか、『禽獣のごとし』という文句を用いる。私は人間が動物より優れているとか尊い存在である、という考えには常々大いに疑問を感じている。
例えば、禁欲について考えてみよう。
中東とインド(人種でいうとハム・セム族とアーリア人)の宗教は禁欲についての異常なまでの高い評価を与えている。一言で言えば、性欲を我慢できるのは非常に崇高な人である、従って妻帯せず独身でいることは尊敬に価する、という。
私の考えでは、これらの民族は『禁欲』と『性の享楽への耽溺』のこの2つの考えの間で、勝手に悩んでいたように感じる。それが、原罪というありもしない妄想を信じこむに至った理由ではないかと想像する。さらに言うと(科学的根拠のない虚言を許してもらえば)セム族やアーリア人は、我々日本人以上に強い性欲がありそのコントロールに困り抜いていたのではないかと想像する。それで、ユダヤ人の唱える『原罪妄想』と、その対極にある、『性欲の遮断を崇高視する』思想に古代のヨーロッパ人は共感を覚えたのではないかと想像する。
幸運なことに、日本人には、『性欲の遮断』を全く神聖視しないという健全な常識が古来からあった。それで我々はアーリア人種のように原罪という妄想に悩まされなくて済んでいるのだ。(智慧ある先祖に感謝、感謝!)
さらに、もし彼らのいうように禁欲するのがそれほど神の意にかなう崇高な行為であるなら、シカは人類よりずっと神的な存在であるはずだ。というのは、シカのメスは発情する日が年にわずか1日か2日しかないそうだ。そして発情期以外の日にはオス、メスとも一緒に暮らしていても、性的には全く純潔を保っていると言われる。ちなみに、ジャイアントパンダの発情期も年に2日程度であるようだ。もっともライオンやサルはこれらよりずっと人間的らしいが。。。
ついでに言うと、私は、人間 vs. 動物 という比較だけでなく、文明人 vs. 未開人 という比較においても、世間の常識的な意見に組みしない。そのことは、以前のブログ
百論簇出:(第4回目)『南米先住民の高潔な人格』
で述べたとおりである。
【参照ブログ】
惑鴻醸危:(第2回目)『一生に一度、老いらくの乱交パーティ』
惑鴻醸危:(第4回目)『命がけのレイプ』
閑話休題
さて、前回のブログ
百論簇出:(第142回目)『もしも千軒の一流レストランがタダだったら』
では、私の蔵書には千数百冊の本がツン読状態になっていることを述べた。これらの本をいつ読むかというルールについて述べたい。
実は、ルールという程大げさなものでなく、単に本を読みたくなる『発情期』を待っているだけの話である。読んだ本と読まずにツン読の本は背表紙を見ただけで大体見分けがつく。シカではないが、普通はその背表紙をみただけでは何の感情も湧かないのだが『発情期』を迎えると、特定のある本が急に読みたくなる。つまり、あるテーマに関して問題意識が熟して来たときに、本のタイトルが目に入ってきた時に読みたいと発情するのである。そうすると一気に同種の本をまとめ読みすることになる。例えば、最近で言うと、李朝朝鮮関係、インドのカースト制関係、東南アジア関係、科学史・技術史関係、江戸時代の蘭学関係、などがそうだ。
発情期の読書の様子を食事で喩えると、バイキングなどで皿に特定の料理だけを山盛りにしてがつがつと食べているような感じだ。食べても食べてもまだまだ入るようなノリを感じる。そして、腹いっぱいに動けないほど食べて『もうこれ以上食べたくない!』と叫び声をあげたくなるほど同種の本をまとめて何冊も何十冊も読む。この時ツン読に無い本は注文してでもすぐに読んでしまう。
他の人はどういう読み方をしているのか知らないが、私にはこういった一点突破主義で、特定のテーマに関する本を数多くまとめて読むことで自ずとそのテーマに対する自分なりの意見ができあがってくるのを感じる。
長年の経験からこのような読書方法が自分に一番ぴったりすることが分かった。つまり、私にはツン読の本の前を往きつ戻りつしながら背表紙のタイトルに発情するのを待っているのだ。もっともタイトルに発情しないと数年や場合によっては十年以上もツン読状態が続く本がある。しかし、その短い発情期に即、読むことができるためにはツン読の本は多くなければいけないのである。
例えば、禁欲について考えてみよう。
中東とインド(人種でいうとハム・セム族とアーリア人)の宗教は禁欲についての異常なまでの高い評価を与えている。一言で言えば、性欲を我慢できるのは非常に崇高な人である、従って妻帯せず独身でいることは尊敬に価する、という。
私の考えでは、これらの民族は『禁欲』と『性の享楽への耽溺』のこの2つの考えの間で、勝手に悩んでいたように感じる。それが、原罪というありもしない妄想を信じこむに至った理由ではないかと想像する。さらに言うと(科学的根拠のない虚言を許してもらえば)セム族やアーリア人は、我々日本人以上に強い性欲がありそのコントロールに困り抜いていたのではないかと想像する。それで、ユダヤ人の唱える『原罪妄想』と、その対極にある、『性欲の遮断を崇高視する』思想に古代のヨーロッパ人は共感を覚えたのではないかと想像する。
幸運なことに、日本人には、『性欲の遮断』を全く神聖視しないという健全な常識が古来からあった。それで我々はアーリア人種のように原罪という妄想に悩まされなくて済んでいるのだ。(智慧ある先祖に感謝、感謝!)
さらに、もし彼らのいうように禁欲するのがそれほど神の意にかなう崇高な行為であるなら、シカは人類よりずっと神的な存在であるはずだ。というのは、シカのメスは発情する日が年にわずか1日か2日しかないそうだ。そして発情期以外の日にはオス、メスとも一緒に暮らしていても、性的には全く純潔を保っていると言われる。ちなみに、ジャイアントパンダの発情期も年に2日程度であるようだ。もっともライオンやサルはこれらよりずっと人間的らしいが。。。
ついでに言うと、私は、人間 vs. 動物 という比較だけでなく、文明人 vs. 未開人 という比較においても、世間の常識的な意見に組みしない。そのことは、以前のブログ
百論簇出:(第4回目)『南米先住民の高潔な人格』
で述べたとおりである。
【参照ブログ】
惑鴻醸危:(第2回目)『一生に一度、老いらくの乱交パーティ』
惑鴻醸危:(第4回目)『命がけのレイプ』
閑話休題
さて、前回のブログ
百論簇出:(第142回目)『もしも千軒の一流レストランがタダだったら』
では、私の蔵書には千数百冊の本がツン読状態になっていることを述べた。これらの本をいつ読むかというルールについて述べたい。
実は、ルールという程大げさなものでなく、単に本を読みたくなる『発情期』を待っているだけの話である。読んだ本と読まずにツン読の本は背表紙を見ただけで大体見分けがつく。シカではないが、普通はその背表紙をみただけでは何の感情も湧かないのだが『発情期』を迎えると、特定のある本が急に読みたくなる。つまり、あるテーマに関して問題意識が熟して来たときに、本のタイトルが目に入ってきた時に読みたいと発情するのである。そうすると一気に同種の本をまとめ読みすることになる。例えば、最近で言うと、李朝朝鮮関係、インドのカースト制関係、東南アジア関係、科学史・技術史関係、江戸時代の蘭学関係、などがそうだ。
発情期の読書の様子を食事で喩えると、バイキングなどで皿に特定の料理だけを山盛りにしてがつがつと食べているような感じだ。食べても食べてもまだまだ入るようなノリを感じる。そして、腹いっぱいに動けないほど食べて『もうこれ以上食べたくない!』と叫び声をあげたくなるほど同種の本をまとめて何冊も何十冊も読む。この時ツン読に無い本は注文してでもすぐに読んでしまう。
他の人はどういう読み方をしているのか知らないが、私にはこういった一点突破主義で、特定のテーマに関する本を数多くまとめて読むことで自ずとそのテーマに対する自分なりの意見ができあがってくるのを感じる。
長年の経験からこのような読書方法が自分に一番ぴったりすることが分かった。つまり、私にはツン読の本の前を往きつ戻りつしながら背表紙のタイトルに発情するのを待っているのだ。もっともタイトルに発情しないと数年や場合によっては十年以上もツン読状態が続く本がある。しかし、その短い発情期に即、読むことができるためにはツン読の本は多くなければいけないのである。