限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第66回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その1)』

2012-05-03 12:14:21 | 日記
 『(1.01)人の能力を十分発揮できるものがリーダーだ』

漢の劉邦と楚の項羽は秦末の混乱期に中原に鹿を逐った(中原逐鹿、天下の覇権を争った)英雄である。項羽は武将として才覚もあり、優れた計略家でもあった。そしてしばしば劉邦を追い詰めたが、今一歩のところで、いつも逃がしてしまっていた。そしてとうとう、垓下で、劉邦の軍勢に囲まれ(四面楚歌)、最後を遂げた。

この間の経緯と見ると、個人の能力としては、客観的にみて項羽の方が数段まさっていたと私には思える。しかし、楚軍と漢軍という総合的な観点から比較すると、劉邦の漢軍は、負けても負けても、常に不死鳥のように蘇る不死身の粘りがあった。

この漢軍の強さはどこから来るのか?そしてなぜ、皆は、負組の劉邦を裏切らなかったのだろうか?

この疑問は、最終的に劉邦が天下を取ったあとでの宴会の席で明らかにされる。

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資治通鑑(中華書局):巻11・漢紀3(P.357)

劉邦(漢の高祖)が洛陽の南宮で諸将を呼んで宴会を催して言った。『諸君、私に隠さずに意見を述べて欲しい。どうして私が天下を取ることが出来て、項羽が出来なかったか?』高起と王陵が答えて言った。『陛下は部下に城を攻めさせ、領土を広げたがその成果を部下と共有なされた。ところが項羽はそうではなかった。功ある者を排除し、知恵者は疑いの目で見た。これが天下を取れなかった理由だ。』劉邦はこれに答えて言った。『その理解では、まだまだ足りない。戦略を練ることにかけては、わしは張良にはかなわない。攻略した土地の人民を撫綏し、兵站を途切れなくすることにかけては、わしは蕭何にかなわない。百万もの軍を率いて連戦連勝することにかけては、わしは韓信にかなわない。ところが、わしはこの優れた部下たちを縦横に使いこなせたのが天下を取れた大きな原因だ。項羽は知略に優れた范増一人をも使いこなせなかったのが、敗因だ。』部下たちはこの言葉に納得した。

帝置酒洛陽南宮,上曰:「徹侯、諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以與之,與天下同其利;項羽不然,有功者害之,賢者疑之,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉饋,不絶糧道,吾不如蕭何;連百萬之衆,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范増不能用,此所以爲我禽也。」群臣説服。

帝、酒を洛陽の南宮に置く。上、曰く:「徹侯、諸将、敢えて朕に隠すなかれ。皆、其情を言え。吾の天下を有するゆえんは何ぞ?項氏の天下を失うゆえんは何ぞ?」高起、王陵、対えて曰く:「陛下、人をして城を攻め地を略せしめ,因って以ってこれに与う。天下とその利を同じくす。項羽は然らず。功ある者は害し、賢者は疑う。これ、その天下を失うゆえんなり。」上、曰く:「公はその一を知るも,いまだその二を知らず。それ、籌を帷幄の中にめぐらし,勝を千里の外に決するは,吾、子房にしかず。国家を填し、百姓を撫し、餉饋を給し、糧道を絶えざるは、吾、蕭何にしかず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信にしかず。三者は皆、人傑なり。吾は能くこれを用う。これ、吾が天下を取りし所以なり。項羽は一范増も用うるあたわず。これ、我に禽になりし所以なり。」群臣、説服す。
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劉邦の分析によると、劉邦は自分自身の能力で勝てたのではなく、能力のある部下達をうまく使いこなすことができた、ということだ。劉邦の部下達もその点を十分に認識していた。それは、韓信の有名な言葉に象徴されている。『陛下不能將兵、而善將將』(陛下、兵に将たるあたわず、しかるに将に将たるによろし。)劉邦は、兵卒を率いる能力に欠けてはいるが、将を率いる能力には長けている、と言うのだ。つまり、大きな戦略を立てる才覚と度量はあるが、局地的な戦術には疎いし、兵卒と苦労を共にする忍耐力に欠けるので、兵卒を率いてはいけない。ところが、劉邦は、将を信頼し、その能力を十分に発揮させる度量があるので、将軍は皆、劉邦のために死力を尽くして頑張ることができた。つまり、劉邦は人の上に立つにふさわしい大きな度量があった。

同様のことは、アメリカの鉄鋼王・アンドリュー・カーネギーの墓碑銘にも見ることができる。
Here lies a man who was able to surround himself with men far cleverer than himself.
(私訳:自らよりもはるかに優れたる人たちを周りに集めることができた一人の男がここに眠る)
(別文:Here lies a man who knew how to enlist the service of better men than himself.)



ところで、資治通鑑は、基本的には史記や漢書などの正史の文章を極力そのまま引用しているが、ところどころ改変を加えている。この文章において、引用元の史記では、王陵は返答の冒頭に次の言葉を述べている。『陛下慢而侮人、項羽仁而愛人』(陛下は慢にして人を侮る。項羽は仁にして人を愛す。)この文だけを切出してよめば、項羽の方が劉邦より、将としてふさわしいように思える。ところが、項羽は将の素質として最も重要なある一点において決定的に劣っていた。それは、部下の功績を素直に認めない、点であった。

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資治通鑑(中華書局):巻9・漢紀1(P.311)

項羽は、人に面会するときも、丁寧で慈愛に満ちた表情をし、言葉遣いも丁寧であった。部下が病気になると、心が痛み泣き出て、自分の食事を運ばせたりした。ところが、人を使った際に功績があっても爵位の印鑑が擦り切れるまで出し惜しみ、任命を逡巡した。

項王見人,恭敬慈愛,言語嘔嘔。人有疾病,涕泣分食飲;至使人,有功當封爵者,印刓敝,忍不能豫。

項王の人を見るや、恭敬にして慈愛あり。言語は嘔嘔。人に疾病あるや、涕泣し、食飲を分かつ。人を使うに至っては、功ありてまさに爵を封ぜんとするに、印、刓敝するも、忍びて与うるあたわず。
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項羽は、人情溢れて、優しい態度を示しているようだが、それはうわべだけであった。戦場で部下が一生懸命戦って成果をあげても、褒美を与えるのを極端に渋ったのが難点だった。人を動かす基本は仕事ぶりに応じて俸禄と地位を十分に与えることというのは、古今東西問わず常に真理である、と私は思う。

項羽に関して一言言っておきたいことがある。

私は、史記やその文章を引いた資治通鑑の項羽の評価には同意しない。というのは、今我々が読む歴史と言うのは、かなりの部分、勝者の立場から書かれていることを思い出す必要がある。もし、項羽が本当に部下の成果を認めず、褒美を与えることを出し渋る性格であったとするなら、楚軍はもっと早くに崩壊していたはずだ。また、『季布の一諾』(黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず)の諺でも知られる、豪傑の季布が最後の最後まで項羽から離れなかったことから項羽にはやはり一代の英雄にふさわしい貫禄と度量があったと私は考えている。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』

続く。。。
コメント
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