【国際人のグローバル・リテラシー 7.日本 江戸末期・明治初期の西洋人の記録、日本人論】
江戸末期のペリーの黒船来襲が日本社会を大きく転換させたことは日本人なら誰もが歴史で習う。しかし、それでは、ペリー提督の一行が一体何をして、何を見た、のかと問われると途端に答えにつまる。つまり、日本人の大多数にとってペリーの黒船は、日本を変えたという抽象的なフレーズに過ぎず、実体は皆目知らないのである。
批判めいたことをいうが、実は、ひとごとではなく私自身がかつてはそうであった。高校の日本史から一歩も出ていない、雑駁とした知識しかなかったが、20年ほど前、ふとした偶然で、本屋で岩波文庫の『ペルー提督・日本遠征記』(4冊)を手にした。そこで始めてペリーの一行が日本と沖縄を訪問した時の詳細な報告書を米国議会に提出しているのを知った。それを読むと、短期間の間に随分と日本の生活状況を事細かに観察している。それよりも驚いたのは、日本という国の強みと弱みをすでに大づかみではあるが把握していたことだ。
まず強みについては:
[Japanese handicraftsmen] In the practical and mechanical arts, the Japanese show great dexterity; and when the rudeness of their tools and their imperfect knowledge of machinery are considered, the perfection of their manual skill appears marvelous. Their handicraftsmen are as expert as any in the world, and, with a freer development of the inventive powers of the people, the Japanese would not remain long behind the most successful manufacturing nation.
【大意】日本の職人達は、粗末な道具を使っているにも拘わらず、素晴らしいものを作り上げる。もしこの職人達が自由にその能力を発揮すれば、日本は遠からず世界の製造業のトップクラスに入るのは間違いない。
逆に弱みとしては:
[Poor general design] Every American admired the skilful workmanship of the carpenters as displayed in the construction of the wood-work in the houses, the nice adjustment and smooth finish of the jointing, the regularity of the flooring, and the neat framing and easy working of the window casements and movable door panes and screens. The general designs of the houses and public buildings were very inferior to the execution of the details of construction.
【大意】日本の職人、とりわけ木工関係の職人のできの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。ただ、このような細部の出来とは対照に大規模な物 --個人の家でも公共建築でもそうだが -- 何とも粗末な設計しかできない。
150年前に、ペリーがチラッと垣間見た当時の日本人の長所、短所が今でもその通りだと、私は感じる。つまり、日本人は細部を徹底的にパーフェクトに磨き上げるのは得意であるが、本来的に複雑性を扱うのが極めて下手である。幕末・維新の動乱、第二次世界大戦後による大きな変革を経てきても尚、日本の本質的な部分は変わっていない。
この点において、私は150年前、あるいは100年前に日本を訪れたこれらの欧米人の記録を繙く重要性を強く感じる。
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本稿は今回の講義のまとめである。ところどころ筆者(本稿をまとめた学生)の意見が入っている。
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:Chizuru, K.K
・正義と秩序
まず授業の始めに、「正義と秩序のどちらをとるか」という質問がセネカ3世(SA)からなされた。K.Kさんは、秩序をとり、「秩序がなければ社会が成立しない」という主旨を述べた。Chizuruさんも秩序をとり、「世界の国々との関係が重要となっている今、一国の秩序が保たれていなければ世界の国々と協力できない」という根拠を述べた。
今回の授業のテーマは日本であるが、Chizuruさんが言うには、19世紀初めのヨーロッパにおけるウィーン体制を思い起こした。つまり、フランス外相タレーランは、「正統主義」を掲げ、フランス革命以前のヨーロッパの状態を正しいものとして、市民階級の自由主義的な考えを押さえつけ、国境線も革命以前の状態に戻したが、これは、秩序をもたらすことによって、安定した国際関係を維持しようとした典型的な例ではないかと言うのだ。
・江戸時代に日本に来た西洋人とその目的
江戸時代に日本に来た西洋人として、Chizuruさんはシーボルトを挙げた。シーボルトが日本にやって来た目的は、授業では大きく取り上げられなかったが、筆者が調べてみると、長崎の出島のオランダ商館医として派遣されたと分かった。シーボルトは、日本の滞在中、長崎の自然・地理・歴史・風俗・美術工芸などを含む、日本の調査・研究を行い、その成果をヨーロッパに紹介した。シーボルトの著書として『日本』、『日本植物誌』、『日本動物誌』などが挙げられる。
K.Kさんは、ハリスを挙げ、日本に来た目的として、「通商のため」と述べた。ハリスはアメリカの初代総領事であった。ところでこの総領事の役割について議論になった。学生の一人から「外国における自国民の安全を守る役割」が挙げられた。これについて筆者が後ほど調べたところ、上記以外に「外国における自国の通商促進」も総領事の役割であると分かった。この点でK.Kさんの「通商のため」という意見は妥当なものと言えるを筆者は考える。
ついで日本と世界の金と銀の交換比率が話題となった。日本は伝統的に金と銀の交換比率が1:5であるのに対し、香港(を含む世界では)伝統的に1:15であった。この差を利用(実質的には悪用)して、日本に銀を持ち込み金に換え、その金を今度は香港で銀に換えることで西洋人はぼろもうけをしていた。これも「通商のため」ということになろう。
ハリスもシーボルトと同様に、『日本滞在記』を著しており、ハリスが通商だけに関心を持っていたわけではないと筆者は考える。
・江戸時代に日本に来た西洋人の日本語の理解
Chizuruさんは日本語を理解できた西洋人としてケンペルを挙げ、日本語を理解できなかった西洋人としてツュンベリー、シーボルトを挙げた。
==>(SA)ケンペルに関する記述は正しくない。これらの3人とも片言の日本語はできたであろうが、まともに日本語ができたとは言い難い。
ケンペル、ツュンベリーはともにシーボルト同様、長崎のオランダ商館医であり、日本の調査・研究にも従事した。
辞書は存在したのに、日本語を理解できなかった理由として、K.Kさんは、江戸時代以前に来日したポルトガルのフランシスコ・カブラルを挙げて、「日本を悪く見ていたから理解しようとしなかった」と述べた。しかし、ツュンベリーとシーボルトが熱心に日本の調査・研究をしたことを考えると、ツュンベリーとシーボルトの日本に対する好奇心が感じられ、「日本を悪く見ていたから理解しようとしなかった」という理由は、カブラルには当てはまっても、あまり妥当でないように筆者には思われる。江戸幕府には、通詞と呼ばれる、長崎で通訳や貿易事務を行った役人がいた。この通詞に頼り切っていたために、ツュンベリーとシーボルトは日本語を理解することができなかったのではないだろうか。
授業では、外国語を熱心に学んだ福沢諭吉についても取り上げられた。福沢諭吉は大阪にある適塾で蘭学を学び、オランダ語も身に付けた。しかし、横浜に赴いたとき、オランダ人はほとんどおらず、周りは英語を話す人ばかりであった。このことに衝撃をうけた福沢諭吉は、即日オランダ語を廃して英語にシフトしたのだった。
・日本人の自然に対する態度
日本人と西洋人との、自然への接し方は大きく異なる。確かに、リフレッシュを求めて森林浴に行ったり、老後を自然あふれる田舎で過ごしたいと考える日本人は多い。しかしこの場合の「自然」とは、自然が本来もっている危険な面を払拭し、人間による支配が可能な、いわゆる『人工的自然』を指す。このような日本人の自然への接触のしかたに対して、西洋人は、自然とはその美しさのみならず、危険性をも含むすべてが「自然,Nature」である。従って、人間が自然と触れ合う際、当然危険がつきものであると考える。彼らはそのような超越的な大自然を恐れ、敬うのだ。
この点についての筆者の意見を述べたい。筆者は初め、日本人は外国人に比べ、ありのままの自然を大事にする方だと考えていた。しかし考えてみれば、私の日本の友達とアメリカの友達の別荘は、同じ自然あふれる場所にあるといえど、その中身は大きく異なっていた。つまり前者は軽井沢のような、少なからず人の手が加えられている場所にあるのに対し、後者は山中のログハウスで、周りは自然一色で、人工的な物は何一つも無かった。微々たる例で一般化できないかもしれないが、この事例から類推するに、おそらく日本人は自然の中から、自分たちがコントロール可能な部分を上手く抽出して生活の中に取り入れてきたのだろうと推察できる。筆者はこれを日本人の発想の豊かさ、工夫の巧みさという長所として評価できると考える。
・ジョン万次郎
一介の漂流者であったジョン万次郎への対応の違いに日本人とアメリカ人の気質の違いが窺える。漂流して無人島にいた万次郎達を救助したアメリカ人のホイットフィールド船長は、頭の回転がはやい万次郎を大いに気に入り、彼を養子とした。さらに高等教育も受けさせてもらえた。そこで彼は英語や数学、航海術などを学ぶことが出来た。このように見ず知らずの、しかも日本人であった万次郎をも温かく迎え、高い学費を払ってくれた船長の態度はアメリカ人のキリスト教的な寛容な気質に依るのであろう。
帰国後、日本では武家の出身でなかった万次郎は英語が堪能であったがゆえに、やっかみを受け、スパイ容疑さえかけられた。帰国した後、一時は通訳の役目から降ろされるなどの仕打ちをうけた。同じ日本人であるにも関わらずこのような非人情な扱いとうけた。この点について言うと、日本人の不寛容さは当時だけではなく、現在にも厳然と存在していると筆者は考える。
==>(SA)このような閉鎖性、排外性は、現在のグローバル化の時代に許されるべきではないと、考える。
江戸末期のペリーの黒船来襲が日本社会を大きく転換させたことは日本人なら誰もが歴史で習う。しかし、それでは、ペリー提督の一行が一体何をして、何を見た、のかと問われると途端に答えにつまる。つまり、日本人の大多数にとってペリーの黒船は、日本を変えたという抽象的なフレーズに過ぎず、実体は皆目知らないのである。
批判めいたことをいうが、実は、ひとごとではなく私自身がかつてはそうであった。高校の日本史から一歩も出ていない、雑駁とした知識しかなかったが、20年ほど前、ふとした偶然で、本屋で岩波文庫の『ペルー提督・日本遠征記』(4冊)を手にした。そこで始めてペリーの一行が日本と沖縄を訪問した時の詳細な報告書を米国議会に提出しているのを知った。それを読むと、短期間の間に随分と日本の生活状況を事細かに観察している。それよりも驚いたのは、日本という国の強みと弱みをすでに大づかみではあるが把握していたことだ。
まず強みについては:
[Japanese handicraftsmen] In the practical and mechanical arts, the Japanese show great dexterity; and when the rudeness of their tools and their imperfect knowledge of machinery are considered, the perfection of their manual skill appears marvelous. Their handicraftsmen are as expert as any in the world, and, with a freer development of the inventive powers of the people, the Japanese would not remain long behind the most successful manufacturing nation.
【大意】日本の職人達は、粗末な道具を使っているにも拘わらず、素晴らしいものを作り上げる。もしこの職人達が自由にその能力を発揮すれば、日本は遠からず世界の製造業のトップクラスに入るのは間違いない。
逆に弱みとしては:
[Poor general design] Every American admired the skilful workmanship of the carpenters as displayed in the construction of the wood-work in the houses, the nice adjustment and smooth finish of the jointing, the regularity of the flooring, and the neat framing and easy working of the window casements and movable door panes and screens. The general designs of the houses and public buildings were very inferior to the execution of the details of construction.
【大意】日本の職人、とりわけ木工関係の職人のできの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。ただ、このような細部の出来とは対照に大規模な物 --個人の家でも公共建築でもそうだが -- 何とも粗末な設計しかできない。
150年前に、ペリーがチラッと垣間見た当時の日本人の長所、短所が今でもその通りだと、私は感じる。つまり、日本人は細部を徹底的にパーフェクトに磨き上げるのは得意であるが、本来的に複雑性を扱うのが極めて下手である。幕末・維新の動乱、第二次世界大戦後による大きな変革を経てきても尚、日本の本質的な部分は変わっていない。
この点において、私は150年前、あるいは100年前に日本を訪れたこれらの欧米人の記録を繙く重要性を強く感じる。
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本稿は今回の講義のまとめである。ところどころ筆者(本稿をまとめた学生)の意見が入っている。
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:Chizuru, K.K
・正義と秩序
まず授業の始めに、「正義と秩序のどちらをとるか」という質問がセネカ3世(SA)からなされた。K.Kさんは、秩序をとり、「秩序がなければ社会が成立しない」という主旨を述べた。Chizuruさんも秩序をとり、「世界の国々との関係が重要となっている今、一国の秩序が保たれていなければ世界の国々と協力できない」という根拠を述べた。
今回の授業のテーマは日本であるが、Chizuruさんが言うには、19世紀初めのヨーロッパにおけるウィーン体制を思い起こした。つまり、フランス外相タレーランは、「正統主義」を掲げ、フランス革命以前のヨーロッパの状態を正しいものとして、市民階級の自由主義的な考えを押さえつけ、国境線も革命以前の状態に戻したが、これは、秩序をもたらすことによって、安定した国際関係を維持しようとした典型的な例ではないかと言うのだ。
・江戸時代に日本に来た西洋人とその目的
江戸時代に日本に来た西洋人として、Chizuruさんはシーボルトを挙げた。シーボルトが日本にやって来た目的は、授業では大きく取り上げられなかったが、筆者が調べてみると、長崎の出島のオランダ商館医として派遣されたと分かった。シーボルトは、日本の滞在中、長崎の自然・地理・歴史・風俗・美術工芸などを含む、日本の調査・研究を行い、その成果をヨーロッパに紹介した。シーボルトの著書として『日本』、『日本植物誌』、『日本動物誌』などが挙げられる。
K.Kさんは、ハリスを挙げ、日本に来た目的として、「通商のため」と述べた。ハリスはアメリカの初代総領事であった。ところでこの総領事の役割について議論になった。学生の一人から「外国における自国民の安全を守る役割」が挙げられた。これについて筆者が後ほど調べたところ、上記以外に「外国における自国の通商促進」も総領事の役割であると分かった。この点でK.Kさんの「通商のため」という意見は妥当なものと言えるを筆者は考える。
ついで日本と世界の金と銀の交換比率が話題となった。日本は伝統的に金と銀の交換比率が1:5であるのに対し、香港(を含む世界では)伝統的に1:15であった。この差を利用(実質的には悪用)して、日本に銀を持ち込み金に換え、その金を今度は香港で銀に換えることで西洋人はぼろもうけをしていた。これも「通商のため」ということになろう。
ハリスもシーボルトと同様に、『日本滞在記』を著しており、ハリスが通商だけに関心を持っていたわけではないと筆者は考える。
・江戸時代に日本に来た西洋人の日本語の理解
Chizuruさんは日本語を理解できた西洋人としてケンペルを挙げ、日本語を理解できなかった西洋人としてツュンベリー、シーボルトを挙げた。
==>(SA)ケンペルに関する記述は正しくない。これらの3人とも片言の日本語はできたであろうが、まともに日本語ができたとは言い難い。
ケンペル、ツュンベリーはともにシーボルト同様、長崎のオランダ商館医であり、日本の調査・研究にも従事した。
辞書は存在したのに、日本語を理解できなかった理由として、K.Kさんは、江戸時代以前に来日したポルトガルのフランシスコ・カブラルを挙げて、「日本を悪く見ていたから理解しようとしなかった」と述べた。しかし、ツュンベリーとシーボルトが熱心に日本の調査・研究をしたことを考えると、ツュンベリーとシーボルトの日本に対する好奇心が感じられ、「日本を悪く見ていたから理解しようとしなかった」という理由は、カブラルには当てはまっても、あまり妥当でないように筆者には思われる。江戸幕府には、通詞と呼ばれる、長崎で通訳や貿易事務を行った役人がいた。この通詞に頼り切っていたために、ツュンベリーとシーボルトは日本語を理解することができなかったのではないだろうか。
授業では、外国語を熱心に学んだ福沢諭吉についても取り上げられた。福沢諭吉は大阪にある適塾で蘭学を学び、オランダ語も身に付けた。しかし、横浜に赴いたとき、オランダ人はほとんどおらず、周りは英語を話す人ばかりであった。このことに衝撃をうけた福沢諭吉は、即日オランダ語を廃して英語にシフトしたのだった。
・日本人の自然に対する態度
日本人と西洋人との、自然への接し方は大きく異なる。確かに、リフレッシュを求めて森林浴に行ったり、老後を自然あふれる田舎で過ごしたいと考える日本人は多い。しかしこの場合の「自然」とは、自然が本来もっている危険な面を払拭し、人間による支配が可能な、いわゆる『人工的自然』を指す。このような日本人の自然への接触のしかたに対して、西洋人は、自然とはその美しさのみならず、危険性をも含むすべてが「自然,Nature」である。従って、人間が自然と触れ合う際、当然危険がつきものであると考える。彼らはそのような超越的な大自然を恐れ、敬うのだ。
この点についての筆者の意見を述べたい。筆者は初め、日本人は外国人に比べ、ありのままの自然を大事にする方だと考えていた。しかし考えてみれば、私の日本の友達とアメリカの友達の別荘は、同じ自然あふれる場所にあるといえど、その中身は大きく異なっていた。つまり前者は軽井沢のような、少なからず人の手が加えられている場所にあるのに対し、後者は山中のログハウスで、周りは自然一色で、人工的な物は何一つも無かった。微々たる例で一般化できないかもしれないが、この事例から類推するに、おそらく日本人は自然の中から、自分たちがコントロール可能な部分を上手く抽出して生活の中に取り入れてきたのだろうと推察できる。筆者はこれを日本人の発想の豊かさ、工夫の巧みさという長所として評価できると考える。
・ジョン万次郎
一介の漂流者であったジョン万次郎への対応の違いに日本人とアメリカ人の気質の違いが窺える。漂流して無人島にいた万次郎達を救助したアメリカ人のホイットフィールド船長は、頭の回転がはやい万次郎を大いに気に入り、彼を養子とした。さらに高等教育も受けさせてもらえた。そこで彼は英語や数学、航海術などを学ぶことが出来た。このように見ず知らずの、しかも日本人であった万次郎をも温かく迎え、高い学費を払ってくれた船長の態度はアメリカ人のキリスト教的な寛容な気質に依るのであろう。
帰国後、日本では武家の出身でなかった万次郎は英語が堪能であったがゆえに、やっかみを受け、スパイ容疑さえかけられた。帰国した後、一時は通訳の役目から降ろされるなどの仕打ちをうけた。同じ日本人であるにも関わらずこのような非人情な扱いとうけた。この点について言うと、日本人の不寛容さは当時だけではなく、現在にも厳然と存在していると筆者は考える。
==>(SA)このような閉鎖性、排外性は、現在のグローバル化の時代に許されるべきではないと、考える。