電話加入権値下げで損害を受けたと、NTTを提訴する動きがあるようです。値下げはありがたいことですが、それを許さない人もいるようです。そう言えば某オンラインゲームで課金アイテムの値下げがありまして、それに激怒していた人もいました。国民年金保険の免除を社会保険事務所サイドで進めていた件も槍玉に挙げられていますね。すでに破綻している国民年金、可能な限り払わずに済ませたいものですがわざわざ免除申請するのもばかばかしい、そんな人たちのために役所の側で手続きを全面的に代行してくれたようで、ぜひ私の住んでいる地域でも同様のサービスを進めて欲しいところですが、どういうわけかこれが「不正」なのだそうで。
さて、話を進める前にいったんここはルサンチマンについて語りましょう。日本だけではなく世界中の精神の中心に居座る大事な概念ですが、あまりいい説明がありませんので、根幹部分だけをわかりやすく。ルサンチマンとは、怨恨と訳されることがあります。それだけではわかりませんね。初めに、何か嫌なことがあります。よく持ち出されるのは、酸っぱいブドウの話。ブドウを食べようとして食べられなかった狐が悔し紛れに「あのブドウは酸っぱかったんだ」と。この例はあまり良い例ではないように思いますが、自らが直面した苦痛に対して自らの状況を正当化するのがルサンチマンの働きです。
例えばニーチェが批判したキリスト教精神の場合ですが、まだキリスト教が異教であった時代のこと、キリスト教徒達は支配者達によって迫害されます。この迫害に対して、迫害される自分たちを正当化=肯定するのがルサンチマンです。つまり自分たちは正しい=迫害されている自分たちは正しい=迫害されることが正しい、と。こうなると迫害されないように立ち向かうのではなく、正しさのために積極的に迫害されることを望むようになる、ここで価値観が転倒しねじ曲げられているとニーチェは批判したわけです。迫害する側ではなく迫害される側が正しいと信じ、積極的に迫害される側であろうとする、それに対して迫害されないように立ち向かえとニーチェは主張していたように思えますが、しかし巷のニーチェ本はどれを読んでもよくわかりませんなぁ。
「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」なんて教えもこのルサンチマンのおかげでしょう。貧乏な人が自分は正しい=貧乏なことは正しい=金持ちは正しくない、と。そして貧乏は正しいのだから貧乏であろうとする、裕福であることを否定する。本来は貧乏よりも裕福な方がいいはずなのに、貧乏である自身を肯定するために価値観がねじ曲げられ、倒錯してしまう。そうして貧困を積極的に受け入れ、裕福になろうとしなくなる。これがルサンチマンであり、ニーチェ曰く奴隷の道徳であると。
何らかの困難に直面したとき、その困難に直面した自分を正当化、肯定する、そして困難を負わされることを肯定し、困難をはねのけるのではなく自ら望むようになる、それがルサンチマンの働きです。そしてルサンチマンに支配された世界は価値観が倒錯したまま進むことになります。すなわち困難に対してそれを克服しようとするのではなく、その困難をあたかも正しいことであるかのように信じ込み、求め続ける。ルサンチマンに支配された世界は自ら望んで悪い方へと進んで行くのです。
電話加入権にしても、高かったわけです。だったら安くすればいい訳ですが、ところが安くするのに反対意見が出る。なぜなら高額な電話加入権に苦しめられてきた人たちにとって、高額な電話加入権を負わされているということこそが正しいのであって、電話加入権の負担から解放されるということは正しくないから。破綻している国民年金を払うことがあたかも正しいことであるかのように語られるのは、無駄金を支払っている自分たちは正しい=無駄金を支払っていることが正しい=無駄金の支出から免れている人は正しくない、と価値観が倒錯しているからです。破綻した国民年金の負担から解放されればそれはよいことのはずなのに、そうはならない、無駄金の納入を強要されているのであれば、そうならないように立ち向かわねばならないのに、なぜか肯定してしまう。それでは年金財政が破滅へと突き進んでいくことを止められはしませんし、その破滅に巻き込まれる人も一向に減らないでしょう。
たぶん、世の中を良くしていくことは簡単です。ただ、それは国民の望むところではありません。そして現実には世の中は良くなっていく代わりに国民の望む方向へと進んでいきます。そうなってしまう原因は多々ありますが、その一つがこのルサンチマンでしょう。何か社会的な問題によって困窮していても、その困窮に立ち向かわない、困窮を受け入れ、正当化し、肯定し、それに反するものを排斥する。例えば日本の労働条件ですが、劣悪ですね(企業植民地に比べればまあマシなのかも知れませんが)。ではなぜ劣悪な労働条件なのでしょうか。それは、劣悪な労働条件が肯定され、正しいものとされているから、逆にまともな労働条件が正しくない、疚しいものとされているからではないでしょうか。今まで劣悪な労働条件下にいた人にとって、その劣悪な労働条件こそが正しい、あるべき姿でした(そしてその劣悪な労働条件下にある自分たちは正しい)。そしてそれに反するまともな労働条件などは当然正しくない、あってはならない存在です。
ルサンチマンの根源には妬み、羨望もあります。本当は迫害されたくない、本当は金持ちの方がいい、本当は電話加入権は安い方がいい、本当は国民年金なんて払いたくない、本当はまともな労働条件で働きたい。しかし、現実にはそうもいかないときに、ルサンチマンが忍び寄ってきます。叶わぬ、或いは叶いにくい希望のために立ち向かう代わりに、価値観を転倒させることで現状を肯定、正当化すること。それはある意味で堪え忍ぶ役にも立ってきたわけですが、言うまでもなく状況の改善を妨害する障害でもありました。非正規就業者をニートと呼んで蔑み、憎悪するようになって久しいですがそれは劣悪な労働条件を強いられていない自由人への妬みと羨望の結果でもあります。劣悪な労働条件の下で働かざるを得なかった人々にとっては、そこから免れている人が絶対に許せないのでしょう。もし世の中をより良いものにしたいのであれば、劣悪な労働条件からの解放のために戦わねばなりませんが、それを押えるのがルサンチマンです。
奴隷の道徳であるルサンチマンに駆られた人々にとって自分たちの置かれた状況は正しいのであり、それを転覆させるなど許し難い行為なのです。世の中を良くしていくのは簡単です。しかし、今まで悪い世の中に生きてきた人にとって、悪い世の中を肯定し望んできた人にとっては世の中を変える、そして良くなった世の中で自分たちに代わってより良い世界を享受する人たちがいる、そんなことは絶対に許せないことなのです。
我々が戦わねばならないのは政府や企業だけではなく、それによって虐げられながらそれを支持している人々でもあります。劣悪な環境下で長時間労働を強いられている人々が、その誤りに気づき立ち上がってくれればよいのですが、現実にはそういった人々は自らを肯定しがちです。一方で代わりに否定されるのはそれほど働いていない人たちです。仕事に人生を捧げていないというだけで彼らは社会のゴミとして一心に憎悪を浴びています。会社のために生き、会社のために死んでいく、そういう生き方ばかりが正しい生き方として肯定される、会社のためではなく自分のために生きることが許されない世界、そんな世界を崩壊させたいと私は願っていますが、そんな世界の重荷を担わされているロバたちは荷を担わされていることに誇りを持ち、荷を振り落として走り出そうとはしないのです。