色々なところで、ものの順序が入れ替わることがあります。主客転倒とも言いましょうか。例えば、あの光市母子殺害事件の判決にもそれが見られました、従来は「他に方法がない場合に限り死刑にする」のが順序でしたが、それが「死刑を回避する理由がない限り死刑にする」との宣言があったわけです。あの裁判での最大の転換はここにあるように思ったわけですが、往々にしてこの入れ替わりは自覚されないまま行われてしまうものです。
さて、「トリアージ」なる概念があります。まぁ災害医療現場など制約のある状況下で、最善の結果に繋げるべく患者を選別することですね。別に目新しいものでも何でもありませんが、これを得々として語る人がいたわけです、経営学の分野で。それにツッコミを入れているのが↓こちら↓です。
あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 ―(元)登校拒否系
要約すれば、権力の側から一方的に人を選別する「トリアージ」の欺瞞と「トリアージ」という言葉によってその選別を正当化しようとする論者の欺瞞を指摘するものです。色々な意味で「わかっていない」コメントが殺到していますが、リンク先のエントリ本文は是非お読みいただければと思います。
このトリアージ――選別するのは常に権力の側であり、それが災害医療現場であれば、患者の側に選別の権利はありません。勿論、専門家が適正な基準で誤りなく判断を下せば、その選別によって助かる命の単純な数が選別しなかった場合のそれを上回る可能性はあります。ともすると残酷に思えるこの選別行為が、大局的に見ればより多くの人を救う行為であるとしてトリアージを推奨、支持する人もいるわけです。
ところが、物事も順序が容易く入れ替わる、主客転倒が常であるこの社会でトリアージの概念が本来の域を超えて幅を利かせるとどうなるのでしょうか? つまり、本来トリアージの「主」たる目的としては「助かる人を最大にする」ことがあり、その「従」たる手段として「助けられない人は捨てる」という選別があったわけです。そしてトリアージにおいてこの2つは不可分であり、「主」のあるところには必ず「従」が付随します。「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」行為と組になっているのがトリアージなのですが、これが転倒すると?(「助けられる/助けられない」の判断が誤っている可能性は留保しますが、この段階で誤っている可能性が常に存在することは念頭に置いておいてください)
つまり「助かる人を最大にする」選択と「助けられない人を捨てる」選択はトリアージにおいて同時に現れるもので、片方があればもう片方もあると、そう類推されるものでもあります。「助かる人を最大にする」以上は「助けられない人を捨てる」選択も当然あるだろう、と。ではその逆、「助けられない人を捨てる」選択がそこにあった場合は? 多くの人はそこに「助かる人を最大にする」選択も同時にあるのだろうと信じます。信じますが、果たしてそうかな?と。
AならばBである、しかしBならばAである、そうは限らないわけです。クマならば哺乳類ですが、哺乳類ならばクマという訳ではありません。ですから「助かる人を最大にする」選択が「助けられない人を捨てる」選択を常に伴うとしても、「助けられない人を捨てる」選択が「助かる人を最大にする」ことに結びつくとは限らないわけです。なのですが、この一方通行の関係を理解せず、主客転倒したままトリアージの論理を拡大させていくと「助けられない人を捨てる」ことこそが「助かる人を最大にする」ことであり、往々にしてそれが最善だと言うことになってしまいます。そして「助けられない人を捨てる」人は「助かる人を最大にする」ヒーローとして想起されるようになる、と。
このヒーローとは、小泉純一郎や竹中平蔵であり、橋下徹でもあります。つまり彼らは「助けられない人を捨てる」行為に邁進してきた、邁進しているわけですが、その支持者から見ればそのトリアージは「助かる人を最大にする」ための積極的な善行なのです。一方でその選別に反対する人や手を緩める人は「助かる人を最大にする」ことを阻む抵抗勢力であり害悪と、そう位置づけられもします。そしてここで求められている「主」は「助けられない人を捨てる」ことの方にあり、いかに人を選別し切り捨てていくかが追求され、いかに人が選別され切り捨てられたか、その被害の度合いが大きければ大きいほど、「助かる人を最大にする」ための改革は進んでいるとしてヒーローへの支持は高まるのです。
災害医療現場においては、その選別が最善である場合もあるのかも知れませんが、それが社会的トリアージ、政治的トリアージとなると話は別で、大半の場合は誤った基準でトリアージが行われます。まず危機を煽り、それが災害救助現場と同様の非常事態であるかのように錯覚させることから始まり、その非常事態において「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」選択を受け容れるよう迫るわけですが、それが抵抗なく犠牲を強いることに寄与することはあっても、犠牲に見合う対価が得られたことなどなかったでしょう? もたらされたのは犠牲だけです。
「助かる人を最大にする」ために犠牲になれと迫る、これは純然たる脅迫ですが、より多くの人を助けるという大義名分がそれを正当化します。そしてこの脅迫が発生したとき、トリアージの考え方を内面化している人々は「助けられない人を捨てる」ことを善行として讃え、その脅迫に抗う人々を「助かる人を最大にする」ために殺そうとするわけです。かくして「助けられない人を捨てる」ことは多数の支持を獲得し、それに異議を唱える人は抹殺されてゆくわけですが、そこで「助かる人を最大に」出来たかどうかは往々にして問われません。「助けられない人を捨て」たのだから、もう片方の対も為されているに違いないと、そう確信されて終わりです。
トリアージが成り立つためには、本当に限定された緊急事態であり他に選択肢がないことが一つの条件として必要です。ところが社会/政治の分野では、あるいは雇用や福祉などの分野では、危機でもないのに危機を煽ることでトリアージを迫る発想が幅を利かせています。これは死刑判決を巡る消極的選択と積極的な選択と同様で、全員を助けることが出来ず他に方法がないからトリアージを行うのではなく、トリアージを回避する特別な理由がない限りはトリアージを行うもので、この両者には決定的な違いがあるはずです。そして今、広汎に選択されているのは後者だとしたら?
危機を理由に、そして危機の中で「助かる人を最大にする」口実で、誰か/何かを切り捨てることが常態化しています。そしてそれは、犠牲を迫られる側の人々からこそ強く支持されてすらいます。権力の側にとって目的は「切り捨てる」ことそのものであるにしても、トリアージを信奉する被支配者はその「切り捨てる」行為を「助かる人を最大にする」ものと信じていますし、時には被支配者の側からそれを要求することすらあります。トリアージを信奉する被支配者はそれが「助かる人を最大にする」ことと同義と確信して「助けられない人を捨てる」ことを要求し、権力がそれに追随する場合すらあるほどです。
繰り返しになりますが「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとは限らないのですが、クマならば哺乳類であり、哺乳類ならクマであると信じる人もいるものです。そして「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとの盲信もまた根深く、この場合は選別すること自体が目的となり、選別することこそが正義にすらなります。かくして(結果としてそうなったのではなく)積極的な判断の結果として国民なり住民なりに負担や犠牲を強いれば強いるほど、「助かる人を最大にする」英雄として祭り上げられる、それが小泉であったり、橋下であるわけです。
(元)登校拒否系の常野氏はこのトリアージの概念を乱用し、切り捨てられる側の犠牲を当然のことであるかのごとく印象づけようとする人々に警鐘を鳴らします。一方で、こうした犠牲を強いる論理を当然と思いこんでいる人、他人に犠牲を強いることを好ましく思っている人、それへの異論を感情論と呼んで黙殺しようとする人は、この肥大化したトリアージへの異議を拒絶します。それが色々な意味で「わかっていない」コメントにつながるわけですが、その辺の人の論法は例によって似たり寄ったり、災害医療現場などの本当の緊急事態で「上手くいった(と、思われている)」ケースを想定してトリアージの有効性と必要性を説くわけです。
もちろん、本来使うべきでない領域に拡張されたトリアージの概念を批判しているエントリに対し、偶々トリアージの概念が上手く当て嵌まったケース(本来の場面で使われたケース)を持ち出されても意味がないと言いますか、何の反論にもなり得ていません。ストライクゾーンに投げることすら出来ないのなら、勝負にすらなりませんよね? それでもなお、本文とは無関係なトリアージの有効性なり必要性を持ち出して、それが危機的状況でも何でもない政治や社会に対しても必然であるかのごとく語る欺瞞の多さに、人を切り捨てることへの強い欲望を感じないではいられないのです。
←応援よろしくお願いします
参考、
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か ― 過ぎ去ろうとしない過去