非国民通信

ノーモア・コイズミ

国語教育の必要性について

2006-05-21 21:31:04 | 非国民通信社社説

 国語教育の必要性が叫ばれているようです。理由の一つは英語教育の早期化を推し進めた結果の反動でしょうか。週に3時間や4時間程度、質の低い英語教育を続けたところで何年かけても外国語の習得などできるわけがありませんから、英語教育の早期化にはこちらも反対ですが。というよりむしろ質の低い教育は時間の無駄ですから、公立の小中学校自体、解体してしまっても良さそうなものですが、それはさておくとしましょう。

 国語教育の必要性が叫ばれるもう一つの理由は、イデオロギー上のものでしょう。国家を信仰している人々にとって日本語は神の言葉ですから、その神聖な言葉をもっと崇めなさい、と。ましてや汚らわしい異教の言葉のために日本語よりも多くの授業時間を割り当てるなど許せない、と。或いは(本人達に自覚はないでしょうが)若年層に対する差別意識、自分たちは正しい日本語の伝承者だが、今の若い世代はそうではない。そう言った願望の中に生きている人々にとっては、自分たちの側への矯正こそが望ましい。つまり、日本語をわかっている自分たち、わかっていない若者、そんな世界観を維持し、信じさせ、自分たちの側に屈服させたい、と。彼らが教えたがっている国語とはすなわち自分達の言葉、自分たちが規定し、教え導く言葉とも言えます。新聞、テレビ、政府、インターネットなど各種のメディアがこぞって偽情報を用いて若年層への憎悪を煽り立てている中では当然の帰結でしょう。

 そもそも国語教育とはいったい何だったのでしょう。私が受けてきた国語教育およびその直系である現代文とは、おおむね国家主義のイデオロギーとは少なからずずれていたような気もします。矯正が主題であったことは間違いありませんが、イデオロギー上の理由で国語教育の必要性を説く人々が望んでいるのとはかなり違う、少なくとも国体への信仰心を駆り立てるものではありませんでした。たぶん、推進派の望み通りに国語教育が強化されても、その思惑とは裏腹に国体への信仰心は養われないでしょう。

 むしろ教えていたのは権力関係、媚び、へつらい、すなわち現代社会でもっとも必要と規定されているコミュニケーション能力、社会人としての常識を教えるものだったのではないでしょうか。国語=現代文の試験問題を思い出していただきたいのですが、一部には漢字や文法など明確な回答のある問題もありますが、得点の大半を占めるのは解釈次第で回答がいくらでも分かれるものばかりです。しかし、それでも正解は一つなのです。よくある話では、作者の意図を回答させる問題、実際に作者に答えさせてみると、正答とは違ったと。それはそうです、国語=現代文における正答とはすなわち作者の意図したものではなく出題者の意図したものなのですから。だからあれは建前では「作者の意図」とされていますが実際には「出題者の意図」を答えなければなりません。そして出題者の意図と違っていれば、それは不正解です。

 基本的に国語=現代文は高校卒業までで終わりですが、卒業後にも似たような問題に突き当たります。たとえば就職関係、新聞などにはよく就職相談のコーナーがあって、読者の投稿に功成り遂げた偉い人が御高説をたれるわけですが、よくある回答の一つが「正解はありません」。まあこれは間違いですが、とりあえず新聞紙上は「正解はありません」がイデオロギー上は正しいということで。で、新聞を離れて現実に戻りましょう、現実ではどうでしょうか? 「正解は存在します、しかも一つだけです、それは相手によって違います」と。

 国語の試験の場合、課題となる文章が同じ、設問が同じでも出題者=採点者の意図次第で回答は変わります(そして概ねそれは一つしかありません)。国語でよい評価を得るためには、出題者の意図を汲み取る能力、出題者の望んだ回答を差し出す従順さが必要になるわけです。これは採用試験でも同じことで、審査官の意図と願望を汲み取り、相手の望んだ回答を差し出すことが求められます。たとえば「作者の意図」を答える設問で実際に作者が答えてもそれが正解とされるかどうかは出題者=採点者の意図次第であるように、たとえ真実であってもそれが正解になるかはわからない、それが国語です。そして採用試験でも同様に、たとえ真実を答えてもそれが正しいとされるかどうかは相手が何を信じ、望んでいるかによります。真実を答えるのであれば簡単なものですが、だいたいの場合それは相手が望んでいることとは違います。あくまで要求されているのは出題者側が望んだ答えを理解し、それに従った回答を差し出すことです。

 これは会社=社会での関係でも同じです。真実を突きつけるのではなく、相手の願望を汲み取り、それに合わせることすなわちコミュニケーション能力が声高に要求されています。上司の願望に理解を示さない、上司に合わせてくれない上司の思い通りに動いてくれない人々を大手マスメディアが総出を上げてバッシングにかかっています、コミュニケーション能力に欠ける若者が増えている、と。たぶん現実には増えていないと思いますが、新聞の世界ではたぶん増えているのでしょう。

 モスクワの政治集会、当宣伝員がソヴェト連邦の首都における輝かしい成果を語る。
「ゴーリキー通りには10ブロックの住宅を建設し、レーニン通りでは13ブロックも建設された。ソーコリニキ区ではなんと6つの工場が建設されたのだ!」
「宣伝員同志」と一人の労働者、「あたしはゴーリキー通りに住んでおりまして、レーニン通りを通って、毎日ソーコリニキ区へ働きに行くんですがね、新住宅も工場も見たことがない。」
 宣伝員は答えて曰く「通りをぶらぶらする暇があったら、もっとよく新聞を読みたまえ!」

 さて、会社からしてみれば部下のコミュニケーション能力は欲しくて仕方がないようです。企業の権力が非常に強まっている現在であれば要求は出し放題です。そうなると、ただ役目を果たしてくれるだけでは満足できない、常に上の立場の人間が快適でいられるよう、上の望みを察して上の幸福のために自分を曲げてくれる、コミュニケーション能力に長けた召使いが欲しくてたまらないようです。そういった意味では、国語教育の必要性が叫ばれるのも理解できますね。盲信しやすく自身を失いやすい小中学生のうちに国語教育によって出題者という権力者の意図を汲み取り、その意図に従うこと、そして意図を汲み取り、従うことを高く評価することでそれを良いことであると信じさせること、これは理想の教育であるといえるでしょう。


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