非国民通信

ノーモア・コイズミ

当事者の声

2019-02-24 22:12:11 | 社会

親の体罰「法律で禁じる方がよい」46% 朝日新聞調査(朝日新聞)

 「しつけ」に名を借りた児童虐待が相次いでいることを受け、朝日新聞社は16、17両日の世論調査で、親による体罰を法律で禁じることの是非を聞いた。「禁止する方がよい」は46%で、「しない方がよい」の32%を上回った。

 親の子どもへの体罰禁止を明記した法律はない。相次ぐ事件を受け、国会では家庭内の体罰禁止を法制化すべきだという意見が出ている。

 体罰禁止の法制化の是非を男女別にみると、「禁止しない方がよい」は男性が40%と比較的高く、女性は24%だった。

 年代別では、子育ての当事者に近い世代で、法制化に慎重な傾向がうかがえた。40代以下は「禁止しない方がよい」が4割と高めで、中でも男性の30代と40代は半数以上が「禁止しない方がよい」と答えた。一方、70歳以上は「禁止する方がよい」が52%だった。

 

  「若者のため」と称して暗に高齢者向けの社会保障削減を正当化したがる人は結構いますし、それなりの支持を集めていたりするものですが、支持する側の属性はどうなんだろうな、と思うわけです。「親が自分で老後を考えているので自分には関係ない」とか「親の介護は他の兄弟がする」みたいに考えている人の意見は、参考にならないどころか反映させるべきではないとすら言えますから。

 さて日本は、ことあるごとに「子供を大切にしろ」と言いたがる社会です。ほんの僅かでも「子供を大切にしていない」と見られれば、即座に罵倒の嵐が飛んできます。とにもかくにも「子供を大切にしろ」という圧力の強い社会であり、それだけに子供との距離が最も近いであろう母親の負担が重い社会ともなっている気がしますが、少子化の進行との因果関係はいかほどのものでしょうね。

 当事者と部外者とでは発言の重みも意味合いも当然、変わってきます。どれほど部外者が「子供を大切にすべきだ」と居丈高に連呼したところで、実際に子供の面倒を見る人にとっては甲子園や国会のヤジと大差ないことでしょう。ただただ外野から「子供を大切にしろ」と叫ぶだけの人ばかりだからこそ、今の世代構成ができあがったのではないか、とも言えます。

 そして今回のアンケート結果ですが、いかがなものでしょうか。世代別で見ると体罰を法律で禁止する方が良いと回答したのは、70歳以上が最多です。しかし70歳以上の人間が現役で子供を育てているとは考えにくいところ、一方で現役の子育て世代に最も近いであろう30代は――体罰を禁止すべきと回答した割合は最低で、「禁止しない方がよい」との回答が上回ってすらいます。

 それほど大きな開きがあるわけではないにせよ、子育ての当事者世代ほど体罰に肯定的である、その禁止に否定的であることがわかります。他人の子育てを外から眺めている世代は、体罰を禁止して子供を大事に育てるべきだと考えている一方で、自ら子供を育てている世代は、必ずしもそうは考えていないわけです。世の中、そういうものなのかも知れませんね。

 後はまぁプライバシーの問題などあって色々と難しいのかも知れませんが、こういうのは世代別・性別ごとの調査だけではなく、家族構成なども含めて回答結果を調査できると、より参考になると思います。同じ30代でも子供がいる人とそうでない人、70歳以上でも子供・孫とは別居している人と二世帯同居で孫とも暮らしている人、あるいは自分の子供はいないが交際相手の実子と同居している場合等々、世代の中でも回答傾向に差は出そうですから。

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タブーと信仰

2019-02-17 21:59:54 | 社会

 よく日本(人)は無宗教、みたいな言い方をする人がいて、無知というのは恥ずかしいものだなと思うわけです。この辺は、戦前の論理が今に生きていると言いますか、靖国信仰を「宗教を越えるもの」として位置づけた、すなわち宗教とは別枠で扱ってきた感覚が根付いているせいなのかも知れません。

 

韓国議長「天皇の直接謝罪で慰安婦問題は解決できる」(朝日新聞)

 韓国の文喜相(ムンヒサン)国会議長は7日に行われた米ブルームバーグ通信とのインタビューで、日韓の懸案である慰安婦問題について、天皇が元慰安婦に直接謝罪をすれば解決できるとの考えを示した。同通信は、文氏が天皇を「戦争犯罪の主犯の息子」と呼んだとも報じたが、インタビューに同席した国会報道官はこの表現は否定している。

 同通信は文氏に対するインタビュー記事を8日に、英語と日本語で配信した。それによると、文氏は「(元慰安婦への謝罪は)一言でいいのだ。日本を代表する首相か、間もなく退位される天皇が望ましいと思う」と主張。さらに、「その方(天皇)は戦争犯罪に関わった主犯の息子ではないか。おばあさんの手を握り、申し訳なかったと一言言えば、問題は解消されるだろう」と語ったという。

 

 「何に対する言及が冒涜として扱われるか」を見れば、その社会における宗教が分かる、と言えます。この韓国議長の発言への日本側の反応を見れば、日本の宗教及び信仰のよりどころが何処にあるかは、一目瞭然ではないでしょうか。天皇とは、日本社会におけるローマ教皇でありムハンマドのようなものであり続けているわけです。

 平成天皇とは呼ばずに今上天皇などと書かれているのを目にすると、あたかも肖像画を描くことが信徒の間で禁忌とされている類いを思わずにはいられないのですが、ともあれ少なからぬ日本人にとって天皇とは、今もなお神聖にして不可侵な存在であるようで、日韓関係は悪化の一途にあると伝えられています。

 なお私としては、韓国議長の認識には誤りがあると考えます。曰く「(天皇が)おばあさんの手を握り、申し訳なかったと一言言えば、問題は解消されるだろう」とのことですが、そんな簡単な話ではないでしょう。結局のところ日本と北朝鮮との拉致問題のように、国家(政府)間での手打ちが行われたところで個人の恨み辛みは消えない、天皇の謝罪で納得する人もいれば、そうでない人だっていくらでもいるはずですから。

 ただ天皇による謝罪が問題を解決しないとしても、そうする必要がないかと言えば別問題です。戦後、天皇の戦争責任は「なかったこと」にされてきました。これは宗主国アメリカの公認を受けたことではあるのかも知れませんが、当然ながら欺瞞でもあります。日本側が本当に戦時下及び占領下での加害行為を反省しているならば、こうした欺瞞を続けて良いはずがないでしょう。

 日本側として、自分たちは誠意を持って被害国に対応したと言いきれるようになるためには、やはり天皇の戦争責任を認める必要があります。昭和天皇一人の責任ではないとしても、決して昭和天皇に責任がないわけではない、天皇もまた戦犯の一員として被害者に償わなければならない、そうした認識なしに未来へと進むことは出来ません。

 「象徴化」というトリックによって、天皇の政治発言は良くも悪くも封じられてきました。その禁を部分的に破って出てきたのが生前退位だったりもするわけですが、この退位を巡るやりとりを見るに、どうやら天皇自身と「天皇を担ぐ信徒」の意思には少なからぬズレがあることがわかります。

 時代を遡っても、「朝敵」とされた会津藩主の松平容保と、「尊皇」を掲げて討幕運動を繰り広げた人々とでは、むしろ後者の方が天皇自身の意思を問わない、むしろ自身の正当化のために天皇を利用したがる傾向が見られました。その辺は現代も変わらない印象ですけれど、果たして平成天皇の戦争認識はどれほどのものでしょうね。

 制度上、天皇の発言には色々と制約があります。自身の意思を通すよりも、日本政府の意向に沿って発言してきたことの方が多いでしょう。そして日本政府の公式見解としては、天皇に戦争責任はないことになっています。だから、天皇の謝罪などあり得ない、それを求めるのは冒涜になってしまうわけです。果たして天皇自身は何を思っているのか、直訴ならぬ直撃インタビューでもやってみる人がいれば面白いですけれど――信仰の対象は敬遠されるのが常でもあります。

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どうしたらいいのかはわかりません

2019-02-10 22:05:36 | 社会

 子供の虐待死事件は定期的に出てきますが、昨今は児童から相談を受けたはずの学校や児相の対応が目も当てられないほど杜撰だったりして、いつも以上に注目を集めているようです。「専門家によると、虐待のリスクを高める行為」云々みたいな報道もありますが、「誰が見ても」明らかに児童を見捨てに行ったとしか考えられない対応のオンパレードですから。

 まぁ本気で虐待の問題に対処したくて教員や児相の職員になった人なんていないでしょうし、特別な危険手当を貰っているわけでもないと来れば、児童よりも自身の身を守る方が優先されるのが致し方ないのかも知れません。いじめの問題なんかも然り、下手に介入すれば今度は教員がいじめのターゲットにされることもある、ならばいじめを黙認する方が安全等々。

 この辺、治安が一定の域を超えてしまった国での警察みたいみたいなもので、下手に動くよりもマフィアの裏金を受け取った方が身の安全を守れる――といった判断が成り立つような状況にあるとも言えそうです。「たまたま」死人が出れば警察も動く、そうなれば色々と調査されますが、それは氷山の一角であり、大半は被害者の泣き寝入りで「片付いて」いるのだと思います。

 しかし、これだけ少子化が進んでいる、生涯未婚率も上昇している時代に妻子がいるというのは、それなりの恋愛エリートだとも考えられないでしょうか。子供なんていない、付き合っている相手なんていない、そういう人が珍しくない現代日本に妻と子供がいるのは、「普通以上」と目されるべきではないか、そんな印象もあったりします。

 「レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」と、伝説の迷言を残した元大臣がいますけれど、児童虐待に関してはどうなんでしょうね。異性交遊に興味を示さない人も増えれば、子供を持たない人も増えた時代ですから、何かの拍子にろくでもないことを言い出す人がいても不思議ではないような気がしないでもありません。

 とりあえず自分の住む地域ですと、病院でも図書館でもパン屋でも、どこでも子供が元気にかけずり回っていますので少子化など微塵も体感できなかったりしますし、今も隣家からは母親とおぼしき女性の叫び声と子供の金切り声が聞こえてきます。通報のラインって、どの辺なんだろうと考えることも偶にありますが――たぶん通報したら、私の方が「子供の声に狭量な問題のある大人」として糾弾されると思います。

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評価されるための能力

2019-02-03 21:28:48 | 雇用・経済

 離職率の高い会社――というものは、どこにでもあると思います。私の勤務先も、例外ではありません。まぁ、離職者がいるから中途や通年での採用(=穴埋め)があるのです。中途でも入社できる会社とは、その分だけ辞める人もいる会社であることは覚悟しなければならないのでしょう。しかしながら、一口に離職率が高いと言っても、その実は「部署次第、配属次第」となっているところもあるようです。

 上司の資質次第で部下の離職率が変わるのはもちろんのことですが、配属される「職種」によって離職率は大きく異なるものではないでしょうか。極限まで単純化すれば「営業は離職率が高く、事務系は離職率が低い」等々。とかく「ブラック企業」とは一括りに扱われがちですが、より細かく見ていけば「ブラック部署」「ブラック職種」もあるのかな、と思いますね。

 面白いのは、離職率の高い営業という職種は求人も多く採用基準も緩めだったりすることです。「営業として働き続ける」ことのハードルは高いのに、不思議と「営業として採用される」ハードルは低い、どうしたものでしょう。反対に事務系職種は、採用に関しては圧倒的な狭き門です。しかし事務系職種の離職率は営業よりずっと低かったりするのを考慮しますと、「事務として働き続ける」ことは、そう難しくないように見えます。採用のハードルは、あんなに高いのに。

 そこで私が考えるのは、「採用に当たって求められる能力」と「実際に働く際に必要な能力」は一致しない、と言うことですね。営業として採用されるためには、そんなに特別な能力をアピールする必要はない、しかし営業として活躍するためには相当に高度な能力が求められる、反対に事務職として採用されるためには特別な人材を装う必要があるものの、入社してしまえば平凡以下でもなんとかなる……

 覚えている人も多いと思いますが、理化学研究所のユニットリーダーとして活躍した小保方晴子さんという人がいるわけです。同世代の研究者の間では最も出世していた人の中に数えても良さそうな人ですけれど――諸々の不正が発覚して職を辞することにもなりました。彼女の研究者としての資質については当然ながら疑問符が付きますが、しかし彼女と同年齢で理研のユニットリーダーの地位を得られる人が、果たしてどれだけいるでしょうか? 研究者の資質は欠いていても、採用される能力、昇進する能力、人から評価される能力は、世代のトップクラスであったと言えます。

 逆に小保方さんよりも研究者として真っ当な人は多々いると思いますが、その中には理研なんて夢のまた夢、ポスドクに収まることが出来ればマシな方、就職(採用)とは無縁で不遇を託っている人も数多いるはずです。ヨソの国はいざ知らず、我々の社会とは、そういうものなのかも知れません。

 「今の若い人は、みんな本当に英語が上手なんだよね」と会社の偉い人が言っていました。採用に携わるような人の感覚からすれば、そうなのでしょう。残念ながら私は採用には関与しませんし、職場で英語を使う機会が皆無なので、若い人の英語力を知る機会がなかったりします。まぁ職場で英語が必要になる機会はなくとも、採用に当たっては英語力をアピールする若者が多いと推測すれば辻褄は合うでしょうか。

 昨今はどこの大学も(就活でアピールすべく)英語重視に拍車がかかっている他、中学や高校入試ですら「試験は英語一教科のみ」とする学校が出始めていると聞きます。アメリカやイギリスに行けば、落第生や失業者でも英語なんて誰でも話せる気がしますが、日本人にとって「とにかく英語力」というのは定番のようです。

 しかし英語力が自慢の新卒者が実際に就業して、得意の英語を活かして大活躍できるかと言えば――99%以上の若者は失望を味わっているだろうな、と思います。「グローバル」を掲げたがる会社は多くても、本当のグローバル企業は一握り、普通の人が就職するのはドメスティックな企業ですから。ただ、そんな英語を使う機会のない会社でも、就職の際に求められる能力として英語は重要なのでしょう。

 まぁ、国内市場をターゲットにする会社でも、昨今は外資系企業との取引は増えています。外資系企業の、日本語を介さない担当者を相手に営業をかけるなら、英語力が問われるのかも知れません。しかし私が注目したいのは、「現地の言葉を介さなくても要職に就いている人が(外資系企業には)普通にいる」と言うことですね。

 日本には、「日本語に不自由しない人」が1億人くらいいます。しかし日本語が巧みであれば日本で活躍できるかと言えば、そうもいかないわけです。逆に、日本語が不自由でも外資系企業の要人として活躍している人は、いくらでもいます。ではヨソの国に舞台を置き換えてみればいかがでしょう。英語が巧みでありさえすれば「世界で」活躍できるのかどうか、逆に英語が不自由でも活躍している人はいるのかいないのか等々。

 日本企業に就職する上では英語力が大いに問われる時代になりましたが、それもまた実際に働く上で必要な能力と、ただ就職するためだけに必要な能力との、深刻な乖離を象徴しているように見えます。とにかく採用面接の場面で自分をアピールする能力だけは高い、上長から評価を得て昇進する能力だけは高い、そういう人が会社で地位を高めていった結果、日本経済は上向いたのか、あるいは凋落していったのか――我々の社会はどちらを向いているのでしょう。

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