非国民通信

ノーモア・コイズミ

現代のレイシズムとしての能力主義

2007-04-22 21:25:28 | 非国民通信社社説

 レイシズムとは、資本主義という一つの経済構造の中で、労働者の色々な集団が相互に関係を持たざるを得なくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことである。要するにレイシズムとは、労働者の階層化と極めて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。

 各民族集団の遺伝学的及び長く続いてきた「文化的」特徴こそが、資本主義というこの経済構造の中で各集団がそれぞれ違った位置を占めている主要な原因だというのが、このイデオロギー的主張の柱である。しかし実際には、普通ある集団が特定の経済活動に関して他の集団より「優れている」という信念が成立するのは、その集団の労働力としての位置づけが決まってしまった後のことであって、それ以前のことではなかったのである。

~イマニュエル・ウォーラーステイン

 狭義のレイシズムが意味するところは人種主義、人種に基づく差別であるわけですが、では人種に基づいていなければどうなのでしょうか。中には日本には人種差別はないと断言する人もいます。そりゃぁ人種の3分類で考えれば日本は黄色人種の比率が圧倒的に高いわけで、白人、黒人は少数派というよりも例外的な位置づけであって、差別が成り立つ土壌自体がないという考え方も不可能ではありません。しかしこの辺の考え方を受け容れるとしても、では黄色人種による黄色人種に対する差別はどうでしょうか。分類上、同人種であればそこで行われる差別はレイシズムとは違うのでしょうか?

 ここでウォーラーステインが言及したレイシズムが意味しているのは、必ずしも肌の色の違いを必要としないレイシズムです。そして肌の色の違いを必要としないために、可視化されにくいレイシズムでもあります。肌の色の違いを理由として行われる差別は、今や誰がどう見てもレイシズムであり、そこに疑いの余地はありません。しかし肌の色に基づかない差別は、しばしば「区別」などと呼び換えられ、潜在的なものとして今なお根を張り巡らせているのではないでしょうか。

 ウォーラーステインが言及したレイシズムとは、労働者の不公平な階層化を正当化するイデオロギーであり、その不公平に対する理由付けとして機能するものです。たとえば白人が黒人を奴隷として使役する、これを正当化する理論上の裏付けとしてレイシズムが働くわけで、すなわち黒人が奴隷状態に置かれているのは、黒人が劣等種だから、と。

 このレイシズムと不公平な社会的立場の成立する順序が、実は一般に考えられているものとは逆であるとウォーラーステインは指摘します。すなわち「黒人は劣等種」という信念が先にあり、それに導かれる形で黒人の奴隷化が進められたのではなく、黒人の奴隷化を進める必要が先にあり、それを正当化するイデオロギーとして「黒人は劣等種」という信念が成立したわけです。

 フランスでは黒人であることよりも、アルジェリア人であることの方が嫌われるそうです。日本でも同様、黒人であることよりも中国人、韓国人であることの方が嫌われます。黒人奴隷に依存していない国にとっては、黒人に対する差別感情よりも優先されるものがあるのでしょう。旧植民地以外では、ブラジル人もこの枠に含めてもよさそうです。この場合は奴隷労働とまでは言いませんが、出稼ぎ労働者を輸入し、日本人に比べて遙かに低い賃金と不当な待遇で使役する、経済システムがこの不公平を必要としているからこそ、それを正当化する理由が必要になってくるわけです。彼らに不当な賃金しか与えない、それを正当化する理由として「彼らが劣っているから」という信念が要求されているのではないでしょうか。

 単に異なる他者への無理解、不寛容から来るレイシズムもあるわけですが、経済的な要請から産まれるレイシズム、経済的な不公平を正当化し、還元するためのレイシズムにも注視しなければならない状況が昨今では強まっているのではないでしょうか。なぜなら、この経済的な不公平は日本人に対してすら広がっているのですから。

 ここでレイシズムと同様に、成立の順序が逆ではないかと疑われる概念があります。「実力主義」あるいは「能力主義」がそれで、「能力主義」が結果的に格差社会を招いたと考えられがちなのですが、そうではなく格差社会が「能力主義」を要求した、格差社会を正当化するイデオロギーとして「能力主義」が成立したのではないか、そう考えられるのです。

 ウォーラーステインの言葉を借りれば、能力主義とはこう定義できるのではないでしょうか。

 能力主義とは、資本主義という一つの経済構造の中で、労働者の色々な集団が相互に関係を持たざるを得なくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことである。要するに能力主義とは、労働者の階層化と極めて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。

 各社会集団の社会学的及び長く続いてきた「文化的」特徴こそが、資本主義というこの経済構造の中で各集団がそれぞれ違った位置を占めている主要な原因だというのが、このイデオロギー的主張の柱である。しかし実際には、普通ある集団が特定の経済活動に関して他の集団より「優れている」という信念が成立するのは、その集団の労働力としての位置づけが決まってしまった後のことであって、それ以前のことではなかったのである。

 すなわち、黒人奴隷が不当である、その不当性を正当化する後付の理由として「黒人は劣っているから」という信念が要求された、それがレイシズムであるならば、昨今の低賃金労働が不当である、その不当性を正当化する後付の理由として「彼らに能力がないから」という信念が要求される、そうして成立したのが「能力主義」なのではないでしょうか?

 ともすると能力主義とは能力のある人を上に押し上げるシステムと考えられがちですが、それは順序が逆で、能力があるから上へと上れたのではなく、上へと上れたから能力があると認められたのではないでしょうか? それは、黒人が劣等種だから奴隷にされたのではなく、奴隷にされたから劣等種として扱われたのと同じことです。

 能力主義と並んで良く用いられるのが「成果主義」でしょうか。結果を残した人を評価するシステムですが、この成果主義の流行に見られるように、過程ではなく結果だけを重視する傾向は止まるところを知りません。そしてこの結果から、そこに至るまでの過程が類推される―――すなわち結果的に成功すれば、そこに至るまでの道程もまた賞賛され、結果的に失敗すれば、そこに至るまでの道程もまた否定されるわけです。

 これが昨今の金持ち優遇と貧困層切り捨ての正当化にも繋がるわけですね。支配階級である人種が優等種と見なされ、被支配階級である人種が劣等種と見なされたように、結果的に成功している人は能力がある、努力してきたと見なされる、結果的に失敗した人は無能、怠けていると見なされる、金持ちは勤勉な人間として大切に扱われ、貧乏人は努力不足としてその責任を負わされることになるのです。そうして出てくる言葉が「金持ち優遇ではない、ただ頑張っている人に報いることを考えているだけ」、「貧困層切り捨てではない、しかし能力のない、努力もしていない人を優遇してしまうと、優秀な人にとって不公平・・・」

 言うまでもなく、結果と過程は必ずしも一致しません。本当に努力して成功した人もいれば、巡り合わせに恵まれて成功した人もいますし、怠けていたから失敗した人もいれば、努力したけれど失敗した人もいるわけです。こういう現実があるだけに結果的に失敗した人のためのセーフティネットが必要とされているわけですが、これを転換するのが「能力主義」であり、そのイデオロギーが「能力のある人、努力した人が報われる社会」なのです。

 そこで、イデオロギーを現実化させようとする動きが出てくるわけです。ソ連では「社会主義国に失業はない」というイデオロギーを実現するために、アル中患者でも一応は雇用し、働いていなくても給与支払い実績を作り、どうしても無所属でいようとする人は無為徒食罪で収容所に送り込みました。一方、日本では「能力のある人、努力した人が報われる社会」というイデオロギーを現実化するべく、結果的に成功した人を能力のある人、努力してきた人として優遇するようになり、結果として失敗した人を能力がない、努力が足りないとして切り捨てるようになったわけです。

 「努力すれば報われる社会」というイデオロギーを守るため、「報われた人が努力した人と見なされる社会」が作られているのではないでしょうか? これが導くところはすなわち、階級の流動化ではなく階級の固定化です。「能力主義」が意味するのは能力によって結果が導かれ、階級が流動する社会ではなく、結果によって能力が導かれ、階級の固定を正当化するものではないでしょうか。そこに私は昨今の「能力主義」とレイシズムの近似性を見ます。

 「機会の平等」も似たようなものです。機会の平等が達成されているのであれば、その後の結果的な不平等の扱いはどうなるでしょうか? 機会が平等なら、結果の不平等は自己責任でしょうか。例え機会の平等が確保されたとして、そこで同じように努力しても、やはり結果的に成功できるか失敗するか、それは分かれるわけですが・・・

 そもそも能力だの努力だのと言ったところで、それが何の能力なのか、何の努力なのか、それを選ぶ自由があるのかを私は問いたいのです。会社で働く仕事のための能力、ひたすら仕事をするための努力なのでしょうか? それは労働力としての価値で人を計る社会です。そうではなく、人間の差異、多様性を認める社会であろうとするのであれば、例えそれが職業に結びつかなくとも、その人が誇る能力で評価されるべきですし、何に努力するのかを選んでも良いはずです。それができない限り、レイシズムを産んだ潜在的な根は、形を変えて生き延び続けるのではないでしょうか。

 

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3 コメント

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Unknown (ベースケ)
2007-04-27 22:45:18
非常に興味深い考察でした。
資本家の意図としては、正にそんな構造なんではないでしょうか。
私も、能力主義についてこの記事を参考にした視点で見て・考えてみたいと思います。
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Unknown (非国民通信管理人)
2007-04-28 00:20:21
>ベースケさん

 コメントどーもです。
 一見するとフェアなものに見えてしまう能力主義や成果主義が、実はアンフェアなものを正当化する可能性も含んでいる、その可能性を多少なりとも意識していただけましたら幸いです。
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Unknown (七詩)
2008-07-21 04:41:22
大変鋭い論考で感服いたしました。
能力もあり努力した人が優遇されるのは当然、機会の平等は保障するが結果の平等は保障しない・・・こんな言説を聞くたびに、どっか違う、なんか違うと思っていましたが、これを読んで「目から鱗」でした。
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