非国民通信

ノーモア・コイズミ

愛国心より忠誠心?

2007-01-07 21:55:18 | 非国民通信社社説

 明日は成人の日で休みなんですね。働くことが苦痛でしょうがない私にとって、少しだけ心が休まります。思えば昨年は実に多くの休みがつぶれた年でした。2/11、4/29、9/23、12/23と祝日が4つも土曜日と重なり、実質的に休日のない月もしばしば。今年は土曜日と重なるのは5/5と11/3の2つ、だいぶマシですね。土曜日が祝日と重なった場合にも振り替え休日を設けて欲しいものですが。

 さて明日の成人の日は、連休を増やすとか適当な理由で月曜日に移された休日であります。よくよく考えると祝日をすべて月曜日に移してしまえば祝日と土曜日が重なって休みそびれるということがなくなります。悪いことではありませんね。しかるに、月曜に移された祝日とそうでない祝日があります。何が違うのでしょう?

 月曜に移された祝日は成人の日、海の日、敬老の日、体育の日と戦後生まれの祝日が並びます。一方で動きのない祝日は紀元節、裕仁さんの誕生日、睦仁さんの誕生日、新嘗祭、明仁さんの誕生日と国家神道上の意味づけがありそうな日が並びます。えーっと、嘉仁さんを仲間はずれにするのはいけないと思います。

 旗日という言葉がありまして、酔っぱらいに言わせれば祝日には国旗を掲揚するものだそうです。変わった風習の国もあるものですね。この旗日派の人たちは国旗の掲揚にあたり、戦後レジームによって作られた祝日と国家神道由来の祝日を選り分けたりするのでしょうか?

 しかるに祝日ごとに国旗を掲揚している家はあまり見ませんね。ネット上の意見では祝日には国旗を掲揚するのがあるべき姿であり、今のあり方は間違っているとのことですが、自ら率先して国旗を掲揚する人は少ないようです。そして石原都知事もまたその一人、各種の式典における国旗掲揚の義務づけで知られる都知事ではありますが、祝祭日であろうと自宅に国旗を掲揚したりはしていないことがよく知られています。

 結局のところ他人に国旗を掲揚することを迫る人が目立つ割には、自ら国旗を掲揚する人の数は多くありません。国旗の掲揚とセットで出てくる国歌の斉唱にしたところで似たようなもの、起立して国歌斉唱すべしと強要する石原慎太郎はかつて「君が代は好きではない」と語っていました。他人に国歌は歌わせたいが、自分で歌うつもりはなさそうです。国を守るとか公に尽くすとか言っている連中も同様、奴らは国を守らせたい、公とやらに尽くさせたいのであって自分がそうしたいわけではないと見ておくべきでしょう。

 さて、世界の潮流に逆行した中央集権化が進む昨今ですが、国旗・国歌に関する条例を独自に制定する自治体が散見されます。国旗の掲げ方、国歌の歌い方に関して事細かにやり方が規定され、国歌を歌う声量を測定しようとする自治体すら出る有様。誤解に基づいているとはいえ公務員の削減が叫ばれる中、わざわざ公費を投入して役人を派遣、条例の定めるスタイルを遵守しているかを事細かに監視する暇な自治体も珍しくありません。もっと他にやるべきことがありそうなものですが。

 18世紀のロシアにニーコンという総主教がいました。総主教というのはカトリックの教皇と並ぶ最高位ですね、東方正教会の5つの総主教位の一つであるモスクワ総主教位についたのがニーコンという人です。あまり知られていませんがロシアのキリスト教会でも西欧の宗教改革に匹敵する分裂がありまして、その引き金を引いたのがこのニーコンだったわけです。

 このニーコン総主教が何をしたかと言いますと色々あるわけですが、分裂の火種となったのはニーコンが「改革」した礼拝の作法でした。代表的なものは・・・

・十字を切るときの指を2本から3本に変更
・従来の八端の十字架を廃止して西欧で一般的な形の十字架を使用
・教会の周囲を回るときは時計回りではなく反時計回りに変更
・「アレルヤ」は2回ではなく3回唱えること
・イエスの綴りはИсусからИисусに変更

 総主教ニーコンの改革により事細かな変更があったわけですが、この変更を受け入れなかった人も少なくなく、彼らは「古儀式派」「分離派」などと呼ばれ異端として弾圧されることとなりました。総主教ニーコンもまた皇帝との政争に敗れて失脚するのですが、しかるにニーコンの奇妙な改革は受け継がれることとなります。たとえばピョートル大帝時代の有名な「ヒゲ税」、顎髭に税金をかけるという発想をおもしろおかしく語る記述ばかりですが、実はニーコンの改革によって追いやられた古儀式派はキリストの顰みに倣うとして顎髭を伸ばす人が多かったわけです。ですから顎髭に税金をかけるとはすなわち、古儀式派を狩り出し税制面で圧力をかけるためのものだったわけです。

 しかし、異端とされ弾圧された古儀式派の罪とは何だったのでしょうか? 十字を2本指で切っても3本指で切ってもその信仰心に違いはあるのでしょうか? あるいは教会を時計回りに回ったことが罪なのでしょうか? アレルヤを2回しか唱えなかったから異端? イエスをИсусと綴ったから信仰心に問題アリ?

 傍目から見れば、そこで問われているのが信仰の問題ではないことが明らかです。国教であるところのギリシャ正教を信じているかどうかではなく、教会のトップの決めたやり方を遵守しているかどうか、それが問われた訳です。上が決めたことを忠実に守っているかどうか、言われたことに従っていれば正当、従わなければ異端である。そうして人を選り分けたのがロシアの宗教改革でした。

 そしてこれと同じことが日本の国旗・国歌を巡る取り扱いにも通じる訳です。御上が決めたとおりに国旗を掲揚しない、上からの指示通りのやり方で国歌を歌わない、これがしばしば愛国心の問題にすり替えられている訳ですが、そこで問われているのは実は愛国心とは違ったものではないでしょうか?

 右翼の鈴木邦夫氏はかつては国旗を常時掲揚していたそうです。しかしふと見ると、国旗がぼろぼろに痛んでいた、これでは国旗を大切にしているとは言えないかもしれないなと思ったそうです。日本では式典や祭典などことあるごとに国旗が振り回されますが、考えようによっては国旗を安売りしている訳で、、重んじるのであればもっと大切なときに限って掲揚すべきとも考えられますし、そのような扱いをしている国も珍しくはありません。とにかく起立して歌わなければいけないことになっている君が代にしたところで、スポーツの試合ごとに芸能人が妙な節をつけて歌うのは不敬かもしれませんし、そもそも敬うのであれば黙って聴くべきものであり、一緒に歌うなどとんでもない、そう考えて国歌は聴くだけで歌わない国もまた珍しくありません。また日本には国旗の寄せ書きをする風習がありますがこれは日本独自のもので、他の国でこれをやったら国旗への侮辱として顰蹙を買います。

 そんな訳で国旗や国歌への敬意の表し方、愛国心の表し方もまた一様ではないわけで、特定の様式、上が決めた様式に沿っていないからといって不敬であるとは限らない訳です。それでもなぜ、決められた方式で国旗を掲揚し、起立して声に出して国歌を歌わなければ処分の対象にされてしまうのでしょうか? そこで問われているのが愛国心云々であれば形式は重要ではないはずです。しかし問われているのが御上への忠誠、上が決めたことに従うか従わないか、そうであるならば昨今の頻発する処分にも説明がつきます。国旗・国歌への敬意も愛国心もなくても上からの命令を忠実に実行していれば問題なし、心の底では国旗・国歌に敬意を持っていても、それを上が決めたやり方に沿って表現できないのであれば処分の対象、これでは18世紀ロシアと変わりがありませんね。

 結局、国旗や国歌なんてものは踏み絵に過ぎず、本当は誰も敬ってなんかいない、愛国心なんてのも隠れ蓑に過ぎず、国を愛するのではなく国の指導者の決定に従わせることが求められているのです。だから日本が右傾化していると言われるとき、たしかにナショナリズムは排外主義の面では高まっている訳ですが、内側に向けてはどうなのでしょうか? 向かう先は自国を大切にするナショナリズムである以上に、指導者の決定に服従しよう、させようとする全体主義に見えてきます。

 

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