非国民通信

ノーモア・コイズミ

帰ってきた走れマルクス・アルレリウス・アントニヌス(中編)

2006-05-01 23:35:50 | 文芸欄

 マルクス・アウレリウス・アントニヌスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、ローマへ到着したのは、翌る日の午前、日は既に高く昇って、臣民たちは野に出て仕事をはじめていた。エンゲルスも、きょうはマルクスの代わりに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来るマルクス・アウレリウス・アントニヌスの、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさくマルクス・アウレリウス・アントニヌスに質問を浴びせた。
「なんでもない」マルクス・アウレリウス・アントニヌスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、『共産党宣言』を書き上げる。早いほうがよかろう」
 エンゲルスは頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣装も買って来た。さあ、臣民達に知らせて来い。完成は、あすだと」
 マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、また、よろよろ歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を整え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚めたのは夜だった。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは起きてすぐ、『共産党宣言』に着手した。それはいけない、こちらには未だ何の支度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、とか色々あったが、夜明けまで議論をつづけて、『共産党宣言』執筆は進められた。真昼になっても執筆は続けられた。第3章を書いていたころ、黒雲が空を覆い、ぼつりぼつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。何らかの祝宴に列席していた臣民たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。完成を前にしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。何らかの祝宴は、夜に入ってもいよいよ乱れ華やかになり、臣民たちは、外の豪雨を全く気にしなくなった。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、一生このままここにいたい、と思った。臣民たちに傅かれて生涯暮らして行きたいと願ったが、今は、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬことである。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの宮殿にぐずぐずとどまっていたかった。マルクス・アウレリウス・アントニヌスほどの漢にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしいエンゲルスに近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには私の膨大な草稿があるのだから、決して仕事が無くなることは無い。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。読者との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、たぶん偉い漢なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
 エンゲルスは、夢見心地で首肯いた。
「支度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、未発表の草稿の山だけだ。他には、何も無い。全部あげよう」
 エンゲルスは揉み手して、てれていた。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは笑って臣民たちにも会釈して、玉座から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って断頭台に上がってやる。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、悠々と身支度を始めた。雨も、いくぶん小振りになっている様子である。身支度は出来た。さて、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
 私は今宵、首を斬られる。首を斬られる為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪知を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は首を斬られる。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いマルクス・アウレリウス・アントニヌスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。ローマを出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや追っ手の心配はない。エンゲルスは、きっと佳い思想家になるだろう。私には、今、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ち前の呑気さを取り返し、好きな革命歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ折り返し地点に到達した頃、降って湧いた災難、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一気に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは川岸にうずくまり、漢泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために首を斬られるのです」
 こういう時は後で生け贄を捧げる約束をしなければ願いを聞き届けてはもらえないものであるが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスがそれを怠ったので、濁流は、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はマルクス・アウレリウス・アントニヌスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠と共産主義の偉大な力を、今こそ発揮してみせる。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、ざんぶと流れに飛び込み、二百五十六匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の階級闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。マルクス・アウレリウス・アントニヌスはシマウマのように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。後は自転車があればよかったのだが、自転車はない。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一体の山賊が躍り出た。
「おぅ、ワレ、ちょっと待たんかい」
「何をするのだ。私は日の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。持ち物全部を置いて行け」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのだ」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。おもしろい、大秦国王アントンの力を見せてやろう」
 山賊は、ものも言わず棍棒を振り挙げた。アントンはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如くに襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃ナックルアロー、延髄斬りから必殺の卍固めでギブアップを奪った。その後一気に峠を駈け降りたが、さすがに疲労し、折りから午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは幾度となく目眩を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上がることが出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、異種格闘技戦を制し韋駄天、ここまで突破してきたマルクス・アウレリウス・アントニヌスよ。おおまるくす・あるれりうす・あんとにぬすよ、しんでしまうとはなさけない。愛する友はおまえを信じたばかりに、やがて首を斬られなければならぬ。おまえは、希代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、ローマ皇帝に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一杯に努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、出来ることなら私の胸を裁ち割って、深紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実と共産主義の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な漢だ。私は、きっと笑われる。私の帝国も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。カラカラ帝よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。今だって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、カラカラ帝。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。カラカラ帝、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。異種格闘技戦も制して、一気に峠を駈け降りてきたのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれてこい、と耳打ちした。おくれたら、身代わりを斬首して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事もなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。カラカラ帝よ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。ローマには私の宮殿が在る。羊も居る。エンゲルスは、まさか私をローマから追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、共産主義だの、考えてみれば、くだらない。社員を殺して会社が生きる。それが資本主義社会の定法ではなかったか*2。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。──四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

*2 この戦いの特色は、労働者軍の募集によってよりもむしろ解雇によって勝利が得られるということである。将軍たる資本家達は、相互に、誰が最も多く産業兵卒を除隊しうるかを競争する。(『賃労働と資本』)

後編へ続く

 

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