非国民通信

ノーモア・コイズミ

俺たちはサムライじゃない

2007-04-07 21:55:50 | 非国民通信社社説

 松坂大輔投手が初登板で白星を上げるなど、海外での日本人スポーツ選手の活躍が目立っています。対する報道の過熱ぶりも目に余るものがあり、尾身財務相が苦言を呈したとか。財務相がどうこう言う問題ではないとも思いますが、まぁ日本時代は滅多にテレビで見られなかった選手が海外に移籍することでようやく広く一般のファンにも見られるようになる、これはちょっと奇妙なことかもしれませんね。

 別に野球の松坂に限らず、今期はサッカーでも高原や中村がなかなかの好調、チームを牽引しているなど日本人スポーツ選手の活躍が増えているわけです。そこで私が気になったのは、彼らがしばしば「サムライ」と称されるところです。なにゆえ「サムライ」? 日本人ファンもこの「サムライ」呼ばわりは心地よいようで自ら「サムライ」を称することが多いわけですが、これはどうしてなのでしょうか。

 そもそも、「サムライ」とは何を指しているのでしょうか? 例えば英語版wikipediaの冒頭はこうです。

 Samurai was a term for the military nobility in pre-industrial Japan.

 手元の和英辞典によると a Japanese warrior

 和露辞典によると voin pri feodalisme Yaponii(日本の封建時代以前の兵士)

 日本の侍には公務員、役人的な役割もあるわけですが、それはあくまで国内的な用法のようで、世界で「サムライ」と言った場合に意味するのは軍人、兵隊のようです。

 日本人スポーツ選手が海外で活躍すると「サムライ」の称号を頂戴します。あるいはスポーツの日本代表を「サムライ」と呼んで送り出す国内の風習もあります。しかし、他の国の選手の場合はどうなのでしょうか? 国を代表するスポーツ選手に、その出身国の軍人を意味する言葉を用いて形容するケースはあるのでしょうか?

 ロシア人の場合、国外で活躍する選手に用いられる典型的な称号は皇帝を意味する「Tsar'」です。軍人を意味する言葉で形容されるケースはなかなか見つかりません。ドイツでもその国のトップスターに与えられる称号は、やはり皇帝を意味する「Kaiser」ですね。フランスはどうでしょうか? ミシェル・プラティニの愛称は「将軍」と言われていますが、これは意図的な誤訳のようで、原文は王を意味する「Le Roi」です。

 日本でも昔は「天皇」金田や「キング」カズなど、国家元首に例えられるスポーツ選手がいましたが、この頃は一兵卒を意味する「サムライ」一辺倒ですね。日本人選手がサムライと例えられ、日本人もまた代表選手達をサムライと呼ぶ、あまりにも馴染んだこの光景ですが、実はなかなかに奇異なことであるのかもしれません。自国の代表選手を兵卒に擬えるのはあまり例がないわけです。

 日本では、王であるはずのプラティニの称号を「将軍」と意訳するほか、ブラジル代表監督のドゥンガにも「鬼軍曹」なるニックネームを独自に献上しています。ドゥンガ氏の本名はCarlos Caetano Bledorn Verri、これの愛称が「ドゥンガ」なのですが、日本ではこれに「鬼軍曹」なるものが付け加わるわけです。どうも日本人は他国の代表選手に対しても、何らかの形で軍関係者に擬えようとする傾向があるようです。

 スポーツの世界に限らずとも、企業人の間では似たような傾向、すなわち軍人に擬えようとする傾向は見られるのではないでしょうか。「社畜」なる言葉を編み出したのは佐高信氏だそうですが、その佐高氏がある日のコラムでこのようなことを書いていました。

 パリで、日本のある商社マンが夜遅くまで働いている日本人について、フランス人から次のような指摘を受けた。「我々は市民として三つの義務をバランスさせながら生活している。一つ目は家庭に対する義務、二つ目は仕事に対する義務、三つ目は地域コミュニティに対する義務だ。だが、あの人たちは仕事というたった一つの義務だけに生きて、家庭と地域に対する義務を捨てている。フランスでそれを捨てていいのは軍人か囚人だ。あの人たちはどうやら囚人ではないようだから、おそらく軍人なのだろう。」

 こういう意見を聞いて、ジャパニーズビジネスマンはどう思うのでしょうか? フランス市民からすればバランスを欠いた生き方として批判しているのでしょうが、むしろ日本人にとっては褒め言葉にすらなりかねない気がします。日本人はサムライ、すなわち軍人を自認するものであり、軍人と認められることは働きぶりを認められることでもありますから。

 そう言えば、「企業戦士」なんて言葉もありますね。これも日本独特の風習でしょうか。「corporate warrior」なんて言葉は存在しないような気がします。たぶん、「corporate warrior」などと言ったらイメージされるのはオイルメジャーの傭兵部隊辺りではないかと。企業労働者と戦闘集団のイメージが容易に結びつく文化はかなり珍しいのではないでしょうか。

 『なぜカイシャのお偉方は司馬遼太郎が大好きなのか?』という本があります。この本は各章の見出しが非常におもしろいのですが、ともあれ会社のお偉方は司馬遼太郎に代表される歴史物、特に武人を主人公にした小説を好む傾向が強いわけです。そして本の中で著者である春日直樹氏はこの『なぜ〜』に答えるべく5つの仮説を立てます。

a)リーダーシップを学ぶのに適しているから
b)重大な判断を下すときの参考になるから
c)登場人物キャラと比較すれば上司や同僚や部下のタイプが理解しやすいから
d)戦争に興味があるから
e)自分を小説の主人公に見立てると気分がいいから

 そして春日氏曰くa,b,c,eであるならば時代物に限る必要はない、『中曽根康弘日本の総理学』や『星野仙一の監督術』あたりの同時代の指導者の本の方がよほどリアルで参考になる、だからa,b,c,eはボツ、正解は消去法で・・・

 『なぜカイシャの〜』は学術書ではなく、むしろ軽い本ですので論証にはもちろんツッコミどころはありますが、目の付け所はおもしろいわけです。お偉いさんは軍人を主人公にした歴史物が好き、リーダーシップ云々を口実にしつつ、本当は戦争が好きだからこそ軍記物を愛読している、そしてそういう本を部下にも読ませようとするのは、部下にも軍人精神を持ってもらいたいからでしょうか。軍記物を読んで、小説中に登場するような立派なサムライ、(企業)戦士になってほしい、そういう欲望がありそうです。

 考えてみれば「社会人」なる概念も日本に特有かもしれませんね。日本版wikipediaに社会人の項目はあっても英語版には該当のページがありませんし、和英辞典を引いてみれば、a (working) member of society 随分と説明的な訳です。参考までに和露辞典も引いてみますと、(polnotsennyj) chlen obshchestva (一人前の)社会の一員、とでも訳しましょうか、かなり苦しい説明的な言葉でしか「社会人」を表せないようです。

 この「社会人」の特徴は「社会人」と「社会人でない人」の間に明確な線引きがあることでもあります。つまり「軍人」と「民間人」のように相容れない、同時に満たすことが出来ないものとして位置づけられているわけです。あるいは、ホワイトカラーの中核社員と現場の労働者で出世のコースが分けられているのもまた、士官候補生と現場の兵卒の間のコースの違いと同じ構造を持っています。非正規雇用はさしずめ臨時に赤紙で徴兵した使い捨ての兵卒でしょうかね。

 スポーツの話に戻りますと、サムライに擬えられている当の選手達はどう感じているのでしょうか? 「俺はスポーツ選手だ、兵隊じゃない」そういう人が誰か出てきてもよさそうなものですが、今のところ「サムライ」と呼ばれることに不快感をあらわにした人はいません。なぜでしょうか? もしかしたら、日本のスポーツ界は想像以上に軍隊との親和性が高いものなのかもしれません。

 台湾出身の大豊選手が阪神タイガースと喧嘩別れのような形で決裂したとき、彼は台湾に帰るに際してこう言い残しました―――「日本で学んだのは、嫌なことでも笑顔で『ハイ』と答えること」。なるほど、本人の意思よりも集団の意思を躊躇うことなく優先する、これは日本のスポーツ界の軍隊性を表す一つの要素でしょうか。

 イタリアのサッカーコーチが日本でサッカー教室を開催したときに、日本の子供はイタリアの子供に比べて体が強いと賞賛していました。イタリアの子供と違って日本の子供は圧倒的に運動する時間が長い、それは特に学校教育における体育の重視が影響しているとのことでした。子供の体力が低下していると言われる昨今ですが、サッカー世界一のイタリアの子供よりも日本の子供の方が体力が豊富でよく運動しているようです。

 では、日本の学校教育における体育とはどんなものでしょうか? それは単純に運動能力の向上を図るものではありませんでした。身体能力向上のために最適化されたプログラムでは決してなく、体力作りとは明らかに無関係なものが少なからず組み込まれていたはずです。代表的なものは、繰り返される整列の練習や運動会のマスゲーム、これは体力ではなく何を養うものだったのでしょうか?

 地域によっては運動部への参加が義務づけられている小中学校も珍しくないと思われますが、その部活動にしたところで、純粋に競技に必要な技術を磨くだけの場所だったでしょうか? そうではなく、明らかに競技とは無関係な行為、上下関係や集団生活など、そういうものを教える場でもあったはずです。それも「社会のルール」などと称して!

 極論してしまえば、日本の学校体育は戦前の教練を継承しているわけです。富国強兵を成し遂げるべく、号令一つで規律正しく整列し、将軍様も絶賛の一糸乱れぬマスゲームを披露、上下関係を良く心得ており、上からの命令には絶対服従、そして集団生活に良く馴染む、そういう兵卒及び産業兵卒を育成しようとする戦前の教育目的を受け継いでいるのが学校体育なのです。そしてしばしば、体育教師が生活指導の担当を兼任していることも思い出してください。それは学校体育の理念を体育の時間に限定するのではなく、生徒の生活全般に及ぼそうとする意図が知らず知らずのうちに作用した結果ではないでしょうか。

 そんな学校体育の中から発掘されたスポーツエリートにとって、兵卒を表す「サムライ」に擬えられることは決して抵抗を感じるようなことではないのかもしれません。そして「企業戦士」も似たようなもの、採用面接の際に「体育会系の部活に所属していたことはありますか?」と聞かれたこともある人は少なくないと思います。体育会系の部活出身であることは採用に当たって相当なプラスになるわけですが、それはすなわち会社側が良き兵卒としての素養を追い求めているからでしょう。

 スポーツ界では「サムライ」を、サラリーマン社会では「企業戦士」を範とする軍隊的な社会が維持され続けているわけですが、その他に目をやるとどうでしょうか? 佐高氏のコラムに出てきたフランス人に言わせれば市民には3つの義務、家庭に対する義務、仕事に対する義務、地域に対する義務があるそうですが、日本ではどうでしょうか?

 日本では、仕事に対する義務さえ果たしていれば、他の2つの義務を果たしていなくとも免罪される、むしろ賞賛される傾向にあります。なぜでしょうか? 日本人はサムライすなわち軍人だからでしょうか? 逆に家庭に対する義務、地域に対する義務を果たしていても、仕事に対する義務を果たしていない場合、これは確実に軽蔑されます。人格を貶められます。どんなに立派な人であっても、働いていないことはここでは罪なのです。

 日本・中国・韓国の児童を対象にしたあるアンケートによると、日本の子供は他の二国の子供に比べると学習意欲が著しく低い、これが大いに問題視されていました。しかし、データをよく見ると日本の子供は他の二国の子供に比べるとスポーツ、運動への意欲が著しく高い結果が出ていました。そうですね、良きサムライ、産業兵卒になるためには勉強するよりも学校体育や部活動など、日本式のスポーツ界に身を染めた方が将来が開けるわけですから。

 村上龍氏は「野球は格闘技だ、サッカーは戦争だ」と言ったそうです。一方、クロアチア代表のズボニミール・ボバンは「『サッカーは戦争だ』などと言う奴は、本当の戦争を知らないんだ」と、そう言いました。同じくクロアチア出身の格闘技選手であるミルコ・クロコップも、来日の際に取材陣から母国の戦争についてたびたびコメントを求められ「お前達は戦争がどんなものかわかっているのか?」と答えていました。

 ボバンやミルコなど、実際に戦争に曝されてきた人たちから見れば、戦争とは紛れもない悲劇なのでしょう。逆に平和ボケのひどい人から見れば、戦争とはサッカー、野球、格闘技と並ぶもの、競い合うもの、挑戦するもの、ある種の親しみすら感じさせるものなのでしょう。

 最近では石原慎太郎も「選挙は戦争だ」などと宣ったそうで。誰かが死ぬわけでもない行為を安易に戦争に擬える人は少なくないようです。今でも世界から戦争は消えていないわけですが、そう言った戦争をあくまで他人事と考えてきた人々にとっては、歴史小説やプロパガンダ映画の中の戦争こそが真実の戦争であり、それは災厄ではなく英雄物語なのでしょう。そうであるからこそサッカーを戦争に例えられる、また選挙にも例えられるわけで、そこでは戦争という言葉は決して否定的な意味で用いられてはいません。これは真に戦争の脅威に曝されている国では考えられないことです。

 国を代表するスポーツ選手が兵卒を意味するサムライと称し、教育機関は良き兵卒の素養を伸ばそうとする、会社側は規律正しく従順で集団の意思を優先する産業兵卒を欲し、社会は人を産業兵卒としての機能で判断する。正式な軍隊は一度は解散されたものの、軍隊的な人間形成を範とする意識は確実に受け継がれてきたわけです。日本は決して軍隊を嫌う社会ではない、そうではなく、高度に軍隊と一体化した、軍隊的な価値観を内包した社会なのではないか、私にはそう思われるわけです。

 高橋哲哉氏は、日本が右傾化してきたと言うよりも日本の「地金」が出てきたのではないか、そう語ります。たしかに、戦前から脈々と受け継がれてきた軍隊的な価値観が表に出てきたのかもしれません。克服されるべき戦後レジームなるものがあるとしたら、真に克服されるべきはこの富国強兵を支える軍隊の幻想、染みついた軍隊への親近感ではないでしょうか。幸運なことに日本は長い間、その気になれば戦争という軍事力の行使から目を背けていることが可能でした。しかるにそこから産まれてきたのは、フィクションと混同された戦争、英雄物語としての戦争観でもあり、そしてその行使者である軍人に自らを擬える風習はより一層強まりつつあります。この軍隊的な社会、すなわちサムライ社会を続けるのでしょうか、それとも克服することが出来るのでしょうか? 今やサムライ社会が経済的な面からきわめてアンバランスなものとなりつつありますが、ここが転換点となるでしょうか。

 

 ←もう泣くな、俺たちは戦争に負けたわけじゃない
                                〜ホセ・ルイス・チラベルト

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10 コメント

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体育系サムライは、少なくとも本来の意味のサムライじゃないぞ! (y-burn)
2007-04-08 00:04:56
 歴史的な話をすれば、本来の意味のサムライは関ヶ原のトリをつとめた、あの10万人の大群の中を二千人で突っ切って脱出した、島津義弘公以降は殆ど全滅した、と言っても良いんじゃないかな?それ以降はサムライは徳川政権の中で公務員になってしまうわけだからね。今回の話での「サムライ」は、戦前教育上で出現し、未だに私立高校や鹿児島のクズな公立高校(補習等という愚行を未だに行っている)では今でも生きています。本来の意味で使えよ、言葉は。

 おいらのブログの中で紹介した「前田慶次郎利益」が、本来の意味でのサムライだ、と思います。あと、最終的に、ある意味関ヶ原の勝利者になった宇喜多秀家もそうだろうし、先述した島津義弘公も。あ、明治維新で自分の藩の利益のみで活躍することを良しとせず活躍した面々もそうだよな。

 そういえば、軍隊の様式を採用しているのが現在の大企業なわけだけど、もうそれって古い考え方だよな、と思います(派遣雇用者は傭兵?だから先陣切って突っ込ませ、死んでもどうも思わないわけだな)。

 これからの組織は、めちゃくちゃなことを言えば、ケロロ小隊で良いんだよ。「(目的のためには)戦法は自由、各自の判断に任せるであります、いいか、総員、適当にやるであります!」(http://www.youtube.com/watch?v=Aj31e-jVgyc の3分10秒当たり)
こういう考え方の方が、軍隊的な考え方より良いと思うけどね、というか、ケロロ招待も軍隊だっけw。
サムライ (juda)
2007-04-08 02:42:52
武士階級は西洋で言えば「騎士」ですよ。
兵卒は「足軽」。

西洋での20世紀前半辺りの政治家・官僚・軍人に貴族の末裔が多数存在するのは少し調べれば分かります。

「赤い男爵」と呼ばれた第一次大戦のエースパイロット、マンフレート・フライヒャー・フォン・リヒトホーフェンなんか有名。
「フライヒャー」が「騎士」です。

見当違いの知識で駄文を書き散らす前に歴史を勉強しませう。
ではどのような社会を? (Chic Stone)
2007-04-08 10:16:06
日本の地金が軍隊的な価値観、そのゆがんだ戯画である武士道…では、それを全否定するには、全ての望みがかなうとしてどのようにすればいいでしょう。
あなたが全権を持つ独裁者で教育も言論出版も自由にできるとして、それから?

また物事には常に両面があります。
軍隊的価値観、ゆがんだ武士道精神も、とりあえず高度成長ができる程度に日本人の社会秩序・勤勉を維持する役には立ってきたわけです。
あと、軍事教練の延長にある行進なども大地震のとき避難の役には立つこともお忘れなく。あれはあれで、大人数が安全に移動するための最適解です。
さて、武士道を含め軍隊的なものをなくす場合、代わりにどんな道徳原理を骨髄移植レベルの深さで注入すれば社会、各個人の人格が維持できるでしょう。
キリスト教を含む西洋民主主義全体でしょうか…いや、西洋民主主義にも軍国主義の萌芽はあります。ギリシャの民主主義は武器を持てる市民のものでしたし、キリスト教もフランス・ロシア革命も実際には武器を取らせる論理になっています。
それともガンジー・老子・宮沢賢治など、完全に武器とは無縁の東洋的道徳を見直すべきでしょうか?
日本国憲法を基盤にまったく新しい道徳を創造し、全国民の内心の奥の奥まで容赦なく強制すべきでしょうか?

軍隊的だ、と現在の社会を非難するのもいいですが、では軍隊的でない社会はどのようなものか、軍隊的な社会に生まれ育った日本人全員にとって想像しにくいものがあります。
できたらそれを示してください…できれば低技術社会ではなく、現在の近代文明に適合できる、またはせめて一億二千万が餓死しないでいられるものを。

また…高度成長には成功した軍隊的カイシャも、これからのグローバル経済には適合していません。
権力側はそれをどう変えるつもりなのか、それも考えておくべきでしょう。
サムライの定義 (ぱらいそ)
2007-04-08 11:30:57
「サムライ」なるものはそれが誕生した平安時代から今?に至るまで存在し続けていますが、その内実は当然のことながら時代とともに大きく変化しています。だから「歴史的」にどうであったかを論じることは非常に困難ではないでしょうか。

少なくとも、現在われわれがイメージする「サムライ」の元ネタは『葉隠』に代表されるような江戸時代に空想された理想像でしょうが、全体としてはそんなサムライはフィクションに過ぎません。

なお、日本の侍や武士をヨーロッパの「騎士」とを同列視するのは無理があると思いますよ。あえて並べたとしても「騎士」に相当するのは最低限「殿様」と呼ばれる旗本・大小名クラスでしょう。
Unknown (非国民通信管理人)
2007-04-08 14:16:39
>y-burnさん

 一口に「侍」と言っても時代によって違いますよね。戦国時代のしたたかに生き延びようとする侍もいれば、家康を震え上がらせた薩摩隼人もいる、江戸時代の公務員としての侍もいるわけで、私が個人的に好きなのは宇喜多直家や最上義光など謀略によって周囲を出し抜いて生き延びようとした侍だったりします。そして嫌いなのは言うまでもなく、戦前の富国強兵策の中で形成され滅私奉公部隊として今に至る「サムライ」なわけです。この「サムライ」は他の時代の「侍」に比べるとかなり特異な存在だと思うのですがね・・・

>judaさん

 政治家・官僚・軍人に貴族の末裔が多数存在することが今回のエントリにどう関わってくるのかわかりかねます。また、武士=騎士及び兵卒=足軽とするのは非常に乱暴な定義であり、広汎に通用するものではありません。恥をまき散らす前にまず本文を読まれることと、歴史を勉強されることをお勧めします。

>Chic Stoneさん

 現状を改革しようとする意見に反対する際の典型として、現状における問題点を必要悪として必須であると位置づける手口が頻繁に見られます。しかし日本型サムライ社会にも都合の良い点は探せば見つかるわけですが、それがなければたちどころに行き詰まるようなものではないのではないでしょうか。日本の生活が苦しく見えるのは単にバランスが悪いからであって、全体で見れば日本は世界でも最も裕福な国です。軍隊性を維持し続けなければたちどころに崩壊し餓死者を大量に発生させるような、そんな貧困な国家ではありません。

 さて、私がもし全権を掌握したら? やるべきことは色々とありますが、この一億総サムライ社会からの脱却のためには、軍隊的会社の地位を相対的に下げることが有効ではないかと考えます。そのためには会社勤務による収入の割合を下げ、二次分配による収入の割合を上げる、ベーシックインカムの導入など、会社への依存度を下げます。そうすることで漸進的に企業戦士志向を弱め、家庭や地域の義務に目を向けさせる方向に誘導することが出来るのではないでしょうか。

>ぱらいそさん

 平和な江戸時代に書かれた『葉隠れ』における想像上の侍は、現代の「サムライ」に非常に近いところがありますね。平和な時代だからこそ可能だったフィクションとしてのサムライ像のはずが、いつのまにか「侍」を代表するイメージとなってしまったようですが・・・

 いずれにせよ、歴史上の侍や武士が騎士階級と重なるかどうかは疑わしいところですし、現代においてサムライと称し、称されている日本人達においてはなおさらです。日本史上、武士や侍が多数派であった時代はないわけですが、例外的に現代だけは「サムライ」が多数派として幅を利かせているわけで、ここが奇妙なところだと思われるのです。
騎士と武士は (juda)
2007-04-08 14:18:53
農民を直接支配する下級の封建領主なのでかなり相似した存在です。
ヨーロッパでは三十年戦争以来国王の常備する傭兵団が主流になりフランス革命以後は国民軍が形成された。
日本では江戸時代に封建体制下の官吏と化して生き延びたが、幕末から西南戦争にかけてその軍事的意義を否定されることによって事実上消滅。

それでも「騎士道」「武士道」という「武力を持った者が自らを律する美徳」が理想として流布したことには大きな精神的意義がある。

で、「サムライ」は「兵士」とは別物ですので。

あと訂正。
「フライヒャー」は男爵でした。
騎士は「リッター」。
ヨーロッパの貴族もいろいろでは? (山名)
2007-04-08 19:41:56
そういえばポーランドには
シュラフタというのがありましたね。
Wikipediaには「シュラフタの人数
は西欧の貴族と比較すると多い
ため、時に日本の武士と対比して
「士族」と称される事もある。」
とあります。
アンジェイ・ワイダの『約束の土地』
をご覧になったことはありませんか?
シュラフタ出身の青年がユダヤ人や
ドイツ人の青年と組んで事業を興そうと奮闘する話です。

Unknown (doushin)
2007-04-08 20:06:05
学生であるということを盾にして、感想だけ書き込みます。書き込みたかったので。

うーん、、、体育ってのは、そういうものだと思うのですね。つまり富国強兵なるもののため、ですか。あるいは、娯楽や健康の維持のため「のみ」に体育が設定されている国があったとしたら、それは素晴らしい思想を持った、理想的な、近代的な国なのだと思います。それと、「キング」カズと高原や中村の時代、たったこれだけの間で、そんなにも変化、日本の地金、がでてきたんでしょうか?だとしたら、なにか恐ろしいものを感じます。学校での指導員の話ですが、わたしの学校では社会科の先生がやっていました。怖い先生でした。おそらく、日本の生活指導員になるためには、怖いことが必要なのではないでしょうか。それはそれで問題ですけど。教育のはなしでいえば、受験戦争なんてのもありますね。ところで、そのように簡単に戦争戦争言う人は、本当の戦争を知らない平和ボケした人なのだ、とおっしゃっていますが、そうである場合、我々はどのように対処すればいいのでしょうか。いま、戦争の脅威がないから良いというはなしではありませんよね。なので、この平和ボケの状態を解消するべきだと思うのですが、管理人さんはどうお考えなのでしょうか。

経済の話がありましたが、わたしはテレビ東京的な、世の中は金なんだよー!っていう感じのノリ、これをグローバリズムというのであれば、こういったものは、大嫌いなわけですが、それがアメリカですよね。それで、EUなんかは、そのアメリカから(?)のグローバリズムに対抗するために作られたものだと思っています。あそこは非常に近代的で、分権化も進んでいますから、それでいて国よりも大きなモノを作り上げたというのは、そうとうグローバリズムというものが、国をも脅かす脅威なのでしょう。それで、サムライ社会はそれに打ち勝つことが出来ないということで、わたしはすごく不安になります。とても不安に感じます。では、どうしたらよいのでしょうか?やはり分権化(近代化)でしょうか。というか近代ってヨーロッパのことなんでしょうか?感覚的にアメリカは近代国家だとは思えません。そして日本も。うーん、、、ここまでくると、社会学的な専門的な知識が必要になってくるのでしょうか、わたしは専門外なので、不安だなーと、そこで終わってしまいます。自分の無知加減に嫌気がさします。

管理人さんがおっしゃりたいことは、戦前あたりから日本はおかしくなって、おかしくなったので戦争をして、そしてその後もおかしいままで、いままで生き残れたのは運が良かっただけであるから、もうそろそろ正常化しないとまずいよ、ということだと受け取りました。そして選挙では考えて投票しよう、と。わたしが大学で受けた社会学では、解決策として「農本主義」的なものをいれることだと、なんかあやしい感じのことをやっていました。鯨塚だとかマタギだとか、そういった文化を認知し、「いのち」を育てて、殺して、食べる、そういったことを認知する、みたいなことでした。思うに、日本は近代国家でないし、伝統文化といったものもほぼないのでしょう。結局、日本はおかしくなって以来、「下地」のようなものが無いんだと思います。これから進むべきベクトルは、近代化しつつ、過去の伝統を認知する、という方向にあるのかな、と感じました。

以上、駄文失礼しました。
Unknown (非国民党員)
2007-04-08 20:07:10
精神論が好きですね 確かに幻想にすぎない武士道精神が日本の発展に一部寄与したことは全否定できませんが同時に生きにくい社会をつくったこともまた事実、その結果が現在なんですからこれを改善するにあたってなぜまた大昔の遺物を必要とするのか?もうこんなの日本人には不必要なんですよ
Unknown (非国民通信管理人)
2007-04-08 21:18:19
>judaさん

 なにやら拘りがおありのようですが、judaさんのコメントは私のエントリのどこに関係があるのですか? judaさん流の武士像を主張したいのであればご自身のブログでもお使い下さい。

>山名さん

 なるほど、人数的な面からポーランドのシュラフタは日本の武士と対比される存在なのですか。しかし、デュデクやスモラレクなど、ポーランドを代表するアスリートが「シュラフタ」なる愛称、異名を頂戴したケースは見られないような気がします。

 シュラフタ出身者がシュラフタと、士族出身者がサムライと呼ばれ、自認することはむしろ自然なことなのですが、自身の出身に反して行われることはあるのでしょうか? 現代の日本の場合、士族出身者ではない人でも「サムライ」と呼ばれ、「サムライ」を自認するケースが珍しくありませんが、ポーランドの商工、及び農業出身者が「シュラフタ」の愛称を頂戴するようなケースはあるのでしょうかね?

>doushinさん

 「キング」カズと「サムライ」と呼ばれるその他のアスリートの違いは世代の違いもさることながら、経歴の違いもあるかもしれませんね。カズは日本を飛び出してブラジルで修行してきた選手ですから。

 戦争という言葉を安易に使う、肯定的な比喩に使う、これは戦争というものに甘い幻想を抱く平和ボケの産物だと思います。もしかしたら、本当の戦争という惨禍に曝されることでこの平和ボケは解消されるかもしれませんが、それではあまりにも犠牲が大きすぎるわけです。我が身に惨禍が降り注いで初めて戦争の悲惨さを知るのではなく、そうなる前に戦争の悲惨さをいかに想起できるか、そこに日本人の「知」が問われる気がします。車に轢かれてから車に気をつけるのではなく、轢かれる前に危険性を察知できるか、それが分かれ目だと思うのです。

 経済に目を向けますと、国内産業の停滞とは裏腹に、厳しい国際競争に曝されているはずの輸出産業はむしろ好調だったりします。グローバリズムの波に乗った自動車会社よりもトヨタの方が遙かに強大だったりもするわけで、こうしてみるとサムライ社会は意外に強いものなのかもしれません。しかし、サムライ社会では外国企業との競争に勝てても、その社会の構成員が幸せになれるかというと疑問を感じるわけで、そこに現時点での不満と将来的な破綻を感じることがあります。

 そこでどうやって梶を切るべきか、昔に回帰するという方向で考えると、農本主義なども出てくるのでしょうか。そこから学ぶべきことも少なくはなさそうですが、過去のモデルに回帰するのではなく、新しいモデルを生み出す必要があるのではないかと私は思います。その新しいモデルをどう作っていくかは非常に難しい問題ではありますが。

>非国民党員さん

 精神論は未だに人気がありますね。特に偉い人の間では。苦しいときも文句を言わずに従順に働いてくれれば、統率、経営する側としてはやりやすいのでしょう。しかし上から見れば好都合の精神論も、下から見れば苦しいものです。上に都合の良いシステムから、下に立つ人間がゆとりを持って過ごせるシステムへ、その転換を探って欲しいところですね。

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