非国民通信

ノーモア・コイズミ

「安心」を求めて

2012-01-31 23:01:08 | 社会

ハーブ吸引した少年が吐き気 渋谷の店、傷害容疑で捜索(朝日新聞)

 東京都渋谷区の路上で25日夜、ハーブを吸引した17歳と18歳の少年3人が吐き気を訴えた事件があり、警視庁渋谷署は26日夜、傷害容疑で、ハーブを少年に提供した同区道玄坂2丁目のハーブ店「街のハーブ屋さん」を家宅捜索した。

 同署と東京消防庁によると、少年3人は同店でハーブを譲り受け吸引したところ、吐き気や頭痛を訴え、病院に運ばれた。3人とも意識はあり、命に別条はないという。同署は、店内のハーブなどを押収して成分を詳しく鑑定する。

 ハーブをめぐっては、薬事法などの規制対象外の薬物を混ぜて合法として販売する「脱法ハーブ」が問題化。吸引すると、気分が高ぶったり幻覚症状を引き起こしたりするという。

 さて、こんなニュースもありました。「脱法ハーブ」である以上は既存の法律による摘発が難しいのか、傷害容疑で捜索が行われるそうです。もっとも「3人とも意識はあり、命に別条はない」とのこと。一方、これが歴とした合法品であるアルコールだったりしますと、「命に別条はない」では済まない事態が多発しているわけです。ここで取り沙汰されている脱法ハーブや大麻の類にも全く問題がないとは言えないにせよ、そこまで問題視されなければならないのかと首を傾げるものがないでもありません。

 典型的な例として蒟蒻ゼリーと餅がそうであるように、しばしば危険性の度合いよりも「話題性」の大きさに準じて我々の社会は動いていないでしょうか。むしろ珍しいが故に人目を引いてしまう事例がクローズアップされ、過大に危険視された挙げ句に規制や忌避の対象となるのに対し、頻繁に発生する事態は特筆されるまでもないこととしてメディアを賑わすことも視聴者や読者の記憶に残ることも少なく、そのリスクは意識されないままスルーされるわけです。

 総じて日本社会は「安全」より「安心」寄りなのかも知れません。まぁ、世界屈指の長寿国で治安の良さに関しては今なお世界に誇るレベルの日本ですから十分に安全とは言えますけれど、それでも「安全」よりも「安心」を重視しがちではないかと感じることは多いです。アルコールに関する「緩さ」と脱法ハーブや大麻などへの「厳しさ」、餅への「緩さ」と蒟蒻ゼリーへの「厳しさ」、危険性の度合いが高いものよりも、国民の警戒感が強いものの方をこそ厳しく制限していく日本社会が重視しているのは、やはり「安全」以上に「安心」の方なのではないでしょうか。

 

「選挙権年齢引き下げ」18歳成人も検討 経済活性に寄与 契約などリスク(産経新聞)

 現在「20歳以上」の選挙権年齢の「18歳以上」への引き下げについて、藤村修官房長官は26日の記者会見で「必要な検討を進めていく」と述べ、政府内の議論を来月再開する方針を表明した。民法上の「成人年齢」の引き下げも主要テーマに据える。成人年齢引き下げは若年層の社会参加や経済効果が期待されるが、高校生に飲酒・喫煙や独断でのローン契約を認めることには異論も多く「権利と義務」の引き下げは功罪相半ばしそうだ。

(中略)

 最たる例は「未成年者飲酒禁止法」と「未成年者喫煙禁止法」だ。未成年者の飲酒・喫煙は禁じられているが、成人年齢が18歳に引き下げられれば高校生の飲酒・喫煙も可となる。

 むしろ寿命の長くなった時代には、モラトリアム期間を延ばして「社会参加」を後方にシフトさせていくのが正しいと私なんかは思うのですが、ともあれ成人年齢引き下げ論があるわけです。それに伴い、「未成年」に禁止されている飲酒と喫煙も18歳以上からとなるとされています。もっとも、アメリカでは飲酒が合法になるのは21歳からです。しかるに成人年齢は州ごとにばらつきがあるにせよ18歳としているケースが多かったりします。法律上の「成人」になったから酒を飲んでもいい、と考える社会ばかりではないのですね。「安全」に配慮するなら飲酒可能年齢は引き下げるべきでないと言えますが、日本では一概に「成人」であるかどうかが基準と考えられているようです。つまりは肉体的な成熟の度合いではなく、社会的に「成人」であるかどうかで飲酒の是非が分かれているのです。「未成年の飲酒」「高校生の飲酒」には悪い印象を持つ一方でアルコールの害については甚だ鈍感、「安全」よりも「安心」を重視しがちな傾向がここにも見えているように思います。

 

たばこで死亡、年12万9千人 07年分、東大など分析(朝日新聞)

 喫煙が原因でがんなどで亡くなった大人の日本人は2007年に約12万9千人、高血圧が原因で脳卒中などで亡くなった人は約10万4千人と推定されることが、東京大や大阪大などの分析でわかった。国際医学誌プロスメディシンに発表した。

 原発事故以降、色々と騒がれているのは今さら語るまでもありませんが、煙草を吸いながらガンになる心配をしている人、煙草をふかしながら我が子がガンになったらどうしようと頭を悩ませている人の存在は、傍目には体を張ったギャグにしか見えません。常習的な喫煙によるガンのリスクは2000ミリシーベルト相当、受動喫煙ですら100ミリシーベルト相当と言われているくらいで、福島で暮らすよりも喫煙者の家族と暮らす方が危ないです。でも、福島はおろか東京など東日本で暮らすことにすら「安心」できない人がいる一方で、平気な顔で煙草を吸い続けるような人もいたりするとしたら、これまた「安全」ではなく「安心」ばかりを追求していると言えます。

 ことによると、ニコチンよりポロニウムの方を気にする人だっているのかも知れません。煙草には微量の放射性ポロニウムが含まれていて、まぁ極めて微量ですので気にする必要はないと考えますが、どんなに微量でも放射性物質が含まれていてはダメなんだと言い張る人もいるわけです。昨今の放射能フィーバーとでも言うべき状況の中では、ことさらに放射「能」の脅威ばかりが強調され、その他のリスクはむしろ蔑ろにされてきたように思います。被災地のガレキ受け入れを巡る騒動なんかはその典型で、ガレキで放射「能」が拡散する、「安心できない」と主張する人々に押される形でガレキの受け入れを拒む自治体も出てしまいましたが、果たしてガレキ処理を遅らせることのリスクはマトモに考えられているのやら。

 一時期は福島の住民に対してしきりに移住を呼びかける人たちがいました。福島はもう住めないのだと事実無根な脅しをかけていたわけですが、彼らの脅しこそが最も有害であった気がしてなりません。ともあれ、福島の居住者に対して放射「能」のリスクを説いて移住を迫るなら、放射線の影響を誇張せず等身大に語ることに加えて移住に伴うリスクをも説明しなければ誠実とは言えなかったでしょう。ろくな準備もないまま移住して生活を破綻させてしまったケースも多々あると聞きますし、それはチェルノブイリでも起こったことです。こうした事態は容易に予測できたはずなのに、特定のリスク、話題性の強いリスクばかりを過大視して、むしろ「珍しくない」リスクを十分に考慮してこなかった、「安心」を「安全」に優先させてしまった結果として被害を拡大させているのではないでしょうか。

 

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追い風は都合良く吹かない

2012-01-29 11:23:37 | 社会

 さて東京電力の値上げ計画は予想通りの反発を買っているわけですが、半年と少し前を思い起こすと、値上げ案がむしろ電力会社に否定的な人々の側から上がっていたような気がしないでもありません。電力不足に対応すべく需要ピーク時の電力使用を抑制しなければならない、そのためにはピーク時間帯の電力料金を値上げすれば良いのではないかとか、そういう提案をする人もいたはずで、この値上げ計画に関して囂々たる非難が寄せられたということはありませんでした。どちらも値上げには変わらないのですが、どうしてでしょうね。

 結局のところ、電気の利用を制限するためとか原発を潰すためとか、そういう動機での値上げは社会的に許容されるけれど、電力会社を存続させるという面が表に出ると、社会を支えるインフラの安定に責任を負うはずの政治家からすら強い反発を買う、そういうものなのかも知れません。誰か(何か)を罰するためならば許されることでも、誰か(何か)を助けるためと目されれば国民の怒りを買う、そして政治家もそれに迎合するというわけです。電気を「使わせない」ための値上げはアリでも、今後とも安定的に電気を「使えるようにする」ための値上げはネガティヴにとられるのですから、まぁ嫌な話です。

 

北海道の風力発電所、10年で廃止…コスト重荷(読売新聞)

 オホーツク地方で唯一の風力発電施設の北海道興部おこっぺ町風力発電所が修繕費調達難のため、完成から約10年で廃止となった。

 東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故後、風力発電が注目されているが、小規模風力発電施設が直面するコスト高の課題を露呈した格好だ。
 
 同町の風力発電所は2001年3月に完成。風車1基で、建設費約1億9000万円のうち独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」がほぼ半額を、町が約5000万円をそれぞれ負担した。町の農業研究施設に電力を供給、余剰分は北海道電力に売電し、売電収入は約9年半で計6170万円。6430万円の維持管理費とほぼ均衡していた。
 
 しかし10年10月に欧州製の部品が破損。交換には高所作業も必要で、修理に約4000万円かかることが判明した。修理費は全額町負担で、町は「コスト面で運転再開は困難」として、昨年11月に発電所廃止を決めた。風車を固定し、モニュメントにする予定だ。

 別に小規模なものでなくとも風力発電の採算性は微妙のようで似たような事例には事欠きませんが、この風力発電が変に期待されるようになっているのですから大変です。独立行政法人の類が金を出してくれるからと安易に風車を立てたところで維持管理費だって安くないのですから、もうちょっと建設はシビアに考えるべきなのではないでしょうか。昨今では電力の自由化だの新規参入だのが喧しい一方、発電した分を発電した分だけ自動的に既存の電力会社に買い取らせようと、規制緩和とは全く逆行する動きも強いわけです。ただ本当に自由になったら既存電力会社側に「今は電力は足りてるので買い取りません」と判断する自由があって当然と言えます。ダブルスタンダードが基本の我が国でそのような事態が起こるとは考えにくいにせよ、風力発電をアテにするのはどうなんだろうと思わないでもありません。将来へ向けての研究開発や試験運用を続けるのは良いことですが……

 日本語で「リストラ」と言ったらとにかく人員削減や給与カットを指し、現に東京電力が強いられているのもこれでありますが、経営再建のために切り捨てられるのは従業員だけではないわけです。なんだかんだ言って風力発電なり太陽光発電なりへ積極的に金を出しているのも東京電力など既存の電力会社で、これが経営合理化を迫られるとなるとどうなるのでしょう。ある意味、広報活動の一環としては悪くない投資なのかも知れませんけれど、必要なときに発電できるとは限らず採算性も微妙な代物をどこまで維持拡大できるのやら。電力会社を追い詰めた結果として風力発電や太陽光発電の縮小を招くとしたら、何とも良いお笑いですね。

 それはさておき「日本は資源がないから~」との枕詞は頻繁に聞かされます。まぁ、化石燃料資源に乏しいのは確かです。だから化石燃料に頼らぬ方策を検討しなければならないということになるのでしょうし、とりあえず特定の資源への依存はどこの国であろうと避けるべきものだとは思います。ただ、日本にも資源はある、エネルギー源としての資源はあるはずです。地熱? いえいえ、いかに火山国といえど日本の人口規模からすれば地熱もまたアテにできるレベルの代物ではありません。そんなものではなく、豊富な雨量と高低差に富んだ地形、これこそ資源なのではないでしょうか。

 つまり、水力発電です。豊富な雨量と高低差に富んだ地形は水力発電にはうってつけです。水力発電は既に開発限界に達したとの声もあります。ただ開発限界とはコスト概念を含んだものと理解していますが、違うでしょうか? 石油が枯渇すると言われ続けて数十年、価格は高騰しながらも石油の流通は続いています。地面に穴を開ければ湧いて出るようなレベルの資源が枯渇して原油価格が高騰すると採掘のために投入可能なコストが増える、そうなると地底や海底の奥深くから石油をくみ上げても採算が取れるようになる、結果として化石燃料は枯渇すると言われながらも流通を続けてきました。

 レアアースなんかはもっと典型的で、実は世界中の広いエリアで採れるらしいです、コストをかければ。しかるに中国でコストをかけなくても簡単に採掘できる鉱脈が開発されると、中国から買った方が圧倒的に安くなる、レアアースのために中国から買う以上のコストを投入するのが難しくなる、レアアースが中国でしか採れなくなる――みたいなことになるわけです。もしレアアースの価格が金のような貴金属と同レベルにまで高騰すれば、再びレアアースに投入可能なコストが増えて、世界中の広い範囲で採れるものになるとされていますね。そして水力発電もこれと似たようなものがあるはずです。火力発電や原子力発電と比べてコスト的に遜色のない範囲でという条件付でなら、とっくに開発限界に達しているのでしょう。ただし、化石燃料価格の高騰や、安全管理というより国民や政治家の「理解」の問題で火力や原発のコストが増大することは確実です。そうなれば水力発電に投入可能なコストは必然的に増加する、開発の余地は広がるはずです。

 もっとも、ダム建設ともなるととかく国民の理解が得られない時代でもあります。原子力ルネサンスの次はダム開発ルネサンスの時代が来ても良いのではないかと思うところですが、たぶん無理でしょう。加えてダム開発ともなれば時間も相応にかかります。目下の電力危機を乗り切るための対策としては別のものが求められるところです。まずは原発を含めた震災以前の体制への復旧が先と言わざるを得ませんし。

 用水路などを活用した小規模水力発電なんてのもあります。巨大風車や太陽光パネルを敷き詰めるのに比べれば「環境に貢献してます」アピールこそ弱いものの、効率と安定性では圧倒的に優位です。小規模な設備を分散化させてしまうと管理が大変なことになりますけれど、ここは一つ「特定郵便局長」ならぬ「特定水力発電所長」でも任命したらおもしろいのではないかという気がします。つまり、地主なんかと持ちつ持たれつで設備を運用していくわけです。口を開けば「利権が、利権が」とやかましいカイカク馬鹿には忌み嫌うべき制度になるかも知れませんが、展開の早さ、地元との協力体制の構築、業務委託によるコストの切り離しと、匙加減は問われるにせよメリットは決して小さいものではないと思います。

 

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常識を身につけた分だけ不寛容になる例

2012-01-26 22:55:08 | 社会

教えて!ウォッチャー…会社宛は「御中」と書き直さなきゃダメ?(教えて!ウォッチャー)

教えて!gooに、こんな相談が載っていました。lugalさんは、あることに納得がいきません。それは、企業が用意した返信用封筒の宛先の下に「○○行き」と書かれているのを、わざわざ「○○御中」と書き直す必要があるとされていること。

「御中と書き直すのは常識?」

親からは、書き直しをしない人は就職などの出願のときに「はじかれる」と言われます。しかし、印刷されている部分をグチャグチャ消して、隣に書き直す方が見苦しいと感じてならない質問者さんは、「そんなの知るかい」と思うのが正直なところです。

■「行き」のままでは「呼び捨てと同じ」か

内心馬鹿らしいと思いつつ書き直してはいますが、郵便局で聞いたところ、最近では大学受験の願書にも「御中」と書かない人が増えたのだとか。であれば、いずれこんな文化は消えるのではないか。「皆さんはどう思われるでしょうか?」

常識は文化やマナーと同様、「暗黙の了解」の一種であり、価値を共有しない人同士ではなかなか分かり合えないもの。回答者からは予想通り「私は馬鹿らしいとは思わない」という反論が見られます。

「常識というより、ビジネスマナーとして最低限の行為」(yumi0215さん)

「『○○様』や『御中』にして出さなければ、相手を呼び捨てにするのと同じです」(inu-cyanさん)

「会社は差出人の常識を判断しているのかも知れませんね」(ocean-banさん)

 さて、大雑把に言えば「御中と書き直すのは常識?」と問いかけた質問者に対して、他人に説教したくてたまらない人がここぞとばかりに押しかけたようです。一連の回答者は自信満々に「常識」を説いているわけですが、では実際のところはどうなのでしょう。一般に「御中」と書き直すのは常識とされています。ただし、「御中」と書かなかったからといって「はじかれる」かどうか、少なくともビジネス上の文書であれば、まずそんなことはありません。封筒の宛名が「御中」になっているかどうかをチェックする人なんて、普通はいないですから。封筒はおろか送り状だって速やかにゴミ箱行きの運命、「御中」に書き直そうが「行き」のママにしておこうが、その違いに気づかれる可能性の方が低いと思われます。

 ただし、それは会社と会社との関係など、基本的に対等なビジネスの場合に限った話です。しかるに上下関係、というより一種の「権力関係」が絡むと話は変わってきます。質問者の親御さんが言うように、就職などの出願のときに「はじかれる」可能性は否定できません。大学受験の願書でも学力重視の大学ならいざ知らず、人間形成に力を入れてしまうような学校ともなれば「はじかれる」こともあるのではないでしょうか。なぜなら、彼らは「落とす理由」を探している、減点できるポイントを探しているからです。

 

これに対し質問者さんは、指摘されたことは知っているが、「常識がないのではなく、必要がないと感じている」と反論します。「行き」が「御中」になっているからといって、「この人は礼儀を守る人なんだ」と感じたこともなく、逆に「行き」のままが失礼だと思ったこともありません。「人がチェックするのは文章 であって、封筒の表面ではないからです」

 ここで質問者が言うように「チェックするのは文章であって、封筒の表面ではない」場合、つまり通常のビジネス上の文書などであれば、「行き」か「御中」かを気にするような暇人に遭遇する可能性は極めて低いわけです。ところが就職などの場合は事情が異なります。採用側がチェックするのは、中身とは限りません。むしろ外面の方だったりするものです。封筒の宛名が「行き」になっているか「御中」になっているか、そういう時点から採否を図っている可能性は否定できないでしょう。

 とりわけ昨今では、「教えればすぐにできること」が「初めからできている」を求められる傾向にあるように思います。たとえば電話応対ですとか基本的なビジネスマナーの類ですね。この辺、新社会人は躓きがちなポイントかも知れませんが、そうは言っても1ヶ月もあれば誰でも身につけられるものではあります。最初に「できていない」としても、特に気にするようなことではありません。しかるに、電話応対すらできない、ビジネスマナーを知らない云々と新人の出来の悪さを嘆く言説は増加傾向にあるのではないでしょうか。こんな時代だけに、宛名が「行き」のママか、それとも「御中」に直してあるかみたいな些末なポイントで採用側が差を付けようとしたとしても不思議に思うことは何もありません。

 会社に対する従順さを問われる場面でもあります。「行き」のママでは企業という神聖な存在への冒涜として扱われることもあるでしょうし、引用元における回答者もまた、そのように考えているであろうことが窺われます。ただ困ったことに、「御中」書きレベルならまだしも、しばしばビジネスマナーの「常識」は日本国内ですら、どこでも同じように通用するものではなかったりするわけです。自分の語っていることこそ「常識」だとご満悦の回答者の思惑とは裏腹に、「社会人としての常識」なんて代物は、それこそ会社の数だけあります。ある組織の中では「常識」とされることでも、他の組織の中では「非常識」とされることも少なくないのです。

 たとえば、最初から「御中」で印字されている返信用封筒を送りつけてくる会社もありますが、この辺も一部の了見の狭い会社からは非常識と見なされることもあるのではないでしょうか(「行き」を「御中」に書き改めるのが常識であって、最初から「御中」では非常識だと)。他にもたとえば挨拶の言葉とお辞儀のタイミングなんてのも解釈の分かれるところで、挨拶と同時に頭を下げるのが正しい派と、挨拶を終えてから頭を下げるのが正しい派がいるわけです。宛名の書き方でも「課長○○様」派と、「○○課長様」派がいたりして、本則は前者とも聞きますが後者を使っている人が多い気がします。いずれにせよ、前者に従えば後者を信じている人からは失礼と思われ、逆に後者に従えば前者を信じている人から非常識と扱われる、そういうこともあるのです。例を挙げればキリがありませんが、ある会社で「常識」とされることを守っていたところで、他の会社では非常識と見なされることも当たり前のようにあります。引用元で鼻息を荒げて「常識」を語る回答者もまた、別の場所では非常識とみなされている可能性はありそうです。

 

そんな反論にもかかわらず、回答者からは「ビジネスマナーの意味を理解すれば、当たり前なことだと分かるはず」という意見が大勢を占めています。中には「自分が正しいと思うなら貫いてみればいい」「世間がそれをどう思うだろうか」という声のほか、「ご両親のおっしゃっている『はじかれる』というのは、あながち間違いではありません」とまで言う人もいます。ちょっと怖いですね。

 それでもビジネスマナーの曖昧さを理解できず、自身の正しさを信じてやまない回答者の説教は続いたようです。奢りだな、としか言いようがありません。結局、必要がないのではないかとの質問者の問いには答えられていないわけです。たしかに、「行き」が「御中」に書き改められていないことを以て非礼とする人はいます。しかし、人はいかにして「行き」では無礼だと感じるようになるのでしょうか。「行き」が「御中」に書き改められていないことを失礼と感じるかどうか、その辺の子供に訊いてみたらいいと思います。まぁ、学生でもいいですけれど。

 誰かに教わることなく自然と「行き」に気分を害する人は、おそらく存在しないでしょう。ただ、外部から「行き」を「御中」に書き改めないのは礼を失することなのだと、そう教え込まれることで初めて「行き」との表記を非常識と感じるようになるわけです。果たして、このようなビジネスマナーもしくは常識を身につけることは、その人にとって幸福なことなのでしょうか? そんな「常識」を知らなければ、封筒の宛名ごときに気分を害されることなどないわけです。しかし、「常識」をすり込まれた結果として、封筒の宛名一つで相手にネガティヴな印象を抱くようになる――まさに人格が損なわれています。

 男性のネクタイとかスーツとか、あるいは女性の化粧とかも、これと似たようなものであるように思います。ノーネクタイやノーメイクを、産まれながらにして無礼と感じる人などいないはずです。しかし、ノーネクタイでは失礼だ、化粧もしないのは恥ずかしいことだと、そういう「常識」の刷り込みが行われた結果として、ノーネクタイなりノーメイクなりが非礼として成り立つようになります。「常識」を知らなければ失礼と感じることはない、特に気分を悪くするようなことはなかったのに、「常識」を身につけた結果として他人をマナーに欠けると感じるようになるとしたら、何とも馬鹿げたことではないでしょうか。常識なりビジネスマナーを身につければ身につけた分だけ、他人を非常識で不快な存在と感じるようになる、自ら了見を狭くしているわけです。

 

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“放射能幻想”を振りまいてきたことへの反省は?

2012-01-24 23:01:51 | 社会

時代の風:放射能トラウマとリスク=精神科医・斎藤環(毎日新聞)

 福島県南相馬市で診療と内部被ばくの検査、健診、除染などにかかわっている東大医科研の坪倉正治医師によれば、現時点で慢性被ばくによる大きな実被害の報告は、ほとんどないとのことである(小松秀樹「放射能トラウマ」医療ガバナンス学会メールマガジンvol・303)。
 
 むしろ深刻なのは、外部からの批判や報道などによる社会的な影響のほうである。原発事故による最大の被害は、子どもの“放射能トラウマ”だ。しかもその多くは、大人の“放射能トラウマ”による“2次的放射能トラウマ”であり、年齢が低いほどトラウマの程度が強い印象があるという。
 
 風評被害の影響もあって、うつ状態になる人が増えたり、家族が崩壊したりという事態は耳にしていた。現地で子どもの電話相談窓口を担当している人からは、このところ虐待相談も急増しているという話も聞いた。
 
 被災地での虐待件数についてはまだ正確な統計データが得られていないが、屋外で遊ぶ機会の減った子どもたちが、精神的に不安定な大人と過ごす時間が増えたとすれば、まったくありえない話ではない。

 まぁ、この辺のことは初めからわかっていたことではないかという気がしないでもありません。健康に影響がある「かも知れない」レベルの放射線量が検出されたのは避難区域の中でも一部に限られ、人の住む地域では観測されない以上、より強く懸念されるのは当然、放射線ではなく“放射能トラウマ”の方ですから。この辺は私も危惧してきたところで早い段階から取り上げてきましたけれど、まぁ私がグダグダ言ったところで社会的な影響力は避難区域「外」で計測された放射線と同レベルですから、今さらどうにもなりませんね。一方で社会的な影響力を行使できる立場にありながら、いたずらに不安を煽ったりデマを流したりすることによって“放射能トラウマ”を植え付けて回った人もまた少なくないわけで、その辺の責任は問われねばならないものと思います。その点では毎日新聞だって、いかがなものでしょうか? どうにも厨二病レベルの文明論を連発していた印象が強いのですが……

 

 放射能はさしあたり人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊しているということ。
 
 その背景には、低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。放射性物質の放出が及ぼす長期的影響については、不確実な点が多いのだ。生活環境に数世代にわたって残留するごく低レベルの放射能が、住民集団の健康に、長期的にどのような影響を及ぼすのか。「これ以下は安全」という「しきい値」はあるのか。被ばく線量と発がん率の上昇には直線的な関係があるのか。確実なことは何も分かっていない。
 
 この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。

 「人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊している」という行に異論はありませんが、「低線量被ばくの危険性がはっきりしない」という紋切り型には首を傾げます。そう言っておけば中立を装える定型文のように使われる言い回しですけれど、どうにも「まだはっきりしない、実は危険かも知れない」という意味合いに間違って解釈されがちです。実際は「影響があるとしても小さすぎて判別できない、小さすぎて危険性があるのかないのかはっきりしない」だけの話なのですが、斎藤環氏は誤った理解に基づいて話を進めています。そして、こういう誤った印象と理解を垂れ流しにするメディアこそが“放射能幻想”を広めてきた加害者であり、その責を東京電力に押しつけるばかりではなく自ら率先して贖うべき存在なのではないでしょうか。

 「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」という以上に、危険であったとしても影響は測定できないほど軽微なのだから他のことを気にした方が無難というのが私の立場です。しかるに、あろうことか「安全であるという根拠がないので危険」みたいな立場をとって“放射能幻想”を広めてきた人、今もなおそれを続けている人もいるだけに事態は深刻です。“放射能幻想”に基づいて放射「能」のリスクが実際の何万倍以上にも評価される一方で、放射線「以外」のリスク要因は蔑ろにされているのですから。

 1のリスクを避けるために10のリスクを負うとしたら、端的に言って愚かなことですが、チェルノブイリの教訓から何も学ばずにこの愚を犯してきたのが日本社会とも言えます。いかに軽微でもリスクの増大は好ましくないことかも知れませんけれど、避けるべきは「より大きな」リスクの方であることに変わりはないはずです。その点では、たとえば後先を考えない移住みたいな生活の破綻に繋がる行動こそ最も避けるべきものだった(現にチェルノブイリでもそうでした)のですが、放射「能」のリスクだけをことさらに強調して、その他のリスクから目を背けさせてきた人々の責任は厳しく追及されてしかるべきものであり、斎藤環氏にもまた反省が求められるように思います。

 たとえば、今の「子供」の親世代が子供であった頃に大気中の核実験によって降り注いだ放射性物質と現在の福島を含めた日本で観測されたそれの影響を比較してみるべきです。そして放射線「以外」の発がんリスクの存在とも比較してみるべきですし、ガン以外の健康リスクだって考えなければなりません。原発事故後にリスクが0から100になったのか、それとも100から100.01になっただけなのか。原発事故が起こるまで日本人はエデンの園に住んでおり不老不死であったのでしょうか。少なくとも子供を室内に押し込めたり、あるいは食品摂取を制限したり、父親や友達から引き離してまで移住させたりしなければならないような事態には至っていないはずです。それでもリスク評価を誤らせようと、原発事故並びに放射「能」の影響を大きく見せかけようと頑張った人がいる、何とも罪深いことです。

 一方、未曾有の震災と津波に襲われた3月11日に、脱原発をめざす~云々と福島集会バスツアーを開催しようなんて動きもあるそうです(まさに津波による死者が出た場所で!)。いやはや、3月11日は原発事故の日ではないのですが、その辺も彼女の頭の中では塗り替えられているのかも知れません。福島みずほにとって大切なのは津波で死んだ1万人以上の犠牲者ではなく、追悼の日に原発反対の声を上げることのようです。率直に言って、良識を疑いますね。原発事故自体は十二分に深刻ではありますが、幸いにして原発事故による直接の死亡者はいない一方、それは比べるべきものではないとしても津波によって万を超える死者が3月11日には発生してしまったわけです。せめて3月11日くらいは、自分の政治的イデオロギーのために悲劇を利用するのは抑えてくれないものかと思います。原発事故は天からの啓示と宣った犬畜生もいましたけれど、福島みずほもその同類なのでしょうか。

 

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日本人のアイデンティティは他罰、津波じゃ洗い流せません

2012-01-22 22:40:05 | 社会

東電、32年ぶり本格値上げ…「大口」で17%(読売新聞)

 東京電力は17日、管内の工場やオフィスなど「自由化部門」と呼ばれる大口電力契約者(約24万件)の電気料金を4月から平均17%値上げすると発表した。

 契約を変更する本格的な値上げは1980年4月以来、32年ぶり。東電は約4000億円の増収を見込む。家庭などの小口部門も今春をめどに値上げを申請する方針だ。

 報道によると電気料金の本格的な値上げは32年ぶりとのこと。なんと32年もの価格据え置きです。デフレの続くこの十数年だけではなく、好景気に沸いた時代も大幅な値上げはなかったわけで、まぁ電力会社のコスト削減努力は相当なものがあったものと推測されます。とはいえ、今回ばかりは流石に値上げに踏み切らざるを得なかったようです。何でも無理して火力発電を増やした結果として燃料費が8000億円も増えてしまい財務状況は危険な領域に突入しつつあるとか。その筋の人の頭の中では電力事業はコストをかければかけるほど儲けが大きくなる仕組みらしいのですが、現実は厳しいことがわかりますね。

 

東電、家庭向け料金も値上げ 政府、合理化条件に容認へ(朝日新聞)

 政府と東京電力は、家庭向け電気料金の値上げについて調整に入った。原発に代わる火力発電の燃料費が収益を圧迫するなか、企業向けの値上げだけでは東電存続の青写真を描けず、政府も家庭向けの値上げが避けられないとの判断に傾いた。上げ幅は5~15%の間で調整が進むとみられる。

 東電の今年3月期の連結業績は、純損益が6千億円の赤字になる見通し。原発が再稼働しないと、毎年8千億~9千億円規模の赤字が続き、電気事業が成り立たなくなる。

 値上げには経済産業相の認可が必要になる。枝野幸男経産相は昨年暮れ、「値上げは電力事業者の権利という考えを改めてもらいたい」と述べ、値上げに厳しい姿勢を示していた。

 しかし、東電が経営破綻(はたん)すると、被害者への賠償や廃炉作業が難しくなるおそれがある。そうした事態を避けるため、政府は徹底したリストラと経営責任の明確化を条件に、値上げを認める方針を固めた。

 そして家庭向け電力料金も値上げが検討されているようです。引用元では「上げ幅は5~15%の間」とのことですが、「最大で10%」程度とする報道の方が多いでしょうか。値上げ自体はありがたいことではありませんけれど、とりあえず家庭は後回し、大口顧客向けよりは値上げ幅も小さくなる見込みです。料金を上げるにしてもまずは大きいところから、そして大きいところから累進的にという姿勢自体は評価したいと思います。何せ我らが政府と来た日には、消費税増税で貧しいところから逆進的に毟り取ってやろうと意気込んでいるのですから。民主党執行部の連中には、東京電力経営陣の爪の垢でも飲ませてやりたいところです。

 にもかかわらず、相変わらずの傲岸不遜ぶりを披露するばかりで自らを省みる姿勢が微塵も感じられないのが枝野経産相で、こんなのが幅を利かせているようでは先行きは不安になるばかりです。元より脱原発を唄う以上は、それによって生じる追加的なコストは国民が負担するしかないだろうにと思わないでもありません。しかるに脱原発・反原発を唱える人ほど、ここぞとばかりに電力会社非難の声を上げるばかりだとしたら、まぁ御都合主義も良いところではないでしょうか。そもそも脱原発のためと称して諸々の犠牲(福島に対する差別、節電のための深夜・休日労働の増加)を無視してきたくせに、月600円程度の電気料金値上げくらい気にするなよと……

 経営責任の明確化は当然のことであるにせよ、「徹底したリストラ」はいかがなものでしょうか。例によってRestructuringではなく日本語の「リストラ」が迫られているようですが、これもまた電力の安定供給に影響を及ぼしかねない不安定要因へと繋がります。だからこそ電力会社側にも一定の抵抗する姿勢が見えてくるところですし、労働者の一員として安易なリストラ要求には断固として立ち向かうべきだと私も思うところです。もっともJALに突きつけられたリストラ要求に反対の声を上げた人も、リストラを迫られるのが電力会社ともなると沈黙に徹するなど、左派の風上は当然として風下にすらおけないような連中も少なくないのですから、呆れるばかりです。

 むしろ私であれば、リストラではなく雇用の維持をこそ条件に挙げたいところです。労働者を解雇したり労働条件の不利益変更を強いるのではなく、雇用を守る企業にこそ公的な支援はあってしかるべきではないでしょうか。リストラに励む企業は電力会社ならずとも無尽蔵にありますけれど、それを経営努力として政府が認めるようなことがあって良いのか、むしろ推奨すべきは逆、要求すべきは反対のことであるように思います。働く人を守るためなら値上げは許せても、働く人を経営のために切り捨てるような企業には、あまり払いたくないですね。

 

「身を削る改革」先行を=地方組織から相次ぐ―民主(時事通信)

 民主党の全国幹事長・選挙責任者会議が15日、都内のホテルで開かれた。野田佳彦首相が目指す消費増税を柱とする社会保障と税の一体改革について、都道府県連側からは、その前提として国会議員定数削減や公務員給与削減など政治・行政分野の「身を削る改革」に取り組むよう求める意見が相次いだ。 

 日本人のアイデンティティーは「他罰」なのだと以前に書きました。リストラによって東京電力の一般社員までもが苦しむのであれば電気料金値上げを容認するのと同様に、議員定数削減や公務員給与削減などによって国民の嫌う人々が苦痛を受けるのであれば、消費税増税をも受け入れようとする姿勢が少なからず見受けられるわけです。気にくわない他人を罰することによって得られる精神的満足感もまた我欲の一種なのかも知れませんが、端的に言って日本人には利己心が欠けているように思います。ただただ他人を罰することばかりに熱心で、何が自分の利益になって何が損になるのか、それがわかっていないと。

 議員定数削減、より具体的には比例区の削減によって与党は一人勝ちが容易になり国会運営でも楽をできるようになるとか、議員報酬を減らしても元より資産家の議員や政党丸抱えの議員は特に困らないとか、政府の閣僚にとって議員定数と議員報酬の削減案は決して「身を削る改革」ではありません。公務員の厚遇という虚像をさておくにしても、どのみち国家公務員の給与を削減するくらいでは財政再建には全く足りないわけです。況んや議員定数削減をやですが、それでも自分たちの気に入らない連中(政治家、公務員)の取り分が減るならば増税も許すと、そう考える人が目立つ社会って何なんだろうと首を傾げるばかりです。もうちょっと、他人を罰することだけではなく、自分の利益を計算できるようであって欲しいなと思います。

 

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ご先祖様「侍じゃなくてごめんな」

2012-01-20 23:02:39 | 社会

長友「侍らしく」ミラノダービーで躍動(サンケイスポーツ)

 インテル・ミラノの日本代表DF長友佑都(25)が、ACミランとの「ミラノ・ダービー」に日本人として初出場。左サイドバックでフル出場し、1-0での勝利に貢献した。伝統の一戦を制したチームは、これで6連勝。長友は「歴史に名を残せた」と充実感を漂わせた。

 8万観衆の大声援を背に、聖地サンシーロでDF長友が躍動した。インテル移籍2季目で初めて立った「ミラノ・ダービー」。昨季2連敗を喫した宿敵を蹴散らし、アルゼンチン代表MFサネッティと抱き合った。

 「思ったより冷静に試合に入れた。成長している実感がある。恐れず勇気を持って、日本人の侍らしく、そのぐらいの感じでやった」

 国外リーグでちょっと活躍したかと思いきや、移籍や監督の変更で異なった戦術に放り込まれた途端に輝きを失ってしまう日本人選手が多い中、長友は着々とトップスターへの階段を上っているようです。相対的に人材の手薄なサイドバック、とりわけ中央でプレーする選手にばかり脚光の当たりがちな日本からサイドで活躍できる選手が出てきたのは喜ばしい限りであります。そんな長友選手、ミラノ・ダービーに際して「日本人の侍らしく、そのぐらいの感じでやった」とのこと。まぁ、みんなお侍が好きですよね。

 それはさておき、長友選手のご先祖様は士農工商もしくはその他で言えばどこに属する方だったのでしょうか。日本にルーツがある人ならだいたいは「農」の子孫だと思います。とりあえず「士」階級を祖先に持つ人はあまり多くない、かの有名な土佐の坂本家みたいに武士の身分を「買った」りしたケースを含めても、決して多数派ではないはずです。それでも武士の子孫である人が今なお侍を称するのは理解できなくもないのですが、農民や町人の子孫が侍を称するのはどうなんだろうと首を傾げるところです。自分の先祖を誇る気持ちはないのかな?

 現代日本語において「侍」とは「とにかく良い」という意味の形容詞のように使われます(対義語は「官僚」でしょうか)。猫も杓子も侍を称したがる時代です。士農工商と身分が定められていた時代のお侍でさえ、今ほどには賞賛されていなかったことでしょう。侍・イズ・グレート! 侍・イズ・ビューティフル! でも侍ではなかった圧倒的多数の人々(皆さんのご先祖様ですよ)だって、決して侍身分に比べて劣る人ではなかったと思います。にもかかわらず、現代の日本人は侍を称するばかりで、自身を農民とも町人とも考えません。我ら侍ジャパン! 農民にあらずなり! きっとご先祖様型も草葉の陰で自身の身分(侍ではないこと)を恥じていらっしゃることでしょう。何せ子孫に誇りを持って名乗ってもらえないのですから。

 

愛知の柔道教員、6日で黒帯…30年間全員合格(読売新聞)

 愛知県教育委員会が県柔道連盟へ委託し、中学、高校の体育教員を対象に2年に1度開いている柔道の指導者講習(計6日)で、30年近く、受講者全員に段位(黒帯)が授与されていたことがわかった。

 柔道の総本山・講道館(東京都)によると、黒帯の取得には「平均でも2年程度かかる」というが、愛知の場合は短期間の上、審査も一般の昇段試験と違って試合の勝敗を考慮していない。関係者からはこうした段位認定のあり方を疑問視する声が出ており、講道館でも実態を調査する方針だ。

          ◇

 同県教委によると、体育指導の質の向上を目的に1984年頃から、柔道経験がほとんどない「白帯」の体育教員を集めて講習を実施。
 
 1年目は受け身などの基礎、柔道の歴史・理念、安全管理を学ぶ「指導者養成講習」(2日間)、その1年後に実戦や審判などを経験する「段位認定講習」(4日間)という内容で、毎回30人程度が受講している。
 
 これまで全受講者が段位審査で“合格”し、黒帯を取得していることに、県柔道連盟は「柔道ではほぼ初心者だが、体育教員としての運動能力はあり、6日間で全員が初段程度のレベルに達している。講習内容も十分で段位認定に問題はない」と説明。県教委も問題はないとの考えで、「段位はあった方が、無いよりは充実した指導ができる」として、学習指導要領の改定で柔道などの「武道」が必修化される新年度は受講者枠を44人に増やす方針だ。

 

中高生114人、柔道で死亡していた…名大調査(読売新聞)

 学校での柔道事故を巡っては、受け身の習得が不十分なまま投げ技練習に参加したり、頭を打った後に適切な救急措置を受けられなかったりした生徒が死亡するケースが後を絶たない。
 
 名古屋大の内田良准教授(教育社会学)によると、柔道事故で死亡した中学、高校生は1983~2010年度の28年間に全国で114人(中学39人、高校75人)。中高ともに1年生が半数以上を占め、計14人が授業中の死亡例。また、後遺症が残る障害事故も83~2009年度で275件あり、3割は授業中だった。
 
 中学の部活動における競技別の年間死者数(2000~09年度の平均、10万人当たり)を見ると、柔道が2・376人で、2番目のバスケットボール(0・371人)に比べても圧倒的に多い状況だった。死亡原因の大半は頭部外傷で、内田准教授は「首の筋力などが未発達なうちに、安易に立ち技や乱取りを行わせるのは危険」と警鐘を鳴らす。

 さて、今後は柔道など「武道」が必修化されるわけです。内柴先生に技術だけではなく心も鍛えてもらうには良い機会でしょうか。しかし一億層侍の時代である現代ならば、柔道みたいな明治以降に作られた代物を教えるより、もっと歴史の長い武士の習俗である「衆道」を取り入れた方が良いように思います。柔道なんて、侍がやってきたことではないですから。侍を名乗るなら、まずは衆道からでしょう。これまで保健体育を通じて「正しい性」の刷り込みが行われてきましたけれど、衆道を必修化することは「正しい性」として真っ先に持ち出されるものだけが全てではないこと、伝統を重んじるだけではなく異なる嗜好や文化への理解と寛容の精神をも養うのに良い機会です。

 ということで、柔道に代えて衆道を取り入れることを当ブログは推奨しますが、次善の策としては何があるでしょうか。柔道は突出して死亡事故に至るケースが多いようですが、教員の質の向上に期待するのも難しそうです。まぁ、先生は先生で学校行事が忙しい、行政は行政で国歌を歌わせるのに精一杯で、教育の質の向上なんかには手が回らないのが日本の学校教育というものなのかも知れません。そうした中でも柔道をやるしかないとしたら、どういった対策をとれば良いのでしょう。提案の一つとしては「受け身の取り方を教える」ですかね。

 もっとも、「受け身」と言っても柔道の受け身ではありません。柔道の受け身は、あくまで柔道の投げを想定した受け身ですから。ちゃんとした柔道選手なら綺麗に背中から落とすので柔道の受け身は役に立つのでしょうけれど、一方で学校体育や部活動ともなれば、わざと相手を痛めつけるように落とす、頭から落とすようなことは日常茶飯事です。こうした学校柔道の実態に添った受け身の開発が安全管理の面から求められるように思います。ちゃんと背中から落ちるように投げなさいと指導したところで、子供が言うことを聞くわけがありません。頭から落とされるケースは必然的に発生します。そこで事故を防ぐためには、頭から落とされることを想定した受け身の取り方を身につけさせる必要があるはずです。

 まぁ、そんなことをするくらいなら柔道なんかやめてしまえと思うところですけれど、ことによると頭から落とすような投げへの対策を学ぶことは、とかく生徒間での暴力が容認(もしくは隠蔽)されがちな学校生活において役に立つ機会がないとは言い切れません。柔道など「武道」を通して内柴先生のような精神を身につけることより、危険な投げに対する身の守り方など、いわば「武術」に近いカテゴリーの教育の方がまだしも意味がありそうな気がします。後はそうですね、学校柔道用の頭部と頸部を保護する防具でも作りましょうか。とにかく事故を防ぐには、柔道的に正しい綺麗な投げとは異なる、危険な投げが繰り返されることを前提に対策をとらなければいけないと思います。

 

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それで就職できるわけじゃないし

2012-01-18 23:05:59 | 社会

大学4年間で読む本の数、日本は100冊、米国は400冊(日経ビジネスONLINE)

 前回、日本は今何よりも教育に投資しなければならないにもかかわらず、教育に対する公的支出のGDPに対する比率がOECD加盟国中で最低であることを指摘した。特に知識集約型産業を育成するためのカギとなる高等教育(大学)への支出はGDP比で0.5%。OECD加盟国平均(1.0%)の半分でしかないのは深刻な問題である。

(中略)

1.日本はOECD加盟国中で教育に対する公的投資が最低水準である。
2.特に知識集約型産業を発展させるカギとなる高等教育への公的投資はOECD平均(対GDP比1.0%)の半分(0.5%)でしかない。
3.日本の高等教育は家計負担が大きい(1.0%)。このことが社会階層を固定化する原因となっている。

 という3点が、日本の教育が抱える財政的“過少”問題である。

 この財政的過少問題に加えて、もう1点指摘しておかなければならない“わが国の教育に関する深刻な問題”がある。それは「大学生が勉強しない」ことである。

 日本の教育に関する公的予算が著しく低いことは遍く知られるところであり、日本という国家の教育軽視の姿勢が伝わってくるものです。一方でバブル経済崩壊後の景気後退に歩調を合わせる形で日本の大学進学率は急上昇に転じており、家計負担に支えられた高等教育としての色合いを強めています。まぁ、いかにも自己責任の国と言うべきでしょうか、政府は国民の教育水準を高めようとしない(ただテストの点が低かった学校の教員を吊し上げようとする首長がいるだけです)、あくまで教育は個人任せ、教育費を払える人だけが受けてくださいという形になっているわけです。

 このような日本の教育方針は、教育水準の高さを活かすよりも人件費を抑えて新興国と競い合おうとする日本の産業界との整合性は取れています。もっとも、この結果が日本の経済的衰退なのですから、継続すべきものか改めねばならないものなのかは考えるまでもないでしょう。とはいえ、経済合理性や損得よりも自らの理想や善悪を追うのが日本の経済政策というものです。教育水準の高い「生意気な」高賃金の労働者が闊歩する社会よりも、命令通りに単純作業を繰り返すだけの「従順な」低賃金労働者が傅いてくれる社会の継続を望む人が、とりわけ政財界や自称経済誌には多いように思います。

 何はともあれ日本政府の教育軽視は顕著なのですが、それに加えて「大学生が勉強しない」などと言い出す人がいるわけです。本当でしょうか? 本当であるなら、それは何故かを考えてみなければいけません。

 

 「日本の大学生が勉強しない」ことについてはPISAのような公的調査やデータが存在しない。だが、簡単な断片的調査や状況証拠のようなものはあちこちで見受けられる。

 最近ネット上のコラムなどで象徴的な事例をしばしば見かけることがある。「日本の大学生は4年間で100冊しか本を読まないが、アメリカの大学生は400冊読む。ハーバードやエールでは1000冊は読む」「日本の大学生は学外での勉強時間が1日平均で1~2時間であるのに対して、アメリカの大学生は1日6~8時間勉強する」という実態報告などである。

 どちらも、同じ期間に同じ調査方法によって科学的に調べたものではなく、雑誌などが行った簡易調査のようである。とはいえ、こうした実態について、私としても実感がある。またアメリカに留学したり、アメリカの大学で教えたりした経験のある者に聞いてみても、みな上記のデータは納得感があると言う。

 ひたすら伝聞と憶測に頼った調査によると、「日本の大学生は4年間で100冊しか本を読まないが、アメリカの大学生は400冊読む」そうです。俄には信じがたい話で、母集団の偏りや「ネット上のコラム」みたいな誇張と歪曲だらけの世界を真に受けすぎではないかという気がしてなりません。そもそも、「アメリカの大学生」とよろしく4年間で400冊の本を読んだ人の就職状況はどうなのでしょうか? 状況証拠や実感で構わないのなら、むしろ結果は逆です。たとえば私であれば学部に在籍した4年間で読んだ本の数は優に400を超えますが、今に至るもマトモに就職できていないわけです。類は友を呼ぶのか私の学生時代の友人も勉強家は割と多かったですけれど、軒並み就職に関しては芳しい成果を得られていません。

 同級生が一瞬しかない応募機会を逃すまいと、それこそ24時間体制で求人サイトに張り付いていたり、あるいは毎日のように説明会や面接に足を運んでいたりする中で、自分はのうのうと大学で勉強していました。ある意味で自分は「就職するための努力」を怠っていたわけで、その「就職するための努力」を怠った人間が、大学生活をなげうって就職活動に全身全霊を捧げている人に追い越されていくのは、まぁ当然の成り行きでしょう。勉強を捨ててまで就職のために頑張った人が報われないというのも、考えようによっては不憫な話ですから。しかし、就職のために勉強を諦める人が多い日本で「大学生が勉強しない」などと平然と言い出す人がいます。いったい、どういう神経をしているのでしょうか?

 まさに「超」の付く買い手市場の中、「選ぶ」主導権は採用(企業)側が完全に握り続けています。俺が企業を選んでやるのだと意気込んだところで、ちょっとマトモな企業ともなれば採用予定数の何十倍、何百倍もの応募がある中では蟷螂の斧もいいところです。そして膨大な応募の中から選び抜かれたのがリクルートスーツに身を包み、リクルートカットにリクルートスマイルで決めたコミュニケーション能力の高い学生であり、大学時代に400冊以上の本を読んできた学生ではないのであれば、学生が勉強しなくなるのも当たり前と言えます。勉強する意欲のある学生なら日本にだっているけれど、そんなことをしていては就職に乗り遅れる、それが日本の現状なのです。

 上の方でも書きましたが、日本の大学進学率が急上昇を始めたのはバブル崩壊として知られる景気低迷と歩調を合わせてのことです。高卒でも就職先に困らなかった、高卒でも給料が増えていくことが期待できた時代が終わって、より幅広い就職機会を求めて進学を選んだ人も少なくないことが容易に推測されます。就職のための進学は多かれ少なかれ他の国でも見られることと思いますが、では「就職するため」に何が要求されるのか、それが「勉強しない」とされる日本と、そうでない(とされる)国とを隔てているのではないでしょうか。就職するために進学した人にとって、進学は就職のための手段です、そして就職のために要求されるのが勉強することではなくコミュニケーション能力であるのなら、結果がどうなるかは考えるまでもありません。

 

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切り札は使わずにとっておけ

2012-01-16 23:05:54 | 政治・国際

 さて、あらゆるリスクを顧みることなく消費税増税へと邁進する野田内閣ですが、その失敗の責は日本社会全体が負わされるのですから、たまったものではありませんね。でも、そういう党を選んでしまったのも国民です。初めっから公約(消費背は上げない等々)を守る気などないことは容易に推測できたのに、それでも民主党の言うことを信じて投票する人がいたとしたら、騙した民主党が悪いのではなく信じた方が馬鹿だったのではないかと言いたくもなります。ともあれ、消費税に特有の問題点についてはこちらで既にまとめましたが、その他にも問題はあるわけです。

 消費税に固執する人の中にも色々といて、たとえば経団連などの財界筋であれば、むしろ消費税が増えた分だけ収入(還付)が増える場合もあるだけに、自らの利益という観点から消費税増税に好意的だったりするのでしょうか。一方で消費税増税による損害を被るはずの層にもまた、消費税増税論者がいるのですから不思議なものです。こういう人は大抵、逆進性に関する自分ルールを持っていて、税を(収入に占める)比率ではなく納税する絶対額で考えるなど、まぁ世間では通用しないものを信奉していたりするようです。あるいは一種の道徳家とでも言うべきか、低所得者が納税義務から免れるのをケシカランとばかりに、低所得者から搾り取れる消費税こそ公平なのだと素面で語ったりしています。

 道徳論は受け入れられやすいものでもありますね。経済と称して単に道徳を語っているだけのエコノミストやコンサルタント、自称経済誌も少なくないですし。こんな調子では国(社会)が保たないよと思うところですが、損得より善悪、自分の理想(雇用側が一切の規制を受けずに恣に振る舞える国とか)を実現させるためには経済合理性など糞食らえと言わんばかりの論者が、それこそ政府筋でも幅を利かせてきたのですから日本だけが経済成長から取り残されるのも当然なのかも知れません。こうした政府を支えてきた世論も当然のように道徳を追ってきたもので、マスコミとか電力会社とか公務員とか、実態はどうあれ高給取りと信じられている人々をケシカランと糾弾してきた一方、高所得者にはしかるべく課税して再分配しようなどという発想は持っていないばかりか、むしろ高額所得者に負担を求めるのは不公平みたいに言い切る(おそらくは金持ちでも何でもない)人が少なくない、まぁ支離滅裂もいいところです。

 それはともあれ、相対的には日本国債は安全な部類と位置づけられているわけです。国内ではさんざん財政危機を煽られているにも関わらず、日本円の価値は実態とは裏腹に上昇を続けるばかりです。どうして日本円、日本国債は安全と思われているのでしょうか。それは投機マネーに振り回される余地が少ないから、日本国債は大半が国内調達で、日本国政府にお金を「貸して」いるのは日本国内の金融機関であり、そこにお金を預ける法人や個人であって、いわば運命共同体だからと言えます。単なる投資家であれば相手のことなど顧みず「貸した金を返せ」と迫れるかも知れませんが、日本国にお金を貸しているのはいわば日本企業と日本国民ですから。ましてや、日本の企業も国民も、金を眠らせるばかりで使おうとしないものです。これなら日本政府が「借金返せ!」と「貸し手」から迫られる恐れは少ない、借金額の割には安全と言うことになるのでしょう。

 一方、別の理由を持ち出す論者もいます。曰く「日本の消費税は低い、日本には消費税増税の余地がある、だから日本の財政はまだ危険と見なされていないのだ」と。しかし、日本の消費税が低いと言っても、それはあくまで最高税率の話です。消費税が高いとされる国でも、実は食料品などの生活必需品にかかる消費税は「0」だったりして、一概に日本の消費税が低いとは言えません。確かなのは、日本の歳入に占める消費税の「比率」は決して小さくない、消費税が高いとされる国に比べても低くはないということです。これには日本の所得税収や法人税収が小さいことも影響しています。累進課税が弱められすぎた上に分離課税が大きく、中間所得層への控除も小さくはない日本の場合は所得税収も少ないですし、実効税率という名の「額面」こそアメリカと同等ながら、当然のように額面通りの課税がなされるわけでもなければ不況の影響も受けやすい法人税収もまた少ないのが日本の税というものです。もし消費税に上げる余地があるとしたら、それは同様のことが所得税や法人税に対しても言えることになります。

参考、平成22年度税制改正の大綱 参考資料(5/5)

 1997年に消費税が5%へと引き上げられましたが結果はご存じの通り、不況が深刻化した結果、増税前よりも税収は減り、財政は一層の悪化を見ることとなりました。もし本当に「日本はまだ消費税を上げる余地があるから大丈夫」と思われているのなら、それはいつまでもそう思わせておくのが得策というものです。切り札は、使わずにとっておいてこそ切り札なのです。もし消費税増税という「切り札」を使った挙げ句に1997年の失敗を繰り返すとなったらどうなるでしょうか? 消費税増税に踏み切ったギリシャがどうなったかを考えるべきです。もし消費税増税を魔法のステッキだと勘違いしている人がいるのなら、むしろ振るべきではないと言えます。もし振ってしまえば、それが魔法のステッキではなかったことが明るみに出てしまう、もはや日本の財政は打つ手なしと、そう悲観的な材料を市場に提供することになってしまうのですから。「日本はまだ消費税を上げる余地があるから大丈夫」と思われているのなら、そう思わせておきましょう。それが戦略というものです。

 

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それを日本では改革と呼ぶ

2012-01-14 23:04:01 | 社会

 さて、俄に発送電分離案が活気づく昨今です。発送電分離というと世界的には失敗例も少なくないようですが、世界中で失敗が相次いだ代物を模倣して「改革」と称するのが日本の政治というものなのかも知れません。今の日本だったら他国の教訓を活かさず、第二、第三のエンロンを産み出したとしても不思議ではないとすら思えてきます。

 そもそも日本の現行の電力供給体制は完全無欠ではないにせよ、世界的に見ても極めて高水準の安定性を誇っているわけで、ここへ下手に政治が干渉すれば単に混乱を招くだけ、品質低下を招くだけではないかというのが率直なところです。上手く機能しているものを何故いじろうとするのか、まぁ政治が干渉して物事を無茶苦茶にした挙げ句、責任を官僚なり電力会社なりに押しつけるのが政治主導というものなのでしょう。なにやら愚かな球団オーナーの所行を思い起こさせるものがありますが、でも今の政治家を選んだのは国民なのです。

 国内レベルのチンケな競争が引き起こしてきたものは、消費者に提供される製品やサービスの価格低下と品質の低下、そして働く人の賃金の低下です。前々より私は国内での不毛な競争を抑え、他の国との競争に専念できるよう産業の集約化を進めるべきと主張してきたわけですが、今に至るも国内レベルでの競争を煽る論者が幅を利かせており、それは電力事業に関しても同様と言えます。電気料金が下がっても、品質(安定性)が低下し、工場などでは自前の発電設備をフル稼働させなければ安心して操業できなくなれば元も子もありません。そして当初は特定業界に限った話であろうともコストカットのためと称して人員削減や賃下げが進められれば、必ずや日本全体の雇用に波及してくるものです。こうした愚を犯して欲しくはないのですが、まぁ今の政権に期待できるものはありませんね。

 発送電分離の必要性を説くべく色々と理由付けはされているにせよ、その根底には悪の権化たる電力会社を弱体化させるためとか、電力会社の最も嫌がることをみたいな感情論があって、それで発送電分離案が持ち上げられてはいないでしょうか。電力会社=悪であり、そうであるからには可能な限り電力会社を否定するような方向性に改革していけば世の中は良くなるのだと、幼稚にもそう信じ込んでいる人は少なくないように思います。こういう考え方は、公務員/官僚叩きにも外国人排除にも通じるところであり、別に目新しくはない構図ですが、反原発論の盛り上がりの中で結構な勢いを得てしまっているわけです。

 発電も送電も、実質的に今の電力会社が継続してくれるなら大きな不安はないですけれど、新規参入が促された結果として信用できない会社が乱立したらどうなるでしょう。たとえばJR送電とか言ったら、基本的に計画通りの送電は需要の少ない時間帯のみで2日に1回は止まる、復旧後の送電がとにかく不安定、止まった原因は非公開が一般的で、たまにアナウンスがあっても不正確で「罠」と呼べるレベル、送電が止まった結果として生じた損害については全て自己責任みたいな目も当てられないことになりそうです。他には新規顧客の獲得にばかり熱心だけれど、被災地で最も繋がらなかったことで有名な携帯電話の会社とかも、やっぱり電力事業に参入してきたら怖いですよね。

 東京電力がリストラや年金切り下げを政府から要求されていたとき(後に事故を起こしたわけでもない中部電力までとばっちりを食らったり)、東京電力がJAL化しそうだと以前に書きました。JALに突きつけられたリストラ要求には反対の声を上げた人でも、同じ要求が東京電力に突きつけられたときには沈黙したり、あるいは賛同するなど人も少なくなかったりしたものですが(たぶん犯罪者に人権はないとか言っている連中の同類なのでしょう、会社が社会的な非難を浴びるようになったなら、労働者としての権利が否定されるのも当然と考えているのですから)、ともあれ今となっては別の理由から東京電力がJAL化するのではないかと思えてきます。

 つまるところ、安定供給の責任はどこが負うのか?と言うことです。JALの赤字が膨らんだ原因を思い出してください。不採算路線をも維持し続けた結果として、経営が圧迫されてきたわけです。もしJALが「採算の取れる路線」もしくは「儲かる路線」だけに運行を絞ってきたのなら黒字化は容易だったことでしょう。ただ、赤字路線を躊躇なく切り捨てて、黒字の路線だけで営業する、これは社会的責任としていかがなものでしょうか。JAL以外の会社であれば、そのような判断も許されるのかも知れません。赤字路線はJALに任せてしまえば済みますから。採算をとることが難しい路線はJALに任せて、自分たちは採算の取れる路線に専念する――こういうことが可能なら、二番手以降の会社は楽なものです。しかし、そうするわけにはいかなかったJALが危機的状況に陥ったのは記憶に新しいところです。

 たとえばデンマークとか、風が吹いて風車が回って、それで発電できたら外国に電気を販売して、普段は周辺国から電力を輸入するような国もあります。まぁ、国境を越えた送電が容易なヨーロッパだからこそ可能な芸当ではありますが、自国では風車を回し、その一方で他国の火力や原子力で発電された電気を購入する自然エネ先進国って何なんだろうと思わないでもありません。電力が輸出商品であるなら、売った金額が買った金額を上回れば大成功なのでしょうか。ある種の人の脳内では電力の輸出額が輸入額を上回りさえすれば(ただし自国の原発による発電をも含む)、隣国の原発に依存などしていないことになるようですけれど、他国から輸入しなければならないことに変わりはない、どこかの国が安定した電力供給体制を確保しなければならない状態は続くのです。まぁ、フェアな対価が支払われる限りにおいて分業はむしろ望ましい、別に自足する必要はあるまいと私は考えていますけれど、問題はそれを日本で真似するわけにはいかないと言うことにあります。

 つまり日本の場合、隣国からはおろか東日本と西日本との間の送電すらもが難しく、電力は地産地消を強いられる形となっているわけです。これから新規参入が促され、将来的には「自然エネ」を看板に掲げる業者も増えるのではないかと予測されますが、電力を安定的に供給する責任は誰が負うのでしょう。発電できたら発電できただけ自動的に買い取られることが保証されている――そういうシステムは新規参入のハードルを下げるものではあるのかも知れませんけれど、「発電できなかったとき」の責任は誰が負うのか考えるべきです。二番手以降の会社は発電できた分だけ利益を得て、東京電力は安定供給を担保すべく設備の維持に努めなければならない、このような状況になればいずれ東京電力(に限らず既存の電力会社)はJAL化するものと思われます。

 既存の電力会社に責任を押しつけることに精神的な満足感を覚える人は少なくなさそうですが、電力会社を信用しないなら尚更のこと、安定供給の責任を一社に求めるような体制には否定的であるべきです。電力会社の責任能力は、そんなに高いと思いますか? まぁ、既存の火力発電所等の設備容量目一杯の電力をフルに供給し続けられるとの前提に立って原発がなくとも電気は足りると説くなど、電力会社の能力を異常に高く評価している人も少なくありません。そういう人にとっては、既存の電力会社とはいくら責任を押しつけても大丈夫な存在なのでしょう。私はそこまで電力会社を信用できないので、そんなに無理を強いたら危ないことになるだろうと不安でいっぱいですが。

 既存の電力会社の能力を過信せず、その上で安定供給を担保するためには、新規参入事業者にも一定の責任を求める、主力が風力であろうと太陽光であろうと、発電量のノルマを課すような取り組みが望まれます。ただ作りさえすればいい、作った分だけ売ればいいみたいな制度の下では、日本の農業よろしく補助金を必要とするばかりで自主的な発展を望みにくい世界になってしまうでしょう。新規参入の電力事業者に(既存の電力会社に対する)競争力を付けて欲しいなら、多少なりとも厳しい注文を付けることだって必要です。それでも結局は既存の電力会社が不利になることを、既存の電力会社が嫌がりそうなことを、という方向に話は進みそうな気がしてなりません。公務員をやっつけること、中高年をやっつけること、社会保障受給者をやっつけること、それが「改革」と呼ばれてきた国では、電力会社を痛めつけることもまた改革と呼ばれるでしょうから。

 

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まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか

2012-01-12 23:02:32 | 社会

沖縄の成人式、今年も荒れる 5人逮捕、警官と衝突も(朝日新聞)

 毎年のように逮捕者が出て「荒れる成人式」のイメージが広まってしまった沖縄県。8日、うるま市で旗ざおを持ってオートバイに乗ったとして道路交通法違反(禁止行為など)容疑で新成人2人が県警に現行犯逮捕された。新成人と暴走行為をしていた「後輩」の17歳計3人も公務執行妨害などの容疑で逮捕された。

 那覇市中心部の国際通りは、県警が総勢335人の態勢で警戒にあたった。20~30人の新成人グループ複数が大声を上げながら歩道を練り歩き、警官と衝突する場面も見られた。

 率直に言えば「成人式で暴れる人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」と思わないでもありません。そもそも報道からは「成人の日」に騒いだのであって、「成人式」で問題行動を起こしたわけではなさそうに読めるのですが、「荒れる成人式」と銘打って記事にせずにはいられない記者もいるのでしょうか。どちらかと言えば、こういう強引な誘導でしか記事にできない辺りを鑑みるに、今年は粛々と進行する成人式ばかりだったのではないか、記者が期待したほどの騒ぎは多くなかったのではないかと推測されます。もっとも、くだらない式典に大人しく参列してはインタビューに優等生的なコメントを返すような人に私は何も期待しませんけれど。

 

平成23年度 第2回宮崎県青少年健全育成審議会の概要

事務局
 こちらの本は、大型書店の成人コーナー以外の場所、分別販売されていないものがほとんどです。ボーイズラヴやレディースコミックは、普通のコミックと同じような棚に混在して並べてありました。また、完全に区分された成人コーナーに陳列してあったり、レーティングマークのある書籍については、今回の審議会にはお諮りしておりません。

A 委員
 これらの本は、粗暴性や残虐性は少し影を潜めていて、性的感情を刺激する内容がほとんどで、その中で女性が男性をリードする描写が多く、それをもし青少年が読んだりすると、女性はそういうものを望んでいるんだといった偏った価値観を植え付けるのではないかと思います。また、女性リード型の描写が進むとホモセクシュアル的な傾向が出てきて、心理的にノーマルな性交渉が難しくなるんですね。男性の意識の中で、自分がリードできないんじゃないかと考え、一概には言えないと思いますが、ホモセクシュアルの方にいく傾向が強くなるといわれています。まさに今日の本の中では、その傾向が出ていたので、青少年の目につく形で普通の本と混在しているのはとても危険だなと思いました。

B 委員
 こういう傾向は時代を反映しているのでしょうかね。私には、それが分からないんです。というのは、昔、同性愛というのは、特殊な環境の中でそうなると聞いたことがあったのですが、一般にはこういうのがあるのかなと思いますね。昔は、男性が求めたけれども、現在は女性が求めるようになって、これは、時代を反映しているのかなと思って驚いています。

(中略)

F 委員
 こういった本類が、一般図書の中に並べられていて、どういう人たちが見るのでしょうか。案外女性が、手軽に買っているのではないかと思います。

(中略)

事務局
 書店側に対しての調査等は行っていませんが、7月に実施した立入調査で区分陳列も成人コーナーの表示もしていない書店に区分陳列等について指導を行ったのですが、店側から成人コーナーを設けると女性が買いにくくなるとの意見がありました。その後確認したところ、区分は完全ではありませんでしたが、成人コーナーの表示は設置されていました。

 さて、東京都ならずとも性表現規制の動きは随所で見られるようです。こちらは宮崎県の場合ですが、規制を望む人の語る内容が頓珍漢なのはどこでも一緒ですね。とりあえず目を引きやすいのは「A委員」の「ホモセクシュアルの方にいく傾向が強くなる」云々の行あたりで、歴史的には年長の男性が少年を導いてやるとか、そういう文化の元で男性間の同性愛は発展してきた傾向があるように思いますが、「A委員」の脳内では「女性リード型の描写が進むとホモセクシュアル的な傾向が出てきて~男性の意識の中で、自分がリードできないんじゃないかと考え~ホモセクシュアルの方にいく」そうです。これに納得できた人は、委員会の参加者以外にはなかなかいないのではないでしょうか。

 基本的なことを解説しますと、近年ではむしろ「女性向け」のポルノの方こそ性表現規制の対象とされがちだったりします。ここで冒頭に挙げられた「ボーイズラヴやレディースコミック」は基本的に女性の読者を想定としているものですし、事務局の調査に書店側が「女性が買いにくくなる」と回答していますが、それが意味するのは即ち、男性向けポルノよりも女性向けポルノの方が槍玉に挙げられているということです。理由の一つには、女性向けポルノの方がレーティング、ゾーニングが曖昧で、男性向けポルノと違って成人コーナーに隔離されているとは限らないことが挙げられます。「普通のコミックと同じような棚に混在して」いるケースも、必ずしも一般的とは言えませんがあるわけです。

 ただ書店ってのは新しい本との出会いを探す場所でもあります。単に目当ての本を買うだけではなく(それだけならネット通販で用が足りてしまいます)予期せぬ出会いがあってこそと思えるだけに、適度に混在してくれていた方が望ましい気がしないでもありません。元より、現代日本の「正しい性」にとらわれず、もっと多様な性(同性愛も然り)を楽しんで欲しいなと考える身としては、既存の性道徳の枠から外れたものと出会う機会は増えて欲しいくらいです。なので、女性向けポルノが氾濫してくれるなら、それはそれで良いんじゃないかと。男女共同参画と言うことで会社勤めへの女性の進出が叫ばれて久しいですが、ポルノ購買層にだってどんどん女性が進出してきて欲しいところです。

 一方で「女性の性」を閉じ込めておきたい、男性の管理下に置きたいと、そういう願望を持つ人もいて、それが昨今の性表現規制の動機の一つにもなっているように思います。おそらくは女性向けであろうポルノを見て、A委員は「女性リード型の描写~」、B委員は「現在は女性が求めるようになって~」と問題視しているわけですが、つまりこれは性の領域における女性の主体性に対する恐怖の表れと言えます。この会合に出席した委員たちは、あくまで性は「男がリードすべし」と考えているのではないでしょうか。そして、主導権を女性に渡すと「ホモセクシュアルの方にいく傾向が強くなる」と恐れおののいているわけです。くだらない道徳心や蜘蛛の巣の張った純潔趣味もさることながら、ある種のマッチョイズムもまた性表現規制の動機になっていると考えられます。

 

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付記、
 なお「子供を守る」と称して子供を支配したがる人もまた性表現に対して同様の態度をとりがちで、その動機は上述のマッチョイズムに通じるものがあります。つまり、「子供の性」を自分(親/大人)の管理下に閉じ込めておきたい、管理下に置きたい、そういう願望があるわけです。また女性の権利にうるさい人の中には性的なものを憎悪している人も多くて表現規制に親和的だったりする(残念ながら日本のフェミニズムは、そっち系統が主流であるように見えます)、その結果としてマッチョイズムや真性保守系統の論者と女性の権利を唱える人々との奇妙な共闘関係が産まれることもあったりしますね。絶対に、不幸な結果にしか繋がらないと思うのですが。

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