非国民通信

ノーモア・コイズミ

「ニート」は実在するのか?

2007-03-11 21:43:42 | 非国民通信社社説

裁判官「あなたの職業は?」
「詩を書いています。誌の翻訳もしています。僕の考えでは……」
裁判官「あなたの考えなど聞いていません。ちゃんと立ちなさい! 壁にもたれないで! まっすぐ前を見て、きちんと答えなさい! 定職はもっていますか?」
「それが定職だと思いますが」
裁判官「正確に答えなさい!」
「僕は詩を書いてきました。その詩が出版されると考えていました。僕の考えでは……」
裁判官「あなたがどう考えようと、そんなことに我々は関心ありません。あなたの専門は?」
「詩人です。翻訳家の詩人です」
裁判官「誰があなたを詩人だと言ったのです? 誰があなたを詩人だと認定したのです?」
「誰も。では、誰が僕を人間だと認めたのですか?」
裁判官「で、あなたは専門の勉強をしたのですか?」
「何の?」
裁判官「詩人になるためのです。あなたはそのための教育を受けようとしましたか……」
「教育によって詩人になれるなんて考えてもみませんでした……」
裁判官「では、どうすればなれます?」
「僕の考えでは、それは神から与えられるものです」

 これは、ソ連の詩人ヨシフ・ブロツキーが裁判に掛けられたときの記録です。罪状はなんと「無為徒食」、定職を持たず、ぶらぶらしているのはけしからんと言うわけですね。ソ連にはそういう罪があったわけです。

 中国には今でも「労働矯正」という制度があります。これは必ずしも読んで字のごとくというわけではないようで、反体制派の弾圧に利用するもの、正式な裁判手続きを経て刑務所に収監する代わりに、問答無用で徒刑に処するものらしく、これを労働矯正と称しているようです。幸いにしてようやく廃止に向けての議論が始まったそうですが。

 困ったことにこの辺は他所の国の話とも言い切れず、日本でも「徴農」など、どこの国の政治家の発言かと耳を疑うような計画が企てられています。あまり民主的とは言えない国では、国家が規定する労働に国民を押し込もうとする傾向が見られるようです。

 日本では「徴農」の他に「ニート矯正プログラム」などと称したものがありますね、定職を持たず、ぶらぶらしているのはけしからんと、教育を装って労役を課そうとする施設が実在し、すでに死者を出しています。たぶん、日本では警察などの公権力による捕縛はまだないわけですが、残念ながらそこから先は同じ展開、けしからん輩を労働によって矯正しようと、教育を装った労役が課されるわけです。

 ところで、ニートって実在するのでしょうか?

 「社内ニート」なんて言葉まで造られたことからもわかるように、日本ではできるだけ多くの人を「ニート」と呼ぼうと頑張っている人がいるようです。敢えてその定義を曖昧なままに留め、解釈の範囲が拡大され続ける概念、それがニートでしょうか。とりあえず、ここではもう少し範囲を絞りましょう、気に入らない奴=「ニート」はやめて、もう少し客観的に定義―――そうですね、原点に立ち戻って、学校にも通わず働いてもいない若者をニートと定義することにしましょうか。

 そしてこの場合のニート、実在するのでしょうか?

 ここで、もう一度ブロツキー裁判の一コマを読み直していただきたいのですが、さてブロツキーはニートでしょうか? ブロツキーの考えでは彼は詩人であり、詩を書き、詩の翻訳をしており、それが定職でした。一方、裁判官が語るにはブロツキー自身の考えは問題ではなく、周囲が彼を詩人だと認定するかどうか、詩人になるための職業訓練を受けたかどうかが問われるべきものでした。

 つまり、ブロツキーに言わせれば自分は詩人として活動している、しかし裁判官から見ればブロツキーは働いていない、もちろん決定権は裁判官にあり、ブロツキーは無為徒食の罪で流刑に処せられるのですが、これはどの辺りまで正当でしょうか。

 例えば、毎日一生懸命野球の練習をしている人がいたとします。彼はニートでしょうか? もし彼がプロの野球選手であれば仕事熱心な選手ですが、そうでなければどうなるでしょうか? あるいは、毎日漫画を描いて過ごしている人がいたとします。彼はどうでしょうか? もし彼がプロの漫画家であれば仕事熱心な漫画家ですが、そうでなければどうでしょうか? そして、毎日熱心に詩を書いたり、詩を翻訳している青年の場合です、もし彼がプロの詩人であれば彼は仕事熱心であるわけですが、もし彼がプロの詩人でないのであればどうでしょうか?

 ブロツキーは詩を書いたり詩を翻訳したり、そうやって日々を過ごしてきました。そして捕縛され、罪を問われました―――無為徒食の罪で。たぶん、彼がプロの詩人であれば、彼は仕事熱心な詩人として賞賛されたかもしれません、しかし、彼はプロの詩人とは認定されず、働きもせずに無為に日々を過ごしている、けしからんと流刑に処されました。

 一日中、何かを書いて過ごした場合、それが作家なりジャーナリストなりであれば仕事熱心ですが、そうでなければ働いているとは見なされない、毎日ゲームをして過ごすにしてもプロゲーマーなら練習に熱心となりますが、そうでなければ遊んでばかりで働かないと見なされる、ギターを弾いていてもプロのミュージシャンなら練習熱心ですが、そうでなければ遊んでばかりのろくでなし、そう見なされます。

 たぶん「ニート」が働いていないと見なされるのは、彼が何もしていないからではなく、彼がプロではないからなのでしょう。ブロツキーが、何もしていないからではなく、ただプロの詩人とは認められなかったために無為徒食の罪で流刑に処されたように。

 昔、パレスチナにイエスという青年がいました。彼は30近くまで両親の家に住み続け、たまに父親の仕事を手伝う他はなにもせず、無為に日々を過ごしていました。現代の日本であればさぞかし「ニート」と誹られ、軽蔑されたことでしょう。彼は思索にふけるばかりでろくに働いてこなかったのです。しかし、ある時からその思索が彼の仕事と見なされるようになりました。彼は今なお数十億人から敬愛されています。

 あるいはイギリスに、ジョアン・ローリングという貧乏人がいました。彼女は生活保護を受給しながら、小説を書いていました。現代の日本であれば、福祉にたかる社会のダニとして白眼視されたかもしれません。しかし、ある日を境に彼女の書いた小説が莫大な売れ行きを見せるようになり、世界中の尊敬を集めるようになりました。

 この二人は、たまたま成功した事例、彼らの陰には、無数の成功できなかった人たちがいます。イエスと同じくらい、真剣に思索を続けてきた人はいくらでもいますが、彼らの中で熱心な思想家として尊敬を集めた人はほんの一握り、ほとんどの人は無為徒食者として闇に消えていきました。あるいはJKローリング以上に必死になって小説を書いてきた人はいくらでもいますが、彼らの中で熱心な作家として尊敬を集めた人はほんの一握りで、圧倒的多数の人は無為徒食者として闇に消えていきました。もちろん冒頭のブロツキーも同様で、彼は運良く釈放され、後に詩人として名誉回復を果たしましたが、ちょっとでも運が悪ければ一人の無為徒食者として軽蔑されたまま収容所の塵と消えていたかもしれません。

 結局、尊敬される人と軽蔑される無為徒食者=「ニート」を分けるのは、結果的に成功したかどうかであって、その過程ではなさそうです。イエスと同じくらい真剣に物事を考えている人、ブロツキーと同じくらい精魂込めて詩を書いている人、プロ野球選手と同じくらい必死に練習に打ち込んでいる人、そういう人はいくらでもいますが、彼らが例外的な成功者と同様の尊敬を受けることはありません。

 残念ながら、努力は成功を保証してはくれません。才能に恵まれた人もいれば、機会に恵まれた人、豊富な人脈のある両親の元に産まれた人、そういう人が結果的に成功し、そこに至る努力も含めて賞賛を受けることができます。しかし、才能に恵まれなかった人、機会に恵まれなかった人、何のコネもなかった人は、同じように努力しても成功できる可能性はきわめて低いもの、そして失敗すれば、あたかも今まで何もしてこなかったかのように誹りを受ける、そんなものです。

 だから、無為徒食者としての誹りを受ける「ニート」は無数にいるわけですが、その中に本物の無為徒食者がどれだけいるのかと考えると、そこに甚だ疑問を感じるわけです。「社内ニート」も同じようなもので、例えば私のように仕事に全くやる気を見せず、向上心もない、会社にいるだけの給料泥棒を社内ニートと呼ぶのでしょうけれど、だけど私の本業ってサラリーマン稼業なのかな、と。

 むしろ、仕事に頭を使っている時間よりもブログのネタを考えている時間の方が長いわけで、接し方からすればこっちの方が本業に近いくらいです。そしてもし、私がプロの作家であったり社会評論家であったり政治家であるならば、こうやって文章を書いて、世の中に向けて訴える、これは仕事と見なされたのではないかな、と思うわけです。だからもし私がプロの社会評論家であったならば、血道を上げてブログを書いている私は仕事熱心な人と目されたのではないか、と。

 残念なことに私はプロの社会評論家でも政治家でもありません、そのため、いくら必死になってモノを書いて訴えたところで、それは仕事とは見なされません。私の仕事と見なされているのはもっと別のものであり、そっちの仕事で出来が悪い以上、「社内ニート」と呼ばれるわけです。私は私なりに一生懸命やっているつもりですが、その必死にやっている対象は仕事とは見なされず、片手間でやっているはずの対象が仕事と見なされる、そうである以上は私がいくら頑張ってもニートの誹りからは逃れられないわけです。

 その人が一番大切にしていることに、真剣に取り組んでいるのであればそれをニートと呼ぶべきではない、努力していない、怠けている、そう捉えるべきではないと思うのです。もちろん、誰もが自分の好きなことを仕事にできるわけではありません。誰もが宗教指導者にはなれませんし、誰もがプロの音楽家にはなれない、誰もがプロの社会評論家にはなれないわけです。誰もが自分のなりたい仕事に就いていたとしたら、それでは社会が成り立たない部分もあるかもしれません。人がやりたがらない仕事もまた社会には必要なわけでして、誰かがそれに就くことも必要なのでしょう。

 とは言え、誰もが自分の好きなことを仕事にすることは許されないとしても、誰もが自分の好きなことに熱心であること、これは許されねばなりません。詩人になりたい、だけど誰もが詩人になれるわけではなく、詩人になる代わりにもっと別の仕事をする人がいないと社会が成り立たない、だから詩人ではなくサラリーマンをやる、これは仕方のないことかもしれません。しかし、詩が好きであるならばその人が詩に熱心であることは当然、許されなければなりません。詩人になりたいけれどサラリーマンになる、これはやむを得ないとしても、詩を捨ててサラリーマン稼業に全身全霊を捧げなければならない謂われはありません。

 自分の好きなこと、やりがいを感じることを仕事にでき、正当な評価を得ている人はいいのですが、困ったことにそういう人は多くはないはずです。大方の人は、夢を捨ててもっと現実的な仕事を選びます。そして、その仕事によって評価されます。だから私も、言論人ではなく怠け者の社内ニート、ブロツキーは詩人ではなく無為徒食者となるわけで、私もブロツキーも自分の好きなことには熱心に頑張ってはいるけれども、周囲からは落伍者として扱われることになります。

 無為徒食の罪で流刑に処されたブロツキーは決して怠けていたわけでも何もしていたわけでもなく、ただ職業としての詩人と認められなかっただけでした。今の日本でニートと誹られている人たちもまた、決して怠けているわけでも甘えているわけでもなく、ただ単に彼らが真剣に取り組んでいるものが職業として認められていないだけなのかもしれません。無為徒食だ、けしからん、そんな発想が出てくるのは人を外部から規定された職業の枠でのみ捉えようとすることに原因があるように感じられます。

 だから「ニート」は怠けているだけ、意欲がないというのは言いがかりに過ぎず、単に外部の評価基準となる職業に恵まれていないだけ、職業とは別に、本人達が自ら望んで取り組んでいるものを基準にすれば、決して何もせずにさぼっているばかりでもないことがわかるはずです。「ニート」という言葉を好んで使う人たちは、この「ニート問題」を本人達の人格の問題であるかのように語りますが、「ニート」達が自分たちよりも一段低いところにいるように見えるのは、それは彼らが職業を持っていないから、要するに「ニート問題」とは評価基準と失業の問題に過ぎないのではないでしょうか。

 結局、ソ連の無為徒食者も日本のニートも、捕まえて強制労働させて矯正しなくてはならないような対象ではなく、単に本人の適正と職業が一致していないだけのことで、彼らを曲げて無理に職に就かせるのではなく、彼らに適した職を用意した方が希望の見える社会としてはふさわしいのではないでしょうか。みんなが詩人になっても困るかもしれませんが、せめて詩人が詩人でいられるように、売れない詩人が生活のために別の仕事をしなければならないとしても、その仕事が詩人としての活動を妨げない、仕事と自分の夢との二者択一を迫られない、そんな社会であって欲しいものです。

 

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Unknown (るか)
2007-03-12 00:23:57
こんにちは。はじめまして。非国民通信さん。るかといいます。

ニートの問題を考えていくと、何が問題なのかわからなくなります。
家が裕福で働かなくて済むから働かない。とするなら、雇用の席も空いて良いように思うし、働かなければ生きていけない「ニート」は、単なる失業者なわけで、非難するのは違うでしょう。

また、外に出れないひきこもり系の「ニート」の人たちは、発達障害等も考えられるわけで、これも非難するのは筋違いです。

いずれにしても、不毛な叩きに思うのです。
それが楽しい人たちがいる(ニーズがある)からかもしれません。

余談ですが、
イエスは19歳で養父であるヨセフを亡くしているので、そのあとは30歳まで大工(家具職人)をしながらマリアを養っていたようです。

でも、30~34歳の宣教時代には、いわゆるニートだったのかもしれません。弟子や支持する女性の家で飲食していたようです。
(裏切り者のユダは会計係でしたから、弟子が持ち寄ったお金や大工時代の貯金もあったのかもしれませんが)
同感です! (una)
2007-03-12 10:27:00
初めまして、
最近こちらのブログの熱心な読者です。
勝手ながら、リンク欄に載せています。
これからも、啓蒙を宜しくお願いします。
Unknown (非国民通信管理人)
2007-03-12 23:03:23
>るかさん

 ご訪問ありがとうございます。

 仰るとおり、家が裕福な人は働かないでいてくれた方が、経済的な平等は広がるかもしれませんね。残念ながら日本では就業が生活の手段ではなく、社会的地位としての側面を強く持っているのでしょうか、裕福な人が「必要に迫られて」ではなく「社会的地位を保つため」に、持って生まれた優位な条件を使って名誉ある職に就く有様、むしろ金があるのに働く人は強突張りと誹謗されてもよさそうなものですが、悲しいことに非難されるのは職に恵まれていない人たちなんですよね・・・

 イエスの件、ご指摘ありがとうございます。父親の没年を考慮せずに書き上げてしまいました。

>unaさん

 コメントありがとうございます。

 unaさんのブログで当方を紹介していただいたようで、恐縮です。
 こちらからも是非、よろしくお願いいたします。
はじめまして。 (つばさ)
2007-03-13 19:32:12
snow-flakeから、リンクたどって来ました。

読みながら、ため息にならない息をついていました
無理やり表現するならば、「ぅあぇあえぁ~」のような。
説得力のある論調に思わずじーっと読んでしまいました。
ここから、新しい角度の考え方を見出すことができるかもしれません
興味をひかれつつ、新しい思索を与えられたような
まさに「啓蒙を受けた」気分です。

ちょくちょく見にきますね!
Unknown (非国民通信管理人)
2007-03-13 23:42:26
>つばささん

 お褒めの言葉をいただき、恐縮です。微力ながらも、新しい角度からの考え方を見つけるヒントになれればと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

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